項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
|
【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
|
「番丁詳伝」P94~95
|
|
年中行事(まつり) |
青葉まつり |
1956年(S31)~ |
→ 項目「青葉まつり」参照
|
|
|
年中行事(まつり) |
東北三大まつり |
1969年(S44)~ |
* 1969年(S44)5月30日、仙台七夕、秋田竿灯、青森ねぶた、仙台市内でパレードを行う
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P649
|
|
青少年団 |
仙台市青少年団結成 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成
仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日
仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月
仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日
仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日
* 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散
|
「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505
|
|
仙台七夕 |
戦時中の休止 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~ 出典は、右欄の1)2)3)4)に ~
1) 1938年(S13年)から、戦前の仙台七夕は中止となった(日中戦争の本格化により)
2) 仙台七夕祭、S13年に自粛、翌年から廃止
3) 1939年(S14)8月6日、仙台七夕の飾りつけを廃止す
4) 1939年(S14)、8月6日から始まる仙台の七夕は廃止と決定した
|
1) 阿南透 都市祭礼「仙台七夕まつり」の成立と変容 P8/
2)「仙台市史 年表」P109/
3)「仙台年表」P209 (その出典は「河北新報」)/
4)「ものがたり東北本線史」(鉄道弘済会東北支部)P510
|
|
三原時計店 |
大町の店、取壊し |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築
|
あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
|
|
国鉄(戦後) 3 |
東北本線以外 |
1976年(S51)~1987年(S62)4月 |
* 1976年(S51)3月17日、公労協春闘24時間ストで国鉄幹線網マヒ
* 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休
* 1977年(S52)4月、仙台発列車のほか古川発にも禁煙列車追加
* 1978年(S53)4月13日、動労などスト突入、長距離列車全面マヒ
* 1980年(S55)4月15日、国鉄・私鉄などストライキ
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、東北線全面ストップ、仙石線も戦後初めて不通、仙台市内で11万戸停電
* 1981年(S56)10月1日、国鉄、「フルムーン」を発売
* 1982年(S57)2月15日、仙石線の榴ヶ岡・宮城野原・苦竹・福田町・陸前高砂・下馬・西塩釜駅業務を民間委託
* 1983年(S58)10月2日、仙石線に特別快速列車
* 1985年(S60)3月1日、仙台圏にグリーンライナー新型電車運転
* 1985年(S60)10月11日、閣議、国鉄を1987年4月に6分割・民営化を決定
* 1986年(S61)1月30日、仙台圏の電車は、4人掛けをロングシートに改造
* 1986年(S61)4月25日、仙台圏輸送改善のグリーンライナー第1号が仙台運転所に配属
* 1987年(S62)4月1日、国鉄分割民営化、仙台に東日本旅客鉄道株式会社(JR東日本)東北地域本社が発足、JRグループ11法人と国鉄清算事業団が発足
→ <これ以降は、項目「JR東日本」へ>
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P66、P68/「続・ 宮城県郷土史年表」P52、P53、P67、P80、P110、P120、P142、P166、P189、P201、P204、P221/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P75
|
|
年中行事(まつり) |
SENDAI光のページェント |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)12月12日~27日、第1回「SENDAI光のページェント」開催(定禅寺通りと青葉通り)
|
「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P215
|
|
三原時計店 |
空襲で焼失 |
1945年(S20) |
* 1945年7月10日、仙台空襲で、大町の店舗を焼失
|
三原本店HP
|
|
国鉄(東北本線) 1 |
旅客・貨物輸送
|
1887年(M20)~1945年(S20)夏 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、上野~仙台~塩釜間、開通 / 合わせて仙台駅をはじめ白石、大河原、岩沼、岩切、塩釜等の各駅営業を開始 (当時は私鉄・日本鉄道)
* 1887年(M20)12月20日、上野~仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、日本鉄道の仙台~青森間が全線開通
<国有鉄道>
* 1906年(M39)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された(所管はM41年12月内閣鉄道院、T9年5月に鉄道省)
* 1920年(T6)6月、仙台駅に急行列車登場(東北線経由と常磐線経由の上野~青森間に各1往復 / 上野・仙台間の所要時間は、東北本線経由8時間12分、常磐線経由8時間1分 / 料金(上野~仙台)は運賃(3等)2円62銭、急行券50銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P200)
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
