項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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午砲(午報) |
サイレンで |
1929年(S4)~ |
* 1929年(S4)1月16日に完成した仙台市役所新庁舎(白亜の市庁舎)の屋上にサイレンを設置
* 同年2月1日から、サイレンで正午を報せた(午報)
(これにともない、川内の第二師団内で大砲を打って報せた「午砲」は廃止)
* 1945年(S20)9月25日、戦時中中止していた仙台市の午報を3年5か月ぶりに復活
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史10 年表」P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和戦後期 |
<仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
(以上、昭和末年まで)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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創価学会会館 |
建設 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)12月5日、創価学会東北文化会館、錦町2丁目に建設(4階建)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P655
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敗戦後の諸相・仙台 |
治安悪化、犯罪多発 |
昭和20年代 |
終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加
・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」
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宮城県武道館 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月25日、宮城県武道館落成(宮城県第二総合運動場とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置)
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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火災(地域) |
北五十人町など |
1891年(M24) |
* 1891年(M24)5月19日、北五十人町・角五郎丁で、25戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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総進軍大会 |
開催 |
1943年(S18)/1944年(S19) |
* 1943年(S18)7月8日、仙台市主催、米英撃滅総進軍大会
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
* 1944年(S19)7月30日、滅敵強行宮城県総進軍大会
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「仙台市史10 年表」P306、P307、P308
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火災(地域) |
新伝馬町北側 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)1月21日、新伝馬町北側で、33戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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戦災復興都市計画事業 |
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計画策定 |
<仙台空襲で壊滅的被害>
* 1945年(S20)7月10日、米軍機による仙台空襲で、仙台市中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失 / 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」(仙台市開発局『仙台市戦災復興誌』 1981年)
・ 焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う(「戦争のころ 仙台、宮城」P220)
→ 当サイトの項目「仙台空襲」参照
<県による復興計画>
* 1945年(S20)12月、宮城県復興建築課を新設、復興計画始動
・対象地域
① 戦災に遭った仙台市中心部 ②川内の旧陸軍用地 ③一部が戦災に遭った米ケ袋
川内は、米軍の要求で中止、米軍に接収され、「キャンプ・センダイ」用地となる
米ケ袋も見送られて、事業が行なわれたのは市中心部だけ
・事業総面積 290ha(皇居の2.5倍)
・区画整理方式のため、仙台の減歩率25%(自分の土地の4分の1を事業のため提供)
<仙台市が県の計画を引き継ぐ>
* 1946年(S21)4月、仙台市復興委員会発足(市議24人全員、学識経験者20人)設置
・23人の常任委員会で週1回のペースで街路、公園の予定地を訪れ検討し決定(例:東一番丁通りは8mを15mに拡張)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220、P250~251
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体育館 |
秋保体育館 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)、秋保体育館開館
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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廃藩置県(仙台県誕生) |
仙台県誕生/宮城県と改称 |
1971年(M4)/1972年(M5) |
<版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)
・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)
<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362
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宮城県理科教育センター |
設置 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)8月10日、宮城県教育委員会が、向山に設置
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「仙台市史 年表」P124
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火災(地域) |
福田町 |
1902年(M35) |
* 1902年(M35)4月6日、宮城郡高砂村福田町、72戸焼失
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「仙台市史 年表」P92
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在住朝鮮人大会 |
開催 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月1日、宮城県在住朝鮮人大会
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「仙台市史10 年表」P315
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戦災復興都市計画事業 |
制度、計画など |
1946年(S21)~1961年(S36) |
* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興都市計画基本方針決定
* 1946年(S21)4月15日、仙台市復興委員会開催(学識経験者と市会議員から委員64人)
* 1946年(S21)4月20日、戦災復興院特別建設出張所設置
* 1946年(S21)5月、仙台市は「戦災区域」の指定をうける
* 1946年(S21)5月5日、仙台市役所復興局(2部7課)設置
* 1946年(S21)5月9日、仙台都市復興都市計画土地区画決定
・424haの土地区画整理、23路線(2万4000m)の都市計画道路、13か所(51.7ha)の公園緑地、墓地計画、学校移転、無電柱街路計画など
・S26年とS29年に事業区域が縮小されて、最終的な施工地区は市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)に変更された
* 1946年(S21)8月15日、戦災都市における建築物の制限に関する勅令を仙台市に適用
* 1946年(S21)10月9日、特別都市計画法、仙台市に適用
* 1946年(S21)10月10日、仙台市役所に仙台復興局を置き復興計画方針決定(五か年計画の樹立)
* 1946年(S21)10月、戦災跡地ガス供給管被害箇所復旧
* 1947年(S22)2月17日、仙台特別都市計画事業復興土地区画整理及び執行年度割決定
* 1947年(S22)6月4日、戦災復興院宮城建築出張所設置
* 1947年(S22)6月11日、仙台都市計画公園変更決定
* 1947年(S22)12月12日、仙台復興都市計画土地区画整理委員選挙
