項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
高等学校(新制) |
宮城県農業高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1875年(M8)、県立植物試験所(前身)創設(片平丁)
* 1879年(M12)、県立勧業試験場、名取郡茂ヶ崎村(現太白区根岸町)に設置
* 1881年(M14)7月9日、県立勧業試験場が「宮城農事講習所」と改称
* 1885年(M18)7月1日、宮城県農事講習所を改組し、「宮城農学校」を創設(「重訂 宮城県郷土史年表」P271)
* 1901年(M34)7月5日、「県立宮城農学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立宮城農学校」と改称
* 1919年(T8)11月1日、「宮城県農学校」と改称
* 1928年(S3)、学校所在地の地名が仙台市長町と変更
* 1947年(S22)、専攻科設置(S28年廃止し宮城農業短大設置)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県農業高等学校」と改称 / 同年5月に定時制課程設置、高砂、岩切、広瀬、秋保の4分校設置
* 1961年(S36)~1967年(S42)、5期にわたり鉄筋コンクリート3階建て校舎建設
・ 1969年(S44)現在、農業、園芸、畜産、食品化学、農業工学に在校生836名、
* 1970年(S45)、4分校のうち最後まで残った秋保、高砂両分校廃止
* 1977年(S52)3月1日、名取市に移転
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120/「仙台市史 年表」P85、P91、P92/「重訂 宮城県郷土史年表」P271/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P508~509/「宮城県農業高等学校」HP
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99-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P120に、「宮城県農学校」(M18~37年の間)
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日本農民組合 |
宮城県連合会大会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)
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「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン)
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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文化勲章 |
宮城県関係受賞者 |
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* 1937年(S12)2月11日、文化勲章令公布
(昭和12年)本多光太郎 / (昭和19年)志賀潔、(昭和25年)土井林吉(晩翠) / (昭和27年)熊谷岱蔵 / (昭和28年)矢部長克、宇井伯寿 / (昭和30年)増本量 / (昭和31年)村上武次郎 / (昭和33年)野副鉄男 / (昭和43年)黒川利雄
****** 以上、昭和50年まで ******
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P12/「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P545、P560、P569
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朝鮮人移入労働者 |
宮城県関連 |
昭和10年代後半 |
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(「特高警察から宮城県知事への報告」 昭和17年10月?)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
・ 戦争がはじまって日本国内で労働力が不足すると、政府は国内の鉱山、土木作業の経営者に朝鮮人労働者の集団連行を許可します。昭和19年2月の「宮城県知事引継書」によると、宮城県内には朝鮮人が6405人住んでおり、このうち「国民動員計画による移入労働鮮人」は1601人、内訳は菅原組多賀城出張所728人、同矢本出張所115人、三菱細倉鉱業所365人、西松組塩釜出張所349人、小原出張所44人。県全体で137人(4.9%)が逃亡しており「特高警察」は一斉取締りを実施して探しました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
・ 移入朝鮮人労務者(「特高警察から宮城県知事への報告 昭和20年」より) 国民動員計画に基づく朝鮮人労務者は県内に1442人 / うち、239人は1年間の契約期間満了だが、法令で1年間契約延長となり動揺、逃亡者も予想される / 各種事故増加傾向改善のため、移入朝鮮人が多い塩釜、若柳両警察署に「移入労務者事故防止協議会」設置、事前指導の強化徹底を図っている(「戦争のころ 仙台、宮城」P202)
・ 「なぐられ、監禁されて働かされた朝鮮人労働者」
当時、多賀城海軍工廠の現場(菅原組多賀城出張所)で働いた朝鮮人の道然圭(グヨンギュ)さんの証言(「多賀城市史」から引用)あり(「戦争のころ 仙台、宮城」P160)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74、P160、P202
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国民義勇隊 |
宮城県関連 |
1945年(S20) |
【出典記載あるものを除き、「戦争のころ 仙台、宮城」P198~200より転記】
* 1945年(S20)5月、国民義勇隊の兵役法公布
・ 全国の国民学校初等科卒業 (12歳)以上で、男子は65歳未満、女子は45歳以下を強制的に隊員に加入させ、防空、被害復旧、疎開輸送、食糧増産に動員、「状況急迫した場合には必要地域の国民義勇隊を戦闘などに移転させること」(国民義勇戦闘隊)
・ 敵の本土上陸作戦が始まったら、男子(15~60歳)、女子(17~40歳)を「国民義勇戦闘隊」に編入し、陸海軍の司令官の指揮に従い戦いに参加させる
・ 従来の大政翼賛会や隣組は解散し、国民義勇隊に組み入れられた
* 1945年(S20)5月31日、刈田郡連合国民義勇隊結成(県内初) / 6月9日までに、全県下3市194町村で国民義勇隊結成(「宮城県知事事務引継書」昭和20年6月10日)
