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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
民間放送(仙台) |
東北放送(TBC) |
1952年(S27)/1959年(S34) |
<ラジオ仙台>
* 1951年(S26)10月30日、仙台放送創立総会
* 1952年(S27)4月5日、ラジオ仙台JOIR正式に許可
* 1952年(S27)5月1日、ラジオ放送開始(ラジオ仙台)、コールサインJOIR(スタジオはレジャーセンターの一室) / 開局日のプログラム(「仙台市史 続編第2巻」P270) / その後、東二番丁の河北新報社隣に新社屋建設
<テレビ>
* 1958年(S33)12月31日、東北放送テレビ塔が八木山に完成
* 1959年(S34)4月1日、テレビ放送開始(東北初の民間テレビ局IRTV)、コールサインJOIR-DTV
* 1964年(S39)10月1日、カラーテレビ放送開始
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<ラジオ>「仙台年表」P222、P224/「仙台市史10 年表」P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P205、P270
<テレビ>「仙台市史 年表」P120、P121/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P616/「目で見る仙台の歴史」P196
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「目で見る仙台の歴史」P193(河北新報社と東北放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(社屋と送信アンテナ)/同P196(東北放送テレビ塔)
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仙台市営バス |
戦後(2) |
1965年(S40)~1986年(S61) |
<ワンマンバス化>
* 1965年(S40)7月16日、市内路線のワンマンバス化を開始、12路線(台原線、川内線など)52両(全車両の13%)
* 1946年(S41)7月、新規に9路線40台/年度末には102両で、全体の25%
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)11月20日、バスは、中乗り前降りに統一
* 1975年(S50)9月1日、均一区間料金を50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月6日、団地10路線増便、7路線にワンマンバス運行
* 1976年(S51)、乗車人員、年1億616万人
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)11月23日、ひまわりバス実施
* 1981年(S56)3月、路線別プレート登場
* 1982年(S57)12月16日、人事院勧告凍結抗議ストで、346本運休
* 1982年(S57)12月24日、抗議スト1200本運休
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1984年(S59)7月1日、市営バスは、行き先表示に番号制実施
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1986年(S61)、乗車人員、年9206万人(10年前より13余%減)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P525/「仙台市史 年表」P124/「市電年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P34、P44、P45、P73、P85、P103、P125、P154、P168、P172、P178、P215/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
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201-08/「市民の戦後史(仙台市)」P167(ワンマン表示のバス)
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三原時計店 |
(旧)大町5丁目へ移転 |
1896年(M29) |
<三原本店HP>
* 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置
<「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218>
「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」
<「仙台老舗百店史」P208、P217>
「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」
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三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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43-25、22-57
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺 |
1949年(S24)~1952年(S27) |
<不法建築物の強制撤去>
・ 「(敗戦後の仙台では)仙台駅前周辺や東一番丁、南町通りには不法建築のバラックが約1000軒、中でも仙台駅周辺では密集してヤミ商売が横行、「東北の上海」と呼ばれていた / 市は、立ち退き勧告に従わない露店を強制撤去
* 昭和24年4月、全国ではじめての代執行が行われた / 当日は約100人の作業員がトラック十数台を用意して待機し、不法占拠者が家財道具を運び出すのを待ってから建物を強制撤去 / 泣き叫ぶ女性、怒号が乱れ飛んだが、200人の警察官が動員されたほか、米軍MP(憲兵)も出て監視したのでそれ以上の抵抗はありませんでした / 以後数回、建築物の強制撤去が実施された。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P255~256)
・ 1949年(S24)3月~1952年(S27)12月に実施
・ 街路用地や不在者宅地内に無許可で建てたバラックなど集団的不法建築(仙台駅前の2つのマーケット街など)
・ 立ち退きに応じず、強制執行された一覧表に19件
→「仙台市史 続編第1巻」P346の表80(写真番号98-034)
* 中でも、S24年4月18日、駅前の東五番丁・南町通り交差点東北角(26戸)の強制撤去は、警察官500人出動しものものしい警備の中で、県と市の職員が代執行
* S24年3月、東一番丁・広瀬通交差点付近8戸
* S24年3月16日、東五番丁・南町通角付近の商店街火災(47戸全半焼)→同年4月18日、道路予定地に残った26戸を県が代執行、住民を臨時仮収容所に収容(市警察の警官250人出動、米軍憲兵が鳳月ビル2階から監視) / 退去した住民の大半は、西公園拡張予定地として空き地だった仲ノ町(のちの市民プール付近)周辺に住みつく→その後にまた代執行(S33年7月~年末)
* S24年4月18日、東五番丁・南町通り東北角26戸
* S24年10月10日~31日、青葉通り予定地の仙台駅前マーケット80戸に対し、市が撤去代執行
* S24年12月3日、青葉通りの不法建築28戸に退去代執行し、青葉通り貫通(東五番丁・名掛丁付近の36戸のうち立退きに応じない28戸に開始しようとしたら、自発的に立ち退く)
* S25年3月、仙台駅前の新興マーケット14戸
* S25年5月22日、仙台駅前青葉通りの露天商立ち退き問題で小競り合い、警官出動し強制撤去
* S25年7月、東五番丁の国際マーケット28戸
* S25年7月27日、青葉通りの違反建築30戸に代執行、警官も出動し緊迫
* S25年11月27日、南町通りの区画整理で27戸を代執行、東二番丁教会を除き貫通
* S25年12月8日、東一番丁拡張工事反対の120戸に立退き命令
* S26年7月4日、元寺小路・日吉町45戸
* S26年9月11日、青葉通・東五番丁角付近以西の69戸、市が代執行
* S27年4月11日、日吉町・名掛丁45戸
<立ち退き者の住宅対策>
・ S24年、花京院通に115㎡の臨時収容所設置、のにち小田原裏山本丁に移転
