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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
光ヶ丘天使園 |
仙台版「少年の町」建設 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察)
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「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259
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S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194
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自動車など各種車両台数 |
自動車台数(仙台市内) |
1926年(S1)~1985年(S60) |
* 仙台の車(昭和10年頃)(「仙台の産業と観光」P27)
・ 自動車695台(乗用572台、貨物123台)
・ サイドカー35台、オートバイ109台
* 仙台の自動車台数(出典調査中)
→数字は、自動車台数(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1926年(S1)、 256台(221、35)
・1935年(S10)、 704台(578、126)
・1945年(S20)、1350台(436、914)
・1955年(S30)、4348台(920、3428)
・1965年(S40)、2万3602台(8302、1万5300)
* 終戦前後、仙台市内にあった自動車台数(「仙台市史 続編1」P88)
→数字は(乗用車台数、貨物自動車等台数)
・1943年(S18)、自動車(496、804)
・1944年(S19)、自動車(448、606)
・1945年(S20)、自動車(436、914)
・1946年(S21)、自動車 (23、376)
* 仙台市内、乗用車保有台数(「仙台市史 特別編4 市民生活」P217)
・1975年(S50)、 6万8000台
・1985年(S60)、15万3000台
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「仙台の産業と観光」(S10年、仙台市役所刊)P27/「仙台市史 続編1」P88/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
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S11~15年頃は、53-88、53-92、34-08
/ 戦後は、20-07(S38)、22-13(S43)
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飛行船「雄飛号」 |
仙台に飛来 |
1917年(T6) |
* 1917年(T6)7月22日、飛行船「雄飛号」、仙台に飛来
埼玉県所沢から夜間飛行し、5時間40分かけ、深夜0時10分に仙台・宮城野原練兵場に到着した
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99-163、99-164、99-165、99-166
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奈良原式鳳号 |
仙台で飛行を披露 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月15~16日、「大正2年、宮城野原に於いて飛行機(奈良原式)はじめて滑走しわずかに地上を離れたる程度なりき これを見物する為、数萬の群衆宮城野原に殺到す」
/「仙台市史 年表」P96には「大正2年9月22日、宮城野原練兵場で飛行大会開催」とあるが、日付が異なるので別の大会か?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P356
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99-160、99-161、99-162
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工兵第二大隊 /工兵第二連隊 |
大隊を連隊に改編 |
1936年(S11) |
* 1882年(M15)5月1日、「工兵第二中隊」を仙台鎮台に設置
* 1884年(M17)5月の仙台鎮台の編制表に「工兵第二大隊」がみられる
* 1888年(M21)、1897年(M30)、1907年(M40)、1925年(T14)の第二師団編制では、「工兵第二大隊」
* 1936年(S11)6月1日、「工兵第二連隊」と改編
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宮城県史7の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P452
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99-153、34-31-01、53-115
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乳銀杏(苦竹のイチョウ) |
国の天然記念物に指定 |
1925年(T15) |
<仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。 樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」
* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定
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「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」
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99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86
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洞雲寺 |
焼失 |
1943年(S18) |
仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。
* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式
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「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」
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99-135、76-14
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釈迦堂 |
建立 |
1695年(元禄8年)/1968年(S43)移転 |
藩政時代(元禄8年)、伊達藩四代藩主伊達綱村が生母の冥福を祈るために建立した持仏堂
* 1948年(S23)7月、戦時供出された鐘が戻る
* 1968年(S43)、宮城県図書館建設のため、榴ケ岡4丁目の孝勝寺本堂脇に移された(「重訂 宮城県郷土史年表」P675では、「昭和46年に移転復元」)
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仙台市のHP/「市民の戦後史(仙台市)」P38/「重訂 宮城県郷土史年表」P675
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99-134、14-05/位置図は98-078/「目で見る仙台の歴史」P63(釈迦堂、二天門)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(S23年に戻った鐘)
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青葉神社 |
認可/本殿完成、鎮座祭 |
1874年(M7) |
* 1973年(M6)、藩祖政宗公の霊を敬うため旧家臣が中心になり願い出て、M7年1月認可、M7年6月25日に県社となる
* 1874年(M7)11月11日、本殿拝殿などが完成、11月16日に鎮座祭
* 1927年(S2)、社殿新築完成
* 1935年(S10)、政宗公三百年祭が盛大に行われた
