項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
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戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
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16-44
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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敗戦後の諸相・仙台 |
英語標識設置 |
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・ 仙台駅、占領軍の要請で駅名をローマ字表示(写真16-16)
・ 西公園前・南町通はメープル街、南町・国分町はエルバリ街、光前寺通・駅前はインディアナポリス街などの標識設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68~69
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16-42、16-44、16-46、16-36、16-23、16-16、25-14、53-31、44-45、44-29-01、25-10、99-148
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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市場 |
仙台東一公設市場(東一マーケット) |
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* 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続
<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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16-38、16-39
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仙台国税局 |
開庁 |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)7月、仙台税務監督局を仙台財務局と改称
* 1949年(S24)6月1日、仙台国税局開庁(新設)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P484、P535/「仙台市史10 年表」P321
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16-36
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仙台ショーハウス |
建設 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)4月、仙台市制60周年を記念し「仙台復興祭グランドフェア」が西公園で開催、これにあわせて、仙台駅付近(南町通り角)に河北ショーハウスが建設された
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「仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)」
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16-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P21
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右側通行 |
開始 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)11月1日、それまでの左側通行から、「人は右、車は左」の対面交通に切り替えられた
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昭和24年道路交通取締法改正
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16-28、16-43
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人力車 |
台数ほか(宮城県内) |
明治・大正・昭和 |
* 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
(314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台
・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり
・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194
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16-27(輪タク)
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丸光 |
3階建完成 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
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仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)
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16-27、98-048、53-82
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輪タク |
全盛 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、輪タク全盛時代、全国で1万3000台
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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16-27、53-11、53-81
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RTO(仙台) |
開所~廃止 |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
* 1945年(S20)9月20日、仙台のRTO開所(宮城、青森、岩手を管轄)
* 1946年(S21)6月21日以降は東北地方と新潟のRTOを管轄
* 1952年(S27)4月1日、廃止(国鉄の自主運行となる)
* 1957年(S32)10月まで、仙台駅北側(RTOの場所)を米軍が占拠 (「仙台市史 続編第1巻」P570)
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16-22(の内容欄、関連情報欄)参照/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P570
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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進駐軍(米軍) |
米軍鉄道輸送司令部(RTO仙台) |
1945年(S20)~1952年(S27) |
米軍鉄道輸送司令部RTO(Railway Transportation Office)は米軍による日本占領時代に駐屯地の最寄駅におかれ、米軍の国鉄側に対する輸送上の要求や駅と進駐軍兵舎(キャンプ)との間の輸送連絡などが主な業務
仙台のRTOは、国鉄仙台駅の北側に隣接しておかれた
→ 項目「RTO(仙台)」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328