* 1939年(S14)11月15日、国鉄ダイヤ改正、旅客列車を従とし、貨物輸送を主とする(戦時輸送完遂)
* 1940年(S15)8月1日、上野・青森間急行103・104列車の食堂車廃止(食堂車を傷痍軍人用の病院車に改造)
* 1940年(S15)8月、仙鉄局、見学旅行も一切認めない方針発表(このころ、すべての列車の乗車率が定員の2倍以上)
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1942年(S17)10月6日閣議決定、東北本線は石炭輸送第一、北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送
* 1943年(S18)2月、東北本線、食堂車、寝台車を全廃
* 1944年(S19)4月1日、決戦輸送体制、運賃値上げと厳しい旅客抑制、(乗車券を買うのに2日も3日も並んで待つ)
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月末、唯一の急行列車も廃止)
* 1944年(S19)4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間(東北本線、常磐線の輸送計画は、14万8791人)
* 1944年(S19)7月上旬~9月上旬、学童集団疎開輸送
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、仙台駅、仙台鉄道局など焼失
|
<日本鉄道時代>「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200
<戦時中> 「ものがたり東北本線史」P511、P516、P518、P529、P530、P531、P546/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
|
|
三原時計店 |
戦後 |
1846年(S21)~ |
* 1846年(S21)6月、新築開店
* 1953年(S28)2月、株式会社三原本店と称し法人組織に
* 1968年(S43)12月、(旧)大町5丁目内で移転(現・一番町3丁目2-23に移転)、地下1階地上3階
* 1978年(S53)、増築
* 1987年(S63)3月、創業100周年
|
三原本店HP/あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217
|
|
政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
|
|
パーマネント |
|
1934年(S9)頃~ |
* 1934年(S9)頃から、一般家庭婦人の間に流行りだす
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P314/岩波ブックレット「年表昭和史」P12
|
|
政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
|
|
仙台七夕 |
花火大会 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催(仙台青年会議所主催)
|
「仙台市史 年表」P127/「番丁詳伝」P187
|
|
国鉄(東北本線) 4 |
電化 |
1961年(S36)/1965年(S40)/1968年(S43) |
* 1956年(S32)8月3日、上野~仙台間の電化起工式
* 1958年(S33)4月14日、上野~宇都宮間の電化完成
* 1961年(S36)3月1日、上野~仙台間の電化完成(S31年8月起工)
(菅家年表では、1961年(S36)5月1日東京~仙台間電化され特急電車が走る)
* 1965年(S40)10月1日、仙台~盛岡間の電化完成
* 1967年(S42)10月1日、東北本線、岩沼~福島駅間が複線電化して開通 / 同日に、東北本線特急の東京駅乗り入れも実現
* 1968年(S43)10月1日、青森まで東北本線全線電化完成
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P582、P588、P599、P621、P635、P643/「仙台市史 年表」P121、P124/「仙台駅前商店街振興組合の歩み」(年表)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P55、P62
|
|
政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
|
「仙台市史10 年表」P311
|
|
国鉄(常磐線) |
戦前・戦後 |
昭和末年まで |
<戦時中>
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月または12月、唯一の急行列車も廃止)
<戦後>
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始
* 1976年(S51)4月20日、交通ゼネストで、常磐線全面運休
<戦後・電化>
* 1967年(S42)10月1日、常磐線電化完成
|
Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/「重訂 宮城県郷土史年表」P635
|
|
青年訓練所 |
設置 |
1926年(T15)7月1日 |
<「日録20世紀 1926年」P42>
1925年(T14)に軍縮を実施した陸軍が文部省に整備を要請/ 尋常小学校卒業者で徴兵検査前の青年を対象とする教育機関(4年制) / 主に小学校や実業補修学校に併設、修身公民科と教練が必修、普通科と職業科があった
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P451>
1926年(T15)、文部省が管轄し、市町村に設置させた / 16歳~20歳までの男子の勤労青年に、修身・公民・職業・普通学科の教育と、主に在郷軍人による軍事教練を課すもので、兵卒の養成を目的にしたもの / これを終了すると兵隊になった時の在営期間が短縮された
***************************************
1926年(T15)4月1日、青年訓練所令及同規則公布 / 同年7月1日、青年訓練所を仙台市内12か所に設置
1931年(S6)7月5日、青年訓練所5周年記念一市三郡連合野外演習(宮城野原で)
1932年(S7)7月13日、青年訓練所連合演習
* 1935年(S10)4月、実業補習学校と青年訓練所が統合され、青年学校となる
|
「日録20世紀 1926年」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P267、P276、P278/「番丁詳伝」P123