* 1945年(S20)6月1日、仙台市国民義勇隊結成(「仙台市史年表」P113)
* 1945年(S20)7月5日、護国神社前で「仙台市国民義勇隊」結成、市長が全市民に向かって「火の玉となって敵撃滅の戦列に参加しよう」と呼びかけた(「仙台市史 続編第1巻」P53)
* 1945年(S20)7月5日、仙台市国民義勇隊、宮城県護国神社で結成式 / 丸山知事(国民義勇隊宮城県本部長)は「郷土防衛の組織体として訓練と活動をなすのみならず、事態急迫して軍の要請あらば戦闘隊として戦線にでて軍務に服すのであり、これが従来の国民運動と大きく異なるところであります」と談話を発表(「戦争のころ 仙台、宮城」P199)
・ 宮城県の義勇隊副本部長は一力次郎河北新聞社社長と佐藤正在郷軍人会県支部副長(陸軍少将)、事務局長は長門頼三宮城県商工経済会事務局長
・ 国民義勇隊は、国民学校初等科修了以上で男子は65歳以下、女子は45歳以下で編制、隣組を単位として分隊を,公会単位で小隊、戦闘部隊に移行する場合は中隊を編制する、本隊は市長が隊長となって統率、本部は市役所内に置く
「大本営陸軍部は「国民抗戦必携」「国民築城必携」を刊行して国民に配布、国民義勇戦闘隊の教育参考書として敵と戦う方法を教えた / 河北新報は、10回にわたって、仙台連隊区司令部の解説つきで「国民抗戦必携」を連載したが、それはまさに殺人のやり方教授法でした。 / 狙撃、手りゅう弾の投げ方、戦車肉薄攻撃、ガス、火災防護などとともに「白兵戦闘格闘」の項目もあり、刀、やり、出刃包丁や玄能(金槌)などでの戦い方を挿絵入りでこまごまと説明。」
* 1945年(S20)9月1日、仙台市国民義勇隊解散(「仙台市史年表」P113~P114、「仙台市史10 年表」P309)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P198~200/「仙台市史年表」P113~114/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P53/「仙台市史10 年表」P309
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満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
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「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(3)南郷村の分村 |
1936年(S11)~1945年(S20) |
・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-1)仙台村 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>
【仙台市市 年表」P111~112】
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設
【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28)
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「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした
<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
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スポーツ大会(戦後復興期) |
宮城県高校総合体育大会(第1回) |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)5月23日、第1回県下高等学校総合体育大会始まる
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「仙台市史10 年表」P328
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メーデー(戦後) |
宮城県(戦後復活) |
1946年(S21)~ |
* 1946年(S21)5月1日、戦後復活第1回、宮城県庁前広場に2万人参加(11年ぶりに復活)
* 1947年(S22)5月1日、復活第2回メーデー、勤労大衆約3万結集
* 1949年(S24)5月1日、メーデー、反共系=仙台労協側、容共派=県労会議に分裂
* 1950年(S25)5月1日、宮城全労会議系、県労会議系の分裂メーデー
* 1951年(S26)5月1日、2年間の分裂メーデーをやめ、統一メーデー開催
* 1952年(S27)5月1日、県メーデー、西公園グランドに約4000名参加、学連系東北大学生150余名警官隊と衝突
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「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史10 年表」P312、P316、P321、P323、P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P510、P534、P549
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44-46(S22、戦後2回目)/「新・目で見る仙台の歴史」P179(S35年メーデー集会、宮城県庁前)/「市民の戦後史(仙台市)」P214(S43年5月メーデー集会)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P532(S36年、メーデー前夜祭のポスター)
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医療機関 |
宮城第一・第二病院 |
1956年(S31)/1946年(S21) |
ともに、社会保険連合会による病院
<宮城第一病院>
* 1956年(S31)1月、名掛丁に開院(現地にあった個人病院を買収、10床)
* 1959年(S34)に、150床
* 1960年(S35)、病棟新築(地下1階、地上4階、200床)
* 1963年(S38)、第2病棟(地下1階、地上5階)完成
<宮城第二病院>
* 1946年(S21)、長町西浦に開院(20床)
* 1961年(S36)?、病棟新築(鉄筋コンクリート5階建て、200床)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732~733
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発電事業 |
