項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台駅(戦後) |
新駅ビル開業 |
1977年(S52) |
* 1974年(S49)6月7日、新仙台駅起工式(「続・ 宮城県郷土史年表」P30)
* 1976年(S51)12月17日、仙台駅新駅ビル起工式(「仙台市史 年表」P130)
* 1977年(S52)12月15日、仙台駅90周年、新仙台駅が新幹線に使用する部分を除いて開業(駅舎4階と地下1階とステーションデパートなど入る建物で営業開始)
* 1978年(S53)3月18日、東西自由通路完成
* 同日、仙台駅ビル内にS-PAL(エスパル)開店
* 1981年(S56)6月10日、駅前西口バスプール、使用開始
* 1985年(S60)12月14日、仙台駅に仙鉄局直営飲食店開店
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「続・ 宮城県郷土史年表」P30/「仙台市史 年表」P130、P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P75、P79、P129、P198/「わが心の仙台駅前史」年表
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「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図3(S52年頃の新駅ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P105(S53、カラー)
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銀行(地域の銀行) |
宮城商業銀行 |
1897年(M30) |
* 1897年(M30)4月27日、株式会社宮城商業銀行、仙台に設立 / 資本金5万円、頭取は佐和正(「重訂 宮城県郷土史年表」P308)
* 1897年(M30)7月1日、宮城商業銀行、開業(「仙台市史 年表」P90)
* 1898年(M31)2月21日、頭取に手島雄八郎就任
* 1912年(M45)2月29日、仙台市の金庫事務取扱銀行指定
第一本金庫(東北実業銀行)、第二本金庫(宮城商業銀行)、第三本金庫(七十七銀行)(「重訂 宮城県郷土史年表」P351)
* 1912年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P308、P311、P351、P409/「仙台市史 年表」P90
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
宮城貯蓄銀行/五城銀行/東北貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1932年(S7) |
* 1893年(M26)、第七十七国立銀行が、銀行条例の改正により、貯蓄預金取り扱いのため、宮城貯蓄銀行を大町1丁目に開業(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* 1893年(M26)、宮城貯蓄銀行を仙台市大町二丁目に創立
* 1901年(M34)、株式会社宮城貯蓄、同仙台貯蓄両銀行倒産
* 1902年(M35)、仙台貯蓄、通商貯蓄、国民貯蓄の各銀行解散
* 1908年(M41)、宮城貯蓄銀行に取付あり
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* 1921年(T10)11月、宮城貯蓄銀行が、普通銀行に改組し、商号を五城銀行と改称(貯蓄銀行業務は新設の宮城貯蓄銀行に譲渡) (「仙台市史 年表」P100、「重訂 宮城県郷土史年表」P382、「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* T12年3月26日、五城銀行(頭取、伊沢平左衛門) が、第八銀行(大正3年12月国分町に創設、頭取山田久右衛門)と塩釜銀行を合併(頭取、伊沢平左衛門)( 「仙台市史 年表」P101)
* 1932年(S7)2月1日、七十七銀行が、五城銀行と東北実業銀行を合併
* 1934年(S9)1月20日、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行とが合併、東北貯蓄銀行を大町五丁目に設立(「仙台市史 年表」P107、「重訂 宮城県郷土史年表」P439)
* 1945年(S20)5月1日、七十七銀行が東北貯蓄銀行を買収(「重訂 宮城県郷土史年表」P504)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P294、P323、P326、P342、P382、P387、P439、P504/「新・目で見る仙台の歴史」P132/「仙台市史 年表」P100、P101、P107/「仙台年表」P203
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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仙台市歴史民俗資料館 |
開館 |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)11月3日、榴ケ岡の旧歩兵第4連隊跡に残された兵舎を利用して開館(榴ケ岡公園内)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P102
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(仙台市歴史民俗資料館外観、カラー)、「仙台市史 特別編4 市民生活」P232とP193に(外観と展示室、カラー)
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仙台商業会議所/仙台商工会議所/宮城県商工経済会/仙台商工会議所再発足 |
設立/改称/改称/再発足 |
1891年(M24)/1928年(S3)/1943年(S18)/1947年(S22) |
<仙台商業会議所>
* 1891年(M24)6月、仙台商業会議所設立
* 1924年(T13)、東二番丁に仙台商業会議所、竣工(鉄筋コンクリート2階建)
<仙台商工会議所>
* 1928年(S3)1月、仙台商業会議所を仙台商工会議所に名称変更
<宮城県商工経済会>
* 1943年(S18)9月28日、仙台商工会議所を改組(解散)し、宮城県商工経済会と改称(結成)(10月1日、開所式)
・ 自由商工人の自治活動であった商工会議所は、商工経済会という政府機関として、地域の中小事業者の転廃業の事務機関の役割を果たし、役員も天下りで決められて従来の商工人はしりぞけられる傾向であった「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700)
<戦後・再び商工会議所へ>
* 1947年(S22)2月1日、仙台商工会議所と改称(再発足)
* 1956年(S31)5月、仙台商工会議所会館の改装新築
* 1979年(S54)9月、新館着工(10月12日、建て替えのため解体)
* 1980年(S55)12月19日、仙台商工会議所会館落成
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目で見る仙台の歴史」P151/「仙台市史 年表」P87、P112/「重訂 宮城県郷土史年表」P409、P498、P515、P581/「仙台市史10 年表」P202、P306、P315/「続・ 宮城県郷土史年表」P101、P120/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700
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「新・目で見る仙台の歴史」P132(創立当時?の商業会議所)/同P144(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「目で見る仙台の歴史」P151(大正13年竣工の仙台商業会議所)/「市民の戦後史(仙台市)」P34(大正13年竣工の仙台商業会議所)/53-50(戦後、改築前)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P726(戦後改築後の商工会議所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P441(S29年、仙台商工会議所)
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第二師団(出兵記録)(2) |
出兵記録(凱旋・慰霊などを含む) |
明治年間(2) |
<日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)
<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊)
