仙台よみとき用語年表
検索結果
全33ページ中、12ページ目 (総数:1622件)
最初  | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |  最後
項目 小項目 内容 出典/参考資料 関連映像
幹線道路 南町通り     → 項目「南町通り」参照     
火災(地域) 南町通りの仙台銀座マーケット  1952年(S27)  ・ 戦前に東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった仙台逓信局が、仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、戦後その焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟の商店街、建坪3000坪)ができた / 防火壁がなく、火災保険では「禁止物件」に指定されていた

<火災で焼失>
* 1952年(S27)1月22日午後0時20分頃出火、通称「仙台銀座」の通称1~8丁目まで145戸のうち、東二番丁通りに面した棟と南側の棟を残してほどんど全焼し、さらに隣接の店舗、倉庫などに延焼し、計19棟106戸焼失して午後2時半頃鎮火、木造モルタル建物大小6棟がつなぎ合わされたマーケット形態の建物なので、延焼が非常に速かった(「宮城県百科事典」P575) / 「仙台年表」では、7棟110戸全焼、被災者450名(東二番丁仙台銀座内美術館から出火) / 「仙台市史10 年表」では、東二番丁仙台銀座大火240戸焼失 / 「重訂 宮城県郷土史年表」では、南町通銀座に大火、百貨店など140戸焼失 / 原因は電気ゴタツ / 「仙台市史第2巻本編2」P717~718に、詳細な経過、隣接する12棟類焼(宮城燃料や加藤商店の木炭倉庫、大睦建設木工場、長尾病院など)、被災者の避難所、食品衣類寝具などの救援内容を記載

* 1955年(S30)2月20日、東二番丁側に残っていた14棟68世帯(約4000㎡)も焼失(東二番丁の拡幅工事予定地だったのでこれを機に拡幅工事を強行)(「仙台市史 続編第1巻」P349、P782) 
「宮城県百科事典」P575/「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349、P782、P808/「仙台市史 年表」P117/「仙台年表」P223/「仙台市史10 年表」P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P554/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167  「宮城県百科事典」P575(S27年の火災)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P782に、昭和30年の仙台銀座の火災写真/「市民の戦後史(仙台市)」P88(S30年2月の仙台銀座火災) 
多門通り 南町通りを改称  1933年(S8)1月7日  南町通りは、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路
*1933年(S8)1月には、「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを「凱旋行進」した 

・ 「凱旋」を記念して、1933年(S8)1月7日市会の決議により南町通りは、当時の師団長の名を冠した「多門通り」と改名された
・ 戦後は南町通りに復名
・ 敗戦後、進駐してきた米軍はこの道路を「メープル街(かえで)と名付けた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P28) 
「仙台市史 年表」P106/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P28  65-01-0153-9153-9663-04-0198-148(被占領時代の仙台市街地図 米軍用) 
映画館(戦後) 南街映画劇場  1946年(S21)  * 1946年(S21)、舟丁64に開設(460席)  「重訂 宮城県郷土史年表」P515   
藤崎(戦後期) 南館 開店  1963年(S38)  * 1963年(S38)10月、「南館」完成(青葉通りに面した7階建)

S38年秋には、仙台の3デパート(藤崎、三越、丸光)が同時に増築を完成させた 
「藤崎170年のあゆみ」P146、P196~197   
斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) 博物館竣工~取壊し  1933年(S8)~2015年(H27)  ・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強

* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 →  項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された) 
「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46  戦前は、53-11099-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-1462-0453-7135-0935-10 /戦後は53-5007-01-04 
仙台市電 原の町線 開通  1948年(S23)5月  ・ 花京院~原町間、3.3キロ
* 1946年(S21)冬、東六番丁の国鉄専用鉄橋完工し、花京院~榴ヶ岡公園前間、1.6キロ開通
* 1948年(S23)5月5日、榴岡公園~原町終点まで開通し、原の町線(原町線)全線開通(単線)
* 1952年(S27)、花京院の東北本線立体高架橋完成
* 1952年(S27)8月1日、全線複線化完成し、市内循環線への乗り入れ可能(10月の国体開催時の輸送に効果あり) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P510、P512/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P115/「番丁詳伝」P115  「仙台市史 特別編4 市民生活」P211 
文学碑など(仙台) 原阿佐緒の歌碑  1961年(S36)  * 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96 
仙台市の工業 参考文献    <参考>
(1) 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697に、戦前(大正~昭和戦前期)、戦後(終戦~昭和43年頃)の仙台市の工場立地、開発計画、工業統計、新産業都市指定にむけての動きなどが記述されている

(2)「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P723~762「第九章第三節 景気と金融」には、戦後(S20~43年頃)の混乱期・復興期・高度成長期に、仙台の農業・工業・商業・金融が相互にからみつつ変化する状況と、仙台を含む東北の産業経済の特徴・全国的な位置づけが記述されている 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P659~697   
東北学院 参考資料    <参考資料>
 ・ 東北学院の沿革は、「東北学院」HPの「沿革」
 ・ 「東北学院創立七十周年写真誌」P65~P70の「年表 1886年(M19)~1955年(S30)」
 ・ 「同写真誌」末尾の「年表略図 1886年(M19)~1955年(S30)」