宮城紡績会社/宮城水力紡績会社/宮城水力紡績製紙会社/宮城紡績電灯会社 |
1888年(M21)/1894年(M27)/1897年(M30)/1899年(M32)~1912年(T1) |
<宮城紡績会社、アーク灯試験点灯>
* 1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う(アーク灯の点灯に成功)
<宮城水力紡績株式会社、市内に供給開始、365灯>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社が宮城水力紡績株式会社と改称、30kwの発電所の運転開始
* 1894年(M27)7月15日、宮城水力紡績株式会社が、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し仙台市内に365灯の電灯が灯る
* 1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)
* 1895年(M28)、221戸で752灯
* 1896年(M29)1月1日、宮城水力紡績、三居沢第一発電所の運転開始
<宮城水力紡績製紙株式会社>
* 1897年(M30)10月16日、宮城水力紡績株式会社、仙台製紙と合併して宮城水力紡績製紙株式会社となる
* 1898年(M31)6月、宮城水力紡績製紙株式会社、清水小路火力発電所の運転開始
<宮城紡績電灯株式会社>
* 1899年(M32)10月、宮城水力紡績製紙株式会社と仙台電灯株式会社が合併し、宮城紡績電灯株式会社となる(供給区域は、仙台市、茂ケ崎村の一部、原町、七郷村南小泉、七北田村に及び、4000灯を超える
* 1900年(M33)、宮城紡績電灯株式会社、清水小路火力発電所を廃止
* 1908年(M41)、宮城紡績電灯株式会社、三居沢に新発電所設置、試運転開始
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市が買収>
* 1912年(T1)12月、仙台市が宮城紡績電灯を買収、計4万1145灯に達する
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P140~141/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台市史 年表」P86、P88、P89、P90、P91、P94、P95/Wikipedia「三居沢発電所」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141(M27年頃の清水小路の火力発電所)
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銀行(地域の銀行) |
宮城貯蓄銀行/五城銀行/東北貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1932年(S7) |
* 1893年(M26)、第七十七国立銀行が、銀行条例の改正により、貯蓄預金取り扱いのため、宮城貯蓄銀行を大町1丁目に開業(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* 1893年(M26)、宮城貯蓄銀行を仙台市大町二丁目に創立
* 1901年(M34)、株式会社宮城貯蓄、同仙台貯蓄両銀行倒産
* 1902年(M35)、仙台貯蓄、通商貯蓄、国民貯蓄の各銀行解散
* 1908年(M41)、宮城貯蓄銀行に取付あり
************************************
* 1921年(T10)11月、宮城貯蓄銀行が、普通銀行に改組し、商号を五城銀行と改称(貯蓄銀行業務は新設の宮城貯蓄銀行に譲渡) (「仙台市史 年表」P100、「重訂 宮城県郷土史年表」P382、「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* T12年3月26日、五城銀行(頭取、伊沢平左衛門) が、第八銀行(大正3年12月国分町に創設、頭取山田久右衛門)と塩釜銀行を合併(頭取、伊沢平左衛門)( 「仙台市史 年表」P101)
* 1932年(S7)2月1日、七十七銀行が、五城銀行と東北実業銀行を合併
* 1934年(S9)1月20日、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行とが合併、東北貯蓄銀行を大町五丁目に設立(「仙台市史 年表」P107、「重訂 宮城県郷土史年表」P439)
* 1945年(S20)5月1日、七十七銀行が東北貯蓄銀行を買収(「重訂 宮城県郷土史年表」P504)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P294、P323、P326、P342、P382、P387、P439、P504/「新・目で見る仙台の歴史」P132/「仙台市史 年表」P100、P101、P107/「仙台年表」P203
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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東北学院中学校・高等学校 |
宮城野区小鶴に移転 |
2005年(H17) |
<中学校・高等学校移転 東二番丁→小鶴>
* 2005年(H17)1月、中学校・高等学校新校舎完成(仙台市宮城野区小鶴)
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「東北学院」HP
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アート・スミスの宙返り飛行 |
宮城野原で公開 |
1916年(T5)6月14日 |
アメリカ人飛行士アート・スミスが宙返り飛行で話題をよび来日
仙台でも大正5年6月13日、追廻練兵場で有料公開の予定となり人を集めたが雨天中止 / 翌日、宮城野原で無料公開した
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「新・目で見る仙台の歴史」P155/「仙台はじめて物語」P203/「目で見る仙台の歴史」P157
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44-14、44-15、44-16
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医療機関 |
宮城野病院 |
1951年(S26)?~2016年(H28) |
国家公務員共済組合連合会が運営 / 戦後、国家公務員の結核患者治療対策のため設立(市内原町小田原高平)
* 1953年(S28)3月、開院(148床)と共に満床
* 増床を続け。1954年(S29)には、284床となる
* 1955年(S30)頃を境に結核患者目立って減少、一部を一般病床に転用
* 1968年(S43)ころ、新病棟建設(鉄筋コンクリート6階建)
