項目 |
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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
競馬 |
県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 |
1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった
* 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314)
* 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため
* 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118)
* 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議)
* 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200)
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「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃)
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宮沢橋(広瀬川) |
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1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30) |
項目「宮沢の一銭橋」よりつづく
* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) / 本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268
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99-110、06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年)
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民生委員/児童委員 |
制度発足 |
1946年(S21)/1947年(S22) |
<前史>
* 1925年(T14)、宮城県で、奉仕委員制度開始(東北で4番目)
* 1928年(S3)、仙台市社会事業協会設立
* 1932年(S7)、救護法、実施
/ 仙台市内では奉仕委員の市内一区一名制
* 1936年(S11)4月1日、方面委員と改称 / 同年11月3日、方面委員令公布
<戦後>
・ 荒廃した都市・農村に大量の戦災者、失業者、復員軍人、引揚者など多数の生活困窮者出現
・ GHQ、「救済並に福祉計画に関する覚書」 / 生活困窮者の救済は国家の責任など4原則を指令
* 1946年(S21)10月1日、(旧)生活保護法施行/民生委員令施行 / 1948年(S23)7月29日、民生委員法制定
* 1947年(S22)12月12日、児童福祉法公布
* 1950年(S25)5月、生活保護法(全面改正) / 国民に生活保護の請求権を認め、不服申立制度を規定 / 公務員である社会福祉主事の全国配置きまる
「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403「民生委員の始まり」に、民生委員制度の前史にあたる、戦前の方面委員(奉仕委員)以来の戦前戦後の制度の変遷、趣旨など記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P401に表「宮城県における方面カード登録件数と奉仕委員の割合」、P403(S46、民生委員児童委員大会)
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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映画館(戦後) |
中央劇場 |
1946年(S21)3月 |
東一番丁大通り(東一番丁84)に戦後できた映画館(700席、昭和映画)
* 「仙台映画大全集」では、S21年3月28日開場
* 「番丁詳伝」P211でも、S21年開場(洋画専門、のち日活、松竹、東映、新東宝の封切館となる / 跡地は「中央ビル」で地下に飲食、1階にそうご電気、6階まで事務所など入居
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に中央劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
* 「重訂 宮城県郷土史年表」P522では、S22年11月開場
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「仙台映画大全集」P454とP458/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P522
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44-29 /「仙台映画大全集」P455に中央劇場と周辺の写真あり
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在外同胞救出仙台学生同盟 |
発足~解散 |
1946年(S21)2月~1950年(S25)2月 |
* 1946年(S21)2月~1950年(S25)2月、仙台在住の男女学生生徒たちが、敗戦半年後から4年間、復員兵や海外からの引揚者を仙台駅で世話 (湯茶の接待、相談、宿舎提供、健康診断)
・ 412人の学生生徒が参加
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在外同胞救出仙台学生同盟史(昭和25年刊)
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78-01、78-02、78-03、78-04、78-05、78-06
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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市場 |
仙台中央公設市場(戦後の中央マーケット) |
1946年(S21) |
<開設>
1946年(S21)5月か8月、「仙台中央公設市場」開設、場所は、東一番丁の南部(旧・大通り)、藤崎より南で道の東側
*「仙台中央市場」開設は、
・「市民の戦後史」P30のキャプションではS21年5月
・ 同P7の年表では、S21年8月
・「仙台市史特別編4 市民生活」P91ではS21年8月 →「S21年8月、仙台露天商実業睦組合が、東一番丁から南光院丁に向けて建設した仙台中央公設市場が156店の出店で正式に開場した」
・仙台睦商業協同組合は中央マーケットと呼ばれてコマ店110が軒を並べ、生鮮食品からは舶来ものの高級品までなんでもそろう市場であった(「番丁詳伝」P210)
<火災>
*1948年(S23)2月10日
・ S23年2月、東一中央公設市場92戸焼失(「市民の戦後史」P9)
・ S23年2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年2月20日、東一番丁に昼火事あり、東一中央公設市場及南松竹映画館等焼失す(「重訂 宮城県郷土史年表」P525)
*1948年(S23)5月27日
・ S23年5月、東一番丁仙台中央市場72戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818)
・ S23年5月27日、仙台市東一番丁公設市場、火災で61戸を焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
・ S23年5月27日、約70戸焼失(「仙台市史 年表」P115)
・ 仙台中央市場62戸全焼(「仙台市史10 年表」P318)
