項目 |
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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
映画館(戦後) |
第一映画劇場 |
1945年(S20)? |
* 1945年(S20)1月、開設(北日本興業、500席)
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に第一劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
<編者注> 太平洋戦争末期に、映画館開設は考えにくが・・・?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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映画館(戦後) |
松竹映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)4月、南町通12に開設(560席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P510
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映画館(戦後) |
南街映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)、舟丁64に開設(460席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P515
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映画館(戦後) |
公園劇場 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)1月、鉄砲町5に開設(350席)
* 1975年(S50)3月16日、全焼
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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映画館(戦後) |
仙台劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、東三番丁40に開設(大映、888席) / 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P198では、場所は定禅寺通・櫓町
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P198
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映画館(戦後) |
銀映画劇場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、旅籠町に開設(200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546
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映画館(戦後) |
連坊映画劇場 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)2月、連坊小路61に開設(双葉興行、200席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P561
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映画館(戦後) |
南日乃出劇場 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)11月、長町1丁目にオープン
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「続・ 宮城県郷土史年表」P34
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NHK全国児童唱歌コンクールで連続優勝 |
材木町尋常小学校が5回優勝 |
1934年(S9)~1936年(S11)/1938年(S13)、1939年(S14) |
S7年、8年の東二番丁尋常小学校に続き、S9年、10年、11年、13年、14年は、南材木町尋常小学校が計5回全国優勝した
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「NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P444
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NHK東北児童唱歌コンクール |
荒町国民学校が優勝 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)11月10日、東北6県から国民学校代表12校参加、第1位に荒町国民学校、第2位に宮城師範女子部付属国民学校 / 「このころ二部授業や青空教室で不自由な思いをしていた児童や父兄の憂鬱を吹き飛ばした」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P94
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NTT東北支社 |
民営化スタート |
1985年(S60) |
<これ以前は、項目「日本電信電話公社」に>
* 1985年(S60)4月1日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
* 1988年(S63)4月1日、NTT東北支社が、仙台周辺地区で、伝言ダイヤルサービス開始
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「仙台市史年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P242
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MRI |
東北初 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)月日、東北初のMRI(永久磁石共鳴画像診断装置)、塩釜の掖済病院に導入
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「続・ 宮城県郷土史年表」P242
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エル・パーク仙台 |
開館 |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)3月20日、エル・パーク仙台(仙台市婦人文化センターの愛称)が、141ビル内に開館
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P459
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大型店・量販店 |
長崎屋 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)6月、仙台店開店 / 場所は、東一番丁北部、戦後の三陸(大型雑貨店)の跡地
* 1983年(S58)10月にファッションビル「長崎屋仙台シャル」に業態転換(ウィキペディア「長崎屋」)
* 2000年(H12)2月に長崎屋が会社更生法を適用したことに伴い、同年9月に撤退(ウィキペディア「長崎屋」)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「番丁詳伝」P221/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「長崎屋」2021年3月30日版
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大型店・量販店 |
庄子デンキ |
1971年(S46)~2008年(H20) |
* 1971年(S46)11月13日、長町本店新築落成 / のち、東北地方に家電量販店チェーンを展開 / 2000年からラオックスの連結子会社 / 2008年(H20)8月、全店舗閉鎖
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「続・ 宮城県郷土史年表」P4/Wikipedia「庄子デンキ」(2019年)
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大型店・量販店 |
十字屋 |
1972年(S47)~2005年(H17) |
* 1972年(S47)4月20日、十字屋仙台店オープン(仙台駅西口前、百貨店)
* 1974年(S49)11月5日、増築オープン
* 2005年(H17)、閉店(当時はダイエーの100%子会社)
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「わが心の仙台駅前史」年表/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「続・ 宮城県郷土史年表」P34
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大型店・量販店 |
ジャスコ/フォーラス |
1975年(S50)/1984年(S59) |
* 1975年(S50)5月、仙台店進出(一番町の仙台日活の跡地)
* 1984年(S59)、ジャスコ仙台店からの業態転換「仙台フォーラス」開業 / イオングループのファッションビル「フォーラス」の第1号店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/ウィキペディア「仙台フォーラス」2021年1月24日版
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大型店・量販店 |
イトーヨーカドー |
1992年(H4) |
* 1992年(H4)7月、イトーヨーカドー仙台泉店開店
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P41
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大橋(広瀬川) |
洪水で木橋が流失 |
1874年(M7)/1889年(M22) |
* 1874年(M7)7月20日、大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
* 1889年(M22)9月11日、暴風雨あり大洪水となり、大橋・澱橋・広瀬橋などが流失
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「仙台市史 年表」P81、P87/「仙台あのころこのころ八十八年」P238/「重訂 宮城県郷土史年表」P284
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億ション |
東北初 |
1989年(H1) |
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
