仙台よみとき用語年表
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文学碑など(仙台) 土井晩翠歌碑、詩碑  1952年(S27)  <樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<天地有情>
* 1949年(S24)4月、市内本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置

<荒城の月>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、晩翠会が、「荒城の月」の銅板をはめた詩碑を仙台城址天守台(天主台)につくり、除幕式
(「仙台市史 続編第2巻」P270、「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台年表」P210、「仙台城」P235)

* 1952年(S27)10月19日、晩翠逝去(81歳) / 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が「荒城の月」詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189) 
佐々久著「仙台の散策」/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189~190、P270~271/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235  「目で見る仙台の歴史」P191(草堂と詩碑「天地有情」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(晩翠詩碑「荒城の月」)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑) 
土井晩翠 歌碑、詩碑  1952年(S27)  <樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)

<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)

<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置 
「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬) 
満蒙開拓 宮城県関連(1)  1932年(S7)~  <武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる

<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)

* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始

<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子

* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)

* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述

・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170) 

<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕 
「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170   
水道事業 深刻な水不足  1955年(S30)~1961年(S36)  <水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
  南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
 
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
  ・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
  ・累積給水人口30万人

<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493  「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸) 
商店など 江陽会館  1957年(S32)  <江陽グランドホテルHPの「会社概要」より>
* 1933年(S8)、仙台市内に営業写真館として創業を開始  * 1957年(S32)、総合結婚会館(東一番丁・森徳横丁北東角)の運営へと営業規模を拡大
* その後、宿泊施設を付帯させたホテル江陽結婚会館
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(青葉区本町二丁目3-1)

<東一番丁・森徳横丁角北東角のビル>
* 1957年(S32)4月、結婚会館として竣工
* 1964年(S33)9月、増築
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)

 
江陽グランドホテルHP/他  店舗配置図 98-124 (東一番丁北部の空襲直前と終戦後)、店舗配置図 98-126(S32) / 99-014201-45 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮、画面左上の東一番丁・森徳横丁北東角のビル) 
本土決戦体制 (3)海軍/航空部隊    <海軍の特攻作戦>
・ 牡鹿半島中心に、特攻艇「震洋」、小型潜航艇「海竜」人間魚雷「回天」91隻配備を計画 / ただし、敗戦までに配備されたのは11隻

<航空部隊の対応>
宮城県内の陸海軍航空基地は3か所 / 基本方針は、敵が上陸してきたら全機が特攻となって敵輸送船団に突っ込む / このため(戦力温存のため)、米軍機が来襲(空襲)しても日本軍機は迎撃しなかった

(1) 増田飛行場(現・仙台空港) 戦闘機の「隼(はやぶさ)」「鐘馗(しょうき)」「疾風(はやて)」や偵察機、重爆撃機が多数配備されたが、1945年(S20)6月には1機も姿が見られなくなった(最初は、名取郡愛島国民学校の桜並木の下に「隼」「鐘馗」など3~4機に偽装網をかぶせ分散駐機するなど飛行場近くに疎開 / のちに全機が白石町の森林内に疎開(解体して運搬し現地で組み立てる) / その作業のため約1300人の部隊が、近くの複数の国民学校に分宿

(2) 霞目飛行場の軍用機も、白石町の森林に疎開

(3) 海軍松島航空隊は、米軍B29の出撃地点(マリアナ諸島サイパン島)をほかの陸海軍部隊と共同で空襲計画(剣作戦、烈作戦)に参加予定 / このため戦闘機、爆撃機群が温存されていたが、実施前に敗戦 / 米軍艦載機などからの執拗な攻撃うけるが、敗戦時には、一式陸上攻撃機39機、陸上爆撃機「銀河」36機、艦上爆撃機「彗星」6機など百機以上の航空機が残っていた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P195、P197~198   
陸海軍の工場(宮城県内) 多賀城海軍工廠    <海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)

* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
 南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)

・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)

「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり 
「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173   
陸海軍の工場(宮城県内) 第一海軍火薬廠    <海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」) 
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)

・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173) 
「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173 
 
第二師団(出兵記録)(4) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(1)  <満州駐箚、満州事変>
* 1931年(S6)3月18日、満州守備へ出発開始(在仙台の歩兵第4連隊など各部隊の他、会津若松の歩兵第29連隊、新潟県高田の歩兵第30連隊、新発田の歩兵第16連隊など第二師団管下の部隊) / 第二師団の渡満で、仙台不景気に(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)9月からの満州事変では、満州各地を転戦、占領 / 日本側の最初の戦死者は、歩兵第4連隊の兵士29名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308)
* 1931年(S6)10月、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で第二師団など主催の慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)  
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送
* 1933年(S8)1月7~9日と13日、満州から仙台に凱旋(→詳細は、写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) / 1月7日、NHK仙台放送局が歓迎式を仙台駅前からラジオ中継放送

<軍事演習>
* 1932年(S7)9月18日、満州事変勃発一周年記念、第二師団留守部隊、学生の大演習
* 1933年(S8)3月10日、第二師団が国分町中心に大規模な模擬市街戦実施
* 1934年(S9)3月10日、陸軍記念日により、模擬弾・タンク・照空灯を市民に公開
* 1935年(S10)9月13日、騎兵第二連隊200騎、蔵王山突破す(遠刈田→上山を3日間で)

