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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
高等学校(新制) |
東北学院中学校・高等学校(戦後期) |
1947年(S22)~2005年(H17) |
<東二番丁・新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)までに、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室、体育館など6棟完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成
<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成
<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)(「続・ 宮城県郷土史年表」P93)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見
<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成(重訂 宮城県郷土史年表」P564)
<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転
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「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P69~70/「重訂 宮城県郷土史年表」P564/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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<赤レンガ校舎> 62-11、36-03、36-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る)
<シュネーダー記念図書館>「東北学院創立七十周年写真誌」P63の写真
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自動車など各種車両台数 |
荷馬車、牛車、荷車(仙台市) |
1935年(S10)頃 |
* 仙台の車(昭和10年頃)
荷馬車826台、牛車24台、荷車2299台
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「仙台の産業と観光」P27
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<荷馬車> 20-08、18-21、22-46、22-03、44-35
<牛車> 09-06
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アーケード |
一番町・サンモール一番町商店街 |
1954年(S29)ほか |
「サンモール一番町」は、一番町商店街のうち、「中央通り(旧・大町通り)角~南町通り角まで」(戦前からの通称は、「大通り」)
<第1代>
* 1954年(S29)12月2日、第1代アーケード完成(これで、東一番丁3商店街すべてに、統一スタイルのアーケード完成)
<第2代>
* 1975年(S50)11月20日、大通りアーケード改築完成(高さ日本一)
* 1977年(S52)に大通りアーケード改築
<第3代>
* 1986年(S61)11月29日、開閉自由の全蓋アーケード完成(高さ13.7m、軒高8mで2階部分をショーウィンドウ化できる)、2つのカラクリ人形時計(テーマは遣欧使節/七夕物語) / 中央通りとの角には四辻ドーム(高さ20m)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P575/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P214/「番丁詳伝」P201、P203~205
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<第1代>は、58-01、53-11
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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高等学校(新制) |
東北学院中学校・高等学校(戦前期) |
1886年(M19)~1945年(S20)夏 |
普通科が、戦後の東北学院中学校、高等学校の前身
<南町時代>
* 1895年(M28)、東北学院が予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、その上に神学部3年を置く
* 1899年(M32)、私立学校令公布に伴う中学校令改正に当たっても「普通科」の呼称は変えず
<東二番丁・初代校舎時代>
* 1905年(M38)、東二番丁に「普通科」校舎竣工し、南町から移転
・木骨レンガ造りルネッサンス式、2階建て、スレート葺き屋根
・屋根面にトーマー・ウィンドウ(屋根窓)
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1919年(T8)3月2日、南町大火のため中学部校舎全焼
* 1919年(T8)9月、バラック建て仮校舎落成
<東二番丁・赤レンガ校舎時代>
* 1922年(T11)6月、旧校舎跡地に中学部校舎再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 2階建て、一部3階
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称、第二部(夜間)設置
このころ、校舎が軍や鉄道局に接収され、校舎正面の「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半(12棟)を焼失、焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂
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「東北学院創立七十周年写真誌」P11~12、P22~23、P30、P32~35、P65~P69/東北学院HP/「明治の洋風建築-宮城県-」P66「東北学院中学部」
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<南町時代> 神学部校舎(南町)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P50の写真/99-068、43-30