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「青葉神社」HP/「宮城県百科事典」P5~6/「仙台市史 年表」P80、P81/「目で見る仙台の歴史」P166
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99-132、99-133/「目で見る仙台の歴史」P166/「いつか見た街・人・暮らし」P26(大正14年5月24日青葉神社祭典)/「目で見る仙台の歴史」P109と「新・目で見る仙台の歴史」P132に「明治15年の青葉神社大祭典神幸式之図」
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東照宮(仙台) |
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1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
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「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
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99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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野草園 |
開園 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)7月21日、開園(面積3.4ha) / 仙台市営 / 大年寺山の一隅19,620坪を20ブロックに分かち、東北地方などに自生している600数種に及ぶ野草を各適地に植栽
* 1976年(S51)9月、野草園で、大賀ハス開花
* 1983年(S58)4月29日、野草園で「杜と彫刻の風の音」除幕
* 1989年(H1)7月21日、佐藤よしの依頼で彫刻家鈴木政夫制作による花地蔵安置
* 1989年(H1)9月14日、萩にちなんだ石の彫刻「萩の守」を除幕
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P368/絵葉書99-127の説明文/「仙台市史 年表」P118/「仙台年表」P231/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P261、P262
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99-127/「目で見る仙台の歴史」P179/「市民の戦後史(仙台市)」P78/「新・目で見る仙台の歴史」P192/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P68(S38、カラー)
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練兵場 |
宮城野練兵場 |
1878年(M11)頃~1945年(S20) |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 宮城野練兵場(みやぎのれんぺいじょう)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場で、追廻練兵場(おいまわし)とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 場所は、仙台市街地東方の宮城野原で、学生・生徒の軍事教練や小学生の遠足の場でもあった
<戦後は>
* 戦後(S25)、跡地が県営宮城野原公園総合運動場用地となり、S27までに県営宮城野原蹴球場、県営宮城球場、県営宮城野原陸上競技場、県営宮城野原総合運動場庭球場が順次開設された → 項目「県営宮城野原公園総合運動場」参照
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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99-126、99-160、99-163、69-06/位置図は、 98-111、98-113、98-115
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警察(戦前) |
特別高等警察(特高) |
1928年(S3)~1945年(S20)10月 |
<「戦争のころ 仙台、宮城」P17~18より>
・ 特高警察は、内務省警保局を頂点に各府県の警察署特高係までを網羅した組織で、各県の特高、外事課長は内務省の人事で赴任した。 少数のエリートとその下で働く大勢の特高警官という構図。
・ 宮城県警察部は旧県庁2階の一角にあり7課(警務、警防、保安、刑事、工場、衛生、特高)85人体制
・ 特高課は刑事課と並ぶ20人の大世帯で、県内22警察署に100人以上の特高係が置かれ、職務は左翼、右翼、労働農民、内鮮宗教、検閲、外事、時局対策の7セクションにわかれていた
・ 1945年8月15日、戦争に負けると、内務省は全国の「特高警察」に捜査書類を一切焼却するよう指示(このため、宮城県公文書館に特高関係資料がない)
・ その50日後、GHQは政治的、宗教的自由を制限する治安維持法を廃止し、政治犯も釈放
・ 内務省と特高は解散を命じられ、内務大臣や警察首脳部、すべての特高警察官は休職扱いとなって後に罷免される / その数、全国では5000人、宮城県警察部では特高課長のほか一線署員も含めて90人が対象になった
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* 1928年(S3)、「特別高等警察」(特高)、全国一律に未設置県にも設置された
* 1928年(S3)7月、宮城県警察部に特別高等警察課設置
<言論検閲も担当>
「宮城県特高課には、検閲係4人が専従、河北新報社本館1階には特高課用の部屋があって警官がしょっちゅう出入りしていたとの話もあります。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P111)
* 1945年(S20)8月末日、宮城県特高課廃止(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県特別高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
* 1945年(S20)10月11日、宮城県特高警察官91名の休職の臨時措置
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「宮城県史7 警察」P243/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P747/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P17~18、P111
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99-125(左下に宮城県特高課検閲済の字あり)
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軍馬の銅像 |
金属回収で供出 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
・ 桜ケ岡公園(西公園)にあった
・ 軍馬の銅像は当時の公園の平面図に「日露役殉死軍馬銅像」と表記されている
・ 戦時中の金属回収でS18年か19年に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた
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「仙台市史 本編2」P371
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99-120、53-63 /桜ケ岡公園(西公園)の公園の平面図は、98-074
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金属回収 |
軍馬銅像 |
1943年(S18)か1944年(S19) |
* 1943年(S18)か1944年(S19)、桜ケ岡公園(西公園)にあった軍馬の銅像「日露役殉死軍馬銅像」が、S18年か19年に供出された
・ 戦後しばらくは台座のみが残っていた
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99-120、53-63
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政宗卿平服像 |
建立 |
1953年(S28) |
* 1952年(S27)、小野田セメントから寄贈の申し出(柳原義達制作)
* 1953年(S28)10月9日、白色コンクリート造伊達政宗立像、小野田セメント会社より仙台市に寄贈、本丸に除幕式を行う。作者柳原義達、像高4.5m(「仙台城」P235)