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16-22、98-099、44-52/「目で見る仙台の歴史」P173
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こけし塔(仙台駅前) |
設置 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、仙台駅前広場のこけし塔、仙台復興祭グランドフェア(S24年4月20日~5月31日)の歓迎用に建てられ、その後も広告塔として使われた
・ S26年当時の写真にも写る
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「戦災復興余話」P101~102に、グランド・フェアーにつき記述あり
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16-20、16-18、16-19、20-08
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仙台駅(戦後) |
第3代駅舎 |
1945年(S20)8月上旬 |
2代目駅舎が仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、終戦直前の8月上旬に木造バラックの待合室が急ごしらえで建設された
* 1945年(S20)8月上旬、3代目駅舎を急造
* 1947年(S22)3月27日、バラックの仙台駅にネオンがついた。周囲が暗いためか「仙台駅」の文字だけが夜空に輝いていた」(「仙台市史 続編第2巻」P255)
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「仙台駅百年史年表」P224/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P255
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16-16、44-50、21-11、22-12/91-22など分類H-30の各写真(1945年9月23日、米軍撮影)/09-09(夜に輝く「仙台駅名ネオン」/「新・目で見る仙台の歴史」P130/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図2(戦後間もない仮駅舎)
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防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
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『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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竹槍訓練 |
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* 1943年(S18)2月~9月、大日本婦人会が、竹ヤリ訓練などの国防訓練を全国27支部で展開
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)
竹槍は1945年(S20)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
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「昭和・平成家庭史年表」P138/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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16-08
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大日本婦人会 |
発足 |
1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった
* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成
* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16
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16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ)
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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芭蕉の辻の交番 |
屯所設置/巡査派出所/建替 |
1884年(M17)/1889年(M18)/1926年(T15) |
* 1884年(M17)3月、芭蕉の辻など仙台区内8カ所に屯所を置く / 1889年(M18)年6月、屯所の名称を巡査派出所とする(「仙台市史 本編2」P650~651)
* 1926年(T15)3月20日、附近有志の寄付により芭蕉の辻巡査立番所を改築、同巡査派出所と改めた(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P267) / 陸屋根コンクリート造りに建替えられた(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21)
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「仙台市史 本編2」P650~652/「仙台市史10 年表」P267/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21(河北新報T15年1月18日の記事)
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16-01(右下の建物)
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青葉通り |
概要 |
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仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた
長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手
<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述)
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「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328
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14-07、99-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西)
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青葉通り(植栽) |
枝垂れ柳、ケヤキを植栽 |
1950年(S25)~1966年(S41) |
<街路樹の植栽樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P253~254)
・ 高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
助役はネムノキかサルスベリに、課長は大木になる樹種が良い
・ 一市会議員の提案「台原の仙台営林署所有のケヤキを、失業対策事業で移植」をうけて、仙台駅前~東一番丁間にケヤキを植樹、その後西公園までの両側歩道などに計180本ほどのケヤキを植樹
・ 助役は駅前から東二番丁通り角までの中央グリーンベルトには、シュロとユッカラン植栽を指示し、植栽したが、東京農大井上教授視察時に評価低く、ケヤキは高評価だった
* 1949年(S24)4月、植樹式(ケヤキ植え初め式)