その後、東北公済病院の分院となり、2016年(H28)3月末で閉院し、東北公済病院に移転統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P732
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練兵場 |
宮城野練兵場 |
1878年(M11)頃~1945年(S20) |
* 1878年(M11)、「この年ころ、宮城野原及び講武所跡などに練兵場を、また、台原に射撃場を設く」(「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256)
・ 宮城野練兵場(みやぎのれんぺいじょう)は、仙台鎮台(明治21年からは第二師団)の練兵場で、追廻練兵場(おいまわし)とともに、明治年間から昭和20年日本敗戦まで存続
・ 場所は、仙台市街地東方の宮城野原で、学生・生徒の軍事教練や小学生の遠足の場でもあった
<戦後は>
* 戦後(S25)、跡地が県営宮城野原公園総合運動場用地となり、S27までに県営宮城野原蹴球場、県営宮城球場、県営宮城野原陸上競技場、県営宮城野原総合運動場庭球場が順次開設された → 項目「県営宮城野原公園総合運動場」参照
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「重訂 宮城県郷土史年表」P255~256
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99-126、99-160、99-163、69-06/位置図は、 98-111、98-113、98-115
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校専攻科(私立) |
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★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称
・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542
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戦時下の学園 |
宮城高等女学校(私立) |
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★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」
・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」
▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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敗戦後の諸相・仙台 |
家畜も激減 |
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<市立屠場(市内小田原泉町)では>
・扱った牛馬豚羊が、1944年(S19)5000頭超、S20は2000頭、S22は746頭と激減
<飼育頭数も激減>
・市内の飼育数(牛馬豚羊)、S20は3475頭、S21は272頭
・深刻な食糧事情で、食いつぶされてしまった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72
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金属回収 |
寺院の梵鐘など |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)11月6日、大年寺の名鐘、白銀混鋳の「開静鐘」など(仙台市内の)各寺院神社等の撞鐘をはじめ金属製の調度品(国宝級のものを除く)を戦時資材として回収開始(“応召”より除かれた三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)
* 1942年(S17)11月12日、各寺院より“応召”した梵鐘の壮行供養会を東一番丁の西本願寺に於いて挙行
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P26/「重訂 宮城県郷土史年表」P493/「仙台年表」P214
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「目で見る仙台の歴史」P168(各寺院供出物の山)
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住宅団地 |
将監団地 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)、泉町に造成開始(県開発公社がS50年にかけ造成)
* 1970年(S45)、県営住宅として、泉町に将監住宅412戸を建設
* 1972年(S47)2月、噴水池完成
* 1972年(S47)5月26日、公設小売市場オープン
* 1974年(S49)7月、18業者による協同組合公設小売市場完成
* 1978年(S53)5月20日、ファミリーデパート、オープン
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「新・目で見る仙台の歴史」P186/「仙台市史 年表」P126/「重訂 宮城県郷土史年表」P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P10、P31、P81
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P91(S49年、将監公設小売市場)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃の将監団地、俯瞰カラー)
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学制改革(戦前) |
尋常、高等を分離 |
1916年(T5)4月1日 |
* 1916年(T5)4月1日、仙台市、小学校組織を改正して尋常科と高等科を分離し、尋常小学校11校、高等小学校2校の編成とする
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「仙台市史 年表」P97
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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義務教育期間 |
小学校令/国民学校令/6・3制 |
1907年(M40)/1941年(S16)/1944年(S19)/1947年(S22) |