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P255~256/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345~348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P830、P832~835/「戦災復興余話」P46~49/「番丁詳伝」P165
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98-034(不法建築物の強制撤去一覧表)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール)
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週休二日制(官庁) |
全国/宮城県内 |
1976年(S51)/1989年(H1) |
<中央>
* 1976年(S51)10月、政府、国家公務員の週休2日制を試行(4週の1土曜休)
* 1981年(S56)3月29日、国家公務員の週休2日制(4週5休)実施
* 1989年(H1)2月、政府機関は、毎月第2、第4土曜を閉庁
<宮城県>
* 1989年(H1)1月1日、県庁でも隔週土曜日閉庁をほぼ実施
* 1990年(H2)1月、仙台市は第2、第4土曜日の休庁実施(同年7月から月2回の土曜日閉庁実施)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P70、P74、P75、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P258、P266
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東北学院中学校・高等学校 |
宮城野区小鶴に移転 |
2005年(H17) |
<中学校・高等学校移転 東二番丁→小鶴>
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校新校舎完成(仙台市宮城野区小鶴)
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「東北学院」HP
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東北学院中学校・高等学校 |
東二番丁(戦後) |
1945年(S20)~2005年(H17) |
<中学部>
* 赤レンガ校舎継続使用
<東二番丁・戦後 新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、(新制)東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、(新制)東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成
<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成
<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見
<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成
<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転
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「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P70/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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赤レンガ校舎は36-03、36-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る)
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仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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七十七銀行 |
他行を合併 |
1927年(S2)、1932年(S7) |
<他行を合併>
* 1927年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
* 1931年(S6)11月27日、東北実業銀行、五城銀行と合併仮契約書(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)1月31日、七十七銀行が、東北実業銀行、五城銀行と合併し、七十七銀行に(「重訂 宮城県郷土史年表」P429)
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P356」より>
「七十七銀行は、第一次大戦後は、『米の七十七、繭の商銀』とうたわれ、宮城商業銀行とともに、県内各地に支店網を形成していった。 しかし(片倉製糸などの器械製糸工場におされて、取引先の)座繰製糸の不振によって、宮城商業銀行は大きな不良貸し付けを抱えることになり、1927年(S2)の金融恐慌をきっかけとして、仙台興業銀行ともに七十七銀行に合併されることになった。 さらに、七十七銀行は金融恐慌のさなかの1932年(S7)に東北実業銀行と五城銀行を合併し、仙台を中心とした地方の金融機関として生き残っていくことになる。」
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「仙台市史10 年表」P277/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P429/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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高橋是清 |
暗殺 |
1936年(S11) |
<仙台との縁> 1854年(嘉永7年)閏7月27日、江戸芝中門前町(現東京都港区)に幕府絵師川村庄右衛門の私生児として生まれ、間もなく仙台藩の足軽高橋覚治の家に里子に出され後養子となる(Wikipedia「高橋是清」より)
日銀総裁、蔵相、政友会総裁、首相を歴任
* 1936年(S11)2月26日、2・26事件で暗殺される
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Wikipedia「高橋是清」
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82-01
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仙台ホテル(前身の大泉旅館支店) |
仙台駅前に開業 |
1887年(M20)頃 |
<仙台ホテル前史>
* 1850年(嘉永3年)、国分町に大泉旅館開設(「番丁詳伝」P133)
* 1887年(M20)、国分町の旅籠「大泉屋」が、日本鉄道開通に合わせて仙台駅前に支店を開業 / 2階建ての切妻造平入り町屋建築で、1937年(昭和12年)まで使用された(Wikipedia「仙台ホテル」)
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「番丁詳伝」P133/「目で見る仙台の歴史」P124/「仙台市老舗百店史」P129/Wikipedia「仙台ホテル」
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「目で見る仙台の歴史」P124に、開業当時の大泉支店
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自動車専用道 |
仙台南部道路(旧・仙台南有料道路) |
1981年(S56)/2001年(H13)
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<仙台南有料道路>
* 1981年(S56)1月31日、仙台南有料道路として、山田料金所(現・山田IC)付近~長町出入口間開通 / 当初の制限速度は50km/h
<仙台南部道路>
* 1994年(H6)3月30日、仙台若林JCT~山田仮出入口間開通 / 同時に、長町仮出入口を廃止し、今泉IC・長町IC供用開始 / 仙台南部道路に路線名改称 / 制限速度は60km/h
