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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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男女共学 |
県内高校で初 |
1973年(S48) |
<戦後学制改革で>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P275)
* 宮城県第三高等女学校が、戦後学制改革で宮城県第三女子高等学校となり男女共学実施(2年間で共学廃止)
* 仙台商業と仙台女子商業が形の上で合併し男女共学としたが、実質の伴わない共学で、1957年(S32)に元の2校に分離独立
* 1973年(S48)開校の県立泉高校が、公立私立を問わず、仙台市内では初の男女共学高校(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1950年(S25)4月8日、県立仙台第三高校、県内初の男女共学を採用(「仙台市史10 年表」P323)→これは間違い(県立仙台第三高校の開校は1963年(S38)年1月 同校HPより)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P274~275/「仙台市史10 年表」P323
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西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦後 |
<戦後>
・ 仙台空襲後の住宅難対策で一時期は集団公営住宅(60棟)が建てられていたが、戦災復興事業により北方に大拡張し、あわせて3万6230坪の公園として整備された(11.45haに拡張)
* 1947年(S22)3月13日、戦災復興事業による道路・公園名の公募の結果、名称は「西公園」と決定 / S23年から整備開始
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、西公園で、仙台復興祭グランド・フェア開催
* 1950年(S25)6月、軟式野球場
* 1960年(S35)8月、仲の町の「不法占拠住宅」約200世帯のうち、一部を強制立ち退き
* 2015年(H22)12月6日、地下鉄東西線開通し、最寄駅の「大町西公園駅」開業
<天文台>
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(市史年表P119) / 41センチ・マケリン氏反射赤道儀、当時は全国4番目の大きさ(「重訂 宮城県郷土史年表」P575)
* 翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に
* 1968年(S43)5月、プラネタリウム館併設(河北新報社寄贈)
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了(翌年、新天文台が青葉区錦ケ丘にオープン) → 項目「仙台市天文台」参照
<市民プール>
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園)(市史年表P112)
* 2006年(H18)、西公園プール廃止
<市民図書館>
* 1962年(S37)10月27日、公園内に、市民図書館が設置された(市史年表P112)
* 1962年(S37)10月、浜夢助の句碑「雪国にうまれ無口に馴らされる」市民図書館付近に建立
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転
<こけし塔>
* 1961年(S36)3月27日、仙台市の戦災復興都市計画事業完了を記念して、西公園で「こけし塔」除幕式がおこなわれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P464~465/「仙台市史 年表」P119、P122/「仙台市史 本編2」P36~37の「桜ガ岡公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P601、P606、P607/Wikipedia「西公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P601
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「目で見る仙台の歴史」P178(戦後の西公園)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(戦災復興都市計画事業完了記念こけし塔)/同P136~137(市民プール)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール、カラー)
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仙台市営バス |
戦後(1) |
1945年(S20)~1964年(S39) |
<戦後>
・ 終戦直後は、23両のバス中、実働は11両のみ / 路線17系統、199キロ(終戦前より減少)
・ 1949年(S24)、24系統、247キロ、実働30両 / 仙台~作並間運転開始
・ 1949年(S24)4月22日、大型トレーラーバス(250人乗り)2台購入(輸送難解消のため)
・ 1950年(S25)、路線55、実働47両/市営バス案内所(駅前丸光デパート脇)開設/4月、貸し切りバス営業開始 / 仙北鉄道バス、秋保電鉄バスが市内に乗り入れ / 12月、広瀬通車庫と営業所開設(広瀬通東三番丁)
・ 1951年(S26)、65両 / 仙台駅構内乗り入れ廃止、発着場が青葉通、東五番丁周辺に移転
・ 1952年(S27)4月、市内定期遊覧バス運行開始 ※
・ 1953年(S28)、66路線、814キロ / ラッシュ時に重点的に増発、季節の催しものなどへ増発 / 定禅寺櫓町・細横丁角に車庫新設
・ 1955年度(S30)、乗車人員3000万人越え、対人口利用比率21.3%
・ 1956~1960年度(S31~35年度)、この間に路線拡大続き、110系統、9927キロ、49両増車 / 市中心部ビル建設、近郊丘陵地帯などに住宅団地造成で需要増大 / 霞の目車庫新設(仙台バイパス予定地脇)
・ 1961年(S36)、45両購入し在籍296両 / 東仙台車庫新設
・ 1962年(S37)、ラッシュ時混雑すさまじく、新車41両、中古35両購入、在籍350両
・ 1963年(S38)3月、七北田車庫落成 / 仙台駅前バス窓口案内所改築
・ 1964年(S39)、94両増車、在籍390両
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P520~525、P533
/※ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182に、市内定期観光バスの遊覧コースなど記述/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P70(観光バス乗り場標識)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(仙台遊覧自動車案内パンフ)
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柔道・剣道 |
停止通達/復活 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
<戦後>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
* 1951年(S26)1月11日、戦後禁止の学校柔道が中学校以上の随意科目として復活
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P45
