項目 | 小項目 | 年 | 内容 | 出典/参考資料 | 関連映像 |
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西内楽器店 | コロンビア・マーク | 1932年(S7)~1935年(S10)5月の間に設置された |
西内楽器店の最上層についていた「コロンビアマーク」 * 藤崎西館開店した1932年(S7)11月にはまだなかった(写真53-20) * 1935年(S10)5月(藩祖公300年祭仮装行列時)にはついている(写真44-69) ・ 従って、S7年11月~S10年5月の間についた ・ 空襲(S20)焼失までついていたかは不明 |
44-69 (S10年5月)/22-52、20-46は、S10年12月以降、 | |
進駐軍(米軍) | 憲兵隊(MP)/CID | 1945年(S20)~ |
<憲兵隊> ・ 憲兵隊本部:占領当初は、進駐軍司令部と同じ北一番丁の簡易保険局庁舎内に置かれ、仙台北警察署や塩釜署など駐屯地を管轄する警察に出先があり、地元警察官とともに米兵販犯罪防止、取締りにあたる / 仙台北警察署には、4人のMPが常駐 ・ 米軍憲兵(MP)は、米兵の犯罪摘発が任務だが、次第に政治活動や労働運動の急進化を監視する公安警察としての役割が目立ってくる <CID> * 1946年(S21)4月、米犯罪捜査部(CID)設置され、次第に捜査権限を拡大 * 1947年(S22)、仙台のCID本部が、憲兵隊(MP)から独立し、東邦ビル(南町)に移転 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P327 | 44-65、44-36、44-61、44-41、44-31、44-58 |
高等学校(新制) | 仙台白百合学園高等学校 | 1948年(S23) |
<前史> * 1893年(M26)4月、元寺小路に「私立仙台女学校」が、修道院長スール・イザークを中心に開校 * 1907年(M40)3月9日、「私立仙台高等女学校」と改称 * 1919年(T8)、「仙台高等女学校」と改称 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎(花京院通)全焼 * 1947年(S22)まで、東六番丁国民学校、ウルスラ修道院(木ノ下)を借用し授業継続 <学制改革で高校に> * 1948年(S23)、「仙台白百合学園」と改称(新制高等学校へ移行切替)、新制中学校を併置、校章も梅の花から百合の花へ変更 * 1949年(S24)までに校舎復興 * 1955年(S30)、幼稚園開設 * 1957年(S32)、中央校舎(鉄筋3階建)完成 * 1961年(S36)、小学校併設開校 * 1962年(S37)、南校舎落成 / 隣接の県有地(旧一高女跡)購入し校地拡張 * 1966年(S41)、短期大学開校 * 1998年(H10)、創立の地、青葉区本町から、泉区紫山に移転 |
「仙台市史 年表」P88、P94/「仙台白百合学園」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P524~525/「仙台白百合学園中学校・高等学校」HP | 44-49(S22)、16-56(S23) |
労働運動(戦後) | 宮城県内 | 1945年(S20)8月~ |
* 1946年(S21)、労働組合続々と結成(1月3日、仙台鉄道管理局管理部管内従業員1万5千人 / 2月27日、宮城県教員組合結成大会、 など) * 1946年(S21)9月20日、失業反対宮城県労働者大会 * 1946年(S21)10月8日、宮城地区共同闘争委員会主催、労農者大会 * 1946年(S21)11月28日、宮城県労農市民大会、勤労大衆2万人結集 * 1947年(S22)1月31日、マッカーサー元帥、2・1ストに中止命令 * 1950年(S25)夏~、レッドパ-ジ / 宮城県内では、新聞、電機産業(電産)を中心に民間から160余名、官公庁関係から13名が職場から追放された <参考> ・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦後の経過につき記述あり ・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604の第七章労働運動」に、昭和20年~43年の宮城県内および仙台の労働運動の経過につき記述あり |
「重訂 宮城県郷土史年表」P508、P509、P516/「仙台市史10 年表」P311、P313、P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604/「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533 | 44-46、44-55、16-53、16-55 |
メーデー(戦後) | 宮城県(戦後復活) | 1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活) * 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集 * 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂 * 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー * 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催 * 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突 |
「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549 | 44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター) |
東邦生命ビル | 進駐軍が接収(CIDなど) | 1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更 ・南町(芭蕉の辻の南)にあった 青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった * 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る * 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用) * 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、 * 1952年(S27)7月、接収解除 |
「宮城県警察史 第二巻」P30 | 44-37、18-21、22-07 |
映画館(戦後) | 中央劇場 | 1946年(S21)3月 |
東一番丁大通り(東一番丁84)に戦後できた映画館(700席、昭和映画) * 「仙台映画大全集」では、S21年3月28日開場 * 「番丁詳伝」P211でも、S21年開場(洋画専門、のち日活、松竹、東映、新東宝の封切館となる / 跡地は「中央ビル」で地下に飲食、1階にそうご電気、6階まで事務所など入居 ・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に中央劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254) * 「重訂 宮城県郷土史年表」P522では、S22年11月開場 |