*1951年(S26)2月5日
・ 午後1:40頃、東一番丁火事、東一マーケットに延焼す(「仙台年表」P221 / 「重訂 宮城県郷土史年表」には記述なし)
*1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟17戸焼失(「仙台市史10 年表」P318、「重訂 宮城県郷土史年表」P602)
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<開設>
「市民の戦後史」P7、P9、P30 /「仙台市史特別編4 市民生活」P91/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台年表」P221/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 年表」P115/「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P602
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22-55(の右端に写る)/98-013
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食糧メーデー |
仙台市で開催 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月31日、仙台市で食糧メーデー開催
(東京の「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)は、5月19日)
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「仙台市史 年表」P114
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東邦生命ビル |
進駐軍が接収(CIDなど) |
1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更
・南町(芭蕉の辻の南)にあった
青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった
* 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る
* 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用)
* 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、
* 1952年(S27)7月、接収解除
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「宮城県警察史 第二巻」P30
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44-37、18-21、22-07
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映画館(戦後) |
松竹映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)4月、南町通12に開設(560席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510
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映画館(戦後) |
南街映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)、舟丁64に開設(460席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P515
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
**************************************
* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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NHK東北児童唱歌コンクール |
荒町国民学校が優勝 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月10日、東北6県から国民学校代表12校参加、第1位に荒町国民学校、第2位に宮城師範女子部付属国民学校 / 「このころ二部授業や青空教室で不自由な思いをしていた児童や父兄の憂鬱を吹き飛ばした」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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高等学校(新制) |
宮城学院高等学校(戦後) |
1946年(S21) |
<戦後 宮城学院高等女学校>
* 1946年(S21)7月10日、宮城高等女学校を「宮城学院高等女学校」に改称
* 1946年(S21)7月、専攻科が昇格し、宮城学院女子専門学校開校
<学制改革以後>
* 1947年(S22)4月1日、宮城学院中学校設置許可(東三番丁166に)
<宮城学院高等学校>
* 1948年(S23)、新学制により「宮城学院高等学校」を設置
* 1948年(S23)、ヘレン・ケラー来日、宮城学院にて講演
* 1949年(S24)、新校舎完成
* 1951年(S26)、「学校法人宮城学院」設立認可
* 1980年(S55)7月26日、東二番丁(現・中央4丁目)の宮城学院中・高校校舎お別れ式
* 1980年(S55)10月1日、宮城学院はキャンパスを東二番丁から桜ケ丘へ移転完了し、献堂式
* 1980年(S55)10月24日、講堂落成
* 1981年(S56)6月26日、赤レンガ大講堂解体始まる
* 2016年(H28)、創立130周年
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「宮城学院」HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P517、P541、P549、P590/「続・ 宮城県郷土史年表」P114、P117、P118、P130/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P39(S33年 空撮)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
戦後・仙台一中対二中の野球定期戦復活 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場) / 戦時中は中断し4年ぶりに復活した定期戦で、戦後の東北地方では初の野球試合 / 32対27で二中の勝利、7回表までの試合時間が4時間50分 / 「野球用具の入手も困難な時期でスパイクをはいているのは選手の半数ぐらい、1塁塁審の二中OB氏は学生服と兵隊靴、3塁塁審の一中OB氏は復員姿そのままといったスタイルであった。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93
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丸光 |
雑貨店開店 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月1日、 仙台駅前の空襲焼け跡(裏五番丁15)に丸光合資会社として雑貨店を開き、「MARUMITU DEPT.STORE」の文字を掲げて営業を開始 / 木造平屋で50坪
* 1948年(S23)6月1日、株式会社に改組
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 年表」P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P511
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スポーツ大会(戦後復興期) |
