項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
女子挺身勤労令 |
施行 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<「日録20世紀 1943年」P42「女子挺身隊」>
「14歳以上25歳以下の未婚・無職・不在学の女子を勤労動員するため、居住地ごとにまとめた組織 9/21、女子勤労動員の強化と男子職場への代替を打ち出し、女子勤労挺身隊の結成を進めた 当初は自主的組織とされたが、1944年8月女子挺身勤労令が公布され、若い女性は根こそぎ動員された」
* 1944年(S19)年8月23日、女子挺身勤労令(12歳以上40歳未満の未婚女子が対象)を公布、即日施行された
* この日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行 →詳細は、項目「学徒勤労動員」
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「仙台市史 年表」P113
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新憲法 |
施行 |
1947年(S22) |
* 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518
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「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列)
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スパイクタイヤ対策条例 |
施行 |
1986年(S61) |
* 1985年(S60)12月5日(18日?)、宮城県議会は、脱スパイク条例(スパイクタイヤ対策条例)可決(4月~12月は全面禁止、12月~3月は使用規制)
* 1986年(S61)4月1日、宮城県脱スパイク条例施行 / 仙台市動物園など24施設で、脱スパイク無視車駐車禁止作戦
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P79/「続・ 宮城県郷土史年表」P198、P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544(S58年ころ、スパイクタイヤのピン抜き作業)
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国民勤労動員令 |
施行 |
1945年(S20) |
<国民勤労動員令> (「日録20世紀 1945年」P13、P42)
* 1945年(S20)3月6日公布、病人にも登録を義務化 / 3月10日施行
/ 本土決戦にそなえ、国民徴用令、女子挺身勤労令、国民勤労報国令、労務調整令、学校卒業者使用制限令の五勅令を統合・強化して発された勅令 病人にも登録を義務化 老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざすものだった
<戦後>
* 1945年(S20)12月20日、国家総動員法・戦時緊急措置令廃止を公布(S21年施行)(「日録20世紀 1945年」P35、「重訂 宮城県郷土史年表」P311)
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「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P311
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国民徴用令(1) |
施行/拡大 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
<国家総動員法>
* 1938年(S13)4月1日、国家総動員法(法律第55号)制定 / これにより、戦時の政府は広く労務・資金・物資・施設・事業・物価・出版などについて統制する権利をもつ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
<国民徴用令>
* 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布(昭和14年勅令 451号)、7月15日施行 / 国民を兵役同様に身体検査し、強制的に軍需産業に召集して働かせることができるようになった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P313)
☆「国家総動員法に基づく国民徴用令により、軍需工場などへの強制徴用が可能となった。 徴用は『白紙招集』とよばれた」 (「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25) / 徴兵令状赤紙、徴用令状はシロ紙
☆「戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えたもので、これにより国民の経済生活の自由は完全に失われた。」(出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典)
☆「1939年(S14)7月公布とともに建築技術者850人が徴用されたが、1941年(S16)以降は大規模になり、敗戦時には総計616万人に達した。」(日本近現代史辞典P216)
☆「日本統治下の朝鮮では、1944年9月より女子を除いて実施され、1945年8月終戦までの11ヶ月間実施。いわゆる『朝鮮人強制連行』はこの徴用令に基づく内地等への労働力移入を指す。」(Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)
・ 強制連行された朝鮮の人々の中には、多賀城海軍工廠の建築現場などで非人道的な労働につかせられた人々がいる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