「仙台映画大全集」P454とP458/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P522 | 44-29 /「仙台映画大全集」P455に中央劇場と周辺の写真あり |
仁丹マーク | 発表 | 1905年(M38) |
* 1905年(M38年)2月、「仁丹」、日露戦争最中に懐中薬として発売 ・ 大礼服でデザインされた「仁丹マーク」は、発売当初の容器や宣伝看板のデザインとして使われている |
森下仁丹のHP | 44-19 |
アート・スミスの宙返り飛行 | 宮城野原で公開 | 1916年(T5)6月14日 |
アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日 仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した |
「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157 | 44-14、44-15、44-16 |
NHK仙台放送局 | ラジオ放送開始 | 1928年(S3) |
* 日本放送協会は、1927年(S2)年6月9日、仙台に東北支部を設置 * 1927年(S2)8月11日、原町の送信アンテナ設置のための小作地取り上げ反対町民大会 / 農民と住民が反対運動 / ビラに、「町会議員は殆んど皆弱腰になったぞ!」「彼らの陰謀をたたき潰せ! 一萬円寄付には絶対に反対しろ!」 * 1928年(S3)6月16日、東北地方で初めてのラジオ放送が仙台放送局から開始された <初期のラジオ中継放送> * 1929年(S4)8月14~15日、「野外納涼盆踊り大会」中継(桜ケ岡公園から) * 1929年(S4)9月22~23日、ミシガン大学との野球戦中継(八木山県営グラウンド) * 1934年(S9)5月16日、NHK仙台中央放送局と改称 <戦後> * 1945年9月23日、進駐軍放送のため施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始 * 1946年(S21)6月9日、仙台復興祝賀街頭音楽大会、放送 * 1946年(S21)7月29日、東北初の放送討論会開催(会場は仙台南松竹劇場)(「重訂 宮城県郷土史年表」P512) * 1948年(S23)6月、仙台局開局20周年、NHKラジオ番組「二十の扉」公開放送 |
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P1、P9、P21/「仙台市史 年表」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P512/「仙台市史10 年表」P313/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260/「新・目で見る仙台の歴史」P148 | 44-11、25-01、25-06など「写真データベース」分類F-24の写真全部/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234(S3、リーフレット「NHK仙台放送局開局」)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P234/「目で見る仙台の歴史」P160に、本放送開始時のNHK仙台局舎/「新・目で見る仙台の歴史」P148(アンテナ反対町民大会ビラ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P509(同ラジオ送信アンテナ)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P260の写真84(二十の扉公開放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P69(のど自慢、三つの歌、二十の扉各公開放送ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P175(NHK街頭録音)/「市民の戦後史(仙台市)」P42(放送討論会ステージ、NHK放送慰問団トラック、のど自慢会場東北劇場前の看板)/同P70(S27年、楽器店前でラジオ五輪実況を聞く人々) |
仙台ホテル | 立て替え(ホテル2代目) | 1905年(M38) |
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え / 出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」) * 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334) <編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある |
「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」 | 44-05、98-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』 |
和田床屋 | 開店 | 1871年(M4) | * 1871年(M4)、和田専助が仙台初の床屋を東一番丁に開店 | 「仙台市史 特別編4 市民生活」P352 | 44-04(西洋理髪師 和田専助夫妻)、22-28(和田床屋、大正末期、大町5丁目) |
商店など | かき徳 | 1927年(S2) |
* 1927年(S2)、仙台市東一番丁に開店 / 仙台初のかき専門店 / 当時、本店の塩釜で種牡蠣を養殖し、仙台支店で販売した ・ 戦後はドリアン・キャンディーなどを扱った、 |
「番丁詳伝」P220~221 | 44-03 |
東北学院(教会) | 仙台日本基督教会 | 1901年(M34)~ |
南町通り(東二番丁通り北西角)にあり、赤レンガの「東北学院神学部校舎」に隣接していた * 1881年(M14)5月、「仙台教会」、プロテスタント日本基督公会の押川方義らが国分町に設立 * 1901年(M34)、仙台教会が「仙台日本基督教会」献堂式挙行 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 |
「東北学院創立七十周年写真誌」末尾年表P66 | 43-30/「目で見る仙台の歴史」P138に、日本基督教会堂」 |
仙集館 | 開館~閉館 | 1909年(M42)~1933年(S8) |