* 1947年(S22)12月31日、仙台市に適用の都会地転入抑制緊急措置令解除
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P90、P315~316/「仙台市史10 年表」P312~314、P316~P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P513、P519、P600/「仙台市史 年表」P121
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体育館 |
身障者体育センター |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)1月27日、原町小田原桝江に開館
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「続・ 宮城県郷土史年表」P36
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宮城県立青年の家 |
完成 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月1日、泉ヶ岳に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P647
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火災(地域) |
仙台駅前 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)4月15日、仙台駅前で24戸焼失
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「仙台市史 年表」P94
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斎藤報恩会 |
財団法人認可 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)2月20日、斎藤報恩会、宮城県前谷地村(のちの河南町)の大地主、斎藤善右衛門が財団法人として設立 / 学術研究、産業開発、社会福祉の事業を行ってきた
* 1923年(T12)2月、斎藤善右衛門、300万円を基金に斎藤報恩会を創設(「仙台あのころこのころ八十八年」P244)
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「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P244
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体育館 |
仙台市勤労者体育館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月22日、卸町東に開館
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「仙台市史 年表」P132/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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火災(地域) |
小田原遊郭 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)1月24日、小田原遊郭全体の四分の一にあたる30戸が焼失
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「仙台市史 年表」P95
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戦災復興事業 |
公園緑地造成 |
~1961年(S36) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】
・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割)
・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更
・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想
・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】
・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329)
・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330
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博覧会・フェア |
東北産業博覧会 |
1928年(S3) |
→ 項目「東北産業博覧会」参照
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宮城交通 |
発足 |
1970年(S45) |
<前史>
* 1962年(S37)4月17日、塩釜交通・古川交通・仙台鉄道各社が合併し、宮城バス株式会社を設立(「仙台市史 年表」P122、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P603)
* 1964年(S39)4月14日、仙北鉄道株式会社、宮城バス株式会社と合併(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603に詳細記述あり)
* 1968年(S43)3月24日、仙北鉄道登米線を廃止(50年の歴史に終止符)
* 1970年(S45)5月28日、宮城バス・宮城中央バス・仙南交通の私鉄3社、株主総会で合併を決定(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
<発足以降>
* 1970年(S45)10月、仙南交通・宮城バス・宮城中央交通が合併した宮城交通株式会社、営業運転開始(「仙台市史 年表」P127)
* 1979年(S54)1月20日、デマンド・バス運行
* 1983年(S58)6月16日、北仙台~青根温泉など長距離運行廃止
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1985年(S60)10月16日、築館~仙台間に高速特急バス運行
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局が、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1988年(S63)4月12日、4年ぶりに終日バス運行
<運賃>
* 1975年(S50)12月13日、最低料金50円に改訂
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、値上げ(塩釜~利府が220円)
<ストライキ>
* 1979年(S54)12月20日、48時間スト
* 1984年(S59)4月13日、宮城交通労組が24時間スト
* 1984年(S59)4月17日、スト
<仙台関連の交通史略年表(明治10年~平成4年)> →「仙台市史 特別編4 市民生活」P205に、乗合馬車・宮城木道社・舟運・バス・バス専用レーン・鉄道・市電・新幹線・地下鉄・空港・トラックターミナル・バイパス道路・自動車道の年表
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「仙台市史 年表」P122、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P638、P661、P666/「続・ 宮城県郷土史年表」P48、P73、P74、P92、P105、P163、P172、P175、P195、P215、P243/宮城バスについては、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204、P205
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戦災復興事業 |
土地区画整理 |
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・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
/ 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
/ 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ
<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343
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体外受精(試験管ベビー) |
東北大学医学部 |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)3月14日、東北大学医学部は、日本初の、試験管ベビー体外受精に成功、10月14日に日本初の体外受精児誕生
* 1985年(S60)11月10日、初の体外受精児(2歳28日)死去
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「続・ 宮城県郷土史年表」P160、P167、P196
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火災(地域) |
東一番丁大火 |
1933年(S8) |
<仙集館と東一番丁大火>
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し、52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P232/「番丁詳伝」P131