<東二番丁初代校舎> 99-069/東北学院創立七十年写真誌」P22~23、P30の写真/「目で見る仙台の歴史」P142の写真
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仙台空襲 |
被災した区域/身元不明遺体/甘かった認識 |
1945年(S20) |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
・ 全焼は13公会の区域(東一番丁、東二・三番丁、元寺小路、新伝馬町、多門通、東二・四番丁、二日町、大町、国分町、立町、肴町、本櫓丁、北目町)
・ 半焼は37公会の区域(勾当台通、外記丁通、杉山通、上杉山通、光禅寺通、錦町、東六番丁、小田原中部、宮城野橋西部、新屋敷、八塚、二十人町、南町、元柳町、清水小路、土樋、田町、米ケ袋、花壇・枇杷首、霊屋下、向山東部、向山西部、鹿野、西多賀、川内、荒巻、八幡町、伊勢堂、春日、北六番丁中部、支倉、土橋、本材木町、木町通中部、木町通南部、北鍛冶町、北堤通)
『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より
・ 「9月28日現在身元不明とされた遺体は、その埋葬にあたった半子町の寿徳寺、北山火葬場と大願寺、新寺小路の松音寺の3か所で213体(一時仮に土葬されたが、身元判明し引き取られた遺体を除く) / なかには発掘したものの、ほかの遺体との区別が判然とせず、やむなく埋葬した土を持ち帰る遺族もあった / 医療も埋葬も人手や資材の不足に悩まされ、人間としての満足な処遇を与えられなかったのである」
・ 甘かった認識「『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵(むしろ)をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319
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<仙台空襲焼失区域図> 98-092(「仙台市史 特別編4 市民生活」319の図320をスキャン)/98-147(「仙台市史 第二巻本編2」P680~681掲載の第24図「戦災焼失地域図」をスキャン)
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アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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大学・短大 |
東北工業大学(2) |
2004年(H16)以降 |
* 2004年(H16)4月、工学部通信工学科を情報通信工学科に名称変更
* 2005年(H17)4月 情報処理技術研究所を改組 / 新技術創造研究センター、eラーニングセンター及び情報ネットワーク管理室を開設
* 2007年(H19)4月 工学部電子工学科を知能エレクトロニクス学科に名称変更
* 2008年(H20)4月、ライフデザイン学部開設(クリエイティブデザイン学科・安全安心生活デザイン学科・経営コミュニケーション学科開設)、工学部デザイン工学科募集停止
* 2008年(H20)4月、香澄町キャンパスを八木山キャンパスに、二ツ沢キャンパスを長町キャンパスに名称変更
* 2011年(H23)4月、工学部建設システム工学科を都市マネジメント学科に名称変更
* 2012年(H24)4月、工学部環境エネルギー学科を開設、工学部環境情報工学科募集停止 / 大学院ライフデザイン学研究科デザイン工学専攻開設、大学院工学研究科デザイン工学専攻募集停止
* 2013年(H25)1月、 長町キャンパス4号館完成
* 2014年(H26)4月、 新技術創造研究センターを地域連携センターに改称
* 2016年(H28)4月、情報センターにe-ラーニングセンターを統合し、情報サービスセンターに改称
* 2017年(H29)4月、工学部知能エレクトロニクス学科を電気電子工学科に名称変更
* 2020年(R2)4月、工学部環境応用化学科 設置(工学部環境エネルギー学科 募集停止)/ 建築学部建築学科設置(工学部建築学科 募集停止) / ライフデザイン学部クリエイティブデザイン学科を産業デザイン学科に名称変更、ライフデザイン学部 安全安心生活デザイン学科を生活デザイン学科に名称変更
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「東北工業大学」HP
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/「市民の戦後史(仙台市)」P179(八木山キャンパス)
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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高等学校(新制) |
常盤木学園高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1928年(S3)、仙台市元柳町(現・西公園内)に、常盤木学園高等女学校及び専攻科を設立
* 1934年(S9)、専攻科第二部(裁縫科)を増設
* 1936年(S11)、家庭寮花嫁学校を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎焼失 / この後2年数ヶ月間、尚絅女学院、片平丁小学校、東六番丁小学校に転々とした間借り授業
* 1947年(S22)、青葉区小田原金剛院丁に校舎再建
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、常盤木学園中学校・高等学校と改称
* 1957年(S32)12月、円型校舎竣工
* 1961年(S36)、音楽科を設立
* 1963年(S38)、プール竣工
* 1974年(S49)、新校舎本館竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震(被害相当)
* 1986年(S61)、松良記念館竣工/新プール移設
同年、中学校を休止(H16年に廃止)
* 1991年(H3)、ニュージーランド、ホーンビィ高校と姉妹校
* 1997年(H9)、国際コースを開設
* 2003年(H15)、6月シュトラウスホール竣工
* 2004年(H16)、東校舎竣工 / 国際コース開設
* 2010年(H22)、スーパー両立コース(SBC)の開設
* 2016年(H28)、ビジネスコース開設
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「常盤木学園高等学校」HP/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P525~526
