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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
文化勲章 |
宮城県関係受賞者 |
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* 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布
(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄
****** 以上、昭和50年まで ******
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569
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用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} |
用語の使用はいつ始まったか |
1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた
・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(5) |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~1935年(S10)~1937年(S12)、年表に記載なし~
* 1938年(S13)2月1日、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・美濃部亮吉ら労農派検挙(第二次人民戦線事件)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P15)
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292)
* 1938年(S13)2月1日、各公私立大学教授中のグループたる所謂新装共産党に対し三府六県に亘り第二次検挙(35名)を行う(「重訂 宮城県郷土史年表」P462)
~1939年(S14)~1944年(S19)の間、年表に記載なし~
<敗戦後>
* 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所より春日庄次郎ら共産党員を釈放(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
・ 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所に収容されていた政治犯、岡邦雄、赤木健介、春日庄次郎らが、前夜来の雨の中を、栄養失調の姿で出所した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245)
* 1945年(S20)10月4日、GHQ、治安維持法・国防保安法廃止、政治犯即時釈放、特高警察廃止、天皇制批判の自由を指令(「仙台市史10 年表」P310)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15/「宮城百年」(毎日新聞社)年表P299/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P292、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P462、P506/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
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* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
興亜奉公日 |
1939年(S14)9月~ |
* 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313
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紀元2600年 |
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1940年(S15) |
1940年(S15)
* 2月11日、紀元二千六百年奉祝建国祭
* 4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
* 6月19日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公祈誓大会
* 11月5日、紀元二千六百年奉祝銃後奉公展
* 11月10日、皇紀二千六百年奉祝式典(宮城外苑)祝賀行事5日間(この日、宮城県をはじめ、各市町村、官衙、銀行、会社銀行等において一斉に挙行 / 午前11時25分、全国民が宮城遙拝、駅待合室やホームでは駅長の指揮で、列車の中では車掌の通報と汽笛の合図で全員が起立して遙拝し万歳を三唱した)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史10 年表」P297~299/佐々久「近代みやぎの歩み」P107/「ものがたり東北本線史」P512
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ガダルカナル戦 |
戦闘 |
1942年(S17)8月~1943年(S18)2月 |
<ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い。この戦いで、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還した。(「無言の凱旋」)
* 1942年(S17)8月7日、米軍ガダルカナル島上陸
* 1942年(S17)12月31日、大本営、ガダルカナル島撤退を決定
* 1943年(S18)2月1日、日本軍、ガダルカナル島撤退開始
<第二師団、ガダルカナル戦>
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103より)
・ 日本の南約5500キロ、英国領ソロモン諸島の1つで岩手県の半分ほどの島。
* 1942年8月、海軍の設営隊が飛行場を建設(敵の飛行機の出撃基地ニューギニアとオーストラリアの間にクサビを打ち込む目的)
* 飛行場完成後、米軍が進攻(艦砲射撃と海兵隊約2万人の海兵師団上陸)し、飛行場を占領
* 日本軍は陸軍部隊を投入
8月16日、先遣隊の旭川第七師団一木支隊、900人が上陸し飛行場突撃し全滅
9月、第十八師団川口支隊6500人、飛行場突入寸前に発見され死者700人以上
10月、第二師団(ジャワ島占領後に警備中、帰国輸送船待ち)と第三十八師団(スマトラ島警備中)の一部、計1万5000人投入
10月23日、第二師団歩兵第4連隊第2大隊、飛行場牽制攻撃、戦傷者続出、マタウ川渡河攻撃の独立戦車隊戦車10両全部撃破される
10月24日、第二師団歩兵29連隊(会津若松)敵陣突入し消息絶つ