* 1995年(H7)8月、地域高規格道路(都市圏自動車専用道路等)の「整備区間」に指定
* 2001年(H13)8月1日、仙台南IC~山田IC間開通 / 同時に、山田仮出入口廃止し、山田ICおよび山田TB(本線料金所)供用開始 / 制限速度を従来の60km/hから70km/hに引き上げ / 東北自動車道に接続(これで、仙台南IC~若林JCT間12.2kmが全通)
* 2013年(H25)7月1日、宮城県道路公社から東日本高道路株式会社に有償移管
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「仙台市史 年表」P132/Wikipedia「仙台南部道路」(2020年7月)
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仙台国際センター |
開館 |
1991年(H3) |
<仙台国際センターHPより要約>
・ 仙台国際センターは「会議棟」「展示棟」で構成され、一体利用することで6,000人規模の大規模催事が開催可能 / 外観は、仙台城跡・脇櫓の近くという立地条件から城のイメージを現代風にアレンジ、各会議室内の天井も青葉山の山並みや仙台湾のさざ波などがイメージされている / 無柱の展示室(3000㎡)、1,000名収容の大ホールや展示・レセプションホール、大・中・小会議室、市民が自由に出入りできるフリースペースがある / 北側の「せんだい青葉山交流広場」は、イベント会場や駐車場として利用可能(約19,000㎡)
* 1991年(H3)9月、仙台国際センターが開館(川内の青葉山公園内に)(3月に会議棟完成)
* 2015年(H27)、展示棟が完成
* 2015年(H27)12月、仙台市営地下鉄東西線「国際センター駅」開業
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仙台国際センターHP「施設ガイド」
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乳銀杏(苦竹のイチョウ) |
国の天然記念物に指定 |
1925年(T15) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。 樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」
* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定
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「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」
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99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86
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遠見塚古墳 |
国の史跡に指定 |
1968年(S43) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部、広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古墳である。1947年(S22)に駐留米軍の霞目飛行場拡張工事により後円部の北側半分が削られ、さらに仙台バイパスの計画路線に入る等破壊の危機にさらされたが、昭和43年に国の史跡に指定され、昭和55年には周辺部が追加指定となり、史跡公園として整備され、恒久的保存が図られた。昭和50年から昭和57年にかけて古墳の環境整備に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の割竹形木棺と副葬品として碧玉管玉(くだたま)、ガラス製小玉、竹製黒漆塗り竪櫛等が発見された。この古墳に埋葬されたのは、当時仙台平野一帯を支配した豪族と考えられ、構造や出土品から古墳時代末の4世紀末頃に築造されたものと考えられている。」
* 1968年(S43)、国の史跡に指定
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P86(古墳空撮)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図88~89(畑地時代空撮、H6空撮カラー)
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龍宝寺の木造釈迦如来立像 |
国の重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
木造釈迦如来立像は,京都嵯峨の清涼寺にある木造釈迦如来立像(国宝)の模刻像である。清涼寺の釈迦如来像は,東大寺の僧ちょう然が宋に渡り,釈迦の在世中にその姿を生き写しにして製作されたと伝えられる印度伝来の像を模して造らせ,寛和3年(987)に日本に持ち帰ったもので,いわゆる三国伝来の霊像である。鎌倉時代にはこの像を模刻して信仰することが全国的に盛んになった。龍宝寺の釈迦如来像もこうした模刻像の一つであるが,原像に忠実に倣ったものであり,鎌倉時代の早いころの作とされる。なお頭部内側に大永3年(1523)の修理銘がある。縄紐を同心円状に束ねたような頭髪,胸部の同心円的な衣文(えもん)の表現,両股の部分のY字型の扱いによくその異国風の特徴がみられる。この像は,もとは栗原郡金成の福王寺にまつられていたが,元禄年間(1688~1703)に四代藩主伊達綱村の命によって龍宝寺に移されたという記録がある。ヒノキ材 寄木造 像高160.3cm (龍宝寺所蔵)
* 1903年(M36)04月15日、国の重要文化財に指定
・ 「龍宝寺」は真言宗御室派別格本山で、青葉区八幡4丁目にある
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仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」
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「市民の戦後史(仙台市)」P87
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名掛丁商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰)
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新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
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臥竜梅 |
国の天然記念物に指定 |
1942年(S17) |
<仙台市HPより「仙台市内の指定・登録文化財」より>
臥竜梅(朝鮮ウメは、伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰り仙台城に植えた後、晩年の居城である若林城内に移植したと伝えられる。現在の朝鮮ウメは,政宗が持ち帰ったものを接木した二代目であると言われる。臥龍梅としては稀有な品種で,国内最大級の大きさである。かつて中央部にあった樹高9m,幹周1.52mの主木は、昭和51年(1976)の台風で倒れ枯れてしまったものの、3株に分かれていた樹幹がその後良好な樹勢を保ち、春には香り高い白一重の大輪の花を咲かせる。 樹種ウメ(バラ科) 幹周1.3m 樹高約8.0m 枝張 東西約17m,南北約22m 推定樹齢360年
* 1942年(S17)9月19日、「臥竜梅」(若林区古城2丁目)が、国の天然記念物に指定
* 1954年(S29)5月、強風で宮城刑務所(旧若林城址)の「臥竜梅」折れる
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「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」/「市民の戦後史(仙台市)」P81
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「市民の戦後史(仙台市)」P81
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和戦後期 |
<仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
