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東一番丁(大通り 昭和8~11年頃)
東一番丁(大通り 昭和8~11年頃)

分類項目 東一番丁(南部) 
タイトル 東一番丁(大通り 昭和8~11年頃) 
写真番号 20-45 
場所 仙台市東一番丁(大通り)
映像内容 絵葉書「(大仙臺の名所) 東一番丁大通り」を複写 / 東一番丁は戦前、藤崎(大町通り角)を境に南は道幅が広かったため「大通り」と呼ばれた

/ 奥が南方向、奥の道上を横切る看板「キリンビール」までが大通りで、そこが南町通りとの交差点になる(大通り地区は戦後の「サンモール一番町商店街」にあたる)
/ <道の右側>手前の木立が一力邸(河北新報社長)、順に大一楽器(ビル、上が三角の屋根)、一軒おいて水晶堂(メガネ屋)、のぼり旗(文化キネマさんへ)が文化横丁の入口 / 「キリンビール」横長看板の右上のビルが、東一・南町通り交差点南西角の日本生命館(先が尖った屋根) / 日本生命館は昭和3年10月落成、レンガ造りなので仙台空襲でも焼け残った 
/ <道の左側> 最奥は「東北帝国大学」
/ <戦前の街路灯(スズラン灯)> 東一番丁(大町角以南の「大通り」は統一され、1基4灯型(上1、下3)で、支柱に「わかもと」の円形の宣伝看板がついていた

/ <歳の市や夜店> 一年を通じて毎夜、道の真ん中には夜店が並び、また年末には「歳の市」が開かれた(関連情報欄参照)

/ 東北帝国大学の一部を除き、見渡す範囲はすべて仙台空襲(昭和20年7月)で焼失した
撮影年代 1933年(S8)~1936年(S11)の間 
撮影年代判定根拠 ①「わかもと」の発売開始は昭和8年 (備考欄参照) / ②昭和11年12月に文化キネマが「大通り」西面に移転する以前
関連情報/参考文献  <太白区 山形政さん 女性> 昭和10年~12年頃の「東一番丁大通りなど」の思い出です。
 [一力邸] 東一番丁(大通り)の森天祐堂さん 53-28 の向かいに、一力河北社長のお宅があり、一力邸の壁に東北帝国大学入学者などの名前が発表、張りだされ人が集まっていました。

[戦前の映画館] 文化キネマでは、映画「月よりの使者」(入江たか子、高田稔主演)を見たのが思い出です。 日曜日に文化キネマや日活などの映画館に行くと、(歩兵)四連隊の兵隊さんでいっぱいでした。 日乃出横丁には日乃出映画館があり洋画専門館でした。
 
 <青葉区 平塚長治さん> 大通り右側の大きな建物(上が三角)は大一楽器と思う。  その右隣が一力邸の板塀で、そこに入試の合格者名が掲示された。(戦時中、仙台一中生の時代に見た)

【「仙台市大観」(昭和10年刊)P43】「大通りには一年を通じて毎夜、夜店が開かれ往来の人で夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの中央マーケットには、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開など)あり、遊技場として昼夜雑踏を極めている。」
備考 <夜店の思い出(1996年、鈴木東吉さん談)> 「昭和7~8年頃、私は12~3歳で東一番丁に住んでいました。大通りの道の真ん中には夜6時すぎから10時、11時ころまで、沢山の夜店が並んで賑わいました。実演付きの販売の例、煎茶にタバコの煙を吹き付けて、普通の歯磨き粉を入れると黒く変色するが、この歯磨き粉を入れると黒でなく透明に変わる。だから歯が白くなるよと言いながら売っていた。 泥の万年筆を、火事で焼けた工場から出たといって安売り。2銭やるからサクラをやってくれと頼まれたこともあった。夜店の並びは、南から北へ順に、おおまかに3つのブロックだった。野菜・果物、バナナのたたき売り、花・本・表札つくりだったかな。」

<歳の市の思い出(渡邊慎也さん)> 「昭和戦前期の思い出です。年末には、大通りで「歳の市」が開かれ、年末年始用品が出て、賑わった。神棚用品、仏具類、瀬戸物(正月に新しくする)、鍋、釜、しゃもじ、箸、正月用食品、松飾り、など。 一力邸の前あたりにでは「星の玉」(正月用の飾り)を売っていた。一般用は、火炎玉の下にエビ、仏事用は火炎玉の下にコンブがついていた。 夜は独特のにおいがするカーバイトを焚いて明かりをとった。 一力邸は、仙台空襲で焼失し、戦後そこは青葉通りの用地となった。」

<わかもと製薬株式会社HP>「わかもと」(消化・整腸・栄養剤)の製造販売を開始は1933年(S8) 
カラー/モノクロ モノクロ 
分類内の通し番号
画像ファイル名 sendai084 
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