・ 台原の国有林から、樹齢15~35年の成木を移植
・ 「東五番丁~西公園間」の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付されて東三番丁~国分町間の歩道に植えられた
* 1949年(S24)5月、東三番丁~東四番丁間の分離帯(中央グリーンベルト)にモデル植樹(高麗芝を地にしてシュロ、さつき、玉伊吹、雪柳、紫南天など約200本)
* 1950年(S25)4月3日、青葉通りでケヤキ植え初め式(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)、仙台駅前~国分町角の歩道、80本のケヤキ植樹 / 当時の市会議員48人が1本ずつ寄贈
* 1950年(S25)末から、しだれ柳植栽
「仙台駅前~東五番丁間」の歩道には、S25年末から100本のしだれ柳を植栽した(写真14-07)
* 1951年(S26)9月、駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される
* 東二番丁通りとの交差点付近の青葉通りの車道にあった分離帯(グリーンベルト)には、高麗芝を地にしてシュロなどを植えていた(写真50-01) / その後、生育が悪くなり、トウカエデを植える→その後、ケヤキに
* 1966年(S41)、青葉通りの植栽が完了(「仙台市史 年表」P125)
* 1971年(S46)、ケヤキの並木にも赤信号(車の排気と車歩道の全面アスファルト化による公害)(「重訂 宮城県郷土史年表」P678)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P253~254/「仙台市史 続編1(行政建設編)」P324、P468/「戦災復興余話」P51~P53/「仙台市史 年表」P116、P125
座談会「仙台 戦中戦後を語る」/「重訂 宮城県郷土史年表」P678
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14-07、18-21、14-01、22-17、201-11、50-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P163(S26年、ケヤキ植栽セレモニー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33、東五番丁角付近)、P44(S33頃、仙台駅近くの枝垂れ柳並木)/同P92(S45、緑の欅並木、カラー)/同P98(S46、中央分離帯あり、ケヤキ並木)
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県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
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「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
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14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
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発電事業 |
仙台市営電気事業 |
1911年(M44)~1942年(S17) |
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市営電気事業>
* 1911年(M44)6月 仙台市が仙台電力と契約し、同年7月1日電気事業を開始
* 1912年(T1)、仙台市が宮城紡績電灯も買収、大倉(現在の大倉発電所とは異なる)・大堀・碁石川・三居沢の水力発電所を所有
「土樋火力発電所」(仙台市営)
* 1926年(T15)6月、土樋火力発電所トンネル工事による水量減少で、七郷・高砂・原町3村の600余名に影響し騒動(「番丁詳伝」P122)
* 1926年(T15)12月24日、土樋火力発電所が竣工(出力、2000kW)
* 土樋火力発電所の設備は1941年(S16)に北支那開発関係機関へと徴用され、廃止
<仙台市営電気事業>
* 1941年(S16)公布の配電統制令に基づき、市が新たに設立される東北配電株式会社の設立に参加
* 1942年(S17)3月31日、仙台市電気事業、配電統制令に基づき東北配電KKに移行
* 1942年(S17)4月、市営電車部門を除く電気事業設備を出資して市の電気事業は終焉を迎える
<東北配電株式会社>
* 1942年(S17)4月1日、事業開始
* 1942年(S17)6月30日、宮城県電気部解散式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141/「東北大学鉄道研究会公式ブログ」/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P304
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08-10-03(右端の煙突が土樋火力発電所)
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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樗牛瞑想の松 |
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⇒「瞑想の松」参照
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08-07、53-112
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貞山運河(貞山堀) |
改修事業 |
1880年(M13)~1889年(M22) |
* 1880年(M13)、貞山運河を貞山堀と改称、改修事業の測量着手
* 1889年(M22)5月11日、貞山堀改修工事完了し、貞山堀を再び貞山運河と改称
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「仙台市史 年表」P83、P86
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08-06/「新・目で見る仙台の歴史」P154(貞山堀で舟遊び)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験/貞山堀のシジミ採り)
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宮城県図書館(戦後) |
戦後再建 |
1949年(S24) |
<宮城県図書館 再建>
* 1949年(S24)11月3日、空襲で焼失した宮城県図書館(大正元年建築)の後継として再建された「宮城県図書館」落成式(木造2階建て、宮城県庁の西隣、旧養賢堂跡)(「仙台市史 年表」P116)
<上記と名称、時期など一致しないが、「宮城県中央図書館」とした記述もあり>
* 1948年(S23)5月1日、「宮城県中央図書館」に、フィルム・ライブラリーを併置(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
* 1949年(S24)2月5日、「宮城県図書館」開館/旧伊達氏所蔵の文書・書籍(いわゆる「伊達文庫」)を収める(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261)
* 1949年(S24)2月10日、「宮城県中央図書館」復興し閲覧を開始(「仙台市史10 年表」P320、「重訂 宮城県郷土史年表」P533)
* 1949年(S24)10月、宮城県中央図書館を旧養賢堂講堂跡に復興新築、12月下旬に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P537)
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「仙台市史 年表」P116/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年版)
「宮城県中央図書館」と表記は、「重訂 宮城県郷土史年表」P526、P533、P537/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261
