項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
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街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
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街灯(旧・大町四丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町4丁目の街灯は1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ、アームは道に直角)/ T14年頃の写真 43-25 には街灯はなかった / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
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53-46、22-52、20-46、20-47
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街灯(停車場前通り) |
戦前 2灯型 |
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戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ)
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99-020、44-10、44-09、64-04
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街灯(東一番丁南部) |
戦前 4灯型 |
設置年不詳~1945年(S20)
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東一番丁南部(旧大通り地区=大町通角~南町通角の間)の街灯
戦前>
* 設置年不詳(ただし、S7年の絵葉書(20-37 藤崎西館完成記念)では、1基4灯型の街灯が写る)
・ 同じ東一番丁のスズラン灯でも、中央通(大町通)角を境に街灯の形が違った
・ 大町角以南の通称「大通り」は統一され、4灯タイプ(上1、下3)で、「わかもと」の遠景の宣伝看板がついていた
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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20-37、20-45、22-55、53-38、22-59、夜景は99-019、52-01
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街灯(東一番丁北部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁通り北部(立町角以北)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置 / 通称「スズラン灯」(1基5灯型、電球の傘が筒型)
・ 写真 22-51 (三越付近)、 99-052 (栄亭付近)、 99-037 (富士屋洋品店付近)など
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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61-16、22-51、53-34、53-13、53-23、99-041、99-052
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街灯(東一番丁中央部) |
戦前 5灯型 |
1928年(S3)~1945年(S20) |
東一番丁中央部(立町通角~大町通角の間)の街灯
戦前>
* 1928年(S3)、東北産業博開催にあわせ新たに設置
・ 東一番丁通り中央部(立町通角~大町通角の間)の「スズラン灯」は1基5灯型(電球が球形と釣鐘型がある)
* 1942年(S17)8月、東一番丁の街灯(スズラン灯約200本、約7万貫)も「愛国回収」と称して供出
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26
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99-018、61-11、11-03、/傘が釣鐘型は、20-25、99-037
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街灯(東一番丁・南町通角以南) |
戦前 5灯型 |
設置年不詳~1945年(S20) |
戦前>
* 設置年不詳
・ 1基5灯のスズラン灯は東一番丁(立町角以北)のとよく似ているが、上部アームのデザインが異なる
* 仙台空襲(S20年7月)で焼失
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53-89
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街灯(芭蕉の辻) |
戦前 5灯型 |
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戦前> 道の両側に真新しい(白い柱の)街灯が建てられた / 昭和3~4年頃の写真53-49「芭蕉の辻と市電芭蕉の辻線」には写る / 1基5灯型(四方へ4灯、上に1灯)
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53-49
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国鉄(常磐線) |
戦前・戦後 |
昭和末年まで |
<戦時中>
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月または12月、唯一の急行列車も廃止)
<戦後>
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始
* 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休
<戦後・電化>
* 1967年(S42)10月1日、常磐線電化完成
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Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/「重訂 宮城県郷土史年表」P635
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国鉄(仙山線) |
戦前・戦後 |
1926年(T15)~昭和末年まで |
* 1926年(T15)4月、着工
* 1929年(S4)9月24日(または29日)、仙台~愛子間で営業開始(9月29日、北仙台駅開業)
* 1931年(S6)8月30日、愛子~作並間開通