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)
<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」)
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「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99
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「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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師範学校 |
宮城師範学校(官立) |
1973年(M6)~1878年(M11) |
* 1973年(M6)11月17日、官立宮城師範学校が勾当台通に開校
* 1878年(M11)2月14日、同校廃止
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「仙台市史 年表」P80、P82
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「新・目で見る仙台の歴史」P138(宮城師範学校)
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東北学院(沿革) |
戦前期 |
1891年(M24)~1945年(S20)夏 |
<東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置
<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う
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「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂)
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高等学校(新制) |
宮城県第二女子高等学校/宮城県仙台二華中学校・高等学校 |
1948年(S23)/2010年(H22) |
<前史 1 東華学校、私立東華高等女学校>
* 1886年(M19)9月11日、「宮城英学校」が清水小路に開校
* 1887年(M20)6月17日、「東華学校」と改称
* 1904年(M37)5月13日、「私立東華女学校」が県立宮城第一中学校清水小路分校跡に開校
* 1905年(M38)4月1日、「私立東華高等女学校」と改称
* 1908年(M41)、東九番丁に移転したときに、旧東華学校(M30年設立)の本館を移築 / T10年に二高女と合併するため廃校
<前史 2 宮城県立第二高等女学校>
* 1918年(T7)4月1日、「宮城県立第二高等女学校」、中島丁の宮城県女子師範学校内に開校
* 1921年(T10)2月、<前史1>の私立東華北高等女学校と合併して同校地に移転 / 高等科を設置(T15年に廃止し宮城県女子専門学校を開設) / 同女専はS9年に越路へ移転、二女高はその跡へ移る
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、宮城県第二女子高等学校と改称 / 定時制を併置、中田六郷・西多賀に分校を置いたが、のちに廃止
* 1973年(S48)5月12日、「宮城第二女子高校」で、東華学校時代の本館取壊し決まる
* 2010年(H22)、 男女共学校、中高一貫校となり、「宮城県仙台二華中学校・高等学校」に校名変更
* 2010年(H22)7月1日 - 宮城県第二総合運動場のラグビー場が当校の第2グラウンドになる
* 2019年(H31)、 学年制から単位制へ移行
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<前史1>関連>
「仙台市史 年表」P86、P92、P100/「明治の洋風建築-宮城県-」P60「東華学校」/「宮城県百科事典」P1001「宮城県第二女子高等学校」
<前史2関連>
「仙台市史 年表」P98、P100/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521
<学制改革後>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城県仙台二華中学校・高等学校」HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(東華学校)/同P141(宮城県女子専門学校図書室)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、東華学校校舎(東九番丁移転後)
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東北帝国大学 |
沿革(1) ~理科大学・医科大学・工学専門部~ |
1907年(M40)~1919年(T8) |
<東北帝国大学>
* 1907年(M40)6月22日、東北帝国大学、東京、京都につぐ3番目の帝国大学として仙台に創立(設置決定)
・創立に当たり新設経費として、古河虎之助、宮城県、北海道から寄付を受ける(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532)
・古河虎之助から40万6262円、宮城県から15万円、北海道から10万円の寄付(「重訂 宮城県郷土史年表」P338)
・日露戦争後の不況で国庫は不況で国庫は底をついていた。時の内相原敬は、古河合名社の副会長だったが、足尾鉱毒事件への世の批判を和らげ、東北帝国大学創設の行き詰まりを打開しようと、富豪に献金を行わせて100万余円を得た。赤レンガの校舎全部は古河の寄付によった。県の寄付15万円は設備備品費分であった。(「宮城県百科事典」P756)
<東北帝国大学農科大学(札幌)>
* 1907年(M40)9月、札幌農学校が東北帝国大学農科大学となる
* 1918年(T7)4月、農科大学が東北帝国大学から分離独立し、北海道帝国大学農科大学となる
<東北帝国大学理科大学 / 理学部>
* 1911年(M44)1月1日、理科大学を片平丁に開設(3月に、数学・物理学・化学・地質学の4学科12講座を置く)、9月11日授業開始(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532、宮城県百科事典」P756)
* 1913年(T2)9月22日、理科大学、「女性3名が入学して初の女性の帝国大学生となる」(「仙台市史 年表」P96)
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学理科大学が、東北帝国大学理学部に改編・改称される
・ 東北帝国大学理科大学の名称は、M44年~T8年の約10年間 / 理科大学の正門は、理科研脇にあった
<東北帝国大学医学専門部 / 医科大学 / 医学部>
* 1912年(M45)4月、仙台医学専門学校を合併して、医学専門部とする(T7年4月26日、廃止)
* 1915年(T4)7月14日、東北帝国大学医科大学開設
* 1919年(T8)4月1日、東北帝国大学医科大学が、東北帝国大学医学部に改編・改称される
<医学専門部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照
<工学専門部>
* 1912年(M45)4月、仙台高等工業学校を合併して、工学専門部とする
* 1921年(T10)4月1日、工学専門部が分離独立し、再び仙台高等工業学校となる → 項目「仙台高等工業学校」参照
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東北大学HP掲載「沿革図」http://www.bureau.tohoku.ac.jp/koho/pub/gaiyou/gaiyou2011/pdf/gaiyo2011_05.pdf#search=%27%E6%9D%B1%E5%8C%97%E5%A4%A7%E5%AD%A6+%E6%B2%BF%E9%9D%A9%27
設置年月などが下記年表と東北大学HP「沿革図」と異なる場合は「沿革図」を基本にした
「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P94、P95、P96、P97、P98、P100/「仙台市史10 年表」P239、P286、P313/「重訂 宮城県郷土史年表」P338、P348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532
