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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台空襲 |
空襲被害の状況 |
1945年(S20)7月10日 |
(5) 『仙台市史 続編第1巻(行政建設編)』P56~62より
<仙台空襲>
・仙台空襲時には、全市5万1630余世帯の約35%が疎開中
・「昭和20年、仙台市内には、本土決戦に備え東北軍司令部など数々の司令部が設置され、形の上の迎撃態体制は一応つくられていたが、それに伴うべき武器弾薬に乏しく、軍司令部所在地たる仙台に一門の高射砲もなく、木造の模擬高射砲がむなしく空をにらんでいたのである。」
・「7月10日深夜から早暁の仙台空襲では、B29の小編隊(2~5機)が20数回波状的に来襲、投下された焼夷弾は、油脂50キロ、100キロ、小型エレクトロン1号、2号混用などで、市内各所に火災発生後は50mもの烈風となり火勢はたけり狂った。」
・「市電環状線内は見るかげもなく壊滅、地をはいからっみあった電線、トタン、カワラ、ガラスの破片、まちかどにうずくまる重軽傷者、わが子を探し求める母親、性別もわからぬほどに焼けただれた遺体、焼け落ちたビルの残骸からはなお煙と異臭を吐き出す。都心のビルが焼き払われたため、仙台駅前から県庁方面が一望できる始末であった。」
・「死傷者の多くは防空壕内でやられたのである。都心のある防空壕では、ここに避難した老若男女20人が、外の熱気のためむごたらしく死んでいた。東一番丁北端と定禅寺通交差点では、家財を背負って避難途中の市民が折り重なって死んでいた。」
・その他、全焼・半焼した地域(公会別)、焼失した古建築などの記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P56~62
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仙台空襲の焼失区域図は、98-147
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衛戍病院(陸軍病院) |
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1871年(M4)/1890年(M23)/1936年(S11) |
資料によって、改称年がことなっている
【「重訂 宮城県郷土史年表」P250】
* 1976年(M9)11月、仙台鎮台病院、仙台に創設
* 1981年(M14)3月、仙台陸軍病院と改称
* 1898年(M21)5月、仙台衛戍病院
* 1940年(S15)、仙台第一陸軍病院と改称
【Wikipedia「国立病院機構仙台医療センター」】
* 1871年(M4)、仙台鎮台病院設置(仙台城二の丸北西の亀岡御殿辺り)
* 1877年(M10)12月、外記丁の定禅寺跡地に移転
* 1890年(M23)、仙台衛戍病院に改称、のち、仙台陸軍病院に改称。
<衛戍病院 → 陸軍病院>
* 1936年(S11)、仙台陸軍病院に改称
(編者注) 東京などの衛戍病院は、昭和11年に陸軍病院に改称しているので、仙台衛戍病院も同時と思われる
* 1937年(S12)、日中戦争が始まった昭和12年、仙台第一陸軍病院と改称、負傷者が急増したので、宮城野原に臨時の分院が建てられました。それだけでは病院が足りず、現大崎市、川渡ホテルを譲りうけ、鳴子臨時病院を開設して対応しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P37~38)
* 1938年(S13)4月16日、朝香宮鳩彦殿下、仙台陸軍病院慰問(「仙台市史10 年表」P293)
* 1945年(S20)7月10日、仙台陸軍病院、仙台空襲で焼失
<陸軍病院宮城野原分院 → 仙台第一陸軍病院>
* 1937年(S12)、仙台第一陸軍病院宮城野分院、開設 / 昭和12年日中戦争勃発により激増した傷病兵を収容 / 宮城野原練兵場の片隅に応急的に建設 /(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
* 1939年(S14)1月12日、仙台陸軍病院榴ケ岡分院開設(「仙台市史10」年表P295)
* 東北軍管区設置(1945年(S20)4月1日)に従い、この場所に仙台第一陸軍病院が移された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
<地図では>
・「改正仙臺市明細全圖](明治22年5月印刷)では、「陸軍病院」
・「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)と、「最新仙臺市全地圖」(昭和11年5月現在 仙臺市土木課)では「衛戍病院」
* 1945年(S20)、終戦とともに厚生省に移管され、国立仙台病院となる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P398)
→ 以下、大項目「国立仙台病院」へ
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「重訂 宮城県郷土史年表」P250/「仙台市史10 年表」P293、P295/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P37~38/「改正仙臺市明細全圖」(明治22年5月印刷)/「仙台市全図」(大正元年 東洋造画館発行)
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仙台衛戍病院は、53-18、「市民の戦後史(仙台市)」P21/仙台衛戍病院伝染病棟は、99-158/仙台陸軍病院は、53-122/仙台陸軍病院宮城野原分院は、53-118
<関連映像> 98-111(仙台の兵営配置図 明治44年)と98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、衛戍病院の場所がわかる
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藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公誕生四百年祭 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月27日~5月24日、政宗公誕生400年にあわせ、東一番丁百年祭大仮装行列
* 1966年(S41)9月15日、政宗公誕生四百年祭にあたり、伊達名宝展開催(仙台市博物館)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P627
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仮装行列は、47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
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新国町/日の出横丁 |
新設 |
1902年(M35) |
東一番丁と国分町を結ぶ東西の小路(北側の玉沢横丁=現・広瀬通、南側の大町通りと平行)
* 1902年(M35)6月8日、新国町新設開通 / 屋敷の中を南北両側から、4尺5寸ずつの地所を出し合って幅9尺の私設街路をつくる / 両側に小店が並んだ(「東一番丁物語り」P120~123に店の配置やコメントあり) / 北側に16軒、南側に20軒)
* 大正時代は、“日陰町”とよばれさびれた
* 1932年(S8)3月、映画館「仙集館」付近より出火した火災(東一番丁大火)で新国町の大半が焼失
* 1932年(S8)、街路幅拡張
* 1932年(S8)5月、東一振興会が町名募集し、「日の出横丁」と決まる
* 1935年(S10)3月、映画館「日乃出映画劇場」開場
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「仙台市史 年表」P92/「東一番丁物語 明治編」P120~123/「番丁詳伝」P80、P108/「わが町昔がたり」P22
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位置は、98-110の地図で確認