10月25日、総攻撃、第二師団左翼攻撃隊長の那須弓雄少将、歩兵16連隊の広安寿郎大佐が戦死。作戦は事前に察知されて失敗。歩兵第4連隊将兵2千数百人は一夜にして壊滅状態。
日本の輸送船団(重砲8門、弾薬20万発、食糧20日分)撃沈される、日本海軍は、空母ホーネット、空母エンタープライズ大破させたが、輸送船団を軽視し敵の補給路を絶てず。
・ 米軍は飛行場南方に電流鉄条網と数多くのトーチカを配し、ジャングルには無数のマイクロホン、米軍に協力する現地民を潜ませていた。日本軍は強力な武器を持たず何回も懲りずに同じ戦法で突撃し犠牲を大きくした。
・ 第十七軍参謀の電報「島に残された兵士たちは食料も武器弾薬もない。木の根、草の葉もつき、川底のミズゴケまで食い尽くした。 動ける者はなく、壕に座ったまま銃剣で最後の戦いの準備をしている。」
・上陸した総兵力約3万1000人のうち死亡者約2万人(戦闘でなくなったのは約5000人、残る1万5000人は食料不足による栄養失調、マラリアによる)、1万1000人が救出される(昭和18年2月上旬、駆逐艦20隻で脱出)
・第二師団は、1万318人のうち、戦死・戦病死が7671人(生存者は4人にひとり)、同師団歩兵第4連隊は、2458人のうち1906人が戦没。
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19、P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P99~103
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翼賛壮年団 |
仙台市で結成 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488
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大日本婦人会 |
発足 |
1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった
* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成
* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16
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16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ)
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
大詔奉戴日 |
1942年(S17)1月~ |
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28
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学徒出陣 |
徴集猶予停止 |
1943年(S18)10月 |
* 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)
「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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公職追放/追放解除 |
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1946年(S21)~1947年(S22) / 1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1946年(S21)1月4日、GHQ、軍国主義者等の公職追放および超国家主義団体27の解散を指令
* 1947年(S22)1月4日、公職追放令改正、財界・言論界・地方公職に拡大
**********************************
* 1950年(S25)11月10日、旧軍人初の追放解除、3250人
* 1951年(S26)6月20日、政府、第1次追放解除発表、石橋湛山、三木武吉や政財界人2958人
* 1951年(S26)8月6日、政府、第2次追放解除を発表、鳩山一郎ら各界1万3904人
* 1951年(S26)8月16日、政府、旧陸海軍正規将校1万11885人の追放解除を発表
* 1951年(S26)9月8日、政府、GHQの承認を得て、旧特高警察関係336人の追放解除を発表(この日、対日講和条約・日米安全保障条約調印)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26、P29、P30
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新憲法 |
施行 |
1947年(S22) |
* 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518
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「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列)
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学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
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朝鮮戦争 |
開戦~休戦 |
1950年(S25)~1953年(S28) |
* 1950年(S25)6月25日、開戦(北緯38度線で戦闘開始)
* 1950年(S25)8月25日、朝鮮特需はじまる(菅家年表)
* 1951年(S26)7月10日、休戦会談、開城で開く(~8.23戦闘は続く)
* 1951年(S26)10月25日、朝鮮休戦会談、板門店で再開(会談中戦闘続く、戦局膠着状態)
* 1953年(S28)7月27日、朝鮮休戦協定調印
戦後(S20年9月から)仙台など県内に進駐した占領軍(進駐軍=米軍)将兵は多い時で1万5000人(2万人説もある→後述)に達したが、朝鮮戦争開始後は、大幅に減った /「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P30、P32/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P551/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/「市民の戦後史(仙台市)」P72
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紙幣・硬貨(戦後) |
発行年 |
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* 1950年(S25)1月7日、日本銀行券千円札発行(聖徳太子像)
* 1951年(S26)、日本銀行、新五百円札を発行