   *****************
* 1933年(S8)8月14日、東久邇宮稔彦王殿下、第二師団長として着任(S9年8月1日、第四師団長に転任)

<2・26事件警備>
* 1936年(S11)2月26日、歩兵第4連隊、2・26事件警備で上京(6月6日帰還)(重訂 宮城県郷土史年表」P451)
   「歩兵第4連隊混成大隊208人、118日間にわたって決起将校らが収容されている代々木の陸軍刑務所の警備にあたる(「戦争のころ 仙台、宮城」P39)     
* 1936年(S11)6月6日、2・26事件戒厳令下、歩兵第4連隊帰還(「仙台市史 10 年表」P288) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P308~311、P361/「宮城県史 7」P685の『仙台部隊関連年表』/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P434、P436、P441、P447、P451/「仙台市史 年表」P105/「仙台放送局60年のあゆみ」P5、P7/「仙台市史10 年表」P279、P280、P281、P282、P288/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P183/「仙台年表」P202、P204/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P39   
第二師団(出兵記録)(5) 出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む)  昭和戦前期(2)  <満州駐箚>
* 1937年(S12)4月、満州守備(駐箚)のため出発
* 「1937年(S12)4月9日から10日間、多数の第二師団「渡満」兵の行進が市街を通り抜けていく。銃後の市民の間には、社寺のお守りを真綿でくるんで弾除けにするお守り袋や雑貨を詰め込んだ慰問袋を、郷土の在満兵士たちに贈る運動が盛んになっていた。7月7日の日中戦開始まで間もない頃である」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P311)
   
<日中戦争>
* 1937年(S12)7月の日中戦争開始後は、駐箚中の満州から第二師団の一部(歩兵第4連隊第1大隊=大泉部隊)を北京へ急派 / 1938年(S13)には、その他の第二師団も満州から中国戦線へ
* 1937年(S12)9月、日中戦争勃発により急きょ、第二師団留守部隊を根幹とする十三師団(歩兵104連隊)が仙台で編制され、中国戦線へ ( →項目「第十三師団」参照 )
* 1937年(S12)12月、歩兵第4連隊第1大隊の故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(市公会堂)

<仙台へ帰還>
* 1940年(S15)8月1日、第二師団を仙台師団と改称(「仙台城」P234)
* 1940年(S15)10月、内地帰還
* 1940年(S15)11月、仙台師団は任務を終えて帰国(昭和17年宮城県知事事務引継書)
* 1940年(S15)10月21日、仙台師団において紀元2600年奉祝観兵式(宮城野原練兵場)
* 1940年(S15)11月17日、日華事変(=日中戦争)以来の管内出身将兵の慰霊祭(東二番丁小学校で)、引き続き、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭(追廻練兵場の昭忠塔前で)

<太平洋戦争> 第二師団=勇兵団 
* 1941年(S16)12月の太平洋戦争突入
* 1942年(S17)1月、日本を出発、インドネシアのジャワ島(17年2月上陸) /「戦争のころ 仙台、宮城」P68では、3月1日上陸「2月になってから海軍艦艇の護衛のもとフランス領カムラン湾(現ベトナム)へ進出、60隻の大輸送船団は巡洋艦、駆逐艦32隻に守られ目的地に向かいます。途中で2回にわたって敵艦隊と遭遇、これを撃退する間退避行動をとったので上陸は3月1日に延期されました。3月1日ジャワ島上陸、わずか12日間で8万2000人のオランダ、英国軍を降伏させ占領。現地では日本軍はオランダからの解放者と受け取られ、日本軍への協力がありました。」
・ その後はニューブリテン島、ソロモン諸島のガダルカナル島(17年10月~)、フィリピン諸島、マレー、ビルマ(インパール作戦)などを転戦、終戦時は南部仏印(一部はビルマ)
・ ガダルカナル戦では、歩兵第4連隊第2、第3大隊が「青葉支隊」として投入される(「仙台市史 続編第1巻」P37) / ガダリカナル戦で第二師団の死者・戦病死者は7671人(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1944年(S19)3月、ビルマ進攻、インパール作戦(北部ビルマから2000m級のアラカン山脈を越え、インドのインパールへの進攻作戦)に、第二師団も投入されるが、5月、雨季を迎えたフーコン峡谷の沼や密林の中で、食糧や弾薬不足、疫病に苦しみ次第に後退。 / インパール作戦での第二師団の戦死、戦病死者は、1万2748人(師団兵力の3分の2を失う)(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)1月、仏印に転戦を命じられる。同師団の歩兵第16連隊、野砲、工兵、衛生兵で編成された青葉兵団と歩兵第4連隊はビルマに残り戦闘継続(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)

      ***************************************
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P311、P314/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P37、P64/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P476~477、P479/「仙台市史10 年表」P306、P308/「仙台市史年表」P104/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P185/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P67~68、P136、238   
仙台空襲 焼失した国宝 など  1945年(S20)  <焼失した国宝文化財>
・ 国宝 仙台城大手門、仙台城隅櫓、伊達政宗霊廟瑞鳳殿、伊達忠宗霊廟感仙殿

