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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台簡易保険局/仙台地方簡易保険局 |
開局 |
1936年(S11)/1949年(S24) |
* 1936年(S11)4月、北一番丁(現・上杉3丁目)に「仙台簡易保険支局」が開局 / 同年2月に鉄筋コンクリート4階建て庁舎建設(当時は東北地方随一の大ビルディング)
<戦後、米軍が接収>
* 1945年(S20)9月、進駐軍が接収 / 敗戦後は、関東以北の占領に責任を持つ進駐軍(米軍)の軍団司令部が仙台におかれたが、占領の中枢機能を置くため、簡易保険支局庁舎を接収 / のちに米軍病院(172ステーション・ホスピタル)として使用 / 病院は1950年(S25)からの朝鮮戦争で負傷した兵士で満杯になり、多い時には250病床に500人以上が入院し、廊下までベッドが置かれた / 戦死した遺体を本国に送る前にここできれいにする作業を日本人医師が高額の報酬で手伝った(「戦争のころ 仙台、宮城」P245)
<接収中は移転し業務>
* 簡易保険局は市内の学校(8校)に分散、その後に原町安養寺下の元陸軍造兵廠仙台出張所跡に移転
* 1946年(S21)7月1日、仙台貯金支局・仙台簡易保険支局設置
* 1949年(S24)、郵政省の設置に伴い「仙台地方簡易保険局」と改称
* 1949年(S24)末~1951年(S26)8月、長町新屋敷に庁舎建設し移転(S26年1月17日、工事中に1棟全焼)
<接収解除>
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍・駐留軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビル(北一番丁)が、12年ぶりに返還される / 病院として使用されていたので返還後内部を改修
* 1958年(S33)6月、改修工事完了し、長町から移転(のち、仙台地方貯金局と共同利用)
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「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 年表」P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P596、P585/「仙台市史10 年表」P313、P325/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P285/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584~585/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P245
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99-100/「目で見る仙台の歴史」P163/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P584(簡保ビル)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P41(S33、仙台駅界隈空撮、画面右上の白いビル)
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東京オリンピック(昭和15年) |
決定/返上 |
1936年(S11)/1938年(S13) |
* 1936年(S11)7月31日、国際オリンピック委員会、1940年の第12回大会開催地を東京と決定
* 1938年(S13)、日中戦争のため、東京オリンピックを返上
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文学碑など(仙台) |
藤村の詩碑 |
1936年(S11)/1965年(S40) |
* 1936年(S11)、八木山の一角に建立 / 戦後荒廃し、碑が雑草と雑木林に埋もれる
* 1965年(S40)10月、八木山動物公園開園に伴い敷地内に入り、自由に参観出来ないため、天守台跡に移転
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P190~191
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「新・目で見る仙台の歴史」P151(八木山の詩碑を見る藤村夫妻)/「目で見る仙台の歴史」P167
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気象台 |
仙台測候所/仙台地方気象台/仙台管区気象台 |
1937年(S12)/1939年(S14)/1945年(S20) |
* 1937年(S12)10月28日、中央気象台仙台測候所を仙台に開設
* 1939年(S14)11月1日、仙台測候所、仙台地方気象台と改称
* 1945年(S20)8月1日、仙台管区気象台に昇格
* 1946年(S21)6月10日、仙台地方気象台仙台航空気象観測所を仙台測候所仙台航空気象観測と改名
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台市史10 年表」P309/「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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「目で見る仙台の歴史」P193(榴岡の仙台管区気象台)
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文化勲章 |
宮城県関係受賞者 |
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* 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布
(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄
****** 以上、昭和50年まで ******
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569
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仙台市電 |
戦時対応 |
1943年(S18)~1944年(S19) |
* 1937年(S12)3月、応召者の欠員補充のため、初めて女性車掌の採用(見習生に67名応募、20名採用 / 同年8月に2回目募集(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 戦時中の1日当たりの利用者
S16年度 6万2600人 S17年度 7万200人
S18年度 7万5700人
特に、民間の軍需工場が集中していた長町へは市電利用者が多く始発時間を5時と10分間繰上げ、ラッシュ時は長町線の車両を7両増発して10分に3本運行、乗降客数の少ない9つの停留所を通過する「急行列車」を運行、近距離を電車通学する中学生・女学生には徒歩通学を勧めた
午後10時の終電車発車後は野菜などの食糧を輸送
S19年以降は一般家庭が防空壕を作るための木材を運搬(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1943年(S18)4月1日、戦時下輸送確保のため、市電停留所15カ所廃止(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188)
