項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
バス |
仙台市街自動車 |
|
→ 項目「仙台市街自動車」参照
|
|
|
市町村合併 |
平成の大合併 |
|
平成の合併は、「宮城県の市町村合併誌」https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/sichouson/sityouson-gappeishi.html
|
|
|
戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
|
★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
|
|
大学・短大 |
仙台白百合女子大学 |
1996年(H8)~ |
* 1996年(H8)、「仙台白百合女子大学」創立(人間学部に人間発達学科と人間生活学科)
* 2002年(H14)、短大を大学に統合 / 大学の人間学部が、人間発達学科、総合福祉学科、健康栄養学科、国際教養学科の4学科体制となる
* 2013年(H25)、学科再編し、人間発達学科、心理福祉学科、健康栄養学科、グローバル・スタディーズ学科の4科に
|
「仙台白百合女子大学」HP
|
|
バス |
仙台市営バス |
|
→ 項目「仙台市営バス」参照
|
|
|
市町村合併歴(仙台) |
仙台市 |
2020年(R2)現在 |
* 1889年(M22)、市制施行、仙台市誕生
* 1928年(S3)4月1日、長町、原町、七郷村の南小泉と蒲町を編入
* 1931年(S6)4月1日、七北田村荒巻,北根を編入
* 1932年(S7)10月1日、西多賀村を編入
* 1941年(S16)9月15日、中田村、六郷村、七郷村、岩切村、高砂村を編入
* 1956年(S31)4月1日、生出村を編入
* 1987年(S62)11月1日、宮城町を編入
* 1988年(S63)3月1日、泉市、秋保町を編入(市人口88万)
* 1989年(H1)4月1日、政令指定都市としてスタート(東北初、全国で11番目)、市制100周年 / 青葉・宮城野・太白・泉・若林の5区に
|
仙台市HPの「仙台市のあゆみ」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P141/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
|
|
戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
|
★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
|
|
大学・短大 |
仙台大学 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)4月、学校法人朴沢学園が仙台大学を宮城県柴田郡柴田町船岡に開学し、4年制体育学部(体育学科)を開設
* 1968年(S43)2月、体育学部体育学科に教職課程が認可
* 1995年(H7)4月、体育学部に健康福祉学科を開設
* 1998年(H10)4月、大学院スポーツ科学研究科スポーツ科学専攻(修士課程)を開設
* 2001年(H15)4月、仙台大学体育学部運動栄養学科を開設 / 厚生労働省指定栄養士養成施設を併設
* 2007年(H19)4月、大学体育学部スポーツ情報マスメディア学科を開設
* 2008年(H20)4月、大学にスポーツ情報マスメディア研究所を開設
* 2009年(H21)4月、大学院スポーツ科学研究科に1年コースを開設
* 2011年(H23)4月、仙台大学体育学部現代武道学科を開設
* 2013年(H25)4月、大学スポーツ情報マスメディア研究所を「仙台大学スポーツ健康科学研究実践機構」に改編
* 2017年(H29)4月、大学体育学部子ども運動教育学科を開設
* 2017年(H29)11月、大学開学50周年記念IFE(International Friendship Event)を開催
* 2018年(H30)1月、仙台大学開学50周年記念式典・祝賀会
* 2018年(H30)10月、大学にスポーツ局を設置
* 2020年(R2)4月、明成高等学校を仙台大学附属高校とした
|
「学校法人朴沢学園」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P565~566
|
|
名水百選 |
広瀬川 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)3月28日、環境庁による名水百選に、広瀬川(仙台)と桂葉清水(高清水町)
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P189
|
|
戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
|
★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
|
|
大学・短大 |
大学紛争 |
1969年(S44) |
この年、東北大学、宮城教育大学、東北学院大学で大学紛争が盛んになる → 項目「大学紛争」参照
|
「仙台市史 年表」P126
|
|
バス |
木炭バス |
|
→ 項目「木炭バス」参照
|
|
|
実業補習学校 |
仙台補習学校 |
1915年(T4) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451>
1893年(M26)から、小学校のみの義務教育を終えるが、あるいはしばしばそれも家庭の事情によって満足に履修できず、社会に出ることが多かった青年たちに、国家の富国強兵の方針に応じて職業教育や一般補習教育を施す必要が唱えられ、実業補習学校の制度が実現した。農村ではかなりの普及をみたが、仙台補習学校が発足するのは遅れて1915年(T4)のことである。
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451
|
|
戦時下の学園 |
宮城県仙台第一中学校 |
|
