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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
高等学校(新制) |
宮城学院高等学校(戦後) |
1946年(S21) |
<戦後 宮城学院高等女学校>
* 1946年(S21)7月10日、宮城高等女学校を「宮城学院高等女学校」に改称
* 1946年(S21)7月、専攻科が昇格し、宮城学院女子専門学校開校
<学制改革以後>
* 1947年(S22)4月1日、宮城学院中学校設置許可(東三番丁166に)
<宮城学院高等学校>
* 1948年(S23)、新学制により「宮城学院高等学校」を設置
* 1948年(S23)、ヘレン・ケラー来日、宮城学院にて講演
* 1949年(S24)、新校舎完成
* 1951年(S26)、「学校法人宮城学院」設立認可
* 1980年(S55)7月26日、東二番丁(現・中央4丁目)の宮城学院中・高校校舎お別れ式
* 1980年(S55)10月1日、宮城学院はキャンパスを東二番丁から桜ケ丘へ移転完了し、献堂式
* 1980年(S55)10月24日、講堂落成
* 1981年(S56)6月26日、赤レンガ大講堂解体始まる
* 2016年(H28)、創立130周年
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「宮城学院」HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P517、P541、P549、P590/「続・ 宮城県郷土史年表」P114、P117、P118、P130/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P39(S33年 空撮)
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師範学校 |
宮城師範学校(官立) |
1973年(M6)~1878年(M11) |
* 1973年(M6)11月17日、官立宮城師範学校が勾当台通に開校
* 1878年(M11)2月14日、同校廃止
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「仙台市史 年表」P80、P82
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「新・目で見る仙台の歴史」P138(宮城師範学校)
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師範学校 |
宮城師範学校(県立)に関する記述 |
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<宮城師範学校(県立)に関する下記二資料の記述は、「仙台市史 年表]の記述と、年が1~2年ずれている>
* 「明治の洋風建築-宮城県-」P59
「M6年に勾当台通り『仙台伝習所』が設けられ、M11年に『宮城県師範学校』と改称。M22に北一番丁に移り校舎を新築」
* 「宮城県百科事典」P1003
「(校名は数回の変遷を経ていることが詳細に記載され)M30年に『宮城県師範学校』と改称」
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「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「宮城県百科事典」P1003の「宮城師範学校」/
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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大学・短大 |
宮城教育大学 |
1965年(S40) |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立
年表は → 項目「宮城教育大学」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P218(S43年10月、青葉山に完成した宮城教育大学校舎群)
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宮城県図書館(戦前) |
宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失 |
1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20) |
<宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称
<勾当台へ移転>
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)
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99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」
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医療機関 |
宮城病院 |
1879年(M12) |
<施薬所→共立社病院→宮城病院→宮城医学校附属病院→再び宮城病院→東北帝国大学医学専門部附属医院>
* 1869年(M2)、仙台藩によって創設された医学校が、旧町奉行役宅に移り「施薬所」と称し、医者の養成と診療にあたる / 1971年(M4)7月、廃藩置県とともに廃止
* 1972年(M5)5月、中田斉と石田真、宮城県初の病院「共立社病院」を南町に創設(以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P394)
* 1879年(M12)5月1日、「共立社病院」が宮城県に移管される。
* この後に国分町に移転し、
* 1879年(M12)7月、病院を「宮城病院」、附属学舎を「宮城病院附属医学校」と改称 / コレラなど伝染病予防と治療に注力、県内の開業医対象に各地で医学講習会実施
* 1882年(M15)7月、宮城病院附属医学校が「宮城医学校」と改称 / 内科・外科・眼科
* 1882年(M15)9月、東二番丁に移転
* 1884年(M17)7月1日、宮城病院が「宮城医学校附属病院」となる
* このあとに元貞坂に移転し1884年(M17)9月29日に開院
* 1887年(M20)3月、宮城医学校廃止(文部省に移管)
* 1887年(M20)4月1日、附属病院は、再び「宮城病院」として開院(県が経営) / 旧制二高医学部の臨床実習場を兼ねる
* 1911年(M44)4月6日、宮城病院が北4番丁に移転(本館新築)、
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、「東北帝国大学医学専門部附属医院」となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P394~395/「仙台市史 年表」P83、P84、P85、P86、P95、P96
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婦人参政権獲得運動 |
宮城県 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦人参政権の芽生え>
* 1880年(M13)、名取郡長町村村会規則(村会議員選挙で、20歳以上の男女に等しく選挙権、ただし被選挙権は女性には認めていない) / 全国的に珍しい
* 1883年(M16)、成田うめ(清元師匠)が仙台自由党結成
<婦選獲得運動>
* 1930年(S5)6月10日、黎明婦人会が仙台婦選講演会(仙台市公会堂、講師:市川房枝) / 学生・未成年含めて300人の女性が参集
* 1931年(S6)、黎明婦人会による婦選獲得同盟演説会(講師:日本産児調節婦人同盟理事長の石本(加藤)静枝) / 毎年開催された婦選大会も戦時体制の強化の中で1937年(S12)1月の第7回で幕を閉じる
<戦後>
* 1945年(S20)10月15日、「河北新報」が「婦人参政権を語る」と題して、県内4人の女性たちの抱負を掲載
* 1945年(S0)11月29日~46年2月6日、「河北新報」が「婦人参政権講座」65回開設(講師:東北帝国大学教授陣15人)
<婦人文化クラブの啓発活動>
