項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
|
|
住宅団地 |
中山ニュータウン |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)、中山ニュータウンの造成開始
* 1979年(S54)7月7日、中山商店街で100基の街路灯完成
|
仙台市立中山小学校HP/「続・ 宮城県郷土史年表」P98
|
|
仙台歌舞伎座(開明座) |
改装 |
1920年(T9) |
* 1920年(T9)7月、国分町の開明座が改装し、歌舞伎座として登場
<柴田量平「仙台・東一番丁物語」より>
・ 「国分町に歌舞伎座が開場したのは大正9年7月で、大正2年に建てられた開明座を改造整備したものであった。経営方針がよかったのか、収容観客数1,500人という大きさが手頃であったためか、以来仙台座よりは利用されることが多く、仙台の演芸・娯楽方面に多大の貢献をした。」
・ 同書明治編(昭和42年再版)P235の「明治、大正年間 仙台の劇場(一覧表)」に、「仙台歌舞伎座(国分町)、大正9年7月7日に開明座を改称」
|
「仙台市史 年表」P100/柴田量平「仙台・東一番丁物語」
|
|
鳥獣特別保護区 |
青葉山 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月3日、仙台市青葉山がチョウゲンボウ営巣地鳥獣特別保護区に指定
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P150
|
|
養賢堂 |
戦災で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
|
|
養賢堂 |
国史跡指定 |
1922年(T11)~1951年(S26) |
* 1922年(T11)3月8日、国の史跡に指定
* 1951年(S26)12月26日、史蹟指定を解除(戦災で焼失)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P384、P553
|
|
銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/第一勧業銀行 |
1952年(S27)/1971年(S46) |
* 1952年(S27)6月13日、日本勧業銀行仙台支店を東二番丁・大町角に新築移転
* 1971年(S46)10月1日、第一勧業銀行発足(日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併)
|
/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
|
|
住宅団地 |
向陽台団地 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)、向陽台団地、造成開始
|
「仙台市史 年表」P126
|
|
朝鮮人移入労働者 |
宮城県関連 |
昭和10年代後半 |
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(「特高警察から宮城県知事への報告」 昭和17年10月?)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
・ 戦争がはじまって日本国内で労働力が不足すると、政府は国内の鉱山、土木作業の経営者に朝鮮人労働者の集団連行を許可します。昭和19年2月の「宮城県知事引継書」によると、宮城県内には朝鮮人が6405人住んでおり、このうち「国民動員計画による移入労働鮮人」は1601人、内訳は菅原組多賀城出張所728人、同矢本出張所115人、三菱細倉鉱業所365人、西松組塩釜出張所349人、小原出張所44人。県全体で137人(4.9%)が逃亡しており「特高警察」は一斉取締りを実施して探しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
・ 移入朝鮮人労務者(「特高警察から宮城県知事への報告 昭和20年」より) 国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている(「戦争のころ 仙台、宮城」P202)
・ 「なぐられ、監禁されて働かされた朝鮮人労働者」
当時、多賀城海軍工廠の現場(菅原組多賀城出張所)で働いた朝鮮人の道然圭(グヨンギュ)さんの証言(「多賀城市史」から引用)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74、P160、P202
|
|
用語(皇居と宮城) |
用語の使用はいつ始まったか |
1888年(M21)/1948年(S23)7月 |
* 1888年(M21)、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示
* 1948年(S23)7月1日、宮内庁、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示を廃止
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
|
|
アメリカシロヒトリ防除 |
防除開始 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)7月2日、防除本部設置し駆除開始(アメリカシロヒトリが、八木山、北山、東仙台など郊外にも広がる)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P633