* 1909年(M42)7月5日、仙台初の活動写真(映画)常設館として開館(1987年現在の高山書店向い「のっぽ」の場所) / 東一番丁通りから9m程セットバックした洋風外装、間口が狭く奥行きが深い木造 / 山梨出身で横浜の人、杉本亀太郎が開館 * 1912年(M45)6月、全面改装竣工 * 1915年(T4)7月、改装 ・ 大正期・昭和初期には、館主が交代しながら、帝国キネマ、新興キネマの封切館だった * 1916年(T5)12月1日、「記念館」と改称 * 1917年(T6)6月、「社会館」と改称 * 1918年(T7)6月、再び「仙集館」と改称 * 1918年(T7)7月、改装 * 1933年(S8)3月20日、焼失し閉館 (早暁、仙集館付近より出火、52戸を焼く / 東一番丁大火 / 午前0時半出火 / 「番丁詳伝」P143では、51戸消失、罹災戸数35) * 仙集館跡地には、金港商会が石造りのビルを建築し1階はキリンビアホールが入る 1922年(T11)年から日活上映、1927年(S2)から帝国キネマ上映、1931年(S6)から新興キネマ上映 |
「仙台映画大全集」P451 / 「東一番丁物語 明治編」(柴田量平著)P117~120、P235/「番丁詳伝」P23、P108、P131、P143/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台市史 年表」P94 | 43-26/ スケッチ画は98-006/柴田量平著「東一番丁物語 明治編」P118~119(新築当時の仙集館、改築後の仙集館)「目で見る仙台の歴史」P142に、「東一番丁仙集館付近」 |
三原時計店 | (旧)大町5丁目へ移転 | 1896年(M29) |
<三原本店HP> * 1896年(M29)3月28日、(旧)大町5丁目(現在一番町3丁目)に移転、建物もこの年に設置 <「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P218> 「初代三原庄太が米沢から仙台へ進出、M20国分町・肴町角に時計店開業。1896年(M29)に仙台駅寄りの人の流れや商店街の移り変わりを見越して、大町五丁目に移転。 1903年(M36)に土蔵の店舗の上に(国分町時代と同じく)時計塔をおいたが、1927年(S2)に取り壊し、さらにハイカラな時計塔ある店舗を新築したが、1945年(S20)の仙台空襲で焼失した」 <「仙台老舗百店史」P208、P217> 「時計の三原本店はM20年、山形県米沢から、国分町肴町角に進出開業、M29年3月28日に大町五丁目に移転した/ どちらでもそっくりの時計塔を造っている」 |
三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43 | 43-25、22-57 |
逓信関連 | 仙台逓信講習所 | 1919年(T8) | * 1919年(T8)5月、仙台逓信講習所を霊屋下(おたまやした)に開設 | 「重訂 宮城県郷土史年表」P373 | 43-06(校舎)、53-93(寄宿舎) |
仙台市役所庁舎 | 第3代庁舎 | 1965年(S40) |
第2代庁舎の北側に建てられた(鉄骨鉄筋コンクリート 地上8階・塔屋3階、地下2階、総建坪3万1237㎡、軒高30.4m、塔屋最上部40.25m) * 1964年(S39)3月24日、新庁舎建設起工式 * 1965年(S40)10月31日、新庁舎が竣工 * 1965年(S40)11月8日、落成式(開扉式) * 1965年(S40)11月22日、新庁舎で執務開始(マイクロフィルムシステム、電子計算機等導入) * 1966年(S41)12月1日、庁舎前庭落成(噴水池を中心に岩石や花木を配置) * 1972年(S47)9月1日、市役所前広場と水道局隣の二日町に市営有料駐車場設置 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P219~220/「重訂 宮城県郷土史年表」P613、P622、P628/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P13/「市民の戦後史」P175 | 40-05、201-02、201-05/「市民の戦後史(仙台市)」P174~175(新庁舎全景、窓口、議場、玄関、ロビー、電算機室、和風中庭)/「新・目で見る仙台の歴史」P200(第3代庁舎と噴水)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図60(H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S45、カラー) |
火災(地域) | 二日町大火 | 1951年(S26) |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821) * 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325) * 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549) /「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221 | 40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)/「市民の戦後史(仙台市)」P64(市役所付近の焼け跡) |
二日町大火 | 大火 | 1951年(S26)4月22日 |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821) ・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705) * 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325) * 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549) /「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災 |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221 | 40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所) |
ペデストリアンデッキ | 仙台駅西口 | 1981年(S56) |
* 1979年(S54)12月22日、ペデストリアン・デッキ使用開始(続・ 宮城県郷土史年表」P105) * 1981年(S56)8月4日、ペデストリアン・デッキ全面完成(仙台駅と西側のビル群を結ぶ)(「仙台市史 年表」P132) * 1982年(S57)6月23日、東北新幹線仙台駅が開業(新幹線が、大宮・盛岡間で暫定開業) * 1985年(S60)10月31日、仙台ホテル前~仙台十文字屋間、開通式 |
「続・ 宮城県郷土史年表」P105/「仙台市史 年表」P132、P133、P196 | 37-07、37-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P112(S59、カラー) |
仙台駅(戦後) | 東北新幹線駅 | 1982年(S57) |
