項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
デイケアー |
デイケアセンター |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)4月2日、仙台市三居沢で仙台デイケアセンター業務開始(全国2番目)
* 1987年(S62)4月、仙台市葉山町にデイケアセンター完成
* 1988年(S63)3月28日、仙台市泉中央デイサービスセンター、オ-プン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160、P223、P241
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翼賛壮年団 |
仙台市で結成 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488
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イズミティ21 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)11月1日、泉市文化創造センター(イズミティ21)開館
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「仙台市史 年表」P135
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住宅団地 |
花園ニュータウン |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)5月、利府町の大型団地花園ニュータウン造成工事起工
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「続・ 宮城県郷土史年表」P206
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金属回収 |
政宗卿騎馬像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、仙台城跡(天守台)の伊達政宗銅像(騎馬像)の金属供出「出陣式」が行われる
「青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も、金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及び護国神社共同主催のもとに、県下青年団代表参集して盛大なる銅像出陣壮行式を挙行す。この折、詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」(重訂 宮城県郷土史年表)
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「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500
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住宅団地 |
シーアイタウン利府団地 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)6月16日、利府町のシーアイタウン利府団地、造成着工
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「続・ 宮城県郷土史年表」P207
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仙台空襲 |
空襲の概要 |
1945年(S20)7月10日 |
<7月10日未明の仙台大空襲>
* 1945年(S20)7月10日未明、米軍第58航空団のB29、123機、2時間にわたって仙台市街地を空襲 / 先導機12機に誘導され高度3000~3200mで市南西部から侵入、事前設定した爆撃中心点に焼夷爆弾投下、目標区域周辺に反復し投下 / 爆撃の範囲は市電循環線の内側と、陸軍施設が集中する川内地区 / 3~5機が編隊で爆撃、何分か後に別の編隊が攻撃を繰り返す / 午前0時3分~2時5分までの2時間に25回周辺に反復し投下
* 避難で市民が向かった避難先は、広瀬川河畔、評定河原、大年寺山、愛宕神社、西公園、大崎八幡、北山、北仙台、台原、東照宮、宮城野原、遠くでは根白石、落合
・ 空襲の夜、軍管区副官部の将校たち、料亭で飲酒、2~3人が焼夷弾の直撃で亡くなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P212~213)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P212~213、P214~216、P218
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逓信関連 |
仙台逓信管理局設置 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)4月1日、逓信省が仙台に逓信管理局を設置
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「仙台市史 年表」P95/「重訂 宮城県郷土史年表」P345
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ライオンズクラブ |
仙台 |
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* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑を仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1967年(S42)、市民記念植樹実施(篤志家やライオンズクラブが花の種、苗木、フラワーポット、くず箱を寄贈)(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250)
* 1968年(S43)4月13日、勾当台公園内に、仙台ライオンズクラブ寄贈の野外音楽堂完成し、寄贈式(「重訂 宮城県郷土史年表」P639)
* 1970年(S45)6月5日、全国大会を仙台で開催(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
* 1978年(S53)5月2日、「戦前の『政宗騎馬像』胸像部分」を、仙台エコー・ライオンズクラブが、仙台市博物館庭に再建(「続・宮城県郷土史年表」P81) / 騎馬像は昭和10年天守台に建立後、昭和19年1月戦時中の金属回収で供出 / 戦後、解体された状態の騎馬像が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で発見され、一部を改修し青葉神社に奉納されていたが、1961年(S36)に仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公の頭部のみが敷地内に展示されている →「政宗卿騎馬像」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P250/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P639、P661/「続・宮城県郷土史年表」P81
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市場 |
大正期(公設市場) |
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* 1919年(T8)9月15日、公設市場として南町通りに「仙台市南市場」、表小路に「仙台市北市場」を開設
* 1920年(T9)9月28日、両市場を閉鎖
* 1920年(T9)12月17日、新たな公設市場として「名掛丁市場」を開設
* 1921年(T10)12月24日、名掛丁市場を閉鎖し、翌日、定禅寺通に「中央公設市場」、清水小路に「南公設市場」、北一番丁に「北公設市場」を開設
* 1922年(T11)8月4日、宮城県公設市場増設し、木町通に「西公設市場」開設
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「仙台市史 年表」P99、P100/「仙台市史10年表」P259
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住宅団地 |
