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出典/参考資料 |
関連映像 |
戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
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★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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自動車など各種車両台数 |
人力車台数(仙台市/宮城県内) |
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→ 項目「人力車」参照
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戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
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★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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勧工場・商館 |
仙台商館/仙台勧工場/東奥商館/改良勧工場/停車場勧工場/伊沢勧工場/共同商館/博品館/名掛丁勧工場/仙台物産陳列所/仙台織物陳 |
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* 1890年(M23)11月13日、「仙台商館」、東一番丁・定禅寺通り突き当りに開館
* 1890年(M23)11月21日、「仙台勧工場」、虎屋横丁に開場
* 1891年(M24)6月13日、「東奥商館」、新伝馬町に開設
* 1891年(M24)10月5日、「改良勧工場」、東一番丁に開設
* 1891年(M24)?または1895年(M28)?12月、「停車場勧工場」、仙台駅前(北向かい)に開設
* 1901年(M34)8月、「伊沢勧工場」(伊沢商館)、大町4丁目と東一番丁の交差点に開設(木造3階建で近代的な陳列法) / 1925年(T14)6月30日に焼失(「明治の洋風建築~宮城県~」P112)
* 1908年(M41)5月、「共同商館」、新伝馬町に開設
* 1909年(M42)5月、「博品館」、東一番丁に開設
(明治15年~42年の間に、東一番丁に4軒の勧工場ができた)
<「番丁詳伝」P38~39より>
・ このほかに、名掛丁勧工場、仙台物産陳列所、仙台織物陳列所(国分町)
・ 「番丁詳伝」P39に、「勧工場一覧表」
・ 火災にあうことも多く、明治40年には「伊沢勧工場」と「駅前陳列場」のほかは見るべき勧工場はない有様
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37~38/「仙台市史 年表」P87/「明治の洋風建築~宮城県~」P112/「番丁詳伝」P38~39
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自動車など発売年 |
戦後 |
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* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
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・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
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幹線道路 |
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・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
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自動車専用道 |
東北自動車道 |
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→ 項目「東北自動車道」参照
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戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
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★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
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幹線道路 |
定禅寺通り |
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→ 項目「定禅寺通り」参照
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幹線道路 |
青葉通り |
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→ 項目「青葉通り」参照
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発電事業 |
その他の発電事業 |
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141には、宮城紡績電灯、仙台電力、仙台市営電気事業のほかに、以下の発電事業の記述
* 「T12年から宮城県営電気事業開始/T6年設立の秋保電気、T8年の名取川水力発電、T10年の冠川電気(根白石村)は、T13年に東北電灯に合併/T10年開業の仙台電気工業、広瀬電力はT15年に二本松電気に合併/これら仙台市周辺地域の会社はS4年~5年に県営事業に移る」
* 1936年(S11)、東北振興策の1つとして、東北振興電力(株)設立されたが、1941年(S16)に日本発送電(株)に統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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幹線道路 |
広瀬通り |
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→ 項目「広瀬通り」参照
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幹線道路 |
南町通り |
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→ 項目「南町通り」参照
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幹線道路 |
東二番丁通り |
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→ 項目「東二番丁通り」参照
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パテー館 |
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→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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幹線道路 |
東五番丁通り(長町堤町線) |
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* 1949年度(S24)、車道の中央部分の舗装、失業対策事業で開始
* 1952年度(S27)、国庫補助で本格的な中央部分舗装開始
* 1987年(S62)5月27日、東五番丁通(愛宕~上杉線)の中央分離帯に水銀灯設置
* 1987年(S62)7月10日、東五番丁通りにガス灯87基設置される
* 1988年(S63)4月、五番街ガス灯、110基完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「続・ 宮城県郷土史年表」P224/「仙台市史 年表」P135/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(S24年頃、東五番丁での強制代執行)/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅工事前後の東五番丁通リ(堤町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年、拡幅工事中の東五番丁通り・南町通り交差点
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花火大会 |
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* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
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「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
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「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
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