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07-01-01、22-37、53-16/「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(図13)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54(S37、左端の2階建て、カラー)
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仙台陸奥館(陸奥ホテル) |
開業 |
1890年(M23) |
* 1890年(M23)、仙台駅前には、最初のホテルで日本鉄道経営の「仙臺陸奥館」ができるなど、明治年間に旅館やホテルの開業が相次いだ(「仙台はじめて物語」P90)
* 1894年(M27)、陸奥ホテル開業(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
・日本鉄道が経営
・洋風木造3階建て、東北初の洋風ホテル
1階はビリヤードとロビー
2階は食堂、3階は客室(洋食)
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「仙台はじめて物語」P90/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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06-23、16-57
/「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に「陸奥ホテル」(仙台停車場前)と陸奥ホテル支店(仙台停車場正面、西洋料理)の写真あり
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青年学校 |
発足 |
1935年(S10) |
<「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)>
1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311>
・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科)
・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可
・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P452>
・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている
*************************************
* 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置
* 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止)
* 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる
* 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止
* 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置
* 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
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「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/
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06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー)
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愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
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06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
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宮沢の一銭橋 |
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1880年(M13) |
* 1880年(M13)までは渡し舟だった / その後、渡し守が私設の有料橋をかける(30cm位の木製の板、2枚を並べた橋で、川の増水時には取り外しができるようになっていた)
・ 通行料が3文だったが、終わりころには1銭になったので通称「1銭橋」と呼ばれていた(「仙台あのころこのころ八十八年」P135)
・ 渡し守の家は根岸川の高台にあった
・ 広瀬川に架かる宮沢橋の前身
* 1938年(S13)7月、仙台市会、林吉次郎の宮沢橋仮橋寄付を採択す(「仙台市史10 年表」P293)
→このあとは、項目「宮沢橋」を参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P409/「仙台市史 続編1」P409/「仙台あのころこのころ八十八年」P135/「仙台市史 別冊2」P825、P831/
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06-03、53-109/「仙台市史 特別編4 市民生活」口の絵図23
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎時代 |
1950年(S25)~1972年(S47) |
* 1952年(S27)9月26日、仙台駅東口開通
* 1952年(S27)9月、仙石線仙台駅ホームを東口地下道内から地上へ移す(国体開催に備え)
* 1952年(S27)9月当時の仙台駅発着系統
・一番線、東北本線下り方面
・二番線、東北本線上りおよび下り方面
・三番線、東北本線上り方面
・四番線、仙山線下り方面
・五番線、常磐線上り方面
* 1955年(S30)10月1日、仙台駅火災、一部消失
* 1961年(S36)3月3日、国鉄と建設省、駅前広場問題について、駅舎を9m後退につき話し合いがつく
* 1961年(S36)5月、仙台駅の構内地下道完成
* 1964年(S39)、ホーム間連絡路の北地下道に加え、南地下道完成(南跨線橋は老朽化で廃止)
* 1965年(S40)10月1日、仙台駅に「みどりの窓口」設置
* 1967年(S42)10月、新らたに設けた6、7番ホームを、仙山線発着に充てる
* 1974年(S49)3月5日、大時計を県中央児童館にプレゼント
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「仙台年表」P225、P234/「重訂 宮城県郷土史年表」P558、P579、P599/「続・ 宮城県郷土史年表」P27/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567、P571/「市民の戦後史(仙台市)」P132
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05/「市民の戦後史(仙台市)」P132(S36年5月、構内地下道)/「市民の戦後史(仙台市)」P203(S42年10月頃の仙台駅→常磐線電化完成の看板あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図33(S42年、駅周辺一帯空撮)
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P9(S29)、P18~19(S32)、P20(S30年代初め頃)、P41(S33、仙台駅界隈空撮、機関区も写る)、P44(S33頃)、P59(S38、仙台機関区の転車台)、P62(S38、カラー)、P97(S46、カラー)