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「続・ 宮城県郷土史年表」P258
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音楽コンクール |
若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール |
1995年(H7) |
* 1995年(H7)、第2回、若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール、仙台で開催 / チャイコフスキー国際コンクールの姉妹コンクール、ジュニア部門で、2~5年間隔で会場は各国もちまわりで開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」(2020年5月)
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音楽コンクール |
仙台国際音楽コンクール |
2001年(H13) |
* 2001年(H13)、第1回仙台国際音楽コンクール、開催
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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海岸公園 |
全面復旧オープン |
2018年(H30) |
七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる
* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開
<施設内容>
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場
<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」
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仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385
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偕行社 |
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→ 項目「仙台偕行社」参照
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学制改革(戦前) |
尋常、高等を分離 |
1916年(T5)4月1日 |
* 1916年(T5)4月1日、仙台市、小学校組織を改正して尋常科と高等科を分離し、尋常小学校11校、高等小学校2校の編成とする
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「仙台市史 年表」P97
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学制改革(戦前) |
国民学校 |
1941年(S16)4月~1947年(S22)3月 |
1) 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
・ 初等科6年、高等科2年
・ ほかに特修科 (1年) をおくこともできた
2) 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布
(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
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1)「重訂 宮城県郷土史年表」P482
2) 岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
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学制改革(戦後) |
新制高校 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
・ 仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足
・ 仙台市内の新制高校一覧(昭和23年)→ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P275に、県立8校(男子5校、女子3校)、市立5校(男子4校、女子1校)、私立12校(男子5校、女子7校)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P333/「仙台市史 特別編4 市民生活」P275
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学制改革(戦後) |
新制大学 |
1949年(S24) |
<新制大学>
1947年(S22)制定の学校教育法に拠り、高等教育を行う教育機関
・ これ以前の帝国大学令や大学令等による大学は旧制大学と呼ばれるようになる
・ 戦前の旧制大学、旧制高等学校、師範学校、高等師範学校、大学予科および旧制専門学校を、4年制の新制大学として再編
・ 新制国立大学は、1949年(S24)施行の国立学校設置法に基づいて設置
<宮城県内>
* 1949年(S24)、新たに設置開設された新制大学(私立)
・4月1日開設、東北学院大学、東北薬科大学
・10月27日開設、宮城学院女子大学
* 昭和20年代の短期大学開設
・1950年(S25)に、東北学院、尚絅、宮城の私立3校
・1951年(S26)に、三島、聖和の私立2校
・1952年(S27)に、宮城県農業短期大学
* 1949年(S24)5月31日、国立学校設置法に基づく東北大学設置(第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校・宮城県女子専門学校が東北大学に統合される)(旧制東北帝国大学は、すでに昭和22年10月1日に東北大学に改称していた)
* それ以降に県内で開設された、新制大学、短期大学は → 項目「大学・短大」参照
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「仙台市史 年表」P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96
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学童疎開 |
仙台の学童 |
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・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。
<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150
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学徒勤労動員 |
時代背景 |
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1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科以外の学校は授業停止となる
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(2)~さらに拡大し通年動員へ~ |
1943年(S18)10月/1944年(S19)4月 |
* 1943年(S18)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)
・学校報国隊の戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底、女子は戦時救護の訓練実施
<勤労動員は1年の3分の1へ>
* 1943年(S18)10月、「教育に関する戦時非常措置方策」により、学校修業年限の抑制、学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等を決定 / 勤労動員を在学期間中1年につき、概ね3分の1相当期間実施
* 1944年(S19)1月、「緊急学徒勤労動員方策要綱」決定
・動員期間は1年につき概ね4か月を標準とし、『継続して』行う」
<学徒の通年動員>
* 1944年(S19)2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定
・中等学校程度以上の学徒は、「今後1年、常時勤労その他非常勤務に必要に応じて動員」を決定
* 1944年(S19)3月、「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」を閣議決定
・1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導、教職員による勤務管理
* 1944年(S19)3月末、文部省、詳細な学校別動員基準を決定し指令 / 全国の学徒は、4月半ばごろから続々と軍需工場へ動員された
* 1944年(S19)5月、文部省が指示「勤務時間中に、軍事教育、教授訓育等のため、1週6時間を原則とする時間を設ける」
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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学徒出陣 |
徴集猶予停止 |
1943年(S18)10月 |
* 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)
「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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学徒出陣 |
壮行式など |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
北五十人町など |
1891年(M24) |
* 1891年(M24)5月19日、北五十人町・角五郎丁で、25戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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火災(地域) |
新伝馬町北側 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)1月21日、新伝馬町北側で、33戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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火災(地域) |
福田町 |
1902年(M35) |
* 1902年(M35)4月6日、宮城郡高砂村福田町、72戸焼失
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「仙台市史 年表」P92
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