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出典/参考資料 |
関連映像 |
東北帝国大学 |
沿革(2) ~各学部・研究所設置~ |
1919年(T8)~1940年(S15) |
<理学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
東北帝国大学理科大学 → 東北帝国大学理学部
<医学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
東北帝国大学医科大学 → 東北帝国大学医学部
<附属臨時医学専門部>
* 1939年(S14)5月、臨時医学専門部設置(全国の官立大学に設置し軍医不足に対応=菅家年表P22) → 1944年(S19)3月、附属医学専門部 → 1952年(S27)3月廃止
<医学部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照
<工学部>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置
* 1939年(S14)4月、工学部に航空学科設置
<鉄鋼研究所 → 金属材料研究所>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置に伴い、東北帝国大学臨時理化学研究所第二部が東北帝国大学附属鉄鋼研究所となる → 1922年(T11)8月9日、金属材料研究所と改称
<法文学部>
* 1922年(T11)8月29日、法文学部設立
<電気通信研究所>
* 1935年(S10)6月1日、附属電気通信研究所設置(「仙台市史10 年表」P286では9月25日設置)→ 1944年(S19)1月、電気通信研究所
<農学研究所> * 1939年(S14)8月、農学研究所設置
<その他>
* 1937年(S12)、早川牧場跡に大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86)
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東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P98~99、P101/「重訂 宮城県郷土史年表」P446、P468~469/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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99-060、99-061/金属材料研究所は、99-065、53-97/「目で見る仙台の歴史」P148に、地質岩石学教室と鉄鋼研究所、医学部(大正4年)「法文学部(大正11年)/「宮城県百科事典」P757に片平丁の構内全景(昭和4年頃、空撮)
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東北大学 |
学部・大学院・附置研究所等一覧 |
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最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
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東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」
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東北大学 |
沿革(1) 新設学部 |
1947年(S22)~1972年(S47) |
東北帝国大学時代は、→ 項目「東北帝国大学」参照
* 1947年(S22)10月1日、東北帝国大学を東北大学に改称
* 1949年(S24)4月1日、法文学部分解し、<文学部>、<法学部>、<経済学部>独立
* 1949年(S24)5月31日、国立大学設置法に基づく東北大学設置 / 同日に、東北大学が旧制第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校を包括、宮城県女子専門学校を併合 / 発足当初は、文学部・教育学部・法学部・経済学部・理学部・医学部・工学部・農学部、一般教養課程の分校教養部
<教養部>
* 1949年(S24)6月、分校第一、第二、第三教養部を設置
/ 旧制第二高等学校(北六番丁)が昭和20年の仙台空襲で焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転していたが、新制東北大学へ包括に伴い三神峯校舎は分校第一教養部となる / S27に第三教養部、S32年に第二教養部が、それぞれ第一教養部に統合
* 1957年(S32)4月、三神峯の第一教養部、富沢分校と改称
* 1958年(S33)9月、富沢分校が川内へ移転完了
* 1964年(S39)4月1日、教養部と名称変更
* 1993年(H5)3月、教養部廃止
<分校教育教養部 / 宮城教育大学>
* 1949年(S24)6月、設置
* 1958年(S33)10月、川内地区に移転し、川内東分校
* 1964年(S39)月日、教育学部分校
* 1965年(S40)4月、教育学部教員養成課程が東北大学より分離独立し「宮城教育大学」設置
* 1967年(S42)3月、東北大学教育学部附属小中学校が、宮城教育大学に移管
<歯学部> * 1965年(S40)4月1日、歯学部設置
<薬学部> * 1972年(S47)5月、薬学部設置
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東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27
「仙台市史 年表」P115、P116、P120/「仙台年表」P227/「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P631/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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18-03、18-17、99-062/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P164と「市民の戦後史(仙台市)」P39に、「宮城県女子専門学校」(S9年、八木山に建設)/「新・目で見る仙台の歴史」P142(片平丁キャンパス)
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東北帝国大学 |
沿革(1) ~理科大学・医科大学・工学専門部~ |
1907年(M40)~1919年(T8) |
<東北帝国大学>
* 1907年(M40)6月22日、東北帝国大学、東京、京都につぐ3番目の帝国大学として仙台に創立(設置決定)
・創立に当たり新設経費として、古河虎之助、宮城県、北海道から寄付を受ける(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532)
・古河虎之助から40万6262円、宮城県から15万円、北海道から10万円の寄付(「重訂 宮城県郷土史年表」P338)