* 1944年(S19)3月31日、芭蕉の辻線撤去(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」末尾年表P188) / 軌道(レール)を戦時供出(金属回収)のため撤去(「仙台市史 特別編4 市民生活」P92)
* 1944年(S19)ころ、男性運転手不足から女性車掌を運転手に転用(「仙台市史 特別編4 市民生活」P366)
・ 男性運転手は徴兵による入隊や徴用が増えて117人のうち50人が欠員となり、18人の女性運転手が取って代わった / 勤労動員の市立仙台工業学校機械化4年生30余人も運転練習1日後には運転したが、その後まもなく別の軍需工場へ動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P161)
* 1944年(S19)(「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188)
1月10日、早朝割引制度廃止
7月1日、工員定期券新設、料金10銭均一に
回数券式から定期券式に改正
急行電車運転(8時30分まで)
8月1日、産業戦士輸送のため、循環線朝夕運休
11月22日、物資輸送用電車運転
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P92、P366/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P188/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P161
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「新・目で見る仙台の歴史」P163(女性車掌たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P209(モンペ姿の女性運転手たち・S19年頃、乗客長蛇の列)、P366(戦時中の市電女性運転手たち、モンペ姿)
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ヘレンケラー女史 |
来仙 |
1937年(S12)/1948年(S23) |
* 1937年(S12)6月31日、仙台市公会堂で講演を行い、翌日に宮城県立盲亜学校を訪問
* 1948年(S23)9月8日、二度目の来仙(盲学校訪問、宮城学院で講演)
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「仙台市史 年表」P109/「重訂 宮城県郷土史年表」P458、P529/「仙台市史10 年表」P319/「目で見る仙台の歴史」P185
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S23年(2度目の来仙)は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校訪問)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34
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国民精神総動員運動 |
仙台市では |
1937年(S12)~ |
* 1937年(S12)7月7日、日中戦争開始
* 1937年(S12)9月、近衛文麿内閣、「国民精神総動員運動」開始により、市町村ごとに実行委員会結成
<仙台市>
* 1937年(S12)9月13日~19日、仙台市では一日ごとに目標を定め、全市民参加の国民精神総動員運動
・第1日:時局の日(明治天皇の「戊申詔書奉読」などの行事
・第2日:出征将兵への感謝の日
・第3日:非常時経済の日(職場・学校へは日の丸弁当持参奨励)
・第4日:銃後の護りの日(遺族の訪問など)
・第5日:神社参拝・殉国勇士を讃える日
・第6日:勤労奉国の日(早朝出勤・勤務時間延長)
・第7日:非常時心身鍛錬の日
・週間中、「国民朝礼ノ時間」設け、市職員は率先して市庁舎前で君が代を歌い、皇居遙拝、ラジオ体操をし、他団体に模範を示す
* 1937年(S12)11月14日、国民精神大講演会
* 1937年(S12)12月、仙台市国民精神総動員実行委員会結成 / 会長は市長、各種団体の長が委員、「挙国一致」「尽忠報国」の決意を市民に宣言、軍国精神の高揚を促すためのものであるが、消費節約も強く打ち出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P408)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312~313、P408
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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第十三師団 |
編制 |
1937年(S12)9月~1945年(S20) |
* 1937年(S12)9月9日、日中戦争勃発(同年7月7日)により急きょ、仙台において編制される(第二師団留守部隊を根幹とする十三師団=青葉師団)
* 1937年(S12)9月24日、宮城県人を中心に編制された歩兵第104連隊(十三師団隷下)が仙台から「出征」
・出動に際し仙台に集まる将兵は市内の民家に分宿した
・第十三師団は、上海上陸、南京攻略、徐州占領、大別山越え、宣昌作戦、大陸打通作戦と、日中戦争・太平洋戦争期を通して中国大陸を転戦、敗戦時は華南にあった(「仙台市史 続編第1巻」P64)
・大陸打通作戦は、1944年(S19)4月~45年2月。兵力50万を投入、第十三師団も組み込まれた。作戦距離1500キロ。ねらいは、中国の華北から華南までの鉄道を確保し南方からの資源輸送を船舶から鉄道へ切換え、かつ沿岸の大都市、長沙、衡陽、桂林を占領し、周辺に建設された米軍基地をたたき、北九州地区への空襲を防ぐもくろみだった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P136~137)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、中国華南に駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
→ 項目「歩兵第104連隊」参照
* 1939年(S14)12月9日、荻洲立平中将(オギス リッペイ)、仙台市公会堂で講演会(荻洲中将の十三師団長在任期間は、昭和12年9月10日~14年8月1日なので、師団長離任後になる)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P30~31>
「第十三師団は日露戦争末期に編成され樺太を占領した師団ですが軍縮により廃止されました。日中戦争開戦2か月後に復活、仙台に司令部、仙台、会津若松、新潟県高田に部隊が置かれ、仙台は歩兵104連隊です。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P64/「仙台市史 年表」P109/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P184/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P30~31、P136~137、P238
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野球場 |