<参照>
 ・ 東北学院の総合的な沿革は、→項目「東北学院(沿革)」
 ・ 部門別には 
   → 項目「東北学院中学部」
   → 項目「東北学院中学校・高等学校」
   → 項目「東北学院(専門科/専門部/高等学部)」
   → 項目「東北学院大学」 
   
物価上昇 反対運動/行政の対策  1973年(S48)~1974年(S49)  * 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定

* 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情
* 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加)
* 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言
・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ
* 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定
* 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正
* 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定
* 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545  「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会) 
日本生命館 取壊し  1968年(S43)  ・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89) 
「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202  「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中) 
人力車 台数ほか(仙台)  明治・大正・昭和  * 1872年(M5)、新河原町で人力車営業が開始(伊藤清次郎と清水稔)(「仙台市史 年表」P80、「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)
* 1873年(M6)、国分町の竹虎が開業(10台保有)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P192)

<「仙台あのころこのころ八十八年」P16>
* 1878年(M11)、市内に671台(大部分が営業用)
* 1980年(M13)、市内に755台
・ 人力車は当時の花形であり、隣県の業者と連絡して継ぎたてをしてゆくと、仙台から6日間で東京へ行けた

* 日本鉄道(現・東北本線)開業の明治20年頃、559台に減る(「番丁詳伝」P110)

<「番丁詳伝」P63より>
* 1889年(M22)、一人乗り596台、二人乗り8台
* 1897年(M30)、一人乗り1050台、二人乗り5台
* 1905年(M38)、一人乗り977台、二人乗り2台
* 1916年(T5)、一人乗り1055台

* 大正時代末期には、仙台の人力車は900台ほど / 市電開通(大正14年末)やバスの普及で減る(「新・目で見る仙台の歴史」P146)

* 1930年(S5)には327台(「番丁詳伝」P110)
* 1935年(S10)頃、210台({仙台の産業と観光」P27)
* 1941年(S16)10月4日、15年ぶりに人力車復活(「仙台年表」P211)

<「仙台市史 続編1」P88より>
  ・1943年(S18)、197台
  ・1944年(S19)、169台
  ・1945年(S20)、69台
  ・1946年(S21)、40台

* 戦後しばらくも人力車が活躍 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194/「仙台市史 年表」P80、P211/「新・目で見る仙台の歴史」P146/「仙台年表」P211/「仙台あのころこのころ八十八年」P16/「仙台の産業と観光」(S11、仙台市役所刊)P27/「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)P110/「仙台市史 続編1 行政建設編」P88  99-00422-4419-0216-2122-1044-5022-1216-19/「新・目で見る仙台の歴史」P146(人力車のある風景))/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193に人力車 
人力車 台数ほか(宮城県内)  明治・大正・昭和  * 1878年(M11)、1人乗り1861台、2人乗り243台
* 1882年(M15)、1人乗り2477台、2人乗り216台
* 1891年(M24)、297人の営業者、2011人の挽子
* 1912年(T1)、2074台
  (314人の営業者に1525人の挽子/自営の挽子630人)
* 1918年(T7)、1720台
* 1925年(T14)、1366台

・ 賃銭(乗車賃)→ 1877年(M10)、1891年(M24)、1926年(T15)時点の賃銭の記載あり

・ 昭和期には、次第に自動車に座を譲るが、ゴムタイヤを採用した黒漆地金蒔絵の高級車は花嫁行列などにはよく利用された
・ 第二次大戦後、人力車は急速に姿を消すが、作並や秋保などの温泉地ではかなりあとまで残っていた
・ 戦後は一時、輪タク(リンタク)が、占領軍兵士を顧客としていた  
「仙台市史 特別編4 市民生活」P192~194  16-27(輪タク) 
水害 台風  1884年(M17)9月15日  広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される  「仙台市史 年表」P85  「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図) 
台風被害(戦後) 台風24号  1965年(S40)  * 1965年(S40)9月18日、台風24号東北に接近し、強風のため被害甚大  「重訂 宮城県郷土史年表」P621   
水害 台風豪雨  1986年(S61)8月5日  台風10号による豪雨災害発生 / 仙台市の降雨402ミリ、仙台市東部で5474棟浸水、仙台市・塩釜市など5市町に災害救助法適用  「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195/「続・ 宮城県郷土史年表」P209   
県営宮城野原公園総合運動場 各施設の開場    宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕 
「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版  「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮) 
戦時下の学園 吉田高等女学校(私立)    ★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称

・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」

▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529   
八木山橋 吊り橋、開通  1931年(S6)8月(11月?)  八木山橋(吊り橋)は、八木久兵衛氏(仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者)が私費(3万1千円)を投じて昭和初期に行った八木山観光ルート開発の一つ

・ 深さ70メートルの龍の口渓谷をまたぎ、青葉城址(天守台)と八木山を結ぶルート上に架設し、仙台市に寄付した
・ 長さ107メートル、幅3.7メートルで、当時は宮城県下一のつり橋だった