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線、大宮~盛岡間が開業 新幹線仙台駅開業 * 1985年(S60)3月14日、上野駅まで乗り入れ(上野~盛岡間が直通) * 1985年(S60)4月11日、仙台駅東口に、東七番丁横断地下道開通 * 1987年(S62)1月10日、仙台駅に、伊達政宗の騎馬像(プラスチック製、高さ4m)設置 * 1987年(S62)4月、JR仙台駅西口広場公共地下道完成(エスパル~ams西武間) * 1987年(S62)7月15日、西口公共地下道(JR仙台駅~地下鉄仙台駅間)開通(同日に、地下鉄開通) |
「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P148、P189、P190、P218、P226 | 37-07、37-08 /「新・目で見る仙台の歴史」P184(新幹線駅と西側の市街地、俯瞰、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図4(H8新幹線駅)、図34(H9年、駅周辺一帯空撮、カラー) /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P114(S60、上野開業を祝う仙台駅)/同P122(H2、仙台駅東口、カラー) |
ビル建設 | 仙台ビルヂング | 1953年(S28) |
* 1953年(S28)、仙台初の高層建築物となる地上6階建ての「仙台ビルヂング」が東一番丁と南町通りの交差点角に完成 (仙台の本格的貸ビル第1号) <編者注> S28年12月完成し協和銀行が入居 |
「仙台市史 年表」P118/「市民の戦後史(仙台市)」P75/ 「番丁詳伝」P210 | 36-08/「市民の戦後史(仙台市)」P75 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P181 |
仙台市電 | 長町線 延長開通 | 1936年(S11)12月 |
東五番丁~荒町間 1926年(T15)11月25日開通 (仙台駅前~大町1丁目間と同時開通) 荒町~長町間4.2キロ (S8年~S11年に徐々に延長開通) 1933年(S8) 2月12日、荒町~愛宕橋間 7月5日、愛宕橋~誓願寺通間 12月14日、誓願寺通~舟丁間 1934年(S9) 12月2日、舟丁~河原町間 1935年(S10) 8月21日、河原町~新河原町間 1936年(S11) 1月16日、新河原町~長町北町間 8月6日、長町北町~長町南町間 12月19日、長町南町~長町駅まで開通 12月24日、市電と秋保電車の連絡乗車券発売 * 1954年(S29)8月1日、この日から長町線と八幡町線が直通 |
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P108/「仙台年表」P231 | 36-01、201-30/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図84(S11年、土樋付近の市電線路と街並み)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(S8年、長町線土樋カーブでの架線工事) |
仙台市電 | 仙台空襲被害と復旧 | 1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(計6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315) ・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P315) * 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87) * 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了(「仙台市史10 年表」P309)、全線運行再開(「仙台市史 年表」P113) ・仙台空襲時、全車両(52輌)は奇跡的に全車無事 / 車両は、北二番丁車庫、北仙台線、八幡町線の終点と秋保電鉄車庫に分散しており焼夷弾攻撃を免れた / 空襲被害は片平車庫が全焼、中心部各所で架線が垂れ落ちる / 復旧工事により、空襲翌日には荒町~長町間で運転再開、仙台駅前~荒町間8月3日、敗戦13日後の8月28日に全線で運転再開(「戦争のころ 仙台、宮城」P163) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315/「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163 | 35-15(仙台駅西側付近の焼け跡に市電車両が写る) |
仙台市立病院 | 改築竣工~戦災焼失 | 1939年(S14) |
東二番丁の旧裁判所庁舎跡に建設 * 1939年(S14)11月19日、改築工事竣工 (鉄筋コンクリート造 4階建て一部5階、地下1階 5,211平方メートル 病床数170床) * 後に増床も行われた * 1941年(S16)6月、看護婦養成所開設 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、本館地下1階と1~2階の一部を残して焼失、黒こげの残骸となった / 入院患者190人を避難させたが、犠牲者6人 / 窓ガラスはなく病床にはワラ灰だけが残るベッドが並ぶ、まさに廃墟だったが、1~2階の一部を使用し、翌日から診療開始するが、医療機械器具、薬品なく、焼け跡からトタン板を拾って風を防いだ(「仙台市史 続編第1巻」P707~708) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P707~708/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 10 年表」P297/「番丁詳伝」P129 | 35-14/「目で見る仙台の歴史」P163と「新・目で見る仙台の歴史」P145に「S14年新築された市立病院」 |
松島パークホテル |
* 1913年(T2)8月15日、開業 ・ 松島への外国人観光客誘致のために、東北地方初のリゾートホテルとして宮城県が建設 / 宮城県から借り受けた精養軒(東京)が運営した ・ 松島パークホテルは、景勝松島に建設した木造洋館風の建物で、県の迎賓館ともいえるものです / 占領軍撤退後の昭和44年3月、火災で全焼しています(「戦争のころ 仙台、宮城」P240) * 1945年(S20)9月、宮城県に進駐した米軍が接収 / ドン准将ら幹部の宿舎となった。(「宮城県史 警察兵事」P249) * 1969年(S44)、火災で2階を焼失後に撤去された |
「宮城県史 警察兵事」P249/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240 | 35-01 | ||
自衛隊 | 宮城県内(警察予備隊、保安隊時代) | 1950年(S25)8月~1954年(S29) |