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戦時中の勤労動員/就労規制(5) |
男子就業制限 |
1943年(S18) |
<戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20
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国鉄(鉄道省時代) 2 |
戦時輸送(貨物優先体制) |
1938年(S13)~1943年(S18) |
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1938年(S13)6月、鉄道輸送は旅客より貨物重点方針決定、戦時輸送優先(全国鉄道局長会議)
* 1938年(S13)、仙台鉄道局内に第1鉄道輸送司令部仙台支部設置(司令官は大佐)、1943年(S18)に仙台地区司令部となり(司令官は大佐)、仙台駅、弘前駅には停車場司令部が置かれた
* 1938年(S13)10月1日、銑鉄局管内で「銃後弁当」売り出し(15銭)
* 1939年(S14)11月15日、ダイヤ改正、旅客を従、貨物列車を主とする
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語の表示が消える(菅家年表P25)
* 1942年(S17)10月6日、閣議、戦時陸運非常体制を決定、東北本線は石炭輸送第一(北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送)
* 1943年(S18)2月28日、国鉄乗客指定制実施(厳しい旅行制限)、食堂車、寝台車完全廃止
* 1943年(S18)3月10日、仙鉄局、11本の貨物列車新設(3月11日、石炭専用列車スタート)
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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国鉄(常磐線) |
戦前・戦後 |
昭和末年まで |
<戦時中>
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月または12月、唯一の急行列車も廃止)
<戦後>
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始
* 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休
<戦後・電化>
* 1967年(S42)10月1日、常磐線電化完成
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Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/「重訂 宮城県郷土史年表」P635
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国鉄(鉄道省時代) 3 |
戦時輸送(決戦輸送) |
1944年(S19) |
<戦時輸送>(「ものがたり東北本線史」より)
* 1944年(S19) この年、国鉄は徴用者、一般疎開、工場疎開、学童疎開、北海道からの石炭輸送、戦時物資などの輸送を重点とした / 戦時貨物輸送増強のため、国鉄長町ヤードを強化 / 4月からは「決戦輸送」
<女性増加>
* 1月、国鉄現場に女性が急激に進出(仙台局管内の8%に) / 出札、改札、小荷物、車掌、列車掃除手、踏切警手など
* 3月、女性が、貨物掛、荷扱手など重労働の職種にも
<急行列車など廃止>
* 4月1日、急行半減、寝台車廃止、一等寝台、食堂車廃止
* 4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ
* 9月、唯一の急行列車も廃止(昭和20年11月20日、仙鉄の急行列車復活)
<疎開輸送>
* 3月28日、東北地方初の疎開輸送用臨時列車(常磐線まわり一関行き)
* 4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間
<旅行制限>
* 4月1日、100キロ以上の長距離旅行制限 / 旅行者は、警察の「旅行証明書」が必要
<旅行制限:以下、Wikipedia「決戦非常措置要綱」より>
旅行制限では100km以下の乗車券の発売枚数の割当による数量の制限のほか、100km以上(乗車時間2時間以上)の遠距離列車の切符について居住地の警察署発行の旅行証明書がないと購入できないようにする措置(買い出しや遊興旅行の制限が目的)が東京都区内・横浜市内・川崎市内駅発に限り試行されたが、警察署の第一線事務増加からの反対から5ヶ月後に廃止され全国施行はされなかった。(上田卓爾「戦時下における旅行制限とガイドブックについて」)
<これ以降は、項目「国鉄(戦後)」へつづく>
<戦後の東北線関連は、項目「国鉄(東北本線)」へ>
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「ものがたり東北本線史」P507~P532/Wikipedia「決戦非常措置要綱」
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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仙台空襲 |
投下された3種の焼夷弾 |
1945年(S20)7月10日 |
<投下された3種の焼夷弾>
・ M47焼夷爆弾
落ちるとものすごい音がして火が噴き出す / 空襲の手始めに攻撃目標に対し集中的に投弾し火災を発生させる / 先導機群と2個群団が1万800発を投下
・ M17集束焼夷弾
ザアーと雨のように降ってきて、あたりかまわず青白い炎を出して燃える / 1個の中に直径5cm、長さ35cmの六角棒状のテルミット・マグネシウム焼夷弾が110本はいっていて、地上300mになると自動的にまき散らされる / 総数23万7000個を投下)
・ 小型油脂焼夷弾
6個のガソリン、ナフサ入りナパーム弾が集束しており、これも途中で分かれて落下、地上で燃え上がると火を振り払っても落ちない
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P216~217
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郵便局 |
仙台中央郵便局 |
1965年(S40) |
<改称>
* 1965年(S40)11月26日、南町通りの仙台郵便局が仙台中央郵便局と改称
* 1968年(S43)7月1日、郵便番号制、実施
* 1969年(S44)11月25日、郵便番号自動読み取り機、稼働(東北初)
<北目町に移転>
* 1973年(S48)9月15日、南町通から北目町に新築移転
* 1975年(S50)8月24日、仙台中央郵便局で、日曜配達休止実施
* 1987年(S62)4月23日、中央郵便局に、自動引受機登場
* 1987年(S62)7月21日、東北初の郵便貯金ATMを、藤崎デパートに設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P582/「仙台市史 年表」P124、P128/「重訂 宮城県郷土史年表」P654/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P223、P227/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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戦後教育・仙台 |
新制中学校発足 |
1947年(S22) |
<新制中学校>
* 1947年(S22)3月31日、仙台市立中学校19校、市立高等学校6校設置(「仙台市史10 年表」P315)
* 1947年(S22)4月1日、仙台市で29校の新制中学校開校
(「仙台市史年表」P115) / <編者注> 29は、市立18、官立1、私立10の合計