* 1953年(S28)12月31日、この日限りで、銭貨(50,20,10,5の各銭)は流通停止、1円黄銅貨も流通停止
* 1957年(S32)10月、五千円札発行
* 1957年(S32)12月11日、100円硬貨を発行、100円紙幣が次第に消えてゆく
* 1963年(S38)11月1日、新千円札発行(伊藤博文)
* 1982年(S57)4月1日、500円硬貨発行
* 1984年(S59)11月1日、日銀15年ぶりに新札発行(一万円札=福沢諭吉、五千円札=新渡戸稲造、千円札=夏目漱石の3種)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P63/「重訂 宮城県郷土史年表」P540、P548、P586/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P47、P51、P76、P78
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レッドパージ |
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1950年(S25) |
<全国>
* 1948年(S23)1月6日、米陸軍長官ロイヤル、サンフランシスコで日本を反共の防壁にすると演説
* 1950年(S25)5月3日、マッカーサー元帥、憲法記念日の声明で共産党の非合法化を示唆
* 1950年(S25)6月6日、マ元帥、共産党中央委員24人全員の追放を指令
* 1950年(S25)6月26日、マ元帥、「アカハタ」の30日間発行停止を指令 / 7月18日、無期限停止
* 1950年(S25)7月24日、企業のレッドパージ始まる
* 1950年(S25)9月1日、閣議、公務員のレッドパージの基本方針を正式決定
<宮城の事例>
* 1950年(S25)8月26日、レッドパージで、東北配電、日本発送電東北支店従業員433人が解雇される
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/「仙台年表」P220
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メートル法 |
実施 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)1月1日、実施(尺貫法廃止)
* 1966年(S41)4月1日、メートル法完全実施
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P38/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P60
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公害・環境問題 |
(1) |
966年(S41)~1970年(S45) |
* 1966年(S41)3月29日、仙台市の梅田川浄化運動大会
* 1969年(S44)5月23日、政府、初の公害白書を発表
* 1970年(S45)8月21日、東北電力株式会社と七者協(仙塩地域七自治体公害防止協議会=宮城県・仙台市・塩釜市・名取市・多賀城市・七ヶ浜・利府町で構成)との間で、新仙台火力発電所に関する公害防止協定調印
* 1970年(S45)9月22日、公害市民憲章、仙台市が全国で初めて制定
* 1970年(S45)12月18日、公害関係14法案成立(公害対策基本法の「経済との調和」条項削除)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49、P50/宮城県環境対策課HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/仙台市史 年表」P127
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大学紛争 |
仙台(1) |
1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖
<1969年(S44)前半>
(1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖)
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(1) |
1925年(T14)~1929年(S4) |
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1927年(S2)5月30日、京都地裁、京都学連事件に有罪判決、(治安維持法初の適用)
* 1928年(S3)2月1日、「赤旗」創刊
* 1928年(S3)2月20日、初の普通選挙
* 1928年(S3)3月15日、全国で、共産党員一斉検挙、検挙者1568人、起訴488人に及ぶ(3・15事件)
* 1928年(S3)6月29日、改正治安維持法、緊急勅令で公布(死刑、無期刑を追加)
* 1928年(S3)7月3日、全国の警察部に「特別高等課」設置
* 1928年(S3)7月22日、無産大衆党結成
* 1928年(S3)7月24日、司法省、思想係検事を設置
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく
* 1928年(S3)12月20日、日本大衆党結成
* 1928年(S3)12月22日、新労働農民党結成(12月24日、解散命令)
* 1928年(S3)12月28日、政治的自由獲得労農同盟準備会創立宣言
* 1929年(S4)3月5日、山本宣治(旧労農党代議士)刺殺
* 1929年(S4)4月16日、4・16事件(共産党員大検挙)
~1930年(S5)~1931年(S6)の間は、年表に記載なし~
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P4、P5、P6/
宮城県関連は、「重訂 宮城県郷土史年表」P397、P506
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公害・環境問題 |
(2) |
1971年(S46)~1973年(S48) |
* 1971年(S46)3月18日、宮城県公害防止条例公布
* 1971年(S46)4月1日、宮城県に公害対策局を新設、県工業技術センターの公害防止部を新設
* 1971年(S46)6月14日、東北石油会社(仙台新港)と、宮城県、仙塩7市町との間に、仙台製油所に関する公害防止協定調印
* 1971年(S46)7月5日、宮城県選出の自民党大石武一衆院議員が初代環境庁長官に就任
* 1971年(S46)8月9日、鉄鋼社石巻工場と、県・石巻市・矢本町が公害防止協定調印
* 1971年(S46)10月31日、仙台市ガス局原町工場が公害で操業停止
* 1971年(S46)11月25日、公害防止条例、仙台市が公布
* 1971年(S46)12月、仙台市で大気汚染観測基地設置
* 1972年(S47)5月26日、閣議、初の環境白書を了承
* 1972年(S47)6月1日、県庁北庁舎屋上に大気汚染仙台測定所(業務開始)
* 1972年(S47)6月3日、広瀬川でアユ大量死
