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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
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<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
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「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
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戦後教育・仙台 |
学校給食 |
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<昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止
<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)
<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施
<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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国民服 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
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・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
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国民帽 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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五色沼 |
スケート |
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・ 日本のフィギュアスケート発祥の地と言われる
・ 昭和11年現在、仙台スケート協会が管理 / 会員制度だが、臨時使用する場合は20銭
* 1905年(M38)、五色沼で旧制二高生中心のスケート研究行わる(「仙台年表」P181)
* 1909年(M42)、当時(旧制)第二高等学校ドイツ語教授ウィルヘルの指導のもとに、二高生の佐藤幸三、田代三郎、河久保四朗らが五色沼で滑ったのが始まり
* 1922年(T11)1月、第二高等学校(旧制)主催、第1回スケート大会開催
* 1931年(S6)1月14日、五色沼で(初の?)スケート競技会(「宮城県の百年」掲載年表)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73/「仙台年表」P181(出典:佐々久監修「仙台の散策」S49刊)/「宮城県百科事典」P543/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「宮城県の百年」掲載年表
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2-08、53-19、29-03、73-02/「いつか見た街・人・暮らし」P4(五色沼スケート、大正13年)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図8~10/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P83(S39、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪児/戦災孤児/ホームレス |
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【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より
・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる
・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった
・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった
・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上
・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった
・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった
【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より
・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた
・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた
・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人
・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
概説 |
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<場所> 勾当台通に面し図書館の北隣
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、商品陳列所と工業試験場の位置が分かる
<名称変遷>
1901年(M34)、宮城県物産陳列場 →1921年(T10)、宮城県商品陳列所 →1935年(S10)、宮城県商工奨励館
<建物>
1901年(M34)建設 →1923年(T12)か1924年(T13)に改築
<工業試験場>
1924年(T13)か1925年(T14)に宮城県工業試験場を併設
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98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
以下(1)(2)(3)の出典一覧 |
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出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ 七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
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・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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米騒動 |
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* 1918年(T7)8月富山県魚津町の主婦たちから始まった米騒動が、8月15~16日、米価の暴騰に悩む仙台の民衆にも波及した。シベリア出兵の軍用米買い占めなどが原因だった / 仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった。
<仙台の米騒動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499「米騒動と仙台」に詳述有)
・ 推定のべ6000~7000人の市民が参加
* 1918年(T7)8月11日、廉米払下請願市民大会(五城閣、400名参加) / 東華新聞社長小野平一郎らが主催、外米買入の陳情と売り惜しみへの警告を決議
* 同年8月13~14日、仙台停車場など市内各所の電柱・板塀によびかけビラ
* 同年8月15日夜、西公園、青葉神社、東三番丁、宮城野原、伊勢堂山、仙台停車場前広場、新常磐町と、市内7カ所に市民が参集、約13組の集団をつくり行動、大米穀商、高利貸、酒味噌醤油業など37軒以上に押しかけ、米の廉売、金や在庫米の寄付などを交渉・強要、当時1升42銭の米を25銭から20銭に、味噌醤油の廉売する承諾書の貼紙を出させた / 西公園からは約500名出発、途中各所で演説、名掛丁に達するころには1400名
* 16日、仙台警察署は、盆火を禁止、日没後の禁足令(外出禁止令)を出す / 市は発注した外米を市内各所で1升15銭で廉売、米穀商の多くは約束履行を渋っていた
* 16日夜、西公園から、警官の解散命令を無視して、行動 / 米穀商、高利貸、その他資産家宅で、米・味噌醤油・薪炭の値下げ要求もあったが、貧民救済資金の寄付集めを目的とした行動が多かった / 知事の要請で軍隊(歩兵第4連隊)が出動、市民の集団が大町の藤崎呉服店付近で銃に着剣した兵士と衝突、拘引された市民の奪還に出るなど険悪な状態 / 鉄砲町の高利貸宅で前夜予約した寄付金につき再交渉、主人の態度が曖昧で、数十人が侵入し戸障子を破壊、火の手が上がる(但しこれは稀有な例で、「著しき暴行に至るものなし」(報知新聞)、「彼の細谷を除くの外、破壊を試むることなかった」(公判での検事の論告)のように市民の行動は秩序と分別をは持ったものであった)
* 17日、警官223名、町内青年会・警火組合・在郷軍人会・消防組合など約1200人動員し警戒、歩兵第4連隊、歩兵第29連隊兵士も出動 / 警察は禁足令を出し、前夜までの参加者の検挙強行 / 午後9時ころ、大町の藤埼呉服店前と停車場前広場に、あわせて約1000名の市民集合したが、厳しい警戒態勢の前に解散、騒動は山を越えた
・ 仙台の集団行動は、交渉は代表者が警察官立会の上で直談判し、集団行動の秩序を保っていた / 交渉・決定した米の値段は冒頭以前の標準米価 / 貧民救済基金の寄付要求も資産家から市役所へ寄付金をとほぼ統一した要求と理由を代表者を立てて提示・交渉、寄付金は直接受け取らず、必ず寄付承諾書を書かせている
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「新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(仙台・8月15日の米騒動移動ルート図、新聞記事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P495(T7年8月、米騒動を伝える「河北新報」、同群衆の移動コース)
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戦災復興事業 |
土地区画整理 |
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・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
/ 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
/ 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ
<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343
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桜ケ岡公園(西公園) |
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→ 項目「西公園」参照
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大学・短大 |
東北大学 |
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→項目「東北帝国大学」、項目「東北大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
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芭蕉の辻 |
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<芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」
【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。
【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。
<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」
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矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244
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「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-020、77-18-01、99-022、22-33、20-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年)
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
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<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
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98-022
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
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芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
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98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
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学校教練 |
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⇒ 項目「軍事教練」参照
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戦時下の学園 |
仙台商業学校(市立) |
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★「仙台商業学校」は、昭和23年以降の「仙台商業高等学校」
・「戦時中生徒は食料増産はおろか兵器増産のため勤労動員され、教師と生徒は、隊を組んで川崎の工場まで出勤する一方、少年航空兵として多くの生徒が志願していった。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で、上杉の校舎は一夜にして灰と化した。隣接の上杉山国民学校の一部を借り、小学生の机を使って二部授業を行ったが、ガラス窓が破損しても補充がつかず、紙や板をはってしのいだ。そのうちに戦場にあった教師たちが復員し、また若い教師も着任して、校内も次第に活気を取り戻していった」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482
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戦時下の学園 |
仙台中学校(市立) |
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★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」
・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487
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バス |
仙台市街自動車 |
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→ 項目「仙台市街自動車」参照
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市町村合併 |
平成の大合併 |
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平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html
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戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
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★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
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バス |
木炭バス |
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→ 項目「木炭バス」参照
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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紙芝居 |
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「新・目で見る仙台の歴史」P178(駅前・紙芝居を見る子供たち
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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バス |
ボンネット型 |
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日本では、1950年代頃までは大多数のバスがボンネットを持った形状(ボンネットバス)だったが、次第に輸送効率の良い箱型バスに置き換えられた。日本では、1971年に量産タイプのボンネットバスの製造が中止された
仙台市営バスでは、1965年(S40)当時、仙台市中心部でまだボンネットバスが使われていた → 写真 201-08 、 201-09
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Wikipedia「ボンネットバス」(2019年10月)/写真201-08、201-09のキャプション
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58-03、201-08、91-21、201-39、201-42
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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バス |
宮城交通 |
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→ 項目「宮城交通」参照
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