・日露戦争後の不況で国庫は不況で国庫は底をついていた。時の内相原敬は、古河合名社の副会長だったが、足尾鉱毒事件への世の批判を和らげ、東北帝国大学創設の行き詰まりを打開しようと、富豪に献金を行わせて100万余円を得た。赤レンガの校舎全部は古河の寄付によった。県の寄付15万円は設備備品費分であった。(「宮城県百科事典」P756)
<東北帝国大学農科大学(札幌)>
* 1907年(M40)9月、札幌農学校が東北帝国大学農科大学となる
* 1918年(T7)4月、農科大学が東北帝国大学から分離独立し、北海道帝国大学農科大学となる
<東北帝国大学理科大学 / 理学部>
* 1911年(M44)1月1日、理科大学を片平丁に開設(3月に、数学・物理学・化学・地質学の4学科12講座を置く)、9月11日授業開始(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532、宮城県百科事典」P756)
* 1913年(T2)9月22日、理科大学、「女性3名が入学して初の女性の帝国大学生となる」(「仙台市史 年表」P96)
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学理科大学が、東北帝国大学理学部に改編・改称される
・ 東北帝国大学理科大学の名称は、M44年~T8年の約10年間 / 理科大学の正門は、理科研脇にあった
<東北帝国大学医学専門部 / 医科大学 / 医学部>
* 1912年(M45)4月、仙台医学専門学校を合併して、医学専門部とする(T7年4月26日、廃止)
* 1915年(T4)7月14日、東北帝国大学医科大学開設
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学医科大学が、東北帝国大学医学部に改編・改称される
<医学専門部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照
<工学専門部>
* 1912年(M45)4月、仙台高等工業学校を合併して、工学専門部とする
* 1921年(T10)4月1日、工学専門部が分離独立し、再び仙台高等工業学校となる → 項目「仙台高等工業学校」参照
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東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27
設置年月などが下記年表と東北大学HP「沿革図」と異なる場合は「沿革図」を基本にした
「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P94、P95、P96、P97、P98、P100/「仙台市史10 年表」P239、P286、P313/「重訂 宮城県郷土史年表」P338、P348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532
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「新・目で見る仙台の歴史」P141(M44年、東北帝国大学開学式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P256(T5年、教師・学生記念写真、日本初の女子大生牧野らくも写る)/同P257(T2年、女子入学に対する文部省の意見書)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P263(女子入学を風刺する「東京パック」)
/理科大学は、18-18、99-063、99-064/医科大学は、99-066、53-60/「宮城県百科事典」P756~757(片平丁の大学本部写真、昭和4年頃の片平丁校舎構内)
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東北大学 |
沿革(2) |
1958年(S33)~1989年(H1) |
<校舎建設 / 研究成果 / そのほか>
* 1958年(S33)4月14日、工学部校舎5棟焼失
* 1961年(S36)、青葉山・川内地区へ統合移転計画発表
* 1962年(S37)4月2日、川内に大学講堂竣工(二の丸勘定所跡、創立50周年記念)
* 1962年(S37)8月3日、東北地方国有財産審議会、青葉山開拓地を東北大学建設用地として払下げ決定
* 1962年(S37)12月12日、科学計測研究所に、わが国最大の大型太陽炉を建設
* 1964年(S39)3月18日、青葉山開拓地問題が解決し、川内への移転工事着手
* 1964年(S39)4月28日、工学部校舎起工式(青葉山)
* 1965年(S40)9月、農学部の青葉山移転拒否の無期限スト
* 1967年(S42)7月1日、電子リニアック研究所開設
* 1969年(S44)3月、青葉山に工学部校舎完成、移転
* 1969年(S44)4月14日、教養部、火事で2教室を焼く
* 1973年(S48)9月、二の丸跡に、文科系研究・講義棟完成
* 1975年(S50)、片平丁構内に100万ボルト電子顕微鏡取付
* 1975年(S50)12月5日、薬学部(青葉山)に全国初の実験動物慰霊碑建立
* 1976年(S51)4月1日、大学評定河原球場を市民に開放
* 1976年(S51)5月23日、工学部(青葉山)で八木アンテナ八木秀治の胸像除幕
* 1984年(S59)9月、工学部金属材料工学科特殊金属研究室、KS鋼の40倍の強さのスーパー磁石開発
* 1986年(S61)8月、電気通信研究所で、簡易型走査トンネル顕微鏡開発
* 1986年(S61)11月3日、青葉記念館建設(仙台高等工業学校創立75周年・東北大学工学部創立60周年記念)
* 1987年(S62)2月13日、工学部と金属材料研究所が、強磁場に耐える超伝導材料開発
* 2017年(H29)4月、農学部が青葉山新キャンパスへ移転
<学部・大学院・附置研究所等一覧>
最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
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東北大学HP/東北大学HP掲載「沿革図」
/「重訂 宮城県郷土史年表」P588、P604、P605、P607、P613、P633、P648/「続・ 宮城県郷土史年表」P23、P42、P48、P53、P55、P181、P210、P213、P219/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P299/「市民の戦後史(仙台市)」P39
年月日などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
1989年(H1)以降の年表は、東北大学HP記載「沿革」)参照https://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/02/about0203/
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「市民の戦後史(仙台市)」P39/同P141(東北大学科学計測研究所の太陽炉、川内の記念講堂)/同P178(青葉山に建設された東北大学の新校舎群)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(画面左上に、記念講堂、S38、カラー)/「宮城県百科事典」757(理学部、川内キャンパス)
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東北学院大学 |
開校 |
1949年(S24) |