* 1907年(M40)3月21日、小学校令改正により、尋常小学校の義務教育期間が、4年から6年へ変更(「仙台市史 年表」P94)
* 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)(「重訂 宮城県郷土史年表」P482)
* 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)(岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21)
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始、国民学校を小学校と改称、義務教育期間は小学校・中学校の9年間に(「仙台市史 年表」P114)
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「仙台市史 年表」P94、P114/「重訂 宮城県郷土史年表」P482/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/
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師範学校 |
小学校教員伝習学校/仙台師範学校/県立宮城師範学校(県立)/宮城県尋常師範学校/宮城県師範学校/宮城師範学校(官立)/東北大学に |
1875年(M8)/1876年(M9)/1879年(M12)/1886年(M19)/1898年(M31)/1942年(S17)/ |
* 1875年(M8)3月22日、小学校教員伝習学校を宮城県が外記丁に設置
* 1876年(M9)3月3日、小学校教員伝習学校を仙台師範学校と改称
* 1877年(M10)8月、仙台師範学校が女子師範科を設置
* 1879年(M12)6月、前年に廃止された官立宮城師範学校の校舎(勾当台通)や機能を継承し、県立宮城師範学校と改称
* 1886年(M19)2月、制服が洋服に改められる
* 1886年(M19)8月28日、宮城県尋常師範学校と改称
* 1889年(M22)、北一番丁に校舎新築し移転
* 1898年(M31)年4月、宮城県師範学校と改称
* 1913年(T2)4月1日、宮城県師範学校から女子部が独立し、仙台市中島丁に開校
* 1942年(S17)4月1日、宮城県師範学校が宮城県女子師範学校を合併して官立の宮城師範学校となる
* 1949年(S24)5月31日、東北大学に包括(統合)
* 1950年(S25)4月1日、東北大学教育学部となる
* 1951年(S26)4月、宮城師範学校附属小学校、制度改正で、東北大学教育学部附属小学校となる(北七番丁校舎、中島丁校舎)
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「仙台市史 年表」P81、P85、P86、P90、P96、P112、P116/「明治の洋風建築-宮城県-」P59/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P549
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99-070(撮影は大正前半期)/「目で見る仙台の歴史」P121に、北一番丁の宮城県師範学校校舎
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火災(地域) |
小田原遊郭 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)1月24日、小田原遊郭全体の四分の一にあたる30戸が焼失
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「仙台市史 年表」P95
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住宅団地 |
小鶴団地 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)、仙台市営小鶴団地(140戸)建設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P584
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大学・短大 |
尚絅女学院短期大学/尚絅学院大学女子短期大学部 |
1950年(S25)/2003年(H15)/2011年(H23)廃止 |
<前史>
*1920(T9)、当時の尚絅女学校に高等科(英文科、家事科)を併設
* 1935年(S10)、高等科が専攻部と改称し、保母科と商科を増設(専攻部が戦後の短期大学の母体)
・ 戦時中、専攻部も勤労動員や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用される
* 1945年(S20)9月~11月、校舎が進駐軍に接収され、八幡国民学校と女子師範付属国民学校校舎で授業
<開学>
* 1950年(S25)3月14日、専攻部を母体として、尚絅(しょうけい)女学院短期大学設置認可
* 1950年(S25)4月1日、設置(英文、家政の2科)
* 1955年(S30)、保育科を開設
* 1964年(S39)、家政科を家政専攻・食物栄養専攻に分離、保育専攻科を設置
* 1967年(S42)、英文科を再開(S33~募集中止していた)
* 1989年(H1)、名取市に移転、人間関係科を新設
* 2003年(H15)、尚絅学院大学女子短期大学部となる
* 2011年(H23)3月31日、廃止
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「尚絅学院」HP/「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541/Wikipedia「尚絅学院大学」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543~544
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543/「市民の戦後史(仙台市)」P178(校舎)
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高等学校(新制) |
尚絅女学院高等学校(前史) |
1948年(S23) |
<前史>
* 1890年(M23)、米合衆国バプテスト派宣教師ラヴィニア・ミードが来仙し、新坂通に家塾を開く
* 1892年(M25)、「尚綗女学会」開校式(生徒5人が在学)
* 1893年(M26)、中島丁(現・青葉区八幡)に校舎建設移転
* 1896年(M29)、校舎と寄宿舎(エラ・オー・パトリックホーム)落成
* 1899年(M32)11月24日、「私立尚綗女学校」創立(初代校長アンネ・S・ブゼル)(当時は、尚絅女学校でなく字は「尚綗」を用いた)