国見ケ丘ニュータウン |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)9月18日、宮城町の国見ケ丘ニュータウン1期250区画完工式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P211
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仙台空襲 |
投下された3種の焼夷弾 |
1945年(S20)7月10日 |
<投下された3種の焼夷弾>
・ M47焼夷爆弾
落ちるとものすごい音がして火が噴き出す / 空襲の手始めに攻撃目標に対し集中的に投弾し火災を発生させる / 先導機群と2個群団が1万800発を投下
・ M17集束焼夷弾
ザアーと雨のように降ってきて、あたりかまわず青白い炎を出して燃える / 1個の中に直径5cm、長さ35cmの六角棒状のテルミット・マグネシウム焼夷弾が110本はいっていて、地上300mになると自動的にまき散らされる / 総数23万7000個を投下)
・ 小型油脂焼夷弾
6個のガソリン、ナフサ入りナパーム弾が集束しており、これも途中で分かれて落下、地上で燃え上がると火を振り払っても落ちない
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P216~217
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広瀬通り |
横断地下道 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)5月16日、広瀬通地下歩道、一部完成
* 1987年(S62)4月13日、横断地下道開通
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「続・ 宮城県郷土史年表」P205、P222
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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金属回収 |
伊達安芸銅像 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P308
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住宅団地 |
利府ニュータウン(仮称) |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)5月23日、利府町に利府ニュータウン(仮称)起工式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P224
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仙台空襲 |
仙台北警察署の報告 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」
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「番丁詳伝」P151
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陸海軍の工場(宮城県内) |
第一海軍火薬廠 |
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<海軍火薬廠>
* 1938年(S13)1月9日、海軍火薬廠を柴田郡船岡町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1938年(S13)1月9日、海軍軍需部特殊工場、柴田郡船岡村に設置 (「仙台年表」P208)
* 1939年(S14)8月1日、船岡村に海軍火薬支廠設置 (「仙台年表」P209)
* 1939年(S14)、船岡の第一海軍火薬廠完成。 2万坪(約6.6ha)あり東北最大の火薬製造工場(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
・ 海軍は、平塚に第二、舞鶴に第三火薬廠を持っていた
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)
・ 跡地は、陸上自衛隊、仙台大学が使用(2020年現在)(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157、P173)
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「仙台年表」P208、P209
/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P704/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156~157、P173
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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柔道・剣道 |
停止通達/復活 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
<戦後>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
* 1951年(S26)1月11日、戦後禁止の学校柔道が中学校以上の随意科目として復活
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P45
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仙台空襲 |
東北軍管区司令部発表 |
1945年(S20)7月10日 |
<仙台空襲につき、東北軍管区司令部発表>
(空襲から8時間後の昭和20年7月10日午前10時)
「敵B29約百機は、今10日午前零時5分ごろより約2時間30分にわたり仙台中心部に対し無差別焼夷攻撃を加え来たり。市内各所に火災発生するも午前5時頃にはおおむね鎮火せり。市民はかねて準備したる食料ならびに付近町村よりの炊き出しにより直ちに配給を受け、指定収容所に復帰し、鎮静に帰しつつあり」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
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停電 |
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昭和20年代 |
* 1951年(S26)9月26日、県内一帯に緊急停電続く
* 1952年(S27)3月17日、北海道を除き電力制限解除(「菅家年表」P46)
<編者注> このほか、戦後(昭和20年代)には、全国的に停電が珍しくなかった / * 1946年(S21)3月6日、電力制限のため4日に1日停電(菅家年表) / * 1947年(S22)1月、全国的に隔日停電を実施
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「仙台年表」P222/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P40、P46
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プール |
昭和11年現在 |
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仙台市内のプール(昭和11年現在)
・ 愛宕プール(愛宕橋下)
・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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陸海軍の工場(宮城県内) |
多賀城海軍工廠 |
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<海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)
* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)
「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173
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仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