東北大学評定河原球場 |
1937年(S12) |
* 1937年(S12)、早川牧場跡に東北帝国大学のトラックと野球場が完成(佐々久「近代みやぎの歩み」P86)
* 1976年(S51)4月1日、東北大学評定河原球場を市民に開放
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佐々久「近代みやぎの歩み」P86/「続・ 宮城県郷土史年表」P53
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「いつか見た街・人・暮らし」P38(早川牧場、大正5年)
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戦勝祝賀行事 |
漢口陥落 |
1938年(S13)10月 |
* 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32
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「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128
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富国生命館(国分町) |
完成~解体 |
1938年(S13)~1987年(S62) |
* 1938年(S13)10月、完成(国分町・魚町南西角)
* 1945年(S20)秋、進駐軍に接収され、軍事占領業務を司どる「宮城軍政府」がおかれた
* 1987年(S62)1月21日、解体
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「続・ 宮城県郷土史年表」P218
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戦前は、99-027、99-028/ 空襲後は53-80/ 戦後は、20-03
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博覧会・フェア |
東北振興大博覧会(中止) |
1939年(S14) |
* 1938年(S13)4月10日~5月31日、東北振興大博覧会(仙台市制施行50周年記念、仙台市主催)(仙台年表P462)
→<編者注>予定したが昭和14年開催予定に変更し、結局中止になった(仙台市史続編第1巻P10)
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「仙台年表」P208/仙台市史続編第1巻P10
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戦勝祝賀行事 |
徐州陥落 |
1938年(S13)5月20日 |
* 1938年(S13)5月19日、徐州を完全攻略す(「重訂 宮城県郷土史年表」P463)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落祝捷提灯行列挙行(「仙台市史10 年表」P293)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
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重訂 宮城県郷土史年表」P463/「仙台市史10 年表」P293(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍幼年学校、三神峯に復活 |
1938年(S13)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)6月5日、「仙台陸軍幼年学校」復活、開校式
榴ケ岡にあった「仙台陸軍幼年学校」は1924年(T13)に廃止されるが、S13に復活(校舎は三神峯に設置)
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「仙台市史10 年表」P293/「仙台市史 年表」P99、P109
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陸軍の学校(宮城県内) |
仙台陸軍予備士官学校 |
1938年(S13)~1939年(S14)/1943年(S18)~1945年(S20) |
* 1938年(S13)8月13日、仙台市川内の陸軍教導学校内に「仙台予備士官学校」設置、開校式 / 1939年(S14)3月に盛岡近郊へ移転
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた
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Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」
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大橋(広瀬川) |
コンクリート橋開通 |
1938年(S13) |
* 1938年(S13)9月22日、落成式
鉄橋の腐食がすすみ、コンクリート橋(和風の勾欄・灯籠)に架け替えられた / 橋長113.2m、橋幅10m
・戦後、川内地区に進駐軍の司令部がおかれ、橋と大手門の間に歩哨が立っていて、川内地区に自由に入れない時期があった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台年表」P208/「仙台市史10」年表P294/「仙台あのころこのころ八十八年」P248/「仙台大橋の変遷」(山本晃 著)/写真99-106の説明文/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P411
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コンクリート橋は、53-102、53-101、99-106、99-107、06-04、08-03、34-30、53-36、53-37、53-106/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図57(H8年カラー)
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戦時衣料 |
国民服 制定 |
1940年(S15) |
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた)
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仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27
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60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー)
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俯瞰撮影禁止など |
禁止決定 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)12月12日の「軍機保護法」施行規則改正により、軍機保護のため、ビルや高台からの風景写真、俯瞰撮影を禁止
* 1944年(S19)8月3日、撮影禁止区域、全国的に拡大