<市立中学校の校舎建築>(仙台市史 続編第1巻)
・ 市立新制中学校は18校
・ 五橋など旧高等小学校4校はそのまま中学校に移行したが、14校は校舎がなく学区内の小学校に併置、授業は小学校教室を借りての二部授業だった
・ S27年までに18校校舎が新築され二部授業は解消したが、引き続き生徒増加に追われながら新増築が進められた
・ S28~S39年度、屋内体育館建設
・ 各中学校校舎等建築状況→「仙台市史 続編第2巻」P328~330
<戦後ベビーブームで、生徒激増>
・ S35年度から激増し、S37年度にピーク
・ S27年度~37年にマンモス校解消のため、中学校3校新設(西多賀、郡山、台原)
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「仙台市史10 年表」P315/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P517/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P327~330
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学制改革(戦後) |
新制大学 |
1949年(S24) |
<新制大学>
1947年(S22)制定の学校教育法に拠り、高等教育を行う教育機関
・ これ以前の帝国大学令や大学令等による大学は旧制大学と呼ばれるようになる
・ 戦前の旧制大学、旧制高等学校、師範学校、高等師範学校、大学予科および旧制専門学校を、4年制の新制大学として再編
・ 新制国立大学は、1949年(S24)施行の国立学校設置法に基づいて設置
<宮城県内>
* 1949年(S24)、新たに設置開設された新制大学(私立)
・4月1日開設、東北学院大学、東北薬科大学
・10月27日開設、宮城学院女子大学
* 昭和20年代の短期大学開設
・1950年(S25)に、東北学院、尚絅、宮城の私立3校
・1951年(S26)に、三島、聖和の私立2校
・1952年(S27)に、宮城県農業短期大学
* 1949年(S24)5月31日、国立学校設置法に基づく東北大学設置(第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校・宮城県女子専門学校が東北大学に統合される)(旧制東北帝国大学は、すでに昭和22年10月1日に東北大学に改称していた)
* それ以降に県内で開設された、新制大学、短期大学は → 項目「大学・短大」参照
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「仙台市史 年表」P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96
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東北新幹線 |
開業 |
1982年(S57) |
<新幹線公害にたいする市民運動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P542~543)
* 1972年(S47)3月、仙台市公害対策審議会に新幹線公害について諮問 / 騒音レベルの目標値70ホン以下とするなど答申
* 1973年(S48)3月、東北新幹線沿線都市協議会、答申を支持して、国鉄に騒音防止について要望
* 1973年(S48)6月16日、河原町二丁目新幹線公害対策連絡協議会など市内沿線住民7団体が全仙台新幹線公害対策連絡協議会結成
・ 住居地域において開業後5年以内に達成したいとしていた環境基準(騒音70ホン以下に抑制)は達成困難となる
<着工~開通>
* 1971年(S46)6月1日、新幹線工事局(宮城・福島両県内工事担当)開設(五橋1丁目の国鉄ビル内)
* 1971年(S46)10月24日、東北新幹線、上越新幹線の建設認可
* 1971年(S46)11月28日、起工式を仙台駅で実施
* 1982年(S57)3月21日、大宮・盛岡間で試運転
<開業>
* 1982年(S57)6月23日、大宮~盛岡間で開業、465.6㎞、3時間17分
* 1985年(S60)3月14日、上野~大宮間が開業
* 1985年(S60)10月17日、仙台~一関間の試験走行で時速270キロを達成(当時、世界一)
* 1986年(S61)11月10日、仙台~北上間で、時速271キロ達成
* 1991年(H3)6月20日、東京駅まで乗り入れ開始
* 2010年(H22)、全線開通(新青森駅開業)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P542~543/「重訂 宮城県郷土史年表」P674/「仙台市史 年表」P127、P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P4、P143、P149、P189、P214/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P65、P76
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警察署 |
仙台南警察署 |
1944年(S19)~ |
<新設され、堰場に開庁>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁
<舟丁へ移転>
* 1962年(S37)9月12日、新庁舎、舟丁に落成
<長町へ移転>
* 1993年(H5)、庁舎を長町(太白区長町6丁目)に移転
* 2019年(H31)4月1日、仙台市若林区を新設の若林警察署に移管
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Wikipedia「仙台南警察署」/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P780に、「改築後の仙台南警察署」
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医療機関 |
宮城病院 |
1879年(M12) |
<施薬所→共立社病院→宮城病院→宮城医学校附属病院→再び宮城病院→東北帝国大学医学専門部附属医院>
* 1869年(M2)、仙台藩によって創設された医学校が、旧町奉行役宅に移り「施薬所」と称し、医者の養成と診療にあたる / 1971年(M4)7月、廃藩置県とともに廃止
* 1972年(M5)5月、中田斉と石田真、宮城県初の病院「共立社病院」を南町に創設(以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P394)
* 1879年(M12)5月1日、「共立社病院」が宮城県に移管される。
* この後に国分町に移転し、
* 1879年(M12)7月、病院を「宮城病院」、附属学舎を「宮城病院附属医学校」と改称 / コレラなど伝染病予防と治療に注力、県内の開業医対象に各地で医学講習会実施
* 1882年(M15)7月、宮城病院附属医学校が「宮城医学校」と改称 / 内科・外科・眼科
* 1882年(M15)9月、東二番丁に移転
* 1884年(M17)7月1日、宮城病院が「宮城医学校附属病院」となる
* このあとに元貞坂に移転し1884年(M17)9月29日に開院
* 1887年(M20)3月、宮城医学校廃止(文部省に移管)
* 1887年(M20)4月1日、附属病院は、再び「宮城病院」として開院(県が経営) / 旧制二高医学部の臨床実習場を兼ねる
* 1911年(M44)4月6日、宮城病院が北4番丁に移転(本館新築)、
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、「東北帝国大学医学専門部附属医院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P394~395/「仙台市史 年表」P83、P84、P85、P86、P95、P96
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東北帝国大学 |