<被災後、よみがえった樹木>
・ 東二番丁国民学校校庭のクスノキ(戦災から3年後に小さな新芽を吹き、のちに大木に)
・ 西公園の大町交番と桜ケ岡大神宮の間に立つイチョウ(樹齢推定300年)(のちに新芽を吹く、往時をしのぐ樹勢に)

<土井晩翠宅(本荒町)>
 焼失し、蔵書3万冊も焼失 / 晩翠は「五十余年 心を込めて集めたる 東西の書 皆灰となる」と詠んだ 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P223~224   
仙台空襲 焼失した学校 / 児童の犠牲者  1945年(S20)7月10日  <焼失した学校>
☆ 国民学校
 ・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
 ・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる

☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
 ・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)

☆ 旧制高等学校など(全焼)
 ・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)

☆ 大学
 ・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失 

<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか) 
・ けが40人 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223   
廃藩置県(仙台県誕生) 仙台県誕生/宮城県と改称  1971年(M4)/1972年(M5)  <版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)

・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)

<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362   
芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) 4棟の向き    <特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている

<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い 
  98-022 
敗戦後の諸相・仙台 進駐軍相手の「特殊慰安施設」  1945年(S20)秋~1946年3月  <特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)

・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)

・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158   
東北帝国大学 沿革(2) ~各学部・研究所設置~  1919年(T8)~1940年(S15)  <理学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
    東北帝国大学理科大学 → 東北帝国大学理学部

<医学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更   
    東北帝国大学医科大学 → 東北帝国大学医学部
<附属臨時医学専門部>
* 1939年(S14)5月、臨時医学専門部設置(全国の官立大学に設置し軍医不足に対応=菅家年表P22) → 1944年(S19)3月、附属医学専門部 → 1952年(S27)3月廃止
<医学部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照

<工学部>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置
* 1939年(S14)4月、工学部に航空学科設置
<鉄鋼研究所 → 金属材料研究所>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置に伴い、東北帝国大学臨時理化学研究所第二部が東北帝国大学附属鉄鋼研究所となる → 1922年(T11)8月9日、金属材料研究所と改称

<法文学部>
* 1922年(T11)8月29日、法文学部設立

<電気通信研究所>
* 1935年(S10)6月1日、附属電気通信研究所設置(「仙台市史10 年表」P286では9月25日設置)→ 1944年(S19)1月、電気通信研究所

<農学研究所> * 1939年(S14)8月、農学研究所設置

<その他>
* 1937年(S12)、早川牧場跡に大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86) 
東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P98~99、P101/「重訂 宮城県郷土史年表」P446、P468~469/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22

設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした  
99-06099-061/金属材料研究所は、99-06553-97/「目で見る仙台の歴史」P148に、地質岩石学教室と鉄鋼研究所、医学部(大正4年)「法文学部(大正11年)/「宮城県百科事典」P757に片平丁の構内全景(昭和4年頃、空撮) 
仙台市の消防 市民の取組など  1951年(S26)~1968年(S43)頃  <町ぐるみ消防訓練>
* 1956年(S31)4月、第1回烈風時消防演習
* 1960年(S35)2月、大規模な夜間演習

<自営消防隊>
・ 各職場における火災発生防止

<婦人防火クラブ>
* 1962年(S37)5月、生出地区で「萩の台婦人防火クラブ」結成、ポンプ操法など実施
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P827の表198に、S43年4月現在のクラブ一覧(27クラブ)

<少年消防クラブ>
小中学校単位に結成、防火思想と消防一般の知識を学ぶ防火教室開催、器具操作など
* 1951年(S26)4月10日、西多賀小学校少年消防クラブ
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P828の表199に、S43年4月現在のクラブ一覧(20クラブ)

<ハシゴ乗り保存会>
* 1965年(S40)12月、結成 / 後継者難でS39年出初式では中止していたが、S41年出初式から再登場
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P823~828   
天皇、仙台行幸 大正天皇  1908年(M41)~  <皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)

(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)

* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)

<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)

<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真) 
「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144  99-09499-075 
天皇、仙台行幸 昭和天皇(1)  1918年(T7)~昭和戦前期  <皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙 
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く

<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
  ・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
  ・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
  ・ 奉祝大売り出し実施
  ・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
  ・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)

<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)

   **********************************

<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会 
「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127  98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける) 
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 
1945年(S20)  <県内の空襲犠牲者> 
 仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害

<筆者石澤友隆氏の体験>
 戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236   
大学・短大 宮城大学  1997年(H9)~  <県立時代>
* 1997年(H9)4月、黒川郡大和町(大和キャンパス)に、宮城県立宮城大学開学〔看護学部・事業構想学部〕
* 2001年(H13)4月、 大学院(修士課程)設置 〔看護学研究科・事業構想学研究科〕
* 2005年(H17)4月、食産業学部設置(太白区旗立二丁目の太白キャンパス)
* 2008年(H20)4月、大学院(博士後期課程)設置〔事業構想学研究科〕

<公立大学法人>
* 2009年(H21)4月、公立大学法人宮城大学設立(法人化)、大学院(修士課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2010年(H22)4月、大学院(博士後期課程)設置〔看護学研究科〕
* 2013年(H25)4月、大学院(博士後期課程)設置〔食産業学研究科〕
* 2017年(H29)4月、学部改組により学群・学類制へ移行(3学群6学類、3研究科で構成)  
宮城県HP内「宮城大学」/「公立大学法人宮城大学」HP   
大崎八幡宮 社殿落成  1604年(慶長9)  <社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)

* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活 
文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181  99-12899-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭) 
長町駅(秋保電鉄) 開業  1914年(T3)  <秋保電鉄・長町駅>
* 1914年(T3)12月23日、秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の駅が開業
* 1961年(S36)5月8日、秋保電気鉄道線廃止(7日にさよなら運転) 
「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 年表」P97/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)   
敗戦後の諸相・仙台 伝染病4倍増/空から撒かれたDDT  1945年(S20)~1946年(S21)  <空襲で壊れたままの給水栓>
・ 全給水栓の44%が破壊されたまま
・ S19年比でS20~21年は、ゴミ焼却場(3か所)の扱い数は6割前後、市立消毒所への依頼数は半減

<伝染病4倍増>
・ S19年442件、S20年1260件、S21年1836件
・ S21の内訳(赤痢739件、以下発疹チフス、ジフテリア、腸チフス、パラチフスの順、天然痘も50件) / 死者は赤痢102人(死亡率14.4%)

<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったとい
う 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81  「新・目で見る仙台の歴史」P171(浮浪者へのDDT撒布) 
戦後教育・仙台 国民学校から小学校へ  1947年(S22)  <空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校) / 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)

<国民学校から小学校へ>
* 1947年(S22)4月、新制小学校発足(市立26校、官立1校)

<戦後、校舎火災頻発>
* 1946年(S21)~1949年(S24)、南材木町国民学校、榴岡国民学校、片平丁小、高砂小、八軒中

<空襲被災、戦後焼失学校の校舎再建> ( )内は再建年月
・ 木町通小(S22.6)、西多賀小(S22.8)、榴岡小(S22.11 騎兵隊跡改装)、東二番丁小(S23.3)、立町小(S24.4)、片平丁小(S24.5)、南材木町小(S25)

<人口急増対応>
* 1948年(S23)~1968年(S43)、人口急増に対応し、市立16小学校新設、生出村編入で2校増加
* ベビーブーム対応で、8校新設
 ・ S29年度から小学校児童激増、S34年度にピーク
 ・ S28年度~S33年度に、東長町、小松島、若林、国見、宮城野、荒巻、鹿野、台原の各小学校新設
* 人口のドーナツ化、周辺部急増で、6校新設 
 ・ S40年度~43年度に、四郎丸、新田、旭丘、遠見塚、中山、八本松の各小学校新設

<PTA>
* 1947年(S22)11月11日、仙台市小中学校父兄教師会(PTA)連合会創立 
「仙台市史10 年表」P315、P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P522/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318~321、324~326  「新・目で見る仙台の歴史」P181(S23年、仙台市立第二中学校で青空卒業式)/「市民の戦後史(仙台市)」P184(ドーナツ化現象で郊外小学校すし詰め教室) 
仙台空襲 焼失した学校 / 校舎再建  1945年(S20)7月10日  <空襲で焼失>
☆ 国民学校 5校(全焼4、半焼1)
・全焼・・・北五番丁、立町、東二番丁、西多賀
・半焼・・・木町通
☆ 中等学校13校(全焼)
・全焼(公立)・・・仙台、仙台商業、仙台図南、県第一高女、県仙台第二、県工業、
・全焼(私立)・・・仙台育英、東北学院、宮城女学校、栴檀、仙台女学校、常盤木高女、朴沢松操
☆ 高等専門学校 3校(全焼)
・全焼・・・第二高等学校、県立女子専門学校、宮城学院女子専門学校
☆ 大学 3学部
 ・一部焼失・・・東北帝国大学理学部、工学部、法文学部

<二部授業や青空教室>
・ 焼失を免れた学校の一部をかりて、二部授業
・ 西多賀国民学校のように、近くの神社の社務所や部落公民館などを仮校舎として二部授業や複式授業
・ 間借りの場所がない学校は、野外授業(青空教室)

<校舎再建>
・ 国民学校(小学校)は、1950年(S25)までに7校の校舎が建ち、二部授業、青空教室はほぼ解消した 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P316「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318/「仙台市史 特別編4 市民生活」P270~271   
仙台空襲 空襲体験記  1945年(S21)  <空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり 
「番丁詳伝」P151   
戦災復興(応急対策) 仙台市営ガス  1945年(S20)~1946年(S21)  <空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
  10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了  
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315   
仙台空襲 仙台北警察署の報告  1945年(S20)7月10日  <空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」 
「番丁詳伝」P151   
水道事業 第3次~第4次拡張  1958年(S33)~1976年(S51)  <第3次拡張事業 大倉ダム放流後の表流水>
* 1958年(S33)4月大倉ダム着工~1965年(S40)3月完工
  ・累積給水人口40万人
* 1961年(S36)8月3日、大倉ダム通水式/水圧が上がり、パイプ破損が市内で続出で一時的に水不足
* 排水管、給水管などの老朽化で高い漏水率
* 1962年(S37)8月、追加給水可能となり水枯れ現象だけは解消

<国見浄水場>
* 1963年(S38)1月12日、国見浄水場完成、大倉ダム導水のフル操業可能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P493)
* 1965年(S40)5月、国見浄水場落成(「市民の戦後史(仙台市)」P113/「仙台市史 年表」P124/仙台市HP)