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練兵場 |
講武所練兵場 |
1878年(M11)頃~廃止年不明 |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 講武所練兵場(こうぶしょ)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場
・ 場所は、川内の各兵営と広瀬川を挟んで対岸にあった
<地図では>
・ 「改正仙台市明細全図」(明治22年6月)には、「陸軍省用地」と記載
・ 「仙台市全図」(大正元年)には、「追廻練兵場」とともに「講武所練兵場」の記載あり
用地」と記載
・ 「仙台市全図」(昭和11年)には、「追廻練兵場」は記載あるが、「講武所練兵場」の記載はなし
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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位置図は、98-112
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公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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二十人町 |
戦前 |
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「二十人町」は東北線の東側にある商店街
(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった
・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる
・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた
・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた
・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失
<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121
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写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-05、34-06、34-04、75-04、98-142など)/16-04、16-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」
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年中行事(まつり) |
仙台七夕 |
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* 毎年8月6日~8日開催 → 項目「仙台七夕」を参照
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写真分類E「仙台七夕」の全写真
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東京オリンピック(昭和39年) |
開催 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)10月、オリンピック東京大会(参加94か国)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P616
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因んだ七夕飾り(40-04)/「市民の戦後史(仙台市)」P164(聖火リレー、富谷町付近/記念銀貨交換の列)
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1940年(S15) |
・ 1940年(S15)1月、女学生服の日本化運動(腕と脚を隠す)
・ 1940年(S15)3月、紙糸を使った洋服登場
・ 1940年(S15)7月7日、七・七禁令(奢侈品等製造販売禁止規則) / 洋服の最高価格制限など
・ 1940年(S15)9月13日、中学校の制服、男子は国防色、女子は紺色
・ 1940年(S15)11月2日、国民服令が勅令で定められる / 型は4種 / 上着1号(甲号)は三揃背広を軍服化、2号は1号に準じた型、3号は一般背広の裁断によるもの、4号(乙号)はステンカラー5つボタンの軍服調のもので運動・作業用 / 上着も中衣も軍服に日本調をとりいれ動きやすい形にした
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P50~51
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国民服は、60-40、乙号は、24-01、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図55)
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍地方幼年学校/仙台陸軍幼年学校 |
1897年(M30)/1920年(T9)~1924年(T13) |
幼年学校は、年少段階から陸軍の幹部将校候補を養成する教育機関(場所は榴ヶ岡)
* 1897年(M30)9月1日、「仙台陸軍地方幼年学校」が榴ケ岡に開校 / 14~15歳の少年が受験
* 1920年(T9)8月10日、「仙台陸軍幼年学校」に改称
* 1924年(T13)、軍備縮小計画により廃止
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」が復活、開校式(場所は、三神峯)
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「仙台市史 年表」P90、P99/「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 特別編4 市民生活」P298
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地図は、98-111,98-113/「新・目で見る仙台の歴史」P135(仙台陸軍地方幼年学校の門標)
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輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊 |
大隊 →連隊と改編(名称変更) |
1936年(S11) |
* 1880年(M13)4月24日、輜重兵(しちょうへい)第二小隊を仙台鎮台に設置(仙台城内に仮営を開設)
* 1884年(M17)5月の仙台鎮台編制に「輜重兵第二大隊」がみられる
* 1888年(M21)、1897年(M30)、1907年(M40)、1925年(T14)の第二師団編制にある
* 1936年(S11)6月1日、輜重兵第二連隊と改編
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宮城県史7の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P452
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大隊は98-108、99-156
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ガダルカナル戦 |
慰霊祭 |
1943年(S18)7月 |
* 1943年(S18)7月23日、仙台駅前広場で、ガダルカナル島戦の英霊奉迎式
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
<「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106より>