・ 「朝鮮人の移動防止に関する件」(特高警察から宮城県知事への報告)→「県内には朝鮮人が2550人住んでいて、うち労務動員計画による移入朝鮮人は、大谷鉱山(現・気仙沼市、439人)、細倉鉱山(現・栗原市、474人)、鹿島組細倉出張所(63人)の合計976人。このうち3割強にあたる362人が逃亡中とあります。逃亡は宮城県だけでなく、全国的傾向だったようです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P74)
* 1941年(S16)8月、民間工場にも徴用労働者を配置(週刊20世紀)
* 1942年(S17)5月、企業整備令にともなって、中小商工業からの大量の転業者が、徴用の主な対象となる
・ 転業者は、軍需産業か満蒙開拓や国防的土木作業などにふりむけられた(「仙台市史 続編第2巻」P700)
・ 仙台の一部の商家の人々も国民徴用令により、常磐炭鉱や軍需工場に徴用された(「仙台市史 特別編4 市民生活」P317)
* 1943年(S18)7月改正で、国民徴用令の拡大、会社ぐるみ徴用も始まる(「週刊20世紀」)
* 1944年(S19)9月、統治下の朝鮮でも男子に実施(Wikipedia「国民徴用令」)
<国民勤労動員令>
* 1945年(S20)3月、「国民勤労動員令」施行により「国民徴用令」廃止(「仙台市史10 年表」P311)
→ 項目「国民勤労動員令」参照
<関連項目>
* 1941年(S16)6月30日、陸軍徴用規則公布施行(「重訂 宮城県郷土史年表」P483)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P313、P317/「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P216『国民徴用令』/Wikipedia「国民徴用令」2020年2月版)/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P16/「仙台市史10 年表」P311/「仙台市史 年表」P110/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P700/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P74
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9 『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(徴用告知書)
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障害者福祉 |
施設完成など |
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* 1968年(S43)6月16日、宮城県総合福祉センターの合同庁舎を本町1丁目に建設し、業務開始
* 1983年(S58)4月、仙台市幸町の県障害者福祉センター完成
* 1984年(S59)4月28日、仙台市河原町に自閉症児専用施設「南材ホーム」完成
* 1984年(S59)4月、西多賀に仙台市精神薄弱者育成会福祉作業所開設
* 1985年(S60)4月13日、仙台市人来田に、県内初の障害者更生センター完成
* 1988年(S63)3月28日、テクノプラザみやぎ発足(宮城県の委託で「みやぎ障害者ITサポート事業」を実施する第三セクター、2019年に解散)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P641/「続・ 宮城県郷土史年表」P161、P176、P190、P241
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駐留軍(米軍) |
施設提供と返還 |
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* 1952年(S27)7月26日、日米安全保障条約により、在日合衆国軍に提供する施設及び区域決定(宮城県内)
/ <無期限使用> キャンプ仙台川内地区(川内)、キャンプ・ファウラー(榴ヶ岡)、第172病院(北一番丁の仙台簡易保険局ビル)、レニア・フィールド(南小泉霞の目)、キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)、司令官副司令官官舎(新坂通)、七北田演習場、 <一時使用> 安田ビル兵員クラブ(国分町)、住宅施設(北二番丁)
* 1956年(S31)6月15日、榴ヶ岡キャンプを、日本に返還
* 1957年(S32)5月6日、霞目飛行場を日本に返還
* 1957年(S32)8月、川内キャンプの接収解除を決定(「仙台市史 続1」P465)
* 1957年(S32)8月17日、進駐軍(米軍)に接収されていた仙台簡易保険局ビルが、S20年9月に接収されて以来12年ぶりに正式返還される
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、進駐軍、駐留軍時代の県内米軍基地は返還完了
* 1976年(S51)10月30日、在日米軍司令部が、仙台市国見通信所施設返還を通知
<編者注> キャンプ・シンメルペニヒ(原町苦竹)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P328では、「キャンプ・シメルフィニヒ」
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「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P582、P585、P586/「仙台市史10 年表」P328/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P465/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282、P285、P854/「市民の戦後史」年表
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国鉄(東北本線) 1 |
旅客・貨物輸送
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1887年(M20)~1945年(S20)夏 |
<日本鉄道時代>