* 1931年(S6)8月(11月)、開通(木造鉄柵吊り橋) / 「仙台市史 年表」P106では8月架設、 「重訂 宮城県郷土史年表」P429では11月開通
* 1937年(S12)、仙台市南光院丁某飲食店女中、初めて八木山橋から投身自殺す(「仙台年表」P208)  
「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P429/「仙台年表」P202、P208  34-3253-4099-10853-6553-2125-1425-13/「新・目で見る仙台の歴史」P188/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図19~20(S8、S12) 
愛宕橋(広瀬川) 吊り橋開通  1901年(M34)  * 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し 
「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92  「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋) 
住宅団地 名取が丘ニュータウン  1973年(S48)  * 1973年(S48)4月5日、名取市にオープン  「続・ 宮城県郷土史年表」P18   
アーケード 名掛丁  1965年(S40)ほか  * 1965年(S40)12月、名掛丁商店街アーケード完成

* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1993年(H5)、ハピナ名掛丁の新アーケード完成 
「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271  アーケードがない時代は、22-29と「新・目で見る仙台の歴史」P184(カラー、手前が名掛丁、奥が新伝馬町)/22-30(S40完成名掛丁アーケード) 
仙台市(名称変遷) 名称の変遷(第一大区/仙台区/仙台市)  1872年(M5)/1878年(M11)/1889年(M22)  * 1872年(M5)4月、県下に区制が布かれて仙台城下一円が「第一大区」に
* 1878年(M11)7月、郡区町村編成法発布により「仙台区」
* 1889年(M22)4月1日、市制が施行され「仙台市」と改称(この時の範囲は、旧城下町のほぼ全域にあたり、面積17.27平方キロ、戸数1万6800戸、人口8万6352人) 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P362   
県令 → 知事 名称変更  1886年(M19)  * 1886年(M19)7月20日、地方官官制により「県令」を改めて「知事」に  「仙台市史 年表」P85   
仙台東宝劇場 名称変遷  1922年(T11)/1938年(S13)/1946年(S21)/1950年(S25)/1963年(S38)  以下の1)~5)は、出典を表す
1) * 1922年(T11)8月11日、仙台市東三番丁に「帝国館」として開業
  * その後、読売会館→多聞会館→新興映画劇場 
  * 1938年(S13)、東宝直営館となり、「仙台東宝映画劇場」と改称
  * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物焼失
  * 1946年(S21)1月17日、東一番丁の仙台三越5階に「東宝三越劇場」として再オープン
2) * 1946年(S21)1月~1949年(S24)6月、東宝三越劇場(開場~閉場)

<その後の再開年に以下の諸説あるが、編者は、諸資料を比較検討し、4)渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108の内容から、1950年(S25)4月再開が妥当と判断>
1) * 1954年(S29)10月、館名を「仙台東宝劇場」と改称し東五番丁17に移転開館
2) * 1949年(S24)10月、東宝劇場(洋画)開場(東五番丁17)
3) * 1949年(S24)10月、東宝劇場(三和興行、454席)を東五番丁17に開設(「重訂 宮城県郷土史年表」P538)
4) * 1950年(S25)4月、戦後、三越4階の(東宝)三越劇場が三越の都合で退去、仙台駅前の空襲焼け跡に建築竣工し、東宝劇場と改名して開業(渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108)

<再移転>
1) * 1963年(S38)3月:新築なった東宝仙台ビル6階に「仙台東宝劇場」が移転オープン <編者注>青葉通り・東五番丁西北角
5) * 1963年(S38)3月、仙台東宝劇場、開場
<東宝ビル火災>
6) * 1964年(S39)3月7日、青葉通り東宝ビル地下1階付近から出火、消防士1人殉職
 
1) Wikipedia「仙台東宝劇場
2)「仙台映画大全集」P458ほか
3)「重訂 宮城県郷土史年表」P538
4)渡辺秀雄著「七たび転んで」P106~108
5)「わが心の仙台駅前史」(仙台駅前商店街振興組合)P87
6)「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P840~841 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P229(T10、帝国館ポスター、カラー)/ S38年の再移転後は、201-10201-26/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P840の写真207(S39の東宝ビル火災)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P65(S38、新築なった東宝仙台ビル、カラー) 
県立学校、名称変更 名称改正  1919年(T8)  * 1919年(T8)11月1日、各学校名から「立」が削除される(例: 宮城県立高等女学校 →宮城県第一高等女学校)  「仙台市史 年表」P99   
土井晩翠 名誉市民/文化勲章/逝去/胸像除幕  1949年(S24)/1952年(S27)/1976年(S51)  * 1949年(S24)5月2日、土井林吉(晩翠)が、本多光太郎、志賀潔と共に、仙台市名誉市民の称号を贈られる
* 1950年(S25)、文化勲章受章
* 1952年(S27)10月19日、詩人土井晩翠(81歳)晩翠草堂において逝去(「重訂 宮城県郷土史年表」P559)
* 1952年(S27)10月、名誉市民土井晩翠先生市葬
* 1976年(S51)5月9日、青葉山公園で土井晩翠胸像除幕式 
「重訂 宮城県郷土史年表」P559/「続・ 宮城県郷土史年表」P54   
住宅団地 向陽台団地  1968年(S43)  * 1968年(S43)、向陽台団地、造成開始  「仙台市史 年表」P126   
宮城野通り 命名  1982年(S57)  仙台駅東第一土地区画整理事業により新設された仙台市道1878号線で、1982年(S57)に「宮城野通」と名付けられる。/ (起点)仙台駅東口駅前広場~(終点)宮城野原公園総合運動場前 / 仙台駅東口から東に延びる東西メインストリートであり、全長1,557m、幅員50m 
/ 歩道には、東七番丁から東の区間に街路樹が整備され、東七番丁から東十番丁の区間には小さな水路や様々なストリートファニチュアが設けられている / この街路の地下をJR東日本・仙石線が走っている 
Wikipedia「宮城野通り」(2020年12月16日版)  「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P113(S59、建設途中、カラー)/同P116~117(S62、整備中の駅東口広場と宮城野通り) 
一番町(旧・東一番丁)全域 商店街組織    S23.2.20、東一連合会発足 / H10.11.11、東一連合会、50周年記念式典開催(記念誌発行)  各商店街の年表は、「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9の「年表」による   
住宅団地 四郎丸団地  1961年(S36)  * 1961年(S36)、市営住宅四郎丸団地(784戸)6か年に亘り建設  「重訂 宮城県郷土史年表」P603   
遠見塚古墳 国の史跡に指定  1968年(S43)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「遠見塚古墳は、仙台平野のほぼ中央部、広瀬川北岸に発達した標高約10mの自然堤防上に位置している。仙台市内では最大規模の前方後円墳であり、宮城県内においても雷神山古墳に次ぐ大型古墳である。1947年(S22)に駐留米軍の霞目飛行場拡張工事により後円部の北側半分が削られ、さらに仙台バイパスの計画路線に入る等破壊の危機にさらされたが、昭和43年に国の史跡に指定され、昭和55年には周辺部が追加指定となり、史跡公園として整備され、恒久的保存が図られた。昭和50年から昭和57年にかけて古墳の環境整備に伴って発掘調査が行われ、後円部から2基の割竹形木棺と副葬品として碧玉管玉(くだたま)、ガラス製小玉、竹製黒漆塗り竪櫛等が発見された。この古墳に埋葬されたのは、当時仙台平野一帯を支配した豪族と考えられ、構造や出土品から古墳時代末の4世紀末頃に築造されたものと考えられている。」