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「新・目で見る仙台の歴史」P141(M44年、東北帝国大学開学式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P256(T5年、教師・学生記念写真、日本初の女子大生牧野らくも写る)/同P257(T2年、女子入学に対する文部省の意見書)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P263(女子入学を風刺する「東京パック」)
/理科大学は、18-18、99-063、99-064/医科大学は、99-066、53-60/「宮城県百科事典」P756~757(片平丁の大学本部写真、昭和4年頃の片平丁校舎構内)
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大学・短大 |
宮城学院女子大学・短期大学(前史) |
1900年(M33)~1948年(S23) |
<前身の「専攻科」>
* 1900年(M33)、聖書専攻科(1年制)設置
* 1912年(M45)、家政専攻科(3年制)設置
* 1913年(T2)、英文専攻科(3年制)設置
* 1916年(T5)、音楽専攻科(3年制)設置
* 1936年(S11)、聖書専攻科廃止
* 1943年(S18)、国語専攻科(3年制)設置
* 1944年(S19)8月、家政科教室は、専攻科生が勤労する軍事工場の作業場に / 校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲により「大講堂」「第2校舎」を残して校舎7棟を焼失 / 焼失の延床面積1277坪、罹災教職員14名、罹災生徒約200名、逝去生徒3名
<戦後>
* 1945年(S20)9月、授業再開
* 1945年(S20)10月、GHQ占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復
<宮城学院女子専門学校>
* 1946年(S21)、専攻科を女子専門学校と改称し、育児・国語・外国語(英語)・音楽の4科設置
* 1951年(S26)3月31日、女子専門学校廃止
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「宮城学院」HPの中の「沿革」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~543
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「新・目で見る仙台の歴史」P142(宮城学院女子大学校舎)
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米騒動 |
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* 1918年(T7)8月富山県魚津町の主婦たちから始まった米騒動が、8月15~16日、米価の暴騰に悩む仙台の民衆にも波及した。シベリア出兵の軍用米買い占めなどが原因だった / 仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった。
<仙台の米騒動>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499「米騒動と仙台」に詳述有)
・ 推定のべ6000~7000人の市民が参加
* 1918年(T7)8月11日、廉米払下請願市民大会(五城閣、400名参加) / 東華新聞社長小野平一郎らが主催、外米買入の陳情と売り惜しみへの警告を決議
* 同年8月13~14日、仙台停車場など市内各所の電柱・板塀によびかけビラ
* 同年8月15日夜、西公園、青葉神社、東三番丁、宮城野原、伊勢堂山、仙台停車場前広場、新常磐町と、市内7カ所に市民が参集、約13組の集団をつくり行動、大米穀商、高利貸、酒味噌醤油業など37軒以上に押しかけ、米の廉売、金や在庫米の寄付などを交渉・強要、当時1升42銭の米を25銭から20銭に、味噌醤油の廉売する承諾書の貼紙を出させた / 西公園からは約500名出発、途中各所で演説、名掛丁に達するころには1400名
* 16日、仙台警察署は、盆火を禁止、日没後の禁足令(外出禁止令)を出す / 市は発注した外米を市内各所で1升15銭で廉売、米穀商の多くは約束履行を渋っていた
* 16日夜、西公園から、警官の解散命令を無視して、行動 / 米穀商、高利貸、その他資産家宅で、米・味噌醤油・薪炭の値下げ要求もあったが、貧民救済資金の寄付集めを目的とした行動が多かった / 知事の要請で軍隊(歩兵第4連隊)が出動、市民の集団が大町の藤崎呉服店付近で銃に着剣した兵士と衝突、拘引された市民の奪還に出るなど険悪な状態 / 鉄砲町の高利貸宅で前夜予約した寄付金につき再交渉、主人の態度が曖昧で、数十人が侵入し戸障子を破壊、火の手が上がる(但しこれは稀有な例で、「著しき暴行に至るものなし」(報知新聞)、「彼の細谷を除くの外、破壊を試むることなかった」(公判での検事の論告)のように市民の行動は秩序と分別をは持ったものであった)
* 17日、警官223名、町内青年会・警火組合・在郷軍人会・消防組合など約1200人動員し警戒、歩兵第4連隊、歩兵第29連隊兵士も出動 / 警察は禁足令を出し、前夜までの参加者の検挙強行 / 午後9時ころ、大町の藤埼呉服店前と停車場前広場に、あわせて約1000名の市民集合したが、厳しい警戒態勢の前に解散、騒動は山を越えた
・ 仙台の集団行動は、交渉は代表者が警察官立会の上で直談判し、集団行動の秩序を保っていた / 交渉・決定した米の値段は冒頭以前の標準米価 / 貧民救済基金の寄付要求も資産家から市役所へ寄付金をとほぼ統一した要求と理由を代表者を立てて提示・交渉、寄付金は直接受け取らず、必ず寄付承諾書を書かせている
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「新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P494~499
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(仙台・8月15日の米騒動移動ルート図、新聞記事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P495(T7年8月、米騒動を伝える「河北新報」、同群衆の移動コース)
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日本農民組合 |
宮城県連合会大会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)
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「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン)
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メーデー(戦前) |
宮城県初のメーデー |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)5月1日、宮城県最初のメーデー、日本農民組合宮城県支部連合会・仙台一般労働組合などの主催により桜ケ岡公園で開催(デモコースは、公園→南町通り→仙台駅前)
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争委員会約20名(各組合代表)が仙台市役所にデモ、夜は東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
<参考>
* 1935年(S10)5月1日、第6回メーデが、戦前最後のメーデー(「一億人の昭和史 昭和重要事件年表」)
* 1936年(S11)3月24日、内務省が今年のメーデー禁止を通達
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「仙台市史 年表」P104/岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P13/「新・目で見る仙台の歴史」P149/「仙台市史10 年表」P283
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「新・目で見る仙台の歴史」P149(仙台の第1回メーデー・デモ )/「仙台市史 特別編4 市民生活」P530(S2年5月1日、仙台の第1回メーデーデモ隊)
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文学碑など(仙台) |
藤村の詩碑 |
1936年(S11)/1965年(S40) |
* 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191
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「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167