<第4次拡張事業 釜房ダム貯留水>
* 1966年(S41)4月着工~1976年(S51)3月完工予定
  ・累積給水人口62万人
  ・1970年(S45)、釜房ダム完工予定
  ・1970年(S45)7月1日、給水開始(20万トン)

<仙台市水道配水管系統図(第5次拡張事業まで)> → 「仙台市史 続編第1巻」P497

<給水人口と給水量の伸び グラフ> → 同上P499

<普及率>
  ・ 1967年(S42)年度末、給水区域内人口の82.6% 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P487~500/「市民の戦後史(仙台市)」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P662  「市民の戦後史(仙台市)」P170(国見浄水場空撮) 
第二師団(出兵記録)(3) 出兵記録  大正年間  <第一次世界大戦>
* 1914年(T3)9月、4個中隊が、中国方面の守備に派遣される
* 1917年(T6)9月、1個中隊、山東半島青島の守備を命じられる

<シベリア出兵>
* 1918年(T7)8月2日、第二師団山砲兵第一連隊および輜重兵第二大隊がシベリアに派遣される
* 1921年(T10)6月、歩兵第3旅団が前年のニコラエフスク(尼港)事件を受けてサハリンと沿海州の守備に派遣される
* 1922年(T11)6月、歩兵第25旅団、歩兵第3旅団と交代するためサハリンと沿海州に派遣される 

<米騒動に出動>
* 1918年(T7)、仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった(「新・目で見る仙台の歴史」P148) / 仙台の米騒動では、歩兵第4連隊やこの当時には仙台にいた歩兵第29連隊の1000名を超す兵が鎮圧のため出動、要所要所で銃剣をもって市民の通行を監視し、まるで戒厳令が布かれたような物々しさであった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497) 
「仙台市史 年表」P97、P98、P100、P101/「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497/「新・目で見る仙台の歴史」P148  「いつか見た街・人・暮らし」P8(満州守備派遣兵帰る、仙台駅前、大正13年)/同P21(初観兵式、大正13年1月8日、宮城野原練兵場) 
敗戦後の諸相・仙台 アルコール添加で三倍増醸    <米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった

<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた

<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73   
仙台七夕 終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号  1945年(S20)/1946年(S21)  <終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)

<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」

<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
 
「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156

 
53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号) /「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々) /戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真 
仙台市の消防 仙台市消防本部  1947年(S22)以降  <自治体消防>
* 1947年(S22)4月、消防団令公布 / 消防団長は市長が任命し、消防の運営は消防委員会があたる
* 1948年(S23)3月、消防組織法公布
* 1948年(S23)11月1日、自治体消防本部発足 / 従来の常備消防は消防本部のもとに統合、仙台市北・南消防署に改編設置 / 同年12月、常備消防部員を全員、消防吏員として採用 / 北と南の消防署、5分遣所、消防車11台
* 1951年(S26)、北消防署庁舎(鉄筋コンクリート2階建て)を北一番丁の元特別調達庁跡に新築し、消防本部と北消防署が移転
* 1951年(S26)以降、毎年、防火用水を建設、S31年までに計31か所新設
* 1952年(S27)、南消防署の望楼を鉄塔に改築
* 1957年(S32)7月1日、東消防署開庁、ブロック2階建て望楼付き
* 1959年(S34)2月、3段式16mハシゴ車1台を北署に配置
* 1959年(S34)3月、泡消火剤など装備の科学消防車1台を南署に配置
* 1959年(S34)5月、仙台市消防音楽隊(隊員30人)発足
* 1960年(S35)、片平丁出張所を再建(戦災で焼失廃止されていた)
* 1961年(S36)4月1日、仙台市消防局に、初の救急車、救急隊(3人)配置
* 1963年(S38)、南消防署を新弓の町に改築
* 1965年(S40)12月17日、南消防署に化学消防車配置
* 1966年(S41)8月、東北初の特別消防隊(消防レインジャー部隊)編成し、訓練開始
* 1966年(S41)12月1日、北消防署に、32メートル高層梯子車を配備
* 1968年(S43)3月、排煙車配備
* 1969年(S44)5月1日、望楼勤務を廃止(ビル増設とスモッグのため市街の展望不能となる)
* 1975年(S50)11月20日、仙台初の20m級スノーケル車を南消防署連防出張所に配置
* 1983年(S58)8月25日、東消防署は、苦竹3丁目の新庁舎に移転
* 1989年(H1)月日、仙台市泉消防署に36mはしご車配備
* 1996年(H8)4月、仙台市消防局、県内ではじめて女性消防士採用 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P813~818、P831~831、P845/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P622、P627、P628、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P165、P258/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367  20-04/「目で見る仙台の歴史」P182/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P816に、消防本部・北消防署庁舎/同P846の写真210(排煙車)/「市民の戦後史(仙台市)」P104(16mハシゴ車)/同P130(救急車)/同P180(出初式一斉放水、レインジャー部隊訓練)/同P210(排煙車) 
芭蕉の辻商館 建築~焼失  1891年(M24)~1900年(M33)  <芭蕉の辻(北東角)>
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1891年(M24)9月19日、北東角に「芭蕉の辻商館」完成、落成式(木造2階建外部漆喰塗でドーム屋根の塔)
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に、宮城県物産陳列場開設
* 1900年(M33)4月10日、「芭蕉の辻商館」焼失
* 1903年(M36)8月1日、跡地に「七十七銀行本店」が竣工(洋館)、落成披露宴開催 
「重訂 宮城県郷土史年表」P285/「仙台市史 年表」P87、P88/「仙台市史10 年表」P202、P218、P225/「明治の洋風建築~宮城県~」P113/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P3/「目で見る仙台の歴史」P135  「明治の洋風建築~宮城県~」P113(芭蕉の辻商館)/「目で見る仙台の歴史」P135(芭蕉の辻商館と、同火災図)/「新・目で見る仙台の歴史」P133(火災図) 
芭蕉の辻     <芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」