学園に見る時代相(2) |
1936年(S11)~1945年(S20) |
<日中戦争 1937年(S12)7月7日~>
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵(当時は、東北帝大文学部助教授)ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292、「仙台市史 特別編4 市民生活」P265)
* 1939年(S14)7月10日、興亜青年勤労報国隊北支蒙彊派遣東北帝大第一班11名、仙工10名、茨城県内原訓練所に出発/9月21日帰還
* 1940年(S15)8月30日、文部省より、学生生活刷新要綱等を各地方長官、大学専門学校長等に通牒
* 1940年(S15)9月1日、満州国産業視察団興亜学生勤労報国隊帰県(東北帝大教授市原通敏統率)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝国大学報国団結成(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
<太平洋戦争 1941年(S16)12月8日~>
* 1941年(S16)8月8日、文部省、学校報国団再編成を訓令(全国中等・高等・専門学校及び公私立大学の学生生徒をもって学校報国団を組織することを決定発表す)
* 1941年(S16)10月7日、東北帝国大学報国団結成式
<戦時中、大学の修業年限短縮>
* 1941(S16)年度 大学・専門学校・高等師範学校・実業専門学校など、3か月短縮し、2年9か月間に(S17年3月卒業生はS16年12月卒業)
* 1942(S17)年度~1944(S19)年度卒業生、6か月短縮
* 1945年(S20)年度卒業からは、3年間(短縮なし)
(旧制高等学校は、S17~19年度卒業予定者は、6か月短縮し、2年6か月間 / 20年度予定者は1年短縮し2年間)
<戦後>
* 1945年(S20)11月28日、法文学部学生大会
* 1945年(S20)12月1日、服部英太郎、宇野弘蔵両教授復帰
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「仙台市史10 年表」P292、P296、P301、P302、P310、/「重訂 宮城県郷土史年表」P476、P479、P484、P485
大学・旧制高校の修業年限短縮の出典は、(1)「京都大学大学文書館研究紀要第15号」(2017年)P30、(2)文部科学省HP「高等教育の戦時体制化」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317703.htm
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東北振興/農村更生 |
4 |
1937年(S12)~1940年(S15) |
<日中戦争開始 1937年(S12)7月7日>
戦時体制への移行とともに、東北振興計画自体が、「広義国防」の理念のもとに戦時経済の中に編成替えされてしまい、また財政支出も大きく削減されて、内閣東北局と東北振興株式会社と東北振興電力株式会社の2つの国策会社が残ったにすぎなかった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
* 1937年(S12)9月、NHK仙台、「東北振興講座」放送(17回シリーズ)
* 1937年(S12)12月、第二次農山漁村経済更生事業を実施(経済の安定と主食の増産を図る)
* 1938年(S13)3月31日、東北振興調査会官制廃止
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462) →<編者注>予定したがS14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
* 1939年(S14)6月1日、東北6県知事会議、東北振興問題につき協議
* 1939年(S14)6月6日、東北振興促進連合創立
* 1940年(S15)1月17日、仙台市会、東北振興促進役員会、工事誘致、区画整理組合の結成、釜房ダム建設を協議
* 1940年(S15)6月、東北振興連絡協議会組織す(6県総務部長、在仙官庁首脳部会議で)
~ 以後、各種年表に関連記事見当たらず ~
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357/「宮城県百科事典」P754/「仙台市史 年表」P109/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P468/「仙台市史10 年表」P292、P296/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P10
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20-33(昭和12年仙台七夕飾り物で三越の「東北振興」)/ 83-04(昭和12年仙台七夕の飾り物で東北貯蓄銀行の「東北振興丸」)
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
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「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
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国鉄(東北本線) 1 |
旅客・貨物輸送
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1887年(M20)~1945年(S20)夏 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、上野~仙台~塩釜間、開通 / 合わせて仙台駅をはじめ白石、大河原、岩沼、岩切、塩釜等の各駅営業を開始 (当時は私鉄・日本鉄道)
* 1887年(M20)12月20日、上野~仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、日本鉄道の仙台~青森間が全線開通
<国有鉄道>
* 1906年(M39)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された(所管はM41年12月内閣鉄道院、T9年5月に鉄道省)
* 1920年(T6)6月、仙台駅に急行列車登場(東北線経由と常磐線経由の上野~青森間に各1往復 / 上野・仙台間の所要時間は、東北本線経由8時間12分、常磐線経由8時間1分 / 料金(上野~仙台)は運賃(3等)2円62銭、急行券50銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P200)
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
* 1939年(S14)11月15日、国鉄ダイヤ改正、旅客列車を従とし、貨物輸送を主とする(戦時輸送完遂)
* 1940年(S15)8月1日、上野・青森間急行103・104列車の食堂車廃止(食堂車を傷痍軍人用の病院車に改造)
* 1940年(S15)8月、仙鉄局、見学旅行も一切認めない方針発表(このころ、すべての列車の乗車率が定員の2倍以上)
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1942年(S17)10月6日閣議決定、東北本線は石炭輸送第一、北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送
* 1943年(S18)2月、東北本線、食堂車、寝台車を全廃
* 1944年(S19)4月1日、決戦輸送体制、運賃値上げと厳しい旅客抑制、(乗車券を買うのに2日も3日も並んで待つ)
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月末、唯一の急行列車も廃止)