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仙台駅(戦後) |
第4代駅舎中間竣工 |
1949年(S24)7月 |
広い庇とその下の大時計(直径2m)が特徴で、S47年まで23年間にわたり仙台市のシンボルであった
* 1948年(S23)、着工
* 1949年(S24)7月、第4代駅舎(中間竣工)、木造2階建て / 駅前広場はアスファルト舗装、東五番丁まではコンクリート舗装
* 1950年(S25)5月18日、第4代駅舎完成
* 1950年(S25)11月5日~12月末、駅前の舗装(「仙台駅百年史」P49)
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「仙台駅百年史年表」P224/「戦災復興余話」P54/「仙台市史 年表」P116/「わが心の仙台駅前史」P86の「年表」/「仙台駅百年史」P49
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05-02、16-17、16-18、16-19、16-20、16-24、18-01、20-09、22-13、22-14、37-02、37-05
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ビル建設 |
第一生命ビル |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)7月、第一生命ビル竣工(仙台市役所の南隣に、鉄骨鉄筋造、地下1階、地上10階、塔屋4階)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P663
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(着工してまもない頃)40-07、201-04、201-05
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ブラザー軒 |
4)森徳横丁(憲兵横丁)へ移転 |
新築・移転は、1935年(S10)より前 |
「地図」によると、ブラザー軒はS10年には現在地あたり(森徳横丁)にあり、以後、S20年、32年、45年、58年の各地図も同じ / 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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(建物外観は不詳)
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切手代(ハガキ) |
ハガキの切手代 |
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■明治16年1月1日から 1銭
■明治32年4月1日から 1銭5厘
■昭和12年4月1日から 2銭
■昭和19年4月1日から 3銭
■昭和20年4月1日から 5銭
■昭和21年7月25日から 15銭
■昭和22年4月1日から 50銭
■昭和23年7月10日から 2円
■昭和26年11月1日から 5円
■昭和41年7月1日から 7円
■昭和47年2月1日から 10円
■昭和51年1月25日から 20円
■昭和56年1月20日から 30円
■昭和56年4月1日から 40円
■平成元年4月1日から 41円
■平成6年1月24日から 50円
■平成26年4月1日から 52円
■平成29年6月1日から 62円
■令和元年11月1日から 63円
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)P964の「郵便料金の変遷」/ほか
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(例)1銭5厘の切手が貼ってある絵葉書は、44-10
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幹線道路 |
仙台北環状道路 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)11月16日、仙台北環状線(宮城県道37号、都市計画道路八乙女・折立線)、開通
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「仙台市史 年表」P135
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戦時中の勤労動員/就労規制(7) |
国民勤労動員令 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行
老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
→ 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504
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第三十三師団 |
編制 |
1939年(S14)3月~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月、仙台市で編制、通称号は「弓兵団」
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より要約】1939年3月編成完結、武漢地区警備などに従事していたが、太平洋戦争開戦後は南方に転用。1942年2月ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加。1945年5月中旬以降テナデリゥム地区の守備に従事。
* 敗戦時は、ビルマのタンザビア(「仙台市史 続編第1巻」P64)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P31~32、P68>
「日中戦争で、中国に派遣された郷土部隊は第二師団、第十三師団、第三十三師団の三個師団。第三十三師団(甘粕重太郎師団長)は中国中部に派遣、宇都宮と仙台の部隊で構成していました。」
「第三十三師団は太平洋戦争では、1942年(S12)2月、第五十五、第五十六、第十八の各師団とともに、中国から国境を超えてビルマ(現ミャンマー)に進撃。6月までに全土から敵を掃討しました。英国の植民地だったビルマの北部は連合国が中国国民党政府へ戦略物質を送る輸送路になっており、遮断と英国植民地のインドを英国から離反させるもくろみがありました。 最初のうちは火砲、弾薬も十分でないまま戦闘が続き、分厚い装甲の英国戦車に悩まされましたが、得意の夜襲、航空部隊の空襲、それにビルマ人の協力もあって、数十倍の英国軍、インド軍を破ることができました。」
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国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P31~32、P68
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杜の都緑化基金 |
設置 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)4月1日仙台市が設置
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「仙台市史 年表」P134
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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戦時中の疎開者受入れ |
仙台市/宮城県 |
1945年(S20) |
<京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人
<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201
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第四十二師団 |
編制 |
1944年(S19)2月~1945年(S20) |
* 1944年(S19)2月1日、第四十二師団(通称号は勲兵団)、仙台において編制
【Wikipedia「第42師団」】 留守第二師団と第62独立歩兵団を基幹に仙台に於て編制
