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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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仙台物産陳列所 |
開館 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)5月28日、仙台物産陳列所、仙台駅前に開館
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「仙台市史 年表」P94
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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宮城県庁舎 |
3代目庁舎(18階建) |
1989年(H1) |
* 1986年(S61)7月、着工
* 1989年(H1)5月、18階建の新庁舎竣工(正式名は宮城県行政庁舎)
* 1989年(H1)6月3日、庁舎開庁式
* 1989年(H1)6月26日、新庁舎で業務開始
* 1989年(H1)7月10日、県庁と各地方事務所に「みやぎ目安箱」設置
* 1989年(H1)9月19日、県庁で、第1回県民ロビーコンサート開催
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Wikipedia「宮城県庁舎」/「続・ 宮城県郷土史年表」P260、P261、P262
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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国民服 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
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・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
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宮城県町村会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月26日、落成式(県庁構内外記丁側)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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国民帽 |
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⇒項目「戦時衣料」みよ
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1950年(S25)3月17日、魚の統制撤廃きまる
* 1950年(S25)3月26日、政府供出後の麦自由販売を決定
* 1950年(S25)5月1日、米以外の主食のパンなど自由販売となる
* 1950年(S25)6月5日、味噌・醤油自由販売(「重訂 宮城県郷土史年表」P543では、7月5日から)
* 1950年(S25)9月20日、衣料切符廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P544、「仙台市史10年表」P324)
* 1950年(S25)、人絹とスフ、綿布の統制解除、自由販売に(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1950年(S25)、この年、コンドームを配給統制品から解除(「菅家年表」P44)
* 1951年(S26)3月1日、雑穀の統制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)4月17日、衣料切符配給制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、民営の米屋が復活してくる(「菅家年表」P45)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P45/「仙台市史10 年表」P323、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P544/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1952年(S27)~1981年(S56) |
* 1952年(S27)4月1日、家庭用砂糖の統制撤廃
* 1952年(S27)5月8日、麦統制撤廃(6月1日、麦の自由販売実施)
* 1952年(S27)6月4日、国産金ペン万年筆の製造許可(「菅家年表」P46)
* 1953年(S28)10月14日、上野駅着各列車の主食一斉取締り、担ぎ屋260人、米250俵を押収(「菅家年表」P47)
* 1960年(S35)1月、米の値段が公定価格を下回り、米の配給辞退(「菅家年表」P54)
* 1960年(S35)10月、酒類の公定価格を廃止、自由販売制(「菅家年表」P54)
* 1964年(S39)6月1日、ビール酒類、25年ぶりに自由価格に(「重訂 宮城県郷土史年表」P614)
* 1966年(S41)、この年、外米の自由販売が始まる(「菅家年表」P60)
* 1969年(S44)4月1日、自主流通米出回る
* 1969年(S44)5月16日、閣議、自主流通米制度を決定
* 1972年(S47)4月1日、米を物価統制令の適用から除外
* 1981年(S56)6月11日、米穀通帳制度を廃止
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46、P47、P54、P60、P63、P75/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555、P556、P614/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/岩波ブックレット「年表 昭和史」P49
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仙台ホテル |
立て替え(ホテル3代目) |
1935年(S10)/1945年(S20) |
* 1935年(S10)、モダニズム建築に建て替え
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災
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Wikipedia「仙台ホテル」
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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こけし塔(西公園) |
除幕式 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式 / 鋳物製
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「仙台市史 年表」P122/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「宮城百年」(毎日新聞社刊)年表
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学徒出陣 |
徴集猶予停止 |
1943年(S18)10月 |
* 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)
「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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戦災記録 |
市民の手でつくる戦災の記録」の会 |
1972年(S47)/1973年(S48)/1995年(H7) |
* 1972年(S47)7月7日、仙台市に「市民の手でつくる戦災の記録」の会発足
* 1973年(S48)8月15日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「空襲」出版
* 1995年(H7)10月16日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「仙台はフェニックス―戦中戦後の証言と聞書集」出版
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「続・ 宮城県郷土史年表」P11
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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宮城県美術館 |
開館 |
1981年(S56) |
* 1980年(S55)1月29日、川内支倉で起工式
* 1981年(S56)11月3日、川内に開館
* 1986年(S61)11月、丸森町出身彫刻家佐藤忠良の全作品を県美術館に寄贈
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P108、P135、P214
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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仙台郵便貯金会館 |
完成 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月、榴岡に完成
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「仙台市史 年表」P128
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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宮城県物産陳列場(芭蕉の辻) |
開設~廃止 |
1892年(M25)~1898年(M31) |
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に開設
(芭蕉の辻商館は、1891年(M24)9月19日開館~1900年(M33)4月10日焼失)
・1901年(M34)に勾当台通に開場した「宮城県物産陳列場」とは別
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「仙台市史 年表」P88/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版, 2015.2)(国立国会図書館蔵)
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学徒出陣 |
壮行式など |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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仙台臨海鉄道 |
運行開始 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)10月、貨物専用線の私鉄「仙台臨海鉄道」営業開始 / 陸前山王始発、駅は仙台港・仙台北港・仙台埠頭・仙台西港
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「仙台市史 年表」P150/Wikipedia「仙台臨海鉄道」(2020年6月)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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戦没者遺骨調査・収集 |
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1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
以下(1)(2)(3)の出典一覧 |
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出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ 七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
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・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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午砲(午報) |
サイレンで |
1929年(S4)~ |
* 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
(これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和戦後期 |
<仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
(以上、昭和末年まで)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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創価学会会館 |
建設 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)12月5日、創価学会東北文化会館、錦町2丁目に建設(4階建)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P655
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敗戦後の諸相・仙台 |
治安悪化、犯罪多発 |
昭和20年代 |
終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加
・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」
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宮城県武道館 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月25日、宮城県武道館落成(宮城県第二総合運動場とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置)
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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火災(地域) |
北五十人町など |
1891年(M24) |
* 1891年(M24)5月19日、北五十人町・角五郎丁で、25戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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