* 1932年(S7)7月25日、東仙台駅開設
* 1934年(S9)10月17日、仙山西線、羽前千歳~作並間開通
* 1936年(S11)1月28日、面白山トンネル工事で建設列車が鉄橋から転落、60余人死傷す
* 1937年(S12)11月10日、作並~山寺間の工事完了し、全線開通(仙台~作並~山寺~山形)、全線で電気機関車運転開始
<戦後>
* 1957年(S32)7月1日、交流電化完成(日本初)
* 1957年(S32)9月5日、仙台~作並間、交流電化による運転開始
* 1958年(S33)2月24日、世界初の交直両用電車の試運転開始
* 1960年(S35)11月1日、仙山線全線交流電化が完成(日本初の全線交流電化)
* 1984年(S59)2月1日、国見駅・北山駅開業(当初は無人駅)
* 1986年(S61)7月7日、仙山線に自動式ドア採用
* 1987年(S62)3月21日、西仙台ハイランド駅開業
* 1988年(S63)11月18日、東照宮駅開業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P564/「仙台市史 年表」P105、P109、P120、P121、P135/「仙台市史10 年表」P284/「重訂 宮城県郷土史年表」P416、P427、P450、P460、P585、P598/「仙台年表」P200、P203、P207/「続・ 宮城県郷土史年表」P172、P208、P220、P253/「新・目で見る仙台の歴史」P147(カラー、北仙台駅)
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「市民の戦後史(仙台市)」P99(S32年9月、祝交流電化と表示かかげた電気機関車、熊ヶ根鉄橋を行く電気機関車)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201(祝交流電化と表示かかげた電気機関車)
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東北学院(沿革) |
戦前期 |
1891年(M24)~1945年(S20)夏 |
<東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置
<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う
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「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂)
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仙台市の工業 |
戦前期 |
大正~1945年(S20)8月 |
<大正末期に立地>
仙台市に、山文製作所(若林4丁目/サッシ類、汽缶類)、本山製作所(堤土手下/ポンプ、汽缶、精密機器類)、東洋刃物(米ケ袋下丁/製紙用、パルプ用の裁断ナイフ)が立地
<昭和戦前期の立地>
・東北金属(S8年、市内郡山諏訪/マグネット、通信機器材料)、東北特殊鋼(S11年、長町7丁目/高速度鋼、合金工具鋼、耐熱鋼)立地
・ 昭和戦前期と終戦時の工場名一覧(「仙台市史 続編第2巻」P661)
<1940年(S15)6月、「仙塩地方開発総合計画概要」(宮城県土木部、金森構想)> 釜房ダム、仙台内港開削、塩釜港修築し1万トン岸壁新設、貞山堀拡築、道路改良、動力は常磐、北海道の石炭と電力使用、緑の工業地帯(大代、蒲生、深沼に3工業地区、貞山堀東岸全部と西岸の数か所に緑地造成、工場地帯には帯状の公園広場) / 戦争激化で実現せず
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~664
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P365(T4年、山田機業場工場内部)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P491(茂庭製糸工場操業風景
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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二十人町 |
戦後 |
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・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店
しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった
* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120)
<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転
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「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120
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二十人町の七夕仕掛け物、75-01、75-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー)
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三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
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三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については
→ 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25)
* 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36)
* 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26)
* 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41)
* 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開
* 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開
* 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる
* 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開
* 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活