|
|
朝鮮戦争 |
開戦~休戦 |
1950年(S25)~1953年(S28) |
* 1950年(S25)6月25日、開戦(北緯38度線で戦闘開始)
* 1950年(S25)8月25日、朝鮮特需はじまる(菅家年表)
* 1951年(S26)7月10日、休戦会談、開城で開く(~8.23戦闘は続く)
* 1951年(S26)10月25日、朝鮮休戦会談、板門店で再開(会談中戦闘続く、戦局膠着状態)
* 1953年(S28)7月27日、朝鮮休戦協定調印
戦後(S20年9月から)仙台など県内に進駐した占領軍(進駐軍=米軍)将兵は多い時で1万5000人(2万人説もある→後述)に達したが、朝鮮戦争開始後は、大幅に減った /「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P29、P30、P32/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P551/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/「市民の戦後史(仙台市)」P72
|
|
ビル建設 |
住友生命仙台ビル |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)3月1日、住友生命ビル完成(中央4丁目)/ 地上19階建て、高さ67.3mで、当時は東北一の高さ
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P27/Wikipedia「住友生命仙台中央ビル」
|
|
用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
|
「東洋経済新報社 百年史」P647
|
|
ありのまま舎 |
設立 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)、任意団体「ありのまま舎」設立
* 1975年(S50)、映画「車椅子の青春」制作/第1回日本赤十字映画祭長編部門最優秀賞受賞
* 1982年(S57) 映画「続・車椅子の青春(忘れられた一日)」完成
* 1986年(S61)、社会福祉法人「ありのまま舎」設立
* 1987年(S62)、身体障害者自立ホーム「仙台ありのまま舎」開所(西多賀4丁目) / 4月5日、入居式
* 1989年(S64)、付帯施設「障害者自立センター」開所
* 1999年(H11)、第1回「ありのまま舎自立大賞」設立(以後毎年開催)
* 2013年(H25)、県南ありのまま舎、名取ありのまま舎(相談支援事業)開設
このほか、製作映画、出版、受賞など多数あり
|
「社会福祉法人ありのまま舎」ホームページhttp://www.arinomama.or.jp/menu1_2.html
/「続・ 宮城県郷土史年表」P153、P221
|
|
銀行(都市銀行) |
東洋信託銀行 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)10月8日、東洋信託銀行仙台支店が東五番丁・名掛丁角に新築移転
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P23
|
|
住宅団地 |
泉ニュータウン(泉パークタウン) |
1969年(S44) |
泉パークタウンは、泉町(1971年に泉市)の黒川丘陵上に三菱地所グループ(子会社を含む)が計画したニュータウン事業 / 住宅供給だけでなく、工業団地、ゴルフ場、スポーツ施設、大規模商業地区、大学等を含む複合開発事業
* 1969年(S44)、事業開始
* 1972年(S47)7月15日、生協チェーン泉向陽台店オープン
* 1974年(S49)から、高森地区で入居開始
* 1985年(S60)10月9日、スポーツガーデン1期工事落成式
|
「仙台市史 年表」P126/Wikipedia「泉パークタウン」/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P195
|
|
ビル建設 |
興和ビル |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、青葉通りに面した興和ビル完成 / 地上15階建て、高さ63.8mで、当時は仙台3番目の高さ / 日本興業銀行がある / 建物南側の滝と緑の「フラタニテ・パーク」が市民に開放されている
|
「番丁詳伝」P211
|
|
用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} |
用語の使用はいつ始まったか |
1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた
・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17
|
|
銀行(都市銀行) |
太陽神戸銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月8日、太陽神戸銀行仙台支店開設
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P81
|
|
住宅団地 |
生出ニュータウン構想中止 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月29日、島野市長が生出ニュータウン構想中止を発表