国体サッカー |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)秋、第1回国体サッカー東日本予選(東大グラウンド)で、旧制仙台一中準優勝
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P467
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戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512
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敗戦後の諸相・仙台 |
「新円」騒動 |
1946年(S21) |
<金融緊急措置令 旧円の預貯金封鎖と新円への切り替え>
・ 戦後の極度なインフレ高進を抑制するため通貨流通量の収縮をはかるのが目的
・ 昭和21年2月中旬には、旧円で618億円あった日銀発行残高が、新円で152億円に激減(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 1946年(S21)2月17日、預金してある金はこの日限りで封鎖、流通している10円以上の紙幣は3月6日までで廃止し、7日以降は、新発行の札(新円)しか使えない(「仙台市史 続編第1巻」P76)
* 2月25日以降、新円と旧円の交換開始、3月3日以降は旧円の流通を禁止(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 封鎖預金からの現金払い戻しは、月に世帯主300円、家族は1人につき100円、給料も現金は500円まで、それ以上は封鎖預金にされる / 預金のない人は月最大500円の給料のみの生活
* タンス預金は紙くず同然になるので、旧円最後の日の金融機関は預け入れる人で大混雑、商店街は使えなくなる心理から、品物、食べ物が飛ぶように売れ、映画館も満員だったと当時の新聞は伝える
* 封鎖預金は、第一封鎖と第二封鎖に分離され、第二封鎖部分は凍結・棚上げされることになった(中略)そうした強硬策でもインフレの収束に至らず、9月に生産の上昇も伸び悩みとなり、インフレはますます高進(「仙台市史 続編第2巻」P729)
* インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった(Wikipedia「新円切替」2019年2月版)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P76/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P728~729/Wikipedia「新円切替」2019年2月版
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(新円切替で新円と交換)
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戦災者・引揚者用住宅 |
住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅) |
1946年(S21) |
追廻練兵場跡に、応急木造住宅620戸を建設
* 1945年(S20)10月、追廻に住宅営団の戦災者住宅着工、翌21年4月に621戸成る(「仙台城」P235)
* 1946年(S21)3月、住宅営団が戦災者・引揚者用の木造応急住宅620戸を建設(河北新報1996.11.21)
* 1945年(S20)11月~翌年3月、進駐軍の接収を免れた大日本帝国陸軍第2師団用地の1つである追廻練兵場跡地において、住宅営団が賃貸用の応急簡易住宅を約620戸建設(Wikipedia「川内追廻」)
・仙台市では戦後、追廻の陸軍練兵場跡に2年間で簡易住宅1876戸を建築して被災者や海外からの引揚者に提供(「戦争のころ 仙台、宮城」P227)
* 1946年(S21)11月11日、仙台市の戦災復興計画において、「追廻住宅」を含む当地(約22.5ha)が「仙台総合運動場」として都市計画決定(戦災復興院告示 第244号)
* 1946年(S21)12月23日、住宅営団が閉鎖機関に指定せられ、同時に解散(以降は清算法人) / これにより住宅営団の賃貸住宅だった「追廻住宅」では、建物は入居者に払下げられ、国有地である土地は東北財務局が管理して入居者と賃貸契約を結んだ(Wikipedia「川内追廻」)
* 1951年(S26)10月、住宅営団が4月に解散、建物を入居者に売却し、(土地は東北財務局が)時価貸付契約締結、契約期間は3年間(河北新報1996.11.21)
* 1954年(S29)10月、追廻地区住民が、同地区の公園化に反対して総決起大会
* 1960年(S35)3月13日、追廻住宅で火災49戸焼失
仙台市の戦後の応急住宅対策は、「仙台市史特別編4 市民生活」P160~161に記述あり
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P109/「市民の戦後史(仙台市)」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P595/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
/Wikipedia「川内追廻」(出典: 旧軍用地に係る土地政策と転用実態 ―終戦直後から戦災復興期の都市部における旧軍用地転用― (PDF) (土地総合研究 2015年夏号)P152-153)/「河北新報」(1996.11.21)」
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「目で見る仙台の歴史」P174に「追廻住宅」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P110(S54、画面下部、カラー)
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木炭バス(仙台) |
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1946年(S21) |
写真「仙台駅前を走る木炭バス(9月24日)」
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91-21、 91-24
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文字・漢字の表記 |
新聞のルビ廃止 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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文字・漢字の表記 |
当用漢字 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月5日、国語審議会が答申
* 同年11月16日に内閣が告示した「当用漢字表」に掲載された1850の漢字
* 1981年(S56)、常用漢字表の告示に伴い当用漢字表は廃止
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Wikipedia「当用漢字」
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敗戦後の諸相・仙台 |
進駐軍相手の「特殊慰安施設」 |
1945年(S20)秋~1946年3月 |
<特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)
・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158
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敗戦後の諸相・仙台 |
敗戦直後の学校 |
1945年(S20) |
・ 進駐軍の軍政府民間情報局(国分町の富国生命ビル)による学校巡検にそなえ各学校は、教室に掲示してある大東亜共栄圏地図、国史年表、国史掛図、軍事教練や武道に関する用具類を校外に搬出したり、焼却したりした