* 1946(S21)3月14日、河北新報社主催「婦人参政権座談会」(GHQ民間情報教育局企画部婦人課長のイセル・ウィードを囲み、仙台市中心に国民学校訓導、看護婦、事務員、主婦、農村女性など女性30人) / 参加女性たちが「婦人文化クラブ」結成し、総選挙に向け女性たち自身による啓発活動
* 1946(S21)3月30日、発会式(荒町国民学校講堂)では、各政党の立会演説会や模擬投票
* 1946(S21)4月7日、河北新報社従業員組合婦人部と共催で、市川房枝を招いて懇談会開催(会場:宮城女学校) / 労働組合、民主団体の婦人部、主婦など約60人参加
<戦後初の総選挙>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P507に、当日の様子記述あり ・ 投票率(宮城県): 男性78.6%、女性62.3%
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504(長町村村会規則)/同P507(昭和21年、戦後初の総選挙投票を伝える「河北新報」)
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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自動車 |
宮城県に登場 |
1903年(M36)/1909年(M42)/1910年(M43) |
* 1903年(M36)、この年、仙台市内に初めてオートバイが走る(「仙台あのころこのころ八十八年」P240)
* 1909年(M42)9月、有栖川宮、帝国水難救済会宮城県支部発会式で来県の際、幌付きフォードで仙台、松島を訪問(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
* 1910年(M43)2月12日、藤崎呉服店、宮城県内で初めて二人乗り幌型自動車(ドイツ製、時速37キロ、3000余圓)を購入し、仙台を走る(「仙台市史 年表」P95、「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
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「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215/「仙台市史 年表」P95
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(藤崎の宮城県第1号の乗用車)/「目で見る仙台の歴史」P139に、宮城県第1号の藤崎の自動車(背景は物産陳列所」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P215(M43、運転する藤崎三郎助)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P324】より
<先遣隊>
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)到着 / 横浜からジープ38台に分乗した先遣隊106名が、同日未明に陸路松島に到着し、松島パ-クホテルに分宿 /知事はじめ県首脳部と会見(進駐軍宿舎や物資集積所のための施設・建物の接収を決める)
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240では、「宮城県には9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 翌日から、米軍と宮城県の間で宿舎、施設利用、警備について協議が始った」
・ 進駐軍との事務的交渉窓口「渉外事務処理本部」は、この会談を機に、知事直結の窓口として「知事官房渉外課」を設置
<海上から>
* 9月15日、東北地区進駐軍最高幹部らが塩釜港に上陸し、松島に入る
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月15日、塩釜港に6席の艦船から約3800人の兵士が上陸用舟艇を使ってまるで敵前上陸のように進駐してきました」
<列車で到着>
* 19月16日、2本の特別列車で約1000名、仙台駅到着 / 塩釜港には艦艇で着いた約3800名上陸 / 仙台(原町苦竹の造兵廠)、多賀城(海軍工廠)、松島に分駐 / 将校以上の幹部たち、ジープで国道6号線経由仙台に到着し、そのまま松島に入る
* 9月17日、1200名、特別列車で仙台着
* 9月18日、2580名、特別列車で仙台着
/ 「戦争のころ 仙台、宮城」P240では、「9月16日朝には東北線、常磐線の特別列車で1100人の兵士が仙台駅に到着したのを皮切りに26日迄に、列車と船舶、ジープ、トラックで合計1万95人が宮城県内に展開しました」
・ 9月26日までに、計約1万名が宮城県に進駐
・ 仙台、多賀城、松島のほか、塩釜石巻、古川、船岡などに駐屯(兵士数は造兵廠と海軍工廠に駐屯が圧倒的に多い)
・ 仙台では、霞ノ目飛行場や榴ケ岡の東部122部隊地にも小部隊が入った
<簡易保険局庁舎接収し、中枢機能を置く>
・ 第14軍団司令部(その後の第9軍団司令部も)、第11空挺師団司令部、宮城県を管轄する軍政団司令部、MP(憲兵隊)本部など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324、P327 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~240
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)
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進駐軍(米軍) |
宮城県に進駐 |
1945年(S20)9月 |
【「仙台市史 続編第1巻」P67】より
* 1945年(S20)9月11日、先遣隊(約20人)仙台到着
* 9月16日、仙台に本格進駐開始(第8軍指揮下の第14軍団第11空挺師団)/ロード准将ら将兵106人がジープで仙台到着
・ 特別列車と、海路塩釜から上陸して仙台、塩釜、石巻、松島、大河原、古川、多賀城など7市町村に計1万人が分駐
・ ドン准将以下幹部は、松島海岸のパークホテルに宿営
・ 第14軍団司令部は北一番丁の仙台簡易保険局庁舎に設置
・ 空挺隊員は、原町の陸軍造兵廠と多賀城海軍工廠に駐屯
【「戦争のころ 仙台、宮城」P239~240】より
* 1945年(S20)9月10日、52台のジープに乗った106人の先遣隊が国道6号線を北上し、戦災で焦土と化した仙台を抜けて接収した松島パークホテルに入った / 内務省からの連絡で案内役を仰せつかった宮城県職員矢野栄作さんは「福島県境の山下村(現・山元町)の望楼から半鐘が鳴った。米軍の到着である。案内車と英語で書いた乗用車から米軍のジープをのぞくと、2門の機関銃を手に完全武装したした米軍兵が緊張した面持ちでこちらを見ている」と『せんだいあこころ八十八年』(宝文堂)に書いています
【毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション】より
* 9月15日、仙台に司令部をおいた第14軍団、塩釜に上陸
* 9月16日、仙台には第11空挺師団が進駐開始
・ (陸軍)幼年学校、尚絅女学院、安田生命(国分町)、富国生命、日銀仙台支店を宿舎として接収
<編者注:疑問> 日銀は仙台空襲(S20年7月)で焼失したのに接収対象にできたのか? 「日銀支店社宅」が正しいと思われる(宮城県知事事務引継書(昭和20年)には、日銀社宅と記載あり=「戦争のころ 仙台、宮城」P241)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P67/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239~241/毎日新聞の発行物の掲載写真のキャプション/「仙台市史 年表」P114
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63-02 / 90-06など「分類H-29」の写真は仙台1945年9月23日に仙台についた第11空挺師団/「仙台市史 特別編4 市民生活」P325(S20年、塩釜に上陸する進駐軍)/「新・目で見る仙台の歴史」P168(上陸用舟艇で陸を目指す米軍、松島に上陸する米軍)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P327(接収された仙台地方簡易保険局庁舎)