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(校舎外観)/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する常盤木学園の女学生たち)/「目で見る仙台の歴史」P180と、「市民の戦後史(仙台市)」P101に、円形校舎
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(7) |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち)
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青葉山公園 |
開設 |
1925年(T14)/1954年(S29) |
仙台市が管理している都市公園 / 青葉山の東端から広瀬川右岸にかけての40.6haで、仙台城(青葉城)の跡地の一部やその堀であった五色沼、長沼を園内に含む
* 1925年(T14)10月、第二師団より大手門等を含む2,957坪を借地し、仙台市青葉山自然公園とし、大手門への出入り自由となる(「仙台城」P233、「重訂 宮城県郷土史年表」P399) / 旧青葉城の大手門は、明治期から昭和戦前期には陸軍第二師団の正門だった
* 1925年(T14)10月、仙台市が、仙台城の大手門を含む2957坪を青葉山公園として開設(「仙台市史 年表」P103)
* 1937年(S12)9月3日、多門将軍銅像、青葉公園に建設、除幕式(「仙台市史10 年表」P291) (注)多門将軍は、満州事変当時の第二師団長多門二郎中将
<戦後>
* 1945年(S20)、連合国軍(米軍)が第二師団の敷地を接収(キャンプ・センダイ)したために青葉山公園は事実上の休園状態
・ 川内の旧軍跡地の接収は、第9軍団司令部が札幌から仙台に移転した、1946年(S21)(「戦争のころ 仙台、宮城」P224)
・ 米軍が二の丸跡に、米軍人軍属の住宅、クラブなど建築、二の丸遺跡は徹底的に破戒され、三の丸巽門(櫓門)破却、中島池、奥方庭園池泉、藩主居間前庭の瓢箪池、中奥外の濠、筋違橋付近深谷みな埋め立てらる(「仙台城」P235)
・ 中島池は埋め立てられゴルフ場に(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
* 1950年(S25)10月、護国神社が、本丸一帯の国有地の払い下げを受ける(「仙台城」P235)
* 1954年(S29)2月、護国神社所有地本丸の一部、2万0933坪を仙台市管理に移し、五色沼、長沼一帯国有地1万2643坪を加え、3万3576坪を公園地とす(「仙台城)」P236)
* 1954年(S29)4月1日、青葉山公園が川内に開園(再開)
* 1955年(S30)、追廻を公園地に編入(「仙台城)」P236)/ 旧第二師団の練兵場だった追廻地区は、戦後、米軍の接収をまぬがれ、住宅営団が戦災者・引揚者用の応急簡易住宅団地(追廻住宅 / 賃貸約620戸)を建設、その後居住者に払い下げられていた(追廻地区住民は、同地区の公園化に反対した)
* 1957年(S32)9月、仙台市が五色沼、長沼を浚渫(「仙台城)」P236)
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1960年(S35)6月10日、仙台郷土博物館建設(翌年10月10日開館)=博物館第1期工事
* 1961年(S36)10月、仙台市博物館開館(三の丸跡に)
→ 詳細は、項目「仙台市博物館」参照
* 1964年(S39)8月18日、宮城県スポーツセンターが青葉山公園内に開館(1万人収容、東北一の規模)
* 1965年(S40)7月、元東北大学教授山田孝雄先生の碑を建設期成会が護国神社裏に建立
* 1991年(H3)月日、仙台国際センターが開館
→ 詳細は、項目「仙台国際センター」参照
* 2015年(H27)、仙台市地下鉄東西線国際センター駅開業
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233、P235、P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P571、P621/「仙台市史 年表」P103、P118、P123/Wikipedia「青葉山公園」(2019年6月)/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
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軍事教練 |
一般青年 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
一般青年に対しては、
* 1926年(T15)、全国に青年訓練所を設立し実施
* 1935年(S10)以降は、青年学校に引き継がれ実施された
(S10年、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる)
<青年訓練所>(「日録20世紀 1926年」P42)
1926年(T15)7月1日、全国1万3842カ所に設置 約104万人が入学 前年、軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請した / 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった(4月20日、法令公布)
<青年学校>(「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)
1935年(S10)4月、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
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「日録20世紀 1926年」P42/「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11
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青年学校生は、06-06
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政宗卿騎馬像 |
建立 |
1935年(S10) |
「藩祖政宗公三百年祭」(S10年、没後300年)に先立ち、宮城県青年団員たちが資金を集め青葉山の天守台に建立した (完成した像は東京から仙台までトラクターで運搬)
* 1935年(S10)5月14日、青年団員たちがトラクターに乗せた騎馬像とともに仙台市内を行進し、青葉山天守台まで運んだ
* 同年5月23日、除幕式(三百年祭の行事としてに盛大に行われた) (「仙台城)」P234)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史 年表」P108/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