* 1900年(M33)、制服としてお納戸色のはかまを着用決まる
* 1902年(M35)、校章を制定
* 1903年(M36)、同窓会発足(卒業生総数20人)、
* 1917年(T6)、創立25周年講堂と新校舎が落成 / 校歌(土井晩翠作詞、佐々木英作曲)、と校旗を制定
* 1919年(T8)、附属幼稚園を開設、メリー・D・ジェッシーが第2代校長となる
* 1920年(T9)、高等科(英文科、家事科)新設
* 1921年(T10)、高等科に音楽科新設
* 1928年(S3)、高等科校舎新築
* 1932年(S7)、本科の制服をセーラー型にする
* 1935年(S10)、高等科を専攻部と改称(保母科、商科を増設)
* 1944・45年(S19・20)、学徒動員で軍需工場などに出勤
<戦災>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で寄宿舎が焼失
・ 戦災で校舎を失った常盤木女学校に校舎の一部を貸す
・ 終戦後は進駐軍に校舎を撤収され、八幡国民学校(小学校)や女子師範学校校舎を借りて授業
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「尚絅学院中学校・高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89、P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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「目で見る仙台の歴史」P134に、「尚絅女学校と学校長ブセル」/「新・目で見る仙台の歴史」P139(尚絅女学校)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P133(エラ・オー・パトリック・ホーム)
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高等学校(新制) |
尚絅女学院高等学部(学制改革後)/尚絅女学院高等学校/尚絅学院女子高等学校/尚絅学院高等学校 |
1948年(S23)/1961年(S36)/2003年(H15)/2008年(H20) |
<学制改革で新制高校に>
* 1947年(S22)、新制中学校を設置、保護者会が父母教師会となる
* 1948年(S23)、新制高等学校を設置、校名を「尚絅女学院」と改め、中学部・高等学部・専攻部となる
* 1950年(S25)、中学・高等学部の制服を制定
* 1956年(S31)、幼稚園を開設
* 1958年(S33)、礼拝堂と南校舎を落成
* 1961年(S36)、中学部・高等学部を中学校・高等学校と改称
* 1974年(S49)、体育館が落成
* 1984・85年(S59・60)、中校舎と北校舎が落成
* 1992年(H4)、創立100周年記念式典を行う
* 1993年(H5)、礼拝堂にパイプオルガン設置
* 1998年(H10)、大韓民国釜山市「イサベル中学・高等学校」との姉妹校調印式
* 2000年(H12)、中・高、フィリピン共和国で初の海外ワークキャンプ実施
* 2003年(H15)、法人名を「尚絅学院」、校名を「尚絅学院大学女子短期大学部」、「尚絅学院女子高等学校」、「尚絅学院女子中学校」、「尚絅学院大学女子短期大学部附属幼稚園」と改称 / タイ国「サハミット学園」との姉妹校調印
* 2008年(H20)、校名を「尚絅学院中学校」「尚絅学院高等学校」と改称 / 中学を男女共学化、高校は特別進学コースのみ共学に
* 2009年(H21)、高校、総合進学コースに文理(共学)・文系(女子のみ)を設置
* 2011年(H23)、高校、全コース男女共学化
* 2015年(H27)、新校舎完成
* 2016年(H28)、体育館・グラウンド完成
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「尚絅学院中学校・高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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大学・短大 |
尚絅学院大学・大学院 |
2003年(H15)~ |
* 2003年(H15)、尚絅学院大学開学、総合人間科学部開設
* 2007年(H19)、大学に表現文化学科、現代社会学科、生活環境学科、大学院総合人間科学研究科を開設
* 2009年(H21)、大学図書館棟、実習棟竣工 / 名取市増田地区に「尚絅学院大学生涯学習センター」を開設
* 2010年(H22)、子ども学科を開設
* 2016年(H28)、尚絅学院大学大学院臨床心理実習棟竣工
* 2017年大学院 人間学専攻を開設
* 2018年(H30)、ブランドコンセプト「Passion with Mission」制定
* 2019年(H31)、3学群5学類制スタート
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「尚絅学院」HP/Wikipedia「尚絅学院大学
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藤崎(戦後期) |
屋上遊園地オープン(西館) |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
(観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)
<編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる
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「藤崎170年のあゆみ」P196~197
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59-01、18-09
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芭蕉の辻の交番 |
屯所設置/巡査派出所/建替 |
1884年(M17)/1889年(M18)/1926年(T15) |
* 1884年(M17)3月、芭蕉の辻など仙台区内8カ所に屯所を置く / 1889年(M18)年6月、屯所の名称を巡査派出所とする(「仙台市史 本編2」P650~651)
* 1926年(T15)3月20日、附近有志の寄付により芭蕉の辻巡査立番所を改築、同巡査派出所と改めた(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P267) / 陸屋根コンクリート造りに建替えられた(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21)