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松根油 |
宮城県への割当て |
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大平洋戦争末期、軍用機の航空燃料の不足を補うため、代替に松の根から油(高性能オクタンの成分が多い)を採るため、全国の松を伐採 / (制海権、制空権を失い、日本軍が占領した南方からの石油輸送が絶望的になる)
* 1944年(S19)10月、政府、松根油(しょうこんゆ)から航空燃料を生産する緊急対策を決定、大政翼賛会の運動として全国都道府県、市町村に発掘量を割当て、宮城県の分は2034万貫(7600トン)と決まる
・ 精製用の乾留釜(高さ1.2m、直径85cm)に、根を小さく割って入れ、ふたを粘土で密封し12~15時間燃やす
・ 釜は、昭和20年3月までに201釜、5月までに432釜完成
・ 陸海軍の協定で、東北地方で生産される松根油は海軍が使うことになっていた
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「戦争のころ 仙台、宮城」P203~204
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スポーツセンター |
宮城県スポーツセンター |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月18日、仙台市川内(青葉山公園内)に建設落成し開館(1万人収容、つり屋根、当時は、東北一の規模)
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P82(S39、カラー)
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
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★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第一高等学校 |
1948年(S23) |
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県立仙台第一中学校」が「宮城県仙台第一高等学校」と改称
* 1953年(S28)10月3日、校舎新築起工式(第4代校舎)
* 1958年(S33)3月31日、校舎新築落成(南北校舎)
* 1992年(H4)12月21日、校舎新築竣工(第5代校舎)
* 1994年(H6)4月12日、第二運動場(若林区荒井)竣工落成式
* 2010年(H22)4月1日、男女共学
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「重訂 宮城県郷土史年表」P526/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505/「宮城県仙台第一高等学校」HP
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「目で見る仙台の歴史」P180に、元茶畑の校舎
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第一高等学校の前史 |
1892年(M25) |
<前史1>
* 1874年(M7)3月29日、「官立宮城外国語学校」、東二番丁の漢学校跡に設置
* 同年12月27日、「官立宮城英学校」と改称
* 1877年(M10)2月14日、官立宮城英学校廃止
* 同年2月26日に教育内容を継承した「県立仙台中学校」が開校
* 1879年(M12)6月26日、「宮城中学校」と改称
* 1886年(M19)9月、「宮城尋常中学校」
* 1888年(M21)3月24日、宮城(県?)尋常中学校廃止
<前史2>
* 1892年(M25)4月1日、「宮城県尋常中学校」、前月に廃校となった東華学校の校地(清水小路、初代校舎)や機能を引継いで開校
* 1899年(M32)4月1日、「宮城県中学校」と改称(同年7月20日に本校が南六軒丁(第2代校舎)に移転し、清水小路の本校地には分校が勾当台通から移転)
* 1900年(M33)4月1日、「宮城県第一中学校」と改称
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県第一中学校」と改称
* 1904年(M37)3月31日、清水小路分校廃止
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立仙台第一中学校」と改称
* 1907年(M40)1月24日、校舎が全焼
* 1908年(M41)9月1日。校舎を元茶畑に新築移転 / ほぼ同様の規模外観の校舎(第3代校舎)となった(本館の屋根の形が少し違う=明治の洋風建築-宮城県- P65)
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県仙台第一中学校」と改称
* 1941年(S16)5月24日、旗立修練道場竣工
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「仙台市史 年表」P80、P82、P86、P91、P92、P94/「明治の洋風建築-宮城県-」P64「宮城県第一中学校」/「宮城県百科事典」P594「仙台第一高等学校」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505/「宮城県仙台第一高等学校」HP
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99-072(M32年~M40年1月の校舎)/「目で見る仙台の歴史」P120に、清水小路の東華学校校舎(宮城尋常中学校使用時代)/同P133に、「宮城県第一中学校」(M33年4月~37年5月の学校名)
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第三高等学校 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)4月16日、東仙台中学校で開校式
* 1963年(S38)5月、校地(原町小田原安養寺中地内)に南校舎完成 / 翌年6月、北校舎完成
* 1968年(S43)4月、理数科1学級を県内で初めて設置(普通科7学級、理数科1学級)
* 1971年(S46)3月、西校舎完成(理数科教室)
* 1992年(H4)3月、南校舎新築完成(鉄筋造2階建て)
* 1993年(H5)9月、第2運動場造成
* 2009年(H21)1月、新校舎(4階建)、新屋内運動場完成
* 2009年(H21)4月、男女共学開始
・ 文部科学省より、スーパーサイエンススクール(SSH)指定
H22年~5年間、H24年~3年間(コアSSH)、H29~5年間〈第2期SSH)
・ 国立台湾師範大学付属高級中学と、H25年にSSHプロジェクトの協定締結、H25年に姉妹校締結
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P507~508/宮城県仙台第三高等学校HP
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戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
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★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
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高等学校(新制) |
宮城県仙台第二高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1896年(M29)2月、宮城県尋常中学校(仙台第一中学校の前身)の分校として開校(清水小路に仮校舎)
* 1900年(M33)4月1日、「宮城県第二中学校」が開校(南町仮校舎及び清水小路一中分校校舎を使用)
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県第二中学校」と改称
* 1902年(M35)10月、北六番丁木町通り西側に木造2階建校舎新築し移転