* 1972年(S47)6月22日、自然環境保全法公布、大気汚染防止法・水質汚濁防止法各改正公布(公害無過失損害賠償責任法)
* 1972年(S47)8月29日、騒音規制地域に県内7市と岩出山町指定
* 1972年(S47)10月、泉市が泉ヶ岳のブナを製紙会社から買い戻し保護
* 1972年(S47)11月、東北地建、北上川下流汚染を4年前の4倍強と発表
* 1973年(S48)3月27日、杜の都の環境をつくる条例、仙台市で施行
* 1973年(S48)8月、自然保全地域第1次に、伊豆沼、仙台湾海浜、太白山、釜房湖など指定
* 1973年(S48)10月27日、産業廃棄物処理センター落成(日の出町3丁目)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P52/宮城県環境対策課HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P671、P675、P677/「続・ 宮城県郷土史年表」P1、P5、P10、P12、P14、P15、P22、P23/「仙台市史 年表」P127、P128
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P194(仙台市上空を覆うスモッグ空撮)
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物価上昇 |
狂乱物価 |
1974年(S49) |
<岩波ブックレット「年表 昭和史」P55>
1974年(S49)は、
・ 狂乱物価(卸売物価指数31.3%、消費者物価指数34.5%上昇)
・ 戦後初のマイナス成長(実質成長率、マイナス0.5%)
・ スタグフレーション問題化
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)1月25日、物価が前年同月比20.6%上昇
* 1974年(S49)3月13日、仙台、タクシー初乗り210円に
* 1974年(S49)3月31日、インフレ反対国民集会、全国270カ所で130万人参加
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)
* 1974年(S49)4月30日、仙台市の物価上昇率は全国第2位(1位は札幌)
* 1974年(S49)5月1日、<全国の地価>建設省、1月1日現在の土地公示価格(前年比32.4%上昇、宅地は2年で倍)
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)8月、「千円亭主」多数、500円昼飯、ほか
* 1974年(S49)8月17日、政府、石油緊急事態を解除
* 1974年(S49)10月11日、仙台市内、ハイヤータクシー料金がアップ
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P55/「続・ 宮城県郷土史年表」P27、P28、P30、P33/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P68
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東北帝国大学 |
学園にみる時代相(1) |
1925年(T14)~1935年(S10) |
* 1923年(T12)秋、東北帝国大学社会科学研究会発足 / 都市貧困地区への援助活動としてのセツルメント活動を東二番丁で行ったり、無産政党設立準備のための政治研究会仙台支部を結成したり、仙台一般労働組合を組織など / 東北帝大を中心として社研関係者に徹底的な弾圧、医学部・法文学部などの学生が仙台警察署に拘引され、家宅捜索で押収した手紙や日記をもとに、関係者を召喚 / 社研は解散声明発表(「仙台市史 特別編4 市民生活」P535)
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく(「岩波」P5)
<満州事変 1931年(S6)9月18日~>
* 1931年(S6)12月1日、東北帝国大学満州慰問連合会結成(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)、満州ブームの一例、佐々久氏の旧制二高同級生の半分が、大学卒業後すぐに満州に渡る(佐々久「近代みやぎの歩み」P80)
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束(「市史10 年表」P278)
* 1932年(S7)11月14日、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「市史10 年表」P279)
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)(「市史10 年表」P280)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月14日、瀧川事件応援に東北帝大生代表出発 / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など) / 6月23日、東北帝大法文学部同盟休校(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)(「市史10 年表」P282)
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置(「岩波」P11)
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙(「市史10 年表」P283)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P5、P11/「仙台市史10 年表」P277、P278、P279、P280、P281、P282、P283/「仙台市史 特別編4 市民生活」P265、P534~536//佐々久「近代みやぎの歩み」P80
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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国鉄(戦後) 3 |
東北本線以外 |
1976年(S51)~1987年(S62)4月 |
* 1976年(S51)3月17日、公労協春闘24時間ストで国鉄幹線網マヒ
* 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休
* 1977年(S52)4月、仙台発列車のほか古川発にも禁煙列車追加
* 1978年(S53)4月13日、動労などスト突入、長距離列車全面マヒ
* 1980年(S55)4月15日、国鉄・私鉄などストライキ
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、東北線全面ストップ、仙石線も戦後初めて不通、仙台市内で11万戸停電
* 1981年(S56)10月1日、国鉄、「フルムーン」を発売
* 1982年(S57)2月15日、仙石線の榴ヶ岡・宮城野原・苦竹・福田町・陸前高砂・下馬・西塩釜駅業務を民間委託
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)3月1日、仙台圏にグリーンライナー新型電車運転