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P15
|
|
チリ地震津波 |
被害 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)5月24日、三陸沿岸に来襲し、大船渡市、志津川町、女川町などに大被害(三陸一帯で死者119人、流失家屋1,571)
・ 仙台市は被害なし(「仙台市史 続編第2巻」P288)
* NHKテレビ、七ヶ浜村、花渕浜から中継 / 特別番組を6月1日まで実施 / NHKたすけあい、医療巡回実施
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P596/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P35/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
|
|
養種園 |
開園 |
1900年(M33) |
<伊達家が開設>
* 1900年(M33)年4月、伊達家養種園、伊達邦宗により開設(保春院前丁) / 品種改良を目的に国内、欧米各地から種子・苗木を求めて品種改良をはかり、仙台白菜の品種としての固定化、ソールダムの紹介普及、めん羊の試験飼育など各種の先駆的試験栽培、飼育を行い、これを県農会や各農家に分譲配布
<仙台市が借受け → 買収>
* 1943年(S18)、戦時中中断したので、仙台市が借受け、本来の研究とともに市立動物園の動物用餌を栽培(動物園は戦争激化によりS20年4月閉園)
* 戦後、「仙台市指導農場養種園」と改称
* 1955年(S30)(またはS31年)12月、仙台市、伊達家から借用していた養種園を買収(4万㎡)、「仙台市養種園」とする / 育種研究を都市近郊農業にふさわしい果樹、球根、花き類に重点を置き、あわせて市民対象の園芸講習会、バラまつり、チューリップまつり開催、球根、種苗の販売、植物ドック開設など
* 1973年(S48)9月1日、養種園に真山青果文学碑除幕式
<仙台市農業園芸センター>
* 1989年(H1)6月17日、仙台市、仙台市養種園を発展・改称した仙台市農業園芸センターを荒井に開設
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206、P658/「仙台市史 年表」P91、P119、P136/「続・ 宮城県郷土史年表」P23/「市民の戦後史(仙台市)」P95(バラ祭り)
|
|
安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・学生たちの抗議 |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536より転記>
「1960年(S35)の日米安全保障条約改定反対闘争(安保闘争)では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生ともに東北大学の教官が抗議デモに参加したことでも注目された。6月15日の国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生樺美智子さんが死亡した事件への抗議デモでは、青葉通りに3000名の学生が集まった。」
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
|
|
銀行(都市銀行) |
東海銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P88
|
|
住宅団地 |
名取が丘ニュータウン |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月5日、名取市にオープン
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P18
|
|
仙台空港アクセス鉄道 |
開業 |
2007年(H19) |
* 2007年(H19)3月18日、仙台空港アクセス線 (通称、仙台空港アクセス鉄道)、開業
JR仙台駅と仙台空港とを最短17分で結ぶ鉄道路線で、次の2路線から構成される
・ 仙台駅~名取駅は、JR東日本東北本線
・ 名取駅~仙台空港駅は、仙台空港鉄道仙台空港線
JR東日本と仙台空港鉄道が、仙台駅~仙台空港間で相互乗り入れ
|
仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台空港アクセス線」(2020年8月)
|
|
ビル建設 |
マルカンビル(解体) |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月、解体
|
「わが心の仙台駅前史」P90
|
|
洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
|
|
安保反対闘争(1970年) |
70年安保闘争・仙台の動き |
1970年(S45) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対運動」より転記>
* 1970年(S45)6月23日、安保破棄県民集会(仙台市錦町公園)、社会・共産両党、労働組合、学生など125団体1万1000人参加 / 安保破棄を目指す宮城県学生総決起集会(東北大学構内)には在仙台各大学の学生3000人が集会・デモ行進後、県民集会に合流 / 6・23仙台学労総決起集会(全共闘系、仙台ベ平、反戦青年委員会など2800人)