【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。 

【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。

<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」 
矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244  「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-02077-18-0199-02222-3320-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年) 
明治製菓仙台売店 芭蕉の辻/東一番丁  1927年(S2)~1945年(S20)  <芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる  
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)

<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)  
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」         
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失 
粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147  芭蕉の辻の店は、53-4999-04622-3399-02664-0599-02898-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物) 
勧工場・商館 芭蕉辻勧業場 → 芭蕉の辻商館  1882年(M15)/1891年(M24)~1900年(M33)  <芭蕉辻勧業場>
* 1882年(M15)7月16日、大町四丁目13に開設
* 1890年(M23)1月14日、火災焼失

<芭蕉の辻商館>
* 1891年(M24)9月19日、芭蕉辻勧業場が「芭蕉の辻商館」と改称して再建
* 1900年(M33)4月、焼失
* 1901年(M34)1月、再建中に再度出火し閉鎖 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P36~37/「仙台市史 年表」P84、P87/「古写真にみる仙台の建築」P122  「仙台市史 特別編4 市民生活」P37(芭蕉の辻商館、同火災図) 
青葉通り(植栽) 枝垂れ柳、ケヤキを植栽  1950年(S25)~1966年(S41)  <街路樹の植栽樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P253~254) 
・ 高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
  助役はネムノキかサルスベリに、課長は大木になる樹種が良い
・ 一市会議員の提案「台原の仙台営林署所有のケヤキを、失業対策事業で移植」をうけて、仙台駅前~東一番丁間にケヤキを植樹、その後西公園までの両側歩道などに計180本ほどのケヤキを植樹
・ 助役は駅前から東二番丁通り角までの中央グリーンベルトには、シュロとユッカラン植栽を指示し、植栽したが、東京農大井上教授視察時に評価低く、ケヤキは高評価だった    

* 1949年(S24)4月、植樹式(ケヤキ植え初め式)
・ 台原の国有林から、樹齢15~35年の成木を移植
・ 「東五番丁~西公園間」の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付されて東三番丁~国分町間の歩道に植えられた

* 1949年(S24)5月、東三番丁~東四番丁間の分離帯(中央グリーンベルト)にモデル植樹(高麗芝を地にしてシュロ、さつき、玉伊吹、雪柳、紫南天など約200本)
* 1950年(S25)4月3日、青葉通りでケヤキ植え初め式(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)、仙台駅前~国分町角の歩道、80本のケヤキ植樹 / 当時の市会議員48人が1本ずつ寄贈
* 1950年(S25)末から、しだれ柳植栽
「仙台駅前~東五番丁間」の歩道には、S25年末から100本のしだれ柳を植栽した(写真14-07)
* 1951年(S26)9月、駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される
 
* 東二番丁通りとの交差点付近の青葉通りの車道にあった分離帯(グリーンベルト)には、高麗芝を地にしてシュロなどを植えていた(写真50-01) /  その後、生育が悪くなり、トウカエデを植える→その後、ケヤキに

* 1966年(S41)、青葉通りの植栽が完了(「仙台市史 年表」P125)
* 1971年(S46)、ケヤキの並木にも赤信号(車の排気と車歩道の全面アスファルト化による公害)(「重訂 宮城県郷土史年表」P678) 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P253~254/「仙台市史 続編1(行政建設編)」P324、P468/「戦災復興余話」P51~P53/「仙台市史 年表」P116、P125

座談会「仙台 戦中戦後を語る」/「重訂 宮城県郷土史年表」P678 
14-0718-2114-0122-17201-1150-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P163(S26年、ケヤキ植栽セレモニー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33、東五番丁角付近)、P44(S33頃、仙台駅近くの枝垂れ柳並木)/同P92(S45、緑の欅並木、カラー)/同P98(S46、中央分離帯あり、ケヤキ並木) 
仙台空襲 被害状況 / 死因  1945年(S20)  <被害状況>
・焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う
・死者・負傷者はいまもって確定せず、最新(2020年現在)のデータでは、死者1399人、負傷者1683人

<死因> (1980年、岩倉政城医師による調査)
 仙台北署に出された死亡届のうち、医師が死亡原因を記載した599人について、医師や看護婦、入院患者から聞き取り調査
・焼死303人、やけどによる死亡103人(火傷3~4の重傷者が多く、中には肌が黒褐色に炭化した人も)、焼夷弾直撃74人、防空壕内の炭酸ガス中毒死60人、やけどと破傷風併発5人、やけどと敗血症併発2人、やけどと細菌感染2人、溺死12人(大半は、飛び込んだ井戸内から出られずに)