★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」
・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505
|
|
瞑想の松 |
歌碑建立 |
1941年(S16) |
・ 「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」という土井晩翠の歌碑、瞑想の松の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<WEBサイト 松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』 https://www.tohoku-mpu.ac.jp/laboratory/germany/cyogyuu.bak より>
「・ 樗牛の没後、40年近くを経て、仙台の北部、台原の丘陵の一角、一本松の根元に、樗牛を顕彰する記念碑が建立されることになった。実は、昭和15年頃に、開発(軍需工場の建設?)のために、この松の伐採計画が持ち上がる。幸いにも、心ある人々の尽力のお陰で、その伐採計画は白紙に戻され、さらに樗牛を顕彰する碑の建立が計画されたのだった。(中略) 「高山樗牛冥想の松」が「仙台市民の憧憬の松」であり続けたことが、この松の保存と記念碑建立の要因として挙げられねばならない。(中略) この「樗牛顕彰の碑」建立の記念式典は、昭和16年6月1日に挙行された。
・ 「冥想の松保存会」は昭和17年3月に成田正毅著『高山樗牛冥想の松』と題する記念誌を発行したが、そのなかに、前年(昭和16年6月1日)に行なわれた樗牛顕彰碑建立の記念式典の式次第が掲載されている。」
|
佐々久著「仙台の散策」/WEBサイト・松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』
|
|
戦時下の学園 |
宮城県仙台第二中学校(県立) |
|
★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」
・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506
|
|
自動車など各種車両台数 |
自動車台数(宮城県内) |
1912年(T1)/1918年(T7)/1925年(T14)/1926年(T15) |
* 1912年(T1)10月、仙台市内で初めて乗合自動車の営業始まる(「仙台あのころこのころ八十八年」P242)
* 1918年(T7)、宮城県内で、自動車6台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1925年(T14)、宮城県に168台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
* 1926年(T15)、宮城県に455台(「仙台市史 特別編4 市民生活」P215)
|
「仙台あのころこのころ八十八年」/P242「仙台市史 特別編4 市民生活」P193、P215
|
|
戦時下の学園 |
宮城県第一高等女学校(県立) |
|
★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」
・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519
|
|
大学紛争 |
仙台(3) |
1970年(S45)~1976年(S51) |
<1970年(S45)>
・ 3月9日、宮城教育大学、教授会で卒業式中止を決める
・ 3月30日、東北大学、臨時評議員会で、この年の入学式中止決定
・ 6月19日、仙台三高にゲバ装備の高校生十数人乱入、職員室や窓ガラスなどを破壊
<1972年(S47)>
・ 東北大学学費値上げに抗議した全学ストが長時間続き、2年生全体の3分の2にあたる1500名が新旧単位不足で留年
・ 6月12日、学生が東北大学教養部講義棟封鎖
<1976年(S51)>
・ 2月10日、東北大学教養部、紛争のため講義棟破壊
・ 3月25日、東北大学、卒業式で、演壇占拠事件
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P50、P52/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
|
|
バス |
宮城交通 |
|
→ 項目「宮城交通」参照
|
|
|
盲人専用信号機 |
北六番丁交差点 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月4日、北六番丁交差点に設置(全国初)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P647
|
|
戦時下の学園 |
宮城県第三高等女学校(県立) |
|
★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」
・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522
|
|
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(1) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立
<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)
* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂)
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
|
佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
|
|
バスプール |
仙台駅西口 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)6月10日、供用開始
|
「仙台市史 年表」P132
|
|
木材応召 |