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魯迅 |
仙台留学 |
1904年(M37)~1906年(M39) |
* 1904年(M37)9月上旬、魯迅が仙台医学専門学校留学のため来仙(1年半学ぶ) / 解剖学の藤野厳九郎は、親切に魯迅(周樹人 チョウシュウレン)のノートを添削し、別離に当たっては写真に「惜別」と裏書きして渡した
* 1906年(M39)春、離仙
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「仙台市史 年表」P93/「新・目で見る仙台の歴史」P151
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「新・目で見る仙台の歴史」P151(魯迅/藤野先生写真の裏書き「惜別」、ノート)
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堤人形 |
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・ 市内堤町で17世紀末から作られたといわれる
・ 明治末には芳賀佐四郎家のみとなる
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(窯場と製作風景)
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埋木細工 |
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・ 青葉山・八木山一帯の亜炭層から掘り出される資材を、盆・皿・置物・ブローチなどに加工 / 手工業として藩政時代からつづく
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「新・目で見る仙台の歴史」P152
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「新・目で見る仙台の歴史」P152(製作風景)
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博覧会・フェア |
満州事情展覧会 |
1932年(S7)~1934年(S9)頃 |
* 東北帝国大学報国会が、満州事変勃発(昭和6年9月18日)記念日頃に開催 / 開催場所は県商品陳列所か?(後援が県商品陳列所)/ 会場垂れ幕に満州皇軍慰問金バザー、音楽童謡舞踊の会の字 / 開催年は、昭和7年~10年の間の9月(根拠:宮城県商品陳列所は昭和10年11月11日に「宮城県商工奨励館」に改称なのでそれ以前)
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「新・目で見る仙台の歴史」P160/当サイト内「写真データベース」の「商工奨励館」
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「新・目で見る仙台の歴史」P160
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国民徴用令(2) |
女子の徴用は? |
1944年(S19) |
<女子の徴用>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)(岩波年表P21、仙台市史年表P113)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長を通牒(「岩波年表」P21)
<女子の徴用はなかった>
☆ 「女子の徴用是非も議論になったが最後まで施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)
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岩波ブックレット「昭和史年表」P21/「仙台市史 年表」P113/「日録20世紀 1943年」P42『女子挺身隊』
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(原町の陸軍工廠で働く若い女子挺身隊員たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人たちも軍需工場で弾丸検査)
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国民徴用令(1) |
施行/拡大 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
<国家総動員法>
* 1938年(S13)4月1日、国家総動員法(法律第55号)制定 / これにより、戦時の政府は広く労務・資金・物資・施設・事業・物価・出版などについて統制する権利をもつ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
<国民徴用令>
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布(昭和14年勅令 451号)、7月15日施行 / 国民を兵役同様に身体検査し、強制的に軍需産業に召集して働かせることができるようになった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
☆「国家総動員法に基づく国民徴用令により、軍需工場などへの強制徴用が可能となった。 徴用は『白紙招集』とよばれた」 (「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25) / 徴兵令状赤紙、徴用令状はシロ紙
☆「戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので、これにより国民の経済生活の自由は完全に失われた。」(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
☆「1939年(S14)7月公布とともに建築技術者850人が徴用されたが、1941年(S16)以降は大規模になり、敗戦時には総計616万人に達した。」(日本近現代史辞典P216)
☆「日本統治下の朝鮮では、1944年9月より女子を除いて実施され、1945年8月終戦までの11ヶ月間実施。いわゆる『朝鮮人強制連行』はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。」(Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)
・ 強制連行された朝鮮の人々の中には、多賀城海軍工廠の建築現場などで非人道的な労働につかせられた人々がいる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(特高警察から宮城県知事への報告)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
* 1941年(S16)8月、民間工場にも徴用労働者を配置(週刊20世紀)
* 1942年(S17)5月、企業整備令にともなって、中小商工業からの大量の転業者が、徴用の主な対象となる
・ 転業者は、軍需産業か満蒙開拓や国防的土木作業などにふりむけられた(「仙台市史 続編第2巻」P700)
・ 仙台の一部の商家の人々も国民徴用令により、常磐炭鉱や軍需工場に徴用された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
* 1943年(S18)7月改正で、国民徴用令の拡大、会社ぐるみ徴用も始まる(「週刊20世紀」)
* 1944年(S19)9月、統治下の朝鮮でも男子に実施(Wikipedia「国民徴用令」)
<国民勤労動員令>
* 1945年(S20)3月、「国民勤労動員令」施行により「国民徴用令」廃止(「仙台市史10 年表」P311)
→ 項目「国民勤労動員令」参照
<関連項目>
* 1941年(S16)6月30日、陸軍徴用規則公布施行(「重訂 宮城県郷土史年表」P483)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P313、P317/「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P216『国民徴用令』/Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P16/「仙台市史10 年表」P311/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9 『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(徴用告知書)
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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仙台空襲 |