* 1953年(S28)10月9日、仙台市青年会が、青葉城跡に伊達政宗卿の像(白色セメント製、平服姿)を旧騎馬像台座の上に再建し、翌日に除幕式
(作者は柳原義達、高さ4m65cm、平服のため「平和像」とも呼ばれる)
* 1964年(S39)8月、政宗コンクリート像、本丸跡より岩出山城跡に移さる(「仙台城」P237)
* 1964年(S39)9月8日、平服像が岩出山町城址へ移転
同年10月に政宗卿騎馬像(銅像)が天守台に再建されることになり、平服像は岩出山城址(宮城県岩出山町、2019年現在大崎市)へ移された / 岩出山城は、仙台城築城まで12年間伊達政宗の居城だった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235、P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P568、P615/「仙台市史 年表」P118、P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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99-118/「目で見る仙台の歴史」P190
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昭忠碑 |
建立 |
1902年(M35) |
西南戦争や日清戦争などで戦死した陸軍第二師団所属の戦没者の慰霊顕彰碑
* 1902年(M35)11月22日、天守台(青葉城本丸址)に建立
【「重訂 宮城県郷土史年表」P326】「碑はゴシック式高塔、陸軍大将西寛二郎の意匠にして、東京美術学校に於いて鋳造、工費総額2万4033円余」
【ふるさとの昭和史 「新仙台」案内記P35】「明治34年、第二師団と第八師団(弘前)合同の陸軍大演習が宮城県下であり、昭忠標は、その演習の際に明治天皇から100円を下賜され建てられた」
* 戦時中の金属回収では、同じ天守台の「政宗卿騎馬像」は対象にされたが、昭忠碑の「金鵄」は回収を免れた
* 1936年(S11)11月3日、朝、強震あり、金鵄の翼折れて落下
* 東日本大震災(2011年3月11日)で頭頂部の金鵄像が落下破損したが、修復されて2016年に「昭忠碑」前の基台に据え付けられた
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P326、P454/「ふるさとの昭和史」(「新仙台」案内記)P35/青葉城資料展示館HP/東京文化財研究所HP/「仙台市史 年表」P92
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99-112、99-113、99-114、99-115、44-24/「目で見る仙台の歴史」P137に、「昭忠碑の鵄」
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広瀬橋(広瀬川) |
コンクリート橋/鋼桁橋 |
1909年(M42)/1959年(S34) |
・ 広瀬川に架かり、長町から旧市内へ入る国道の橋
(M42に長町橋を架け替えて「広瀬橋」に名称変更)
<流失相次ぐ>
* 明治年間(長町橋の時代)に、広瀬川の氾濫で以下の年に橋が流失 →1884年(M17)9月15日、1889年(M22)9月11日、1908年(M41)9月30日
<鉄筋コンクリート橋>
* 1909年(M42)11月25日、広瀬橋竣工
・地元では日本の鉄筋コンクリート橋の第1号といわれるが、異説あり / 橋長127m、橋幅10.3m / 両側に当時としては珍しく歩道がつけられていた(写真99-111)
* 1935年(S10)、上流側に市電の専用橋ができた
(長町までの市電が開通し使われたのは翌S11年から)
<戦後、かけ替え>
* 1959年(S34)8月4日、老朽化で架け替え、渡り初め式 / 橋長127m、橋幅22mの鋼桁橋 / 市電専用橋は橋の中央に複線の軌道として入れられた
* 1988年(S63)4月21日、広瀬橋~長町駅前までの「杜のみち歩道」完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408/「仙台市史 年表」P85、P87、P94、P96/「仙台市史10 年表」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P593/「続・ 宮城県郷土史年表」P244
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99-111/「目で見る仙台の歴史」P143(コンクリト橋)/同P199(広瀬橋の拡張工事)/「新・目で見る仙台の歴史」P131(コンクリート橋)/「市民の戦後史(仙台市)」P100(S32年8月、架け替え工事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図14~18(M42年架橋工事中、S40年、H9年)
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宮沢橋(広瀬川) |
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1946年(S21)/1949年(S24)/1955年(S30) |
項目「宮沢の一銭橋」よりつづく
* 1946年(S21)7月12日、宮沢橋落成(着工は4月31日) / 本格的な木造橋が「一銭橋」の100m程上流に架けられた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1947年(S22)4月31日、一銭の渡り賃で「一銭橋」の異名のあった宮沢橋が木造橋に架け替えの起工式(「仙台市史 続編2」P825)
* 1948年(S23)アイオン台風と、1950年(S25)に、広瀬川が氾濫し、被害をうける
* 1949年(S24)7月17日、宮沢橋落成(「仙台市史 続編2」P831)
* 1949年(S24)、宮沢橋、堰場・根岸間に復旧架設(「重訂 宮城県郷土史年表」P539)
* 1955年(S30)8月、元の渡し場付近に、今(1995年現在)の宮沢橋が完成(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
* 1990年(H2)8月、宮沢橋付近で、広瀬川の灯篭流し復活(13年ぶり)(「続・ 宮城県郷土史年表」P268)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編2(経済文化編)」P825、P831/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P539/「続・ 宮城県郷土史年表」P268
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99-110、06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図24(H8年)
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愛宕橋(広瀬川) |
木造橋 |
1916年(T5) |
* 1916年(T5)8月、レンガのピアノ木造橋となる
(「重訂 宮城県郷土史年表」P362では、愛宕橋、霊屋橋の竣工は、T4と記載)
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362
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99-110
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仙台簡易保険局/仙台地方簡易保険局 |
開局 |
1936年(S11)/1949年(S24) |
* 1936年(S11)4月、北一番丁(現・上杉3丁目)に「仙台簡易保険支局」が開局 / 同年2月に鉄筋コンクリート4階建て庁舎建設(当時は東北地方随一の大ビルディング)
<戦後、米軍が接収>
* 1945年(S20)9月、進駐軍が接収 / 敗戦後は、関東以北の占領に責任を持つ進駐軍(米軍)の軍団司令部が仙台におかれたが、占領の中枢機能を置くため、簡易保険支局庁舎を接収 / のちに米軍病院(172ステーション・ホスピタル)として使用 / 病院は1950年(S25)からの朝鮮戦争で負傷した兵士で満杯になり、多い時には250病床に500人以上が入院し、廊下までベッドが置かれた / 戦死した遺体を本国に送る前にここできれいにする作業を日本人医師が高額の報酬で手伝った(「戦争のころ 仙台、宮城」P245)
<接収中は移転し業務>
* 簡易保険局は市内の学校(8校)に分散、その後に原町安養寺下の元陸軍造兵廠仙台出張所跡に移転
* 1946年(S21)7月1日、仙台貯金支局・仙台簡易保険支局設置
* 1949年(S24)、郵政省の設置に伴い「仙台地方簡易保険局」と改称