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「日録20世紀 1939」P35/「週刊20世紀 1939」P27/「仙台年表」P213
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金属回収 |
開始 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)2月16日、商工省、鉄製不急品の回収開始
* 1939年(S14)4月7日、宮城県内で金の提出運動始まる(各家庭は7月5日までに保有内容を申告)
* 1940年(S15)、米国などが、鉄くずや銅鉱石の日本向け輸出禁止
* 1941年(S16)9月1日、金属類回収令により金属回収開始
<仙台市では>
* 1941年(S16)10月1日(興亜奉公日)、仙台市では「戦争物資動員の日」と定め、回収強化 / 家庭の門扉、欄干、手すり、鉄瓶、傘立て、火鉢、洗面器、置物、花器、文房類まで回収
* 1942年(S17)1月20日、仙台市で一般家庭金属類特別回収(第2回特別回収、買上げ班が各戸を回り買上げ伝票に記入、財団法人・戦時物資活用協会が買上げ)
「1月20日、公会役員や中学生が14班に分かれて荷車やリヤカーに「金属特別回収訪問班」と書いた小旗を立てて各家庭をまわり供出を呼びかけました。 床の間の花瓶、仏壇に供えてあった花立て、大鍋、青銅の火鉢、傘立てなどの金属が提供されました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117)
* 1942年(S17)5月12日、工場、会社、商店、旅館、寺院などから金属回収が始まる(菅家年表)
* 1942年(S17)11月16日、ニッケル、銅貨も回収(10銭と5銭ニッケル貨、白銅貨)(菅家年表)
* 1942年(S17)11月~1943年(S18)2月、火の見櫓や家庭必需品を除く一切の銅鉄製品を回収
* 1943年(S18)8月、勅令改正で強化された
・「1943年8月、「金属類非常回収実施要領」が閣議決定され回収はより強化。 鉄製品では、門扉、鉄製ベッド、物干し、ストーブ、ロッカーなど、銅製品では新聞受け、シャンデリア、洗面機などが加えられ、公共物ではマンホール、交通標識、橋の欄干など。
仙台市立病院は昭和14年に鉄筋5階建てのビルに改修し、170台のベッドを購入したばかりでしたがこれも供出され木製に、片平の東北帝大キャンパスの周りを取り囲んでいた鉄製欄干もやはり木造に変わりました。
回収方法はよりシステム化され、隣組ごと日程を組み、会場では公会役員立ち合いのもと、買上げ者が物品を鑑定して値段をつけていきました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P117~118)
* 1944年(S19)3月、仙台市電「芭蕉の辻線」のレールを回収
* 1944年(S19)9月15日、白金の強制買い上げ
* 1944年(S19)9月25日、銀の買上げ(まず、東京から始まる)
* 1944年(S19)、松島町字高城の松島橋、金属回収のため解体
* 1945年(S20)10月22日、金属回収令廃止
写真16-57と16-69は、金属回収で店の看板がなくなった仙台駅前
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仙台市での金属回収は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P25~27に記述あり
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台年表」P209、P214/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28~29/「重訂 宮城県郷土史年表」P506/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P117~118
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16-71、16-57、16-69/「仙台市史 特別編4 市民生活」P92(S19年、金属供出のためはがされる市電芭蕉の辻線のレール)/同P462(東裏丁公会の供出の様子、昭和17年)
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(2) |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)3月5日、ゴム配給制限でテニスボールがなく、庭球を中止
* 1939年(S14)3月30日、中央物価委員会で、公定価格を決定(砂糖、清酒、ビール、木炭、絹製品など)
* 1939年(S14)4月12日、米穀配給統制法公布
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを廃止、陶製のボタンとなる(菅家年表)
* 1939年(S14)7月26日、米国、日米通商航海条約廃棄を通告(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)8月9日、新規の自家用車は不許可となる
* 1939年(S14)10月1日、石油、配給制となる
* 1939年(S14)10月18日、9.18ストップ令公布(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令 / 物価・賃金などを9月18日現在を上限とする)(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)11月、30坪以上の木造住宅の新築を不許可
* 1939年(S14)11月6日、米穀配給統制応急措置令公布、農林省でコメの強制買上を実施
* 1939年(S14)12月1日、米穀搗精制限令(白米禁止令、七分づき以上を禁止)
* 1939年(S14)12月20日、木炭配給統制規則を公布
* 1939年(S14)、この年、ヤミ取引と売買が激増
* 1939年(S14)、この年、木炭バスが走り出す、急速に一般化
* 1939年(S14)、この年、門松も廃止
* 1939年(S14)、9.18ストップ令以降、ヤミ取引横行(岩波「年表 昭和史」)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22、P23/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16
仙台の木炭供給事情や統制は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P22に記述あり
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第三十三師団 |
編制 |
1939年(S14)3月~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月、仙台市で編制、通称号は「弓兵団」
【国立公文書館「アジ歴グロッサリー」より要約】1939年3月編成完結、武漢地区警備などに従事していたが、太平洋戦争開戦後は南方に転用。1942年2月ビルマ作戦、1944年3月インパール作戦、1945年1月イラワジ会戦などに参加。1945年5月中旬以降テナデリゥム地区の守備に従事。
* 敗戦時は、ビルマのタンザビア(「仙台市史 続編第1巻」P64)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P31~32、P68>
「日中戦争で、中国に派遣された郷土部隊は第二師団、第十三師団、第三十三師団の三個師団。第三十三師団(甘粕重太郎師団長)は中国中部に派遣、宇都宮と仙台の部隊で構成していました。」