(以上、昭和末年まで)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250
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公民館 |
仙台市公民館/仙台市中央公民館/市内各地区の公民館 |
1946年(S21)~ |
<仙台市公民館 → 仙台市中央公民館>
* 1946年(S21)10月1日、民主団体を主体に仙台市の助力により「仙台公民館」を設置(大町頭の仙台医師会館内に)/11月12日開館(「仙台市史10 年表」P314では、名称が「仙台市公民館」)
* 1950年(S25)11月、仙台公民館を発展解消して「市立仙台公民館」を常盤丁1番地に設置(仙台市公会堂に併設、12月17日開館式)(仙台市公会堂に併設)
* 1973年(S48)3月、「仙台市公民館」を、「仙台市中央公民館」と改称
* 1983年(S58)4月10日、仙台駅東口に完成したパルシティー仙台内に移転開館
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仙台市内各地区の公民館
・ 市民の教養講座や、趣味の活動、文化事業、スポーツ・レクリエーション活動の主たる担い手
<新築移転した学校の旧校舎と体育館を使用し開設>
* 1967年(S42)、長町公民館
* 1968年(S43)、高砂公民館
* 1969年(S44)、中田公民館
・ 地域住民による公民館運営管理協力委員会設置され、住民意向を反映、警備や清掃を業務委託
<その後の公民館の開設年>
* 1972年(S47)、八乙女公民館
* 1976年(S51)、熊ヶ根に宮城西公民館
* 1977年(S52)、馬場公民館
* 1978年(S53)、将監公民館
* 1979年(S54)、湯元公民館、南光台公民館
* 1982年(S57)、岩切公民館
* 1983年(S58)、七郷公民館、加茂公民館
* 1986年(S61)、柏木公民館
* 1988年(S63)、一番町公民館
<仙台市に合併前の各市町村の公民館>
* 1949年(S24)9月以降、県内各市町村に「市町村立公民館」を設置
* 1949年(S24)、生出村に公民館設置(1956年より仙台市公民館生出分館に)
* 1951年(S26)4月、秋保町に公民館(16分館)
* 1955年(S30)2月、宮城町に公民館設置(25分館)
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「仙台市史 年表」P128、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P513~514、P537、P545/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P453~455/「仙台市史 特別編4 市民生活」P285~286
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パルシティーは、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P117(S62、カラー、ブルーの網かかったビルの左隣)
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自動車など各種車両台数 |
自転車(仙台市/宮城県内) |
1889年(M22)~1935年(S10)頃/1918年(T7) |
<仙台市内>
* 1889年(M22)、5台(「番丁詳伝」P63)
* 1897年(M30)、30台(「番丁詳伝」P63)
* 1905年(M38)、213台(「番丁詳伝」P63)
* 1916年(T5)、1652台(「番丁詳伝」P63)
* 1935年(S10)頃、2万1978台(「仙台の産業と観光」P27)
<宮城県内>
* 、1万台を越える(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
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「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)/「仙台の産業と観光」P27/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193
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、
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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自動車専用道 |
三陸自動車道(旧・仙台松島有料道路) |
1982年(S57)/1993年(H5)/2002年(H14) |
<仙台松島有料道路>
* 1982年(S57)10月1日、初原~根廻間、開通(のちの松島大郷IC・松島北IC間に当たる)
* 1986年(S61)9月27日、利府中IC~松島大郷IC間(11.5km)開通(これにより仙台松島有料道路が全線開通)
<三陸自動車道>
* 1993年(H5)3月25日、松島北IC~鳴瀬奥松島IC間開通 / 同時に、従来の仙台松島有料道路を含む、利府中IC~鳴瀬奥松島ICを、三陸自動車道に改名
* 1997年(H9)3月27日、仙台港北IC~利府中IC間開通
* 1998年(H10)3月20日、鳴瀬奥松島IC~石巻河南IC間開通
* 2001年(H13)6月6日、利府塩釜IC供用開始
* 2001年(H13)8月1日、仙台港北ICで仙台東部道路と接続
* 2002年(H14)5月19日、利府JCT開通により仙台北部道路と接続
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「続・ 宮城県郷土史年表」P151、P211/Wikipedia「三陸自動車道」(2020年7月)
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仙台空襲 |
米軍機、テニアン島を発進 / 警報発令 |
1945年(S20)7月9日 |
<仙台空襲(米軍機発進)>
* 1945年(S20)7月9日午後5時14分、マリアナ諸島テニアン島の西基地から、第58航空団B29爆撃機123機が離陸(1機は離陸に失敗し離脱) / 午後11時半すぎ、千葉県房総半島沖に到達、福島県相馬市松川浦上空からやや西に転じ亘理、岩沼を経て仙台へ
<警報発令>
* 1945年(S20)7月9日午後9時30分、東北南地区(宮城、福島両県)に警戒警報発令、10時22分に解除(仙台周辺の天候、風向き観測のため飛来したB29(1機)に対応した警報だった)
* 大編隊に対しては空襲警報発令が遅れた
午後10時56分警戒警報発令、10日午前零時5分に空襲警報発令され、仙台では市役所屋上からのサイレンが4回鳴ったところで途絶える(すでに空襲始まっており、爆撃で電線が切断されたため) / 警報が遅れたのはこの夜の当番の判断ミス
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210~212
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戦災復興都市計画事業 |
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計画策定 |
<仙台空襲で壊滅的被害>
* 1945年(S20)7月10日、米軍機による仙台空襲で、仙台市中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失 / 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」(仙台市開発局『仙台市戦災復興誌』 1981年)
・ 焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う(「戦争のころ 仙台、宮城」P220)
→ 当サイトの項目「仙台空襲」参照
<県による復興計画>
* 1945年(S20)12月、宮城県復興建築課を新設、復興計画始動
・対象地域
① 戦災に遭った仙台市中心部 ②川内の旧陸軍用地 ③一部が戦災に遭った米ケ袋
川内は、米軍の要求で中止、米軍に接収され、「キャンプ・センダイ」用地となる
米ケ袋も見送られて、事業が行なわれたのは市中心部だけ
・事業総面積 290ha(皇居の2.5倍)
・区画整理方式のため、仙台の減歩率25%(自分の土地の4分の1を事業のため提供)
<仙台市が県の計画を引き継ぐ>
* 1946年(S21)4月、仙台市復興委員会発足(市議24人全員、学識経験者20人)設置