* 1949年(S24)末~1951年(S26)8月、長町新屋敷に庁舎建設し移転(S26年1月17日、工事中に1棟全焼)
<接収解除>
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍・駐留軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビル(北一番丁)が、12年ぶりに返還される / 病院として使用されていたので返還後内部を改修
* 1958年(S33)6月、改修工事完了し、長町から移転(のち、仙台地方貯金局と共同利用)
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「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P585/「仙台市史10 年表」P313、P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P285/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584~585/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245
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99-100/「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584(簡保ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P41(S33、仙台駅界隈空撮、画面右上の白いビル)
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郵便局 |
仙台鉄道船舶郵便局 |
1910年(M43) |
木造洋風2階建て
・「重訂 宮城県郷土史年表」P290に
* 1891年(M24)9月、「仙台鉄道郵便電信局」を仙台に設置
* 1910年(M43)4月、「仙台鉄道船舶郵便局」と改称
南町にあった仙台郵便局とは違う(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P28の南町の「郵便局」と建物が違う)(これとは別の場所にあった可能性がある)
【Wikipedia[仙台鉄道郵便局]】 日本の郵便局の種類の一つで、鉄道事業者に郵便車を運行させてこれに職員が乗務し、鉄道沿線の郵便局から継送される郵便物を輸送するとともに、郵便車内で郵便物をあて先地域別に区分する業務を行っていた / 仙台鉄道郵便局はおもに東北地方南部の区間を担当した
* 1910年(M43年)10月、「仙台鉄道船舶郵便局」(一等郵便局)を開局
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「重訂 宮城県郷土史年表」P290 / Wikipedia「仙台鉄道郵便局」
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99-099
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仙台鉄道管理局 |
創設 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)5月1日、鉄道院が、清水小路に仙台鉄道管理局創設
* 1920年(T9)、仙台鉄道局と改称
* 1950年(S25)8月1日、仙台鉄道管理局と改称
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「仙台市史 年表」P98/宮城縣郷土史年表 P373、P544
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99-098/「目で見る仙台の歴史」P150に、「仙台鉄道局庁舎(大正8年)」
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仙台専売支局/仙台地方専売局/日本専売公社仙台地方局 |
設置/改称 |
1913年(T2)/1921年(T10)/1950年(S25) |
* 1913年(T2)6月、仙台専売支局、清水小路に設置
* 1921年(T10)7月1日、仙台専売支局が仙台地方専売局と改称
* 1924年(T13)12月1日、仙台地方専売局は山形地方専売局を併合し、東北6県を管掌することになる
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* 1950年(S25)6月1日、日本専売公社法公布に伴い、仙台地方専売局を解消して日本専売公社仙台地方局として発足
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宮城縣郷土史年表 P356、P395、P543/「仙台市史 年表」P100
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99-097/「いつか見た街・人・暮らし」P42の写真144
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仙台の裁判所 |
仙台区裁判所 |
1876年(M9) |
仙台地方裁判所に併設されていた
・ 地方裁判所は宮城県全体を管轄
・ 区裁判所は、仙台市と周辺部の郡を管轄し、民・刑事の比較的罪の軽い事件や和解、調停や、刑事の略式手続、登記と戸籍などを扱う
* 1876年(M9)4月13日、「仙台区裁判所」設置
* 翌1877年(M10)、東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成
* 1881年(M14)10月6日、「治安裁判所」に改称
* 1890年(M23)11月1日、再び「区裁判所」に改称
* 1924年(T13)区裁判所は、仙台地方裁判所とともに、片平に移転(片平の宮城控訴院と合同庁舎となった)
☆ 東二番丁の「木造2階建庁舎」(写真99-096) は、地方裁判所・区裁判所が、1924年(T13)に片平丁に新築された「宮城控訴院」との合同庁舎(赤タイル張り洋館)に移転した後に改造され、1930年(S5)~1939年(S14)の間、仙台市立病院が使用 / 1939年(S14)にこの地に市立病院が鉄筋コンクリートの病院を新築する際に取り壊された
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城百科事典」P577、P597/「明治の洋風建築~宮城県~」P28~29/「新・目で見る仙台の歴史」P122
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117(東二番丁時代の庁舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(仙台区裁判所)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(仙台区裁判所)
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仙台の裁判所 |
仙台地方裁判所 |
1876年(M9) |
地方裁判所は宮城県全体を管轄 / 仙台区裁判所を併設していた
* 1876年(M9)3月2日、「宮城裁判所」開庁(仙台地方裁判所と仙台地方検察庁の前身)
* 同年9月13日、「宮城裁判所」を廃止し、「宮城上等裁判所」(宮城控訴院、宮城高等裁判所の前身)と「一ノ関裁判所」(宮城・岩手両県を管轄)を設置
* 同年11月24日、「一ノ関裁判所」を仙台に移し、「仙台裁判所」(仙台地方裁判所の前身)を設置
* 1877年(M10)に東二番丁に庁舎(木造2階建て洋風建築)が完成(仙台区裁判所と仙台裁判所の庁舎)
* 1881年(M14)10月6日、「仙台裁判所」を「仙台始審裁判所」と改称
* 1890年(M23)11月1日、「仙台地方裁判所」に改称
* 1924年(T13)、「仙台地方裁判所」は、併設の「仙台区裁判所」とともに、片平丁に移転(宮城控訴院との合同庁舎がT13年竣工 / 秋保石積赤タイル張り洋館)
<戦後>
* 1947年(S22)5月3日、仙台地方裁判所、仙台簡易裁判所設置 / 裁判所法、検察庁法が成立し、それまでの裁判所に付属していた検事局を分離し、仙台地方検察庁設置
* 1977年(S52)12月1日、片平1丁目に裁判所合同庁舎完成(仙台高等・地方・簡易裁判所合同庁舎) / 旧庁舎(赤タイル張洋館)はS50年9月に解体開始
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「仙台市史 年表」「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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99-096と、「目で見る仙台の歴史」P117に、『東二番丁時代の庁舎』