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立仙台第二中学校」と改称
・ 1918年(T7)10月23日、蔵王山頂で風雪飢寒のため、生徒7人、教師2人が遭難
* 1919年(T8)11月、「宮城県仙台第二中学校」と改称
・ 1931年(T12)、20学級・生徒数1000人
* 1928年(S3)11月、川内(騎兵隊兵営跡に新築移転(コンクリート校舎、スチーム暖房完備)、東北産業博覧会では校舎の一部を使用
・ 1935年(S10)4月、県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒この項、要検証
・ 1943年(S18)から、生徒の電車通学は禁止、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された
・ 仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまる
・ 1946年(S21)5月、旧仙台一中対二中の野球復活第1回定期戦(市営澱球場)(「仙台市史 続編第1巻」P93)
・ 1947年(S22)、甲子園の野球大会で準決勝進出し岐阜商商業に惜敗(ベスト4)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県仙台第二高等学校」と改称
* 1984年(S59)4月、新校舎落成記念式
* 2007年(H19)4月、男女共学
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「仙台市史 年表」P91、P92/明治の洋風建築-宮城県-」P77「宮城県第二中学校」/「宮城県百科事典P595「仙台第二高等学校」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506~507/「宮城県仙台第二高等学校」HP
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99-073(M35年~S3の校舎)/「新・目で見る仙台の歴史」P140に同じ写真/「目で見る仙台の歴史」P133に北六番丁の「宮城県仙台第二中学校」/同P157に「二中生、蔵王で遭難(大正7年)の記事接写」/同P165に、川内の校舎
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スポーツ大会(昭和戦前期) |
宮城県体操大会 |
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* 1939年(S14)6月4日、第2回宮城県体操大会(宮城野原)
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「目で見る仙台の歴史」P166
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「目で見る仙台の歴史」P166
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労働運動(戦前) |
宮城県内 |
1898年(M31)~1938年(S13) |
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦前の経過につき記述あり
* 1898年(M31)、日本鉄道争議
* 1911年(M44)、仙台ガスで職工争議
* 1918年(T7)、米騒動後の2年ほどの間に賃上げ争議続く(岩井酒造、東北板紙、東京絹毛紡績会社仙台工場、仙台市役所、仙台畳業組合、片倉組仙台製糸工場、仙台専売支局、北山の瓦製造所)
* 1920年(T9)1月、仙台染色職工会結成(仙台市内8つの染織物工場の職工67名)
* 1925年(T14)末、仙台印刷労働組合結成
* 1926年(T15)、仙台印刷労働組合が、一般労働者・農民・学生などを加え仙台一般労働者組合に発展 / 東北印刷、大正印刷などの印刷会社、旭紡績、塚本硝子、東洋刃物などで争議を指導 / 1928年(S3)~1929年(S4)の共産主義者弾圧のなかで指導者を失い壊滅
* 1934年(S9)、宮城一般労働組合結成(佐々木更三により、仙台市役所勤務の現業労働者や市内の自由労働者ら52名) / S9の仙台合同運送の荷馬車引き子スト、仙台市の塵芥運搬人夫スト、三馬ゴム工業仙台分工場ストを指導し成果 / その後二度にわたる旭紡績仙台工場の待遇改善ストで労働側を勝利に導く / 1938年(S13)2月、委員長佐々木更三が第二次人民戦線事件に連座検挙されたことを契機に解散を余儀なくされた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P528~529
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P529(明治31年、日本鉄道争議の中心人物石田六次郎の解雇辞令)
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労働運動(戦後) |
宮城県内 |
1945年(S20)8月~ |
* 1946年(S21)、労働組合続々と結成(1月3日、仙台鉄道管理局管理部管内従業員1万5千人 / 2月27日、宮城県教員組合結成大会、 など)
* 1946年(S21)9月20日、失業反対宮城県労働者大会
* 1946年(S21)10月8日、宮城地区共同闘争委員会主催、労農者大会
* 1946年(S21)11月28日、宮城県労農市民大会、勤労大衆2万人結集
* 1947年(S22)1月31日、マッカーサー元帥、2・1ストに中止命令
* 1950年(S25)夏~、レッドパ-ジ / 宮城県内では、新聞、電機産業(電産)を中心に民間から160余名、官公庁関係から13名が職場から追放された
<参考>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533「労働運動と仙台」に、宮城県内の労働運動の戦後の経過につき記述あり
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604の第七章労働運動」に、昭和20年~43年の宮城県内および仙台の労働運動の経過につき記述あり
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508、P509、P516/「仙台市史10 年表」P311、P313、P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P549~604/「仙台市史 特別編4 市民生活」P529~533
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44-46、44-55、16-53、16-55
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光化学スモッグ |
宮城県内 |
1973年(S48)以降 |
* 1973年(S48)8月17日、塩釜市に初の光化学スモッグ発生
* 1980年(S55)6月7日、仙台地区に5年ぶりに光化学スモッグ予報発令
* 1981年(S56)4月24日、光化学スモッグ注意報発令
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「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P113、P127
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自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
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・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
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自衛隊 |
宮城県内(警察予備隊、保安隊時代) |
1950年(S25)8月~1954年(S29) |
<警察予備隊>
* 1950年(S25)8月10日、警察予備隊令公布 / 隊員募集に志願者殺到、宮城県内でも応募者1000人を超える / 8月20日までに県内で7575名が応募、365名合格(第1次入隊)