<前身の専門学校>
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)および同二部を設置 / 1951年(S26)、廃止
<大学に昇格>
* 1949年(S24)4月1日、東北学院大学、南六軒丁で開校(英文、経済の2科)
* 1959年(S34)、文経学部二部を設置
* 1962年(S37)、工学部(機械工学科・電気工学科・応用物理学科)を多賀城市旭ヶ丘に新設
* 1964年(S39)、文経学部を文学部一部(英文学科・基督教学科・史学科)、同二部(英文学科)、経済学部一部(経済学科・商学科)、同二部(経済学科)に分離。
* 1965年(S40)、法学部を設置
* 1966年(S41)9月、東北学院大学登山隊がヒマラヤ・パンダコール登頂成功
* 1986年(S61)、創立100周年記念式典を挙行。
* 1988年(S63)、文・経済・法学部の教養課程を泉キャンパスに移転
* 1989年(H1)、教養学部(教養学科人間科学専攻・言語科学専攻・情報科学専攻)を泉キャンパスに新設
~以降の大学学部内の学科および専攻の新設、名称変更、廃止などは、「東北学院大学」HPの「大学のあゆみ」参照~
<短期大学>
* 1950年(S25)、東北学院大学短期大学部併置(2年制、英文科と経済科)
* 1959年(S34)、短期大学部を東北学院大学文経学部二部(英文学科・経済学科)に改組
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東北学院大学HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表/「仙台市史 年表」P116/「続・ 宮城県郷土史年表」P212、P241/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P536~538
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537/「市民の戦後史(仙台市)」P187(パンダコール登頂隊への寄書き日の丸)/「新・目で見る仙台の歴史」P142(東北学院大学泉キャンパス)
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東北学院大学大学院 |
設置 |
1964年(S39) |
<大学院>
* 1964年(S39)、大学院文学研究科(修士課程)を設置
* 1965年(S40)、大学院経済学研究科(修士課程)設置
~ 以降、1971年(S46)~2015年(H27)の間に、大学院では以下の研究科が新設、改称されているが、設置年、改称年などは、「東北学院大学」HPの「大学のあゆみ」参照 ~
文学研究科(博士課程)、工学研究科(修士課程、博士課程)、経済学研究科(博士課程)、法学研究科(修士課程、博士課程)、工学研究科土木工学専攻(修士課程、博士課程)、人間情報学研究科人間情報学専攻(修士課程、博士課程)、文学研究科にヨーロッパ文化史専攻とアジア文化史専攻(修士課程、博士課程)、経済学研究科に経営学専攻(修士課程)、工学研究科電子工学専攻(修士課程、博士課程)、同土木工学専攻を同環境建設工学専攻に改称
* 1966年(S41)7月27日、大学院のヒマラヤ・ヒンズークシ登山隊、登頂成功(世界で2番目)
<法科大学院>
* 2004年(H16)大学院法務研究科法実務専攻(法科大学)を設置/H26,学生募集停止/H28年、法科大学院を廃止
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東北学院大学HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P627/
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商店など |
ライト和洋食堂 |
創業年不詳 |
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面していた
・ (1928年(S3)の写真に写る看板文字から)「和洋食堂、ビリヤード、簡易宿泊、私設待合所」と多角的に商売
・ 大正末期や昭和戦前期の商店配置図では、丹六と裏五番丁通りを挟んで向かい合う店で、「カフェー・ライト」と表示されている
・ 仙台空襲(S20年7月)まで経営継続できたかは不詳
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東北産業博覧会(昭和3年)記念写真帖の写真の内容から
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61-15/ 44-09の左から3番目の木造でキリンビール看板ありがライト食堂
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冷害・凶作 |
冷害年の稲作減収率(宮城県内) |
明治~1944年(S19) |
北海道・東北の明治~昭和19年の主な冷害年の「宮城県の米減収率」
(「図説:東北の稲作と冷害」の棒グラフより読み取り)
M35年(50%位)、M38(80%余)、T2年(50%余)、
S6年(10%以下)、S9年(15%位)、S10(20%弱)、S16年(40%弱)
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東北農業研究センター水稲冷害研究チーム「図説:東北の稲作と冷害」www.regai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/l より要約
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精養軒 |
芭蕉の辻の洋館で営業 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと
(2)精養軒(S4年~)
(3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、
仙台空襲(S20年7月)で焼失した
・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
/ 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157)
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柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
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仁丹マーク |
発表 |
1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売
・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている
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森下仁丹のHP
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44-19
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森天祐堂 |
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昭和初期~ |