* 1944年(S19)4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間(東北本線、常磐線の輸送計画は、14万8791人)
* 1944年(S19)7月上旬~9月上旬、学童集団疎開輸送
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、仙台駅、仙台鉄道局など焼失
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<日本鉄道時代>「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200
<戦時中> 「ものがたり東北本線史」P511、P516、P518、P529、P530、P531、P546/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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国鉄(日本鉄道時代) |
東北本線 |
1887年(M20)~1906年(M39)10月 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、開業
(当時は私鉄・日本鉄道で、塩釜まで開通)
* 同年12月20日、東京・仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、仙台~青森間が開通
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「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87
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第二師団(出兵記録)(2) |
出兵記録(凱旋・慰霊などを含む) |
明治年間(2) |
<日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)
<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊)
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)
<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」)
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「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99
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「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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映画館(戦前) |
仙台の映画館と劇場一覧 |
昭和11年頃 |
<映画館>
・ 東一番丁(中央部) 日活館(日活契約、椅子席)
・ 同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部) 文化キネマ(松竹特約、椅子席)
・ 東三番丁 読売会館(新興契約)
・ 河原町 (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町 世界館(大都特約)
・ その他 公園館(大都特約)
廣瀨座(新興契約)
<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく
<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)
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伝染病流行 |
仙台・戦後流行 |
昭和20年代以降 |
<昭和20年代>
* 1945年(S20)、腸チフス・パラチフス555人、ジフテリア480人、
* 1946年(S21)、腸チフス・パラチフス313人、ジフテリア293人、発疹チフス383人、戦後引き揚げ者とともに持ち込まれ流行した痘瘡が50人
* 赤痢は、S21~22年に仙台で約1000人、S25~S27には連続して爆発的に発生し、榴岡病院(仙台市立の伝染病専門病院)は、畳敷きの部屋まで病室に転用
・ 結核、社会各層に蔓延、S27年ころから目に見えて患者数、死亡率とも減少
・ 戦後、生活環境がもっとも悪化した時期で、ノミ、シラミ、ハエ、蚊、ダニなどが、S24年頃まで広範囲に発生、その後減少、ノミ、シラミ、ダニの類は全く姿を消した
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったという / 同年冬には仙台駅頭で撒布
<昭和30年代以降>
・ 小児マヒ 1959年(S34)に34人、1960年(S35)に18人 / 生ワクチン普及で発生激減
・ 赤痢、S35年の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)、S37年11月名掛丁に集団赤痢発生、S41年4月の集団赤痢216人
・ 腸チフス・パラチフス、29年以降は年間10人以下だったが、1967年(S42)9月、市内で集団発生あり患者57人
<榴ヶ岡病院(伝染病専門病院)・病名別収容患者数>
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P720に、「S20~42年度の伝染病別収容患者一覧表」 ・・・ S24年以降は、赤痢患者数が全伝染病のトップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81、P672~676、P682、P718~721
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戦後教育・仙台 |
学校給食 |
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<昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止
<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)
<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施
<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー)
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冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
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青年団 |
女子青年団 |
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<未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。
* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など
<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設
<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457
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広瀬川の清流を守る条例 |
制定 |