* 1950年(S25)8月23日、東北6県の第1次合格者1194名が仙台管区警察学校に入る
* 1950年(S25)、その後の入隊者を含め、創設当時の警察予備隊員、東北地方からの約7000人が、米軍苦竹キャンプに4か月間駐屯、米軍顧問機関の指導や訓練を受ける(朝鮮戦争開戦で、米軍第一空挺師団が去り、一時的に空いていた / その後米第一騎兵師団が交代駐屯) / その後、宮城県船岡、山形県神町、青森県八戸などの米軍キャンプ内に隊舎がつくられ、隊員は一時そこに分駐するが、そのほとんどは後に関東や北陸での任務にまわされたという
<保安隊>
* 1952年(S27)7月、警察予備隊と新設の海上警備隊を統合的に指揮する、保安庁設置 / 警察予備隊を「保安隊」、海上警備隊を「警備隊」とし改編 / 保安隊発足当初、東北地方の駐屯地は、宮城県の船岡、青森、秋田の3か所 / その後、郡山、福島、大湊が加わる
* 1954年(S29)、保安庁が改組され防衛庁になり、「保安隊が「陸上自衛隊」に、警備隊が「海上自衛隊」になる
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
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34-47 (東北管区警察学校)
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進駐軍(米軍) |
宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地) |
1945年(S20)9月~ |
<キャンプ・センダイを除き、1945年(S20)4月から>
キャンプ・センダイ(川内/第二師団司令部と各種の連隊跡)、キャンプ・ファウラー(榴ケ岡/歩兵第4連隊跡)、キャンプ・シメルフィニヒ(苦竹/陸軍造兵廠跡)、キャンプ・ローパー(多賀城/海軍工廠跡)、レニア・フィールド(南小泉霞ノ目/霞ノ目飛行場跡)、など
<キャンプ・センダイは、1946年(S21)4月から>
・ 川内の第二師団跡のキャンプ・センダイ用地は、1946年(S21)4月、第9軍団司令部(北海道・東北・東京横浜除く関東・甲信越が担当地域)が札幌から仙台への移転にあわせ、接収される / 川内の旧陸軍用地約110万坪は仙台空襲で兵舎など8割が焼失、仙台市は戦災復興事業で公園など緑地帯にする予定だったが、米軍の要求で計画は急きょ外された / 昭和21年末には、15ブロック総数246棟の建物が完成、県は物資不足の中、建設資材、作業員の調達に追われた / 東北地方最大の米軍施設となった(「戦争のころ 仙台、宮城」P244)
・ キャンプ・センダイには、第9軍団司令部のほか、将校用宿舎、下士官用宿舎、映画館、野球場、教会、図書館、体育館、電話局、消防、ゲストハウス2棟、ゴルフ場(中島池を埋め立てた)があった /
川内地区は日本人の立ち入りが禁止され、4か所の検問所で日本人従業員は出入りのたびにパスを提示 / 青葉山には強力な通信施設がつくられた(「戦争のころ 仙台、宮城」P244~245)
・「昭和22年、前年の暮から新しい年へかけて、積雪の中に、川内の旧陸軍の兵舎あとには占領軍の瀟洒な住宅が建設されていた。」(「仙台市史 続編第2巻」P254)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P324~329「占領軍とキャンプ」/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244~245/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P254
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キャンプ・センダイの写真は、98-097、98-098、63-07/計画図は98-117/「新・目で見る仙台の歴史」P168(川内キャンプ全景)/「市民の戦後史(仙台市)」P37(川内キャンプ俯瞰)
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(1) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立
<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)
* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂)
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
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佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(2) |
1941年(S16) |
<商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)
* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成
<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)
* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成
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「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(3) |
1942年(S17)以降 |
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目)
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「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』
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敗戦後の諸相・仙台 |
宮城県出身者の従軍数(召集数)、戦死者数、復員数 |
1931年(S6)~1945年(S20) |
<宮城県出身者の従軍数と復員数>
(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66)
陸軍17万人 外地 12万人 → 復員数 9万6000人
内地 5万人 → 復員数 5万人
海軍4万人 外地 2万人 → 復員数 1万3000人
内地 2万人 → 復員数 2万人
<宮城県からの召集数、県出身者の戦死数>
(「宮城県史」より 「戦争のころ 仙台、宮城」P239)
召集数
陸軍 約17万
海軍 約4万
戦死者数(死亡公報が発行された人数)
陸軍 約2万8000人(全体の16%)
海軍 約7000人(全体の18%)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P239
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(シベリア抑留軍人が仙台着)
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メーデー(戦前) |
宮城県初のメーデー |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)5月1日、宮城県最初のメーデー、日本農民組合宮城県支部連合会・仙台一般労働組合などの主催により桜ケ岡公園で開催(デモコースは、公園→南町通り→仙台駅前)
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争委員会約20名(各組合代表)が仙台市役所にデモ、夜は東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
<参考>
* 1935年(S10)5月1日、第6回メーデが、戦前最後のメーデー(「一億人の昭和史 昭和重要事件年表」)
* 1936年(S11)3月24日、内務省が今年のメーデー禁止を通達