* 昭和はじめ、文化横丁で開店(店主・森権五郎氏は明治34年生) / 文化キネマ(大正14年に開館した映画館)に隣接し、ブロマイド専門店だった
* 1933年(S8)、東一番丁大通りへ移転
* 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
* 1945年(S20)夏、空襲後、いちはやく東一番丁で店再建(バラック → 木造)
* 青葉通り開通(S25)後、店は東一番丁・青葉通り北東角になった
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森天祐堂(森つきサン)談/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197
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戦前は53-28 / 戦後は、53-05、53-06、53-07、53-10
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戦時衣料 |
国民帽 制定 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」公布
・「烏帽子型」と「戦闘帽型」(陸軍略帽型)の2種あった
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毎日新聞社「昭和史事典」P132
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江陽会館 |
竣工/増築 |
1957年(S32)/1964年(S39)/1973年(S48) |
* 1933年(S8)、後藤江陽(岩切の後藤豆腐店の末っ子)が仙台市内に写真館を開業(「番丁詳伝」P31)
* 1940年(S15)、後藤江陽は、戦時、中支に渡りカメラマンとして活躍
* 1940年(S15)、後藤江陽が、東一番丁森徳座跡に「江陽写場」を開業(「番丁詳伝」P218)
<戦後>
* 1957年(S32)4月、東一番丁(森徳横丁角)の江陽会館が総合結婚会館として竣工(6階建)
* 1964年(S33)9月、増築
* 1964年(S39)5月に増築
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* のちに、江陽パルサー飲食ビルとなる
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
<江陽グランドホテル開業>
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(広瀬通り / 青葉区本町二丁目3-1)
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江陽グランドホテルHPの「会社概要」/「番丁詳伝」P31、P218/「続・ 宮城県郷土史年表」P25
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99-014、201-45、201-47
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商店など |
江陽会館 |
1957年(S32) |
<江陽グランドホテルHPの「会社概要」より>
* 1933年(S8)、仙台市内に営業写真館として創業を開始 * 1957年(S32)、総合結婚会館(東一番丁・森徳横丁北東角)の運営へと営業規模を拡大
* その後、宿泊施設を付帯させたホテル江陽結婚会館
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(青葉区本町二丁目3-1)
<東一番丁・森徳横丁角北東角のビル>
* 1957年(S32)4月、結婚会館として竣工
* 1964年(S33)9月、増築
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
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江陽グランドホテルHP/他
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店舗配置図 98-124 (東一番丁北部の空襲直前と終戦後)、店舗配置図 98-126(S32) / 99-014、201-45 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮、画面左上の東一番丁・森徳横丁北東角のビル)
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松原街道 |
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・ 古代の官道「東山道」とされ、藩制時代に仙台市中心部と塩釜神社を結んだ塩釜街道の一部
・ 数百本の松並木があったことが名称の由来
・ 松並木は太平洋戦争末期に伐採され、燃料用に供出された
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河北新報記事(2017年01月11日)「古代の官道 松原街道」
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34-04/「仙台市史 特別編4 市民生活」P523(戦前の塩釜街道・案内付近)
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東部復興道路 |
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2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)
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幹線道路 |
東部復興道路 |
2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
「東部復興道路は、仙台市宮城野区蒲生から若林区藤塚までの延長10.2km(県道区間6.8km、市道区間3.4km)からなり、約6mかさ上げし、海岸堤防、海岸防災林との多重防御で津波被害を軽減し、内陸側の既存集落や防災集団移転先の安全確保を図るためのもので、津波に対する多重防御の要となるものです。」(復興庁HPより)
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)/復興庁HP
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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仙台商業会議所/仙台商工会議所/宮城県商工経済会/仙台商工会議所再発足 |
設立/改称/改称/再発足 |
1891年(M24)/1928年(S3)/1943年(S18)/1947年(S22) |
<仙台商業会議所>
* 1891年(M24)6月、仙台商業会議所設立
* 1924年(T13)、東二番丁に仙台商業会議所、竣工(鉄筋コンクリート2階建)
<仙台商工会議所>
* 1928年(S3)1月、仙台商業会議所を仙台商工会議所に名称変更
<宮城県商工経済会>