* 1985年(S60)10月11日、閣議、国鉄を1987年4月に6分割・民営化を決定
* 1986年(S61)1月30日、仙台圏の電車は、4人掛けをロングシートに改造
* 1986年(S61)4月25日、仙台圏輸送改善のグリーンライナー第1号が仙台運転所に配属
* 1987年(S62)4月1日、国鉄分割民営化、仙台に東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)東北地域本社が発足、JRグループ11法人と国鉄清算事業団が発足
→ <これ以降は、項目「JR東日本」へ>
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P66、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P52、P53、P67、P80、P110、P120、P142、P166、P189、P201、P204、P221/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P75
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戦時中の勤労動員/就労規制(4) |
国民勤労報国協力令 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)11月22日公布、同年12月1日施行
男子14~40歳、独身女子14~25歳に勤労奉仕義務 / 学校・職場ごとに勤労報国隊が編成され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P18
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戦時中の勤労動員/就労規制(5) |
男子就業制限 |
1943年(S18) |
<戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20
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兵役制度 |
昭和年代(2) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<太平洋戦争開戦 1941年(S16)12月8日>
* 1942年(S17)3月、少年砲兵の志願兵を募集(菅家年表)
* 1943年(S18)3月2日、兵役法改正、朝鮮に徴兵制(岩波)(菅家年表)
* 1943年(S18)9月21日、兵役法施行規則改正、5年以前の徴兵検査の第二国民兵も召集、学生の一般徴兵猶予も停止(菅家年表)
* 1943年(S18)11月1日、兵役法改正、国民兵役を45歳まで延長(岩波)(菅家年表)
<学生・生徒の徴集猶予停止>
* 1943年(S18)10月2日、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴集猶予停止)(岩波)
「法学、文学、経済など文科系学生の猶予を停止、満20歳になれば在学中でも出陣。学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
* 1943年(S18)10月21日、神宮外苑競技場で学徒出陣壮行大会(岩波)
<徴兵年齢19歳に>
* 1943年(S18)12月24日、徴兵適齢臨時特例法公布施行、徴兵年齢の1歳引き下げ、翌19年度に満19歳と20歳の者も受検することに改正 (岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月16日、陸軍特別志願兵令改正公布(17歳未満の志願を認める)(岩波)(菅家年表)
* 1944年(S19)10月18日、陸軍省、兵役法施行規則改正公布(17歳以上を兵役に編入)(岩波) / 防衛召集の対象が在郷軍人および国民兵役にある17歳以上45歳までの大部分の者にまで拡大された / 防衛召集は、空襲や撹乱を目的とした敵小部隊の上陸に備えるためのもの(ウィキペディア「兵役」)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(仙台市史年表) → 項目「国民義勇隊」参照
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(仙台市史10 年表)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波)
<戦後>
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(菅家年表)
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(仙台市史年表P113~114))
* 1945年(S20)11月17日、兵役法廃止
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21、P24/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/「「仙台市史10 年表」P309~310/「仙台市史 年表」P113~P114/ウィキペディア「兵役」?/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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学童疎開 |
県内割り当て |
1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表
* 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開
******************************
<「仙台市史 続編第1巻」P41、P53>
* 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人
<「重訂 宮城県郷土史年表」P502>
* 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる
<「ものがたり東北本線史」P531~532>
宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開
<「目で見る仙台の歴史」P169>
* 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ
* 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150>
* 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」))
・ 宮城県の資料では、1万5471人
・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす
・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着