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「仙台市史 本編2」P650~652/「仙台市史10 年表」P267/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21(河北新報T15年1月18日の記事)
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16-01(右下の建物)
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自動車専用道 |
山形自動車道 |
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→ 項目「山形自動車道」参照
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駐留軍(米軍) |
川内、苦竹両キャンプ返還 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1957年(S32)11月13日、二の丸跡、米軍より返還(「仙台城」P236) / 同日に川内返還式(「目で見る仙台の歴史」P195)
・川内キャンプ跡は、東北大学と開拓者と仙台市有に分けられ、苦竹キャンプ跡は、自衛隊に3分の2、残り3分の1は工場用地とされた
<その後の、在日米軍施設>
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P586/「仙台市史 年表」P120/「続・ 宮城県郷土史年表」P60/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P801/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236
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「目で見る仙台の歴史」P195(川内キャンプ返還式で日章旗掲揚)
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火災(地域) |
川内追廻 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P595
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八木山遊園地 |
工事完了 |
1930年(S5) |
八木久兵衛氏(「紅久」経営者)が、所有する土地に私費を投じて野球場とともに建設し、遊園地(約10万坪)は7年後に仙台市に寄付した(八木山公園は一時、宮城県に寄付したが、昭和7年八木氏に返還され、9年4月に改めて仙台市に寄付された) / 公園には、野球場、遊園地、吊り橋、動物舎、散策路などがある(「仙台市史 本編2」P377)
* 1937年(S2)9月、起工
* 1930年(S5)4月、「八木山遊園地」と「公園」を開設(「仙台市史 年表」P105)
* 1934年(S9)4月、「八木山公園」、仙台市に寄付される(「仙台あのころこのころ八十八年」P247)
* 1936年(S11)5月28日、「八木山遊園地」を仙台市に寄付(仙台市会が寄付採納可決)
* 1937年(S12)、仙台芸妓組合、八木山遊園地、沿道、紅葉ケ谷に桜800本を植栽し、仙台市に寄付(「仙台あのころこのころ八十八年」P248)
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「仙台市史 年表」P105、P108/「重訂 宮城県郷土史年表」P415/「仙台あのころこのころ八十八年」P247、P248/八木山公園については、「仙台市史 本編2」P376~378に詳しい記述あり
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軍需工場(宮城県内) |
工場疎開 |
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<首都圏から宮城県へ>
「首都圏の軍需工場など98企業から宮城県へ疎開希望あり、すでに53工場が操業中、残りも対応中」(「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月)より)
<仙台市内の軍需工場の疎開>
東北臨時生産防衛対策委員会、仙台市内の10工場を、空襲に備えて疎開決定
・東北特殊鋼 仙台市長町 → 山形県西村山郡西郷村の国民学校へ
・三馬弘進ゴム 仙台市行人塚 → 鳴子町川端へ
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P211
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電気開始(仙台) |
市内に供給 |
1894年(M27)7月15日 |
<試験点灯>
(1-1)「1886年(M19)、三居沢の紡績工場に点火 / 本県における電灯使用の初見なり」
(1-2)「1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う」
<市内に供給>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社、合併により宮城水力紡績製紙株式会社に改称 / 出力30KWの三居沢発電所を建設、発電事業開始 / この電力を昼間は紡績工場の動力として使用し、夜間は、同年に設立された仙台電灯株式会社に売り、仙台市内の需要者に供給(「仙台市史 特別編4 市民生活」P350)
(2-1)「1894年(M27)7月15日、宮城紡績会社、宮城水力紡績株式会社と改称、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し、大町と国分町に365灯の電灯が灯る」
(2-2)「1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)、のちの仙台電灯株式会社」
* 1912年(T1)、電灯事業を仙台市が買収
(以降は、→ 項目「発電事業」参照)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/(1-1)「重訂 宮城県郷土史年表」P275/(1-2)「仙台市史 年表」P86/(2-1)同P88、「新・目で見る仙台の歴史」P124/(2-2)「重訂 宮城県郷土史年表」P298
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「目で見る仙台の歴史」P129に、「三居沢宮城紡績会社」と、「山居沢発電所(スケッチ)/「新・目で見る仙台の歴史」P124(三居沢発電所)
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仙台市役所庁舎 |
市制以前(仙台区役所庁舎) |