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天皇、仙台行幸 |
大正天皇 |
1908年(M41)~ |
<皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)
(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)
* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)
<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真)
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「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144
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99-094、99-075
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宮城県図書館(戦前) |
宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失 |
1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20) |
<宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称
<勾当台へ移転>
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)
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99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」
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瑞鳳殿 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された
* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187
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99-084、99-085、99-086、99-087、44-21、53-56、53-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋)
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隅櫓 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)12月14日、大手門脇の隅櫓が国宝に指定された(大手門、霊屋にある瑞鳳殿、感仙殿とともに)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P428
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99-081、65-08、08-02、53-44、73-01/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P249
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大手門 |
国宝指定/焼失 |
1931年(S6)/1945年(S20) |
・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)
* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された
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「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322
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99-080、64-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面)
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松永正敏中将 |
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第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P351
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99-077/ 葬儀は、99-011-2、99-103
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高等学校(新制) |
宮城県第一女子高等学校/宮城県宮城第一高等学校 |
1948年(S23)/ |
<前史>
* 1895年(M28)1月14日、前年末をもって休業となった「東北女子実業科伝習所」の指導者たちが、「仙台女子実業学校」を東二番丁に開校
* 1897年(M30)4月1日、「私立仙台女子実業学校」を引継いで東三番丁に「仙台市高等女学校」として開校
* 1899年(M32)、元寺小路に校舎新築(写真99-075)
* 1900年(M33)4月1日、宮城県に移管され、「宮城県高等女学校」と改称 / 補習科設置(T2年廃止)
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県高等女学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立高等女学校」と改称 / 技芸専修科設置(S45年廃止)
* 1911年(M44)、実科設置 (T7年廃止)
* 1918年(T7)、「宮城県立第一高等女学校」と改称
* 1919年(T8)、「宮城県第一高等女学校」と改称
* 1921年(T10)、高等科設置(のちに宮城県立女子専門学校の母体)
* 1939年(S14)、黒川郡富谷村に学校林を設ける
* 1945年(S20)、仙台空襲で校舎焼失 / 連坊小路の第二高女と連坊小学校、県立盲学校で授業再開
* 1947年(S22)、北六番丁の旧制二高跡に校舎新築移転(東北大農学部が使用することになり、中島丁の旧女子師範跡に新設された東北大学付属中学と校舎を交換)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県第一女子高等学校」と改称
* 1953年(S28)、校舎移転(八幡へ)
* 1955年(S30)、専攻科(修業年限1年)併設(S40年に廃止)
* 1969年(S44)、全校が新校舎に移転
* 1973年(S48)、服装自由化実施
* 1997年(H9)、創立100周年記念式典,理数科新設
* 2002年(H14)、文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」(全国で26校)に指定
* 2008年(H20)、宮城県宮城第一高等学校と改称(男女共学開始、単位制移行)
* 2016年(H28)、 英国シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズスクールと姉妹校締結
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「宮城県宮城第一高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89/「宮城県百科事典P1000「宮城県第一女子高等学校」/「仙台市史 年表」P90、P91、P98/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518~520/「番丁詳伝」P67
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99-075/「目で見る仙台の歴史」P134に「宮城県第一女子高等学校」の校門付近
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高等学校(新制) |
宮城県農業高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1875年(M8)、県立植物試験所(前身)創設(片平丁)
* 1879年(M12)、県立勧業試験場、名取郡茂ヶ崎村(現太白区根岸町)に設置
* 1881年(M14)7月9日、県立勧業試験場が「宮城農事講習所」と改称
* 1885年(M18)7月1日、宮城県農事講習所を改組し、「宮城農学校」を創設(「重訂 宮城県郷土史年表」P271)