「第三十三師団は太平洋戦争では、1942年(S12)2月、第五十五、第五十六、第十八の各師団とともに、中国から国境を超えてビルマ(現ミャンマー)に進撃。6月までに全土から敵を掃討しました。英国の植民地だったビルマの北部は連合国が中国国民党政府へ戦略物質を送る輸送路になっており、遮断と英国植民地のインドを英国から離反させるもくろみがありました。 最初のうちは火砲、弾薬も十分でないまま戦闘が続き、分厚い装甲の英国戦車に悩まされましたが、得意の夜襲、航空部隊の空襲、それにビルマ人の協力もあって、数十倍の英国軍、インド軍を破ることができました。」
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国立公文書館「アジ歴グロッサリー」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P31~32、P68
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
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* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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戦時中の勤労動員/就労規制(2) |
国民徴用令 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布
戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる
→ 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照
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「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など
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ラジオ体操会 |
仙台の発会式 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)8月1日、全国ラジオ体操会始まり、仙台では東六番丁小で発会式
* 1951年(S26)5月6日、NHK、戦後につくられた新ラジオ体操初放送
* 1954年(S29)5月、宮城県ラジオ体操の会発足
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/[NHK仙台放送局 60年のあゆみ」P30
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
興亜奉公日 |
1939年(S14)9月~ |
* 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市警防団 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)
* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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隣組の防空演習は、76-10、16-10、16-11
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大学・短大 |
東北薬科大学 |
昭和期(S14年~S63年) |
* 1939年(S14)、前身の東北薬科専門学校設置(小田原南光沢)
<東北薬科大学>
* 1949年(S24) 3月、財団法人東北薬科大学設立認可(薬学部薬学科開設)
* 1959年(S34) 4月、附属癌研究所開設 / 7月、北校舎(地下1階地上3階建)完成
* 1962年(S37) 4月、大学院薬学研究科修士課程開設(私立薬科大学で初)
* 1963年(S38) 7月、大学院校舎(4階建)完成
* 1964年(S39) 4月、大学院薬学研究科博士課程開設
* 1965年(S40) 4月、薬学部に衛生薬学科設置開設
* 1966年(S41)、本館(5階建)完成
* 1971年(S46)12月、富谷校地(黒川郡富谷町三ノ関)購入
* 1982年(S57) 3月、ラジオアイソトープセンター(地下1階、地上3階建)完成
* 1984年(S59) 10月、高柳義一先生記念館(地上4階建)完成
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東北医科薬科大学HP(2018年)/「仙台市史 年表」P116、P320/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539/「目で見る仙台の歴史」P180/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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主食配給量 |
変化 |
1940年(S15)~1948年(S23) |
* 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)
<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合
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戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市銃後奉公会 |
1939年(S14)4月~ |
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
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「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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戦時中の勤労動員/就労規制(1) |
国民職業能力申告令 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に)
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「週刊20世紀 1339年」P8~P9
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スポーツ大会(昭和戦前期) |
宮城県体操大会 |
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* 1939年(S14)6月4日、第2回宮城県体操大会(宮城野原)
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「目で見る仙台の歴史」P166
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「目で見る仙台の歴史」P166
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宮城県護国神社 |
新社の遷座祭 |
1942年(S17) |