・ 国民学校へ食糧増産学校開墾学徒動員に関する宮城県内務部長通達「午前は児童が校庭を耕起、午後は職員が校庭を整地播種、5年生以上の児童は、土日に野草や山菜を採取」 / これは、昭和21年もかなり長期にわたり実施された
・ 児童実態調査(昭和21年7月2日の南小泉国民学校日誌):在籍1548名のうち、欠席177名、衰弱甚だしき者189名、前日1食欠く者261名、前日2食欠く者33名
・ 国民学校では文部書の指示で国定教科書の削除部分を検討し、黒塗りや切り取り作業(黒塗り教科書)
・ 昭和20年の明治節遙拝式(11月3日)は、旧来の式次第通り実施 / 宮城遙拝、明治神宮遙拝、勅語奉読(教育勅語、青少年学徒ニ賜ハリタル勅語)、唱歌明治節
・ 同年12月以降は教育現場が一変(GHQの教育四大改革指令で文部省の教育方針は実効性を失う) / 軍国主義や極端な国家主義教育の禁止、それらに関する教科書の削除、ふさわしくない教員の追放、神社崇拝をはじめとする国家神道を学校教育から排除、軍国主義や極端な国家主義思想を植えつけるために利用された修身・国史・地理の三教科書の使用禁止
・ 12月以降、仙台市の中等学校でも教科書黒塗り(その作業と点検のため、正規授業を2~3日間中断)/修身・国史・地理教科書の教科書、教授参考書、教材類が学校ごとに回収され、三教科の授業も停止
・ 21年1月、天皇の人間宣言 / 伊勢神宮・明治神宮の遙拝禁止、、校内の神社・神棚の撤去/ 同年3月までに、市内各学校の奉安殿を取壊し / 同年10月、教育勅語奉読廃止通達
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P271~273
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P272(黒塗り教科書)/同P273(国民学校の小神殿)
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戦災者・引揚者用住宅 |
市営住宅・県営住宅 |
1945年度(S20)など |
・ 西公園の一角に、戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、公園整備のため、他へ移転した
・ 上杉山通りの仙台商業学校の空襲跡地に戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、のちに他へ移転した(以上、「仙台市史 続編第1巻」P350)
* 市営住宅建設戸数
(「仙台市史第2巻本編1」P601~602の102表より)
・1945年度(S20)、元柳町(西公園)104戸、上杉山通(仙台商業跡地)53戸、仲ノ町18戸、良覚院丁49戸、花壇49戸、北一番丁6戸、計250戸
・1946年度(S21)、北六番丁40戸、花壇60戸、計100戸
・1947年度(S22)、長者町100戸
・1948年度(S23)、荒巻、長者町、南小泉、新寺小路に計110戸
・1949年度(S24)~1951年度(S26)に、計529戸]
(以下は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P424~426より)
・空襲焼け残りの鉄筋コンクリート建築物を地方長官の権限で開放
・一般遊休住宅の開放
・仙台市 引揚者住宅 448戸(うち新設288,改造転用160)
・住宅営団 600戸(追廻住宅)
・1953年(S28)、市営の鉄筋コンクリートのアパート
・1955年(S30)~、簡易耐火構造
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P185より>
* 1950年(S25)ころより、戦災者、引揚者、戦災復興土地区画整理による立退き者などを対象に、市営・県営の住宅建設
・市営庶民住宅(西の平に約200戸)
・県営庶民住宅(荒巻・西多賀など)
・1949年(S24)、市内同心町に中層県営アパート建設 / 引き続き、小田原団地・新坂通団地・支倉通団地にも中層アパート建設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P424~426/「仙台市史第2巻本編2」P601~602
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P185(同心町の県営アパート)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P427(S25年ころ、長者町につくられた市営住宅)
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仙台空襲 |
空襲体験記 |
1945年(S21) |
<空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり
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「番丁詳伝」P151
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東北学院中学校・高等学校 |
東二番丁(戦後) |
1945年(S20)~2005年(H17) |
<中学部>
* 赤レンガ校舎継続使用
<東二番丁・戦後 新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、(新制)東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、(新制)東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成
<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成
<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見
<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成
<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転
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「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P70/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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赤レンガ校舎は36-03、36-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る)
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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仙台市営バス |
戦後(1) |
1945年(S20)~1964年(S39) |
<戦後>
・ 終戦直後は、23両のバス中、実働は11両のみ / 路線17系統、199キロ(終戦前より減少)
・ 1949年(S24)、24系統、247キロ、実働30両 / 仙台~作並間運転開始
・ 1949年(S24)4月22日、大型トレーラーバス(250人乗り)2台購入(輸送難解消のため)
・ 1950年(S25)、路線55、実働47両/市営バス案内所(駅前丸光デパート脇)開設/4月、貸し切りバス営業開始 / 仙北鉄道バス、秋保電鉄バスが市内に乗り入れ / 12月、広瀬通車庫と営業所開設(広瀬通東三番丁)
・ 1951年(S26)、65両 / 仙台駅構内乗り入れ廃止、発着場が青葉通、東五番丁周辺に移転
・ 1952年(S27)4月、市内定期遊覧バス運行開始 ※
・ 1953年(S28)、66路線、814キロ / ラッシュ時に重点的に増発、季節の催しものなどへ増発 / 定禅寺櫓町・細横丁角に車庫新設
・ 1955年度(S30)、乗車人員3000万人越え、対人口利用比率21.3%
・ 1956~1960年度(S31~35年度)、この間に路線拡大続き、110系統、9927キロ、49両増車 / 市中心部ビル建設、近郊丘陵地帯などに住宅団地造成で需要増大 / 霞の目車庫新設(仙台バイパス予定地脇)