「1943年(S18)7月23日、宮城県出身者の英霊は2274人。いままで聞いたことも見たこともないほど多くの英霊が白木の箱に収められて帰ってきました。 国鉄仙台駅前で奉迎式が行われた後、英霊は儀仗隊に守られ、哀悼のラッパと共に榴岡の歩兵第4連隊など原隊に帰って行きました。
7月30日夜7時から川内の追廻練兵場で合同通夜、翌31日朝8時から合同慰霊祭が行われました。会場の中央には仮設の大テントが張られ、祭壇にまつられた白木の棺が、人の背丈の何倍もある高さの天井まで重なっています。国鉄は慰霊祭に参加する遺族のために列車を増発し、慰霊祭を前に仙台市内の中学、高等女学校の男女生徒は会場になる追廻で遺族が座る椅子の運搬に終日汗を流しました。
戦後、ガタルカナル島からの生還者を中心に毎年のように遺骨収集作業が行われてきました。皆さん高齢化して、2006年(平成18年)で終わりとなりましたが、島にはまだ多くの遺骨が残っています。」
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「仙台市公報」(昭和18年8月1日) P287/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P103~106
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奉迎式は、16-57、16-67、16-66/遺骨原隊へは、16-58/慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62/感謝献金呼びかけは、16-68
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1942年(S17) |
・ 1942年(S17)2月1日、衣料切符制度実施
(1月中は、全衣料品の移動禁止し、在庫品調査)
年間に、市では1人100点、郡部は80点
・ 宮城県、繊維製品の取引団体を指定
三越、藤崎や繊維製品関係小売商業組合などの諸組合
指定取引団体のみが、県に新しく設立された繊維製品
統制会社から、配給を受けて消費者の手に渡す
・ 1942年(S17)2月、厚生省、婦人の標準服(和・洋)を指定
甲型、乙型、活動着も甲型と乙型
他に下着と付属品
・ 1942年(S17)2月4日、文部省、青年学校生徒の制服制帽を、前年制定した中学校の制服と同型とした
・ 1942年(S17)年、外出時のゲートル使用が強制され、
ゲートル姿や白はちまき姿が街にあふれるようになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51~52
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婦人標準服は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図56)
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宮城県護国神社 |
招魂社を改称 |
1939年(S14) |
* 1904年(M37)8月28日、本丸跡に「招魂祭殿」成る(「仙台城」P233)/ 本殿は神明造銅板葺き、前に土間式瓦葺の拝殿 / 毎年4月30日に盛大な招魂祭
* 1904年(M37)8月28日、「招魂社」が仙台城本丸跡に竣工
* 1939年(S14)4月1日、招魂社を「宮城県護国神社」と改称
* 1939年(S14)4月10日、護国神社法制定、招魂社を県護国神社と改め、社殿改築に着手(「仙台城」P234)
・ 改築は全額寄付(総額みこみ25万円、県費、多額納税者、銀行会社、学生生徒、仙台市は市民への割当、他の市町村)でまかない、工事には軍隊、学生生徒、青年団が参加(「戦争のころ 仙台、宮城」P38、出典は「宮城県知事事務引継書」)
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P234/「目で見る仙台の歴史」P142/「重訂 宮城県郷土史年表」P331、P467、/「仙台市史 年表」P92、P110/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P38
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宮城県護国神社は、16-06、16-07/ 招魂社の時代は、99-159、98-091、「目で見る仙台の歴史」P142に「本殿唐門」と「拝殿」
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第二師団 |
仙台鎮台を改称 |
1888年(M21)~1945年(S20) |
・ 1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つだった
・ 明治初期以来、東北鎮台・仙台鎮台・第二師団の時代を通じ、仙台市川内(旧仙台城二の丸跡)に司令部を置き、市内の川内、榴ヶ岡、宮城野原に、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各種部隊(連隊・大隊)を配置、県外では時代により変遷はあるが、福島県内、新潟県内などの連隊も隷下においた
* 1871年(M4)年11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台本営を第二師団司令部とす(「仙台城」P232)
* 明治、大正、昭和(20年まで)、海外出兵、国内出動多数
→ 項目「第二師団(出兵記録)」参照
→ 項目「歩兵第4連隊」参照
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯
<参考> 当サイト内、写真ベータベースの【関連資料】G-26「仙台の兵営」には、仙台関連の陸軍師団、各連隊などの一覧、学校、工廠など軍関連施設一覧と、それぞれの年表が記載されている
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「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685以降の「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232
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師団司令部は、98-084、「市民の戦後史(仙台市)」P22、「新・目で見る仙台の歴史」P135/「いつか見た街・人・暮らし」P47の写真169(大正7年度軍旗祭、歩兵第29連隊)/同P169の写真171(大正15年、陸軍特別大演習での観兵式、宮城野原練兵場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P295(M30年、川内兵営の図)/ 95-02
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商店など |
江陽会館 |
1957年(S32) |
<江陽グランドホテルHPの「会社概要」より>
* 1933年(S8)、仙台市内に営業写真館として創業を開始 * 1957年(S32)、総合結婚会館(東一番丁・森徳横丁北東角)の運営へと営業規模を拡大
* その後、宿泊施設を付帯させたホテル江陽結婚会館
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(青葉区本町二丁目3-1)
<東一番丁・森徳横丁角北東角のビル>
* 1957年(S32)4月、結婚会館として竣工
* 1964年(S33)9月、増築
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
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江陽グランドホテルHP/他
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店舗配置図 98-124 (東一番丁北部の空襲直前と終戦後)、店舗配置図 98-126(S32) / 99-014、201-45 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮、画面左上の東一番丁・森徳横丁北東角のビル)