* 1940年(S15)10月25日、宮城県護国神社の上棟式
* 1942年(S17)5月29日、宮城県護国神社新社の遷座祭挙行
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「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P489/「仙台市史 年表」P112/「仙台市史10 年表」P304
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「目で見る仙台の歴史」P166に、S17年の社殿(手水舎と鳥居)
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公会と隣組 |
発足~廃止 |
1940年(S15)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月15日、仙台市行政の下部機関であった区長制度を廃し、公会を全国に先駆けて創設 / 市内に341の公会を編成、学区に基づく18の連合公会に分属させた / 公会は直ちに隣組(約4300)を結成、戦時体制は市民生活に直接入り込んだ / 市では藤崎百貨店からの寄付で公会旗と連合公会旗を制定し、それぞれに交付した
「公会は、国民生活の地域的統制単位として、庶務連絡、生活物資の配給、公債の強制割当て、金属その他軍用物資の供出、防空演習、出征兵士の送迎、納税と貯蓄、特配物資の配給そのほか市民生活全般にわたることを実行した / 仙台市では「仙台市公報」を回覧板として配布、また付録として『公会通信』や『少国民通信』を配布」(「仙台市史 続編第1巻」P15、「仙台市史 特別編4 市民生活」P461)
・ (戦時下)いっそうの統制を達成するために、区制度や戸主会をはじめとする市民組織の合理的効率的な再編成が課題となっていった。それまでに、衛生組合・納税組合・町内会・部落会・契約講・戸主会・防火組合・青年団・婦人団体など多種多様な団体が、地域の必要によって結成されてきたが、それらの組織の複雑さを解消すべく、一貫した組織系統のもとに市民の体制を一元化しようと、渋谷徳三郎市長が提案
・ 内務省訓令「部落会町内会等整備要領」に基づき、1940年(S15)11月実施
・ 公会は、100~200戸程度を標準とし、区域内の世帯主と法人が会員、近隣の10戸程度で組、同一小学校区の公会で連合公会、公会には常会をおき重要事項以外の決定を行う。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P460)
* 1941年(S16)4月25日、「仙台市隣組行進曲」発表音楽会(仙台市公会堂)
「青葉城下の街々に銃後を守る手を組んで 助け合いましょう助けましょう
親和の誓いなごやかに 行くよわれらの隣組」
大政翼賛会仙台支部、仙台市、河北新報社が募集、審査員は土井晩翠ら5人
当選作は、宮城第一高女音楽教師古宇田明子の作詞、
これに市音楽担当視学 の海鋒義美が作曲
(「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51)
・6月に日本コロンビアからレコード化される
(唄 霧島昇・松原操夫妻、高橋裕子)
* 1941年(S16)9月15日、中田、六郷、七郷、岩切、高砂の5か村が仙台市に合併、全市の公会は400、連合公会は23になる / S18年11月、公会区域改訂で、168公会に統合
* 1941年(S16)7月1日、隣組の常会設置(「生活と風俗」P96)、全国の隣組一斉に常会を開く、ラジオ番組通じ、内務省、司会・指導(岩波ブックレット「年表 昭和史」P18)
* 1941年(S16)、ラジオ「常会の時間」(毎月1回)開始
* 1942年(S17)8月、公会なども大政翼賛会の指導下となる/ 同会県支部長が委嘱する世話役(公会長・連合公会長兼任)、世話人(隣組長兼任)を置き、各公会、隣組の常会を指導し大政翼賛運動の徹底をはかる仕組みとなる
* 1943年(S18)2月3日、仙台市隣組回覧板発行
* 1943年(S18)11月12日、公会を164に統合して連合公会を廃止
* 1947年(S22)4月1日、仙台市が公会制度を廃止(公会177、隣組4,584) / 旧泉市、旧宮城町、旧秋保町の部落会や隣組も同時期に廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P14~18、「仙台市史 特別編4 市民生活」P460~463に、仙台市の公会について記述あり
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18、P26/「市制八十周年記念 仙台の歴史」P147/「仙台市史 年表」P110、P111、P112、P114/「仙台市史10 年表」P305、P315/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P50~51
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公会の慰安演芸大会は、06-17、06-11など写真分類G-27-03の全写真/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P15に、「仙台市公報」「公会通信」「少国民通信」の写真/「目で見る仙台の歴史」P169に「隣組回覧板」/「新・目で見る仙台の歴史」P172(配給を受けようと並ぶ人の列)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(S16年、こども隣組双六)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P461(S16年、木町通り第一公会第十八隣組栄養食共同炊事場、S16年外記丁隣組の炊事風景)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P462(S17年東裏丁公会の金属供出の様子、S18年仙台市隣組回覧板)
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戦時衣料 |
国民帽 制定 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」公布
・「烏帽子型」と「戦闘帽型」(陸軍略帽型)の2種あった
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毎日新聞社「昭和史事典」P132
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(3) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17
仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合)
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(1) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立
<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)
* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂)
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
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佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
