分類項目 | 無言の凱旋・慰霊祭 |
タイトル | ガダルカナル島戦の英霊奉迎式(1) |
写真番号 | 16-57 |
場所 | 仙台駅前広場 |
映像内容 | 太平洋戦争ガダルカナル戦(昭和17年8月~18年2月)で、第二師団の多くの将兵が戦死 / 昭和18年7月、遺骨が仙台に帰還(「無言の凱旋」) / 画面右上は戦没兵の遺骨を胸に抱いた兵士たち / その左側、頭を下げているのは、遺族たちと思われる <ガダルカナル戦> ガダルカナル島は西太平洋ソロモン諸島の島。太平洋戦争で昭和17年8月~18年2月7日、この島の奪取をめぐって日本軍と連合国軍が戦った。 ミッドウェー海戦と共に日米両軍の攻守の転換点となった戦い / 分類G-25-03の 写真 06-23 と比べると、背後の建物の看板「陸奥ホテル」や左から2番目の「食堂(白い建物)」の屋根上の看板が取り外されている(金属回収で撤去された可能性) |
撮影年代 | 1943年(S18)7月23日 |
撮影年代判定根拠 | 関連情報欄に記載 |
関連情報/参考文献 | <ガダルカナル戦と第二師団> 【国立公文書館アジア歴史資料センターのアジ歴グロッサリー「第2師団(勇)」より】 「第2師団は、太平洋戦争開戦当初はジャワ島攻略戦に参加。1942年(昭和17年)8月にガダルカナル島の奪還作戦に投入される。十分な補給がないまま戦闘しなければならず、上陸時に1万318人いた人員は戦死・戦勝死およびマラリア・栄養失調などによる戦病死により、撤収時には2647人まで減少し、およそ4分の3の兵力を消耗した。」 【「仙台市公報」(昭和18年8月1日) P278】 →「ガダルカナル島の英霊は7月23日懐かしの故山に無言の凱旋をした」 / 【同 P289】 →「ガ島玉砕は(昭和18)7月5日に発表され、市民は7月6日の朝、新聞記事で知った」 <関連映像> 16-67 、 16-58 、 16-59 、 16-65 、 16-62 |
備考 | <仙台市青葉区 清野光枝さん(昭和9年生まれ)の記憶「御柱が軍神になられました」> 「昭和18~19年頃の記憶です。 日本が負け戦になってきた頃、ガダルカナル島やアッツ島で玉砕が始まりました。その度に当時の小学校(国民学校)で、朝、校庭で校長先生からお話がありました。「御柱が軍神になられました」というような表現でした。 そして何日かして、宮城県、仙台関係の兵隊さんの遺骨?が帰ってきて、仙台の西公園内にあった公会堂で慰霊祭がありました。それは、一般市民は入れず、軍や遺族関係だけのお祀りだった気がします。」 (編者注:ガダルカナル島戦没者の慰霊祭は、追廻練兵場で行われた) ~最後列は、黒紋付姿の老いた親たちだった~ 「公会堂には、仙台駅からまっすぐ大町を通ってその行進は行くのでした。 通りに面した家々では(隣組から通達があって)全戸、机や台を出し、花や線香を飾り、家族全員が並んで、手を合わせて祈るのでした。 前列は軍旗が何本か、その後ろは馬に乗った将校たちの列、その後は捧げ銃(ささげつつ)の型に鉄砲を持った兵隊の列、その後ろはもの悲しい音色のラッパ隊、その後ろが遺骨を抱いた兵隊たち。 最後列は、黒紋付姿の田舎の老いた両親たちだった気がします。」 <ひそかに見送った 兄の出征 ~「ガダルカナルに哭く」の著者、阿部敏子さんの記憶~ > 「ガダルカナル島で戦死した兄は、太平洋戦争が始まった昭和16年冬に出征しました。 そのころは、作戦上からも出発の日を公にせず、日中戦争の頃のような盛大な見送りはできませんでした。 夜、仙台駅から発つ兄を、私はホームの見える暗いかげからひとり見つめていました。」 |
カラー/モノクロ | モノクロ |
分類内の通し番号 | 2 |
画像ファイル名 | sendai10013 |