* 1901年(M34)7月5日、「県立宮城農学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立宮城農学校」と改称
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県農学校」と改称
* 1928年(S3)、学校所在地の地名が仙台市長町と変更
* 1947年(S22)、専攻科設置(S28年廃止し宮城農業短大設置)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県農業高等学校」と改称 / 同年5月に定時制課程設置、高砂、岩切、広瀬、秋保の4分校設置
* 1961年(S36)~1967年(S42)、5期にわたり鉄筋コンクリート3階建て校舎建設
・ 1969年(S44)現在、農業、園芸、畜産、食品化学、農業工学に在校生836名、
* 1970年(S45)、4分校のうち最後まで残った秋保、高砂両分校廃止
* 1977年(S52)3月1日、名取市に移転
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120/「仙台市史 年表」P85、P91、P92/「重訂 宮城県郷土史年表」P271/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P508~509/「宮城県農業高等学校」HP
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99-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、「宮城県農学校」(M18~37年の間)
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第二高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1896年(M29)2月、宮城県尋常中学校(仙台第一中学校の前身)の分校として開校(清水小路に仮校舎)
* 1900年(M33)4月1日、「宮城県第二中学校」が開校(南町仮校舎及び清水小路一中分校校舎を使用)
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県第二中学校」と改称
* 1902年(M35)10月、北六番丁木町通り西側に木造2階建校舎新築し移転
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立仙台第二中学校」と改称
・ 1918年(T7)10月23日、蔵王山頂で風雪飢寒のため、生徒7人、教師2人が遭難
* 1919年(T8)11月、「宮城県仙台第二中学校」と改称
・ 1931年(T12)、20学級・生徒数1000人
* 1928年(S3)11月、川内(騎兵隊兵営跡に新築移転(コンクリート校舎、スチーム暖房完備)、東北産業博覧会では校舎の一部を使用
・ 1935年(S10)4月、県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒この項、要検証
・ 1943年(S18)から、生徒の電車通学は禁止、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された
・ 仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまる
・ 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場)(「仙台市史 続編第1巻」P93)
・ 1947年(S22)、甲子園の野球大会で準決勝進出し岐阜商商業に惜敗(ベスト4)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県仙台第二高等学校」と改称
* 1984年(S59)4月、新校舎落成記念式
* 2007年(H19)4月、男女共学
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「仙台市史 年表」P91、P92/明治の洋風建築-宮城県-」P77「宮城県第二中学校」/「宮城県百科事典P595「仙台第二高等学校」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506~507/「宮城県仙台第二高等学校」HP
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99-073(M35年~S3の校舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P140に同じ写真/「目で見る仙台の歴史」P133に北六番丁の「宮城県仙台第二中学校」/同P157に「二中生、蔵王で遭難(大正7年)の記事接写」/同P165に、川内の校舎
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第一高等学校の前史 |
1892年(M25) |
<前史1>
* 1874年(M7)3月29日、「官立宮城外国語学校」、東二番丁の漢学校跡に設置
* 同年12月27日、「官立宮城英学校」と改称
* 1877年(M10)2月14日、官立宮城英学校廃止
* 同年2月26日に教育内容を継承した「県立仙台中学校」が開校
* 1879年(M12)6月26日、「宮城中学校」と改称
* 1886年(M19)9月、「宮城尋常中学校」
* 1888年(M21)3月24日、宮城(県?)尋常中学校廃止
<前史2>
* 1892年(M25)4月1日、「宮城県尋常中学校」、前月に廃校となった東華学校の校地(清水小路、初代校舎)や機能を引継いで開校
* 1899年(M32)4月1日、「宮城県中学校」と改称(同年7月20日に本校が南六軒丁(第2代校舎)に移転し、清水小路の本校地には分校が勾当台通から移転)
* 1900年(M33)4月1日、「宮城県第一中学校」と改称
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県第一中学校」と改称
* 1904年(M37)3月31日、清水小路分校廃止
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立仙台第一中学校」と改称
* 1907年(M40)1月24日、校舎が全焼
* 1908年(M41)9月1日。校舎を元茶畑に新築移転 / ほぼ同様の規模外観の校舎(第3代校舎)となった(本館の屋根の形が少し違う=明治の洋風建築-宮城県- P65)
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県仙台第一中学校」と改称
* 1941年(S16)5月24日、旗立修練道場竣工
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「仙台市史 年表」P80、P82、P86、P91、P92、P94/「明治の洋風建築-宮城県-」P64「宮城県第一中学校」/「宮城県百科事典」P594「仙台第一高等学校」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505/「宮城県仙台第一高等学校」HP
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99-072(M32年~M40年1月の校舎)/「目で見る仙台の歴史」P120に、清水小路の東華学校校舎(宮城尋常中学校使用時代)/同P133に、「宮城県第一中学校」(M33年4月~37年5月の学校名)
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師範学校 |
小学校教員伝習学校/仙台師範学校/県立宮城師範学校(県立)/宮城県尋常師範学校/宮城県師範学校/宮城師範学校(官立)/東北大学に |
1875年(M8)/1876年(M9)/1879年(M12)/1886年(M19)/1898年(M31)/1942年(S17)/ |
* 1875年(M8)3月22日、小学校教員伝習学校を宮城県が外記丁に設置
* 1876年(M9)3月3日、小学校教員伝習学校を仙台師範学校と改称
* 1877年(M10)8月、仙台師範学校が女子師範科を設置
* 1879年(M12)6月、前年に廃止された官立宮城師範学校の校舎(勾当台通)や機能を継承し、県立宮城師範学校と改称
* 1886年(M19)2月、制服が洋服に改められる
* 1886年(M19)8月28日、宮城県尋常師範学校と改称
* 1889年(M22)、北一番丁に校舎新築し移転
* 1898年(M31)年4月、宮城県師範学校と改称
* 1913年(T2)4月1日、宮城県師範学校から女子部が独立し、仙台市中島丁に開校
* 1942年(S17)4月1日、宮城県師範学校が宮城県女子師範学校を合併して官立の宮城師範学校となる
* 1949年(S24)5月31日、東北大学に包括(統合)
* 1950年(S25)4月1日、東北大学教育学部となる