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森天祐堂 |
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昭和初期~ |
* 昭和はじめ、文化横丁で開店(店主・森権五郎氏は明治34年生) / 文化キネマ(大正14年に開館した映画館)に隣接し、ブロマイド専門店だった
* 1933年(S8)、東一番丁大通りへ移転
* 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
* 1945年(S20)夏、空襲後、いちはやく東一番丁で店再建(バラック → 木造)
* 青葉通り開通(S25)後、店は東一番丁・青葉通り北東角になった
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森天祐堂(森つきサン)談/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197
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戦前は53-28 / 戦後は、53-05、53-06、53-07、53-10
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金富士(料理店) |
開店~閉店 |
1930年(S5)~1971年(S46) |
玉澤横丁にあった、西洋料理と中華料理の店
・戦前、「銀のスプーンで」食べるカレーライスが人気だった
・「崑崙(こんろん)山」と名付けた庭で有名だった /
<崑崙山(息女の石井直子さん談)>
「この庭は、初代の経営者石井金三朗が全国を回って集めた天然石で築造、昭和初期に1000円もした高価な石も使われた。 庭の地下に水槽をつくり電動ポンプで水をくみ上げた滝もあった。庭にある鳥居も石で出来ていた。帽子をかぶった人が腰かけているのうな石もあった。トイレにも自然石が使われていた。土井晩翠が詩に詠んだほどの名所だった。」
* 1930年(S5)開店(玉沢横丁)
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
* 1948年(S23)、再建し1971年(S46)まで営業した
【「仙台年表」P201】「昭和5年、仙台国分町の金富士寿司経営者、石井金三郎氏、石崑崙を築く。面積260平方尺、高さ20尺、集石に5年、築造に1年、大小の石は北海道アイヌから九州迄に及び10万円を費やす」
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金富士の家族談/仙台年表P201
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戦前は98-110、71-01、71-02、71-03、71-04、71-05、71-06、戦後は71-07、71-08、71-09、201-43
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日本銀行 |
仙台支店(芭蕉の辻)開設 |
1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店
(2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
(3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後)
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商店など |
大一楽器店 |
創業年不詳 |
・ 大町4丁目で和楽器店開業
・ 2回目孝吉が戦前、東一番丁の「大通り」に移転し、音楽ホールつきのビルを建設 / 杮落しは藤原義江のリサイタル、以後仙台の音楽愛好家の殿堂となった
・ 店主孝吉夫人の「いとさん」は、番街三美人の一人と言われ、いつもきりっとした身嗜みで物故するまで店頭に立っていた
・ 戦後まもなく(進駐軍がいた時代)、2階に米軍下士官兵専用のキャバレー「「セント・クイーン」があった(写真番号44-35に、その入口が写る)
・ ホールは、戦後「名画座」(洋画のリバイバル館)となる
* 1984年(S59)、野村大一ビルを完工 / 長崎屋(カステラ)、マクドナルド、文明堂などが入居
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「番丁詳伝」P211
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戦前は、20-45、22-55、53-117/戦後は、53-08、44-35/「市民の戦後史(仙台市)」P70
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斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
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「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
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戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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商店など |
丹六 |
創業年不詳 |
<戦前>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し、裏五番丁角にあった
(店舗配置図 98-044 、 98-045 、 98-046 参照)
・ 1928年(S3)の写真 98-047 の説明文に「仙台にたった一軒の夜通食堂。和定食は三十銭より、洋定食は壱圓より、そば、すし、丼類一式、階上大広間は宴会に団体に、午前六時より御入浴御随意。店主菊地粂五郎」
・ 仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失
<戦後>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し青葉通り角にあった
・ 菓子の量り売り(安売り)で人気があった店
* 1961年(S36)12月、火災
<参照> 丹六人気 → 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「F-4 丹六」
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S36年火災は、「わが心の仙台駅前史」年表
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戦前は、98-047、53-92/戦後は、20-08、 53-82、98-049 、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P24~25(S30年代初め頃、夜間)、同P73(S39、カラー)
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富国生命館(国分町) |
完成~解体 |
1938年(S13)~1987年(S62) |
* 1938年(S13)10月、完成(国分町・魚町南西角)
* 1945年(S20)秋、進駐軍に接収され、軍事占領業務を司どる「宮城軍政府」がおかれた
* 1987年(S62)1月21日、解体
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「続・ 宮城県郷土史年表」P218
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戦前は、99-027、99-028/ 空襲後は53-80/ 戦後は、20-03