* 1887年(M20)12月15日、上野~仙台~塩釜間、開通 / 合わせて仙台駅をはじめ白石、大河原、岩沼、岩切、塩釜等の各駅営業を開始 (当時は私鉄・日本鉄道)
* 1887年(M20)12月20日、上野~仙台間の開通式挙行
* 1891年(M24)9月1日、日本鉄道の仙台~青森間が全線開通
<国有鉄道>
* 1906年(M39)公布の鉄道国有法により、同年11月1日に国有化された(所管はM41年12月内閣鉄道院、T9年5月に鉄道省)
* 1920年(T6)6月、仙台駅に急行列車登場(東北線経由と常磐線経由の上野~青森間に各1往復 / 上野・仙台間の所要時間は、東北本線経由8時間12分、常磐線経由8時間1分 / 料金(上野~仙台)は運賃(3等)2円62銭、急行券50銭(「仙台市史 特別編4 市民生活」P200)
<戦時中>
(所管は鉄道省、S18年11月運輸通信省、S20年5月運輸省)
* 1939年(S14)11月15日、国鉄ダイヤ改正、旅客列車を従とし、貨物輸送を主とする(戦時輸送完遂)
* 1940年(S15)8月1日、上野・青森間急行103・104列車の食堂車廃止(食堂車を傷痍軍人用の病院車に改造)
* 1940年(S15)8月、仙鉄局、見学旅行も一切認めない方針発表(このころ、すべての列車の乗車率が定員の2倍以上)
* 1940年(S15)9月16日、駅の表示板から英語表示が消える
* 1942年(S17)10月6日閣議決定、東北本線は石炭輸送第一、北海道の石炭を京浜の軍需工場へ輸送
* 1943年(S18)2月、東北本線、食堂車、寝台車を全廃
* 1944年(S19)4月1日、決戦輸送体制、運賃値上げと厳しい旅客抑制、(乗車券を買うのに2日も3日も並んで待つ)
* 1944年(S19)4月現在、上野~青森間の急行列車は、常磐線経由の1往復のみ(9月末、唯一の急行列車も廃止)
* 1944年(S19)4月25日~6月10日、疎開輸送強化期間(東北本線、常磐線の輸送計画は、14万8791人)
* 1944年(S19)7月上旬~9月上旬、学童集団疎開輸送
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、仙台駅、仙台鉄道局など焼失
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<日本鉄道時代>「重訂 宮城県郷土史年表」P278/「仙台市史 年表」P86、P87、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P200
<戦時中> 「ものがたり東北本線史」P511、P516、P518、P529、P530、P531、P546/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25
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国鉄(東北本線) 2 |
旅客・貨物輸送 |
1945年(S20)秋~1965年(S40) |
<戦後(昭和24年6月からは国鉄=公共企業体日本国有鉄道)>
* 1945年(S20)11月、上野~青森間急行1往復(101・102列車)が運転再開、しかし翌月、深刻な石炭不足になり再び一時運休
* 1947年(S22)6月28日、仙台鉄道管理局管内、急行復活し常磐線経由の急行1往復(207・208列車)運転開始、二等車復活
* 1947年(S22)7月1日、青森行き普通列車に「婦人子ども専用車」登場(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)11月1日、東北で木炭が滞貨となり、輸送のため「木炭列車」を運転 / 国鉄はこの秋、電力、石炭の不足で貨車の入れ替えにも支障が出る(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)7月1日、上野~青森間直通急行は東北本線経由の1往復(103・104列車)運転開始
* 1949年(S24)6月、日本国有鉄道法施行、公共企業体日本国有鉄道発足
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120) / 蒸気機関車、仙台~上野間5時間25分 / 上野~青森12時間
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)/ 常磐線経由で
* 1961年(S36)3月、仙台まで交流電化完成(「仙台市史 特別編4 市民生活」P201)
* 1961年(S36)5月1日、東京~仙台間電化され、特急電車が走る(「菅家年表」P55)
* 1961年(S36)6月1日、「宮城野駅」(貨物専用駅)開業(同時に、仙台中央卸売市場への引き込み線完成) / 前年10月、長町~東仙台間に貨物線開通
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1962年(S37)6月30日、東北本線の山廻線(利府駅経由)を廃止
* 1963年(S38)4月、修学旅行専用の「おもいで号」誕生
* 1963年(S38)10月、市内大梶(仙台駅・東仙台駅中間)に電車基地(または仙台運転所)を設置 / S41年4月全面完成
* 1964年(S39)3月20日、上野~仙台間の全急行を電車化
* 1965年(S40)10月1日、特急「ひばり号」(仙台~上野)を2往復に増便、特急「やまびこ号」(盛岡~上野)運転開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P562、P564、P566~567、P571/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P589、P598、P605/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P55/「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 特別編4 市民生活」P201
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P566に、仙台上野間急行電車の写真
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国鉄(東北本線) 3 |
旅客・貨物輸送 |