・ 1961年(S36)、45両購入し在籍296両 / 東仙台車庫新設
・ 1962年(S37)、ラッシュ時混雑すさまじく、新車41両、中古35両購入、在籍350両
・ 1963年(S38)3月、七北田車庫落成 / 仙台駅前バス窓口案内所改築
・ 1964年(S39)、94両増車、在籍390両
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P520~525、P533
/※ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182に、市内定期観光バスの遊覧コースなど記述/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P70(観光バス乗り場標識)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(仙台遊覧自動車案内パンフ)
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進駐軍放送局(仙台) |
開局~閉局 |
1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居)
* キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転
* 1953年(S28年)10月3日閉局
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」
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「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19
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25-01
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については
→ 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25)
* 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36)
* 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26)
* 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41)
* 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開
* 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開
* 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる
* 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開
* 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活
* 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる
* 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売)
* 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符)
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第二高等学校(旧制) |
戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
<戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)
<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)
<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)
<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭
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「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭)
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敗戦後の諸相・仙台 |
伝染病4倍増/空から撒かれたDDT |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲で壊れたままの給水栓>
・ 全給水栓の44%が破壊されたまま
・ S19年比でS20~21年は、ゴミ焼却場(3か所)の扱い数は6割前後、市立消毒所への依頼数は半減
<伝染病4倍増>
・ S19年442件、S20年1260件、S21年1836件
・ S21の内訳(赤痢739件、以下発疹チフス、ジフテリア、腸チフス、パラチフスの順、天然痘も50件) / 死者は赤痢102人(死亡率14.4%)
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったとい
う
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(浮浪者へのDDT撒布)
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
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進駐軍(米軍) |
憲兵隊(MP)/CID |
1945年(S20)~ |
<憲兵隊>
・ 憲兵隊本部:占領当初は、進駐軍司令部と同じ北一番丁の簡易保険局庁舎内に置かれ、仙台北警察署や塩釜署など駐屯地を管轄する警察に出先があり、地元警察官とともに米兵販犯罪防止、取締りにあたる / 仙台北警察署には、4人のMPが常駐
・ 米軍憲兵(MP)は、米兵の犯罪摘発が任務だが、次第に政治活動や労働運動の急進化を監視する公安警察としての役割が目立ってくる
<CID>
* 1946年(S21)4月、米犯罪捜査部(CID)設置され、次第に捜査権限を拡大
* 1947年(S22)、仙台のCID本部が、憲兵隊(MP)から独立し、東邦ビル(南町)に移転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P327
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44-65、44-36、44-61、44-41、44-31、44-58
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敗戦後の諸相・仙台 |
引揚者、シベリア抑留、傷痍軍人など |
1945年(S20)~ |
<外地からの引揚者>
・ 戦前、多くの人々が日本の植民地や勢力圏になった台湾、満州、中国大陸、樺太、南洋諸島などに移住したが、敗戦により引き揚げを余儀なくされた
<シベリア抑留>
・ 戦後多くの軍人たちが戦地から引揚げたが、旧満州で敗戦を迎えた将兵はソ連に抑留され、シベリアの炭鉱や開発工事などに従事されられた
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ シベリアからの引上げは、1950年(S25)までかかり完了
<傷痍軍人>
・ 生きて帰還できた将兵の中には、戦地で負傷した傷痍軍人たちが少なくなく、昭和20年代には、繁華街や電車内などで白衣を着て失った腕や脚を人目にさらしながら、中にはアコーディオンやギターを演奏するなどして市民に生活の援助を求める姿が珍しくなかった