* 1943年(S18)9月28日、仙台商工会議所を改組(解散)し、宮城県商工経済会と改称(結成)(10月1日、開所式)
・ 自由商工人の自治活動であった商工会議所は、商工経済会という政府機関として、地域の中小事業者の転廃業の事務機関の役割を果たし、役員も天下りで決められて従来の商工人はしりぞけられる傾向であった「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700)
<戦後・再び商工会議所へ>
* 1947年(S22)2月1日、仙台商工会議所と改称(再発足)
* 1956年(S31)5月、仙台商工会議所会館の改装新築
* 1979年(S54)9月、新館着工(10月12日、建て替えのため解体)
* 1980年(S55)12月19日、仙台商工会議所会館落成
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目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 年表」P87、P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P498、P515、P581/「仙台市史10 年表」P202、P306、P315/「続・ 宮城県郷土史年表」P101、P120/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(創立当時?の商業会議所)/同P144(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「目で見る仙台の歴史」P151(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「市民の戦後史(仙台市)」P34(大正13年竣工の仙台商業会議所)/53-50(戦後、改築前)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P726(戦後改築後の商工会議所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P441(S29年、仙台商工会議所)
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芭蕉の辻 |
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<芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」
【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。
【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。
<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」
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矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244
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「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-020、77-18-01、99-022、22-33、20-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年)
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仙台アメリカ文化センター |
開館~閉館 |
1952年(S27)~1971年(S46) |
サンフランシスコ講和条約発効(1952年)に伴い GHQ/SCAP は解散し、全国23か所にあったCIE図書館は廃止、このうち仙台など13都市にあったCIE図書館が米国国務省に移管され、1952年(S27)5月1日から「アメリカ文化センター 」(ACC) と改称 →参照 項目「仙台CIE図書館」
* 1952年(S27)5月、仙台CIE図書館が、「仙台アメリカ文化センター」(ACC)と名称変更し、引き続き斎藤報恩会館内に置かれた
* 1968年(S43)、東二番丁の長期信用銀行ビル4階に移転
* 1971年(S46)3月31日、閉館(「重訂 宮城県郷土史年表」P677では、「6月末閉館」)
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石原眞理「岐阜女子大学紀要 第47号 (2017.10.)「CIE 図書館及びアメリカ文化センター資料に関する研究:仙台アメリカ文化センター及び横浜アメリカ文化センター
旧所蔵資料の調査を基に」/「仙台市史 年表」P117、P126、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P677
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「市民の戦後史(仙台市)」P63
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芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
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芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
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98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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高等学校(新制) |
聖和学園吉田高等学校/聖和学園高等学校 |
1948年(S23)/1986年(S61) |
<前史>
* 1930年(S5)4月8日、宮城県仏教会が吉田高等女学校開設(東三番丁の東本願寺別院が仮校舎)
* 1930年(S5)9月、木ノ下旧国分寺薬師堂隣接地に新校舎建築し移転
* 1936年(S11)、財団法人吉田高等女学校認可
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)、新制高等学校を設置、聖和学園吉田高等学校と改称し、吉田中学校も併設
* 1951年(S26)、学校法人聖和学園設立認可
* 1978年(S53)、創立時建設の高等学校木造校舎解体
* 1979年(S54)、中学校廃校
* 1980年(S55)、創立50周年記念式典挙行並びに講堂兼体育館及び管理棟落慶式
* 1986年(S61)、聖和学園高等学校と改称
* 2003年(H15)、薬師堂キャンパス竣工、三神峯キャンパス竣工、男女共学制開始、5コース制導入
* 2006年(H18)、全コース男女共学
* 2010年(H22)、創立80周年記念式典
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聖和学園高等学校HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529/聖和学園高等学校HP