* 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる
* 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売)
* 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符)
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1950年(S25)3月17日、魚の統制撤廃きまる
* 1950年(S25)3月26日、政府供出後の麦自由販売を決定
* 1950年(S25)5月1日、米以外の主食のパンなど自由販売となる
* 1950年(S25)6月5日、味噌・醤油自由販売(「重訂 宮城県郷土史年表」P543では、7月5日から)
* 1950年(S25)9月20日、衣料切符廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P544、「仙台市史10年表」P324)
* 1950年(S25)、人絹とスフ、綿布の統制解除、自由販売に(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1950年(S25)、この年、コンドームを配給統制品から解除(「菅家年表」P44)
* 1951年(S26)3月1日、雑穀の統制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)4月17日、衣料切符配給制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、民営の米屋が復活してくる(「菅家年表」P45)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P45/「仙台市史10 年表」P323、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P544/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1952年(S27)~1981年(S56) |
* 1952年(S27)4月1日、家庭用砂糖の統制撤廃
* 1952年(S27)5月8日、麦統制撤廃(6月1日、麦の自由販売実施)
* 1952年(S27)6月4日、国産金ペン万年筆の製造許可(「菅家年表」P46)
* 1953年(S28)10月14日、上野駅着各列車の主食一斉取締り、担ぎ屋260人、米250俵を押収(「菅家年表」P47)
* 1960年(S35)1月、米の値段が公定価格を下回り、米の配給辞退(「菅家年表」P54)
* 1960年(S35)10月、酒類の公定価格を廃止、自由販売制(「菅家年表」P54)
* 1964年(S39)6月1日、ビール酒類、25年ぶりに自由価格に(「重訂 宮城県郷土史年表」P614)
* 1966年(S41)、この年、外米の自由販売が始まる(「菅家年表」P60)
* 1969年(S44)4月1日、自主流通米出回る
* 1969年(S44)5月16日、閣議、自主流通米制度を決定
* 1972年(S47)4月1日、米を物価統制令の適用から除外
* 1981年(S56)6月11日、米穀通帳制度を廃止
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46、P47、P54、P60、P63、P75/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555、P556、P614/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/岩波ブックレット「年表 昭和史」P49
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国旗掲揚 |
戦後 |
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* 1945年(S20)8月、太平洋戦争で日本敗戦
* 1945年(S20)、連合国軍総司令部(GHQ/SCAP)の指令により日章旗の掲揚が原則禁止
* 1947年(S22)12月27日、GHQ,新年の国旗掲揚を許可
* 1948年(S23)4月1日、GHQ、国民の祝日の国旗掲揚を許すと通告
* 1949年(S24)1月1日、無制限に許可(「重訂 宮城県郷土史年表」P532)
<Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)より>
占領下における日章旗の掲揚禁止、祝日に限定した特例としての日章旗掲揚許可を経て、
* 1949年(昭和24年)1月1日、マッカーサーは日本の国旗の使用を自由とする旨の声明を発表。これより正式に日章旗の自由掲揚が認められるようになった。」
* 1950年(S25)10月17日、文部省、祝日に国旗、君が代をすすめる通達
* 1977年(S52)7月23日、文部省、小学校の学習指導要領で「君が代」を国歌と規定
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/Wikipedia「日本の国旗」(2020年5月)/岩波ブックレット「年表 昭和史」P29/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P42、P71
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自動車など発売年 |
戦後 |
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* 1951年(S26)、本田技研、4サイクル・オートバイ
* 1952年(S27)、本田技研、原付自転車
* 1952年(S27)、鈴木式織機(のちのスズキ自働車)、バイクエンジン車
* 1955年(S30)、トヨタ、トヨペット・クラウン(100万円以上)
* 1957年(S32)、ダイハツ工業、軽三輪トラック(3000キロ積) / 農家が農事用として購入はじめる
* 1957年(S32)、トヨタ、小型乗用車「コロナ」
* 1959年(S34)、富士精密(にちのプリンス自動車)、グロリア
* 1959年(S34)、富士重工、軽自動車「スバル360セダン」(通称、テントウムシ)
* 1959年(S34)、日産自動車、ブルーバード
*************************
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~417「三種の神器」には、乗用車のほか、各種の家庭電化製品の発売時期の記載、昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率(グラフ)あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P412~416
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P416(昭和39年の仙台市居住世帯の電化製品所有率グラフ)
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仙台市電 |