<警察予備隊> * 1950年(S25)8月10日、警察予備隊令公布 / 隊員募集に志願者殺到、宮城県内でも応募者1000人を超える / 8月20日までに県内で7575名が応募、365名合格(第1次入隊) * 1950年(S25)8月23日、東北6県の第1次合格者1194名が仙台管区警察学校に入る * 1950年(S25)、その後の入隊者を含め、創設当時の警察予備隊員、東北地方からの約7000人が、米軍苦竹キャンプに4か月間駐屯、米軍顧問機関の指導や訓練を受ける(朝鮮戦争開戦で、米軍第一空挺師団が去り、一時的に空いていた / その後米第一騎兵師団が交代駐屯) / その後、宮城県船岡、山形県神町、青森県八戸などの米軍キャンプ内に隊舎がつくられ、隊員は一時そこに分駐するが、そのほとんどは後に関東や北陸での任務にまわされたという <保安隊> * 1952年(S27)7月、警察予備隊と新設の海上警備隊を統合的に指揮する、保安庁設置 / 警察予備隊を「保安隊」、海上警備隊を「警備隊」とし改編 / 保安隊発足当初、東北地方の駐屯地は、宮城県の船岡、青森、秋田の3か所 / その後、郡山、福島、大湊が加わる * 1954年(S29)、保安庁が改組され防衛庁になり、「保安隊が「陸上自衛隊」に、警備隊が「海上自衛隊」になる |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333 | 34-47 (東北管区警察学校) |
警察学校 | 東北管区警察学校 | 1956年(S31)~1975年(S50)3月 |
場所は、現在(2018年)の榴ケ岡公園内の一角で、かつては(明治時代~昭和20年まで)陸軍第二師団の歩兵第4連隊兵営だったが、戦災にあわず、戦後は進駐軍(米軍)基地(キャンプ・ファウラー)となり、米軍から返還された後に東北管区警察学校が置かれた / 高等部は旗立から、普通部は玉浦から移転 * 1956年(S31)11月30日、開校式 * 1975年(S50)3月、多賀城に移転 * 1975年(S50)5月、跡地(国有地)が、仙台市緑の拠点として払い下げが決まり、榴ヶ岡公園の一部となった * 移転後の1975年(S50)1月13日から、戦前からの旧・歩兵第4連隊兵舎は解体されたが、一棟だけ残された兵舎が、仙台市歴史民俗資料館となった(S54年11月3日開館) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P800/東北管区警察学校HP/「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P41 |
34-47 |
八木山橋 | 吊り橋、開通 | 1931年(S6)8月(11月?) |
八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ ・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した ・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった * 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通 * 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208) |
「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208 | 34-32、53-40、99-108、53-65、53-21、25-14、25-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12) |
仲の瀬橋(広瀬川) | 木造橋架橋/ゲルバー型に架け替え/二層構造の橋架橋 | 1927年(S2)/1956年(S31)/1980年(S55)or1983年(S58) |
(旧)中の丁から川内地区を結ぶ橋 * 1885年(M18)11月24日、広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失 * 以前は私設の渡銭橋だった * 1927年(S2)11月11日、第二師団工兵第二大隊の架橋演習により架設され竣工、開通式(S3年の「東北産業博覧会」に備え架橋) / 木造ポニートラス六連の橋で、長さ170.6m、有効橋幅5m * 1940年(S15)9月5日、大雨による広瀬川氾濫で流失 * 1941年(S16)5月、工兵第二連隊の架橋演習として修築 * 1950年(S25)、出水時に橋桁、橋台など被災 その後復旧 * 1953年(S28)、架け替え着工 * 1956年(S31)9月に、ゲルバー型の鋼板桁橋完工(長さ163.3m、幅9m) <二重構造の橋> (注:Wikipedia「西公園」と、Wikipedia「仲の瀬橋」で開通年が異なる) * 1980年(S55)8月、仙台西道路新仲の瀬橋下り車線完成(「続・ 宮城県郷土史年表」P116) * 1980年(S55)8月、二層構造の橋架橋完成(Wikipedia「仲の瀬橋」) / 上層の道路は地上の道路とつながり、下層の道路は仙台西道路(国道48号バイパス)として川内トンネルとつながる * 1983年(S58)、仙台西道路の建設に伴い、2層構造になる * 1983年(S58)5月14日、仙台西道路が暫定開通、同時に(新)仲の瀬橋も開通(Wikipedia「西公園」の年表) |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412/「仙台市史10、年表」P270/「仙台市史 年表」P85、P104、P110、P111/「仙台年表」P210、P211/Wikipedia「仲の瀬橋」(2019年11月)/「続・ 宮城県郷土史年表」P116 | 34-31-01、07-02-01、16-47、16-48 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P87(昭和3年)/「市民の戦後史(仙台市)」P95(S31年架橋以前の傷んだ仲の瀬橋、S31年3月完成した新仲の瀬橋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図25~27(S26年木造橋、S54年高架橋工事中、H8高架橋カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P57(S37、カラー) |
松原街道 |
・ 古代の官道「東山道」とされ、藩制時代に仙台市中心部と塩釜神社を結んだ塩釜街道の一部 ・ 数百本の松並木があったことが名称の由来 ・ 松並木は太平洋戦争末期に伐採され、燃料用に供出された |
河北新報記事(2017年01月11日)「古代の官道 松原街道」 | 34-04/「仙台市史 特別編4 市民生活」P523(戦前の塩釜街道・案内付近) | ||
銀行(地域の銀行) | 東北実業銀行 | 1910年(M43)~1932年(S7) |
* 1910年(M43)6月15日、東北実業銀行が涌谷町で開業 * 1911年(M44)2月11日、本店を仙台市名掛丁に移転 * 1918年(T7)、名掛丁に竣工(秋保石積の荘重なルネッサンス風) * 1932年(S7)1月31日、五城銀行と共に、七十七銀行と合併 |
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P346、P348、P429/「宮城県百科事典」P750/「仙台市史 年表」P95、P106/「目で見る仙台の歴史」P151 | 33-05/「目で見る仙台の歴史」P151(大正7年竣工の社屋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138(社屋) |