1966年(S41)~1985年(S60) |
* 1966年(S41)8月1日、清水小路多賀城線との立体交差完成(北目町立体交差)
* 1967年(S42)10月1日、東北本線、岩沼~福島駅間が複線電化して開通 / 同日に、東北本線特急の東京駅乗り入れも実現
* 1967年(S42)10月1日、特急「ひばり」「やまびこ」が、東京駅に乗り入れ
* 1967年(S42)10月、電車急行登場(「市民の戦後史(仙台市)」P203)
* 1968年(S43)8月19日、東北本線、東京~青森間全線電化と複線化を完了(「菅家年表」P62)
* 1968年(S43)10月、特急「はつかり」が全列車東北本線経由となる(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1968年(S43)10月1日、特急「ひばり」仙台~東京間、3時間50分に(40分間短縮)
* 1972年(S47)3月15日、長距離普通列車228号(青森~上野間)引退
* 1980年(S55)11月24日、ドカ雪で、東北線27時間全面ストップ
* 1982年(S57)6月23日、東北新幹線開業(大宮~盛岡間)
* 1982年(S57)11月15日、特急「はつかり」、新幹線開業により運行区間を盛岡駅 - 青森駅間に短縮(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転
* 1984年(S59)1月4日、仙台~上野間にお座敷列車
* 1984年(S59)2月20日、東北線郡山行普通列車で禁煙実施
~以上、1989年(H1)まで~
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567~568/「仙台市史」P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P627、P635/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P153、P172、P173/Wikipedia「東北本線優等列車沿革」(2020年7月)/[NHK仙台放送局60年のあゆみ」P56/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P203
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「市民の戦後史(仙台市)」P181(清水小路多賀城線との立体交差)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「市民の戦後史(仙台市)」P203(電車急行試運転、最後の三重連蒸気機関車~岩手・中山峠)/「市民の戦後史(仙台市)」P220(走行する電車特急はつかり)
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子ども会など(子供の団体) |
日中戦争・太平洋戦争期 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
☆ 戦争拡大に伴い、子供会の目的が変化し、戦時色が前面に
* 1937年(S12)ころから、子供会が戦傷者慰問
* 1941年(S16)、既存少年団は、戦時体制強化のため1941年(S16)に大日本青少年団に統合され解散
・ 1943年(S17)、図書館童話会のプログラム / 朗読「錦のみはた」、童謡「潜水艦」、童話「地底戦車兵の冒険」など
・ 開催された会のタイトル:「建国こども祭」「愛国童話大会」「興亜童話大会」「戦捷祝賀童話大会」「出征家族児童慰安会」「大東亜戦争記念童話大会」など
・ 東六番丁国民学校少年団(児童を軍隊組織と同様のものに編成)
本団(団長・副団長は、校長・教頭、役員は教職員が分担)
団員(三年生以上の全児童 / 二年生以下を準団員)
学年ごとに三年隊、四年隊・・・と呼び、
学年を男女各一中隊、学級を一小隊に編成
一・二年生を準団員とし、幼年隊と呼ぶ
分団を町内会単位におき、分団内に40人位で班、
10人以内を標準に組に分け、
いずれも各学年にわたり異なった学年の児童で組織
分団に分団長、班に班長、組に組長を置く
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444~445
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(昭和16年 少国民新聞付録「こども隣組双六」)
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ビル建設 |
日乃出会館 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 日乃出映画劇場など館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版
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99-031
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日乃出映画劇場 |
日乃出会館オープン |
1957年(S32) |
日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル)
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映画館(戦前・戦後) |
日乃出映画劇場 |
1935年(S10)~ |
→ 項目「日乃出映画劇場」参照
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
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「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/第一勧業銀行 |
1952年(S27)/1971年(S46) |
* 1952年(S27)6月13日、日本勧業銀行仙台支店を東二番丁・大町角に新築移転
* 1971年(S46)10月1日、第一勧業銀行発足(日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併)