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青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83 / 像は99-116、53-87、「目で見る仙台の歴史」P159
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ブラザー軒 |
5)戦後、森徳横丁で再建 |
1947年(S22)頃 |
・ 戦後、店主と従業員は、進駐軍霞の目キャンプの食事担当として働く
・ 戦後の店は、S22年頃に完成したが、当時は材料の食品が統制のため営業できず、部屋を貸す(貸席)のみだった その後は、進駐軍相手のバーのようなものをやった
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前田津惠子さん(ブラザー軒経営)談
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霞の目キャンプ時代は、62-05、62-06、62-07、62-08 /戦後営業再開後は62-10、62-12
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市警防団 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)
* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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隣組の防空演習は、76-10、16-10、16-11
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大橋(広瀬川) |
鉄橋架橋 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)8月24日、大橋の鉄橋竣工す(「仙台城」P233)
* 1892年(M25)8月、木橋流失後に第二師団の強い要請で鉄橋に架け替え(M23年9月起工、ハウトラス式鉄橋)
「仙台はじめて物語」P289では、鉄材ベルギー製の鉄橋完成、1895年(M28)8月24日と記載
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P292/「仙台年表」P167/「仙台あのころこのころ八十八年」P239/「宮城県の百年」 P11/「新・目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P88
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鉄橋は、99-102、99-103、44-23、99-104、99-105、64-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図56
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東北学院中学校・高等学校 |
東二番丁(戦後) |
1945年(S20)~2005年(H17) |
<中学部>
* 赤レンガ校舎継続使用
<東二番丁・戦後 新制中学校・高等学校>
* 1947年(S22)4月、(新制)東北学院中学校発足
* 1948年(S23)4月、(新制)東北学院高等学校が発足
* 1949年(S24)、中学校木造校舎6教室落成
<鉄筋コンクリート校舎>
* 1951年(S26)、高・中学校理科教室3階建て落成
* 1955年(S30)、中学校校舎鉄筋コンクリート造3階建9教室完成
* 1958年(S33)4月、中学校赤レンガ校舎は都市計画により9教室を失う(戦後の東二番丁通り拡幅に伴い、赤レンガ校舎の一部(東側部分)が道路拡幅部分にかかるため、取壊された)
* 1958年(S33)4月、中学校・高等学校鉄筋コンクリート造4階建8教室完成
<新校舎と礼拝堂>
* 1970年(S45)11月、中学校・高等学校新校舎、礼拝堂完成
<赤レンガ校舎にお別れ>
* 1978年(S53)6月、中・高校の赤レンガ校舎、宮城県沖地震のため一部倒壊
* 1979年(S54)3月8日、中・高校の赤レンガ校舎見送り式(取壊し)
* 1979年(S54)4月、中学校校舎の礎石から、明治・大正のタイムカプセル発見
<シュネーダー記念館>
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内に、シュネーダー記念館完成
<中学校・高等学校移転>
* 2005年(H17)1月、東二番丁→宮城野区小鶴へ移転
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「東北学院」HP/「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表P70/「続・ 宮城県郷土史年表」P93/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
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赤レンガ校舎は36-03、36-06(S24完成木造校舎、S26年とS30年完成のコンクリート校舎も写る)
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西本願寺別院(東一番丁) |
東一番丁に落成/元常盤町へ移転 |
1883年(M16)~1954年(S29) |
<Wikipedia「本願寺仙台別院」より>
・ 戦前期は、仙台陸軍病院に近いこともあり、仙台の陸軍第二師団の殉職者のうち無援仏を慰霊する役割も担った
・ 1933年(S8)、近くに三越が開店、本堂は東一番丁から参道を通って奥まった場所にあったため、東一番丁に面する参道両側の土地は、庶民に貸し出して商売をさせた
・ 戦後、仙台市が戦災復興事業によって中心市街地から寺院や墓地を移転させる方針を採ったため元常盤町(のちの支倉町)へ移転した(Wikipedia「本願寺仙台別院」では、昭和29年移転)
<主に、「本願寺仙台別院」HPより>
* 1877年(M10)、仙台・南町に、本願寺東京事務所宮城支局設置、6県下の事務取扱を行う / 同時に、東一番丁に本堂新築開始
* 1878年(M11)、仙台説教所設立、宮城小学校を設置
* 1880年(M13)、仙台説教所を別院とする
* 1883年(M16)、仙台区東一番丁に仮本堂落成
* 1910年(M43)、洋風の本堂が落成
* 1929年(S4)、無優樹幼稚園開園(S12に、あそか幼稚園と改称)
* 1938年(S13)、戦没者追悼法要(日中戦争)
* 1945年(S20)7月、仙台空襲により本堂など焼失、幼稚園休園
* 1947年(S22)、仮本堂新築落成
* 1950年(S25)、元常盤町(現・仙台市青葉区支倉町)を移転復興の地と定め、仮本堂庫裡を新築