軍事教練 | 学校教練(中等学校) | 1925年(T14)~1945年(S20) |
<学校教練> * 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された ・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた ・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った ・ 軍国主義教育の中心となった * 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された * 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う * 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で) <配属将校> ・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。 ・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93) |
「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93 | 29-06、29-07、29-08、43-02、43-12、43-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練) |
歩兵第104連隊 | 1937年(S12)~1945年(S20) |
・ 1937年(S12)、日中戦争開始後に仙台で急きょ編制された陸軍第十三師団隷下にあり、宮城県人を中心に編制された歩兵連隊 ・ 当時、仙台の第二師団は、1937年(S12)4月から満州守備(駐箚)のため不在、仙台に一部残っていた第二師団留守部隊に加え新たに召集された兵士を合わせ十三師団(歩兵第104連隊)が編制され、中国戦線へ送られた * 1937年(S12)9月9日、動員下令 * 1937年(S12)9月16日、軍旗拝受 * 1937年(S12)9月19日、編制完結 * 1937年(S12)9月24日、仙台から「出征」 上海から徐州、南京、武漢、漢口北部など中国各地を転戦し昭和20年敗戦まで帰還せず * 1945年(S20)8月23日、衡陽郊外の三板橋にて軍旗奉焼 → 項目「第十三連隊」参照 【「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P96】 「(日中戦争勃発で)仙台市内の兵舎は、動員令と出征準備で忙殺され、次々と動員された応召兵士は仙台に集まり、民家に分宿を割り当てられ、多きは一軒に十人にも及んだ。区長や町の世話役は食料をくばり、兵士は軍服を渡され、現役兵が出征すると、ただちに連隊に移り、この応召兵が出征すると、次の民宿応召兵士が入隊する有様であった。」 |
「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)「仙台部隊関連年表」 |
28-01(応召後、仙台の民家に分宿した将兵と民家家族たち) | |
丸光 | 平屋の店 | 1947年(S22)ころ | * 戦後、昭和天皇仙台行幸時の写真(S22年8月5日)では、木造平屋 | 27-01 | |
進駐軍放送局(仙台) | 開局~閉局 | 1945年(S20)~1953年(S28) |
* S20年9月23日、進駐軍放送局AFRS仙台(WLKE、1450kc/s 3KW)が開局(NHK仙台局に同居) * キャンプ・センダイ(仙台城二の丸の旧第二師団跡地)に移転 * 1953年(S28年)10月3日閉局 「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 →「昭和20年9月23日、進駐軍のために施設提供、GHQによる放送原稿のチェック開始」 |
「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P19 | 25-01 |
幼稚園 | 仙台幼稚園(私立) | 1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180) |
「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」 | 23-01 |
錦章堂ビル | 竣工 | 1957年(S32) | 東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工 | 錦章堂主人談 | 22-61 |
歩行者天国(東一番丁) | 1970年(S45)/1972年(S47)/1977年(S52)/1979年(S54) |
* 1970年(S45)10月10日から、東一番丁通り、土・日・祝日の歩行者天国始まる * 1972年(S47)、歩行者天国を全面実施 * 1977年(S52)12月3日~25日、全面歩行者天国(午後0時~6時) * 1979年(S54)、東一番丁通りが歩行者専用道路となる |
「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9/「仙台市史 年表」P127、P128、P131/「仙台あのころこのころ八十八年」P256 | 22-58 | |
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン | カフェ・クレーン | 1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、新式洋菓子コーヒー店カフェ・クレーン開店(一品料理と喫茶) 【「仙台はじめて物語」P74~75】 ・ ツルヤ洋菓子店2階の喫茶「カフェクレーン」は、季節の花を飾った大理石張りのテーブル10余りが並び、天井には扇風機が回り、オルガンもあった ・ コーヒー、紅茶が5銭、特製アイスクリーム10銭、ライスカレー、チキンライス、ハムライスが15銭均一 ・ 12~13歳の女給仕は水色の洋服とエプロン姿 ・ 仙台では、「カフェクレーン」「ブラザー軒」「カルトン食堂」が知識人や学生のたまり場だった |
「仙台はじめて物語」P74~75 | 22-56、45-02、45-03、98-07/「いつか見た街・人・暮らし」P38(T5年、カフェクレーレストラン内部)/「新・目で見る仙台の歴史」P146 |
市場 | 仙台中央公設市場(戦後の中央マーケット) | 1946年(S21) |