・23人の常任委員会で週1回のペースで街路、公園の予定地を訪れ検討し決定(例:東一番丁通りは8mを15mに拡張)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220、P250~251
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仙台空襲 |
東北軍管区司令部発表 |
1945年(S20)7月10日 |
<仙台空襲につき、東北軍管区司令部発表>
(空襲から8時間後の昭和20年7月10日午前10時)
「敵B29約百機は、今10日午前零時5分ごろより約2時間30分にわたり仙台中心部に対し無差別焼夷攻撃を加え来たり。市内各所に火災発生するも午前5時頃にはおおむね鎮火せり。市民はかねて準備したる食料ならびに付近町村よりの炊き出しにより直ちに配給を受け、指定収容所に復帰し、鎮静に帰しつつあり」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
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仙台空襲 |
米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制 |
1945年(S20)5月~7月9日 |
<仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告
<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)
<警報発令の体制>
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 |
1945年(S20)7月14日~8月10日 |
<仙台空襲後の空襲(宮城県内)>
・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた
・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した
・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回
・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった
・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射
・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた
・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231
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発電事業 |
仙台電力 |
1908年(M41)~1911年(M44) |
<仙台電力株式会社>
* 1908年(M41)6月23日、仙台電力株式会社、国分町に設立
この年に、宮城郡大倉村岩下に大倉発電所建設着手
* 1908年(M41)、仙台電力株式会社設立、供給区域は仙台市東部、岩切村、高砂村、茂ケ崎村の一部、中田村、西多賀村のほか、宮城、名取、亘理郡下の町村で、1910年(M43)に営業開始
* 1910年(M43)4月1日、仙台電力、大倉発電所の運転開始
<仙台市が買収>
* 1911年(M44)7月1日、仙台市、仙台電力株式会社を買収し仙台市電気部を設置
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「仙台市史 年表」P94、P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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火災(地域) |
東一番丁大火 |
1933年(S8) |
<仙集館と東一番丁大火>
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し、52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P232/「番丁詳伝」P131
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東北大学 |
仙台市内4キャンパス |
2020年現在 |
<以下は、「東北大学」HP(2020年)より転記>
東北大学には、仙台市内に4つのキャンパスがあります。
<片平キャンパス>
仙台市中心部に位置する片平キャンパスは、1907(明治40)年に東北帝国大学が創設された本学発祥の地で、金属材料研究所、電気通信研究所など世界的な研究成果を挙げている研究所や大学本部などが設置されています。
<川内キャンパス>
川内キャンパスは旧青葉城内に位置しており、本学の附属図書館本館が設置されているのをはじめ、近隣には宮城県美術館・仙台市博物館・仙台国際センター等が点在する、仙台随一の文教地という環境にあります。全学の1・2年生は、主に川内北キャンパスにおいて全学教育科目等の講義を受講し、文系4学部の主に3・4年生及び大学院生が、川内南キャンパスで学び研究をしています。
<青葉山キャンパス>
青葉山は仙台市の中心部から西に数キロの距離に位置しながら、豊かな自然が現存する希少な場所です。青葉山キャンパスには、理学部、薬学部、工学部等があり、この3学部は主に3・4年生と大学院生が勉学に研究に日夜研鑽を重ねています。<編者注>農学部は、青葉山キャンパス、川渡地区キャンパス(大崎市鳴子温泉字蓬田)、女川地区キャンパス(女川町)
<星陵キャンパス>
星陵キャンパスは、大学病院をはじめ、医学部、歯学部、加齢医学研究所等が設置され、地域医療の中核的拠点となっています。ここでは、医学部・歯学部の主に2~6年生と大学院生が勉学・研究に励んでいます。南に15分ほど歩くと、県庁・市役所及び東北一の繁華街である一番町があります。
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「東北大学」HP(2020年)>ホーム>大学概要>キャンパス
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国鉄(戦後) 1 |
東北本線以外 |
1945年(S20)夏~1965年(S40) |
<以下は、東北本線、常磐線、仙山線、仙石線を除く、戦後の国鉄関連>
東北本線関連は、→ 項目「国鉄(東北本線)」に
常磐線関連は → 項目「国鉄(常磐線)」に
仙山線関係は、→ 項目「国鉄(仙山線)」に
仙石線関係は、→ 項目「国鉄(仙石線)」に
* 1945年(S20)7月5日、国鉄運賃25割値上げ、仙台・東京間往復乗車賃210円となる
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に(「菅家年表」P35)
* 1945年(S20)10月2日、進駐軍専用の「白帯列車」の運転開始
* 1945年(S20)11月20日、仙台鉄道局、急行列車復活
* 1949年(S24)6月1日、日本国有鉄道(国鉄)と日本専売公社、設立
* 1950年(S25)8月1日、機構改正で、仙台鉄道局は仙台鉄道管理局となる
* 1952年(S27)2月28日、米軍専用の客車「白帯車」を廃止(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)4月1日、進駐軍のRTO(米軍鉄道輸送司令部)廃止、国鉄の自主運行となる(「菅家年表」P46)
* 1952年(S27)9月1日、仙台自動車営業所、貨物運送開始
* 1954年(S29)5月1日、長町操車場営業開始(当時、北日本最大規模、1日3000輌をさばく)
* 1954年(S29)12月20日、国道4号線と東北本線の立体交差橋完成(長町諏訪)
* 1957年(S32)1月16日、仙台に東北支社設置
* 1958年(S33)4月16日、宮城野に仙台貨物駅起工式
* 1960年(S35)7月1日、新運賃制で三等を廃止(2、3等車を1、2等車に改め、3等車の赤切符を廃止)
* 1961年(S36)6月1日、宮城野貨物駅スタート
* 1965年(S40)9月24日、電子計算機による「みどりの窓口」開設
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「仙台年表」P215/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P544、P558、P573、P575、P584、P588、P597、P600、P621/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P46、P54