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「番丁詳伝」P150~151
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出稼ぎ者相談所 |
上野駅に開設 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)12月、宮城県は、県出身出稼者並に就職希望者相談所を上野駅前に開設(全国初)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P636
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陸海軍の工場(宮城県内) |
陸軍造兵廠(東京第一陸軍造兵廠仙台製造所) |
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<陸軍造兵廠>
* 1941年(S16)4月5日、陸軍造兵廠を仙台市原町に設置(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
<編者注>陸軍造兵廠の正式名称は「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」(場所は、戦後の陸上自衛隊苦竹駐屯地)
* 1941年(S16)4月5日、原町陸軍工廠の新設と呼応し、原町工業都市建設土地区画整理(520ha)認可 (「重訂 宮城県郷土史年表」P432)/ ただし整備は戦後に持ち越された / 関連して、S16年に仙塩街道(仙台~塩釜)開通(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365)
* 1942年(S17)から稼働、4つある工場では戦闘機の銃弾や薬きょうの箱詰、旋盤、プレス加工。 のち幸町にも第二工場を建設(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、最盛期にはそれぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P706/「重訂 宮城県郷土史年表」P432/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P365/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P173
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市場 |
中央マーケット(戦前) |
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昭和戦前期、東一番丁南部(通称大通り)にあった。
【「仙台大観(昭和10年刊」P43】
「大通りには1年を通じて毎夜、夜店が開かれ、夜の一番丁に一層の賑わいを呈し、傍らの「中央マーケット」には、コリントゲーム、玉突き、輪投げ、射的、演芸(無料公開)等があり遊芸場として昼夜雑踏を極めている。」
<参照>当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみ に、戦前期の大通りの夜店、中央マーケットの思い出あり
なお、戦後(昭和21年)に通称大通りに開設された「仙台中央公設市場」も、通称「中央マーケット」と呼ばれた。
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「仙台大観(昭和10年刊」P43
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祝賀行事 |
紀元2600年 |
1940年(S15) |
→ 項目「紀元2600年」参照
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仙台空襲 |
被害状況 / 死因 |
1945年(S20) |
<被害状況>
・焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う
・死者・負傷者はいまもって確定せず、最新(2020年現在)のデータでは、死者1399人、負傷者1683人
<死因> (1980年、岩倉政城医師による調査)
仙台北署に出された死亡届のうち、医師が死亡原因を記載した599人について、医師や看護婦、入院患者から聞き取り調査
・焼死303人、やけどによる死亡103人(火傷3~4の重傷者が多く、中には肌が黒褐色に炭化した人も)、焼夷弾直撃74人、防空壕内の炭酸ガス中毒死60人、やけどと破傷風併発5人、やけどと敗血症併発2人、やけどと細菌感染2人、溺死12人(大半は、飛び込んだ井戸内から出られずに)
<病院では>
・東北帝大附属病院
当夜は11の診療科で5~6人の当直医師が勤務 / 回復見込みのない患者は内科へ、やけどのひどい人は外科へ、早急に手術が必要な人は手術室へ振り分け / 手術した人の大部分は手足の複雑骨折で、消毒液がなく、井戸水をバケツリレーし、患部の泥を流しながら20数人を手術
・仙台逓信病院
ほとんどがやけどの人でその夜のうちに10人ほどが死亡 / 薬品も包帯も不足で、数日たつと患者の腐敗臭が部屋に充満した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220~222
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テレトピア構想 |
モデル地区指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)11月20日、仙台市がテレトピア・モデル都市に指定される
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「仙台市史 年表」P134/仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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プール |
長町プール |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)7月4日、仙台市営長町プール、鹿野の長町公園内に開設
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615
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空襲(宮城県内) |
塩釜空襲 |
1944年(S19)12月29日 |
<塩釜空襲>
* 1944年(S19)12月29日、塩釜に、B29、1機が油脂焼夷弾約500個を投下、焼失570余戸、被災者3200余人(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56)
* 1944年(S19)12月29日、B29、1機、塩釜市尾島町、南町、本町に小型油脂焼夷弾約500発(570発説も)を投下、441戸(483戸説も)2142人(2240人説も)が焼け出される / 警戒警報が解除になった直後で、早朝の空襲 / 隣組で用意していた防火用水は凍結していて役にたたず / 赤子1人がやけど、死者なし(「戦争のころ 仙台、宮城」P185~187)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P185~187
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主食配給量 |
変化 |
1940年(S15)~1948年(S23) |
* 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)
<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合
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戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701
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仙台空襲 |
空襲被災者への救援・収容・配給 |
1945年(S20)7~8月 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P323より
<罹災者収容先>
片平丁、八幡、東六番丁、連坊小路、上杉山通、五橋、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁、荒巻の各国民学校、巡査派出所など
