項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東北電力 |
仙台火力発電所/新仙台火力発電所 |
1960年(S35)/1971年(S46) |
* 1957年(S32)6月29日、七ヶ浜町で起工式
* 1959年(S34)7月2日、1号機に火入れ/11月に完成
* 1960年(S35)2月20日、運転開始(17万5000KW)
* 1960年(S35)12月1日、2号機完工式
* 1962年(S37)6月、3号機完成(1・2・3号機で計52.5万KW)
* 1969年(S44)7月、新仙台火力発電所1号機、工事着手
* 1971年(S46)8月20日、新仙台火力発電所1号機、営業運転
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「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P593、P594、P595、P598、P605、P651/「続・ 宮城県郷土史年表」P1
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P599の写真137(仙台火力発電所)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S37年6月、仙台火力発電所(1・2・3号機)外観)
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電力ホール |
オープン |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地上9階建)が東二番丁70に完成 / 電力ホールのほか、グランドホテル仙台、貸室、市民図書館分室を併設 / 電力ホールは7~9階で、各種催しに活用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596~597
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国鉄(戦後) 2 |
東北本線以外 |
1966年(S41)~1975年(S50) |
* 1966年(S41)3月5日、運賃値上げ、旅客31%
* 1966年(S41)7月、北目町に国鉄ビル完成(地上6階地下1階)
* 1967年(S42)10月1日、常磐線、電化し営業運転を開始
* 1968年(S43)4月1日、国鉄丸森線、槻木~丸森間営業開始
* 1969年(S44)5月9日、運賃15%値上げ
* 1969年(S44)5月10日、1、2等車を廃止、グリーン車ができる(「菅家年表」P63)
* 1970年(S45)1月22日、指定乗車券がコンピューターによる発売となる(「菅家年表」P64)
* 1970年(S45)7月21日、東北支社廃止決定
* 1972年(S47)3月15日、仙台(宮城野駅)~東京間(小名木川駅)、フレートライナー(鉄道とトラック輸送を直結したコンテナ輸送)往復運転開始/ 同日、長距離普通列車228号(青森~上野間)引退
* 1972年(S47)4月1日、運賃改正にあわせて、仙台市内11駅を市内扱いに改正
* 1972年(S47)4月27日、国労・動労が空前のストライキ
* 1973年(S48)12月4日、公労協全日ストで国鉄ダイヤ大混乱
* 1973年(S48)8月、鉄道弘済会の売店をKIOSK(キオスク)と呼称(「菅家年表」P67)
* 1974年(S49)3月26日、国労・動労、正午まで準ゼネスト
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)、4月13日収拾
* 1974年(S49)10月、仙台鉄道管理局管内からSLが完全に姿を消す
* 1974年(S49)11月27日、国鉄48時間スト
* 1975年(S50)5月9日、春闘で交通ゼネスト、国労・動労はスト中止
* 1975年(S50)11月26日、公労協・国労・動労などがスト権奪スト、12月4日スト中止(国鉄全線、史上最長の192時間運休)
* 1975年(S50)12月1日、東北公労協ストで、仙山線完全ストップ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567/岩波ブックレット「年表 昭和史」P55、P56/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P635、P639、P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P9、P25、P28、P34、P41、P47/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P63、P64、P67、P68
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P569に、仙台の国鉄ビルの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P199(S42年3月、国鉄原町操車場空撮)
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特急ひばり |
上野~仙台間 |
1962年(S37)~1982年(S57) |
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転(この年6月23日、東北新幹線が大宮~盛岡間で開業)
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「仙台市史 年表」P122/「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37)
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国鉄(東北本線) 2 |
旅客・貨物輸送 |
1945年(S20)秋~1965年(S40) |
<戦後(昭和24年6月からは国鉄=公共企業体日本国有鉄道)>
* 1945年(S20)11月、上野~青森間急行1往復(101・102列車)が運転再開、しかし翌月、深刻な石炭不足になり再び一時運休
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始、二等車復活
* 1947年(S22)7月1日、青森行き普通列車に「婦人子ども専用車」登場(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)11月1日、東北で木炭が滞貨となり、輸送のため「木炭列車」を運転 / 国鉄はこの秋、電力、石炭の不足で貨車の入れ替えにも支障が出る(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)7月1日、上野~青森間直通急行は東北本線経由の1往復(103・104列車)運転開始
* 1949年(S24)6月、日本国有鉄道法施行、公共企業体日本国有鉄道発足
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120) / 蒸気機関車、仙台~上野間5時間25分 / 上野~青森12時間
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)/ 常磐線経由で
* 1961年(S36)3月、仙台まで交流電化完成(「仙台市史 特別編4 市民生活」P201)
* 1961年(S36)5月1日、東京~仙台間電化され、特急電車が走る(「菅家年表」P55)
* 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業(同時に、仙台中央卸売市場への引き込み線完成) / 前年10月、長町~東仙台間に貨物線開通
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1962年(S37)6月30日、東北本線の山廻線(利府駅経由)を廃止
* 1963年(S38)4月、修学旅行専用の「おもいで号」誕生
* 1963年(S38)10月、市内大梶(仙台駅・東仙台駅中間)に電車基地(または仙台運転所)を設置 / S41年4月全面完成
* 1964年(S39)3月20日、上野~仙台間の全急行を電車化
* 1965年(S40)10月1日、特急「ひばり号」(仙台~上野)を2往復に増便、特急「やまびこ号」(盛岡~上野)運転開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P562、P564、P566~567、P571/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P589、P598、P605/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P55/「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P566に、仙台上野間急行電車の写真