仮埋葬/供養碑/追悼式 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
* 「仙台北署が県下各署の応援を得て死体検視や収用に奔走、北山仮葬場と寿徳時(半子町)を収容所にあて、第1日(7月10日)はトラックで4台150体を収容、第2日は606体、第3日は169体、第4日は228体とおびただしい犠牲者を収容した。・・・・市内の各所に横たわる黒こげ死体のうち625体は身元不明のため大願寺・寿徳寺、松音寺の三寺院にして仮埋葬した。・・・毎年7月10日の戦災記念日には、北山霊園内の供養碑前に香華を手向ける遺族、市民が少なくない。」(「仙台市史 続編第1巻」P60、P62)
* 1945年(S20)、仙台市当局に於て死体を収容し、大願寺、寿徳寺、松音寺等に仮埋葬せるもの625人(「重訂 宮城県郷土史年表」P550)
* 1951年(S26)7月10日、仙台空襲七回忌にあたるこの日、北山霊園に戦災死没者供養碑建立(松音寺、大願寺、寿徳寺の戦災死没者181体を北山霊園に移して)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P60、P62/「重訂 宮城県郷土史年表」P550、P620/「仙台市史10 年表」P326
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「新・目で見る仙台の歴史」P166(戦災死没者慰霊碑)
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敗戦後の諸相・仙台 |
引揚者、シベリア抑留、傷痍軍人など |
1945年(S20)~ |
<外地からの引揚者>
・ 戦前、多くの人々が日本の植民地や勢力圏になった台湾、満州、中国大陸、樺太、南洋諸島などに移住したが、敗戦により引き揚げを余儀なくされた
<シベリア抑留>
・ 戦後多くの軍人たちが戦地から引揚げたが、旧満州で敗戦を迎えた将兵はソ連に抑留され、シベリアの炭鉱や開発工事などに従事されられた
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ シベリアからの引上げは、1950年(S25)までかかり完了
<傷痍軍人>
・ 生きて帰還できた将兵の中には、戦地で負傷した傷痍軍人たちが少なくなく、昭和20年代には、繁華街や電車内などで白衣を着て失った腕や脚を人目にさらしながら、中にはアコーディオンやギターを演奏するなどして市民に生活の援助を求める姿が珍しくなかった
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「新・目で見る仙台の歴史」P170~171/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太からの引揚者第1陣仙台駅着)/同P171(シベリヤに抑留され仙台駅に到着した復員兵たち、街頭の傷痍軍人)
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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敗戦後の諸相・仙台 |
宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数 |
1931年(S6)~1945年(S20) |
<宮城県出身者の従軍数と復員数>
(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人 外地 2万人 → 復員数 1万3000人
内地 2万人 → 復員数 2万人
<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
(「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
陸軍 約17万
海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
陸軍 約2万8000人(全体の16%)
海軍 約7000人(全体の18%)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着)
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敗戦後の諸相・仙台 |
伝染病4倍増/空から撒かれたDDT |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲で壊れたままの給水栓>
・ 全給水栓の44%が破壊されたまま
・ S19年比でS20~21年は、ゴミ焼却場(3か所)の扱い数は6割前後、市立消毒所への依頼数は半減
<伝染病4倍増>
・ S19年442件、S20年1260件、S21年1836件
・ S21の内訳(赤痢739件、以下発疹チフス、ジフテリア、腸チフス、パラチフスの順、天然痘も50件) / 死者は赤痢102人(死亡率14.4%)
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったとい
う
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(浮浪者へのDDT撒布)
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国鉄(仙石線) |
国有化以降 |
1944年(S19)5月~ |
<これ以前は、項目「宮城電鉄」参照>
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、仙石線となる
・ 戦時中、沿線にある原町苦竹の陸軍造兵廠や多賀城の海軍工廠への通勤者で大混雑(いずれも従業員が1万人あり24時間稼働)、電車はフル稼働して対応、国策により1944年(S19)に国鉄が買収した(「戦争のころ 仙台、宮城」P163)
<戦後>
* 1952年(S27)、仙石線東七番丁駅の廃止
* 1956年度(S31)、赤字2億3000万円
* 1964年(S39)5月8日、東京国電並みの混雑緩和のため、時差出勤呼びかけ
* 1966年(S41)1月20日、苦竹踏切、立体交差完成
* 1966年(S41)3月15日、陸前原町~西塩釜間、複線化工事起工式
* 1968年(S43)3月22日、陸前原町~多賀城間の複線が完成 / ラッシュ時の電車運転が6分間隔に
* 1975年(S50)2月15日、新型電車始発式
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、仙石線戦後初めて不通
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)10月24日、仙台~苦竹間(3.9キロ)の地下化工事起工式
* 1986年(S61)3月20日、多賀城駅の新駅舎完成
* 2000年(H12)、仙石線地下新線開業・あおば通駅開設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P563、P567/「重訂 宮城県郷土史年表」P614、P623、P624、P638/「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P37、P120、P166、P196、P203/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(S21年10月頃、鈴なりの満員電車)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P99(S50年、カラー、走行する電車)/同P121(H12、走行する電車、カラー)
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敗戦後の諸相・仙台 |
「新円」騒動 |
1946年(S21) |
<金融緊急措置令 旧円の預貯金封鎖と新円への切り替え>
・ 戦後の極度なインフレ高進を抑制するため通貨流通量の収縮をはかるのが目的
・ 昭和21年2月中旬には、旧円で618億円あった日銀発行残高が、新円で152億円に激減(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 1946年(S21)2月17日、預金してある金はこの日限りで封鎖、流通している10円以上の紙幣は3月6日までで廃止し、7日以降は、新発行の札(新円)しか使えない(「仙台市史 続編第1巻」P76)
* 2月25日以降、新円と旧円の交換開始、3月3日以降は旧円の流通を禁止(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 封鎖預金からの現金払い戻しは、月に世帯主300円、家族は1人につき100円、給料も現金は500円まで、それ以上は封鎖預金にされる / 預金のない人は月最大500円の給料のみの生活