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
|
|
学制改革(戦前) |
尋常、高等を分離 |
1916年(T5)4月1日 |
* 1916年(T5)4月1日、仙台市、小学校組織を改正して尋常科と高等科を分離し、尋常小学校11校、高等小学校2校の編成とする
|
「仙台市史 年表」P97
|
|
宮城県旗の図案 |
選定 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、県旗図案を全国的に公募、みやぎの「み」を図案化した作品が当選
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P626~627
|
|
学制改革(戦前) |
国民学校 |
1941年(S16)4月~1947年(S22)3月 |
1) 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
・ 初等科6年、高等科2年
・ ほかに特修科 (1年) をおくこともできた
2) 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布
(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
|
1)「重訂 宮城県郷土史年表」P482
2) 岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
|
|
青年団 |
青年団結成 |
戦前、戦後 |
* 1908年(M41)~1909年(M42)、宮城県青年団体規定準則に基づき、宮城郡に52団体、名取郡に20団体の青年団が結成される
* 1939年(S14)、大日本青年団に改組
* 1941年(S16)、大日本青少年団に改組されるにつれ戦時色が強まる
* 1945年(S20)、戦時教育令によって、本土決戦に備える「大日本学徒隊」戦士とされた
<戦後>
* 1946年(S21)、仙台市男女青年団連合会発足(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1947年(S22)2月11日、宮城県連合青年団結成(各郡市青年団加盟)(「重訂 宮城県郷土史年表」P516)
* 1950年(S25)、宮城県青年団解散と新青年団の再発足 / 数年間は参加人数も増え、共同学習、生活記録運動、体育・文化両面にわたる各種青年大会など多彩な運動が、経済復興や民主化の社会的な空気の中で、生き生きとした活動を生み出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452)
* 1952年(S27)4月13日、宮城県連合青少年団発足(「重訂 宮城県郷土史年表」P555) / 「仙台市史10 年表」P328では、連合青年団
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P452/「仙台市史 年表」P94/「重訂 宮城県郷土史年表」P516、P555/「仙台市史10 年表」P328
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
進駐軍相手の「特殊慰安施設」 |
1945年(S20)秋~1946年3月 |
<特殊慰安施設>
「特殊慰安施設」(RAA)は、占領軍向け性的慰安施設で、内務省の指令で警察が中心となって仙台や県内各地につくられた
・仙台では、小田原の公娼貸座敷業11軒、東八番丁の私娼料理屋11軒が、進駐軍の「性的慰安」に対応させられた
・小田原中江南にあった造兵廠の挺身隊寮が改造され特殊慰安施設とバー・キャバレー、ビリヤード場、ダンス・ホールを一体化した巨大な料理店兼遊興場となった / ここには、酌婦300名、女給・ダンサー100名がいたというが、警察の資料では100名が慰安婦だったという
・ 「特殊慰安施設」は、施設に出入りした兵士に性病が急増したことや米国本土の世論の反発によって、1946年(S21)3月にすべて廃止となった (以上、「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 仙台料理店組合では「国際料理店」(有志でバー、キャバレー、球つき場、特殊慰安所を総合した施設)の敷地選定を急ぎ、仙台市小田原に設けられた(酌婦300人、女給・ダンサー100人)(以上、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68)
・ 進駐軍将校のパーティーへ芸者派遣要請あるも、応じる女性なく、責任者が謝りに会場へ / 翌日米軍から警察部長に出頭命令(「番丁詳伝」P158)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P326/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68/「番丁詳伝」P158
|
|
宮城県県民の森 |
開園 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)10月、開園 / 仙台市と泉町(当時)、利府町にまたがる
|
「仙台市史 年表」P126
|
|
学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
|
|
国道45号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道45号は、仙台市から太平洋沿岸を経て青森市に至る一般国道
<111号 →45号>
* 1953年(S28)5月、仙台・八戸線が二級国道111号に
* 1962年(S37)5月、二級国道の111号(八戸・仙台間)を含む仙台・青森間が国道45号に
* 1963年(S38)4月、二級国道45号線を一級国道に格上げ
|
「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P644
|
|
青年団 |
女子青年団 |
|
<未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。
* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など
<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設
<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457
|
|
仙台トラック輸送センター |