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(1) |
1937年(S12)~1938年(S13) |
☆ 戦時中の主食配給量の変遷は → 項目「主食配給量」参照
<1937年(S12)7月7日、日中戦争開戦>
* 1937年(S12)12月27日、商工省、綿製品にスフ等混入(30%)規則を公布
* 1938年(S13)3月1日、綿糸配給統制規則を公布施行
* 1938年(S13)5月1日、東京の自動車のガソリンは切符制となる
* 1938年(S13)5月9日、商工省に臨時物資調整局設置(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)5月20日、綿糸販売価格取り締まり規則公布
* 1938年(S13)7月1日、靴を除いた革製品の製造を禁止
* 1938年(S13)7月14日、たばこの銀紙を廃止しパラフィン紙で代用とする
* 1938年(S13)7月、東京の青バスで木炭車に改造開始
* 1938年(S13)7月15日、バリカン以外の鉄器の製造を禁止
* 1938年(S13)8月4日、乗用車の新規製造を禁止
* 1938年(S13)8月、入れ歯に陶材を使用
* 1938年(S13)9月1日、商工省、新聞用紙の使用制限開始、12%削減
* 1938年(S13)9月19日、石油配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)10月1日、商店法を改正、夜10時以降の商品販売を禁止(料飲店を除く)
* 1938年(S13)、陶製なべ、竹製スプーン、鮭皮ハンドバッグなど代用品が登場
* 1938年(S13)、スフの衣料が多くなり、純綿が姿を消しはじめる
* 1938年(S13)、ゴム配給統制規則で、「コンドーム」が軍需品に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P18、P20、P21/岩波ブックレット「年表 昭和史」P15
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(2) |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)3月5日、ゴム配給制限でテニスボールがなく、庭球を中止
* 1939年(S14)3月30日、中央物価委員会で、公定価格を決定(砂糖、清酒、ビール、木炭、絹製品など)
* 1939年(S14)4月12日、米穀配給統制法公布
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを廃止、陶製のボタンとなる(菅家年表)
* 1939年(S14)7月26日、米国、日米通商航海条約廃棄を通告(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)8月9日、新規の自家用車は不許可となる
* 1939年(S14)10月1日、石油、配給制となる
* 1939年(S14)10月18日、9.18ストップ令公布(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令 / 物価・賃金などを9月18日現在を上限とする)(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)11月、30坪以上の木造住宅の新築を不許可
* 1939年(S14)11月6日、米穀配給統制応急措置令公布、農林省でコメの強制買上を実施
* 1939年(S14)12月1日、米穀搗精制限令(白米禁止令、七分づき以上を禁止)
* 1939年(S14)12月20日、木炭配給統制規則を公布
* 1939年(S14)、この年、ヤミ取引と売買が激増
* 1939年(S14)、この年、木炭バスが走り出す、急速に一般化
* 1939年(S14)、この年、門松も廃止
* 1939年(S14)、9.18ストップ令以降、ヤミ取引横行(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22、P23/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16
仙台の木炭供給事情や統制は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P22に記述あり
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(3) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合)
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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年賀郵便 |
戦時中に廃止 |
1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(4) |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)1月25日、物品販売業はすべて午後9時閉店
* 1941年(S16)3月、花見の昼酒だけは特に許可される
* 1941年(S16)3月3日、国家総動員法改訂公布(政府権限の大幅な拡張)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、米穀配給通帳制、外食券制を6大都市で実施(1日、2合3勺)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、鮮魚介配給統制規則、実施
* 1941年(S16)4月18日、東京で「肉なし日」を設定、毎月2、8、18、8の4日は食肉業者休業、飲食業者は、8、28日を休業とする
* 1941年(S16)5月1日、幼児、妊婦にパンの配給制実施
* 1941年(S16)5月、東京で巻煙草制限令で「お一人様一個限り」と一斉に実施
* 1941年(S16)5月、東京で、米、マッチ、砂糖切符の幽霊人口、早くも40万を超える
* 1941年(S16)6月13日、山形鉄瓶、製造中止命令
* 1941年(S16)8月1日、アメリカが対日石油輸出全面禁止
* 1941年(S16)8月12日、米価二重価格制を実施、生産者奨励金交付決定
* 1941年(S16)9月1日、東京で、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の配給切符制実施
* 1941年(S16)10月1日、乗用自動車のガソリン使用を全面禁止
* 1941年(S16)10月1日、新聞の朝刊4ページ、夕刊2ページに減紙
<1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦>
* 1941年(S16)12月16日、物資統制令公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)12月16日、商工省、電球は切れ玉と引き替え販売を通達
* 1941年(S16)12月27日、農業生産統制令公布
* 1941年(S16)、この年、八百屋、魚屋の店頭で行列が続く
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P27/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(5) |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月1日、塩、通帳配給制(1人1か月200g)