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殉国勇士の家 |
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日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」
「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
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長町駅(JR) |
開業 |
1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅>
* 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成
* 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89)
* 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89)
* 1923年(T12)、2代目駅舎に改築
* 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始)
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「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(3) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合)
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金属回収 |
市電レール |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月、市電芭蕉の辻線が廃止となり、レールを剥がして、戦時金属回収のため供出
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)
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住宅団地 |
将監団地 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)、泉町に造成開始(県開発公社がS50年にかけ造成)
* 1970年(S45)、県営住宅として、泉町に将監住宅412戸を建設
* 1972年(S47)2月、噴水池完成
* 1972年(S47)5月26日、公設小売市場オープン
* 1974年(S49)7月、18業者による協同組合公設小売市場完成
* 1978年(S53)5月20日、ファミリーデパート、オープン
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「新・目で見る仙台の歴史」P186/「仙台市史 年表」P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P10、P31、P81
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P91(S49年、将監公設小売市場)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃の将監団地、俯瞰カラー)
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市場 |
明治期 |
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* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設
* 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される
* 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設
* 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設
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「仙台市史 年表」P83、P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場)
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については
→ 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25)
* 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36)
* 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26)
* 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41)
* 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開
* 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開
* 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる
* 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開
* 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活
* 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる
* 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売)
* 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符)
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物価上昇 |
反対運動/行政の対策 |
1973年(S48)~1974年(S49) |
* 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定
* 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情
* 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加)
* 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言
・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ
* 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定
* 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正
* 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定
* 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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公害・環境問題 |
(3) |
1974年(S49)以降 |
* 1974年(S49)5月、仙台市上水道水源の釜房湖にプランクトン発生
* 1974年(S49)7月、仙台市で、騒音・振動公害測定車始動
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定
* 1975年(S50)4月、蒲生干潟のヘドロ減少を県が報告
* 1975年(S50)5月、鶴ケ谷団地の大堤沼にホタルの幼虫300匹放流(S49年から)
* 1975年(S50)6月5日、「杜の都の環境をつくる条例」に基づき、保存緑地28か所指定
* 1975年(S50)8月16日、仙台市清掃局、不要品あっせんコーナー開設(当時は全国でも珍しかった)