* 1968年(S43)、国の史跡に指定 
仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」  「市民の戦後史(仙台市)」P86(古墳空撮)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図88~89(畑地時代空撮、H6空撮カラー) 
陸奥国分寺跡 国の史跡に指定  1922年(T11)  【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分寺跡」より】
「陸奥国分寺は、聖武天皇の詔により全国に建てられた国分寺の一つである。多賀城から約10km南にあり、広瀬川が形成した最下段の河岸段丘に立地している。昭和30年から5年間の発掘調査によって、方242.4mと推定される寺域に南門・中門・金堂・講堂・僧房が南北中軸線上に並んでいること、中門と金堂は複廊式の回廊で結ばれていること、さらに塔は金堂の東にあり、単廊で囲まれていることなど、大規模な伽藍配置が明らかになった。また、文献にある「貞観11年(869)の大地震」や「承平4年(934)の落雷」による被害の痕跡も確かめられている。現在、寺域には陸奥国分寺薬師堂および白山神社が建つ。」

* 1922年(T11)10月12日、陸奥国分寺跡が国の史跡に指定 
宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」   
陸奥国分尼寺跡 国の史跡に指定  1948年(S23)  【宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」より】「陸奥国分尼寺は陸奥国分寺と同じく、聖武天皇の詔により法華滅罪の寺として建立された。国分寺の東600mに位置する。市街化が著しく、寺域や伽藍配置などは良くわかっていないが、昭和39年に実施された発掘調査で、版築された基壇上に建てられた東西5間、南北4間の金堂が発見された。基壇内には、金箔の入った土師器の菱が鎮壇のため埋納されていた。金堂には国分寺の創建瓦と同種の瓦が使われているので、国分寺とほぼ同時期に創建されたと考えられている。」

* 1948年(S23)12月18日、古代の寺院跡が国の史跡に指定
* 1964年(S39)、発掘調査(東北大学伊東信雄教授ら)

<参考文献>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225(国分尼寺の概要、発掘調査など) 
宮城県HPの「指定文化財〈史跡〉陸奥国分尼寺跡」/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P224~225  「目で見る仙台の歴史」P20 
岩切城跡 国の史跡指定  1982年(S57)  1982年(S57)8月23日、岩切城跡が国の史跡に指定される  「仙台市史 年表」P133  「目で見る仙台の歴史」P25 
乳銀杏(苦竹のイチョウ) 国の天然記念物に指定  1925年(T15)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
「苦竹のイチョウは巨木で,大きく枝を張り,幹から出た根の一種である気根がつらら状に乳房のように多数垂れ下がっている様子から「乳銀杏(ちちいちょう)」とも呼ばれる。気根の最大のものは,周囲が1.6mにもなり,端が地面に達するものも見られる。樹下にまつられている銀杏姥神には,母乳が良く出るようにとお参りする人々も多い。樹齢は千年を越え,奈良時代に聖武天皇の乳母紅白尼の遺言でその塚の上に植えられたとの言い伝えがある。イチョウは起源の古い植物で,今から1億年以上前の中生代に栄えた。針葉樹等と同じく裸子植物に属している。イチョウには雌株と雄株があり,この樹は雌株である。苦竹のイチョウは,天然記念物に指定されているイチョウの中でも全国的に著名で,町名もこのイチョウにちなみ「苦竹」から「銀杏(いちょう)町」に変えられた。  樹種イチョウ(いちょう科) 幹周 7.8m 樹高 約32m 推定樹齢 1200年」