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「仙台市史 年表」P104/岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P13/「新・目で見る仙台の歴史」P149/「仙台市史10 年表」P283
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「新・目で見る仙台の歴史」P149(仙台の第1回メーデー・デモ )/「仙台市史 特別編4 市民生活」P530(S2年5月1日、仙台の第1回メーデーデモ隊)
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銀行(地域の銀行) |
宮城県労働金庫/東北労働金庫 |
1951年(S26)/2003年(H15) |
* 1951年(S26)12月8日、宮城県労働金庫創設(<編者注>宮城労働金庫が正しい)
* 2003年(H15)10月1日 - 東北6労働金庫が合併し、「東北労働金庫」を設立(Wikipedia「東北労働金庫」より)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P553/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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ロッテ球団 |
宮城県営球場を本拠地に |
1974年(S49)~1977年(S52) |
* 1973年(S48)1月10日、プロ野球ロッテオリオンズ、仙台を本拠にして25試合決定
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1978年(S53)から、ロッテ球団、神奈川県の川崎球場を本拠地とする
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「続・ 宮城県郷土史年表」P17/「仙台市史 年表」P129/Wikipedia「千葉ロッテマリーンズ」
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県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
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「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
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14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
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師範学校 |
宮城県女子師範学校(県立) |
1913年(T2)~1942年(S17)3月 |
* 1913年(T2)4月1日、宮城県師範学校から女子部が独立し、仙台市中島丁に開校
・<大正元年の地図>では、中島丁の通りに面し北側に「県立女子師範学校敷地」の記入あり、1996年現在の第一女子高校と同じ場所のようだ
・<昭和13年の地図>では、同じ位置に「女子師範学校」、「第三高等女学校附属小学校」がある
* 1942年(S17)4月1日、宮城県師範学校が宮城県女子師範学校を合併して「官立の宮城師範学校」となる
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「仙台市史 年表」P96、P112
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高等学校(新制) |
宮城県工業第二高等学校 |
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<前史>
* 1943年(S18)4月、「宮城県第二工業学校」、開校(米ケ袋広丁)、県工業学校の校舎と設備を共用、夜間機械科新設
* 1944年(S19)4月、電気科を設置
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「宮城県工業第二高等学校」と改称(夜間定時制)
* 1993年(H5)、機械科を電子機械科に学科改編
* 1994年(H6)、新校舎が完成し(専用教室・体育館・食堂・図書室など,最新の施設・設備を持つ)
* 1995年(H7)4月、完全給食、女子生徒募集を開始
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「宮城県工業第二高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P510~511
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高等学校(新制) |
宮城県工業高等学校 |
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<前史>
* 1916年(T5) 3月、 宮城県立工業学校、米ケ袋広丁に創立(機械電気科,漆工科)
* 1919年(T8)11月、宮城県工業学校と改称
* 1938年(S13)4月、採鉱科、第二本科電気科、第二部機械科設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎の約8割焼失
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、宮城県工業高等学校と改称
・ 学科新設(S24年、機械科・電気科・木材工芸科・採鉱科 / S27年、化学工業科)/廃止(S29年、採鉱科)
* 1954年(S29)2月、火災で校舎7棟焼失/S31年迄に校舎再建
・ 学科新設(S34年、電気通信科設置)
・ 学科改称(38年、木材工芸科を工芸科,電気通信科を電子科に改称)(S48年、工芸科をインテリア科とし男女共学にした)
* 1974年(S49)4月、電気・電子・化学工業科を男女共学に
* 1977年(S52)8月、第二運動場取得
* 1978年(S53)10月、体育館竣工
* 1992年(H4)10月、総合実習棟竣工
* 1992年(H4)12月、機械3クラスのうち1クラスを電子機械科に学科転換, 電子科を情報技術科に学科転換
* 1994年(H6)10月、校舎棟竣工
* 1996年(H8)1月、屋外運動場竣工
* 1999年(H11)4月、機械科を男女共学とした
* 2013年(H25)11月15日、創立100週年記念式典挙行
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「宮城県工業高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P509~510
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スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県民体育大会(第1回) |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)9月10日、第1回大会(仙台市宮城野原で)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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進駐軍(米軍) |
宮城県知事事務引継書(昭和20年)より |
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【「宮城県知事事務引継書」(昭和20年 生悦住求馬知事→千葉三郎知事)】より
<進駐した米軍部隊>
・ 第8軍第14師団、同砲兵隊、第11空挺師団第187連隊、東部122部隊、第6工作隊
・ 司令官は空挺師団長のスウィング少将
<進駐先>
仙台市、塩釜市、石巻市、松島町、古川町、大河原町、多賀城村
<警備体制>
・ 宮城県警察部655人、応援として岩手県から50人、秋田県から30人
・ 県内28か所に検問所設置、373人を動員して警戒した
<接収された施設>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)、歩兵第4連隊(仙台市榴岡)、陸軍飛行場(仙台市霞目)、陸軍飛行場(岩沼)、海軍松島飛行隊(矢本)などのすべての軍施設