* 1942年(S17)1月1日、ガス使用量割当制実施
* 1942年(S17)2月1日、みそ・醤油の切符配給制、衣料点数切符制実施
* 1942年(S17)5月、酒、切符制実施(Wikipedia「配給 (物資)」)
* 1942年(S17)9月8日、警視庁では、届出があれば雀を捕ってもよい(焼き鳥用)
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1942年(S17)11月15日、大政翼賛会、各新聞社で募集した国民決意の標語、当選作、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28、P29/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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買出し |
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戦時中、戦後 |
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」
* 1947年(S22)、この年、飢える都会と農村をつなぐ買出し列車が超満員(「菅家年表」P41)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P29、P31、P41
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「目で見る仙台の歴史」P169に「買い出し列車の混雑」
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(6) |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)1月27日、家庭用電力の節電を強化
* 1943年(S18)2月3日、節電のため月に2回、映画館を休館日に
* 1943年(S18)4月16日、緊急物価対策要綱決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)5月1日、薪が配給制となる
* 1943年(S18)5月18日、浴用石鹸を洗濯石鹸と同成分にする
* 1943年(S18)6月1日、告別式用のローソクは切符制で配給
* 1943年(S18)8月、警視庁では、医師のニセ診断書での特配受給者一掃を図る
* 1943年(S18)、この年、衣生活の簡素化、長袖やダブルの洋服も禁止
* 1943年(S18)、この年、物不足とヤミ値で物価上昇
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」
* 1943年(S18)、この年、都会近県での買出しの一斉取締り強化(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)、この年、「決戦料理」の名で野草の食用奨励(岩波「年表 昭和史」)
<昭和18年現在の配給制は24品目>
米、みそ醤油、砂糖、塩、菓子、食パン、小麦粉、鶏卵、食肉、食用油、ミルク、乾めん、白玉粉、きな粉、木炭、衣料品、縫い針、布団綿、ガーゼ、脱脂綿・衛生綿、軍手・地下たび、釘、セメント、灯油、石けん、このほかに味の素、ちり紙もメーカーが配給制をとっていた。
<昭和19年に追加された配給制は13品目>
鮮魚類、豆腐・油揚げ、青果物、焼酎・ビール、牛乳、蚊帳、洋傘、薪、代用燃料、畳ござ、ろうそく、障子紙、和傘類
・清酒は毎回割当量を決め、ひとり1カ月2升以内、昭和19年になると2合になった。たばこひとり1日6本(昭和20年7月から3本)、石けんひとり1カ月入浴用45グラム、洗濯用60グラム、隣組を通じて購入券配布
<特別配給>
冠婚葬祭や出征、妊産婦、病気、災害、乳幼児には特別配給があって、病人、妊婦には鶏卵月20個と牛乳、出征者には清酒2升、冠婚葬祭には砂糖、みそ醤油、酒、塩が配給される。
戦局が厳しくなる昭和19年3月からは冠婚葬祭、病人用砂糖の特配が停止。(「戦争のころ 仙台、宮城」P87~88)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P87~88
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(7) |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち)
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
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1945年(S20) |
* 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる
<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである
<敗戦 8月15日>
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行
<戦後の統制撤廃>
→ 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については
→ 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25)
* 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36)
* 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26)
* 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41)
* 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開
* 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開
* 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる
* 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開
* 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活
* 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる
* 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売)
* 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符)
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進駐軍(米軍) |
進駐軍専用列車 |
1945年(S20)10月~1952年(S27)2月 |
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46
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警察(戦後) |