戦後(昭和20年代) |
1945年(S20)~ |
・ 戦時中運転した急行電車廃止、停留所を適正間隔に復活
・ 戦時中、軌道、車両、機械などを酷使した結果、輸送力低下し、使用可能車両は30両
・ S21年2月~、乗降口を一方口に
・ 悪性インフレの進行で料金値上 S21年4月(10銭)からS24年までに7回値上げ
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510
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街灯(南町通り) |
戦後 1灯型 |
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1959年(S34)~1965年(S40)頃の写真に写る
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201-12、201-13、201-14
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街灯(南町通り) |
戦後 2灯型 |
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戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
/ 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 )
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18-14、36-08
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街灯(旧・大町五丁目) |
戦後 3灯型 |
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戦後> 旧・大町5丁目の街灯は1基3灯型だが、戦前とは形が違う
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16-44
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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街灯(東一番丁中央部) |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、街灯が復活(1基3灯型)
・ 戦前に「番街」の名物でもあったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)を取りつけた
・ 同じスズラン灯型であったが、広瀬通角(立町通)以北と、広瀬通り角~大町通角間では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)/「番丁詳伝」P166
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16-41、16-43、18-12
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街灯(東一番丁南部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)?~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)?、街灯が復活(1基3灯型)
* 1954年(S29)、アーケード設置のため撤去
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「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-42、98-013、55-04、55-03、20-01-01、18-34、18-04、18-08
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第二高等学校(旧制) |
戦後、三神峯校舎時代/東北大に包括 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
<戦後 三神峯校舎時代>
* 1945年(S20)、仙台空襲(7月10日)で北六番丁校舎焼失後、旧仙台陸軍幼年学校の校舎だった三神峯校舎に移転
* 1946年(S21)2月23日、昭和18年から修業年限が1年短縮されていた中等学校を5年間に、高等学校と大学予科を3年間に復活(菅家年表P36)
* 1946年(S21)12月28日、第二高等学校寄宿舎(西多賀)焼失(「市史10 年表」P314)
<東北大学に包括>
* 1949年(S24)5月:新制東北大学設立にともない包括される(旧制二高三神峯校舎は分校第一教養部として引き継がれる)(東北大学HP掲載「沿革図」)
<記念碑など>
* 1976年(S51)10月23日、堤通雨宮町に、旧制二高創立90周年記念「雄大剛健之碑」除幕(続・郷土史年表P59)
* 1982年(S57)月日、上杉6丁目の旧制二高明善寮閉鎖(明治39年清水小路に、大正15年現在地へ移転)(「続・郷土史年表」P144)
* 1986年(S61)4月23日、仙台市三神峯に「二高尚志の碑」、除幕(「続・郷土史年表」P204)
* 1986年(S61)10月25日、仙台旧制二高創立百年で片平丁の東北大学キャンパスに「青年の像」除幕(続・郷土史年表P212)
<番外編>
* 1967年(S42)8月、仙台寮歌祭
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「仙台市史10 年表」P314/「続・ 宮城県郷土史年表」P59、P144、P204、P212/「菅家年表」P36/東北大学HP掲載「沿革図」/「仙台あのころこのころ八十八年」P255
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「市民の戦後史(仙台市)」P198(S42年8月の仙台寮歌祭)
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ひらつか(東一番丁) |
戦後、進駐軍専用店を経営 |
1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】
* 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設
* 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産
* 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得
* 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった
・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した
・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設