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「市民の戦後史(仙台市)」P134(S36年6月営業開始した宮城野貨物駅)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P46(S33年頃、長町操車場)/同P47(S33年頃、長町操車場の転車台)/同P111(S58、長町操車場、カラー)
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町 |
1958年(S33) |
<仲ノ町の集団占拠>
・ 西公園の一部として公園緑地帯に指定された仲ノ町地区広瀬川岸の3.5haに、戦災で行き場所を失い追い詰められた生活困窮者や朝鮮人約1000人が無許可でバラックを建て住む
・ 1956年(S31)6月の市調査では、231戸347世帯、999人(うち朝鮮人が93人)居住
・ 通路は迷路状で密造酒、麻薬の巣窟、犯罪者の逃避場ともいわれ、市の調査員に警官同行した場合あり
・ 1958年(S33)7月26日、制服私服警官を配して、13戸を強制撤去、以降2~3戸ずつ順に代執行、自主移転者もいたが、12世帯(40人)は最後まで残った
・ 1960年(S35)、跡地に市民プール(東北電力が建設し市に寄付)着工し、最後まで残った世帯を臨時収容所に収容しS35年末までに完了・解決した
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P347~348/「番丁詳伝」P165
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養種園 |
開園 |
1900年(M33) |
<伊達家が開設>
* 1900年(M33)年4月、伊達家養種園、伊達邦宗により開設(保春院前丁) / 品種改良を目的に国内、欧米各地から種子・苗木を求めて品種改良をはかり、仙台白菜の品種としての固定化、ソールダムの紹介普及、めん羊の試験飼育など各種の先駆的試験栽培、飼育を行い、これを県農会や各農家に分譲配布
<仙台市が借受け → 買収>
* 1943年(S18)、戦時中中断したので、仙台市が借受け、本来の研究とともに市立動物園の動物用餌を栽培(動物園は戦争激化によりS20年4月閉園)
* 戦後、「仙台市指導農場養種園」と改称
* 1955年(S30)(またはS31年)12月、仙台市、伊達家から借用していた養種園を買収(4万㎡)、「仙台市養種園」とする / 育種研究を都市近郊農業にふさわしい果樹、球根、花き類に重点を置き、あわせて市民対象の園芸講習会、バラまつり、チューリップまつり開催、球根、種苗の販売、植物ドック開設など
* 1973年(S48)9月1日、養種園に真山青果文学碑除幕式
<仙台市農業園芸センター>
* 1989年(H1)6月17日、仙台市、仙台市養種園を発展・改称した仙台市農業園芸センターを荒井に開設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206、P658/「仙台市史 年表」P91、P119、P136/「続・ 宮城県郷土史年表」P23/「市民の戦後史(仙台市)」P95(バラ祭り)
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新産業都市 |
仙台湾地区を指定 |
1964年(S39) |
<全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪
<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)
「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり
<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)
<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
************************************
<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式
・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮)
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警察(戦後) |
警察官 |
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<全国>
* 1946年(S21)1月16日、警官がピストル携行となる
* 1946年(S21)3月16日、婦人警官(65人が入所式)、4月27日から街頭へ
* 1946年(S21)7月20日、警官のサーベルを廃止
* 1950年(S25)1月10日、警官の拳銃常時携行となる
<宮城県>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P367)
* 1946年(S21)10月、宮城県でも婦人警察官21人採用
(応募は、17~39歳まで、大陸から引揚げてきた未亡人も含め96人が応募) / 12月24日に仙台北警察署に11名、南警察署に6名配属 / 青少年補導が主な活動の場
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P36、P44/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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レッドパージ |
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1950年(S25) |
<全国>
* 1948年(S23)1月6日、米陸軍長官ロイヤル、サンフランシスコで日本を反共の防壁にすると演説
* 1950年(S25)5月3日、マッカーサー元帥、憲法記念日の声明で共産党の非合法化を示唆
* 1950年(S25)6月6日、マ元帥、共産党中央委員24人全員の追放を指令
* 1950年(S25)6月26日、マ元帥、「アカハタ」の30日間発行停止を指令 / 7月18日、無期限停止
* 1950年(S25)7月24日、企業のレッドパージ始まる
* 1950年(S25)9月1日、閣議、公務員のレッドパージの基本方針を正式決定
<宮城の事例>
* 1950年(S25)8月26日、レッドパージで、東北配電、日本発送電東北支店従業員433人が解雇される
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/「仙台年表」P220
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戦時衣料 |
衣料品購入価格高騰 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
<公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難)
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「仙台市史 特別編5 市民生活」P54
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第一高等学校の前史 |
1892年(M25) |
<前史1>
* 1874年(M7)3月29日、「官立宮城外国語学校」、東二番丁の漢学校跡に設置
* 同年12月27日、「官立宮城英学校」と改称
* 1877年(M10)2月14日、官立宮城英学校廃止
* 同年2月26日に教育内容を継承した「県立仙台中学校」が開校
* 1879年(M12)6月26日、「宮城中学校」と改称
* 1886年(M19)9月、「宮城尋常中学校」
* 1888年(M21)3月24日、宮城(県?)尋常中学校廃止
<前史2>
* 1892年(M25)4月1日、「宮城県尋常中学校」、前月に廃校となった東華学校の校地(清水小路、初代校舎)や機能を引継いで開校
* 1899年(M32)4月1日、「宮城県中学校」と改称(同年7月20日に本校が南六軒丁(第2代校舎)に移転し、清水小路の本校地には分校が勾当台通から移転)
* 1900年(M33)4月1日、「宮城県第一中学校」と改称
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県第一中学校」と改称
* 1904年(M37)3月31日、清水小路分校廃止