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/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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消費者団体 |
日本消費者連盟 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)2月24日、県内9カ所の消費者団体が、日本消費者連盟宮城グループを結成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P188
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政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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国鉄(鉄道省時代) 1 |
日本鉄道 →国有化(鉄道省) |
1906年(M39)11月~1945年(S20)8月 |
<鉄道省・運輸逓信省時代>
日本鉄道は、M39年公布の鉄道国有法により、
* 1906年(M39)11月1日、国有化された
* 1944年(S19)11月15日、東北本線岩切駅から分岐する「海線」(岩切~品井沼)開通
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「仙台市史 年表」P93/Wikipedia「日本鉄道」/「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
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電話 |
日本電信電話公社時代 |
1952年(S27)8月~1985年(S60)4月 |
* 1952年(S27)8月1日、電気通信省廃止され、「日本電信電話公社」設立
* 1952年(S27)9月16日、仙台電話局、自動ダイヤル化
* 1953年(S28)9月、長町分室開局
* 1954年(S29)4月29日、仙台電話局、東北初の市内局番制採用( → 小項目「仙台の市内局番」参照)
* 1955年(S30)5月1日、117番(天気予報サービス)開始
* 1955年(S30)7月1日、東北初の依託自動公衆電話機(通称ダルマ型)第1号を藤崎デパート内に設置
* 1956年(S31)、電話マイクロウェーブが2月、東京~仙台間、10月に仙台~札幌間完成
* 1958年(S33)7月、仙台駅に公衆電話サービスステーション設置、「丹頂型電話」と「赤電話」をおく
* 1959年(S34)4月、仙台電話局、南町の構内に局舎新築(鉄筋5階建)し、営業開始
* 1961年(S36)、榴ヶ岡に東分局開局
* 1963年(S38)、長町分局開局
* 1963年(S38)6月、仙台中央電報局、東二番丁・南町通り南側に新築(東二番丁・青葉通り角の木造庁舎から移転)
* 1963年(S38)11月、電話局荒巻分局開局
* 1964年(S39)10月、電話ダイヤルで東京へ即時通話化(「仙台あのころこのころ八十八年」P254)
* 1964年(S39)11月、仙台から、東京、秋田、青森へも自動即時通話となる
* 1965年(S40)、ダイヤル市外通話、全国の360局と連絡可能に
* 1965年(S40)11月、仙台電話局内の加入電話4万台を突破(開局後の10年間で4倍に)
* 1968年(S43)6月、電話加入数6万192、公衆電話1533台
******************************
* 1985年(S60)4月10日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
<これ以降は、→ 項目「NTT東北支社」へ>
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P574~579/「仙台市史 年表」P117/「続・ 宮城県郷土史年表」P189/「仙台あのころこのころ八十八年」P254
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー、画面左端に仙台電話局)
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ビル建設 |
日産生命ビル(解体) |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)5月、解体(仙台駅西口前)
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「わが心の仙台駅前史」P90
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22-14(の左下のビル)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
日米対抗陸上競技大会 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)8月15日~17日、日米対抗陸上競技大会(会場は、8月10日に開場した宮城県営宮城野原陸上競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
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「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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アーケード |
旧・大町五丁目 |
1965年(S40)ほか |
* 1965年(S40)3月、大町五丁目商店街で完成
<マ-ブルロードおおまち商店街>
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1982年(S57)6月27日、マーブルロードおおまち商店街ゲート除幕式
* 1987年(S62)、大理石舗道が完成、
* 1996年(H8)4月、2代目アーケード竣工(第3代か?)