警察官 |
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<全国>
* 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる
* 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ
* 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止
* 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる
<宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367)
* 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用
(応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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文字・漢字の表記 |
新聞のルビ廃止 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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用語(皇居と宮城) |
用語の使用はいつ始まったか |
1888年(M21)/1948年(S23)7月 |
* 1888年(M21)、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示
* 1948年(S23)7月1日、宮内庁、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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輪タク |
全盛 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、輪タク全盛時代、全国で1万3000台
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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16-27、53-11、53-81
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1950年(S25)3月17日、魚の統制撤廃きまる
* 1950年(S25)3月26日、政府供出後の麦自由販売を決定
* 1950年(S25)5月1日、米以外の主食のパンなど自由販売となる
* 1950年(S25)6月5日、味噌・醤油自由販売(「重訂 宮城県郷土史年表」P543では、7月5日から)
* 1950年(S25)9月20日、衣料切符廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P544、「仙台市史10年表」P324)
* 1950年(S25)、人絹とスフ、綿布の統制解除、自由販売に(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1950年(S25)、この年、コンドームを配給統制品から解除(「菅家年表」P44)
* 1951年(S26)3月1日、雑穀の統制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)4月17日、衣料切符配給制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、民営の米屋が復活してくる(「菅家年表」P45)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P45/「仙台市史10 年表」P323、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P544/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1952年(S27)~1981年(S56) |
* 1952年(S27)4月1日、家庭用砂糖の統制撤廃
* 1952年(S27)5月8日、麦統制撤廃(6月1日、麦の自由販売実施)
* 1952年(S27)6月4日、国産金ペン万年筆の製造許可(「菅家年表」P46)
* 1953年(S28)10月14日、上野駅着各列車の主食一斉取締り、担ぎ屋260人、米250俵を押収(「菅家年表」P47)
* 1960年(S35)1月、米の値段が公定価格を下回り、米の配給辞退(「菅家年表」P54)
* 1960年(S35)10月、酒類の公定価格を廃止、自由販売制(「菅家年表」P54)
* 1964年(S39)6月1日、ビール酒類、25年ぶりに自由価格に(「重訂 宮城県郷土史年表」P614)
* 1966年(S41)、この年、外米の自由販売が始まる(「菅家年表」P60)
* 1969年(S44)4月1日、自主流通米出回る
* 1969年(S44)5月16日、閣議、自主流通米制度を決定
* 1972年(S47)4月1日、米を物価統制令の適用から除外
* 1981年(S56)6月11日、米穀通帳制度を廃止
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46、P47、P54、P60、P63、P75/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555、P556、P614/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/岩波ブックレット「年表 昭和史」P49
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住居番号表示制 |
開始年(全国/仙台) |
1962年(S37)/1965年(S40) |
* 1962年(S37)5月10日、住居番号表示制始まる
* 1965年(S40)4月1日、仙台市旭ヶ丘地区で新住居表示制度を実施(仙台市初)
・ 仙台市内各地区の新住居表示実施年一覧 → 項目「新住居表示制度(仙台)」
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P56
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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ネオンサイン |
オイルショック後復活 |
1975年(S50) |
* 1973年(S48)10月25日、石油ショック発生
* 1973年(S48)11月5日、石油ショックで東京など大都市のネオンが消える(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)10月6日、東京・銀座にネオンが復活(「菅家年表」P68)
* 1975年(S50)11月、オイルショック以来消えていた仙台のネオンが点灯復活(「続・ 宮城県郷土史年表」P47)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P47
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