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桜ケ岡公園(西公園) |
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→ 項目「西公園」参照
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大学・短大 |
東北大学 |
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→項目「東北帝国大学」、項目「東北大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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桜ケ岡大神宮 |
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1875年(M8) |
* 1875年(M8)5月、元柳町の神明社が県社となり、桜岡大神宮と改称 / 桜ケ岡公園(西公園)内にある
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「仙台市史 年表」P81
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大学・短大 |
東北学院大学 |
1949年(S24) |
→ 項目「東北学院専門学校/東北学院大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537~538
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博覧会・フェア |
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会 |
1933年(S8) |
→ 項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」参照
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宮城野駅/仙台貨物ターミナル駅 |
開業/改称 |
1961年(S36)/2011年(H23) |
* 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業
* 2011年(H23)3月12日、JR貨物の営業上の駅名を「宮城野駅」から「仙台貨物ターミナル駅」に改称
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「仙台市史 年表」P122
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火災(地域) |
中央マーケット |
1948年(S23)/1961年(S36) |
* 1948年(S23)2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失
* 1948年(S23)5月27日、東一番丁仙台中央市場、72戸焼失
* 1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟焼失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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サマータイム |
実施 |
1948年(S23)~1952年(S27) |
* 1948年(S23)5月2日~9月11日、初実施
* 1952年(S27)4月11日、夏時刻法(サマータイム)廃止
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「仙台年表」P218/「仙台市史10 年表」P316、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P526/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42、P46
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大学・短大 |
東北学院大学短期大学部 |
1950年(S25)~1960年(S35) |
* 1950年(S25)3月14日、東北学院大学短期大学部、南六軒丁に設置(1960年5月廃止)
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Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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博覧会・フェア |
藩祖三百年祭記念産業観光博覧会 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月12日、藩祖三百年祭記念産業観光博覧会
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「仙台市史10 年表」P285
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火災(地域) |
国分町虎屋横丁 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失
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「仙台市史10 年表」P319
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町 |
1958年(S33) |
<仲ノ町の集団占拠>
・ 西公園の一部として公園緑地帯に指定された仲ノ町地区広瀬川岸の3.5haに、戦災で行き場所を失い追い詰められた生活困窮者や朝鮮人約1000人が無許可でバラックを建て住む
・ 1956年(S31)6月の市調査では、231戸347世帯、999人(うち朝鮮人が93人)居住
・ 通路は迷路状で密造酒、麻薬の巣窟、犯罪者の逃避場ともいわれ、市の調査員に警官同行した場合あり
・ 1958年(S33)7月26日、制服私服警官を配して、13戸を強制撤去、以降2~3戸ずつ順に代執行、自主移転者もいたが、12世帯(40人)は最後まで残った
・ 1960年(S35)、跡地に市民プール(東北電力が建設し市に寄付)着工し、最後まで残った世帯を臨時収容所に収容しS35年末までに完了・解決した
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P347~348/「番丁詳伝」P165
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博覧会・フェア |
東北振興大博覧会(中止) |
1939年(S14) |
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(仙台市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462)
→<編者注>予定したが昭和14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
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「仙台年表」P208/仙台市史続編第1巻P10
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火災(地域) |
仙台駅前(駅前マーケット) |
1949年(S24)/1953年(S28) |
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前の裏五番丁に火災あり、46戸全焼
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前マーケット、46戸焼失
* 1953年(S28)1月7日、仙台駅前百貨商店街火事、8棟46戸全半焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台年表」P226
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戦災復興事業 |
市電軌道、電線、水路の移設 |
1947年(S22)~1960年(S35) |
<市電軌道の移設>
循環線の一部を、戦災復興年計画により既設街路の線形の変化、街路拡幅にあわせて軌道も移設(のべ1013m撤去、910m敷設)
* 1947年度(S22)から開始
・ 片平丁の裁判所前、西公園前、仙台駅前付近の3か所で、軌道の屈折緩和のため改良工事
* 1960年(S35)に、清水小路銑鉄局前の屈曲部も改良
<電線移設>
* 1952年(S27)2月、宅地になる旧道路に敷設されていた地下ケーブル線(送電用300m、電話用100m)を新道路地下に移設
<無電柱街路実現>
・ 仙台駅~川内線(仙台駅~南町間)=青葉通944m
・ 元寺小路川内線(元寺小路~国分町間)=広瀬通927m
・ 長町堤町線(南町通~錦町間)=818m
・ 東二番丁線(南町通~定禅寺通間)=892m
・ 東一番丁線(南町通~定禅寺通間)=838m
・ 中央通り繁華街(昭和35年7月ころまでに完成予定)
・ 当初計画された定禅寺通錦町線は、家屋移転が遅れて実現せず
<四ツ谷堰の水路変更>
* 1948年度(S23)~1957年度(S32)、一部水路の付け替え、暗渠化などを5カ所で実施
参考)「仙台市史2」(昭和30年刊)P673~674に、四ツ谷堰の市内三系統の経路が記載されている
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P352~354/中央通りの無電柱化予定は、「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「番丁詳伝」P166~167
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