* 1925年(T15)10月20日、国の天然記念物に指定 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」  99-147 /「市民の戦後史(仙台市)」P86 
臥竜梅 国の天然記念物に指定  1942年(S17)  <仙台市HPより「仙台市内の指定・登録文化財」より>
臥竜梅(朝鮮ウメは、伊達政宗が文禄2年(1593)に朝鮮から持ち帰り仙台城に植えた後、晩年の居城である若林城内に移植したと伝えられる。現在の朝鮮ウメは,政宗が持ち帰ったものを接木した二代目であると言われる。臥龍梅としては稀有な品種で,国内最大級の大きさである。かつて中央部にあった樹高9m,幹周1.52mの主木は、昭和51年(1976)の台風で倒れ枯れてしまったものの、3株に分かれていた樹幹がその後良好な樹勢を保ち、春には香り高い白一重の大輪の花を咲かせる。  樹種ウメ(バラ科) 幹周1.3m 樹高約8.0m 枝張 東西約17m,南北約22m 推定樹齢360年

* 1942年(S17)9月19日、「臥竜梅」(若林区古城2丁目)が、国の天然記念物に指定
* 1954年(S29)5月、強風で宮城刑務所(旧若林城址)の「臥竜梅」折れる 
「仙台市HP」の「仙台市内の指定・登録文化財」/「市民の戦後史(仙台市)」P81  「市民の戦後史(仙台市)」P81 
龍宝寺の木造釈迦如来立像 国の重要文化財に指定  1903年(M36)  <仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」より>
木造釈迦如来立像は,京都嵯峨の清涼寺にある木造釈迦如来立像(国宝)の模刻像である。清涼寺の釈迦如来像は,東大寺の僧ちょう然が宋に渡り,釈迦の在世中にその姿を生き写しにして製作されたと伝えられる印度伝来の像を模して造らせ,寛和3年(987)に日本に持ち帰ったもので,いわゆる三国伝来の霊像である。鎌倉時代にはこの像を模刻して信仰することが全国的に盛んになった。龍宝寺の釈迦如来像もこうした模刻像の一つであるが,原像に忠実に倣ったものであり,鎌倉時代の早いころの作とされる。なお頭部内側に大永3年(1523)の修理銘がある。縄紐を同心円状に束ねたような頭髪,胸部の同心円的な衣文(えもん)の表現,両股の部分のY字型の扱いによくその異国風の特徴がみられる。この像は,もとは栗原郡金成の福王寺にまつられていたが,元禄年間(1688~1703)に四代藩主伊達綱村の命によって龍宝寺に移されたという記録がある。ヒノキ材 寄木造 像高160.3cm (龍宝寺所蔵)

* 1903年(M36)04月15日、国の重要文化財に指定

・ 「龍宝寺」は真言宗御室派別格本山で、青葉区八幡4丁目にある 
仙台市HP「仙台市内の指定・登録文化財」  「市民の戦後史(仙台市)」P87 
スポーツ大会(戦後復興期) 国体サッカー  1946年(S21)  * 1946年(S21)秋、第1回国体サッカー東日本予選(東大グラウンド)で、旧制仙台一中準優勝  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P467   
姉妹都市(仙台市) 国内姉妹都市  1967年(S42)~  <音楽姉妹都市>
* 1967年(S42)1月18日、仙台市(土井晩翠生地)が、大分県竹田市(滝廉太郎生地)と音楽姉妹都市に(「荒城の月」の縁) / S42年11月18日には、中山晋平生地の長野県中野市も加わり、三姉妹都市の縁を結ぶ

<観光姉妹都市>
* 1970年(S45)4月15日、徳島市と、七夕・阿波踊りという全国に誇る代表的な祭りをもつ縁で、観光姉妹都市に

<歴史姉妹都市>
* 1975年(S50)11月3日、宇和島市と歴史姉妹都市締結
* 1981年(S56)5月8日、北海道白老町と歴史姉妹都市調印

<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国内姉妹都市」に記述あり 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230/仙台市HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P128   
三原時計店 国分町で創業  1887年(M20)  <国分町の建物>
* 1887年(M20)3月、仙台市国分町(肴町角)に創業開店(三原本店HP)、戦後の徳陽シティー銀行の場所
* 1887年(M20)、三原時計店が国分町で時計塔付の建物を建設し開業(M22年開業説もある)(「目で見る仙台の歴史」P118では、明治18年)
* 1889年(M22)、国分町に時計塔のある洋風建築を建設(「古写真にみる仙台の建築」P43)
* (M29年に三原時計店が大町に移転後、建物は大正信託、第八銀行が使用した)
* 時計塔の文字盤には、1915年(T4)にはすでに針が無く、模様が描かれている
* 1921年(T10)、国分町の旧三原時計店の建物は取り壊された(「古写真にみる仙台の建築」P43)