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より転記】 1944年2月、仙台において臨時編成。その後、中千島の得撫島(ウルップトウ)に移動し同地の防衛に任ずる。1945年4月、稚内に移駐し当地の防衛を担当しそのまま終戦を迎えた。1945年9月17日稚内にて復員
* 終戦時は、主力は北海道宗谷、一部は南千島(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・ 千島からシベリア抑留 / 昭和17年6月に新潟県高田で編成され、のち仙台榴ヶ岡連隊兵舎に入った歩兵第130連隊が、昭和19年に第四十二師団に編入されて千島のウルップ(得撫)島に出動、その後北海道に転進したが、このうち第三大隊がウルップ島に残っていたため、ソ連軍にシベリアに連行された / 第三大隊はウルップ島に向かう途中で潜水艦の攻撃を受けて沈没、生存者が残留を命じられたもの(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
・ 歩兵第130連隊はソ連軍によってシベリアに連行され、5年後に帰国 / シベリア抑留中に死亡し身元が確認された宮城県出身者は806人(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
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「仙台市史 年表」P113/Wikipedia「第42師団」/国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P238
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八木山開発 |
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八木山は、もとは仙台藩士の共有財産だったが、明治初めに国有化され、大正年間に八木久兵衛氏の所有となった
八木山開発は、昭和初期、八木久兵衛氏が私費を投じて、自身が所有する仙台市八木山で行った一連の観光開発
<八木久兵衛(第4代)> 仙台の味噌醤油製造業「紅久」の経営者、「紅久」は藩政時代から、紅・小間物商、明治に入りみそ醸造開始、仙台市会議員、宮城貯蓄銀行、七十七銀行頭取、仙台商業会議所会頭(明治38年6月~大正7年9月)、大正7年6月貴族院議員(多額納税議員)、大正12年11月29日没(「重訂 宮城県郷土史年表」の該当年の記述より抜粋)
<八木久太郎(第5代久兵衛)> 八木山開発(昭和15年11月26日没)は第5代の手による / 私費を献じて仙台市電「芭蕉の辻線」を開通させた。
* 1929年(S4)6月23日、「野球場」を建設(同日、宮城県に寄付)
→項目「八木山球場」参照
* 1930年(S5)4月、「遊園地」と「公園」を開設(S11年5月28日、八木山遊園地を仙台市に寄付)
→項目「八木山遊園地」参照
* 1931年(S6)8月、竜の口渓谷に、「八木山橋」(木製鉄索、吊り橋)架橋、仙台市に寄付
→項目「八木山橋」参照
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」を仙台市に寄付
* 1936年(S11)11月、土居光知、薄田清が発起人となり、島崎藤村の詩碑(草枕)を建立(「番丁詳伝」P34) / 昭和42年、藤村詩碑を青葉城址へ移転
* 1937年(S12)、仙台芸妓置屋組合、芸妓の同意を得て寄付を募り、八木山遊園地に枝垂れ柳276本、沿道、紅葉ケ谷に、吉野桜524本を植栽し仙台市に寄付、動物園付近に桜樹植栽記念碑を建立(「仙台 あのころこのころ八十八年」P70、「番丁詳伝」P34)
* 1964年(S39)12月、八木山地区整理組合が発足し、宅地造成に入った
このほか、八木氏が仙台市に寄贈した土地に、
* 1965年(S40)に市が「八木山動物公園」を開園
→キーワード「八木山動物公園」で検索
<「仙台老舗百店史」P194~195「紅久」の記述>G1496
「天明3年(1783)から芭蕉の辻にあった紅・小間物商「紅久」が、明治16年、味噌醤油の醸造、販売も始め繁盛して得た資金で八木山を入手、八木山橋、野球場を建設し市に寄贈、また寄贈した土地に八木山動物園が建設された」
「番丁詳伝」P34~35にも、「紅久」「八木久兵衛」「八木山開発」について記述あり
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「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり/「仙台市史 年表」P105、P106、P108/「仙台 あのころこのころ八十八年」P70/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「仙台市史10 年表」P283/「番丁詳伝」P34~35
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幹線道路 |
東部復興道路 |
2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
「東部復興道路は、仙台市宮城野区蒲生から若林区藤塚までの延長10.2km(県道区間6.8km、市道区間3.4km)からなり、約6mかさ上げし、海岸堤防、海岸防災林との多重防御で津波被害を軽減し、内陸側の既存集落や防災集団移転先の安全確保を図るためのもので、津波に対する多重防御の要となるものです。」(復興庁HPより)
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)/復興庁HP
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大日本国防婦人会 |
設立 |
1934年(S9)12月 |
* 1934年(S9)12月13日、「大日本国防婦人会」設立
・ 満州事変勃発の翌年1932年(S7)3月18日に陸軍の後援で結成された大阪国防婦人会と、東京国防婦人会を母体として設立 / 満州事変、日中戦争、太平洋戦争期に「銃後」の戦争協力を担う(出征兵士の見送り、出征留守家族の支援、遺骨の出迎え、慰問袋調達と発送、防空演習など)
・ 活動時には、割烹着に(大日本国防婦人会○○分会と書かれた)たすきを掛けた
・ 全国に支部をもち、S16年(1941年)には会員は公称 1000万人に達した
・ 愛国婦人会は、上流の家庭婦人が会員、国防婦人会は庶民の主婦スタイルで地域女性を結集
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456
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八木山球場 |
開場 |
1929年(S4) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が所有する土地に私費を投じて建設し、宮城県に寄付し「宮城県営野球場」となる / 工費40万円
* 1927年(S2)9月、八木山球場を起工
* 1929年(S4)6月23日、開場(開場同日に宮城県に寄付し、「宮城県営八木山球場」となる(「仙台市史 年表」P105、「重訂 宮城県郷土史年表」P415、「宮城県の百年」年表、「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
* 1930年(S5)6月、八木山球場で、三田・稲門野球戦(三田は慶応大学、稲門は早稲田大学)
<開催された日米野球>
* 1931年(S6)11月10日、米大リーグ選抜対明治大学(米13-明治2) / 大リーグ選抜にはグローブ投手やゲーリッグらが参加( →「仙台はじめて物語」P235~241に詳述あり)
* 1934年(S9)11月6日、米大リーグ選抜と全日本選抜 ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ(「仙台あのころこのころ八十八年」P70)
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「仙台市史 年表」P105、P107/「重訂 宮城県郷土史年表」P415、P420、P428 / 「新目で見る仙台の歴史 P155」/「仙台はじめて物語」P235~241/「仙台あのころこのころ八十八年」P70/「宮城県の百年」年表
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