1974年(S49) |
<条例制定以前>
* 1956年(S31)から、アユを放流
* 1968年(S43)6月、カジカ500匹放流
<条例制定>
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209/「仙台市史 年表」P129
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P240(S28年ころ、広瀬川で水遊びする子ら)
/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209の写真61(カジカの放流)/「市民の戦後史(仙台市)」P212(S43年5月の稚アユ放流、S43年6月のカジカ放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P190(カジカ放流)と(釣り人たち)
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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警察署 |
仙台北警察署 |
1944年(S19)~ |
<東三番丁時代>
* 1944年(S19)3月31日、仙台警察署を廃止 / 4月1日、仙台警察署(東三番丁)が仙台北警察署になり、仙台南警察署(若林区堰場)開庁(「仙台市史 本編2」P653、「仙台市史10 年表」P307)
<荒巻へ移転>
* 1966年(S41)4月、従来の仙台北警察署の建物は仙台中央警察署となり、仙台北警察署は荒巻に新設移転した(「仙台市史 年表」P124、「重訂 宮城県郷土史年表」P625)
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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18-10、44-41、44-31/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807に、仙台中央警察署庁舎(元、北警察署)/同P803に、「中央署の新設に伴い新築した北署」(昭和41年4月)
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警察署 |
仙台中央警察署 |
1966年(S41)~ |
<東三番丁時代>
* 1966年(S41)4月1日、勾当台地区(定禅寺通り北側に面して)あった仙台北警察署の建物を仙台中央警察署(新発足)とし、仙台北警察署は荒巻に新設移転
<一番町4丁目へ移転>
* 1970年(S45)3月25日、仙台中央警察署が、現・一番町4丁目に新庁舎を建設(旧・仙台北税務署跡、森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)
* 1973年(S48)6月、仙台中央警察署で、東北初の交通管制システム始動
<五橋ヘ移転>
* 2005年(H17)、青葉区五橋1丁目(JR仙台病院の跡地の一部)に新築移転
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「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P20/Wikipedia「仙台中央警察署」(2020年7月)
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東北学院中学部 |
東二番丁(赤レンガ校舎)
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1922年(T11)
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<東二番丁・再建校舎=赤レンガ校舎>
・ 南町大火で焼失した東二番丁の旧校舎の跡地に再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1922年(T11)6月、新校舎建築(赤レンガ校舎)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災(外観は残る)
<名称変更>
* 1943年(S18)、中学部→中学校
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「東北学院創立七十年写真誌」P32~35 /「東北学院」HP
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「東北学院創立七十年写真誌」P33~35、P44、P60の写真
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高等学校(新制) |
東北学院中学校・高等学校(戦後期) |
1947年(S22)~2005年(H17) |
<東二番丁・新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)までに、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室、体育館など6棟完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成
<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成
<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)(「続・ 宮城県郷土史年表」P93)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見
<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成(重訂 宮城県郷土史年表」P564)
<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転
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「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P69~70/「重訂 宮城県郷土史年表」P564/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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<赤レンガ校舎> 62-11、36-03、36-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る)
<シュネーダー記念図書館>「東北学院創立七十周年写真誌」P63の写真
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物価上昇 |
地価狂乱(バブル) |
1987年(S62)~1991年(H3) |
<東京>
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰
<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272
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大学・短大 |
東北薬科大学 → 東北医科薬科大学 |
2016年(H28) ~ |
<東北医科薬科大学>
* 2016年(H28) 4月、法人名を「学校法人 東北医科薬科大学」に、大学名を「東北医科薬科大学」に、「東北薬科大学病院」を「東北医科薬科大学病院」に変更 / 医学部医学科開設 第1期生入学
* 2016年(H28) 4月、「東北医科薬科大学若林病院」開設
* 2017年(H29) 2月、医学部第2教育研究棟(地上2階建、延面積)完成
* 2017年(H29)9月、「東北医科薬科大学名取守病院」開設