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立仙台第一中学校」と改称
* 1907年(M40)1月24日、校舎が全焼
* 1908年(M41)9月1日。校舎を元茶畑に新築移転 / ほぼ同様の規模外観の校舎(第3代校舎)となった(本館の屋根の形が少し違う=明治の洋風建築-宮城県- P65)
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県仙台第一中学校」と改称
* 1941年(S16)5月24日、旗立修練道場竣工
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「仙台市史 年表」P80、P82、P86、P91、P92、P94/「明治の洋風建築-宮城県-」P64「宮城県第一中学校」/「宮城県百科事典」P594「仙台第一高等学校」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505/「宮城県仙台第一高等学校」HP
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99-072(M32年~M40年1月の校舎)/「目で見る仙台の歴史」P120に、清水小路の東華学校校舎(宮城尋常中学校使用時代)/同P133に、「宮城県第一中学校」(M33年4月~37年5月の学校名)
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高等学校(新制) |
宮城県第二女子高等学校/宮城県仙台二華中学校・高等学校 |
1948年(S23)/2010年(H22) |
<前史 1 東華学校、私立東華高等女学校>
* 1886年(M19)9月11日、「宮城英学校」が清水小路に開校
* 1887年(M20)6月17日、「東華学校」と改称
* 1904年(M37)5月13日、「私立東華女学校」が県立宮城第一中学校清水小路分校跡に開校
* 1905年(M38)4月1日、「私立東華高等女学校」と改称
* 1908年(M41)、東九番丁に移転したときに、旧東華学校(M30年設立)の本館を移築 / T10年に二高女と合併するため廃校
<前史 2 宮城県立第二高等女学校>
* 1918年(T7)4月1日、「宮城県立第二高等女学校」、中島丁の宮城県女子師範学校内に開校
* 1921年(T10)2月、<前史1>の私立東華北高等女学校と合併して同校地に移転 / 高等科を設置(T15年に廃止し宮城県女子専門学校を開設) / 同女専はS9年に越路へ移転、二女高はその跡へ移る
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、宮城県第二女子高等学校と改称 / 定時制を併置、中田六郷・西多賀に分校を置いたが、のちに廃止
* 1973年(S48)5月12日、「宮城第二女子高校」で、東華学校時代の本館取壊し決まる
* 2010年(H22)、 男女共学校、中高一貫校となり、「宮城県仙台二華中学校・高等学校」に校名変更
* 2010年(H22)7月1日 - 宮城県第二総合運動場のラグビー場が当校の第2グラウンドになる
* 2019年(H31)、 学年制から単位制へ移行
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<前史1>関連>
「仙台市史 年表」P86、P92、P100/「明治の洋風建築-宮城県-」P60「東華学校」/「宮城県百科事典」P1001「宮城県第二女子高等学校」
<前史2関連>
「仙台市史 年表」P98、P100/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521
<学制改革後>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城県仙台二華中学校・高等学校」HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(東華学校)/同P141(宮城県女子専門学校図書室)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、東華学校校舎(東九番丁移転後)
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高等学校(新制) |
仙台商業高等学校第二部/仙台女子商業高等学校/仙台商業高等学校に再統合 |
1948年(S23)/1957年(S32)/2009年(H21) |
<前史>
<1>
* 1918年(T7)4月、「仙台市東二番丁実科高等女学校」
* 1922年(T11)4月、「仙台市五橋実科高等女学校」
* 1923年(T12)5月、「仙台市第一実科高等女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台市五橋高等女学校」
<2>
* 1921年(T10)4月、「仙台市北五番丁実科高等女学校」
* 1923年(T12)5月、「仙台市第二実科高等女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台北五番丁高等女学校」
*******************************
* 1944年(S19)4月、「仙台市女子商業学校」発足 / <1>と<2>を合わせて「仙台市女子商業学校第一部」とし、同時に「仙台市立昭和女子高等学校」も合併し「仙台市女子商業学校第二部とする」
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「仙台商業高等学校」発足 / 「仙台商業学校」を「男子部」に、「仙台女子商業学校第一部」を「女子部」とする / 「仙台女子商業学校第二部」は独立して、「仙台市立女子高等学校」となる / 当時の校舎は五橋中学校と同一敷地内で、校庭は手狭だった
* 1957年(S32)9月、仙台商業高等学校の男子部、女子部を分け、男子部は「仙台商業高等学校」、女子部は独立して「仙台女子商業高等学校」となる(校地は新たに国見台)
* 2009年(H21)3月、 仙台商業高等学校と仙台女子商業高等学校が統合し、「仙台市立仙台商業高等学校」を新設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P494~497、P502
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大学・短大 |
尚絅女学院短期大学/尚絅学院大学女子短期大学部 |
1950年(S25)/2003年(H15)/2011年(H23)廃止 |
<前史>
*1920(T9)、当時の尚絅女学校に高等科(英文科、家事科)を併設
* 1935年(S10)、高等科が専攻部と改称し、保母科と商科を増設(専攻部が戦後の短期大学の母体)
・ 戦時中、専攻部も勤労動員や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用される
* 1945年(S20)9月~11月、校舎が進駐軍に接収され、八幡国民学校と女子師範付属国民学校校舎で授業
<開学>
* 1950年(S25)3月14日、専攻部を母体として、尚絅(しょうけい)女学院短期大学設置認可
* 1950年(S25)4月1日、設置(英文、家政の2科)
* 1955年(S30)、保育科を開設
* 1964年(S39)、家政科を家政専攻・食物栄養専攻に分離、保育専攻科を設置
* 1967年(S42)、英文科を再開(S33~募集中止していた)
* 1989年(H1)、名取市に移転、人間関係科を新設
* 2003年(H15)、尚絅学院大学女子短期大学部となる
* 2011年(H23)3月31日、廃止
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「尚絅学院」HP/「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541/Wikipedia「尚絅学院大学」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543~544
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543/「市民の戦後史(仙台市)」P178(校舎)
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大学・短大 |
東北福祉大学 |
1962年(S37)~ |
<前史>
* 1875年(M8)、宮城県曹洞宗専門学支校として現在の仙台市若林区荒町に創立
* 1926年(T15)、栴檀中学校と改称、現在地(国見キャンパス)に移転
* 1948年(S23)、新制栴檀学園高等学校設置