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
*******************************
「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
*********************************************
<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
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「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
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戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
米軍接収、自衛隊基地 |
1945年(S20)9月/1957年(S32)12月 |
<戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
* 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155
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戦後の接収時代は、62-06、62-07
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
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・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
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拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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戦災復興事業 |
難航した堅牢建物移転 |
1948年(S23)~1958年(S33) |
<建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など
<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
・ 多門通常盤丁線の小林家住宅
・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了
<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349
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撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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電話開始(仙台) |
開始(仙台) |
1900年(M33) |
* 1884年(M17)、宮城県庁・仙台警察署・宮城県監獄に電話が架設される(「仙台市史 年表」P85)
* 1895年(M28)3月20日、藤崎呉服店の藤崎三郎助、宮城県内の民間で初めて電話を架設(「仙台市史 年表」P89)
<電話交換開始>
* 1900年(M33)12月27日、南町の仙台市電話交換局開設、仙台市内の電話交換を開始(加入者170名、170台、市内通話のみだった)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台市史 年表」P91、「仙台はじめて物語り」P181、「仙台あのころこのころ八十八年」P240、)
* 1901年(M34)、塩釜電話所と市外通話が可能になる
<長距離電話> 下記記述、時期に矛盾あり
* 1906年(M39)4月、東京・福島・仙台・盛岡・青森間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P335、「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1924年(T3)6月1日、東京・仙台間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P358、「宮城県の百年」年表)
・ この時代の電信電話は真空管の発明以前でもあり、多重通信の技術はほとんど存在せず、1回線につき1本の通信線が必要で、1本の電信電話柱に数十本の架線がなされていた
・ 1901年(M34)の仙台市内の電話番号・電信略号が、「名家実業家一覧地図(明治34年)」の裏面に記載あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142/「仙台市史 年表」P85、P89、P91/「重訂 宮城県郷土史年表」P320、P335、P358/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台はじめて物語り」P181
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数多くの電話線が張られている → 44-22、77-21、44-19、44-18
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P142(郵便局電話課での電話交換風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P349(M36年、仙台商工家電話寿語録、カラー)
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仙台電報局 |
木造2階建て庁舎 (青葉通り・東二番丁角)/5階建新庁舎 |
1947年(S22)/1963年(S38) |
写真20-07の庁舎は、東二番丁・青葉通り北東角にあった(のちのダイエーの場所) / S22年~S38年までの庁舎
<「仙台老舗百店史P142~143」の「仙台電信局」より>
仙台の電信局は、
* 1874年(M7)9月25日、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通して、公衆電報の取り扱い開始
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579では、明治36年に移転)
* 1947年(S22)にまた電信局に分離し、東二番丁・青葉通り北東角(木造2階建庁舎へ移る」(編者注:電信局は、昭和24年に電報局に名称変更)
<資料により、移転年に違いあり>
* 1961年(S36)4月4日、仙台電報局(地上4階、地下1階)を東二番丁に新築し移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
* 1963年(S38)、仙台電報局は青葉通りの木造局舎から、東二番丁南町通り南の新局舎(5階建て)へ移転、仙台中央電報局と名称変更(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
*、1963年(S38)6月22日、「中央電報局」に昇格
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「仙台老舗百店史P142~143 仙台電信局」(一部記述に間違いあり)/「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P600/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580
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木造2階建庁舎(東二番丁・青葉通り北東角)は、20-07/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年)