* 2018年(H30) 1月、医学部第1教育研究棟(地上7階建)完成
* 2019年(H31) 1月、東北医科薬科大学病院 新大学病院棟(地上8階建)完成
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東北医科薬科大学HP(2018年)
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東北学院(沿革) |
戦前期 |
1891年(M24)~1945年(S20)夏 |
<東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置
<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う
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「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂)
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仙台七夕 |
天皇を七夕飾りで歓迎 |
1947年(S22) |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157
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S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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東北帝国大学 |
沿革(1) ~理科大学・医科大学・工学専門部~ |
1907年(M40)~1919年(T8) |
<東北帝国大学>
* 1907年(M40)6月22日、東北帝国大学、東京、京都につぐ3番目の帝国大学として仙台に創立(設置決定)
・創立に当たり新設経費として、古河虎之助、宮城県、北海道から寄付を受ける(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532)
・古河虎之助から40万6262円、宮城県から15万円、北海道から10万円の寄付(「重訂 宮城県郷土史年表」P338)
・日露戦争後の不況で国庫は不況で国庫は底をついていた。時の内相原敬は、古河合名社の副会長だったが、足尾鉱毒事件への世の批判を和らげ、東北帝国大学創設の行き詰まりを打開しようと、富豪に献金を行わせて100万余円を得た。赤レンガの校舎全部は古河の寄付によった。県の寄付15万円は設備備品費分であった。(「宮城県百科事典」P756)
<東北帝国大学農科大学(札幌)>
* 1907年(M40)9月、札幌農学校が東北帝国大学農科大学となる
* 1918年(T7)4月、農科大学が東北帝国大学から分離独立し、北海道帝国大学農科大学となる
<東北帝国大学理科大学 / 理学部>
* 1911年(M44)1月1日、理科大学を片平丁に開設(3月に、数学・物理学・化学・地質学の4学科12講座を置く)、9月11日授業開始(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532、宮城県百科事典」P756)
* 1913年(T2)9月22日、理科大学、「女性3名が入学して初の女性の帝国大学生となる」(「仙台市史 年表」P96)
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学理科大学が、東北帝国大学理学部に改編・改称される
・ 東北帝国大学理科大学の名称は、M44年~T8年の約10年間 / 理科大学の正門は、理科研脇にあった
<東北帝国大学医学専門部 / 医科大学 / 医学部>
* 1912年(M45)4月、仙台医学専門学校を合併して、医学専門部とする(T7年4月26日、廃止)
* 1915年(T4)7月14日、東北帝国大学医科大学開設
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学医科大学が、東北帝国大学医学部に改編・改称される
<医学専門部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照
<工学専門部>
* 1912年(M45)4月、仙台高等工業学校を合併して、工学専門部とする
* 1921年(T10)4月1日、工学専門部が分離独立し、再び仙台高等工業学校となる → 項目「仙台高等工業学校」参照
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東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27
設置年月などが下記年表と東北大学HP「沿革図」と異なる場合は「沿革図」を基本にした
「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P94、P95、P96、P97、P98、P100/「仙台市史10 年表」P239、P286、P313/「重訂 宮城県郷土史年表」P338、P348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532
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「新・目で見る仙台の歴史」P141(M44年、東北帝国大学開学式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P256(T5年、教師・学生記念写真、日本初の女子大生牧野らくも写る)/同P257(T2年、女子入学に対する文部省の意見書)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P263(女子入学を風刺する「東京パック」)
/理科大学は、18-18、99-063、99-064/医科大学は、99-066、53-60/「宮城県百科事典」P756~757(片平丁の大学本部写真、昭和4年頃の片平丁校舎構内)
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仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
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「番丁詳伝」P150~151
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高等学校(新制) |
東北電子工業高等学校/東北工業大学電子工業高等学校/東北工業大学高等学校/仙台城南高等学校 |
1960年(S35)/1965年(S40)/1994年(H6)/2013年(H25) |
<東北電子工業高等学校>
* 1960年(S35)10月、学校法人東北電子学院、設立
* 1961年(S36)4月、東北電子工業高等学校を開校
* 1961年(S36)4月、 東北大学片平キャンパス中央講堂で、開校式、第1回入学式 / 電子工学科、無線通信科、別科 / 東二番丁通りの仙台地方貯金局庁舎(現 仙台中央郵便局)とその元庁舎が仮校舎 / 二学期から太白区八木山松波町の校舎に移転
* 1964年(S39)4月、電子工学科を電子科に改称、無線通信の募集停止
* 1964年(S39)6月、普通科教室、体育館完成
<東北工業大学電子工業高等学校>
* 1965年(S40)4月、法人名を学校法人東北工業大学に改称(前年に東北工業大学を開学) / 学校名を東北工業大学電子工業高等学校に改称。
* 1966年(S41)4月、無線通信科を廃止、普通科を設置(普通科、電子科の2学科となる)
<東北工業大学高等学校>
* 1994年(H6)4月、 東北工業大学高等学校に改称 / 普通科を4コース(英数/文系/理系/教養)、電子科を4コース(制御技術/情報技術/電子技術/理数工学)とする
* 1999年(H11)4月、普通科を男女共学とする