・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町
・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開
・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着
・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など)
*********************************
* 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150
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「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」
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戦時中の勤労動員/就労規制(6) |
女子挺身勤労令 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<女子の勤労義務化>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令、公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子挺身隊の期間1年延長を通牒/女子徴用実施
<編者注>「女子徴用は検討されたが施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)という解説もある
→ 項目「女子挺身勤労令」参照
項目「女子挺身隊」参照
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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国民義勇隊 |
結成~解散 |
1945年(S20) |
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
竹槍は1945年(S20年)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波P24)
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(「菅家年表」P34)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21、P24/仙台市史10年表」 P309/「菅家年表」P34/「日録20世紀 1945年」P16
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軍事教練 |
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・ 青少年を対象とした軍事予備教育のうち、特に歩兵操典に基づく訓練をさす
* 1928年(S3)2月24日、陸軍省、教練及び青年訓練修了者検定規定公布、この結果、教練も成績に加え合否が判定される
* 1944年(S19)2月4日、文部省、軍事教育強化方針発表
<第2次世界大戦の敗戦で廃止>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P8、P35
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柔道・剣道 |
停止通達/復活 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
<戦後>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
* 1951年(S26)1月11日、戦後禁止の学校柔道が中学校以上の随意科目として復活
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P45
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兵役制度 |
昭和年代(1) |
1926年(T15)~1941年(S16) |
<大正末期~昭和初期>
* 1926年(T15)7月21日、1年志願兵及び1年現役兵服務特例公布(教練の検査とその合格者の在営機関短縮)(菅家年表)=「生活の変わりようをみる昭和の年表」
* 1927年(S2)4月1日、徴兵法を改正し兵役法を公布、現役期間1年短縮(菅家年表)
<満州事変勃発 1931年(S6)9月18日>
* 1931年(S6)11月10日、兵の名称改正(1等卒が1等兵に、輸卒が特務兵に)(菅家年表)
* 1933年(S8)2月16日、特別志願士官制度採用(予備、後備からの志願)(菅家年表)
* 1933年(S8)4月28日、少年航空兵制度実施、少年の志願兵に道を開く(菅家年表)
* 1937年(S12)2月19日、兵役法施行令改正、徴兵検査合格基準を5cm緩和、視力、聴力の基準も引き下げ(菅家年表)
<日中戦争勃発 1937年(S12)7月7日>
* 1938年(S13)2月25日、兵役法改正、学校教練修了者の在営期間短縮の特典を廃止(菅家年表)
* 1939年(S14)3月9日、兵役法改正公布、兵役期間延長(短期現役制廃止)(岩波)=岩波ブックレット「年表 昭和史年表」
* 1939年(S14)7月15日、少年戦車兵150名(15~18歳)募集を閣議決定(菅家年表)
* 1939年(S14)11月11日、兵役法施行令改正公布、第一乙種は現役兵、第二乙種は補充兵、第三乙種を設けて第二補充兵へ(菅家年表)、短期現役制廃止(市史10 P297)
* 1940年(S15)4月24日、陸軍志願兵令公布(岩波)(市史10 P298)
* 1941年(S16)11月15日、兵役法施行令改正公布、丙種合格で第二国民兵編入者も召集へ/ 同日、朝鮮志願兵を募集、25万人が応募(岩波P18)(菅家年表P27)
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P4、P16、P18、/【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6~7、P12、P14、P18、P22、P27/「仙台市史10 年表」P297~298/「重訂 宮城県郷土史年表」P507
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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国民徴用令(2) |
女子の徴用は? |
1944年(S19) |
<女子の徴用>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)(岩波年表P21、仙台市史年表P113)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長を通牒(「岩波年表」P21)
<女子の徴用はなかった>