<病院では>
・東北帝大附属病院
  当夜は11の診療科で5~6人の当直医師が勤務 / 回復見込みのない患者は内科へ、やけどのひどい人は外科へ、早急に手術が必要な人は手術室へ振り分け / 手術した人の大部分は手足の複雑骨折で、消毒液がなく、井戸水をバケツリレーし、患部の泥を流しながら20数人を手術
・仙台逓信病院
  ほとんどがやけどの人でその夜のうちに10人ほどが死亡 / 薬品も包帯も不足で、数日たつと患者の腐敗臭が部屋に充満した  
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220~222   
仙台空襲 被災者への援助 / 避難先  1945年(S20)  <被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227   
仙台市民図書館 西公園に開館/仙台メディアテーク内に移転  1962年(S37)/2001年(H13)  <西公園内>
* 1962年(S37)10月27日、西公園内に開館
* 1966年(S41)3月、移動図書館車「ひろせ」の運行開始(仙台市史 年表) / 図書館から遠隔地域の新市域を巡回(1支所平均3駐車場を選定)
* 1966年(S41)2月25日、ブックモービル「ひろせ号」、巡回図書の貸し出しに初出動(重訂 宮城県郷土史年表)

<分室設置>
* 1978年(S53)8月24日、図書館分室を東北電力ビル内に設置

<仙台メディアテーク内へ>
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転開館

<参考>「仙台市図書館」は、仙台市立の7つの図書館の総称、「仙台市民図書館」は、仙台市青葉区春日町2-1(メディアテーク)にある中央図書館の名称 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P447~449/「仙台市史 年表」P122、P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P606、P624 /「続・ 宮城県郷土史年表」P84/Wikipedia「仙台市図書館」(2020年3月)  「市民の戦後史(仙台市)」P140(市民図書館外観、閲覧室、よい子の図書室)/「市民の戦後史(仙台市)」P187(移動図書館車「ひろせ号」に群がる子ら)/「新・目で見る仙台の歴史」P193(閲覧室、移動図書館車「ひろせ号」、カラー) 
第二師団(出兵記録)(1) 出兵記録(仙台鎮台時代)  明治年間(1)  <西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689) 
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)

<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)

 ~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
 
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300   
防空演習(防空訓練) 灯火管制訓練  1935年(S10)  <訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
 
「仙台市史 年表」P107   
電気開始(仙台) 市内に供給  1894年(M27)7月15日  <試験点灯>
(1-1)「1886年(M19)、三居沢の紡績工場に点火 / 本県における電灯使用の初見なり」
(1-2)「1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う」

<市内に供給>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社、合併により宮城水力紡績製紙株式会社に改称 / 出力30KWの三居沢発電所を建設、発電事業開始 / この電力を昼間は紡績工場の動力として使用し、夜間は、同年に設立された仙台電灯株式会社に売り、仙台市内の需要者に供給(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)

(2-1)「1894年(M27)7月15日、宮城紡績会社、宮城水力紡績株式会社と改称、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し、大町と国分町に365灯の電灯が灯る」
(2-2)「1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)、のちの仙台電灯株式会社」

* 1912年(T1)、電灯事業を仙台市が買収

 (以降は、→ 項目「発電事業」参照) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/(1-1)「重訂 宮城県郷土史年表」P275/(1-2)「仙台市史 年表」P86/(2-1)同P88、「新・目で見る仙台の歴史」P124/(2-2)「重訂 宮城県郷土史年表」P298  「目で見る仙台の歴史」P129に、「三居沢宮城紡績会社」と、「山居沢発電所(スケッチ)/「新・目で見る仙台の歴史」P124(三居沢発電所) 
軍都・仙台 第二師団御用達の店(軍関係者、兵士がよく利用した店を含む)    <調査中 資料未完成>

<昭和3年刊「東北産業博覧会写真帳」掲載写真に「陸軍御用達」の記載ある店>
・ パリーヤ洋服店(元寺小路101) 看板に「第二師団、偕行社指定」/軍服
・ 高新もちや(南町) 創業1869年(M2)、第二師団各隊御用、宮城師範学校御用 / 「番丁詳伝」P97では、「東一番丁2丁目、創業は奥州街道に沿う南町で明治2年、片平丁に仙台第二高等学校が開校し、さらに仙台に多くの兵舎が建てられてからは多くの若い人たちが名物のお汁粉を求めての門前市をなし「軍隊餅屋」の名でしられており、昔のあんもちの味を続けている。」
・ 日進堂(南町、和洋菓子、パン製造) 陸軍、鉄道局、逓信局、東北大学各学校諸官衙御用達
・ 須賀川酒造仙台支店(荒町26) 陸軍御用