・このほか、大学のストや討論集会も盛ん
・6月23日、安保条約は自動延長となる
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P541
|
|
住宅団地 |
愛子団地 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)9月1日、発売(宮城町)
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P32
|
|
仙台空襲 |
事前に防火帯づくり |
1945年(S20) |
<事前に防火帯づくり(仙台)>
・ 鉄道沿線や込み入った住宅街などが指定され、建物を取り壊す
・ 第1次分 対象は1067戸
「重要施設周辺」=清水沼、長町八本松など
「消防道路」=南光院丁西側
「鉄道沿線」=元寺小路X橋(エックスバシ)からキリンビール工場までと、五橋、専売局前から南染師町までの2地区
・ 解体作業は建設業者や、隣組を母体に編成された国民義勇隊、学徒勤労動員の学生生徒 / 仙台駅付近は7月9日が完了予定
・ 第2次分を7月9日に指定(仙台市中心部約2万4000坪、2063戸、8294人を指定し、細横丁、元寺小路など狭い道路に面した家屋を第二師団の工兵隊が取り壊す予定だったが、翌日(7月10日未明)の空襲で対象地域は全焼
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210
|
|
ビル建設 |
第一生命タワービル |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)5月30日、第一生命タワービル竣工(地上21階、高さ92.2m)
* 1985年(S60)5月31日、敷地に、彫刻「天の花」(空充秋作)を建てる
* 1985年(S60)12月20日、ビル1階に、佐藤忠良作「娘の像」設置
タワービルは、旧・仙台市立病院跡地の再開発で、東を東二番丁通り(国道4号)、北を市道区画街路南58号線、西を三越通り(一番丁通り)、南を森徳横丁で囲まれる区画のうち、北東と北西の角地部分を除いた区画のほとんどを占有して建つ / 当時は東北地方では最も高い90m級・地上21階建ての超高層ビルとして完成した / 1989年(H1)2月に住友生命仙台中央ビル (SS30) (143.0m、地上31階)が登場し、高層ビル東北1位の座を明け渡した
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P191、P198/Wikipedia「仙台第一生命タワービルディング」
|
|
洋食屋(仙台) |
開店時期 |
大正~昭和初期 |
<大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
→ 項目「カルトン食堂」参照
<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載
ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
|
|
住宅団地 |
加茂団地 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)3月18日、起工式(泉市上谷刈赤坂)
* 1981年(S56)6月6日、公設小売市場開設
* 1988年(S63)4月、団地に加茂老人憩いの家完成
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P38/「続・ 宮城県郷土史年表」P130、P245
|
|
仙台空襲 |
米軍機が偵察 / 米軍が空襲予告 / 空襲前日に高射砲陣地構築 / 警報発令の体制 |
1945年(S20)5月~7月9日 |
<仙台空襲の前触れ>
* 1945年(S20)5月25日、米軍F13A(写真偵察機)、仙台市街地を撮影
* 米軍が事前に空襲予告(日本むけ米軍短波放送で「7月9日、仙台にお邪魔しますから疎開するように」と繰り返し放送 / 空襲予告ビラを投下「仙台よい町森の町 七月十日は灰の町」など / 空襲前日にも上空からビラを撒き予告
<前日に高射砲陣地構築>
* 1945年(S20)7月9日朝早く、仙台駅に軍用列車で高射砲21門、探照灯18基と、高射砲隊(2個大隊)が到着 / 列車は長町操車場へ回送、長町諏訪と広瀬川河畔の飯田団地、原町の現NHKアンテナ付近に高射砲陣地を構築(「戦争のころ 仙台、宮城」P210)
<警報発令の体制>
・ 東北軍管区司令部防空作戦室(仙台市川内)が新潟を含む東北7県の防空を担当 / 軍人や女子防空通信隊ら100人が交代で勤務 / 各県の防空監視哨から警察を通じて敵機の動静が電話で入ると、空襲警報が作成され、隣の部屋に待機している日本放送協会のアナウンサーに渡され、ラジオで警報が放送される仕組み(「戦争のころ 仙台、宮城」P212)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P207~P210、P212
|
|
ビル建設 |
1・4・1ビル |
1987年(S62) |
* 1985年(S60)4月17日、一番町4丁目市街地再開発ビル起工式
* 1987年(S62)3月21日、一番町4丁目に「1・4・1ビル」オープン(東北地方初の総合ファッションビル)
* 1987年(S62)4月1日、ビル内に、仙台市消費センター開設 / 同日に、「エルパーク仙台」(県婦人文化センター)開館
* 1987年(S62)7月25日、141ビル屋上に「仙台城の艮櫓(うしとらやぐら)の十分の一模型」を復元展示