☆ 「女子の徴用是非も議論になったが最後まで施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)
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岩波ブックレット「昭和史年表」P21/「仙台市史 年表」P113/「日録20世紀 1943年」P42『女子挺身隊』
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(原町の陸軍工廠で働く若い女子挺身隊員たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人たちも軍需工場で弾丸検査)
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仙台市電 |
モハ1型 導入 |
1926年(T15)~1934年(S9) |
車両モハ1型はT15~S9に導入、このうち7号はS39年10月に廃車
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市電の各型の使用期間は、「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P180~181
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201-36、99-002
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主食配給量 |
変化 |
1940年(S15)~1948年(S23) |
* 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)
<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合
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戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(2)~さらに拡大し通年動員へ~ |
1943年(S18)10月/1944年(S19)4月 |
* 1943年(S18)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)
・学校報国隊の戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底、女子は戦時救護の訓練実施
<勤労動員は1年の3分の1へ>
* 1943年(S18)10月、「教育に関する戦時非常措置方策」により、学校修業年限の抑制、学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等を決定 / 勤労動員を在学期間中1年につき、概ね3分の1相当期間実施
* 1944年(S19)1月、「緊急学徒勤労動員方策要綱」決定
・動員期間は1年につき概ね4か月を標準とし、『継続して』行う」
<学徒の通年動員>
* 1944年(S19)2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定
・中等学校程度以上の学徒は、「今後1年、常時勤労その他非常勤務に必要に応じて動員」を決定
* 1944年(S19)3月、「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」を閣議決定
・1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導、教職員による勤務管理
* 1944年(S19)3月末、文部省、詳細な学校別動員基準を決定し指令 / 全国の学徒は、4月半ばごろから続々と軍需工場へ動員された
* 1944年(S19)5月、文部省が指示「勤務時間中に、軍事教育、教授訓育等のため、1週6時間を原則とする時間を設ける」
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(3)~動員範囲を低年齢へ拡大/卒業後も動員/授業停止し全面動員~ |
1944年(S19)7月/1945年(S20)3月 |
<国民学校高等科、中等学校低学年も動員>
* 1944年(S19)7月、文部省「学徒勤労の徹底強化に関する件」通牒
・ 「1)1週6時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合、中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校3年生の男子のみならず女子にも課する 5)出動後2か月たたない学徒にも深夜業を課する」などを指令
* 1944年(S19)8月、「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」が同日公布され、学徒動員の法令上の措置が決定
* 1944年(S19)11月、夜間学校の学徒や、弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
<卒業後も動員継続>
* 1944年(S19)12月、中等学校卒業者の勤労動員継続措置決定
・ 翌年3月卒業後も引き続き学徒勤労を継続させるため、中等学校に付設過程を設け、進学させる
<授業停止>
* 1945年(S20)3月、「決戦教育措置要綱」閣議決定
・ 「国民学校初等科を除き、学校における授業は昭和20年4月1日より、昭和21年1月31日まで原則として停止」
☆ 学徒動員による死亡者は、1万966人、傷病者は9789人
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(鍋蓋代用品をつくる児童たち、昭和20年)
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幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
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明治42年の「仙台市統計一班」
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右側通行 |
開始 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)11月1日、それまでの左側通行から、「人は右、車は左」の対面交通に切り替えられた
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昭和24年道路交通取締法改正
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16-28、16-43
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東一番丁百年祭大仮装行列 |
開催 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日~17日、開催
・ 武家の町だった東一番丁が、明治維新後に商業の町として一歩を踏み出して一世紀になるのを記念して開催された