<開設> 1946年(S21)5月か8月、「仙台中央公設市場」開設、場所は、東一番丁の南部(旧・大通り)、藤崎より南で道の東側 *「仙台中央市場」開設は、 ・「市民の戦後史」P30のキャプションではS21年5月 ・ 同P7の年表では、S21年8月 ・「仙台市史特別編4 市民生活」P91ではS21年8月 →「S21年8月、仙台露天商実業睦組合が、東一番丁から南光院丁に向けて建設した仙台中央公設市場が156店の出店で正式に開場した」 ・仙台睦商業協同組合は中央マーケットと呼ばれてコマ店110が軒を並べ、生鮮食品からは舶来ものの高級品までなんでもそろう市場であった(「番丁詳伝」P210) <火災> *1948年(S23)2月10日 ・ S23年2月、東一中央公設市場92戸焼失(「市民の戦後史」P9) ・ S23年2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818) ・ S23年2月20日、東一番丁に昼火事あり、東一中央公設市場及南松竹映画館等焼失す(「重訂 宮城県郷土史年表」P525) *1948年(S23)5月27日 ・ S23年5月、東一番丁仙台中央市場72戸焼失(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818) ・ S23年5月27日、仙台市東一番丁公設市場、火災で61戸を焼失(「重訂 宮城県郷土史年表」P526) ・ S23年5月27日、約70戸焼失(「仙台市史 年表」P115) ・ 仙台中央市場62戸全焼(「仙台市史10 年表」P318) *1951年(S26)2月5日 ・ 午後1:40頃、東一番丁火事、東一マーケットに延焼す(「仙台年表」P221 / 「重訂 宮城県郷土史年表」には記述なし) *1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟17戸焼失(「仙台市史10 年表」P318、「重訂 宮城県郷土史年表」P602) |
<開設> 「市民の戦後史」P7、P9、P30 /「仙台市史特別編4 市民生活」P91/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台年表」P221/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 年表」P115/「仙台市史10 年表」P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P602 |
22-55(の右端に写る)/98-013 |
金の星(カフェ) | 焼失 | 1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた ・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる ・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111) * 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より) 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり * 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業) |
「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談 | 22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76 |
三越(仙台店) | 開店 | 1933年(S8) |
<前史> * 1930年(S5)6月、株式会社仙都ビルディング創設(東一番丁) * 1931年(S6)、三越仙台進出阻止運動(「仙台年表」P203) * 1932年(S7)8月、東一振興会と商業連合会、三越仙台店設置反対運動を展開 * 1932年(S7)8月18日、仙台進出阻止演説会(日比谷公会堂) ・ 三越進出阻止運動(昭和5年~7年)については、「番丁詳伝」P138~141に詳述あり ・ 三越店員を地元から採用が伝わると、300人の計画に対し、男女3500人の履歴書が出され、2月15日から8日間、市公会堂で採用試験実施 <東一番丁に開店> * 1933年(S8)年4月1日、三越百貨店(鉄筋コンクリート5階建、地下1階)、東一番丁北部の仙都ビルに開店 / 「三越の開店は風があったとはいえ、穏やかな春日和の四月一日、宣伝飛行機は開店ビラをまきながら大売り出しで始まった」 【「番丁詳伝」P144~145】 ・ 「三越開店前までは、東一番丁では初の商店街組織「北振会」が結成されていたが開発は遅かった。三越周辺は空き地が目立ち、桃季園病院の黒塀が20m程続き淋しいところで、夜は暗くまったく商売にならなかった」 ・ 「三越が開店して東一番丁は急激に商店が増えてくる。これまで、立町通り、虎屋横丁角までの人の流れもにも変化が見えてくる」 ・ 「開店当初の店内配置は、地下(食料品・家庭用品)、1階(化粧品・履物・薬品・紳士用品・帽子)、2階(紳士婦人子供服・傘・ハンドバッグ・靴・貴金属品)、3階(呉服)、4階(文化用品)、5階(和洋家具・小ホール)」 ・ 「開店時、ホールでの芸能披露、目玉商品、十銭均一売り出しなど記述あり」 ・ 「(仙台は)街行く婦人は着物姿、僅かにみられる男性の背広姿はツンツルテンのズボンであったから、東京から転勤した約30人の三越青年社員の東京仕込みの中折帽、編上靴、ステッキ姿は目立つ存在であった」 * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、内部を全焼 * 1945年(S20)8月1日、空襲後の営業再開 * 1963年(S38)11月1日、新館新装開店 (地上7階、地下2階、屋上に3階の塔屋あり) * 1992年(H4)10月25日、三越増改築開店(三越・ABビルが竣工)/ 北隣の141ビルとの間に上空連絡通路を設置 |
「仙台年表」P203~204/「仙台市史10 年表」P279/「仙台市史 年表」P113/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「重訂 宮城県郷土史年表」P420、P435/「番丁詳伝」P138~145 | 22-51、47-06、53-34、22-53、53-23、16-39、20-33/「目で見る仙台の歴史」P165 /三越の七夕飾りは20-22/仙台空襲焼け跡に立つ三越は35-14/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P63(S38、新館)、P66(S38、新館) |
仙台市電 | 開業 / 駅前~大町1丁目、東五番丁~荒町 開通/モータリゼーション進展で利用者減 / 財政悪化/全線廃止 | 1926年(T15)11月/1976年(S51)3月 |
* 1925年(T14)11月、起工 * 1926年(T15)11月25日、仙台市電が初開通 (仙台駅前~大町1丁目間2.1キロ、東五番丁~荒町間1.2キロ) * 同日、西公園で開通記念式典 ・ 「開業日、市中は飾り塔、造花、赤ちょうちん、紅白幕、小旗に彩られ、東一番丁では花トンネルをつくった。 また、開通の日、午前中だけで1万2000人が乗ったと記録されている」(「番丁詳伝」P118) 開業時にすでに、始発駅の仙台駅のやや北にある、名掛丁角まで軌道が敷かれている(「昭和史とともに 仙台市電-その50年」P166の市電系統図) ******************** <「仙台市史 特別編4 市民生活」P216> ・ 市電利用者:昭和39年をピークに減少、市電財政悪化しはじめる / 対策として、大型ボディー車導入や1966年(S41)から一部をワンマン化 / 郊外に住宅団地増え周辺部から流入する自家用車で、市電並走部で交通渋滞 / 1976年(S51)3月、市電全線廃止 仙台市電(各路線)の開通日や廃止日は、 ・「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189と ・「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表で、わかる |