・ 仙台の尚絅女学院、日銀社宅、塩釜の二つの学校、倉庫15棟、仙台市内の富国生命、安田生命、明治生命の各ビル
・ 仙台地方簡易保険局(仙台市北一番丁)は、東北6県の占領行政を監視する第8軍第14軍団司令部がおかれた
・仙台市内の民間住宅60戸(将校用宿舎に)
<編者注>
・この時点では、のちにキャンプ・センダイとなる、第二師団司令部と各部隊兵営(仙台市川内)用地が接収対象に記載されていないようだ
【「戦争のころ 仙台、宮城」P244】に、仙台市川内のキャンプ・センダイ用地(第二師団司令部と各部隊兵営跡)の接収関連の記述あり → 項目「進駐軍(米軍)の小項目「宮城県内の主要な米軍キャンプ(駐屯地)」参照
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占領軍に建物を円滑に引き渡すために、仙台市内の中学生、旧制高等学校生、大学生が大勢集められ、「机、いすなどの備品は今日中に市内の郵便局に移すよう」命令された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242)
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P240~242
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高等学校(新制) |
宮城県立盲学校/宮城県立視覚支援学校 |
1948年(S23)/2009年(H21) |
<学制改革後>
* 1948年(S23)4月、盲・聾学校教育が義務制となる /宮城県立盲唖学校」が学制改革で小・中学部、高等部専攻科を編制、同時に同校盲部が「宮城県立盲学校」、聾啞部が「宮城県立聾学校」となる
* 1948年(S23)9月11日、ヘレン・ケラー女史、2回目来校
* 1951年(S26)3月、あんま師、はり師、きゅう師養成学校として文部省認定
* 1951年(S26)7月、聾学校が分離し長町鹿又の新築校舎に移転
* 1959年(S34)5月、盲学校が北七番丁(旧宮城師範跡)に移転
* 1962年(S37)4月、文部省から新職業教育研究校に指定され、高等部に園芸科設置
* 1963年(S38)、宮城県点字図書館落成、弱視学級設置
さらに、「香る植物園」、「小鳥の家」「リハビリテーション・ルーム」など完成
* 1966年(S41)2月、スクールバス「のぞみ号」運行開始
* 1967年(S42)10月~1971年(S46)3月、4期にわけ校舎新築
* 1969年(S44)4月、小学部に重複障害学級設置(S51年に中学部、H1年に高等部に、重複障害学級設置)
* 1971年(S46)4月、高等部普通科設置
* 1973年(S48)4月、高等部に保健理療科、専攻科理療科設置
* 1977年(S52)11月、全日本吹奏楽コンクール招待演奏に出演(東京普門館)
* 1983年(S58)10月、創立70周年記念、吹奏楽部創立20周年記念演奏会(電力ホール)
* 1994年(H6)4月、高等部に専攻科保健理療科設置、高等部新教育課程実施開始
* 2001年(H13)10月、第1回全国障害者スポーツ大会(翔く・新世紀みやぎ大会)参加
* 2008年(H20)7月、東北盲学校野球大会(岩手)で、野球部が準優勝
* 2009年(H21)4月、校名を、宮城県立盲学校から「宮城県立視覚支援学校」に変更
* 2014年(H26)9月、創立100周年記念式典挙行
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「宮城県立視覚支援学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P517~518
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高等学校(新制) |
宮城県第一女子高等学校/宮城県宮城第一高等学校 |
1948年(S23)/ |
<前史>
* 1895年(M28)1月14日、前年末をもって休業となった「東北女子実業科伝習所」の指導者たちが、「仙台女子実業学校」を東二番丁に開校
* 1897年(M30)4月1日、「私立仙台女子実業学校」を引継いで東三番丁に「仙台市高等女学校」として開校
* 1899年(M32)、元寺小路に校舎新築(写真99-075)
* 1900年(M33)4月1日、宮城県に移管され、「宮城県高等女学校」と改称 / 補習科設置(T2年廃止)
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県高等女学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立高等女学校」と改称 / 技芸専修科設置(S45年廃止)
* 1911年(M44)、実科設置 (T7年廃止)
* 1918年(T7)、「宮城県立第一高等女学校」と改称
* 1919年(T8)、「宮城県第一高等女学校」と改称
* 1921年(T10)、高等科設置(のちに宮城県立女子専門学校の母体)
* 1939年(S14)、黒川郡富谷村に学校林を設ける
* 1945年(S20)、仙台空襲で校舎焼失 / 連坊小路の第二高女と連坊小学校、県立盲学校で授業再開
* 1947年(S22)、北六番丁の旧制二高跡に校舎新築移転(東北大農学部が使用することになり、中島丁の旧女子師範跡に新設された東北大学付属中学と校舎を交換)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県第一女子高等学校」と改称
* 1953年(S28)、校舎移転(八幡へ)
* 1955年(S30)、専攻科(修業年限1年)併設(S40年に廃止)
* 1969年(S44)、全校が新校舎に移転
* 1973年(S48)、服装自由化実施
* 1997年(H9)、創立100周年記念式典,理数科新設
* 2002年(H14)、文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」(全国で26校)に指定
* 2008年(H20)、宮城県宮城第一高等学校と改称(男女共学開始、単位制移行)
* 2016年(H28)、 英国シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズスクールと姉妹校締結
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「宮城県宮城第一高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89/「宮城県百科事典P1000「宮城県第一女子高等学校」/「仙台市史 年表」P90、P91、P98/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518~520/「番丁詳伝」P67
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99-075/「目で見る仙台の歴史」P134に「宮城県第一女子高等学校」の校門付近
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戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
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★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
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高等学校(新制) |
宮城県第三女子高等学校/宮城県仙台三桜高等学校 |
1948年(S23)/2010年(H22) |
<前史>
* 1924年(T13)4月1日、「宮城県第三高等女学校」、宮城県女子師範学校内に開校
(T8年11月以降、県内の学校は、名称に県立の「立」をつけない)
* 1946年(S12)、4年制から5年制になる
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、宮城県第三女子高等学校と改称
* 1950年(S25)4月20日~1952年(S27)3月20日、男女共学制を実施(仙台市内初の共学制)
* 1953年(S28)~1957年(S32)、校舎を宮城県第一女子高等学校と併用(一女高が、東北大から立退き要求で、北六番丁の新築校舎から、中島丁に移転し、三女高、一女高が同居)