<編者注> 「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217や「仙台老舗百店史の三原本店」の記述では、1896年(M29)に大町へ移転と記載されているが、「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)では、地図上も同裏面の実業家一覧表でも、三原時計店はまだ「国分町肴町角」となっている 
三原本店HP/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「仙台老舗百店史」P208、P217/「古写真にみる仙台の建築」P43  77-2144-1999-022 /「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に当時の三原時計店(国分町五丁目)の写真あり 
火災(地域) 国分町虎屋横丁  1948年(S23)  * 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失  「仙台市史10 年表」P319   
養賢堂 国史跡指定  1922年(T11)~1951年(S26)  * 1922年(T11)3月8日、国の史跡に指定
* 1951年(S26)12月26日、史蹟指定を解除(戦災で焼失) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P384、P553   
青葉山 国天然記念物に指定  1972年(S47)  * 1961年(S36)11月3日、県営青葉山ゴルフ場を青葉山に開設落成
* 1972年(S47)7月11日、国の天然記念物に指定される
   → 項目「青葉山植物園」参照
* 1981年(S56)10月21日、青葉山の遊歩道完成 
「重訂 宮城県郷土史年表」P602/「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P134   
文化財指定(平成年間) 国宝、史跡、ユネスコ記憶遺産、日本遺産  平成年間  * 2001年(H13)、「慶長遣欧使節関係資料」、国宝指定
* 2003年(H15)、「仙台城跡」、国史跡指定、
* 2006年(H18)、「仙台郡山官衙遺跡群」、国史跡指定
* 2012年(H24)、 国宝「慶長遣欧使節関係資料」がユネスコ記憶遺産登録
* 2016年(H28)、「政宗が育んだ“伊達”な文化」が、日本遺産認定 
仙台市HP「仙台市のあゆみ」   
瑞鳳殿 国宝指定  1931年(S6)  仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された

* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される 
公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187  99-08499-08599-08699-08744-2153-5653-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋) 
隅櫓 国宝指定  1931年(S6)  * 1931年(S6)12月14日、大手門脇の隅櫓が国宝に指定された(大手門、霊屋にある瑞鳳殿、感仙殿とともに)  「重訂 宮城県郷土史年表」P428  99-08165-0808-0253-4473-01/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P249 
大手門 国宝指定/焼失  1931年(S6)/1945年(S20)  ・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)

* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)

* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された 
「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322  99-08064-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面) 
宮城電鉄 国有化以前  1925年(T14)~1944年(S19)4月  * 1922年(T11)9月9日、宮城電気鉄道株式会社設立
・ 細倉鉱山の亜鉛精錬用電力の余剰分消費のため企画された
* 1925年(T14)6月5日、宮城電気鉄道(私鉄)が仙台~西塩釜間で運行開始、宮城電鉄仙台駅も開業
* 1927年(S2)4月、松島まで開通
* 1928年(S3)11月23日、石巻まで延伸開業(西塩釜~石巻間が開通)、30分おきに1両運転 / 女性車掌のオシボリのサービスもあり、松島観光や海水浴を宣伝した / 昭和恐慌の頃は展望車接続
* 1944年(S19)5月1日、宮城電鉄が国有化され、国有鉄道仙石線となる

<以降は、項目「国鉄(仙石線)」参照> 
「重訂 宮城県郷土史年表」P398/「仙台市史 年表」P101、P103、P104、P113/「新・目で見る仙台の歴史」P147/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200  「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に、宮城電鉄/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200(リーフレット「宮城電鉄沿線案内」)/同P523(戦前期?新田駅のプラットホーム) 

全33ページ中、12ページ目 (総数:1622件)

最初  | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 | 13 | 14 | 15 | 16 |  最後