* タンス預金は紙くず同然になるので、旧円最後の日の金融機関は預け入れる人で大混雑、商店街は使えなくなる心理から、品物、食べ物が飛ぶように売れ、映画館も満員だったと当時の新聞は伝える
* 封鎖預金は、第一封鎖と第二封鎖に分離され、第二封鎖部分は凍結・棚上げされることになった(中略)そうした強硬策でもインフレの収束に至らず、9月に生産の上昇も伸び悩みとなり、インフレはますます高進(「仙台市史 続編第2巻」P729)
* インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった(Wikipedia「新円切替」2019年2月版)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P76/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P728~729/Wikipedia「新円切替」2019年2月版
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(新円切替で新円と交換)
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧事情悪化で米配給減 |
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☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
☆ 戦中戦後の「深刻な食糧難」については、【「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248】に記述あり
・ 戦後、米は大人1日2合3勺配給予定だったが、遅配欠配でヤミに頼らざるを得ず / 仙台では米配給が2週間も遅れ、コメの代わりにトウモロコシや砂糖だったこともあった / 食糧難は戦後の方がひどかった
<主食配給減や欠配>
* 1946年(S21)5月中旬、宮城県でも主食配給量を2.1合→1.8合に減量/しかし、欠配日数が増加し栄養失調者が続出、職場では欠勤者増加の一方だった
<米よこせメーデー>
* 食糧メーデー、東京で5月19日
* 食糧メーデー、仙台では5月31日/木町、榴ヶ岡、南材木町、東北学院専門部の4カ所に、革新政党、労働組合など18団体代表や市民が参加、空腹をこらえて、“米よこせ”と気勢をあげた
<色の黒い代用食パン>
* 1946年(S21)6月半ばから、危機突破用として、代替パンを月に1人当たり1~3個づつ主食がわりに配給/小麦粉5割、こぬか2.5割、雑粉2.5割で、少し塩味がつけてあり、1個(36匁)36銭、色の黒い丸形のパンだった
<主婦たちが嘆願書>
アメリカの放出物資も続いたが深刻さ解消にはならず、市内連坊地区の七つの公会の主婦たち代表8人が県庁に押しかけ嘆願書を千葉三郎知事に提出
「手持ち金はなくなりタンスの中もカラになりました。児童の犯罪が増え体力が低下してきました。ヤミ商人が増え買出し時間や燃料・調理時間の空費で教育ができません。思想の悪化で家庭の円満さえ懸念されます。以上のように私たちは、不安と暗黒の中に追われています。これはただただ主食の不足によるものです。なにとぞ主食配給の即時実施をお願いします・・・・」
<昭和22年正月の配給>
「もち米1人7合、清酒1世帯5合、ビール1世帯1本、サッカリン各家庭1個、かずのこ見込みなし・・・」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~184、P247~248/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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「新・目で見る仙台の歴史」P174(食糧難で労働者の提灯デモ)/同P170(食糧難で食物支給される人たち)/同P172(中田町の青年団、食糧難に市民に野菜類を贈る)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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新憲法 |
施行 |
1947年(S22) |
* 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518
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「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列)
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紙芝居 |
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「新・目で見る仙台の歴史」P178(駅前・紙芝居を見る子供たち
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戦後教育・仙台 |
国民学校から小学校へ |
1947年(S22) |
<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校) / 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)
<国民学校から小学校へ>
* 1947年(S22)4月、新制小学校発足(市立26校、官立1校)
<戦後、校舎火災頻発>
* 1946年(S21)~1949年(S24)、南材木町国民学校、榴岡国民学校、片平丁小、高砂小、八軒中
<空襲被災、戦後焼失学校の校舎再建> ( )内は再建年月
・ 木町通小(S22.6)、西多賀小(S22.8)、榴岡小(S22.11 騎兵隊跡改装)、東二番丁小(S23.3)、立町小(S24.4)、片平丁小(S24.5)、南材木町小(S25)
<人口急増対応>
* 1948年(S23)~1968年(S43)、人口急増に対応し、市立16小学校新設、生出村編入で2校増加
* ベビーブーム対応で、8校新設
・ S29年度から小学校児童激増、S34年度にピーク
・ S28年度~S33年度に、東長町、小松島、若林、国見、宮城野、荒巻、鹿野、台原の各小学校新設
* 人口のドーナツ化、周辺部急増で、6校新設
・ S40年度~43年度に、四郎丸、新田、旭丘、遠見塚、中山、八本松の各小学校新設
<PTA>
* 1947年(S22)11月11日、仙台市小中学校父兄教師会(PTA)連合会創立
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「仙台市史10 年表」P315、P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P522/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318~321、324~326
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(S23年、仙台市立第二中学校で青空卒業式)/「市民の戦後史(仙台市)」P184(ドーナツ化現象で郊外小学校すし詰め教室)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
国民体育大会(第7回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)9月、夏季大会(松島湾でヨット競技)
* 1952年(S27)、聖炎旗リレー 広島~(日本海側経由)~山形県内~宮城県内(10月7日~13日)~福島県内
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国体秋季大会、宮城・山形・福島県で開催 / 開会式は福島市の信夫山競技場、宮城野原総合運動場が宮城県の主会場 / 仙台では、陸上、サッカ-、ラグビー、自転車、野球、テニス、卓球、レスリング、バドミントンの9種目で、5日間で観客6万人
・ 宮城野原総合運動場の開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
・宮城県勢は自転車総合優勝、卓球一般男女軟式団体優勝、ボート・ナックルフォアで東北高校4連勝など
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「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P225/「仙台市史10 年表」P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271、P470~472
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(陸上競技場を出る20キロロードレース)/「市民の戦後史(仙台市)」P66~67(各種の競技風景、昭和天皇)