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P364/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電 市民が綴る五十年の軌跡」末尾年表/「番丁詳伝」P118/「仙台市史 特別編4 市民生活」P216 | 22-48、/ 開通記念式典は、98-103/開業時の市電系統図は、98-101/「目で見る仙台の歴史」P148と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「西公園における開通式、花電車」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P207(開通式、記念絵葉書の袋、一番電車が片平丁車庫を出発、開通記念無料乗車券)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P206~213(市電関連写真) |
秋保電鉄 | 秋保石材軌道開通 | 1914年(T3) |
* 1914年(T3)10月、覗橋~茂庭間開通 * 1914年(T3)12月23日、秋保馬車軌道、長町~湯元(後の秋保温泉)間16キロが開通 / 秋保石(凝灰岩の一種)と旅客の輸送が目的 / 箱型の客車を馬が曳いて走った ・ 停車場は、長町、西多賀、鈎取、太白山、茂庭、北赤石、覗橋 ・ 所要時間は1時間半 |
「重訂 宮城県郷土史年表」P353/8「仙台年表」P189/「仙台市史 年表」P97 /「仙台きょうはなんの日」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198 | 22-45 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P51/「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「秋保馬車軌道」/同P156(秋保石の運搬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198 |
自警団 | 発足 | 1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より> ・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった ・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71) * 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足 |
「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101 | 22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字) |
仙台市電 | 芭蕉の辻線(南町支線) 開通~廃止 | 1928年(S3)4月~1944年(S19)3月 |
・ 0.3キロ / 市電南町支線(通称・芭蕉の辻線) ・ 「芭蕉の辻」が終点 * 1928年(S3)4月8日開業 * 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表) / 軌道(レール)は戦時供出(金属回収)のため撤去「仙台市史 特別編4 市民生活」P92) / 資材は、他の路線の補修用にまわした(「戦争のころ 仙台、宮城」P163) * 1944年(S19)12月10日に休止(「仙台市史 年表」P113) → <編者注> この日付は間違いと思われる 「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95 市電「芭蕉の辻線」は昭和3年の東北産業博覧会開催を目途に開通(314m) / 大正12年の案では、芭蕉の辻が終点ではなく、さらに北へ延ばし国分町・二日町を経て北鍛冶町に至る計画だったが結局は実現せず、「芭蕉の辻線」は太平洋戦争中の昭和19年3月末に廃止された |
「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)/「仙台市史 年表」P104、P113/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P163 | 22-33、53-49/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる芭蕉の辻線のレール)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P208(終点芭蕉の辻俯瞰) |
街灯(芭蕉の辻) | 戦前 | ~1945年(S20) | 戦前> 道両側に街路灯 / 芭蕉の辻の四隅は1基5灯型、その北(国分町方向)は道路の両側に1基4灯型(四方に4灯、上にはなし)、辻の南側は1基2灯型/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失 | 22-33、20-18、99-026、53-52、99-028、16-01、44-06、99-027 | |
アーケード | 新伝馬町 | 1964年(S39)ほか |
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成 * 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁が順にあとを追って完成し、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116) <編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成 * 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成 * 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる * 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける |
「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP | 22-30(S39年完成アーケード)/「市民の戦後史(仙台市)」P158(S39年12月、中央通りアーケード街) |
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