* 1951年(S26)4月、宮城師範学校附属小学校、制度改正で、東北大学教育学部附属小学校となる(北七番丁校舎、中島丁校舎)
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「仙台市史 年表」P81、P85、P86、P90、P96、P112、P116/「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P549
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99-070(撮影は大正前半期)/「目で見る仙台の歴史」P121に、北一番丁の宮城県師範学校校舎
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東北学院中学部 |
東二番丁時代(普通科→中学部) |
1905年(M38) |
<東二番丁・初代校舎>
* 1905年(M38)、東二番丁に「普通科」校舎、竣工
・木骨レンガ造り2階建て、スレート葺き屋根
・屋根面にトーマー・ウィンドウ(屋根窓)
* 1915年(T4)、「普通科」を「中学部」と改称
* 1919年(T8)3月、中学部校舎、南町大火で焼失
* 1919年(T8)9月、バラック建て仮校舎落成
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「東北学院創立七十年写真誌」P22~23、P30 /「明治の洋風建築-宮城県-」P66「東北学院中学部」
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99-069/東北学院創立七十年写真誌」P22~23、P30の写真/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138
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東北帝国大学医学部付属病院 |
開院 |
1913年(T2)~1947年(S22) |
* 1911年(M44)4月、北四番丁(現星陵地区)に県立宮城病院の新病院棟が開院(宮城病院本館として建築)
<東北帝国大学時代>
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、医学専門部附属医院となる / 内科(2科)、外科、眼科、産科婦人科、小児科、皮膚科及び耳鼻咽喉科の8診療所(340床)を開設
* 1915年(T4)7月、東北帝国大学医科大学附属医院と改称
* 1919年(T8)4月、東北帝国大学医学部附属医院と改称
* 1944年(S19)12月、鳴子分院開設(温泉医療目的)
<戦後>
* 1946年(S21)3月1日、長町分院開設(臨床講義のため)
* 1947年(S22)9月、東北大学医学部付属医院に名称変更
→ 以降は、項目「東北大学医学部付属医院」参照
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「宮城県百科事典」P759「東北大学医学部付属病院」/「仙台市史 年表」P96/「明治の洋風建築-宮城県- P73「宮城病院」/「重訂 宮城県郷土史年表」P509/「仙台市史10 年表」P312/東北大学病院HPの「沿革」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P727~728
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99-067、53-60/「目で見る仙台の歴史」P144/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図30(T5年)
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東北帝国大学 |
沿革(2) ~各学部・研究所設置~ |
1919年(T8)~1940年(S15) |
<理学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
東北帝国大学理科大学 → 東北帝国大学理学部
<医学部>
* 1919年(T8)4月1日、名称変更
東北帝国大学医科大学 → 東北帝国大学医学部
<附属臨時医学専門部>
* 1939年(S14)5月、臨時医学専門部設置(全国の官立大学に設置し軍医不足に対応=菅家年表P22) → 1944年(S19)3月、附属医学専門部 → 1952年(S27)3月廃止
<医学部付属病院> → 項目「東北帝国大学医学部付属病院」参照
<工学部>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置
* 1939年(S14)4月、工学部に航空学科設置
<鉄鋼研究所 → 金属材料研究所>
* 1919年(T8)5月22日、工学部設置に伴い、東北帝国大学臨時理化学研究所第二部が東北帝国大学附属鉄鋼研究所となる → 1922年(T11)8月9日、金属材料研究所と改称
<法文学部>
* 1922年(T11)8月29日、法文学部設立
<電気通信研究所>
* 1935年(S10)6月1日、附属電気通信研究所設置(「仙台市史10 年表」P286では9月25日設置)→ 1944年(S19)1月、電気通信研究所
<農学研究所> * 1939年(S14)8月、農学研究所設置
<その他>
* 1937年(S12)、早川牧場跡に大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86)
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東北大学HP「沿革図」
/「宮城県百科事典」P756~759/「仙台市史 年表」P98~99、P101/「重訂 宮城県郷土史年表」P446、P468~469/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22
設置年などが上記年表と東北大学HP掲載「沿革図」と異なる場合は、「沿革図」を基本にした
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99-060、99-061/金属材料研究所は、99-065、53-97/「目で見る仙台の歴史」P148に、地質岩石学教室と鉄鋼研究所、医学部(大正4年)「法文学部(大正11年)/「宮城県百科事典」P757に片平丁の構内全景(昭和4年頃、空撮)
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第二高等学校(旧制) |
第二高等中学校/第二高等学校(片平丁校舎時代) |
1887年(M20)/1894年(M27) |
<前身の第二高等中学校>
* 1886年(M19)公布の中学校令により、仙台市に第二高等中学校設 / 翌年9月、本科、予科、医科の3科で開校、同市東二番丁、荒町、片平丁へと移転した(「宮城県百科事典」P637)
* 1887年(M20)4月1日、第二高等中学校を19年4月発布の中学校令により仙台に創設す(7月仮事務所を宮城県尋常中学校に設け、8月荒町小学校内に移る(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1887年(M20)4月18日、文部省、第二高等中学校を仙台に設置 / 同年8月19日、第二高等中学校に医学部設置(「仙台市史 年表」P86)
<片平丁校舎へ>
* 1889年(M22)8月、片平丁に新校舎本館落成し、本部・医学部ともに東二番丁尋常中学校跡より移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1889年(M22)8月3日、片平丁に第二高等中学校校舎が完成(「仙台市史」P87) / 本館はゴシック風木造2階建、黒褐色のペンキ塗りで北欧風 / 1891年(M24)、盛大な開校式(「明治の洋風建築-宮城県-」P62)
<第二高等学校 片平丁校舎時代>
* 1894年(M27)9月、第二高等学校と改称(「宮城県百科事典」P637)
* 1994年(M27)6月25日、高等学校令を公布し「第二高等学校」と改称、さらに医学部と大学予科とを置く(「「重訂 宮城県郷土史年表」P298) / 開校記念日10月26日(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1994年(M27)9月11日、「第二高等学校」と改称(「仙台市史 年表」P89)
第二高等学校開校当時の組織(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)は、医学部(4年・定員200人)、本部(定員460人)、本科(2年・尋常中学校卒業程度)、予科(3年・尋常中学校第二学年修了程度) / 第1回の入学試験受験者73名、入学許可者7名
* 1901年(M34)4月1日、第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として独立(「仙台市史 年表」P91)