* 1954年(S29)、元常盤町へ移転
* 1956年(S31)、幼稚園舎を新築、「あそか幼稚園」再開
* 1959年(S34)、新本堂新築落成
* 2011年(H23)、東日本大震災で、本堂など被災、幼稚園閉園
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「本願寺仙台別院」HP/Wikipedia「本願寺仙台別院」 (出典: 「本願寺仙台別院 沿革」)/参考「東一番丁物語」(柴田量平著)P205~206によれば、最初の本堂落成は、M15年/「番丁詳伝」P64
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西本願寺別院(東一番丁)の位置は、98-122/西本願寺がつくり商店を入居させた長屋は、47-06
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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戦時衣料 |
「仙台市史特別編4 市民生活」より |
1943年(S18) |
・ 1943年(S18)2月1日、新衣料切符(全衣料の点数を25%引上げ)
・ 1943年(S18)2月、商工省、決戦下衣料生活最低標準案
・ 1943年(S18)5月30日、大政翼賛会が、衣生活の刷新、新調の見合せ、更生利用運動を全国展開 / 短袂の実行、国民服着用、モンペ着用、衣類融通交換奨励
・ 1943年(S18)6月3日、政府、衣料簡素化実施要綱、閣議決定
・ 1943年(S18)8月10日、商工省、長袖、長帯の生産を禁止
・ 1943年(S18)8月31日、大日本婦人会、9月以降の毎月8日を「短袖、モンペの日」と決め、「決戦です。すぐ長袖を切りましょう」が合言葉
・ 1943年(S18)12月5日、東北帝国大学、学生に新調の服を禁止 / やむを得ない場合は、男子は国民服乙型、女子は婦人標準服を調整と決定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P52~53
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衣料切符は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P52/衣料点数早見表(S18年改正時)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P53
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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商店など |
永楽園(茶舗) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)、山形市からきて、国分町で開業
* 大正初期に家具販売も、銘茶・漆器・家具を扱う家庭洋品百貨店に
* 漆器や家具販売部門が独立 / 茶は一番町
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「番丁詳伝」P99
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永楽園の七夕飾り物(79-01 ほか)
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軍用機献納 |
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「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。
* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納
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「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310
参考:陸軍愛国号献納機調査 http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html
その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /
海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html
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民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01
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銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
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「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
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東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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街灯(国分町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2)
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街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
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街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
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街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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銀行(都市銀行) |
不動貯蓄銀行/日本貯蓄銀行/協和銀行 |
1912年(T9)/1945年(S20)/1948年(S23) |
<協和銀行仙台支店>
* 1912年(T1)8月1日、不動貯蓄銀行仙台代理店を南町通り36に開業