* 2004年(H16)4月、電子科を男女共学とする
<仙台城南高等学校>
* 2013年(H25)4月、学校名を仙台城南高等学校に改称。特進科(文系/理系)、探究科(文系/理系)、科学技術科(メカトロニクス/情報通信/情報デザイン/電力技術)の3学科を設置
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P511/Wikipedia「仙台城南高等学校」2020年9月2日版
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フジビール |
販売開始 |
1921年(T10) |
<東洋醸造>
* 1919年(T8)、仙台の福島揁蔵が仙台市小田原長丁通に、東洋醸造を開業、フジビールを売り出す(「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347)
* 1921年(T10)9月23日、東洋醸造開業(小田原長丁通)(「仙台市史 年表」P100、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
<麒麟ビール仙台工場>
* 1923年(T12)8月に麒麟ビール株式会社に買収され、その仙台工場となる / 従業員224名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、「仙台市史 年表」P102、「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P78、P347/「仙台市史 年表」P100、P102/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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「目で見る仙台の歴史」P151と「新・目で見る仙台の歴史」P153に、「東洋醸造工場」(大正10年開業)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P347(大正11年ころ、東洋醸造工場内部)/「仙台はじめて物語」口絵写真(フジビール工場)
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<松島海軍航空隊への攻撃>
8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた
<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236
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東北大学 |
沿革(2) |
1958年(S33)~1989年(H1) |
<校舎建設 / 研究成果 / そのほか>
* 1958年(S33)4月14日、工学部校舎5棟焼失
* 1961年(S36)、青葉山・川内地区へ統合移転計画発表
* 1962年(S37)4月2日、川内に大学講堂竣工(二の丸勘定所跡、創立50周年記念)
* 1962年(S37)8月3日、東北地方国有財産審議会、青葉山開拓地を東北大学建設用地として払下げ決定
* 1962年(S37)12月12日、科学計測研究所に、わが国最大の大型太陽炉を建設
* 1964年(S39)3月18日、青葉山開拓地問題が解決し、川内への移転工事着手
* 1964年(S39)4月28日、工学部校舎起工式(青葉山)
* 1965年(S40)9月、農学部の青葉山移転拒否の無期限スト
* 1967年(S42)7月1日、電子リニアック研究所開設
* 1969年(S44)3月、青葉山に工学部校舎完成、移転
* 1969年(S44)4月14日、教養部、火事で2教室を焼く
* 1973年(S48)9月、二の丸跡に、文科系研究・講義棟完成
* 1975年(S50)、片平丁構内に100万ボルト電子顕微鏡取付
* 1975年(S50)12月5日、薬学部(青葉山)に全国初の実験動物慰霊碑建立
* 1976年(S51)4月1日、大学評定河原球場を市民に開放
* 1976年(S51)5月23日、工学部(青葉山)で八木アンテナ八木秀治の胸像除幕
* 1984年(S59)9月、工学部金属材料工学科特殊金属研究室、KS鋼の40倍の強さのスーパー磁石開発
* 1986年(S61)8月、電気通信研究所で、簡易型走査トンネル顕微鏡開発
* 1986年(S61)11月3日、青葉記念館建設(仙台高等工業学校創立75周年・東北大学工学部創立60周年記念)
* 1987年(S62)2月13日、工学部と金属材料研究所が、強磁場に耐える超伝導材料開発
* 2017年(H29)4月、農学部が青葉山新キャンパスへ移転
<学部・大学院・附置研究所等一覧>
最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
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東北大学HP/東北大学HP掲載「沿革図」
/「重訂 宮城県郷土史年表」P588、P604、P605、P607、P613、P633、P648/「続・ 宮城県郷土史年表」P23、P42、P48、P53、P55、P181、P210、P213、P219/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P299/「市民の戦後史(仙台市)」P39
年月日などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
1989年(H1)以降の年表は、東北大学HP記載「沿革」)参照https://www.tohoku.ac.jp/japanese/profile/about/02/about0203/
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「市民の戦後史(仙台市)」P39/同P141(東北大学科学計測研究所の太陽炉、川内の記念講堂)/同P178(青葉山に建設された東北大学の新校舎群)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(画面左上に、記念講堂、S38、カラー)/「宮城県百科事典」757(理学部、川内キャンパス)
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梅田川清掃運動 |
開始 |
1965年(S40) |
<梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した
* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足
* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)
<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流)
/同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業)
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宮城県図書館(戦後) |
榴ヶ岡へ移転/泉区へ移転 |
1968年(S43)/1998年(H10) |
<榴ヶ岡へ>
* 1968年(S43)1月17日(18日?)、榴ケ岡に新築移転し開館
<泉区柴山へ>
* 1998年(H10)3月21日、泉区芝山に新築移転し、開館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P637/「市民の戦後史(仙台市)」P208
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「市民の戦後史(仙台市)」P208(榴ヶ岡の宮城県図書館外観、閲覧室)
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