索引

アーケード
アート・スミスの宙返り飛行
RTO(仙台)
愛国婦人会
愛の聖母院
アインシュタイン
青葉城
青葉城恋歌
青葉城資料展示館
青葉神社
青葉通り
青葉まつり
青葉山
青葉山公園
青葉山植物園
青葉山遊歩道
秋保電鉄
愛宕大橋(広瀬川)
愛宕堰
愛宕橋(広瀬川)
アメリカシロヒトリ防除
ありのまま舎
安保反対闘争
イールズ事件
遺児の日
泉ヶ岳勤労者野外活動センター
泉岳少年自然の家
イズミティ21
市場
一番町(旧・東一番丁)全域
一番町(旧・東一番丁)北部
一番町(旧・東一番丁)中央部
一番町(旧・東一番丁)南部
一銭橋(広瀬川)
いのちの電話
移民
医療機関
岩切城跡
牛越橋(広瀬川)
馬市
梅川漆器舗
梅田川清掃運動
埋木細工
ATM
映画館
衛戍病院(陸軍病院)
エキスポートバザー
X橋(宮城野橋)
NHK仙台放送局
NHK全国児童唱歌コンクール
NHK東北児童唱歌コンクール
NHK全国唱歌ラジオコンクール
NTT東北支社
MRI
LNG基地
エル・パーク仙台
横断歩道橋
大型店・量販店
大倉ダム
大崎八幡宮
大手門
大橋(広瀬川)
億ション
霊屋橋(広瀬川)
音楽コンクール
海岸公園
偕行社
買出し
街灯
学制改革
学童疎開
学徒勤労動員
学徒出陣
火災(地域)
ガス
霞目飛行場(仙台飛行場)
火葬場
ガソリン切符制
片倉製糸
ガダルカナル戦
学校教練
渇水
勝山公園
河北新報社
河北遊園地
釜房湖(ダム)
紙芝居
亀岡八幡神社
臥竜梅
カルトン食堂
簡易保険保養センター
環境基本条例
がん検診センター
勧工場・商館
幹線道路
紀元2600年
気象台
北山五山
切手代(ハガキ)
木町通小学校
義務教育期間
キリンビアホール
禁煙
銀行(地域の銀行)
銀行(都市銀行)
錦章堂ビル
金属回収
金の星(カフェ)
金富士(料理店)
勤労青少年ホーム
空襲
国見浄水場
軍事教練
軍需工場
軍都・仙台
軍刀(陸軍)
軍馬の銅像
軍服(陸軍)
軍用機献納
蛍光灯
警察
警察署
競馬
敬老乗車証
下水処理
血液センター
県営宮城野原公園総合運動場
県営宮城野球場(宮城球場)
県営宮城野原硬式庭球場
県営宮城野原蹴球場
県営宮城野原陸上競技場
県営宮城自転車競技場
元気フィールド仙台
健康都市宣言
県立学校、名称変更
県令 → 知事
興亜奉公日/大詔奉戴日
公会と隣組
公害・環境問題
公害市民憲章
公害防止条例
光化学スモッグ
公職追放/追放解除
公設浴場
交通監視用テレビ
高等学校(新制)
勾当台公園
工兵第二大隊 /工兵第二連隊
公民館
江陽会館
国際反戦デー
国定公園
国鉄
国道45号線
国道48号線
国民学校
国民義勇隊
国民金融公庫
国民勤労動員令
国民健康保険
国民精神総動員運動
国民登録/勤労報国隊
国民徴用令
国立仙台病院
国民服
国民帽
こけし塔
五色沼
国旗掲揚
子ども会など
午砲
米騒動
在外同胞救出仙台学生同盟
在郷軍人会
在住朝鮮人大会
斎藤報恩会
蔵王エコーライン
桜ケ岡公園(西公園)
桜ケ岡大神宮
サマータイム
産業組合中央会
三居沢交通公園
三陸自動車道
JR東日本
自衛隊
市街化区域
市街地住宅
自警団
時差出勤
思想弾圧/共産党員検挙
四大節
七十七銀行
市町村合併
輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊
実業補習学校
自動車
自動車専用道
シネマスコープ
師範学校
紙幣・硬貨(戦後)
姉妹都市
市民の家
市民のつどい
市民福祉会館
市民土曜音楽会
市民利用施設
社会教育(戦後)
釈迦堂
車両ナンバー
週休二日制
住居番号表示制
住宅団地
柔道・剣道
祝賀行事
主食配給量
殉国勇士の家
障害者福祉
鐘景閣
松根油
定禅寺通り
昭忠碑
商店など
常磐線
消費者団体
消防組/防護団/警防団/消防団
昭和三陸大地震津波
食糧メーデー
女子挺身勤労令
女子挺身隊
シルバー人材センター
新憲法
新国丁
震災遺構
新産業都市
新住居表示制度
親切運動
新仙台港
身体障害者福祉モデル都市
仁丹マーク
進駐軍(米軍)
新寺小路地区都市改造事業(区画整理)
新伝馬町商店街
新常盤町(遊郭)
新聞社
人力車
水害
水道事業
瑞鳳殿
スパイクタイヤ
スポーツ少年団
スポーツセンター
スポーツ大会
隅櫓
青少年団
清掃事業(行政)
清掃工場
政党県支部など(戦後)
青年訓練所
青年学校
青年団
税務署
精養軒
政令指定都市
セコイヤの化石
戦後開拓
戦後教育・仙台
戦後の物資・価格統制撤廃
戦後復員/引揚げ
戦災記録
戦災者・引揚者用住宅
戦災復興
仙山線
戦時衣料
戦時下の学園
戦時中の勤労動員/就労規制
戦時中の疎開者受入れ
戦時中の物資統制、使用規制
仙集館
戦勝祝賀行事
仙石線
仙台朝市
仙台アメリカ文化センター
仙台育児院
仙台駅
仙台オープン病院
仙台卸商センター
仙台偕行社
仙台歌舞伎座
仙台簡易保険局
仙台軌道(仙台鉄道)
仙台郷土研究
仙台空港
仙台空港アクセス鉄道
仙台空襲
仙台空襲後の空襲
仙台高等工業学校
仙台合同庁舎
仙台国際センター
仙台国税局
仙台座
仙台市(名称変遷)
仙台CIE図書館
仙台市営地下鉄
仙台市営バス
仙台市街自動車
仙台市科学館
仙台市公会堂
仙台市公報
仙台市視聴覚教材センター
仙台市市民文化事業団
仙台市制
仙台市戦災復興記念館
仙台市電
仙台市天文台
仙台自動車学校
仙台市農業協同組合
仙台市の工業
仙台市の消防
仙台市の動物園
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業
仙台市の農村・農業
仙台市の花・木・鳥・虫
仙台市博物館
仙台市武道館
仙台市兵事義会
仙台市ボランティアセンター