・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成
・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開
*****************************************
・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった
・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営
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「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から
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20-01-01、22-07、58-01、58-03
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瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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政宗卿騎馬像 |
戦後の復元 |
1964年(S39) |
* 1953年(S38)5月31日、仙台市観光協会が、政宗公騎馬像の復元を決める
* 1964年(S39)10月9日、復元騎馬像除幕式
・ 仙台観光協会が1700万円をもって政宗公の旧銅像を鋳型(元の原型)により再鋳造し、旧位置(青葉城本丸)に再建して除幕式を挙行
・ 市役所内に再建委員会が設けられ、島野市長が委員長となって広く募金 / 原型は、製作者小室翠雲の郷里柴田町船岡に保存されていた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P616/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185の写真51と、「市民の戦後史(仙台市)」P158に「復元なった騎馬像」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P85(S39)
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定禅寺通り |
戦後の拡幅工事完了 |
1967年(S42) |
* 1894年(M27)7月15日、仙台市会、市内の新道の名称を決議(定禅寺通、新常盤丁、桜小路など)
* 1954年(S29)4月、定禅寺通り、広瀬通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
* 1967年(S42)1月25日、定禅寺通り・広瀬通りとも全線開通
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「仙台市史 年表」P88/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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仙台市の農村・農業(戦後) |
戦後の緊急開拓事業 |
昭和20年代 |
・ 戦争終結にともない、外地からの引揚者や戦地から復員
した人々の受入れのため、未開発の原野や山林に入植させ、開墾開拓に従事させた。
・ 土地が与えられたとはいえ多くは「飢餓開拓」という様相で、作物の育ちの悪い中で耐乏生活を強いられた。
・ 仙台市内(昭和62~63年に編入した秋保町、泉市、宮城町を除く)の開拓組合は12で昭和23~24年に結成、入植戸数は昭和31年現在で計297戸(各開拓組合あたり10戸前後~36戸)
・ 開拓組合名は、青葉山、小松島、八木山、仙台北部、仙台市鶴谷、三神峯、芦ノ口、仙台市向山、坪沼、茂庭、生出増反、鈎取
・ 青葉山開拓地には1945年の23戸から、1965年までに55戸が入植した(『仙台市史』通史編8(現代1)P59)/ その後、東北大学の川内キャンパスの一部となり消滅した。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P656~657
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東北電力 |
戦後の電気事業再編成 |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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発電事業 |
戦後の電気事業再編成(東北電力に一本化) |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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仙台七夕 |
戦後エピソード |
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* 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出)
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「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31
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「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯)
NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
戦後・仙台一中対二中の野球定期戦復活 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場) / 戦時中は中断し4年ぶりに復活した定期戦で、戦後の東北地方では初の野球試合 / 32対27で二中の勝利、7回表までの試合時間が4時間50分 / 「野球用具の入手も困難な時期でスパイクをはいているのは選手の半数ぐらい、1塁塁審の二中OB氏は学生服と兵隊靴、3塁塁審の一中OB氏は復員姿そのままといったスタイルであった。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93
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宮城県図書館(戦後) |
戦後再建 |
1949年(S24) |
<宮城県図書館 再建>
* 1949年(S24)11月3日、空襲で焼失した宮城県図書館(大正元年建築)の後継として再建された「宮城県図書館」落成式(木造2階建て、宮城県庁の西隣、旧養賢堂跡)(「仙台市史 年表」P116)
<上記と名称、時期など一致しないが、「宮城県中央図書館」とした記述もあり>