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霊屋橋(広瀬川) |
木造吊り橋新設完工 |
1916年(T5) |
* 以前は“粗末な有料三文渡し”があった
* 1908年(M41)5月24日、越路橋架橋(今の霊屋橋より100m程下流に)
* 再三水害にあい、1910年(M43)に流失
* 1915年(T4)8月20日、越路橋を霊屋橋と改称
1916年(T5)、木造吊り橋新設完工(霊屋橋と命名)
* 1934年(S9)8月、市失業対策事業として架け替え起工
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362/「仙台市史 年表」P94/「仙台市史10」年表P247、P283
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木造吊り橋は、99-109、43-29/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図52(木造吊り橋)
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東一マーケットと中央マーケット |
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・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
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「市民の戦後史」P50、P30
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東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
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大型店・量販店 |
緑屋 |
1959年(S34)~1982年(S57) |
* 1959年(S34)、緑屋東一番丁店がオープン(青葉区一番町4-5-13 サンシャインビル内)、S57年に閉店
* 1967年(S42)3月、東北ビル完成し、緑屋仙台駅前店が開店(「わが心の仙台駅前史」年表)
* 1977年(S52)5月20日、仙台駅前店オープン(「続・ 宮城県郷土史年表」P68)(青葉区中央1-9-1新東北ビル内) / Wikipediaでは、1967年(S42)開店 - 1982年(S57)閉店
* 1982年(S57)3月8日、西部クレジットが、緑屋東一番丁店と仙台駅前店を閉鎖(「続・ 宮城県郷土史年表」P143)
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「わが心の仙台駅前史」年表/Wikipedia「緑屋」/「続・ 宮城県郷土史年表」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P143
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東一番丁店は、31-16(マークのみ見える)
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銀行(都市銀行) |
不動貯蓄銀行/日本貯蓄銀行/協和銀行 |
1912年(T9)/1945年(S20)/1948年(S23) |
<協和銀行仙台支店>
* 1912年(T1)8月1日、不動貯蓄銀行仙台代理店を南町通り36に開業
* 1945年(S20)5月13日、9大貯蓄銀行合同し、日本貯蓄銀行と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P504 / ただし、同P353では、9大貯蓄銀行合同は、1947年5月15日)
* 1948年(S23)7月15日、日本貯蓄銀行を普通銀行に転換して、協和銀行と改称
* 1953年(S28)12月、仙台支店を東一番丁南通り北西角に新築(仙台ビルヂング)し、東二番丁通りより移転(6階建て、仙台初の本格的な貸事務所ビル / 1階は東二番丁から移転した協和銀行が入居したほか、銀行協会、仙台手形交換所、弁護士事務所、会計士事務所、中央出先会社が入居 / この場所にあった飯田信七商店(小間物、化粧品の卸小売)は、卸町に移る(「番丁詳伝」P210)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353、P504、P528/「仙台市史 年表」P118/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194
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東二番丁の協和銀行は、22-25、22-26、南町通移転後の協和銀行36-08 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(仙台ビルディング)
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街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
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街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
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街灯(国分町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2)
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
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「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
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東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
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軍用機献納 |
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「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
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「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
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民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
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商店など |
永楽園(茶舗) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)、山形市からきて、国分町で開業
* 大正初期に家具販売も、銘茶・漆器・家具を扱う家庭洋品百貨店に
* 漆器や家具販売部門が独立 / 茶は一番町
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「番丁詳伝」P99
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永楽園の七夕飾り物(79-01 ほか)
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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