* 1975年(S50)11月25日、塩釜市の小野田セメント・日本セメント・三菱セメントは、公害防止協定結ぶ
* 1976年(S51)8月2日、北山輪王寺庭園に、ゲンジボタルの幼虫と卵7000匹放流
* 1984年(S59)5月25日、仙台市に、空き缶空き瓶選別センター発足
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県スパイクタイヤ対策条例(脱スパイク条例)施行 → 項目「スパイクタイヤ粉塵公害」参照
* 1986年(S61)5月4日、蔵王のブナと水を守る会発足
* 1986年(S61)5月28日、仙台市沖野に、六郷・七郷の環境をよくする会結成
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
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「続・ 宮城県郷土史年表」P30、P31、P40、P41、P42、P43、P47、P57、P177、P198、P204、P205、P206/「仙台市史 年表」P129/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79、P84/仙台市HP「仙台市環境基本条例」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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スパイクタイヤ対策条例 |
施行 |
1986年(S61) |
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79/「続・ 宮城県郷土史年表」P198、P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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スパイクタイヤ粉塵公害 |
脱スパイクタイヤ推進 |
1981年(S56)~1986年(S61) |
* 1981年(S56)1月27日、「河北新報」への投書が発端
* 1982年(S57)、仙台弁護士会、道路粉塵問題小委員会が検討開始
* 1982年(S57)10月、仙台市消費者協会、粉塵公害追放運動展開 / 仙台など各都市でスパイクタイヤ自粛運動
* 1982年(S57)11月2日、仙台市宮町商店街は、粉塵公害スパイクタイヤ自粛決議
・ 中江商工振和会、仙台ゴミ追放婦人ロビー、環境運動団体などが脱スパイク運動
* 1982年(S57)11月22日、多賀城市はスパイクタイヤ使用自粛指示
* 1983年(S58)6月13日、仙台市、スパイクタイヤ対策本部を発足
* 1983年(S58)9月11日、宮城県がスパイクタイヤ対策本部発足
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1983年(S58)12月、市民による「脱スパイクタイヤ推進モデル地区」で折立地区を指定(ピン抜きや積雪時の門前雪かき)
* 1984年(S59)1月20日、仙台市が、粉塵汚染で緊急事態宣言
* 1984年(S59)3月16日、名取市でタイヤのピン抜き所開設
* 1985年(S60)ころ、仙台市民によるスパイクタイヤのピン抜き活動が盛んになる
* 1985年(S60)8月22日、仙台タクシー協会、スパイクタイヤ全廃方針たてる
* 1985年(S60)10月、高橋栄(八木山本町)が、無公害スパイクピン実用化
* 1985年(S60)12月5日、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
* 1988年(S63)6月2日、スパイクタイヤ、1990年12月までに製造を中止
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543~544/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P58/「仙台市史 年表」P133、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P152、P153、P166、P168、P172、P174、P194、P196、P197、P198、P204/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P84
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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梅田川清掃運動 |
開始 |
1965年(S40) |
<梅田川浄化運動>
梅田川は、急速に発展した住宅街を流れるため、ごみが投げ捨てられ、汚水が流れ込み、きたない川の代名詞のようにいわれていたが、市民が汚水と悪臭の追放に取り組む / 毎月16日の「町ぐるみ清掃の日」に、流域住民総出で清掃 / 当初3年計画だったが、1年半で目標を達成した
* 1964年(S39)10月(S40年3月?)、苦竹、中江地区の12町内会4200世帯と地域の衛生団体、東保健所などが参加して、梅田川浄化推進協議会結成
* 1965年(S40)3月29日、梅田川浄化運動大会
* 1965年(S40)5月、小田原から荒巻神明町にかけての29町内会による、北部地区梅田川環境美化推進協議会発足
* 1965年(S40)夏、ドジョウやフナを放流
* 1966年(S41)10月、美しい町づくり全国コンクール最優秀賞受賞(テレビで全国に紹介)
<他の地域へ波及>
このあと、六郷堀清掃運動(1968年3月~)、広瀬川、七郷堀、郡山堀など市内各地に河川浄化の取り組みが生まれる
* 1968年(S43)5月、これら運動団体で仙台市愛護会結成
* 1980年代までに河川愛護会の構成団体は10団体となり、梅田川、広瀬川、七北田川、郡山堀、六郷堀、七郷堀、藤川で運動継続、毎年1万人以上が清掃の参加
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P248~249、P680/「仙台市史 年表」P124/「重訂 宮城県郷土史年表」P625/「仙台市史 特別編4 市民生活」P541~542
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(ごみ捨て場となった梅田川)/同P430(S41年、市民が梅田川清掃)/「市民の戦後史(仙台市)」P189と「新・目で見る仙台の歴史」P191に「市民総出で梅田川清掃作業」/「市民の戦後史(仙台市)」P189(フナを放流)
/同P212(住民たちが六郷堀川さらいで清掃)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P543(七郷堀を市民が清掃作業)
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大学紛争 |
仙台(2) |
1969年(S44)後半 |
<1969年(S44)後半>
・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖
・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除
・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕
・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖
・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕
・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕
・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖
・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定
・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請
・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除
・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開
・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開
(12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、