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「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P148/「マ-ブルロードおおまち商店街」HP
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仙台市立病院 |
旧・裁判所庁舎で診療開始 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)1月30日、開院式 / 医師5人、看護婦7人、事務員4人(「番丁詳伝」P129)
* 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始(東二番丁の旧裁判所庁舎を改造) / 当初は内科・外科・眼科、翌年に小児科・耳鼻科を追加、S7年に産婦人科も開設 / 外来患者数、S5に14万人、S10に18万8000人、見舞客も含めて東一番丁には大きな潜在購買客となる
・ 昭和3年の昭和天皇即位大典の記念事業
・ 旧裁判所庁舎(明治9年建築の木造)を利用
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706~707に、診療科など記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P706/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「番丁詳伝」P128~129
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「目で見る仙台の歴史」P163と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P427に、「仙台地方裁判所跡に開設された市立病院」
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丸光 |
旧館全焼 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)5月、丸光旧館全焼(増築中だった)
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Wikipedia「丸光」/わが心の仙台駅前史」年表
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住宅団地 |
旭ヶ丘団地 |
1957年(S32) |
* 1957年(S32)、旭ヶ丘団地(130ヘクタール)、東北開発会社が計画、造成開始(仙台の団地開発第1号)
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「仙台市史 年表」P120
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P147の写真37/「市民の戦後史(仙台市)」P190
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住宅団地 |
旭丘堤団地 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)、旭丘堤団地造成開始
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「仙台市史 年表」P122
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冷害・凶作 |
明治35年 |
1902年(M35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P358より>
「明治35年は春からヤマセ(北東の冷たい風)が吹き、7月中旬から8月中旬にかけて雨が多く気温の低い日が続いた。 米の収穫高は予想を上回る減収で、1897年から1901年に至る過去5年間の平均収穫高の32%にすぎなかった。」
* 1902年(M35)、冷害のため凶作となる
(仙台市会、凶作のため外国米売渡手続を決議)
(外国米を698戸に配布)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305、P358/「仙台市史 年表」P92
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冷害・凶作 |
明治38年(その1) |
1905年(M38) |
明治38年凶作
(1)「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~307より
1905年(M38)の凶作は「東北三県凶作」と呼ばれ、岩手県・宮城県・福島県の三県に例年の作況の1割にも満たない甚大な被害をもたらした。 仙台市もあまりの被害の大きさに有効な救済策をとることができなかったといわれる
* 1905年(M38)夏、冷害で米は大凶作となる。(宮城県87%減、福島県76%減、岩手県66%減) / 天明・天保以来の大凶作といわれた
・ 宮城県の窮民調査で、3人に1人が窮民(28万8千人) / 米作地帯の栗原郡で44%以上、遠田郡で76%、仙台市では7%(6500人)、宮城郡25%(1万8000人)、名取郡34%(2万1200人)が窮民
・ 1904年(M37)にはじまる日露戦争で、特に農村部では働き手が兵士として戦場に動員されたため家族労働力に頼る農家経営が困難となる事例が次第に増加していった
明治38年の5月、日本海海戦の勝利が伝えられた頃、東北三県を冷害が襲い始めた。
・ 8月~9月、ヤマセと雨天・日照不足
・ 仙台の8月の平均気温、前年より3.8度低い
・ 日照時間も極端に少なく、特に出穂期を迎える8月下旬は連日ほぼゼロの日が続いた
・ 農作物の生育は極端に悪く。特に稲が実を結ばずに米の収穫が激減した
・ 米価高騰で市民生活に打撃(6月はじめ、1升13銭 → 8月末に18銭 → 11月に20銭超え)
・ その他の影響(牛馬家畜減少、児童出席率低下、退学児童増、教科書寄贈運動、教員給与未払い、ほか)についても記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P305~P307
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冷害・凶作 |
明治38年(その2) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P358の「出稼ぎと身売り」より
<凶作、農村の窮乏>
・ 「明治35年の凶作の痛手を回復しえないまま、明治38年に、天明・天保以来の大凶荒と言われた凶作が東北地方を襲い、特に宮城・福島・岩手の3県で大きな被害を出した。米収穫高平年に比べ、福島は24%、宮城14%、岩手34%」
・ (明治三十八年宮城県凶荒誌)「盛夏尚綿布を着け気候の異常に一種の畏怖の念懐きて憂慮せしもの、九月下旬に至りては至る処収穫皆無を唱え、米価の騰貴甚だしき加ふると共に、窮民の惨状は見るに忍びざるものありき」