* 1948年(S23)5月1日、「宮城県中央図書館」に、フィルム・ライブラリーを併置(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
* 1949年(S24)2月5日、「宮城県図書館」開館/旧伊達氏所蔵の文書・書籍(いわゆる「伊達文庫」)を収める(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261)
* 1949年(S24)2月10日、「宮城県中央図書館」復興し閲覧を開始(「仙台市史10 年表」P320、「重訂 宮城県郷土史年表」P533)
* 1949年(S24)10月、宮城県中央図書館を旧養賢堂講堂跡に復興新築、12月下旬に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P537)
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「仙台市史 年表」P116/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年版)
「宮城県中央図書館」と表記は、「重訂 宮城県郷土史年表」P526、P533、P537/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261
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07-01-01、22-37、53-16/「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(図13)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54(S37、左端の2階建て、カラー)
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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仙台市立病院 |
戦後復旧 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、看護婦養成所本館裏に、木造病舎とともに新築 / S23年から、養成再開
* 1947年(S22)10月、復旧し、屋上で市立病院戦災復興式 / 本館および南側地下1階、地上3階が復旧 / ベッド230床、外来患者1日400人以上 / 焼け野原の一角にクリーム色の病院が復興
* 1951年(S26)~1954年(S29)、増築・増床
・ S26年、南側病棟屋上に4階を増築
・ S28年6月、東二番丁に面した本館北側に鉄筋コンクリート5階建を増築
・ S29年7月、さらに北側に、地下1階、地上2階増築
(本館裏の木造病棟取り壊す)
・ S30年3月、前年度完成した上に3~5階部分が完成
* 東二番丁通り拡幅に伴い、玄関が道路拡幅部分にかかる
* 1956年(S31)10月3日、人間ドック開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P583)
* 1960年(S35)、人間ドックを、1週間から2日間に短縮
* 1960年(S35)、救急車購入
* 1963年(S38)6月、救急業務開始
* 1966年(S41)1月10日、救急センター落成(地下1階、地上4階建て、東北初の専門施設、一度に5人の手術可能)、
* 1980年(S55)7月、五橋に移転
* 1980年(S55)9月2日、建物解体始まる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P708~710、P712、P714、P716~717/「仙台年表」P217/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史10 年表」P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P583、P623/「続・ 宮城県郷土史年表」P116
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22-24(東二番丁通りの拡幅部分にはみ出した市民病院玄関)/ 「市民の戦後史(仙台市)」P182(救急病棟外観、手術室)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P13(S29)の左上の白いビル/同P40(S33年、空撮、画面上のL字型ビル)/同P60(S38、カラー)/同P86(S41)
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ネオンサイン
(戦後復活) |
戦後復活 |
1950年(S25) |
* 1949年(S24)3月、(全国)ネオン広告を全面解除
* 1950年(S25)12月、区画整理に伴う丸光(3階建)が仙台駅前(電車通り)に完成 / 東北で戦後始めてのネオンサインが点灯
* 1951年(S26)2月、電力事情悪化 / ネオン、エレベーターなどの使用禁止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43/仙台駅前商店街振興組合の歩み(年表)/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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53-82(S26~27年頃の仙台駅前夜景)
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広瀬通り |
戦後新設 |
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「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された
・ 幅員36メートル
・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した
* 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始
* 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ
旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404
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22-19、22-20、22-21、22-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近)
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東北学院(沿革) |
戦後期 |
1945年(S20)夏以降 |
* 1945年(S20)12月、東北学院航空工業専門学校を、工業専門学校と改称(S22年に廃止)
* 1946年(S21)4月、東北学院専門学校(英文科・経済科)を設置
* 1947年(S22)4月、新制中学校設置
* 1948年(S23)4月、新制高等学校設置