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大学紛争 |
仙台(1) |
1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖
<1969年(S44)前半>
(1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖)
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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労働運動(戦前) |
宮城県内 |
1898年(M31)~1938年(S13) |
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦前の経過につき記述あり
* 1898年(M31)、日本鉄道争議
* 1911年(M44)、仙台ガスで職工争議
* 1918年(T7)、米騒動後の2年ほどの間に賃上げ争議続く(岩井酒造、東北板紙、東京絹毛紡績会社仙台工場、仙台市役所、仙台畳業組合、片倉組仙台製糸工場、仙台専売支局、北山の瓦製造所)
* 1920年(T9)1月、仙台染色職工会結成(仙台市内8つの染織物工場の職工67名)
* 1925年(T14)末、仙台印刷労働組合結成
* 1926年(T15)、仙台印刷労働組合が、一般労働者・農民・学生などを加え仙台一般労働者組合に発展 / 東北印刷、大正印刷などの印刷会社、旭紡績、塚本硝子、東洋刃物などで争議を指導 / 1928年(S3)~1929年(S4)の共産主義者弾圧のなかで指導者を失い壊滅
* 1934年(S9)、宮城一般労働組合結成(佐々木更三により、仙台市役所勤務の現業労働者や市内の自由労働者ら52名) / S9の仙台合同運送の荷馬車引き子スト、仙台市の塵芥運搬人夫スト、三馬ゴム工業仙台分工場ストを指導し成果 / その後二度にわたる旭紡績仙台工場の待遇改善ストで労働側を勝利に導く / 1938年(S13)2月、委員長佐々木更三が第二次人民戦線事件に連座検挙されたことを契機に解散を余儀なくされた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P529(明治31年、日本鉄道争議の中心人物石田六次郎の解雇辞令)
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秋保電鉄 |
秋保石材電気軌道/秋保電気軌道(通称、秋保電鉄)/仙南鉄道秋保線/秋保線廃止 |
1922年(T11)/1925年(T14)/1959年(S34)~1961年(S36) |
* 1922年(T11)10月29日、秋保石材軌道株式会社が株式会社となる
* さらに、T14年1月12日に秋保電気軌道株式会社と改称
* 1925年(T14)6月13日、電気鉄道に切り替え(全線の電化と軌道拡幅が完成し電車に)
<バスも運行>
* S24年4月に長町~鈎取、S26年4月に長町~秋保温泉、同8月に仙台駅前~秋保温泉など、S33年までに順次6路線運行開始(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P601)
<仙南自動車>
* 1950年(S25)、仙台市交通部から岩沼以南の路線を譲り受けて、仙南自動車が営業開始 / 以後、仙台と荒浜・白石・角田・相馬・青根などを結ぶ路線開設
<仙南交通秋保線となる>
* 1959年(S34)7月3日、秋保電気軌道が仙南交通自動車と合併し、仙南交通となる(鉄道は仙南鉄道秋保線と改称)
* 1961年(S36)5月7日、秋保線廃止、長町駅から「さよなら列車」運行
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「仙台市史 年表」P101、P102、P103、P121、P122/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P600~601に、旧秋保電鉄、旧仙南交通自動車、仙南交通について記述あり/「重訂 宮城県郷土史年表」P591/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P527(S14年、沿線の様子を伝える秋保電気軌道リーフレット)
/さよなら電車(S36年5月)は、22-09、「市民の戦後史(仙台市)」P124)/「新・目で見る仙台の歴史」P187
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台消防組 |
1881年(M14) |
* 1881年(M14)12月、仙台区の「町火消組」が「消防組」と改称
* 1894年(M27)5月22日、「仙台消防組」設置(宮城県消防規則に基づき)
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「仙台市史 年表」P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験)
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戦時衣料 |
戦時衣生活簡素化実施要項 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月4日、戦時衣生活簡素化実施要項を閣議決定
<男性>は、新規仕立ては「国民服乙号」またはそれに準ずるものに限定(茶褐色以外も可)/ 背広、ダブルの外套、合着の新規仕立ては禁止
<女性>は、婦人標準服の普及が図られた
・ 和服は、<男性>は筒袖、<女性>は元禄袖で、長袖は禁止
<戦後の変化>
* 1947年(S22)、この年、モンペ姿が減り、スカートが増加(「菅家年表」P41)
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国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー)
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東北振興/農村更生 |
3 |
1935年(S10)~1936年(S11) |
* 1934年(S9)10月19日、閣議が東北振興調査会(政府の諮問機関)設置を決定、12月26日公布(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P519)
* 1935年(S10)1月10日、東北振興調査会総会(東京)
* 1935年(S10)1月11日、日本学術協会、東北振興考査会(学士会館)
* 1935年(S10)2月14日、東京で東北振興連盟創立
* 1935年(S10)2月15日、東北の凶作地で食糧難が深刻化
* 1935年(S10)5月、内閣に東北振興局(のち、内閣東北局と改称)
* 1935年(S10)7月17日、河北新報社創立40周年事業、「東北振興歌」「東北新民謡」募集
* 1935年(S10)8月、愛国婦人会など、凶作地の子女身売り防止運動はじめる/助けた女子、宮城県152人(支払額11000円)など、新潟含む東北7県の実数掲載(菅家年表P16)
* 1935年(S10)9月、東北振興調査会、特殊会社の必要性を政府に答申
* 1935年(S10)9月17日、仙台市郷倉条例公布
* 1935年(S10)、東北地方は2年連続の冷害(菅家年表P16)
* 1935年(S10)12月1日、東北振興号(河北年鑑)刊行(11年度版も発行)
* 1935年(S10)12月5日、仙台市、恩賜郷倉(おんしごうぐら)を7カ所に設置 / 郷倉は救荒備蓄のための共同倉庫
/ 「恩賜の郷倉」は、更生運動指定町村に、天皇の内帑金(ないどきん)の支出をもって建設された
* 1936年(S11)5月27日、東北興行株式会社法公布、同年10月7日、東北興行株式会社設立(勾当台通り)
* 1936年(S11)10月7日、「東北興業株式会社」が仙台に創設され、産業起こしがスタート
<東北振興第一期総合計画>
・ 1937年以降5年継続の計画策定(「仙台市史 特別編4 市民生活」P357)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P357、P517~519/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P16/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P447~449、P452、P454~455/「仙台市史10 年表」P285~287
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P519(泉区実沢に残る「恩賜の郷倉」、カラー)