・ 下級農民の多くは、米の収穫どころか、労働の途も絶たれ、飢餓寸前に追い込まれるという状態であった / 特に山間の村落の住民は、木の実を拾い草の根を掘って食糧とするが、積雪の季節に入るとそれもままならず、救いを待つしかなかったのである
・ 中産農家の土地家屋に身分不相応の負債が生じると、移住者として郷里を捨てる動きがみられる。 / 働く場を求めて、宮城県内から県外への移住件数が明治38年に5220人、39年に1万3312人、40年に1万6212人(3年間計、3万4744人) / 仙台市でも、65人、315人、837人
・ M35年の仙台市内貧民調査表
<救済事業>は、耕地整理や土木工事の執行、里道改修、ため池修繕、用水路改修、上水工事および廃沼田地開墾、町有林開墾、河川改修、堤防修繕、道路改修
<児童救済>では、岡山孤児院石井十次来仙し養育困難児143人を一時引き取りや、メソジスト教会のフェルプスらが「東北育児院」を開設(同年11月3日に、仙台育児院と改称)
<身売り>
・ 凶作地に於ては、婦人を欺き連れ出し、あるいは本人が知らないうちに職工や売春婦にされ、不本意な労働を強いられるということが起きている
・ 日露戦争下での経済不況は賃金の低落が著しく(中略)職を失った場合には、生活の困窮は目も当てられないというありさまがこのような事態をも生じさせたといえる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P358~359
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冷害・凶作 |
明治38年(その3) |
1905年(M38) |
* 明治38年凶作
(3)「仙台市史 年表」P93より
* 1905年(M38)8月28日、仙台市、大凶作のため臨時米穀売買事務所を開設
* 1905年(M38)11月18日、凶作救済県民大会、挹翠館(ゆうすいかん)で開催
* 1905年(M38)11月29日、宮城県凶作救済会結成
* 1905年(M38)11月29日、仙台市内のキリスト教各派の外国人宣教師ら、外国人救済会結成
* 1905年(M38)12月6日、仙台市、臨時救済事務所を開設
* 1906年(M39)1月、仙台市内のキリスト教各派の日本人牧師ら、東北凶作救済会を結成
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「仙台市史 年表」P93
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仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
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【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
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「番丁詳伝」P94~95
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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冷害・凶作 |
明治年間 |
1869年(M2)
1874年(M7)
1897年(M30)
1902年(M35)
1905年(M38)
1910年(M43) |
* 1869年(M2)秋、冷害のため凶作となる
* 1874年(M7)、冷害のため凶作となる
* 1897年(M30)秋、冷害と水害のため凶作となる。
10月16日、仙台市会、凶作のため臨時米穀売買所開設を決議
10月27日、市が臨時米穀売買所で外国米の低価販売開始
* 1902年(M35) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治35年」へ
* 1905年(M38) → 項目「冷害・凶作」の小項目「明治38年」へ
* 1910年(M43)、この年水害のため凶作となる
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P305(図310)は、明治30~39年の宮城県の米収穫量(グラフ)
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「仙台市史 年表」P79、P81、P90、P93/「仙台市史 特別編4 市民生活」P304
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市場 |
明治期 |
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* 1880年(M13)12月16日、「長町青物市場」を名取郡の野菜生産農家が開設
* 1881年(M14)10月25日、青物市場が「河原町市場」に一本化され、長町市場は閉鎖される
* 1892年(M25)6月25日、「長町青物市場」を名取郡茂ケ崎村長町に開設
* 1892年(M25)7月30日、「共同八百屋市場」、河原町・新河原町に開設
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「仙台市史 年表」P83、P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P87(明治期の長町青物市場)
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日乃出映画劇場 |
映画館閉館/ビル解体 |
2002年(H14)/2019年(R1) |
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館となり、45年の歴史に幕を閉じた。
・ ビルはパチンコホール「ベガスベガス」などを運営する山形市の「大成商事」(当時)に売却され『大成商事GSビル』となった
* 2008年(H20)4月17日、『大成商事GSビル』はオリックス不動産に売却され『GSビル』となった
* 2018年(H30)6月、「GSビル」の解体工事開始
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」 2019年12月18日版
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野球場 |
昭和11年現在 |
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昭和11年現在、仙台の野球場は、澱橋球場(収容1万人)、スポーツマン球場(収容1万人)、八木山球場(収容2万人) / (予定)東北帝国大学の球場
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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プール |
昭和11年現在 |
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仙台市内のプール(昭和11年現在)