* 1945年(S20)5月13日、9大貯蓄銀行合同し、日本貯蓄銀行と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P504 / ただし、同P353では、9大貯蓄銀行合同は、1947年5月15日)
* 1948年(S23)7月15日、日本貯蓄銀行を普通銀行に転換して、協和銀行と改称
* 1953年(S28)12月、仙台支店を東一番丁南通り北西角に新築(仙台ビルヂング)し、東二番丁通りより移転(6階建て、仙台初の本格的な貸事務所ビル / 1階は東二番丁から移転した協和銀行が入居したほか、銀行協会、仙台手形交換所、弁護士事務所、会計士事務所、中央出先会社が入居 / この場所にあった飯田信七商店(小間物、化粧品の卸小売)は、卸町に移る(「番丁詳伝」P210)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353、P504、P528/「仙台市史 年表」P118/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194
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東二番丁の協和銀行は、22-25、22-26、南町通移転後の協和銀行36-08 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(仙台ビルディング)
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大型店・量販店 |
緑屋 |
1959年(S34)~1982年(S57) |
* 1959年(S34)、緑屋東一番丁店がオープン(青葉区一番町4-5-13 サンシャインビル内)、S57年に閉店
* 1967年(S42)3月、東北ビル完成し、緑屋仙台駅前店が開店(「わが心の仙台駅前史」年表)
* 1977年(S52)5月20日、仙台駅前店オープン(「続・ 宮城県郷土史年表」P68)(青葉区中央1-9-1新東北ビル内) / Wikipediaでは、1967年(S42)開店 - 1982年(S57)閉店
* 1982年(S57)3月8日、西部クレジットが、緑屋東一番丁店と仙台駅前店を閉鎖(「続・ 宮城県郷土史年表」P143)
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「わが心の仙台駅前史」年表/Wikipedia「緑屋」/「続・ 宮城県郷土史年表」P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P143
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東一番丁店は、31-16(マークのみ見える)
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東一マーケットと中央マーケット |
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・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
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「市民の戦後史」P50、P30
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東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
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霊屋橋(広瀬川) |
木造吊り橋新設完工 |
1916年(T5) |
* 以前は“粗末な有料三文渡し”があった
* 1908年(M41)5月24日、越路橋架橋(今の霊屋橋より100m程下流に)
* 再三水害にあい、1910年(M43)に流失
* 1915年(T4)8月20日、越路橋を霊屋橋と改称
1916年(T5)、木造吊り橋新設完工(霊屋橋と命名)
* 1934年(S9)8月、市失業対策事業として架け替え起工
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P410/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362/「仙台市史 年表」P94/「仙台市史10」年表P247、P283
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木造吊り橋は、99-109、43-29/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図52(木造吊り橋)
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仙台電報局 |
木造2階建て庁舎 (青葉通り・東二番丁角)/5階建新庁舎 |
1947年(S22)/1963年(S38) |
写真20-07の庁舎は、東二番丁・青葉通り北東角にあった(のちのダイエーの場所) / S22年~S38年までの庁舎
<「仙台老舗百店史P142~143」の「仙台電信局」より>
仙台の電信局は、
* 1874年(M7)9月25日、国分町の瀬戸勝旅館の辺りに2階建で建築、東京との間に電信線が開通して、公衆電報の取り扱い開始
* のちに南町に移転し、郵便電信局から郵便局に組織が変わる(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579では、明治36年に移転)
* 1947年(S22)にまた電信局に分離し、東二番丁・青葉通り北東角(木造2階建庁舎へ移る」(編者注:電信局は、昭和24年に電報局に名称変更)
<資料により、移転年に違いあり>
* 1961年(S36)4月4日、仙台電報局(地上4階、地下1階)を東二番丁に新築し移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
* 1963年(S38)、仙台電報局は青葉通りの木造局舎から、東二番丁南町通り南の新局舎(5階建て)へ移転、仙台中央電報局と名称変更(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)
*、1963年(S38)6月22日、「中央電報局」に昇格
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「仙台老舗百店史P142~143 仙台電信局」(一部記述に間違いあり)/「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P600/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P579~580