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東北振興/農村更生 |
2 |
1931年(S6)~1934年(S9) |
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4,昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
・欠食児童が増加、青森県上北郡で1300名中700名が欠食
・青森県上北・下北・三戸地方収穫皆無、人身売買が横行
・山形県のある村では、15~24歳の娘467人中110人が売られた
* 1932年(S7)、不況さらに深刻になり、官吏や教員の給料の遅配や減給も生じ、県下には税が納入されず廃村を決議した村もあると新聞などで報じられた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
・ 仙台周辺の農村では、地主の所有する小作地が多くなる(原町で54.1%、岩切46.3%、七郷42.3%など) / 市内の商業資本家たちがこれらの村々の水田を買い、不在地主になっていた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1932年(S7)7月、欠食児童が激増/北海道10899人、青森県6107人、秋田県996人、岩手県3539人、全国で20万人
* 1932年(S7)7月4日、宮城県農村自力更生運動連盟結成(宮城県販売購買組合連合会、産業組合中央会宮城支会など14団体参加)
* 1932年(S7)、小作争議が各地で激化
* 1932年(S7)、農山漁村経済更生事業開始(昭和7年以降、毎年20ケ町村づつを指定して、経済更生特別指導町村となし、農山漁村の経済更生事業を実施す)
* 1932年(S7)12月、時局匡救事業として仙台に飛行場工事を起す(8年3月27日、霞目の仙台飛行場竣工、落成式)
* 1933年(S8)、農家は豊作となったが、豊作貧乏に泣く
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる(「仙台市史 年表」P107)
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県56.4%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)、東北地方大凶作、娘の身売り増加(岩波P11)
* 1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員、職員および市立学校職員臨時恤救金拠出規約を制定
* 1934年(S9)、婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P360)
* 1934年(S9)11月、東北地方大凶作で、女子出稼ぎ者は芸妓らを含め5万8173人(芸者2196、酌婦5961、娼妓4521、女給3271、女中15534、子守19244、女工1726、その他5720) / 秋田県横手駅、午後3時41分発の列車は「身売り列車」と呼ばれ、毎日女の子が銘仙に白足袋をはきマダラ化粧で発つ
* 1934年(S9)11月、NHK仙台中央放送局が、「農山漁村経済更生実績講座」(冷害対策として、14回シリーズ放送)
* 1934年(S9)12月26日、東北地方窮乏対策のため、政府が「東北振興調査会」を設置(S13年3月31日に廃止)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356、P360、P361、P517~518/「宮城県百科事典」P754/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P12、P13、P14、P15/岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/「仙台市史 年表」P106、P107/「仙台放送局60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P433
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P517(「宮城県に於ける経済更生運動の概要」表紙、パンフレット「自力更生」)/同P518(S9年、「東北地方の飢饉救援に関する全国農民組合総本部通達」)
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産業組合 |
仙台(市街地/農村部) |
1903年(M33)~ |
・ 産業組合は、事業の内容によって、信用組合(組合員の貯金を預かるとともに必要な資金の貸し付けを行う)・販売組合(組合員の生産物を共同で有利に販売する)・購買組合(組合員の生産に必要な資材や生活必需品を共同で購入し安価で提供する)・生産組合(機械・道具・施設などの共同利用を行う)の4種があったが、信用組合以外は兼営も認められた。しかし、のちには信用組合との兼営も可能になり、また、生産組合は利用組合と改められた
* 1900年(M33)、産業組合法施工(産業組合には、のちの農業協同組合・漁業協同組合・信用金庫・労働金庫・信用組合すべてを含む)
<仙台市内の産業組合>
・ 市街地では、1903年(M36)~1909年(M42)に、毛筆販売原料購買組合、製本販売購買組合、漆器販売購買組合、陶器販売原料購買組合、織物原料購買生産販売組合、下駄類製造販売原料購買組合、農具鍛冶業製造販売原料購買組合、埋木製作品販売原料購買組合、城南信用組合、仙台湾漁業信用組合など設立 / 1918年(T7)~1924年(T13)に、信用組合仙台市民金庫など8つの組合設立
・ 農村部では、1907年(M40)3月に生出村信用販売購買生産組合 / 1909年(M42)2月に六郷村信用販売購買生産組合、中田村信用購買組合、七郷村信用販売購買組合 / 1911年(M44)~1930年(S5)の間に、高砂、西多賀、根白石、諏訪、生出村折立、大沢村、中田村、岩切村、秋保村、名取にも設立 / 1934年~1939年(S14)に、七北田、西多賀、高砂村、広瀬村、生出村、六郷村すべてに四種事業兼業の信用販売購買利用組合設立
* 1910年(M43)9月、産業組合中央会宮城支会結成 / 参加98組合、事務所は宮城県商工課内
* 1930年(S5)5月、宮城県販売購買組合連合会、設立
* 1935年(S10)、産業組合中央金庫仙台支所開設
* 1935年(S10)、市街地信用組合協会設立
* 1940年(S15)8月、産業組合は農会と統合されることになり、1943年(S18)、農業界として発足
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「仙台市史 年表」P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P514~517
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P515(大正3年現在、県内産業組合名簿)
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婦人参政権獲得運動 |
宮城県 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦人参政権の芽生え>
* 1880年(M13)、名取郡長町村村会規則(村会議員選挙で、20歳以上の男女に等しく選挙権、ただし被選挙権は女性には認めていない) / 全国的に珍しい
* 1883年(M16)、成田うめ(清元師匠)が仙台自由党結成
<婦選獲得運動>
* 1930年(S5)6月10日、黎明婦人会が仙台婦選講演会(仙台市公会堂、講師:市川房枝) / 学生・未成年含めて300人の女性が参集
* 1931年(S6)、黎明婦人会による婦選獲得同盟演説会(講師:日本産児調節婦人同盟理事長の石本(加藤)静枝) / 毎年開催された婦選大会も戦時体制の強化の中で1937年(S12)1月の第7回で幕を閉じる
<戦後>
* 1945年(S20)10月15日、「河北新報」が「婦人参政権を語る」と題して、県内4人の女性たちの抱負を掲載
* 1945年(S0)11月29日~46年2月6日、「河北新報」が「婦人参政権講座」65回開設(講師:東北帝国大学教授陣15人)
<婦人文化クラブの啓発活動>
* 1946(S21)3月14日、河北新報社主催「婦人参政権座談会」(GHQ民間情報教育局企画部婦人課長のイセル・ウィードを囲み、仙台市中心に国民学校訓導、看護婦、事務員、主婦、農村女性など女性30人) / 参加女性たちが「婦人文化クラブ」結成し、総選挙に向け女性たち自身による啓発活動
* 1946(S21)3月30日、発会式(荒町国民学校講堂)では、各政党の立会演説会や模擬投票