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「新・目で見る仙台の歴史」P170~171/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太からの引揚者第1陣仙台駅着)/同P171(シベリヤに抑留され仙台駅に到着した復員兵たち、街頭の傷痍軍人)
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺>
・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた
* 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159)
・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より)
青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員
【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、
項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述
<青空市場>
・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近)
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映画館(戦後) |
第一映画劇場 |
1945年(S20)? |
* 1945年(S20)1月、開設(北日本興業、500席)
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に第一劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
<編者注> 太平洋戦争末期に、映画館開設は考えにくが・・・?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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瑞鳳殿 |
空襲で焼失/仙台市に移管 |
1945年(S20)/1952年(S27) |
* 1945年(S20)7月10日仙台空襲で焼失
・ 焼失後は、政宗の墓として白木の墓標が1基たてられただけだった / 伊達家の財政窮乏でかなり荒れ果てていたが、1951年(S26)に伊達家が京ヶ峯一帯を仙台市に寄付
* 1952年(S27)3月、伊達家所有の瑞鳳殿霊廟一帯の地域の所有権を仙台市に移管
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187/「重訂 宮城県郷土史年表」P554
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柔道・剣道 |
停止通達/復活 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
<戦後>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
* 1951年(S26)1月11日、戦後禁止の学校柔道が中学校以上の随意科目として復活
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P45
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仙台空襲 |
仮埋葬/供養碑/追悼式 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
* 「仙台北署が県下各署の応援を得て死体検視や収用に奔走、北山仮葬場と寿徳時(半子町)を収容所にあて、第1日(7月10日)はトラックで4台150体を収容、第2日は606体、第3日は169体、第4日は228体とおびただしい犠牲者を収容した。・・・・市内の各所に横たわる黒こげ死体のうち625体は身元不明のため大願寺・寿徳寺、松音寺の三寺院にして仮埋葬した。・・・毎年7月10日の戦災記念日には、北山霊園内の供養碑前に香華を手向ける遺族、市民が少なくない。」(「仙台市史 続編第1巻」P60、P62)
* 1945年(S20)、仙台市当局に於て死体を収容し、大願寺、寿徳寺、松音寺等に仮埋葬せるもの625人(「重訂 宮城県郷土史年表」P550)
* 1951年(S26)7月10日、仙台空襲七回忌にあたるこの日、北山霊園に戦災死没者供養碑建立(松音寺、大願寺、寿徳寺の戦災死没者181体を北山霊園に移して)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P60、P62/「重訂 宮城県郷土史年表」P550、P620/「仙台市史10 年表」P326
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「新・目で見る仙台の歴史」P166(戦災死没者慰霊碑)
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仙台七夕 |
終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
<終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)
<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」
<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
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「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156
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53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号)
/「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々)
/戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真
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宮城県護国神社/宮城神社 |
戦災、戦後 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で社殿を焼失、ご神体は市内の秋保神社・仮宮に遷された
* 1946年(S21)、「宮城神社」と改称(GHQによる神道指令に基づく政教分離により)
* 1952年(S27)7月、宮城神社上棟式
* 1953年(S28)4月28日、宮城神社奉斎殿、青葉通り大町頭に竣工 / 4月28日~5月7日、清祓並びに新殿祭・遷座祭・合祀祭・春季例祭・臨時慰霊祭等を行う / 奉斎殿は、S26年4月着工、28年4月竣工、神殿造延坪200坪、2階建て
* 1954年(S29)8月6日、本殿造営御木曳祭
* 1955年(S30)8月1日、本殿柱立式
* 米軍が去った1957年(S32年)に社名を「宮城縣護國神社」に戻し、1958年(S33)に伊勢神宮別宮「風宮」の旧社殿を移築
* 1968年(S43)4月、新社殿落成
<「戦争のころ 仙台、宮城」P38>
・明治以降の戦死者、戦病死者約5万6000柱をまつる
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Wikipedia「宮城県護国神社」/「仙台年表」P231、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P515、P557、P563/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P188の写真54(戦後再建した護国神社)/「目で見る仙台の歴史」P194(大町頭の宮城神社奉斎殿)
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