* 1910年(M43)、片平丁に書庫が完成(「仙台市史 年表」P95)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P276、P284、P298/「宮城県百科事典」P637「第二高等学校」/「明治の洋風建築-宮城県-」P62「第二高等学校」/「仙台市史 年表」P86、P87、P89、P91、P95
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99-058 / 「新・目でみる仙台の歴史」P141の写真(第二高等中学校の開校式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P253(M24年5月の第二高等中学校校舎完成記念開校式の図)/「いつか見た街・人・暮らし」P18(学生服学帽の二高生が写る、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」P128(仙台医学専門学校校門と校舎)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P363(M44年ころ、仙台医学専門学校授業風景、女性看護婦も)/同P395(M44年ころ、仙台医学専門学校=旧宮城病院バックに学生たち)
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商店など |
信用堂洋服店 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、信用堂洋服店、大町五丁目194で創業
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「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P107
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99-042/ 20-46に看板あり
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新常盤町(遊郭) |
(1)新常磐町以前 |
明治初期~1894年(M27) |
<遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止
<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦
・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など
* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要
<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり
<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり
<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393
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99-033、98-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」
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日乃出映画劇場 |
日乃出会館オープン |
1957年(S32) |
日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル)
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丸光 |
8階建て本館ビル落成 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)10月、青葉通りに面して、丸光本館(8階建て)が落成(増築工事完成) / 地上8階、地下2階、地上12階に相当する展望台、4000坪)
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Wikipedia「丸光」/「仙台市史 別冊 市民生活」P41
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P22(S32、建設中)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮)、P73(S39、カラー)、P74~75(S39、カラー)
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ビル建設 |
鳳月ビル |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)12月、青葉通り・東五番丁通り南西角に完成(5階建)
* 1988年(S63)10月、ほうげつビルがオープン
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「わが心の仙台駅前史」P87、P91
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99-031、22-17
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ビル建設 |
日乃出会館 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 日乃出映画劇場など館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版
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99-031
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名掛丁商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 名掛丁通り(ナカケチョウ)>
「御名懸組の組士屋敷が置かれたまちである。新伝馬町の東端から東七番丁車町に至るまでの丁をいう。明治二十年の鉄道開通で町内が二分され,駅から西は繁華街となった。駅の東裏には島崎藤村の下宿があり,「若菜集」の作品群が書きつづられた。」
* 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成
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「仙台市HP」の「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(名掛丁通り)」/仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271
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99-029、16-28、50-02、22-29、20-30/「市民の戦後史(仙台市)」P47(昭和20年代)/「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図35~36(S26年、H8年カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P371(アーケード、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P11(S29、商店街入口付近)、P52(S35年、俯瞰)
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精養軒 |
芭蕉の辻の洋館で営業 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)七十七銀行(M36年~S4年7月18日)のあと
(2)精養軒(S4年~)
(3)日本銀行仙台支店(S16年10月10日~)が使用し、
仙台空襲(S20年7月)で焼失した
・ サービスガールは、紺の着物にエンジの帯を締め、白いエプロン姿(「仙台市史 特別編4 市民生活」P85)
/ 注:この精養軒は東京の支店で、明治初年に東一番丁に開業した「精養軒」(牛鍋・洋食)とは関係が無い(「東一番丁物語 明治編」P157)
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柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P157/「仙台市史10 年表」P302/「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
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