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博覧会・フェア |
紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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文字・漢字の表記 |
鉄道駅 |
1940年(S15)/1945年(S20) |
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1945年(S20)秋、駅名を左書きに、平仮名、漢字、ローマ字の三段に
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P35
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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戦時中の勤労動員/就労規制(4) |
国民勤労報国協力令 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)11月22日公布、同年12月1日施行
男子14~40歳、独身女子14~25歳に勤労奉仕義務 / 学校・職場ごとに勤労報国隊が編成され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P18
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戦時中の物資統制、使用規制 |
(4) |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)1月25日、物品販売業はすべて午後9時閉店
* 1941年(S16)3月、花見の昼酒だけは特に許可される
* 1941年(S16)3月3日、国家総動員法改訂公布(政府権限の大幅な拡張)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、米穀配給通帳制、外食券制を6大都市で実施(1日、2合3勺)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、鮮魚介配給統制規則、実施
* 1941年(S16)4月18日、東京で「肉なし日」を設定、毎月2、8、18、8の4日は食肉業者休業、飲食業者は、8、28日を休業とする
* 1941年(S16)5月1日、幼児、妊婦にパンの配給制実施
* 1941年(S16)5月、東京で巻煙草制限令で「お一人様一個限り」と一斉に実施
* 1941年(S16)5月、東京で、米、マッチ、砂糖切符の幽霊人口、早くも40万を超える
* 1941年(S16)6月13日、山形鉄瓶、製造中止命令
* 1941年(S16)8月1日、アメリカが対日石油輸出全面禁止
* 1941年(S16)8月12日、米価二重価格制を実施、生産者奨励金交付決定
* 1941年(S16)9月1日、東京で、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の配給切符制実施
* 1941年(S16)10月1日、乗用自動車のガソリン使用を全面禁止
* 1941年(S16)10月1日、新聞の朝刊4ページ、夕刊2ページに減紙
<1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦>
* 1941年(S16)12月16日、物資統制令公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)12月16日、商工省、電球は切れ玉と引き替え販売を通達
* 1941年(S16)12月27日、農業生産統制令公布
* 1941年(S16)、この年、八百屋、魚屋の店頭で行列が続く
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P27/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18
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青少年団 |
仙台市青少年団結成 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成
仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日
仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月
仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日
仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日
* 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散
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「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505
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ガス |
仙台市ガス局 |
1961年(S36) |
* 1941年(S16)4月1日、市営ガス事業開始(仙台瓦斯を買収) / 需要戸数は、1942年(S17)に3389戸
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大打撃受けるが、10月10日から供給再開 / 需要戸数は戦災後は1500戸、1952年(S27)に4134戸
* 1957年(S32)9月、ガス局原町工場完成
* 1961年(S36)、仙台市ガス局でプロパンガス取扱開設
* 1973年(S48)、港工場竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震、原町工場廃止
* 1997年(H9)、LNG船第一船入港、新港工場竣工
* 2005年(H17)、新港工場を港工場に名称変更
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生、港工場に甚大な被害 / 災害復旧に1ヵ月余を要す
* 2012年(H24)3月、港工場、震災による被害から復旧
<仙台市ガス事業実績グラフ(S16~42年)> →「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P539の図30 (導管延長、需要家戸数、販売量の推移)
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「仙台市史本編2」P760、P764、P769/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315、P539/「重訂 宮城県郷土史年表」P601
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「目で見る仙台の歴史」P183(小田原念仏壇の仙台市ガス局工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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