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P190、P220、P221、P227/「番丁詳伝」P225
|
|
幼稚園 |
木町通小附属幼稚園/公立仙台幼稚園/東二番丁小附属幼稚園 |
1879年(M12) |
明治12年開園の仙台最初の幼稚園(名称の変遷)
全国で2番目、公立幼稚園では全国1番目
(1) 1879年(M12)6月7日、仙台区木町通小学校附属幼稚園が、定禅寺通櫓丁に開園(仙台で初)
(2) 1984年(M17)、公立仙台幼稚園(仙台区南光院丁) / 園児は、男子29名、女子22名
(3) 1986年(M19)、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる(場所は東二小敷地内)
(4) 1896年(M29)3月28日、東二番丁尋常小学校付属幼稚園、独立して仙台市立幼稚園に
(5) 1916年(T5)4月1日、仙台市立仙台幼稚園、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる
(6) 1939年(S14)年2月28日、東二番丁小学校付属幼稚園改築工事竣工
(7) 1941年(S16)4月、園名を「仙台市立東二番丁国民学校附属幼稚園」と改称
(8) 1945年(S20)7月、太平洋戦争の空襲激化に伴い休園、7月10日の仙台空襲により園舎全焼、一時片平丁小学校に移り、一部を借り受け授業を行う
(9) 1945年(S20)12月、父母有志による「東二番丁小学校父母教師会立幼稚園」として復興、園舎落成
(10) 1974年(S49)3月、仙台市立東二番丁幼稚園として設立認可
(11) 2010年(H22)4月、民営化し、私立幼稚園に改組(場所は東二番丁小学校内で変わらず)
|
(1)「仙台市史 年表」P83、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P368/(1)(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P442/(4)「仙台市史 年表」P89/(5) 「仙台市史 年表]P97/(6)「仙台市史10 年表」P295/そのほかは、Wikipedia「東二番丁幼稚園」(2016年4月)
|
|
遺児の日 |
|
1939年(S14) |
<戦争遺児代表が靖国参拝 ~軍人援護会、厚生省主催の「遺児の日」~>
* 1939年(S14)8月6日、第1回対面、仙台市からは立町、榴岡、南材木町小学校の遺児6名が選ばれ靖国神社に参拝 / 感想文「社頭に額づく」あり(「仙台市史 続編第1巻」P11~12) / 全国からは戦没者遺児代表(1324人)が父の英霊と対面するため上京、靖国神社へ(日録20世紀1939年)
* 1940年(S15)3月29日、第2回、仙台市から31名、宮城県内から124名が参加 / 全国からは、3191名(男子1634名 女子1557名) 宮城遙拝(聖寿の万歳三唱)、皇后陛下の御下賜品の伝達、朝香宮殿下の御言葉、靖国神社参拝(週刊20世紀1940年)
* その後も回を重ねるごとに人数が増えた
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P11~12/「日録20世紀 1939年」P30/「週刊20世紀 1940年」P23
|
|
金属回収 |
街灯 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
|
|
住宅団地 |
みやぎ台ニュータウン |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)、宮城町に、みやぎ台住宅団地造成
* 1987年(S62)4月6日、みやぎ台簡易郵便局完成
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P221
|
|
仙台空襲 |
米軍機、テニアン島を発進 / 警報発令 |
1945年(S20)7月9日 |
<仙台空襲(米軍機発進)>
* 1945年(S20)7月9日午後5時14分、マリアナ諸島テニアン島の西基地から、第58航空団B29爆撃機123機が離陸(1機は離陸に失敗し離脱) / 午後11時半すぎ、千葉県房総半島沖に到達、福島県相馬市松川浦上空からやや西に転じ亘理、岩沼を経て仙台へ
<警報発令>
* 1945年(S20)7月9日午後9時30分、東北南地区(宮城、福島両県)に警戒警報発令、10時22分に解除(仙台周辺の天候、風向き観測のため飛来したB29(1機)に対応した警報だった)
* 大編隊に対しては空襲警報発令が遅れた
午後10時56分警戒警報発令、10日午前零時5分に空襲警報発令され、仙台では市役所屋上からのサイレンが4回鳴ったところで途絶える(すでに空襲始まっており、爆撃で電線が切断されたため) / 警報が遅れたのはこの夜の当番の判断ミス
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P210~212
|
|
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン |
ツルヤ洋菓子店 |
1912年(M45)~1933年(S8) |
* 1912年(M45)7月27日、開店(1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーン)
* 1915年(T4)、ツルヤ洋菓子店は、仙台ではじめてシュークリームを販売