* 1949年(S24)、東北学院専門学校が昇格し東北学院大学(文経学部)に
* 1951年(S26)3月31日、東北学院専門学校廃止
* 1953年(S28)5月14日、南六軒丁にシュネーダー記念図書館竣工し献堂式(鉄筋コンクリート造3階建、書庫5階建)
* 1959年(S34)4月、榴岡に男子部の高校分校を設置
* 1972年(S47)7月、榴ヶ岡高校新校舎完成
* 1980年(S55)3月5日、中学校・高等学校構内(東二番丁)に、シュネーダー記念館完成
* 1986年(S61)10月1日、東北学院大学、泉キャンパス新校舎起工式
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校、宮城野区小鶴に新校舎完成し、東二番丁から移転
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「東北学院創立七十周年写真誌」P69、P70/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P320、P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P548、P564、P592/「続・ 宮城県郷土史年表」P12、P212/Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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シュネーダー記念図書館(南六軒丁)は、「東北学院創立七十周年写真誌」P63と、「目で見る仙台の歴史」P180
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仙台市の工業 |
戦後期 |
1945年(S20)秋~1969年(S44)頃 |
☆「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
「敗戦直後の仙台市の工業は、ゴムや金属などの一部を除いて、代表とさるべき業種が見当たらない。朝鮮戦争の特需ブームは、国内経済の復興に寄与することになったが、工業の立遅れていた仙台地域の経済にとって物価高という悪影響の方が強く現れている。
☆「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697の記載項目
<昭和20年代> P665~
・ 1946年(S21)12月の市内工業統計(分野別の工場数、従業員数、出荷額)
・ 1947年(S22)、1948年(S23)の市内地区別工場分布
・ 1948年(S23)当時の主要工場名一覧
・ 県総合3か年計画
・ 1950年(S25)末、市内の工場(工員規模)、500人以上は専売公社工場のみ、200人以上は6工場、市内540の工場は大部分が工員数人(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705)
・ 1954年(S29)、仙台市工場設置奨励条例(既存工場を助成し、中小工場の新設増設を支援)
<昭和30年代> P675~
・ 1960年(S35)4月、専売公社仙台工場(たばこ)完成
・ 1961年(S36)、仙台市工場誘致条例(P670~)
<新産業都市指定> P675~
・ 新産業都市指定にむけた運動
* 1963年(S38)7月、仙台湾地区が、他の12地区と共に新産業都市に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区、新産業都市建設区域に指定
・ 新産都市予定地区内に進出立地した新規工場一覧(S36年~44年に操業開始)
・ 仙台周辺住宅用地造成計画表(計画年次はS39~S45)
・ 工業用水道計画(S50)
<新都市計画> P684~
* 1966年(S41)3月、新都市計画(建設大臣より認可)
この計画は、新産都市・広域行政など時代に即応し、市に隣接した泉町、宮城町、秋保町の一部もエリアとした、20年後の都市づくり総合構想で、工業面では、新産都市計画が進行するにあたって、仙台バイパス沿いに内陸工業地帯を、苦竹に流通センターを配置 / 工業地域は、長町・郡山の市内南部、小田原など東仙台地区、仙台新港につづく市東部の3か所、準工業地域として仙台バイパス沿いに鉄鋼団地・自動車団地・印刷団地 / 流通センターは、卸売団地(卸商センター)、トラックターミナル、倉庫団地など
・ 1966年(S41)の市内工業統計
・ 1969年(S44)年4月現在の主要工場一覧
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P368/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P665~697、P705/「市民の戦後史(仙台市)」P90
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「目で見る仙台の歴史」P192(小田原折沢の専売公社仙台工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(S30年4月、専売公社仙台工場空撮)/同P201(印刷団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P197(印刷・機械金属・自動車の工業団地空撮、カラー)
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仙台ホテル |
戦後立て替え/閉業 |
1964年(S39)/2009年(H21) |
* 1964年(S39)5月10日、仙台駅西口前、青葉通り・愛宕上杉通り角(南東角)にオープン / 地上9階、地下2階
* 1964年(S39)、東京オリンピックに合わせ、9階建ての現在の建物が完成。仁王像一対は3階ロビーに移設
* 1985年(S60)、 ホテルを全面改装 / 同時に隣接して仙台ホテルアネックスビルを増築
* 1985年(S60)1月、ホテル5階に、「泉の庭園」設置
* 2009年(H21)12月31日、閉業
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「わが心の仙台駅前史」年表/「仙台市老舗百店史P126」/Wikipedia「仙台ホテル」/「続・ 宮城県郷土史年表」P188
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98-036、98-062/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P72(S39、カラー)
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仙台市営バス |
戦後(1) |
1945年(S20)~1964年(S39) |
<戦後>
・ 終戦直後は、23両のバス中、実働は11両のみ / 路線17系統、199キロ(終戦前より減少)
・ 1949年(S24)、24系統、247キロ、実働30両 / 仙台~作並間運転開始
・ 1949年(S24)4月22日、大型トレーラーバス(250人乗り)2台購入(輸送難解消のため)