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宮城県沖地震 |
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1978年(S53) |
* 1978年(S53)6月12日、宮城県沖地震 / 震源は仙台市の東方沖約100キロ、マグニチュード7.4、最大震度は仙台市などで5 / 特に仙台市内の被害が大きかった / 死者、仙台で13人 / (仙台市防災会議7月27日まとめ)住家全壊7000、半壊3400世帯
* 1978年(S53)7月13日、仙台市内のガス、31日ぶりに復旧完了(13万6128戸)
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「仙台市史 年表」P131/岩波ブックレット「年表 昭和史」P59/「続・ 宮城県郷土史年表」P82、P83
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「新・目で見る仙台の歴史」P189(1階が潰れたビル、倒壊したブロック塀、押しつぶされた乗用車、散乱した商品)
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台原森林公園 |
開園 |
1973年(S48) |
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1973年(S48)4月、開園
* 1978年(S53)4月22日、公園入口に、舟越保武、高台に佐藤忠良製作の像、除幕
* 1980年(S55)4月1日、野外運動施設(フィールド・アスレチック・コース)完成
* 1987年(S62)11月6日、公園に、岩野勇三作彫刻「牧歌」除幕
* 1990年(H2)9月27日、仙台市科学館が、日本長期信用銀行ビル地下から台原森林公園の中に新築移転し開館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P632/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P80、P110、P232、P268
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「新・目で見る仙台の歴史」P192
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体育館 |
仙台市体育館 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)9月1日、富沢に開設
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P181/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(外観と内部、カラー)
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プール |
市民プール |
1961年(S36)~2006年(H18) |
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園) / 9コース、50mプール
* 1968年(S43)7月、勤労青少年に夜間も開放
* 2006年(H18)、西公園プール廃止
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P601/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/Wikipedia「西公園」/「市民の戦後史(仙台市)」P214
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(子供らでいっぱいのプール)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(夜間開放)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール)
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仙台市武道館 |
開館 |
1974年(S49)/1998年(H10) |
<錦町公園内>
* 1974年(S49)7月3日、仙台市武道館が錦町に開館
* 1998年(H10)6月、同館閉鎖
<堤町に新武道館>
* 1998年(H10)6月、青葉区堤町1丁目の本山製作所跡地に、「仙台市青葉体育館・武道館」が開館
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「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「錦町公園」/Wikipedia「仙台市青葉体育館・仙台市武道館」(2020年2月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(錦町の武道館、剣道場)
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仙台市立病院 |
五橋に新築・移転 |
1980年(S55) |
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床
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「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー)
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LNG基地(仙台新港) |
完成 |
1997年(H9)/2016年(H28) |
LNG基地は、都市ガスや火力発電所に供給する液化天然ガス(LNG)の受入・貯蔵・気化を行う施設
* 1997年(H9)、仙台新港(仙台市ガス局港工場)にLNG基地完成、タンカー初入港 / 主な供給先は、仙台市ガス局
* 2016年(H28)7月、新仙台(東北電力)LNG基地完成 / 主な供給先は、 東北電力新仙台火力発電所
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「日本のLNG基地一覧」(2020年4月)
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「新・目で見る仙台の歴史」P197(ガス局港工場空撮、カラー)
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物価上昇 |
高度成長期 |
1961年(S36)~1973年(S48) |
* 1961年(S36)8月、市内物価指数が前年同月比7.9%上昇
* 1963年(S38)9月、市内のし尿汲み取り料70%値上げ
* 1963年(S38)、物価大幅上昇 / 背景に建築ブーム、生産者米価大幅引き上げ、労賃高騰、公務員のベースアップ
* 1966年(S41)2月27日、春闘共闘委員会、「物価値上げ反対・生活危機突破国民大会」開催(物価メーデー)
* 1966年(S41)3月5日、国鉄運賃値上げ、旅客31%
* 1969年(S44)5月9日、国鉄運賃15%値上げ
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1972年(S47)2月24日、宮城県生活協同組合を中心に物価値上げ反対仙台市民会議結成
* 1972年(S47)4月1日、国鉄運賃改正
* 1972年(S47)秋、物価上昇率(仙台)、前年度同月比で15%超(「仙台市史 特別編4 市民生活」P544)
* 1972年(S47)12月1日、仙台市電の均一料金を40円に(10円値上げ)(「続・ 宮城県郷土史年表」P15)
* 1973年(S48)4月2日、<全国の地価>建設省、1973年1月1日現在の地価発表(前年比30.9%の暴騰)
<第1次オイルショックで、物価上昇、物不足、不況>
* 1973年(S48)10月25日、オイルショック発生
* 1973年(S48)11月5日、物価大幅上昇(チリ紙150%、砂糖51%、牛肉42%上昇)
* 1973年(S48)11月、12月、灯油大幅に値上がりなど、物価急上昇
* 1973年(S48)11月23日、ガソリンスタンド、日曜・休日、休業
* 1973年(S48)秋、ガソリン、紙、洗剤など品不足
* 1973年(S48)12月、紙不足で、新聞・雑誌のページが減る
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P714、P718、P720/岩波ブックレット「年表 昭和史」P46、P54/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P649、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67/「仙台市史 特別編4 市民生活」P544