* 1946(S21)4月7日、河北新報社従業員組合婦人部と共催で、市川房枝を招いて懇談会開催(会場:宮城女学校) / 労働組合、民主団体の婦人部、主婦など約60人参加
<戦後初の総選挙>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P507に、当日の様子記述あり ・ 投票率(宮城県): 男性78.6%、女性62.3%
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504(長町村村会規則)/同P507(昭和21年、戦後初の総選挙投票を伝える「河北新報」)
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人力車 |
仙台人力車挽子組合 |
1920年(T9)~1925年(T14) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P503>
* 1920年(T9)10月、仙台人力車挽子組合、青年自由革新党幹事の渡辺保蔵の指導で組織
* 1923年(T12)8月、仙台人力車挽子組合、再建総会 / 賃金改善と特に個人営業の自由を阻むすべての制限撤廃が運動方針 / 800余名の挽子全員を組織化
* 1925年(T14)9月、人力車挽子組合大会と値上撤廃期成大演説会(東三番丁の電気館 ☆末尾の注参照) / 人力車借用料値上反対した仙台停車場構内人力車挽子のストライキが口火となる / 800余名全員のストライキも辞さないという態度に、営業者側は無条件で値上案を撤回 / その後、個人営業の権利獲得運動を継続
・ これに自信を得た仙台停車場構内の挽子は、雇入れ・解雇は営業人と挽子合議の上で決定し、車体破損弁償は実費分を挽子と営業人が合議の上で決定することなどの要求で交渉し、全面勝利
<仙台市史 特別編4 市民生活」P193>
・ 1925年(T14)9月3日、仙台人力挽子組合臨時緊急集会(於:国分町の電気館) / 歯代(仙台駅構内の挽子80余名が営業者に収める額)1か月で18円から30円に引上げに反発
☆注: 電気館は、「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236によれば、国分町にあり、前身は大正3年4月開館の世界館で、その後日本館、帝国館、キネマ館と改称し、大正11年5月27日に電気館と改称した / 東三番丁ではない)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P503
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P503(T14年、人力車挽子組合大会・値上げ撤廃期成大演説会)
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普通選挙要求運動(仙台) |
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1919年(T8)~ |
* 1919年(T8)2月12日、仙台普通選挙期成同盟会結成協議会(メンバーの大部分は、憲政会所属の県会議員と弁護士)
* 1919年(T8)2月15日、仙台普通選挙期成同盟会(仙台普選同盟会)の結成大会・演説会(開明座) / 伊藤彪・新妻胤嘉らの演説後、市中を提灯行列(国分町の開明座~東一番丁~大町4丁目角~新伝馬町・名掛丁~停車場前広場~南町通~南町~芭蕉の辻~大町1丁目~西公園)
* 1919年(T8)4月、普選要求大会(開明座、聴衆2000人余) / 労働党組織宣言可決
* 1920年(T9)2月、普選実行期成大演説会(仙台座)/憲政会宮城支部、仙台普選同盟会主催 / 尾崎行雄、新妻胤嘉、村上亀一郎らの演説に聴衆熱狂 / 雪の中、「国民一般に選挙権を与えよ」などスローガンかかげた旗を押し立て、「普選促進歌」(賀川豊彦作詞)を歌い乍ら、停車場前からデモ行進 / 会場の仙台座は有料にもかかわらず大入り満員、入場できなかった者多数
* 1920年(T9)5月、総選挙(前年度改正した小選挙区制で実施)宮城県内の憲政会候補は全滅
* 総選挙直後、布施辰治が、官権選挙干渉糾弾・金権横暴政治撲滅・普通選挙宣伝のための大演説会開催(開明座)を仙台警察署が中止・解散を命じる / 抗議の大会も普通選挙促進示威提灯行列も治安警察法によって、中止・解散させられる
* 1920年(T9)6月、普選促進・現内閣糾弾県民大会(仙台座) / 聴衆2000人余 / 地方代表も参加し、運動を全県下に拡大するため、名称を普通選挙促進期成同盟会と改称(会長に村上亀一郎) / 普選実現まで運動は続けられた
* 1920年(T9)8月、青年自由革新党結成(仙台普選同盟会の中心メンバーの三浦端・長谷川陸郎や百数十名) / 五城館で発会式、九項目の綱領を確定(満20歳以上の男子に一律に選挙権、婦人参政権の理を認め実現を期す、営業自由の原理、八時間労働制、治安警察法第17条撤廃、司法省廃止し裁判権の独立、陪審制度確立、官僚思想打破、財閥学閥を排撃)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P500~503「普選運動のころ」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(大正14年、普選案の帝国議会通過を祝う提灯行列)
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市民利用施設 |
(3)コミュニティーセンター |
1975年(S50)~ |
・ およそ300~500㎡規模、主に集会施設、和室、図書室など
・ 地区住民活動の場で建設段階から市民参加で施設内容を決め、運営管理も住民組織が自主的に行う(住民団体代表など40~80名の市民委員会を設置し、実際の運営は、委員会で選ばれた運営委員会が行う
* 1975年(S50)、上野山コミュニティーセンター(上野山市民の家)、若林コミュニティーセンター(若林会館)開館
・1996年(H8)7月現在、市内のコミュニティーセンターは48か所
<参照> 「コミュニティーセンター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「コミュニティーセンター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P470(上野山コミュニティーセンターの上野山市民まつり)
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市民利用施設 |
(2)地区市民センター |
1972年(S47)~ |
・ およそ1500㎡程度の、集会施設、体育施設(会議室、和室、体育館、遊戯室、娯楽室、図書室など)がある多目的施設
・ 公民館、保健センターと併設の場合もある
* 1972年(S47)、鶴ケ谷市民センター、東部市民センター建設
・ 1996年(H8)7月現在、市内に50館
<参照> 「市民センター」一覧は、「仙台市」HPの「公共施設案内」のうち「仙台市市民センター」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469~470
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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大日本国防婦人会 |
仙台支部結成 |
1937年(S12) |
<銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち)
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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社会教育(戦後) |
青年学級/社会学級/老壮大学 |
昭和20年代、30年代 |
* 1949年(S24)、社会教育法制定
* 1950年(S25)、教育委員会発足
・ 戦後の社会教育の中心は、(1)青少年教育と(2)成人教育
(1)青少年教育
指導者講習(1940年代後半~1950年代前半)
青年学級活動
レクリエーション、スポーツ、学習活動
青年団活動活発化とともに広がる
1953年(S28)、青年学級振興法制定
1956年(S31)現在、市内に43学級
1961年(S36)現在、13学級
1967年(S42)、青年学級廃止し、青年教室に組み替え
拡大発展はあまりなかった
(2)成人教育
各学校に、PTA会員父兄対象に社会学級
1950年(S25)、16学級発足
1951年(S26)、45学級発足
1961年(S36)には小学校に38学級、中学校に10学級
成人学校 1959年(S34)開始(技能科目、教養科目)