・ 1950年(S25)、路線55、実働47両/市営バス案内所(駅前丸光デパート脇)開設/4月、貸し切りバス営業開始 / 仙北鉄道バス、秋保電鉄バスが市内に乗り入れ / 12月、広瀬通車庫と営業所開設(広瀬通東三番丁)
・ 1951年(S26)、65両 / 仙台駅構内乗り入れ廃止、発着場が青葉通、東五番丁周辺に移転
・ 1952年(S27)4月、市内定期遊覧バス運行開始 ※
・ 1953年(S28)、66路線、814キロ / ラッシュ時に重点的に増発、季節の催しものなどへ増発 / 定禅寺櫓町・細横丁角に車庫新設
・ 1955年度(S30)、乗車人員3000万人越え、対人口利用比率21.3%
・ 1956~1960年度(S31~35年度)、この間に路線拡大続き、110系統、9927キロ、49両増車 / 市中心部ビル建設、近郊丘陵地帯などに住宅団地造成で需要増大 / 霞の目車庫新設(仙台バイパス予定地脇)
・ 1961年(S36)、45両購入し在籍296両 / 東仙台車庫新設
・ 1962年(S37)、ラッシュ時混雑すさまじく、新車41両、中古35両購入、在籍350両
・ 1963年(S38)3月、七北田車庫落成 / 仙台駅前バス窓口案内所改築
・ 1964年(S39)、94両増車、在籍390両
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P520~525、P533
/※ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P182に、市内定期観光バスの遊覧コースなど記述/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P70(観光バス乗り場標識)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(仙台遊覧自動車案内パンフ)
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仙台市営バス |
戦後(2) |
1965年(S40)~1986年(S61) |
<ワンマンバス化>
* 1965年(S40)7月16日、市内路線のワンマンバス化を開始、12路線(台原線、川内線など)52両(全車両の13%)
* 1946年(S41)7月、新規に9路線40台/年度末には102両で、全体の25%
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)11月20日、バスは、中乗り前降りに統一
* 1975年(S50)9月1日、均一区間料金を50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月6日、団地10路線増便、7路線にワンマンバス運行
* 1976年(S51)、乗車人員、年1億616万人
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)11月23日、ひまわりバス実施
* 1981年(S56)3月、路線別プレート登場
* 1982年(S57)12月16日、人事院勧告凍結抗議ストで、346本運休
* 1982年(S57)12月24日、抗議スト1200本運休
* 1983年(S58)11月18日、仙台市交通局、全車スパイクタイヤ廃止で労使双方合意
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1984年(S59)7月1日、市営バスは、行き先表示に番号制実施
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1986年(S61)、乗車人員、年9206万人(10年前より13余%減)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P525/「仙台市史 年表」P124/「市電年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P620、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P34、P44、P45、P73、P85、P103、P125、P154、P168、P172、P178、P215/「仙台市史 特別編4 市民生活」P217
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201-08/「市民の戦後史(仙台市)」P167(ワンマン表示のバス)
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電話 |
戦後~公社化以前 |
1945年(S20)7月~1952年(S27)7月 |
<電信・電話>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、南町にあった仙台郵便局、仙台電話局が焼失 / 仙台郵便局内に、電信課があったが、仙台空襲で本局が焼失後、電信課、電話課は東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、「仙台非常措置局」として業務再開
* 1946年(S21)2月、郵便局から独立し、仙台電信局と名称変更、南町の仙台電話局3階に間借り
* 1947年(S22)2月、仙台電信局開設し、電信、電報、電話の各業務を一体化
* 1947年(S22)5月、仙台電信局、東二番丁・青葉通り北東角に新庁舎建築(木造2階建)へ移転
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 東北電気通信局設置(清水小路・五橋脇)
関連して、仙台電報局(東二番丁・青葉通角/仙台電信局を改称)、仙台電話局(東二番丁)、国際電話通話所開設(東二番丁) → 項目「仙台電報局」参照
<電話>
南町の仙台郵便局北隣にあった仙台電話局は、仙台空襲で焼失後、東北学院専門部(六軒丁)の礼拝堂地下を借用し、電信課とともに「仙台非常措置局」として業務再開 / その後、南町へ戻る(同3階に電信課が同居) /
* 1947年(S22)6月10日、東京~仙台間電話開通
* 1948年(S23)2月24日、アメリカとの国際電話開通
* 1948年(S23)7月、仙台~札幌間の電話線完成
* 1949年(S24)4月、国際電話通話所開設(背景に、米占領軍の強い指導)
* 1949年(S24)6月1日、逓信省廃止され、電気通信省と郵政省に分離 / 電信、電話業務は新設の電気通信省が運営管理 / 仙台電話局(南町から東二番丁に移転?)
* 1950年(S25)3月1日、仙台電話局、度数制通話に切替え
* 1951年(S26)9月、仙台市内の電話が自動式になる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P573~574、P579/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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「市民の戦後史(仙台市)」P202(改築前の電話局赤レンガ庁舎)/20-07(青葉通り・東二番丁角の仙台電報局)
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