1885年(M18)~1926年(T15) |
建物は、勾当台通表小路(1996年現在の市役所の前庭)にあり、平屋建てではあるが重厚な感じの木造で親しまれた
* 1878年(M11)7月22日、旧仙台城下は仙台区となる
* 1885年(M18)10月24日、区役所新庁舎、表小路に完成
* 1889年(M22)4月1日の市制施行後も1926年(T15)まで使用
* 昭和初期に取り壊し(1929年(S4)に完成した3階建て市庁舎建設を前に)
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「仙台市史 年表」P82、P85/「宮城県の百年」P9の掲載写真の「説明文」
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98-056/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116/「新・目で見る仙台の歴史」P121
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仙台市制 |
市制施行 |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)4月1日、市制施行
* 1950年(S25)8月25日、仙台市弘報活動ニュースカー「ひばり号」運行開始
* 1959年(S34)6月10日、市制施行70周年記念式典(仙台市公会堂)
* 1969年(S44)6月10日、仙台市市制施行80周年記念式典
* 1987年(S62)11月1日、仙台市が宮城町を編入合併
* 1988年(S63)3月1日、仙台市が泉市と秋保町を編入合併
(仙台市の合併歴は、→項目「市町村合併歴(仙台)」)
* 1988年(S63)9月27日、政令指定都市に伴う区名「青葉・宮城野・若林・太白・泉」と、議会で決議
* 1989年(H1)4月1日、仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる
* 1989年(H1)6月10日、市制施行100周年記念式典
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「仙台市史 年表」P86、P126、P135/「仙台市史10 年表」P324/「続・ 宮城県郷土史年表」P231、P240、P252、P259
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「目で見る仙台の歴史」P197(市制施行70周年記念式典)、同P196(市制70周年記念花電車、航空自衛隊による祝賀編隊飛行)/「市民の戦後史(仙台市)」P107(塔屋の大時計、70周年祝賀花電車)
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戦災者・引揚者用住宅 |
市営住宅・県営住宅 |
1945年度(S20)など |
・ 西公園の一角に、戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、公園整備のため、他へ移転した
・ 上杉山通りの仙台商業学校の空襲跡地に戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、のちに他へ移転した(以上、「仙台市史 続編第1巻」P350)
* 市営住宅建設戸数
(「仙台市史第2巻本編1」P601~602の102表より)
・1945年度(S20)、元柳町(西公園)104戸、上杉山通(仙台商業跡地)53戸、仲ノ町18戸、良覚院丁49戸、花壇49戸、北一番丁6戸、計250戸
・1946年度(S21)、北六番丁40戸、花壇60戸、計100戸
・1947年度(S22)、長者町100戸
・1948年度(S23)、荒巻、長者町、南小泉、新寺小路に計110戸
・1949年度(S24)~1951年度(S26)に、計529戸]
(以下は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P424~426より)
・空襲焼け残りの鉄筋コンクリート建築物を地方長官の権限で開放
・一般遊休住宅の開放
・仙台市 引揚者住宅 448戸(うち新設288,改造転用160)
・住宅営団 600戸(追廻住宅)
・1953年(S28)、市営の鉄筋コンクリートのアパート
・1955年(S30)~、簡易耐火構造
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P185より>
* 1950年(S25)ころより、戦災者、引揚者、戦災復興土地区画整理による立退き者などを対象に、市営・県営の住宅建設
・市営庶民住宅(西の平に約200戸)
・県営庶民住宅(荒巻・西多賀など)
・1949年(S24)、市内同心町に中層県営アパート建設 / 引き続き、小田原団地・新坂通団地・支倉通団地にも中層アパート建設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P424~426/「仙台市史第2巻本編2」P601~602
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P185(同心町の県営アパート)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P427(S25年ころ、長者町につくられた市営住宅)
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仙台市の消防 |
市民の取組など |
1951年(S26)~1968年(S43)頃 |
<町ぐるみ消防訓練>
* 1956年(S31)4月、第1回烈風時消防演習
* 1960年(S35)2月、大規模な夜間演習
<自営消防隊>
・ 各職場における火災発生防止
<婦人防火クラブ>
* 1962年(S37)5月、生出地区で「萩の台婦人防火クラブ」結成、ポンプ操法など実施
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P827の表198に、S43年4月現在のクラブ一覧(27クラブ)
<少年消防クラブ>
小中学校単位に結成、防火思想と消防一般の知識を学ぶ防火教室開催、器具操作など
* 1951年(S26)4月10日、西多賀小学校少年消防クラブ
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P828の表199に、S43年4月現在のクラブ一覧(20クラブ)
<ハシゴ乗り保存会>
* 1965年(S40)12月、結成 / 後継者難でS39年出初式では中止していたが、S41年出初式から再登場
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P823~828
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