* 1933年(S8)3月、付近の映画館「仙集館」から火災で類焼し閉店
【「仙台はじめて物語」P74~75】
・ 場所は戦後の靴店アピア満足屋のあたり / 開店は、年号が大正に代わる3日前 / 洋館造りは東北帝国大学の文部技官中島仙太郎の設計、夜はイルミネーションが点灯
・ 「ツルヤ洋菓子店」は、大正4年に仙台で初めてシュークリームを販売したり、ロバに曳かせた赤塗りの箱馬車で、焼きたてのパンや洋菓子を配達するなど、常に評判を呼ぶ店だった。 新製品「仙台豆」の袋入り(20銭)を買うと景品に「仙集館」の二等席の映画券1枚がついた
・ ツルヤ洋菓子店は、カフェクレーンの桜井常吉の妻はるの弟中林源助が経営
【座談会「みやぎの洋菓子60年」P21】
・「ツルヤ」のベビーシュー(シュークリーム)は有名だった。 トテ馬車と言って、箱馬車でパンを配達して有名でした。大正の頃のことです。
|
「仙台はじめて物語」P74~75/座談会「みやぎの洋菓子60年」P21(掲載誌は不詳)/「重訂 宮城県郷土史年表」P377
|
|
泉ヶ岳勤労者野外活動センター |
開館 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)9月、泉ヶ岳勤労者野外活動センターが開館
|
「仙台市史 年表」P132
|
|
住宅団地 |
仙台南ニュータウン |
1976年(S51) |
* 1976年(S51)4月10日、分譲開始
* 1978年(S53)4月、団地内に公設市場オープン
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P53、P80
|
|
幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
|
明治42年の「仙台市統計一班」
|
|
泉岳少年自然の家 |
開設 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)6月15日、泉ヶ岳に仙台市泉岳少年自然の家を開設
|
「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P20
|
|
金属回収 |
銅像「壮行式」 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)8月10日、仙台市内にある知名人の銅像・胸像52体、市役所で「壮行式」をあげて供出
元首相斎藤実、元枢密顧問藤沢幾之助、元貴族院議員伊沢平左衛門、元衆議院議員氏家清吉、元東北帝国大学総長本田光太郎、当時の市長今村武志、元仙台市長早川智寛、元仙台市議小西利兵衛、河北新報社社長一力次郎、大内合資会社社長大内源太右衛門など /このうち伊沢氏の胸像だけで20体あった。
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36~27/「仙台市史 年表」P112
|
|
住宅団地 |
茂庭住宅団地 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)10月16日、仙台市茂庭で起工式(鶴ケ谷団地に次ぐ規模)
* 1984年(S59)6月、団地内に中央公園完成
* 1987年(S62)5月7日、団地に茂庭台診療所開所
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P86、P178、P224
|
|
仙台空襲 |
空襲の状況 |
1945年(S20)7月9日~10日 |
『仙台市史 特別編4 市民生活』P318~319より
<空襲時の状況>
・警戒警報サイレン(7月9日に3回)
午前9:38(5時間後に解除) / 午後9:30頃、米空軍爆撃機B29(2機)松島湾上空を旋回 / 午後10:56(このころ松島湾上空にマリアナ基地発進のB29結集しはじめていた)
・空襲(7月10日)
午前0時ごろ、120機以上が3機ないし5機の編隊で、仙台上空へ到達し焼夷弾投下 / 空襲警報サイレンは(7月10日)午前0時5分から4回鳴らした時点で電力線断絶
仙台北警察署の記録(警察望楼台から当番警察官と学生挺身隊員が観測)では、米機来襲は、午前0:03~2:03の間に、2分~12分以内の間隔で波状攻撃を25回繰り返し、焼夷弾は、最初は市中心部に、後半は東部と南部地域に集中して投下されたように見えたという
・気象状況(10日午前0時~1時)は、快晴、気温15.7度、湿度79%、北西から0.9mの風 / 以後、夜明けまで、風は東2.7m→北北東2.3m→北北西1m→北西1.3m→北北西3.7mと変化、湿度はまず82%まで上がり、その後火災の中で68%まで低下
・「戦災関係綴り」によると、投下されたのは油脂(ナパーム)性焼夷弾50㎏級と100kg級、小型エレクトロン焼夷弾が混用されていた
<米軍の被害 日米の発表比較>
・ 東北軍管区司令部発表(7月11日):来襲した米軍機70機のうち、5機を撃墜、12機を撃破(これは事実ではなかった)
・ 米側の資料(米国立公文書館提供):(B29)6機損傷のみで、迎撃した日本軍機は1機のみ
・ 米軍資料には、「対空砲火で5~6%の損害をうけた」「帰還時に小破した6機と事故、損傷機あわせて13機が中継基地の硫黄島に不時着した」(「戦争のころ 仙台、宮城」P226)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P318~319/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P226
|
|