開業 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月、仙台トラック輸送センター、仙台流通センター地区内に開業(「続・ 宮城県郷土史年表」P16では、仙台トラック事業協同組合が12月完成)
|
「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P16
|
|
宮城県弘報誌「みやぎ」 |
第1号 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、宮城県弘報機関誌「みやぎ」1号発行(月刊)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P626
|
|
国道48号線 |
二級国道指定/一級国道に格上げ |
1953年(S28)/1963年(S38) |
国道48号は、仙台市青葉区から山形市に至る一般国道
<110号 →48号>
* 1953年(S28)5月、仙台・山形線(旧関山街道)が 二級国道110号に
* 1962年(S37)5月、仙台・山形間が、二級国道110号 →国道48号に
* 1963年(S38)6月4日、国道48号線(仙台~山形)を一級国道に指定
* 1968年(S43)11月21日、国道48号線の新関山トンネル完成(仙台~山形間が車で1時間半となる)
|
「仙台市史 年表」P118、P122、P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P644
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
米、大減収 |
|
* 1945年(S20)は凶作で、20年産米の供出量は、21年3月で66%
* 1946年(S21)産米は、前年に比べやや持ち直す
* 1947年(S22)、大減収(7、8月の豪雨と9月のカスリーン台風)
* 1948年(S23)、大減収(アイオン台風)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70、P72
|
|
学制改革(戦後) |
新制高校 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
・ 仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足
・ 仙台市内の新制高校一覧(昭和23年)→ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P275に、県立8校(男子5校、女子3校)、市立5校(男子4校、女子1校)、私立12校(男子5校、女子7校)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
|
「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P333/「仙台市史 特別編4 市民生活」P275
|
|
学制改革(戦後) |
新制大学 |
1949年(S24) |
<新制大学>
1947年(S22)制定の学校教育法に拠り、高等教育を行う教育機関
・ これ以前の帝国大学令や大学令等による大学は旧制大学と呼ばれるようになる
・ 戦前の旧制大学、旧制高等学校、師範学校、高等師範学校、大学予科および旧制専門学校を、4年制の新制大学として再編
・ 新制国立大学は、1949年(S24)施行の国立学校設置法に基づいて設置
<宮城県内>
* 1949年(S24)、新たに設置開設された新制大学(私立)
・4月1日開設、東北学院大学、東北薬科大学
・10月27日開設、宮城学院女子大学
* 昭和20年代の短期大学開設
・1950年(S25)に、東北学院、尚絅、宮城の私立3校
・1951年(S26)に、三島、聖和の私立2校
・1952年(S27)に、宮城県農業短期大学
* 1949年(S24)5月31日、国立学校設置法に基づく東北大学設置(第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校・宮城県女子専門学校が東北大学に統合される)(旧制東北帝国大学は、すでに昭和22年10月1日に東北大学に改称していた)
* それ以降に県内で開設された、新制大学、短期大学は → 項目「大学・短大」参照
|
「仙台市史 年表」P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96
|
|
国民義勇隊 |
結成~解散 |
1945年(S20) |
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
* 1944年(S19)8月4日、閣議、国民総武装決定(竹槍訓練など始まる)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
竹槍は1945年(S20年)には国民義勇隊における主要武器と位置付けられた
* 1945年(S20)3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された(「日録20世紀 1945年」P16)
* 1945年(S20)6月22日、国民義勇兵法施行(男15~60歳、女17~40歳に義勇兵役の義務)(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)8月15日、天皇、戦争終結の詔書を放送(玉音放送)、第二次世界大戦終る (岩波P24)
* 1945年(S20)8月21日、国民義勇隊を解散(「菅家年表」P34)
|
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21、P24/仙台市史10年表」 P309/「菅家年表」P34/「日録20世紀 1945年」P16
|
|
国民義勇隊 |
宮城県関連 |
1945年(S20) |
【出典記載あるものを除き、「戦争のころ 仙台、宮城」P198~200より転記】
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業 (12歳)以上で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
* 1945年(S20)5月31日、刈田郡連合国民義勇隊結成(県内初) / 6月9日までに、全県下3市194町村で国民義勇隊結成(「宮城県知事事務引継書」昭和20年6月10日)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(「仙台市史年表」P113)
* 1945年(S20)7月5日、護国神社前で「仙台市国民義勇隊」結成、市長が全市民に向かって「火の玉となって敵撃滅の戦列に参加しよう」と呼びかけた(「仙台市史 続編第1巻」P53)