生活学校(主に婦人対象の技能習得、夜間休日開講)
家庭教育学級 1964年(S39)発足、翌年社会学級に統合
(3)高齢者対象
1962年(S37)、老壮大学開設(65歳以上)
1966年(S41)、修了者が自主的に明治青年大学結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P284~285、P452
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P452(仙台市の青年学級・青年教室数の推移
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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子ども会など(子供の団体) |
日中戦争・太平洋戦争期 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
☆ 戦争拡大に伴い、子供会の目的が変化し、戦時色が前面に
* 1937年(S12)ころから、子供会が戦傷者慰問
* 1941年(S16)、既存少年団は、戦時体制強化のため1941年(S16)に大日本青少年団に統合され解散
・ 1943年(S17)、図書館童話会のプログラム / 朗読「錦のみはた」、童謡「潜水艦」、童話「地底戦車兵の冒険」など
・ 開催された会のタイトル:「建国こども祭」「愛国童話大会」「興亜童話大会」「戦捷祝賀童話大会」「出征家族児童慰安会」「大東亜戦争記念童話大会」など
・ 東六番丁国民学校少年団(児童を軍隊組織と同様のものに編成)
本団(団長・副団長は、校長・教頭、役員は教職員が分担)
団員(三年生以上の全児童 / 二年生以下を準団員)
学年ごとに三年隊、四年隊・・・と呼び、
学年を男女各一中隊、学級を一小隊に編成
一・二年生を準団員とし、幼年隊と呼ぶ
分団を町内会単位におき、分団内に40人位で班、
10人以内を標準に組に分け、
いずれも各学年にわたり異なった学年の児童で組織
分団に分団長、班に班長、組に組長を置く
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444~445
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(昭和16年 少国民新聞付録「こども隣組双六」)
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(3)~動員範囲を低年齢へ拡大/卒業後も動員/授業停止し全面動員~ |
1944年(S19)7月/1945年(S20)3月 |
<国民学校高等科、中等学校低学年も動員>
* 1944年(S19)7月、文部省「学徒勤労の徹底強化に関する件」通牒
・ 「1)1週6時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合、中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校3年生の男子のみならず女子にも課する 5)出動後2か月たたない学徒にも深夜業を課する」などを指令
* 1944年(S19)8月、「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」が同日公布され、学徒動員の法令上の措置が決定
* 1944年(S19)11月、夜間学校の学徒や、弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
<卒業後も動員継続>
* 1944年(S19)12月、中等学校卒業者の勤労動員継続措置決定
・ 翌年3月卒業後も引き続き学徒勤労を継続させるため、中等学校に付設過程を設け、進学させる
<授業停止>
* 1945年(S20)3月、「決戦教育措置要綱」閣議決定
・ 「国民学校初等科を除き、学校における授業は昭和20年4月1日より、昭和21年1月31日まで原則として停止」
☆ 学徒動員による死亡者は、1万966人、傷病者は9789人
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(鍋蓋代用品をつくる児童たち、昭和20年)
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仙台育児院 |
開設 |
1906年(M39) |
・ 「明治35年、38年の大凶作のころ、米国婦人フェルプスは凶作地児童の惨状に乗じた誘拐者が多いことを聞き、明治39年2月に孤児8人を引き取り、仙台市北四番丁に東北育児院を開設した」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P359)
・ 「明治39年2月27日、凶作で困窮した根白石(現・泉区内)の児童7人が、東三番丁の新田文右衛門宅に収容された。この日が米国人フェルプス女史創設の「仙台基督教育児院」の誕生日である」(逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107)
* 1906年(M39)2月27日、メソジスト教会のフェルプスら、東三番丁に東北育児院を開設
* 同年11月3日に、仙台育児院と改称
* 1907年(M40)3月に北四番丁に移転
* 1909年(M42)12月、仙台基督教育児院と改称
* 1935年(S10)3月、キリスト教育児院丘の家建つ(小松島に)
* 1978年(S53)4月26日、育児院による小松島子ども療養センター、オープン
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P359/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P107/「仙台市史 年表」P93、P94/「仙台年表」P206/「続・ 宮城県郷土史年表」P80
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P425(M41年ころ、キリスト教育児院)
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自動車など発売年 |
戦後 |
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* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
*************************
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
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敗戦後の諸相・仙台 |
欠食児童 |
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・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
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民生委員/児童委員 |
制度発足 |
1946年(S21)/1947年(S22) |
<前史>
* 1925年(T14)、宮城県で、奉仕委員制度開始(東北で4番目)
* 1928年(S3)、仙台市社会事業協会設立
* 1932年(S7)、救護法、実施
/ 仙台市内では奉仕委員の市内一区一名制
* 1936年(S11)4月1日、方面委員と改称 / 同年11月3日、方面委員令公布
<戦後>
・ 荒廃した都市・農村に大量の戦災者、失業者、復員軍人、引揚者など多数の生活困窮者出現
・ GHQ、「救済並に福祉計画に関する覚書」 / 生活困窮者の救済は国家の責任など4原則を指令
* 1946年(S21)10月1日、(旧)生活保護法施行/民生委員令施行 / 1948年(S23)7月29日、民生委員法制定
* 1947年(S22)12月12日、児童福祉法公布
* 1950年(S25)5月、生活保護法(全面改正) / 国民に生活保護の請求権を認め、不服申立制度を規定 / 公務員である社会福祉主事の全国配置きまる
「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403「民生委員の始まり」に、民生委員制度の前史にあたる、戦前の方面委員(奉仕委員)以来の戦前戦後の制度の変遷、趣旨など記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P401に表「宮城県における方面カード登録件数と奉仕委員の割合」、P403(S46、民生委員児童委員大会)
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勧工場・商館 |