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(S41年物価メーデーで風船を手に婦人たちがデモ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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東北自動車道 |
部分開通/全線開通 |
1973年(S48)/1986年(S61) |
* 1970年(S45)5月20日、東北縦貫自動車道、起工式(蔵王町で)
* 1973年(S48)11月27日、仙台南~白石間、開通
* 1975年(S50)4月1日、仙台南インターチェンジ~岩槻間、開通
* 1975年(S50)11月28日、仙台南~泉インターチェンジ間、開通、同日に仙台宮城インターチェンジ開業
* 1976年(S51)12月9日、泉~古川インターチェンジ間、開通(29キロ)
* 1977年(S52)11月15日、古川~築館間開通(16.1キロ)
* 1978年(S53)12月2日、築館~一関間開通(岩槻~盛岡間全面開通)
* 1982年(S57)3月29日、若柳金成インターチェンジ完成
* 1986年(S61)7月30日、十和田~碇ヶ関間使用開始(浦和~青森間開通)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P660/「仙台市史 年表」P129、P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P24、P39、P47、P61、P74、P89、P93、P95、P208/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P72
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(東北自動車道上下線、カラー)
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仙台市営地下鉄 |
南北線開業 |
1987年(S62) |
泉中央駅~富沢駅間、14.8km
* 1981年(S56)5月7日、起工式
* 1982年(S57)7月13日、地下鉄の市街工事、広瀬通工区から始まる
* 1982年(S57)12月21日、旭ヶ丘トンネル工事で到達式
* 1985年(S60)10月25日、八乙女~台原間が完成
* 1986年(S61)4月、北四番丁以北が完成
* 1987年(S62)2月9日、広瀬通駅に「星空のプロムナード」、除幕式
* 1987年(S62)2月27日、勾当台公園駅に「空間デザイン創造の森」完成
* 1987年(S62)4月16日、地下鉄仙台駅に「デザイン壁」完成
* 1987年(S62)7月14日、仙台市地下鉄開業祝賀式
* 1987年(S62)7月15日、地下鉄南北線、八乙女~富沢間(約14キロ)で開業(東北初の地下鉄)
* 1987年(S62)9月1日、駅の有料駐輪場営業開始(旭ヶ丘、台原、河原町、長町、長町南の各駅)
* 1992年(H4)、泉中央駅まで延伸
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「仙台市史 年表」P132、P135/「続・ 宮城県郷土史年表」P148、P154、P196、P204、P226、P219、P220、P222、P229/仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(走行する仙台地下鉄)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P219(S62、開業式、ミス仙台が花束贈呈、広瀬通駅の星空のプロムナード、カラー)
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年中行事(まつり) |
仙台市民まつり |
1975年(S50)~ |
* 1975年(S50)11月1日~3日、第1回開催
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P46
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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SENDAI光のページェント |
開催 |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り)
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
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「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
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「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
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芭蕉の辻商館 |
建築~焼失 |
1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉の辻(北東角)>
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1891年(M24)9月19日、北東角に「芭蕉の辻商館」完成、落成式(木造2階建外部漆喰塗でドーム屋根の塔)
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に、宮城県物産陳列場開設
* 1900年(M33)4月10日、「芭蕉の辻商館」焼失
* 1903年(M36)8月1日、跡地に「七十七銀行本店」が竣工(洋館)、落成披露宴開催
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「重訂 宮城県郷土史年表」P285/「仙台市史 年表」P87、P88/「仙台市史10 年表」P202、P218、P225/「明治の洋風建築~宮城県~」P113/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P3/「目で見る仙台の歴史」P135
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「明治の洋風建築~宮城県~」P113(芭蕉の辻商館)/「目で見る仙台の歴史」P135(芭蕉の辻商館と、同火災図)/「新・目で見る仙台の歴史」P133(火災図)
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東北学院中学部 |
南町時代(普通科) |
1895年(M28) |
<南町>
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
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「東北学院創立七十周年写真誌」P11~12
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「東北学院創立七十周年写真誌」P11の写真
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東北学院中学部 |
東二番丁(赤レンガ校舎)
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1922年(T11)
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<東二番丁・再建校舎=赤レンガ校舎>
・ 南町大火で焼失した東二番丁の旧校舎の跡地に再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1922年(T11)6月、新校舎建築(赤レンガ校舎)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災(外観は残る)
<名称変更>
* 1943年(S18)、中学部→中学校
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「東北学院創立七十年写真誌」P32~35 /「東北学院」HP
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「東北学院創立七十年写真誌」P33~35、P44、P60の写真
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