* 1951年(S26)、学校法人栴檀学園となる
* 1956年(S31)、東北社会事業学校、発足
<短大>
* 1958年(S33)、東北福祉短期大学を開学
* 1962年(S37)、東北福祉短期大学を廃止
<大学>
* 1962年(S37)、東北福祉大学を開校(市内伊勢堂)
* 1975年(S50)、栴檀学園高等学校廃止
* 1982年(S57)、国見ケ丘第2キャンパス総合運動施設竣工
* 1986年(S61)、トレーニングセンター(全天候型体育館)完成
* 1989年(H1)、H-one館竣工、芹沢銈介美術工芸館竣工
* 1994年(H6)、音楽堂「けやきホール」竣工
* 2000年(H12)、大学院棟(5号館)竣工
* 2003年(H15)、ウェルコム21竣工
* 2005年(H17)、6号館竣工
* 2007年(H19)、北山キャンパス運動場竣工、ステーションキャンパス館竣工
* 2008年(H20)、東北福祉大学附属病院 せんだんホスピタル開院(精神科・児童精神科・内科)
* 2015年(H27)、仙台駅東口キャンパス開設、通信教育部と東北福祉看護学校を移転
* 2016年(H28)、仙台駅東口キャンパスに「TFUギャラリーMini Mori」開設
* 2018年(H30)、国見ケ丘第2キャンパス陸上競技場改修
* 2019年(H31)、仙台駅東口キャンパスに「芹沢銈介美術工芸館」を移転
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「東北福祉大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539~540
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P540/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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高等学校(新制) |
宮城県農業高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1875年(M8)、県立植物試験所(前身)創設(片平丁)
* 1879年(M12)、県立勧業試験場、名取郡茂ヶ崎村(現太白区根岸町)に設置
* 1881年(M14)7月9日、県立勧業試験場が「宮城農事講習所」と改称
* 1885年(M18)7月1日、宮城県農事講習所を改組し、「宮城農学校」を創設(「重訂 宮城県郷土史年表」P271)
* 1901年(M34)7月5日、「県立宮城農学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立宮城農学校」と改称
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県農学校」と改称
* 1928年(S3)、学校所在地の地名が仙台市長町と変更
* 1947年(S22)、専攻科設置(S28年廃止し宮城農業短大設置)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県農業高等学校」と改称 / 同年5月に定時制課程設置、高砂、岩切、広瀬、秋保の4分校設置
* 1961年(S36)~1967年(S42)、5期にわたり鉄筋コンクリート3階建て校舎建設
・ 1969年(S44)現在、農業、園芸、畜産、食品化学、農業工学に在校生836名、
* 1970年(S45)、4分校のうち最後まで残った秋保、高砂両分校廃止
* 1977年(S52)3月1日、名取市に移転
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120/「仙台市史 年表」P85、P91、P92/「重訂 宮城県郷土史年表」P271/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P508~509/「宮城県農業高等学校」HP
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99-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、「宮城県農学校」(M18~37年の間)
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高等学校(新制) |
朴沢女子高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1879年(M12)1月、朴沢三代治が松操裁縫塾創設(のちの、一番町2丁目の東急ホテルの場所)
・ 以来、戦前には私立松操学校(M17)、朴沢松操学校(T15)、朴沢松操女学校、朴沢女子実業学校と改称
* 1916年(T15)、本科と師範科を増設
* 1931年(S6)、高等師範科を新設
* 1944年(S19)、職業学校令改正に伴い、朴沢女子実業学校と改称、高等師範科を専攻科一部と改称
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で校舎全焼
* 1947年(S22)3月、第1期復興建築落成
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「朴沢女子高等学校」と改称(新制高等学校へ移行切替)
* 1951年(S26)3月、学校法人松操裁縫学園を設立
* 1967年(S42)3月、学校法人朴沢学園と改称、校舎を川平に移転
* 1967年(S42)4月、「仙台大学」を開学、4年制体育学部(体育学科)を開設
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P529~530/「朴沢学園」HP
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「目で見る仙台の歴史」P121に、朴沢松操学校(明治27年卒業生記念写真)
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高等学校(新制) |
尚絅女学院高等学校(前史) |
1948年(S23) |
<前史>
* 1890年(M23)、米合衆国バプテスト派宣教師ラヴィニア・ミードが来仙し、新坂通に家塾を開く
* 1892年(M25)、「尚綗女学会」開校式(生徒5人が在学)
* 1893年(M26)、中島丁(現・青葉区八幡)に校舎建設移転
* 1896年(M29)、校舎と寄宿舎(エラ・オー・パトリックホーム)落成
* 1899年(M32)11月24日、「私立尚綗女学校」創立(初代校長アンネ・S・ブゼル)(当時は、尚絅女学校でなく字は「尚綗」を用いた)
* 1900年(M33)、制服としてお納戸色のはかまを着用決まる
* 1902年(M35)、校章を制定
* 1903年(M36)、同窓会発足(卒業生総数20人)、
* 1917年(T6)、創立25周年講堂と新校舎が落成 / 校歌(土井晩翠作詞、佐々木英作曲)、と校旗を制定
* 1919年(T8)、附属幼稚園を開設、メリー・D・ジェッシーが第2代校長となる
* 1920年(T9)、高等科(英文科、家事科)新設
* 1921年(T10)、高等科に音楽科新設
* 1928年(S3)、高等科校舎新築
* 1932年(S7)、本科の制服をセーラー型にする
* 1935年(S10)、高等科を専攻部と改称(保母科、商科を増設)
* 1944・45年(S19・20)、学徒動員で軍需工場などに出勤
<戦災>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で寄宿舎が焼失
・ 戦災で校舎を失った常盤木女学校に校舎の一部を貸す
・ 終戦後は進駐軍に校舎を撤収され、八幡国民学校(小学校)や女子師範学校校舎を借りて授業
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「尚絅学院中学校・高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89、P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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「目で見る仙台の歴史」P134に、「尚絅女学校と学校長ブセル」/「新・目で見る仙台の歴史」P139(尚絅女学校)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P133(エラ・オー・パトリック・ホーム)
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