芭蕉辻勧業場 → 芭蕉の辻商館 |
1882年(M15)/1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉辻勧業場>
* 1882年(M15)7月16日、大町四丁目13に開設
* 1890年(M23)1月14日、火災焼失
<芭蕉の辻商館>
* 1891年(M24)9月19日、芭蕉辻勧業場が「芭蕉の辻商館」と改称して再建
* 1900年(M33)4月、焼失
* 1901年(M34)1月、再建中に再度出火し閉鎖
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P36~37/「仙台市史 年表」P84、P87/「古写真にみる仙台の建築」P122
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P37(芭蕉の辻商館、同火災図)
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仙台卸商センター |
完成 |
1970年(S45) |
* 1965年(S40)6月17日、協同組合発足、卸商センター建設着手
* 1966年(S41)、着工
* 1970年(S45)10月14日、原町南目の仙台流通センター地区内に完成
* 1979年(S54)4月1日、センターに、国鉄連絡運輸駅設置
* 1986年(S61)10月15日、センターに、産業見本市会館完成
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「仙台市史 年表」P124、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P94、P212/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P370(S46年完成の仙台卸商センター)
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新仙台港 |
開港 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港開港式
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P978/「続・ 宮城県郷土史年表」P67
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P369の図353(仙台港、カラー)
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仙台市の工業 |
戦前期 |
大正~1945年(S20)8月 |
<大正末期に立地>
仙台市に、山文製作所(若林4丁目/サッシ類、汽缶類)、本山製作所(堤土手下/ポンプ、汽缶、精密機器類)、東洋刃物(米ケ袋下丁/製紙用、パルプ用の裁断ナイフ)が立地
<昭和戦前期の立地>
・東北金属(S8年、市内郡山諏訪/マグネット、通信機器材料)、東北特殊鋼(S11年、長町7丁目/高速度鋼、合金工具鋼、耐熱鋼)立地
・ 昭和戦前期と終戦時の工場名一覧(「仙台市史 続編第2巻」P661)
<1940年(S15)6月、「仙塩地方開発総合計画概要」(宮城県土木部、金森構想)> 釜房ダム、仙台内港開削、塩釜港修築し1万トン岸壁新設、貞山堀拡築、道路改良、動力は常磐、北海道の石炭と電力使用、緑の工業地帯(大代、蒲生、深沼に3工業地区、貞山堀東岸全部と西岸の数か所に緑地造成、工場地帯には帯状の公園広場) / 戦争激化で実現せず
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~664
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P365(T4年、山田機業場工場内部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P491(茂庭製糸工場操業風景
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冷害・凶作 |
昭和9年 |
1934年(S9) |
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
<昭和9年>
* 1934年(S9)の凶作、米減収率、岩手県54.5%、青森県46.4%、山形県45.9%、宮城県38.3%、福島県33.4%、秋田県25.6%(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
* 1934年(S9)秋、台風・冷害のため大凶作となる
・「宮城県内、3分の1の減収」(佐々久「近代みやぎの歩み」P87)
・「この年、宮城県下農村は大冷害に見舞われ婦女子の身売り相次ぐ。東北からの女性出稼ぎは58,175人、うち半数は苦界に身を沈めた」(「仙台年表」P205)
・11月、仙台救世軍が「凶作地婦女売買救済運動本部」設置
・12月12日、皇后陛下より、凶作東北地方の乳幼児に対し、着衣1組づつ1万6000人分、御下賜(「仙台市史10 年表」P443)
・1934年(S9)10月26日、仙台市、凶作による仙台市内窮民救済のため、市吏員職員および市立学校職員の臨時救恤金拠出規定を制定
「仙台市史 特別編4 市民生活」P359~360より
・ 1934年9~11月の河北新報紙上に「娘の身売り」の記事が多い
・ 婦女子の出稼ぎ(昭和9年、警視庁管下の調査)、宮城県では1万962人(芸妓228人、娼妓520人、酌婦1264人、女給643人、女中・子守3860人、女工3346人、その他1101人)
・ 婦女子の紹介業者は地方の事情に通じ、または各地の「モグリ」業者と連絡をとり、生活に窮している婦女子のいる家庭をあらかじめ調査して機会を待っている。(中略)彼らは、窮民の貧困と無知とに乗じ若干の前渡金をエサとして、甘言を用いて誘い出すことを常套手段としている。紹介する業務内容を隠し、窮民の文盲に乗じて悪辣な契約書に捺印させ、あるいは白紙委任状を取って抱主と共謀の下に書類を偽造、変造するのも珍しいことではなかった
・ 婦女子の身売りの原因は、不況や凶作などによって生じた負債の重圧と、現実の生活難より逃れるために多額の金額を必要とするためなど、押し迫ってくる生活難を緩和する手段として家族の口数を減少させるためである
・ 売春婦に至るまでの経緯は、家庭より直ちに売春婦になる者、子守・女中あるいは女工などとして雇用され、その後各種の経路で売春婦に沈む者、売春の場を兼ねた料理店や飲食店などの雇女として働き、その後、売春婦になる者
・このような婦女子の身売りによって前借金の半額程度を得た家庭は、負債の返済、当面の生活費、病人の医薬代などに充てるが、生活の基盤は依然として不安定で、その後も婦女子からの送金を期待せずにはいられない状況が続いた
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357、P359~360/「仙台市史 年表」P107/佐々久「近代みやぎの歩み」P87/「重訂 宮城県郷土史年表」P444
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P360(仙台に救世軍の凶作地婦女売買救済運動本部が設置されたことを伝える河北新報記事 昭和9年11月10日)
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冷害・凶作 |
昭和6年 |
1931年(S6) |
<昭和6年>
* 1931年(S6)、冷害
* 1931年(S6)11月、東北大飢饉、冷害凶作で7割減の3分作
・ 宮城県で米減少率3%(と青森や北海道比べ軽かったが、)朝鮮半島や台湾など植民地から廉価な移入米が大量になだれ込んだこともあり、米価は低落の一途をたどった / 米の物価指数は、大正15年を100として、昭和5年が64.4、昭和6年が48.9 / 農家1戸当たりの平均負債額は、宮城県1180円(仙台市史 特別編4 市民生活」P356)
<参考> 「仙台市史 特別編4 市民生活」P356の図345「宮城県の米収穫高グラフ(昭和元年~9年)」 → 1934年(S9)の落ち込みが特に大きい
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仙台市史 特別編4 市民生活」P356~357
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P356(宮城県の米収穫高グラフ)/同P360(婦女売買救済運動本部設置をつたえる新聞記事)/同P361(窮民救済のため設けられた公益質屋)
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