・ またS41年は、藩祖政宗公生誕(永禄10年=1567年)から400年目にあたる
・ 大仮装行列は、東一番丁の商店主たちが藩政時代から現代までの歴史を、仮装で表した
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東一番丁創立五十周年」P9の「連合会の歴史」欄/東一番丁の粟村寅之助氏談/「市民の戦後史」P185/「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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大学・短大 |
東北薬科大学 |
平成期(H6年~H27年) |
* 1994年(H6)、仙台校地に青葉区小松島の土地購入(H9年、H16年にも購入)
* 1996年(H8)3月、講義棟(地下1階、地上8階建)完成
* 1998年(H10) 9月、情報科学センター設置
* 2006年(H18) 2月、教育研究棟(地下1階、地上10階建)、ラジオアイソトープセンター(地下1階、地上3階建 )、実験動物センター(地下1階、地上4階建)完成
* 2006年(H18)4月、薬学部に薬学科(6年制)と生命薬科学科(4年制)の2学科設置
* 2008年(H20)4月、図書館・情報センター(地下1階、地上2階建)、学生ホール(地上3階建)完成
* 2009年(H21) 3月、中央棟(地下1階、地上4階建)完成
* 2009年(H21) 4月、大学院薬学研究科薬科学専攻(修士課程)開設
* 2012年(H24)4月、大学院薬学研究科博士課程(薬科学専攻後期課程と薬学専攻)開設
* 2012年(H24)12月、東北厚生年金病院を譲り受ける契約締結
* 2013年(H25) 4月、東北薬科大学病院開設
* 2013年(H25)5月、ロゴマーク制定
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東北医科薬科大学HP(2018年)
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大学・短大 |
東北薬科大学 → 東北医科薬科大学 |
2016年(H28) ~ |
<東北医科薬科大学>
* 2016年(H28) 4月、法人名を「学校法人 東北医科薬科大学」に、大学名を「東北医科薬科大学」に、「東北薬科大学病院」を「東北医科薬科大学病院」に変更 / 医学部医学科開設 第1期生入学
* 2016年(H28) 4月、「東北医科薬科大学若林病院」開設
* 2017年(H29) 2月、医学部第2教育研究棟(地上2階建、延面積)完成
* 2017年(H29)9月、「東北医科薬科大学名取守病院」開設
* 2018年(H30) 1月、医学部第1教育研究棟(地上7階建)完成
* 2019年(H31) 1月、東北医科薬科大学病院 新大学病院棟(地上8階建)完成
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東北医科薬科大学HP(2018年)
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大学・短大 |
東北薬科大学 |
昭和期(S14年~S63年) |
* 1939年(S14)、前身の東北薬科専門学校設置(小田原南光沢)
<東北薬科大学>
* 1949年(S24) 3月、財団法人東北薬科大学設立認可(薬学部薬学科開設)
* 1959年(S34) 4月、附属癌研究所開設 / 7月、北校舎(地下1階地上3階建)完成
* 1962年(S37) 4月、大学院薬学研究科修士課程開設(私立薬科大学で初)
* 1963年(S38) 7月、大学院校舎(4階建)完成
* 1964年(S39) 4月、大学院薬学研究科博士課程開設
* 1965年(S40) 4月、薬学部に衛生薬学科設置開設
* 1966年(S41)、本館(5階建)完成
* 1971年(S46)12月、富谷校地(黒川郡富谷町三ノ関)購入
* 1982年(S57) 3月、ラジオアイソトープセンター(地下1階、地上3階建)完成
* 1984年(S59) 10月、高柳義一先生記念館(地上4階建)完成
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東北医科薬科大学HP(2018年)/「仙台市史 年表」P116、P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539/「目で見る仙台の歴史」P180/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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東北大学 |
東北大学大学院 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)4月1日、大学院設置(文学・教育・法学・経済学・理学・工学・農学研究科)
* 1955年(S30)、医学研究科設置
* 1961年(S36)、薬学研究科設置
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東北大学HP
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東北帝国大学 |
沿革(3)~各学部・研究所設置~ |
1941年(S16)~1947年(S22)9月 |
<選鉱製錬研究所>
* 1941年(S16)3月、選鉱製錬研究所、設置
* 1946年(S21)7月7日、選鉱製錬所、開所式
<抗酸菌病研究所> * 1941年(S16)12月、設置
<科学計測研究所> * 1943年(S18)1月、設置
<高速力学研究所> * 1943年(S18)10月、設置
<航空医学研究所>
* 1943年(S18)10月、設置 → 1946年(S21)1月、廃止
<非水溶液化学研究所> * 1944年(S19)1月、設置
<硝子研究所> * 1945年(S20)1月、設置
<その他>
* 1941年(S16)10月31日、本多記念館竣工、献堂式(玄関の松は、乃木希典が第二師団長当時、その邸内にあった松を移植)
<戦後>
* 1947年(S22)4月、農学部設置
* 1947年(S22)10月1日、東北帝国大学を東北大学に改称(全国の帝国大学の名称を廃止) / ただし、国立大学設置法に基づく東北大学設置は、1949年(S24)5月31日
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東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P115/「目で見る仙台の歴史」P164
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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「目で見る仙台の歴史」P164に、「抗酸菌病研究所」(S18年、北四番丁に完成)と「本田記念館」
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