* 1945年(S20)7月5日、仙台市国民義勇隊、宮城県護国神社で結成式 / 丸山知事(国民義勇隊宮城県本部長)は「郷土防衛の組織体として訓練と活動をなすのみならず、事態急迫して軍の要請あらば戦闘隊として戦線にでて軍務に服すのであり、これが従来の国民運動と大きく異なるところであります」と談話を発表(「戦争のころ 仙台、宮城」P199)
・ 宮城県の義勇隊副本部長は一力次郎河北新聞社社長と佐藤正在郷軍人会県支部副長(陸軍少将)、事務局長は長門頼三宮城県商工経済会事務局長
・ 国民義勇隊は、国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下で編制、隣組を単位として分隊を,公会単位で小隊、戦闘部隊に移行する場合は中隊を編制する、本隊は市長が隊長となって統率、本部は市役所内に置く
「大本営陸軍部は「国民抗戦必携」「国民築城必携」を刊行して国民に配布、国民義勇戦闘隊の教育参考書として敵と戦う方法を教えた / 河北新報は、10回にわたって、仙台連隊区司令部の解説つきで「国民抗戦必携」を連載したが、それはまさに殺人のやり方教授法でした。 / 狙撃、手りゅう弾の投げ方、戦車肉薄攻撃、ガス、火災防護などとともに「白兵戦闘格闘」の項目もあり、刀、やり、出刃包丁や玄能(金槌)などでの戦い方を挿絵入りでこまごまと説明。」
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(「仙台市史年表」P113~P114、「仙台市史10 年表」P309)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P198~200/「仙台市史年表」P113~114/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P53/「仙台市史10 年表」P309
|
|
政令指定都市 |
仙台市 |
1989年(H1)4月1日 |
仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる / 区制施行(青葉区、宮城野区、若林区、太白区、泉区)
|
「仙台市史 年表」P135
|
|
宮城県社会福祉事業会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月27日、落成式(外記丁北一番丁角)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P569
|
|
学童疎開 |
仙台の学童 |
|
・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。
<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150
|
|
国民金融公庫 |
仙台支所 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)6月1日、仙台市に開設
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P550
|
|
セコイヤの化石 |
|
|
100万年前の第四紀洪積世に死滅したといわれるセコイヤが、霊屋橋(おたまやばし)下の広瀬川の中に、数十本残存しており、天然記念物に指定されている
|
「仙台市市史 続編1」P410
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
家畜も激減 |
|
<市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減
<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72
|
|
学徒勤労動員 |
時代背景 |
|
1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科以外の学校は授業停止となる
|
|
|
国民勤労動員令 |
施行 |
1945年(S20) |
<国民勤労動員令> (「日録20世紀 1945年」P13、P42)
* 1945年(S20)3月6日公布、病人にも登録を義務化 / 3月10日施行
/ 本土決戦にそなえ、国民徴用令、女子挺身勤労令、国民勤労報国令、労務調整令、学校卒業者使用制限令の五勅令を統合・強化して発された勅令 病人にも登録を義務化 老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざすものだった
<戦後>
* 1945年(S20)12月20日、国家総動員法・戦時緊急措置令廃止を公布(S21年施行)(「日録20世紀 1945年」P35、「重訂 宮城県郷土史年表」P311)
|
「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P311
|
|
戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P512
|
|
宮城県青年会館 |
開館 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)12月23日、元寺小路に開館
* 1969年(S44)4月、銀杏町に移転
* 1977年(S52)9月1日、原町小田原の宮城県立農業試験場跡地に新築移転して開館
|
「仙台市史 年表」P119、P126、P131
|
|
学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
|
文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
|
|
国民健康保険 |
仙台市、80歳以上10割給付 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、仙台市国民健康保険は、80歳以上の老人に10割給付実施
* 1966年(S41)10月1日、仙台市国民健康保険、家族給付を7割とする
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P628
|
|
仙台美術館 |
開館 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)2月25日、財団法人仙台美術館、斎藤報恩会館内に開館
* 1973年(S48)、柳町の河北ビルに移転
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197/「仙台市史 年表」P126、P129/「重訂 宮城県郷土史年表」P646
|
|