・ 愛宕プール(愛宕橋下)
・ 夏は、広瀬川上流に区域を定めて使用
・ 学校では、(旧制)第二高等学校、師範学校などに
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P73
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仙台市電 |
昭和30年代~全線廃止まで |
1956年(S31)~1976年(S51) |
* 1956年(S31)11月、「仙台市交通局三十年史」刊行
* 1957年(S32)、電力事情悪化で市電15%間引き運転
* 1958年度(S33)、市電事業赤字(3000万円余)、以後赤字続き
* 1959年(S34)、仙台市電停留所に照明灯がつく
* 1959年(S34)、仙台市電に女性車掌、14年ぶりに登場
* 1966年(S41)2月15日、ワンマンカー導入により職員400人削減等を労組に提示
* 1966年(S41)、一部の車両、ワンマンカーに
* 1970年度(S45年度)、一年間で1億円強の赤字(累積赤字10億円の大台にのる)
* 1972年(S47)2月4日、12億円の累積赤字のため廃止発表
* 1972年(S47)12月1日、市電の均一料金を40円に(10円値上げ)
* 1973年(S48)3月7日、島野市長、市電廃止を声明
* 1975年(S50)10月4日、仙台市議会、市電廃止議案可決
* 1976年(S51)3月31日、仙台市電お別れ式/最終運行(さよなら電車)/替わってグリーンバス運転
* 1976年(S51)4月8日、5両を長崎市へ輸送
<市電・市バスの乗客数推移グラフ S36~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P525の図26
<市電・市バスの赤字推移グラフ S31~S42年> → 「仙台市史 続編第1巻」P533の図28
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P514、P517、P518、P525、P533/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P130/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P624、P674/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P15、P18、P45、P52、P53
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(照明が入った停留所標識)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P518に、市電ワンマンカーの写真/「市民の戦後史(仙台市)」P200(市電のワンマンカー)/「新・目で見る仙台の歴史」P187(渋滞車線を走る市電、最後のサヨウナラ花電車、廃止記念乗車券)/同P211(市電ワンマンカー)/同210(S37年6月現在の市電運転系統図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P212~213(市役所前でお別れ式、おなごり乗車、廃止記念乗車券、花束持つ運転手、車庫前の花電車群俯瞰、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P101(S51、さようなら運転、カラー)/同P102(S51、ワンマンカー、カラー)/同P103(S51、北二番丁車庫)
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市町村合併 |
昭和の大合併 |
1954年(S29)
~1955年(S30)に合併した県内新自治体名 |
通称「昭和の大合併」は、昭和28年の町村合併促進法=町村はおおむね、8000人以上の住民を有するのを標準=、及びこれに続く昭和31年の新市町村建設促進法による市町村合併で、1953年(S28)~1961年(S36)に実施された。1954年(S29)4月以降、宮城県内でも町村合併が相次いだ。以下は、昭和30年までに合併が行われ誕生した新市町村名(31年以降は略)
<1954年(S29)>
4月には、白石市(新市誕生)、岩出山町、鳴子町、小牛田町 / 7月には、大郷村、宮崎町 / 8月には、中新田町、築館町 / 11月に、津山町 / 12月に丸森町、若柳町
<1955年(S30)>
昭和30年1月~12月に、金成町、亘理町、山元町、宮城村、志津川町、三本木町、河北町、河南町、桃生町、牡鹿町、北上村、本吉町、松山町、蔵王町、岩沼町、名取町、栗駒町、一迫町、迫町、泉村、村田町、川崎町、大和町、鳴瀬町、矢本町、涌谷町
******(S31年以下、略)******
<参考>明治以降、昭和末年までの宮城県内市町村合併の全貌は、「第4 市町村変遷等の状況」http://www.mygsk.or.jp/sityouson/pdf/siryou/04_shichosonhensenjoukyou.pdf#search=%27%E5%AE%AE%E5%9F%8E%E7%9C%8C+%E7%94%BA%E6%9D%91%E5%90%88%E4%BD%B5%E4%B8%80%E8%A6%A7+%E6%98%AD%E5%92%8C%27
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「重訂 宮城県郷土史年表」P572~579
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宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
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「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
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99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
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<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
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「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
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98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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