* 1957年(S32)春、長町鹿野屋敷に新築移転、校旗・校歌を再制定
* 1961年(S36)、丸屋根の屋内体育館兼講堂完成
* 2010年(H22)、再共学化し、校名を「宮城県仙台三桜高等学校」に改称 / 新入生281名のうち33名が男子
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「仙台市史 年表」P102/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522~523/Wikipedia「宮城県仙台三桜高等学校」
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戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
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★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
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高等学校(新制) |
宮城県第二女子高等学校/宮城県仙台二華中学校・高等学校 |
1948年(S23)/2010年(H22) |
<前史 1 東華学校、私立東華高等女学校>
* 1886年(M19)9月11日、「宮城英学校」が清水小路に開校
* 1887年(M20)6月17日、「東華学校」と改称
* 1904年(M37)5月13日、「私立東華女学校」が県立宮城第一中学校清水小路分校跡に開校
* 1905年(M38)4月1日、「私立東華高等女学校」と改称
* 1908年(M41)、東九番丁に移転したときに、旧東華学校(M30年設立)の本館を移築 / T10年に二高女と合併するため廃校
<前史 2 宮城県立第二高等女学校>
* 1918年(T7)4月1日、「宮城県立第二高等女学校」、中島丁の宮城県女子師範学校内に開校
* 1921年(T10)2月、<前史1>の私立東華北高等女学校と合併して同校地に移転 / 高等科を設置(T15年に廃止し宮城県女子専門学校を開設) / 同女専はS9年に越路へ移転、二女高はその跡へ移る
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、宮城県第二女子高等学校と改称 / 定時制を併置、中田六郷・西多賀に分校を置いたが、のちに廃止
* 1973年(S48)5月12日、「宮城第二女子高校」で、東華学校時代の本館取壊し決まる
* 2010年(H22)、 男女共学校、中高一貫校となり、「宮城県仙台二華中学校・高等学校」に校名変更
* 2010年(H22)7月1日 - 宮城県第二総合運動場のラグビー場が当校の第2グラウンドになる
* 2019年(H31)、 学年制から単位制へ移行
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<前史1>関連>
「仙台市史 年表」P86、P92、P100/「明治の洋風建築-宮城県-」P60「東華学校」/「宮城県百科事典」P1001「宮城県第二女子高等学校」
<前史2関連>
「仙台市史 年表」P98、P100/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521
<学制改革後>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P520~521/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城県仙台二華中学校・高等学校」HP
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(東華学校)/同P141(宮城県女子専門学校図書室)/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、東華学校校舎(東九番丁移転後)
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警察(戦後) |
宮城県警察 |
1954年(S29)7月~ |
* 1954年(S29)7月1日、新警察法施行に伴い、国家地方警察宮城県本部と、仙台市警察などの自治体警察が統合し宮城県警察が発足
(2020年現在、宮城県警察本部庁舎は、宮城県庁舎に隣接)
* 1973年(S48)5月11日、県警にヘリコプター「あおば」配備
* 1975年(S50)2月7日、ヤングテレホン設置
* 1985年(S60)5月21日、県警、少年相談電話スタート
* 1986年(S61)4月11日、県警、仙台市内の交差点にセンター・ブロック埋設
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「仙台市史」P118/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P37、P191、P204
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警察学校 |
宮城県警察学校 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)、宮城県警察学校着工きまる(木造2階建て)、/ 場所は台原(荒巻杉添)の米軍射撃場跡地で、県警察学校は川内から台原(ダイノハラ)に移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P788、P795
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銀行(地域の銀行) |
宮城県農工銀行 |
1898年(M31) |
* 1898年(M31)4月1日、宮城県農工銀行、設立認可 / 東二番丁に開設(木造下見板張りの洋風建築)
* 1898年(M31)4月10日、宮城県農工銀行を創設し、4月より東三番丁に開業す(初代頭取遠藤温 / 不動産を担保とする農・工・商及び養蚕業の金融機関)
* 1898年(M31)、東二番丁に設立 / 政府の施策により中小規模の農家や商工業の振興を目指したが、地主・富商金融に重点が移った(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P90/「目で見る仙台の歴史」P136/「重訂 宮城県郷土史年表」P311/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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大学・短大 |
宮城県農業短期大学 |
1952年(S27)~2006年(H18) |
* 1952年(S27)4月1日、長町に開校(宮城農業高等学校内)、農業科80名
* 1962年(S37)4月、畜産科、農業土木科を増設、3学科120名(各科40)
* 1942年(S47)3月、旗立二丁目に新校舎完成し移転
* 1975年(S50)4月、農業科を農業及び園芸の2コースとする / 3学科150名(農業科70,畜産科40,農業土木科40)
* 1979年(S54)10月、米国カリフォルニア州ハートネル大学と姉妹校締結
* 1980年(S55)年4月、農業科より園芸科を分離拡充、4学科160名(各科40)
* 1981年(S56)3月、仙台市坪沼に新農場(坪沼農場)が完成、実習農場として整備
* 2005年(H17)4月 宮城大学食産業学部の設置に伴い、学生の募集を停止
* 2006年(H18)3月、54年の歴史に幕を閉じて閉学
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宮城県HP内「宮城県農業短期大学」/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P555/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P540~541
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541/「市民の戦後史(仙台市)」P70(S27年開校式)
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