<救援物資>(市配給課書類「配給・罹災関係」)
7月10日~11日、各地からの救援物資
・ 握り飯差し入れ 村田・燕沢・吉岡・塩釜・富谷・七北田・高砂・大沢・増田・大河原・根白石の各市町村、及び南警察署を通じて計2万2249個
・ 食糧営団から、米5俵と乾パン3万2250食
・ 山形県から、乾パン1万4000食
・ 漬物組合や納豆組合から、沢庵・納豆
・ 大崎地方事務所などから、むしろや縄
・ 気仙沼や桃生郡・牡鹿郡内から、米飯や干魚、サバ、マグロ
<罹災証明書> 被災者に公布され、非常用の米や味噌・醤油の配給券が配布された
<被災者への配給>
・ 7月10日、米・味噌・醤油
・ 7月14日、乾のり・焼きのり・コンニャク・下駄・石鹸
・ 7月15日、塩・下駄・草履・ろうそく・マッチ
・ 7月19日、タバコ、納豆・中古衣料品
・ 7月20日、ネル・タオルや縫い糸・縫い針・茶
・ 7月24日、ちり紙
・ 7月31日、傘
・ 8月初めになって、重要な工場・事業所の寄宿舎や全焼の被災家族に、鍋や食料品を配布
<病院や救護所へ>
・ 医薬品や冷凍魚、缶詰など配布
<乳幼児の死亡>
・ 救援物資は十分とはいえず、特に乳幼児の消化不良・栄養失調による死亡が増加
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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フェリー |
仙台港発 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月2日、太平洋沿海フェリー、苫小牧港・仙台港・名古屋港間で運航開始
* 1973年(S48)12月16日、新東日本フェリー、苫小牧港・仙台港間の運航開始
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始
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「仙台市史 年表」P128、P129/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P67
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
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仙台空襲 |
被災者への援助 / 避難先 |
1945年(S20) |
<被災者への援助、避難先>
・ 家を焼け出された約5万人
・ 仙台圏の多くの町村から非常食や善意の炊き出しを受ける / 避難所は、被災を免れた国民学校や一部焼失した国民学校の講堂 / その後、多くは親類縁者宅に避難 / 仙台市では、追廻練兵場跡に2年間で1876戸の簡易住宅を建設し、空襲被災者や海外からの引揚者に提供された
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
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テレフォンカード |
テレカ公衆電話登場 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)11月19日、テレフォンカード公衆電話を仙台市内6カ所に設置
* 1983年(S58)11月28日、仙台空港に、テレフォンカードによる公衆電話設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍教導学校 |
1927年(S2)~1943年(S18) |
* 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた
* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
総説 |
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一番町は南から北へ、1~4丁目まであるが、商店街としての一番町は2丁目以北で、3つの商店街で構成されている。 武家の町だった東一番丁が、明治期以降は次第に商店がつらなる繁華街となり、仙台を代表する商店街「東一番丁」となった。 1970年(S45)2月の新住居表示で、「一番町」となる。
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<参照>旧町名と新住居表示実施後の新町名の対比、実施年月日は、仙台市HPの 「旧町字名(地区名)一覧表と旧・新住所対照表(五十音順)」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/ichiran.html
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
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障害者福祉 |
施設完成など |
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* 1968年(S43)6月16日、宮城県総合福祉センターの合同庁舎を本町1丁目に建設し、業務開始
* 1983年(S58)4月、仙台市幸町の県障害者福祉センター完成
* 1984年(S59)4月28日、仙台市河原町に自閉症児専用施設「南材ホーム」完成
* 1984年(S59)4月、西多賀に仙台市精神薄弱者育成会福祉作業所開設
* 1985年(S60)4月13日、仙台市人来田に、県内初の障害者更生センター完成
* 1988年(S63)3月28日、テクノプラザみやぎ発足(宮城県の委託で「みやぎ障害者ITサポート事業」を実施する第三セクター、2019年に解散)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641/「続・ 宮城県郷土史年表」P161、P176、P190、P241
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福祉ボランティアのまちづくり事業 |
指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)7月8日、仙台市ボランティア連絡協議会結成
* 1985年(S60)10月、「福祉ボランティアのまちづくり事業」、仙台市が国に指定される
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「続・ 宮城県郷土史年表」P193/「仙台市史 年表」P134
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
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鐘景閣 |
開館 |
1985年(S60) |
* 1984年(S59)10月15日、茂庭荘で、旧伊達邸復元起工式
* 1985年(S60)10月8日、鐘景閣(しょうけいかく/旧伊達邸)を復元・落成
* 1985年(S60)10月10日、茂庭荘の敷地内に移築・復元された一本杉の旧伊達邸、鐘景閣として開館
* 1987年(S62)5月31日、仙台市の保存樹木、明和学院(錦町2丁目)の松・臥竜松(樹齢300年)を茂庭荘に移植
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195
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仙台空襲 |
焼失した学校 / 児童の犠牲者 |
1945年(S20)7月10日 |
<焼失した学校>
☆ 国民学校
・ 全焼(東二番丁、立町、西多賀、北五番丁)、一部焼失(木町通)
・ 上杉山国民学校は、南校舎や西校舎が被弾したが、教職員がバケツリレーで消火、焼失を免れる
☆ 旧制中学校など中等学校(全焼)
・ 育英中学(現・錦町公園の場所)、仙台商業、東北学院中学校(東二番丁)、仙台中学校、常盤木高等女学校(西公園近く)、宮城県第一高等女学校(元寺小路)、仙台女学校(現・白百合学園 元寺小路)
☆ 旧制高等学校など(全焼)
・ 旧制第二高等学校、東北学院神学部(南町通)
☆ 大学
・ 東北帝国大学(片平丁)は、法文学部、理学部、工学部の校舎の40%を焼失
<仙台空襲による児童(国民学校生)の犠牲>
・ 死亡 計86人(木町通国民学校22人、東二番丁18人、立町16人、ほか)
・ けが40人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P222~223
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