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木造2階建庁舎(東二番丁・青葉通り北東角)は、20-07/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年)
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電話開始(仙台) |
開始(仙台) |
1900年(M33) |
* 1884年(M17)、宮城県庁・仙台警察署・宮城県監獄に電話が架設される(「仙台市史 年表」P85)
* 1895年(M28)3月20日、藤崎呉服店の藤崎三郎助、宮城県内の民間で初めて電話を架設(「仙台市史 年表」P89)
<電話交換開始>
* 1900年(M33)12月27日、南町の仙台市電話交換局開設、仙台市内の電話交換を開始(加入者170名、170台、市内通話のみだった)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台市史 年表」P91、「仙台はじめて物語り」P181、「仙台あのころこのころ八十八年」P240、)
* 1901年(M34)、塩釜電話所と市外通話が可能になる
<長距離電話> 下記記述、時期に矛盾あり
* 1906年(M39)4月、東京・福島・仙台・盛岡・青森間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P335、「仙台市史 特別編4 市民生活」P142、「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1924年(T3)6月1日、東京・仙台間、長距離電話開通(「重訂 宮城県郷土史年表」P358、「宮城県の百年」年表)
・ この時代の電信電話は真空管の発明以前でもあり、多重通信の技術はほとんど存在せず、1回線につき1本の通信線が必要で、1本の電信電話柱に数十本の架線がなされていた
・ 1901年(M34)の仙台市内の電話番号・電信略号が、「名家実業家一覧地図(明治34年)」の裏面に記載あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142/「仙台市史 年表」P85、P89、P91/「重訂 宮城県郷土史年表」P320、P335、P358/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台はじめて物語り」P181
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数多くの電話線が張られている → 44-22、77-21、44-19、44-18
/「仙台市史 特別編4 市民生活」P142(郵便局電話課での電話交換風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P349(M36年、仙台商工家電話寿語録、カラー)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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戦災復興事業 |
難航した堅牢建物移転 |
1948年(S23)~1958年(S33) |
<建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など
<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
・ 多門通常盤丁線の小林家住宅
・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了
<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349
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撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院)
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仙台市公会堂(戦前) |
設置~空襲焼失 |
1909年(M42)~1945年(S20) |
戦前は、桜ケ岡公園(西公園)にあった
* 1909年(M42)、市が公園内にあった木造の割烹・挹翠館(ゆうすいかん)を買収し仙台市公会堂とした
→ 項目「挹翠館」参照
* 1908年(M41)10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)(「重訂 宮城県郷土史年表」P341)
* 1909年(M42)2月11日、憲法発布20周年記念として桜ケ岡(公園)に公会堂を建立(「宮城百年」毎日新聞社刊 年表)
* 1916年(T5)9月、洋館の新館(ルネッサンス式、木造2階建)が竣工、挹翠館を公会堂本館、洋館を新館とした / マンサード屋根スレート葺、モルタル塗り
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で公会堂本館、新館ともに焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273、P341、P364/「仙台市史 年表」P97/「宮城百年」毎日新聞社刊 年表/「古写真に見る仙台の建築」P44/「仙台あのころこのころ八十八年」P242
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挹翠館は、98-058、98-059/ 新館(洋館)は、99-092-1、99-093-1、53-94、53-99/「いつか見た街・人・暮らし」P14(公会堂講堂内部が写る、在郷軍人大会、大正13年)/「新・目で見る仙台の歴史」P144(カラー、挹翠館と公会堂新館)
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東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
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・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
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拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
米軍接収、自衛隊基地 |
1945年(S20)9月/1957年(S32)12月 |
<戦後は一時、進駐軍(米軍)が進駐・使用>
* 1945年(S20)9月、米軍が接収し、飛行場として使用(レニアフィールドと称す)
・落下傘部隊の駐屯地になった(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