県庁構内の大欅 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P459
|
|
簡易保険保養センター |
県内初 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)12月24日、県内初の松島簡易保険保養センターがオープン
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P48
|
|
自動車など各種車両台数 |
自動車と人力車(全国)大正・昭和の台数 |
T1、T4、S3 |
<「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9>
・ 全国の自動車台数
1922年(T1)、760台
1928年(S3)、6万台
・ 全国の人力車
1922年(T1)、12万7千台
1928年(S3)、 6万2千台
<「日録20世紀 1915年」P35>
・ 全国の自転車
1915年(T4)年末、62万台、
・ 全国の人力車
1915年(T4)年末、12万台
|
【菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P9/「日録20世紀 1915年」P35
|
|
戦時下の学園 |
東北学院中学校(私立) |
|
★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」
・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513
|
|
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(2) |
1941年(S16) |
<商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)
* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成
<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)
* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成
|
「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43
|
|
バスプール |
仙台駅東口 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)6月23日、供用開始 / 東北新幹線の大宮・盛岡間開業の日に
|
「仙台市史 年表」P133
|
|
木炭バス(東京・青バス) |
東京の青バスが木炭バスへ改造決定 |
1938年(S13)7月 |
昭和12年夏からの日中戦争の影響でガソリンの民需用使用が大幅に制限され、代替燃料への切り替えを余儀なくされた
* 1938年(S13)7月、東京の青バスは、すべてのバスを年内に木炭バスは改造することを決定
|
「日録20世紀 1938年」P30
|
|
環境基本条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
杜の都・仙台の良好な環境を保全・創造し、次の世代に引き継いでゆくための基本となる考え方、市・市民・事業者の役割と責務、それぞれの取り組みの基本的な事項を定めるための条例 / 条例に基づき、仙台市における環境の保全と創造に関わる政策・施策の基本的な方向を、環境基本計画「杜の都環境プラン」で定めています
|
仙台市HP「仙台市環境基本条例」
|
|
自動車など各種車両台数 |
人力車台数(仙台市/宮城県内) |
|
→ 項目「人力車」参照
|
|
|
戦時下の学園 |
東北学院高等学部(私立) |
|
★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。
・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」
▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537
|
|
大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(3) |
1942年(S17)以降 |
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目)
|
「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』
|
|
バス優先レーン |
実施 |
1971年(S46)~ |
* 1971年(S46)6月1日、北九番丁~県庁前(国道4号線の1.2キロ)でバス優先レーンを実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P674)
* 1973年(S48)11月1日、北六番丁~苦竹間の一部で、実施
* 1973年(S48)11月16日、秋保街道のバスレーン試験実施
* 1974年(S49)10月22日、仙台市道鹿ノ又線の広瀬橋南~飯田団地入口、井出長町線の結城広瀬橋病院~河原町交番前間でバス優先レーン実施
* 1975年(S50)8月1日、幸町~鶴ケ谷坂下路線、朝7~9時、バスレーン実施
* 1976年(S51)4月30日、泉市八乙女~仙台市役所間、バスレーン実施
* 1976年(S51)5月14日、坂下~仙台駅間、長町線にバス専用レーン実施
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P4、P24、P43、P53、P54
|
|
木炭バス(国有鉄道バス) |
仙鉄局管内 |
1938年(S13) |
「昭和13年、仙鉄局管内のバス、62台中、木炭バスが15台 / 13年秋木炭は大幅に値上がりし品不足となり、バス用木炭は5割から7割も配給を削減された。ついにたきぎを燃料とするバスが出現した。16年9月1日からガソリンの使用は一切禁止された。」
|
「ものがたり東北本線史」P509
|
|
戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
|
★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
|
|
勧工場・商館 |
宮城勧工場 → 東一番丁勧工場 |
1881年(M14)/1882年(M15)~1883年(M26) |
勧工場は勧商場ともよばれ、開発者が建物を建て出店者を募って営業させるのもので、明治期に始まったショッピングセンター
* 1881年(M14)7月20日~10月27日、宮城県(松平正直県令布達)が「宮城勧工場」を片平丁公園(のちの桜ケ丘公園)に開設、正札販売が義務づけられた / 閉場後に出店者有志が借受け11月末まで継続 / 12月4日に民設に移行(出店者32人) / 翌年、東一番丁(「都川」跡地)へ移転し、「宮城勧工場」跡地は料亭「梅林」に
* 1882年(M15)10月8日、「東一番丁勧工場」、宮城勧工場を引継いで東一番丁42(旧「都川」跡地)に開設 / 舶来小間物、日本小間物、絹綿織物、陶器、漆器、筆紙墨、靴、帽子、頭飾、埋木細工、鉄瓶、金具など / のち、「第一勧工場」と改称 / 1893年(M26)、閉鎖
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P36/「仙台市史 年表」P84/「番丁詳伝」P38
|
|
自動車など各種車両台数 |
馬車(仙台市) |
明治・大正 |
* 1889年(M22)、二頭立、8輌
* 1897年(M30)、一頭立、2輌
* 1905年(M38)、一頭立、1輌
* 1916年(T5)頃、12輌
|
「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)
|
|
戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
|
★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
|
|
戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
|
★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
|
|
発電事業 |
仙台電力 |
1908年(M41)~1911年(M44) |
<仙台電力株式会社>
* 1908年(M41)6月23日、仙台電力株式会社、国分町に設立
この年に、宮城郡大倉村岩下に大倉発電所建設着手
* 1908年(M41)、仙台電力株式会社設立、供給区域は仙台市東部、岩切村、高砂村、茂ケ崎村の一部、中田村、西多賀村のほか、宮城、名取、亘理郡下の町村で、1910年(M43)に営業開始
* 1910年(M43)4月1日、仙台電力、大倉発電所の運転開始
<仙台市が買収>
* 1911年(M44)7月1日、仙台市、仙台電力株式会社を買収し仙台市電気部を設置
|
「仙台市史 年表」P94、P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
|
|
文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
|
|
勧工場・商館 |
仙台商館/仙台勧工場/東奥商館/改良勧工場/停車場勧工場/伊沢勧工場/共同商館/博品館/名掛丁勧工場/仙台物産陳列所/仙台織物陳 |
|
* 1890年(M23)11月13日、「仙台商館」、東一番丁・定禅寺通り突き当りに開館
* 1890年(M23)11月21日、「仙台勧工場」、虎屋横丁に開場
* 1891年(M24)6月13日、「東奥商館」、新伝馬町に開設
* 1891年(M24)10月5日、「改良勧工場」、東一番丁に開設
* 1891年(M24)?または1895年(M28)?12月、「停車場勧工場」、仙台駅前(北向かい)に開設
* 1901年(M34)8月、「伊沢勧工場」(伊沢商館)、大町4丁目と東一番丁の交差点に開設(木造3階建で近代的な陳列法) / 1925年(T14)6月30日に焼失(「明治の洋風建築~宮城県~」P112)
* 1908年(M41)5月、「共同商館」、新伝馬町に開設
* 1909年(M42)5月、「博品館」、東一番丁に開設
(明治15年~42年の間に、東一番丁に4軒の勧工場ができた)
<「番丁詳伝」P38~39より>
・ このほかに、名掛丁勧工場、仙台物産陳列所、仙台織物陳列所(国分町)
・ 「番丁詳伝」P39に、「勧工場一覧表」
・ 火災にあうことも多く、明治40年には「伊沢勧工場」と「駅前陳列場」のほかは見るべき勧工場はない有様
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P37~38/「仙台市史 年表」P87/「明治の洋風建築~宮城県~」P112/「番丁詳伝」P38~39
|
|
戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
|
★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
|
|
文字・漢字の表記 |
新聞のルビ廃止 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)12月1日、紙面のルビ廃止、新カナ使い、左横書きとなる
|
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
|
|
幹線道路 |
|
|
・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
|
|
|
自動車専用道 |
東北自動車道 |
|
→ 項目「東北自動車道」参照
|
|
|
戦時下の学園 |
吉田高等女学校(私立) |
|
★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称
・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」
▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529
|
|