仙台市ミートプラント
仙台市民会館
仙台市民ギャラリー
仙台市民教養センター
仙台市民図書館
仙台市民の消費生活を守る条例
仙台市民文化センター
仙台市紋章
仙台市役所庁舎
仙台ショーハウス
仙台商業会議所/仙台商工会議所
仙台城二の丸焼失
仙台庶民金庫
仙台市立病院
仙台市歴史民俗資料館
仙台信用金庫
仙台スタジアム
仙台赤十字病院
仙台専売支局
仙台専門店会
仙台七夕
仙台鎮台
仙台鉄道管理局
仙台電報局
仙台東部道路
仙台東宝劇場
仙台トラック輸送センター
仙台南部道路
仙台西道路
仙台の裁判所
仙台バイパス
SENDAI光のページェント
仙台美術館
仙台平
仙台フィルハーモニー管弦楽団
仙台復興祭グランドフェア
仙台物産陳列所
仙台北部道路
仙台ホテル
仙台陸奥館
仙台郵便貯金会館
仙台臨海鉄道
戦没者遺骨調査・収集
戦没者慰霊
創価学会会館
総進軍大会
体育館
体外受精
大学・短大
大学紛争
大政翼賛会/新体制/公会/報国会
第二高等学校(旧制)
第二師団
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会
第十三師団
第三十三師団
第四十二師団
大日本国防婦人会
大日本婦人会
大日本連合婦人会
台原森林公園
台風被害(戦後)
多賀城跡
高橋是清
タクシー
宅地造成ブーム
竹槍訓練
立町小学校
谷風の墓所
多門師団凱旋
多門通り
男女共学
地価狂乱
乳銀杏
ちびっこ広場
駐留軍(米軍)
彫刻のあるまちづくり事業
鳥獣特別保護区
朝鮮館
朝鮮人移入労働者
朝鮮戦争
樗牛瞑想の松
チリ地震津波
榴ケ岡公園
堤人形
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン
デイケアー
貞山運河(貞山堀)
逓信関連
停電
出稼ぎ者相談所
テレトピア構想
テレビアンラジオ
テレフォンカード
電気開始(仙台)
電球
電信開始(仙台)
天神社
伝染病流行
伝統町名保存
天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
土井晩翠
東一マーケットと中央マーケット
洞雲寺
灯火管制
東京オリンピック(昭和)
東照宮(仙台)
東部復興道路
同胞援護会
東邦生命ビル
東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
東北大学病院
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団
東北帝国大学
東北電力
東北本線
東北楽天ゴールデンイーグルス
東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
長町駅
奈良原式鳳号
西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
二十人町
日米野球
ニッカウイスキー工場
日本銀行
日本生命館
日本鉄道
日本農民組合
ネオンサイン
年賀郵便
年中行事(まつり)
乗合馬車
敗戦後の諸相・仙台
廃藩置県(仙台県誕生)
バカンス(流行語)
爆弾三勇士の歌
博覧会・フェア
芭蕉の辻
芭蕉の辻商館
芭蕉の辻の城櫓風建物
芭蕉の辻の洋館
バス
バスプール
バス優先レーン
支倉常長(記念碑/銅像)
発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
藩祖政宗公三百年祭
藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
東一番丁百年祭大仮装行列
東二番丁尋常小学校
東二番丁通り(拡幅)
東日本大震災
光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
宮城教育大学
宮城県沖地震
宮城県会議事堂(明治時代)
宮城県旗の図案
宮城県弘報誌「みやぎ」
宮城県県民の森
宮城県護国神社
宮城県社会福祉事業会館
宮城県スポーツセンター
宮城県青年会館
宮城県青年の船
宮城県第二総合運動場
宮城県庁舎
宮城県町村会館
宮城県図書館
宮城県美術館
宮城県物産陳列場(芭蕉の辻)
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館
宮城県武道館
宮城県民会館
宮城県理科教育センター
宮城県立青年の家
宮城控訴院(赤タイル庁舎)
宮城交通
宮城集治監
宮城電鉄
宮城野駅/仙台貨物ターミナル駅
宮城の塔(沖縄)
宮城野通り
宮城婦人会
宮沢の一銭橋
宮沢橋(広瀬川)
民生委員/児童委員
民間放送(仙台)
無線中継所
陸奥国分寺跡
陸奥国分尼寺跡
メーデー
メートル法
明治三陸地震津波
明治製菓
明治生命館
明治百年
名水百選
瞑想の松
名誉市民
盲人専用信号機
木材応召
木炭バス
文字・漢字の表記
森天祐堂
森徳座
杜の都の環境をつくる条例
杜の都の風土を育む景観条例
杜の都緑化基金
八木山開発
八木山球場
八木山橋
八木山ベニーランド
八木山遊園地
野球場
野草園
山火事
山形自動車道
闇市
やりなおし市長選挙
挹翠館 
郵便局
郵便馬車
郵便番号制度
ユニオンビール
ユネスコ協会
閖上大橋
養賢堂
用語(皇居と宮城)
用語(大東亜共栄圏)
用語(東亜新秩序と大東亜新秩序}
洋食屋
養種園
幼稚園
翼賛壮年団
澱橋(広瀬川)
ライオンズクラブ
ラジオ体操会
陸海軍の工場
陸軍の学校
リサイクル
龍宝寺の木造釈迦如来立像
輪タク
霊園/墓園
冷害・凶作
レジャーセンター
レッドパージ
練兵場
ロータリー・クラブ
老人福祉
労働運動
ロシア兵捕虜
魯迅
ロッテ球団
ワープロ