<接収解除後は自衛隊>
* 1957年(S32)12月10日、陸上自衛隊の飛行場として使用開始(「仙台市史 年表」P120)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「重訂 宮城県郷土史年表」P585/「仙台市史 年表」P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155
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戦後の接収時代は、62-06、62-07
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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霞目飛行場(仙台飛行場) |
落成~終戦 |
1933年(S8)~ |
<戦前は、軍用→逓信省→軍用>
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し、7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)3月27日、仙台飛行場落成式(「仙台市史10 年表」P280、「仙台市史 年表」P107)
* 1937年(S12)4月1日、東京・札幌間(仙台、青森経由)で定期航空路開設(「仙台市史 年表」P109、「仙台年表」P207=出典:毎日新聞、「仙台あのころこのころ八十八年」P247) / 日本航空輸送のフォッカー・スーパーユノバーサル機(旅客6人乗り)が発着した。 冬季は休便を強いられ効率が悪い上、中国との開戦が影響して、1938年(S13)に休止(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1938年(S13)9月10日、航空局仙台乗員養成所、落成開所式(「仙台市史10 年表」P294、重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 太平洋戦争開戦とともに陸軍が仙台飛行場の拡張と整備を重ね、航空機乗員養成所、軍用機操縦訓練施設として使用。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
*******************************
「宮城県百科辞典」P188の「霞ノ目飛行場」
* 1933年(S8)、軍の飛行場として完成
* 1938年(S13)、逓信省臨時航空機乗員養成所
* 1944年(S19)、陸軍航空部隊が使用
「仙台年表」P203(出典:河北新報26.10.1)
<編者注:以下の内容は多分間違いか?>
* 1932年(S7)、逓信省航空乗員養成所として、七郷村霞目飛行場開設
*********************************************
<松島の海軍飛行場>(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
このほか、戦前の軍用飛行場に「松島海軍航空隊」の飛行場があった。
* 1942年(S17)5月、3本の滑走路完成(S16年12月に矢本の国有林300haと65名の田畑買収) 戦闘、補給、管理の3部隊約1000人を配置。一式陸上攻撃機20~30機、爆撃機銀河約50機、夜間戦闘機月光5~6機の一大航空基地
* 敗戦後は米軍(第11空挺師団188連隊)が進駐、隣接地も接収し拡張
* 講和条約締結後返還され、航空自衛隊の基地(ブルーインパルスも所属)
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「仙台市史10 年表」P280、P294/「仙台年表」P203、P207/「仙台市史 年表」P107、P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「宮城県百科事典」P188/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155、P156
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戦前は、「目で見る仙台の歴史」P161/02-01、02-02
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富国生命館(国分町) |
完成~解体 |
1938年(S13)~1987年(S62) |
* 1938年(S13)10月、完成(国分町・魚町南西角)
* 1945年(S20)秋、進駐軍に接収され、軍事占領業務を司どる「宮城軍政府」がおかれた
* 1987年(S62)1月21日、解体
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「続・ 宮城県郷土史年表」P218
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戦前は、99-027、99-028/ 空襲後は53-80/ 戦後は、20-03
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商店など |
丹六 |
創業年不詳 |
<戦前>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し、裏五番丁角にあった
(店舗配置図 98-044 、 98-045 、 98-046 参照)
・ 1928年(S3)の写真 98-047 の説明文に「仙台にたった一軒の夜通食堂。和定食は三十銭より、洋定食は壱圓より、そば、すし、丼類一式、階上大広間は宴会に団体に、午前六時より御入浴御随意。店主菊地粂五郎」
・ 仙台空襲(昭和20年7月10日)で焼失
<戦後>
・ 場所は、仙台駅前広場西側に面し青葉通り角にあった
・ 菓子の量り売り(安売り)で人気があった店
* 1961年(S36)12月、火災
<参照> 丹六人気 → 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「F-4 丹六」
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S36年火災は、「わが心の仙台駅前史」年表
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戦前は、98-047、53-92/戦後は、20-08、 53-82、98-049 、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P24~25(S30年代初め頃、夜間)、同P73(S39、カラー)
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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