<「番丁詳伝」などから>
・ 大町(通り)は、川内に兵舎が多く並んでときには、兵隊さんの往来で賑わい、除隊記念品を販売する店も目を惹いた(「番丁詳伝」P81)
・ 製麺製造所 日進堂本店(名掛丁)、日進堂増設販売所(新伝馬町)
・ 大平商店(大町2丁目) 酒味噌醤油飴たばこ小間物
・ 大武写真館(東一番丁) 1903年(M36)開業、日露戦争の頃第二師団御用写真館の指定をうけ軍人の来客多く門前市をなす状況(「番丁詳伝」P31)
・ 村上屋餅店(戦前は柳町の大日横丁) 1877年(M10)、創業 / 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ やぶや本店(大町2丁目、蕎麦屋)「1890年(M23)に、大町2丁目に移る / 川内の兵舎から外出する兵隊も多く利用した」(「番丁詳伝」P37)
・ 大久そば(東一番丁)「東京風のそばで、旧制仙台二高生や軍人などなじみ客で賑わい、また七夕まつりの日などは客止めをするほど人気の店だった。」(仙台老舗百店史) 
・ ブラザー軒(洋食)「特に第二師団関係者が多く利用した」(「番丁詳伝」P36)
・ 武田洋服店 明治初期、大町1丁目で軍の御用商人として、軍服、生地の卸業/M43年、新伝馬町へ/S10年、大町5丁目へ、既製服専門店(「おおまち」P209)
・ 東京屋カバン店 T9年、東一番丁北部で開業/S6年、新伝馬町70に移転(軍隊行李や軍用靴を第二師団や連隊に納入)/S20、戦災で山本丁21へ/S22、大町5丁目へ出店(「おおまち」P210)
・ 横山輪業商会 大正9年創業 / 北海道・東北を販路として東北唯一、全国でも五指に数えられる営業 / 戦前は軍御用となった(「番丁詳伝」P209) 
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P46の図45(仙台市商工業連合会広告)
・「仙台市史 特別編4 市民生活」P47の図46(広告団扇)/「番丁詳伝」P31、P37、P81、P97、P209/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P209~210 
18-35(村上屋餅店)/61-14 (だい久そば店)/61-19(やぶや本店)/61-21(高新餅屋)/ 62-14(ブラザー軒、軍人客と仲居さんたち)/61-22(日進堂) 
自衛隊 宮城県内(警察予備隊、保安隊時代)  1950年(S25)8月~1954年(S29)  <警察予備隊>
* 1950年(S25)8月10日、警察予備隊令公布 / 隊員募集に志願者殺到、宮城県内でも応募者1000人を超える / 8月20日までに県内で7575名が応募、365名合格(第1次入隊)
* 1950年(S25)8月23日、東北6県の第1次合格者1194名が仙台管区警察学校に入る
* 1950年(S25)、その後の入隊者を含め、創設当時の警察予備隊員、東北地方からの約7000人が、米軍苦竹キャンプに4か月間駐屯、米軍顧問機関の指導や訓練を受ける(朝鮮戦争開戦で、米軍第一空挺師団が去り、一時的に空いていた / その後米第一騎兵師団が交代駐屯) / その後、宮城県船岡、山形県神町、青森県八戸などの米軍キャンプ内に隊舎がつくられ、隊員は一時そこに分駐するが、そのほとんどは後に関東や北陸での任務にまわされたという

<保安隊>
* 1952年(S27)7月、警察予備隊と新設の海上警備隊を統合的に指揮する、保安庁設置 / 警察予備隊を「保安隊」、海上警備隊を「警備隊」とし改編 / 保安隊発足当初、東北地方の駐屯地は、宮城県の船岡、青森、秋田の3か所 / その後、郡山、福島、大湊が加わる
* 1954年(S29)、保安庁が改組され防衛庁になり、「保安隊が「陸上自衛隊」に、警備隊が「海上自衛隊」になる
 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333  34-47 (東北管区警察学校) 
仙台空襲 軍隊、学徒動員して遺体収容    <軍隊、学徒動員して遺体収容>
・ 軍隊や警察、消防団、市内の中学校、女学校の生徒も動員される

・ 平貞次郎さん談(当時・歩兵第4連隊 榴ケ岡の兵舎から出向いて5日間遺体収容作業)「仙台駅から西の方は焼け野原で、特に元寺小路から現在の錦町公園にかけての道路に遺体が多くあった。井戸の中に遺体が折り重なっていたり、大きな防空壕では沢山の人が亡くなっていた。 お棺がないので、焼けトタンに1体ずつ遺体を乗せて運び、軍のトラックで新寺と北山の火葬場に運んだ。 あまりに数が多くていつになるか分からないといわれて、自分で火葬にした人もいた。」
・ 室田六郎さん(当時北山火葬場勤務)談「上半身とか片手、片足というのもあって大半は焼死体だが、防空壕で亡くなった人は衣服も体も無傷だった。 釜は16基あったが、燃料不足で1体焼くのに5時間はかかる。一番困ったのは燃料で、新坂通りの街路樹を切ってナマ木のまま使用した。」 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P225~226   
北山五山 輪王寺    <輪王寺>
藩祖政宗に従って米沢~会津若松~岩出山~仙台と移動した伊達家の一門寺
・ 4代藩主綱村治下に、大造営
・ 1876年(M9)、山火事で焼失
・ 焼け残った山門(仁王門)は、元禄盛期の建築

北山五山は、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、光明寺 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125~126  「目で見る仙台の歴史」P155(輪王寺)、P71(輪王寺山門) 
新常盤町(遊郭) (1)新常磐町以前  明治初期~1894年(M27)  <遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止

<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦

・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など

* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了

* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要

<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり

<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり

<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393  99-03398-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」 

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