項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
長町駅貨車操車場 |
完成 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成
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「仙台市史 年表」P102
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大倉ダム |
完成 |
1961年(S36) |
* 1958年(S33)10月、ダム工事着工
* 1961年(S36)6月17日、大倉ダム工事完成し、貯水開始
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「市民の戦後史(仙台市)」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P600
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「市民の戦後史(仙台市)」P104(ダム工事)/同P135(S36年8月、大倉ダム完成し放流開始)/同P170(大倉ダムから放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P188(大倉ダム、カラー)
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宮城県会議事堂(明治時代) |
完成 |
1882年(M15) |
* 1879年(M12)、宮城県会始まる(宮城師範学校を使用)
* 1882年(M15)3月22日、勾当台通表小路に完成/市役所の向いにあった
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「新・目で見る仙台の歴史」P123/「仙台市史 年表」P84
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116(議事堂外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P123/「いつか見た街・人・暮らし」P20(宮城県会、議事堂議場、大正13年)
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仙台郵便貯金会館 |
完成 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)4月、榴岡に完成
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「仙台市史 年表」P128
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宮城県立青年の家 |
完成 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月1日、泉ヶ岳に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P647
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市街地住宅(第1号) |
完成 |
1968年(S43) |
* 1967年(S42)2月26日、仙台市庁舎外記丁分室跡に市街地住宅(11階建)起工式(敷地は仙台市が提供し、建物は住宅公団が建設)
* 1968年(S43)7月、初の市街地構想住宅が外記丁に完成(地下1階、地上11階 / 1~3階には、仙台北保健所と北社会福祉事務所などが移転入居、4階以上は152戸の住宅
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「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P641/「市民の戦後史(仙台市)」P215
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「市民の戦後史(仙台市)」P215(市街地住宅のビル)
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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東北大学 |
学部・大学院・附置研究所等一覧 |
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最新時点の一覧は、東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」にある https://www.tohoku.ac.jp/japanese/academics/
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東北大学HP掲載「学部・大学院・附置研究所等」
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戦後教育・仙台 |
学校給食 |
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<昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止
<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)
<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施
<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー)
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学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
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軍事教練 |
学校教練(中等学校) |
1925年(T14)~1945年(S20) |
<学校教練>
* 1925(T14)年の陸軍現役将校学校配属令に基づき、旧制中等学校以上の教育機関に配属将校を配置し実施された
・ 第1次世界大戦後の軍縮に伴う将校の失業を救済するとともに、思想教育を兼ねた
・ 射撃など武器の使い方や戦史などを教え、演習も行った
・ 軍国主義教育の中心となった
* 1939年(S14)、中学校から大学までの授業に軍事教練が義務化された
* 1940年(S15)10月24日、県下男子中学校生徒(33校の上級生)の紀元二千六百年奉祝記念演習会を仙台付近で行う
* 1942年(S17)11月6日、宮城県下中等学校連合演習(仙台市付近で)
<配属将校>
・ 中学校には尉官級(大尉、中尉、少尉)、旧制高校、大学には佐官級(大佐、中佐、少佐)が配属され、複数の将校がいる学校もあった。
・ 教練は、射撃訓練や長距離行軍、部隊訓練、指揮法、手旗信号、武器保存、救助法、毒ガス防毒面の装脱、手りゅう弾投げ、防空監視など(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P478、P493/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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29-06、29-07、29-08、43-02、43-12、43-14/「新・目で見る仙台の歴史」P161(S11年頃、宮城県工業学校の軍事教練)
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戦時中の勤労動員/就労規制(3) |
学徒勤労動員/学徒勤労動員令 |
1938年(S13)開始/1944年(S19)強化 |
1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科(現在の小学校)以外の学校は授業停止となる
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒 / この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付け
* 1944年(S19)8月23日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行
→ 詳細は、項目「学徒勤労動員」へ
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269『学都の戦時体制』 など
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東北帝国大学 |
学園に見る時代相(2) |
1936年(S11)~1945年(S20) |
<日中戦争 1937年(S12)7月7日~>
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵(当時は、東北帝大文学部助教授)ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292、「仙台市史 特別編4 市民生活」P265)
* 1939年(S14)7月10日、興亜青年勤労報国隊北支蒙彊派遣東北帝大第一班11名、仙工10名、茨城県内原訓練所に出発/9月21日帰還
* 1940年(S15)8月30日、文部省より、学生生活刷新要綱等を各地方長官、大学専門学校長等に通牒
* 1940年(S15)9月1日、満州国産業視察団興亜学生勤労報国隊帰県(東北帝大教授市原通敏統率)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝国大学報国団結成(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
<太平洋戦争 1941年(S16)12月8日~>
* 1941年(S16)8月8日、文部省、学校報国団再編成を訓令(全国中等・高等・専門学校及び公私立大学の学生生徒をもって学校報国団を組織することを決定発表す)
* 1941年(S16)10月7日、東北帝国大学報国団結成式
<戦時中、大学の修業年限短縮>
* 1941(S16)年度 大学・専門学校・高等師範学校・実業専門学校など、3か月短縮し、2年9か月間に(S17年3月卒業生はS16年12月卒業)
* 1942(S17)年度~1944(S19)年度卒業生、6か月短縮
* 1945年(S20)年度卒業からは、3年間(短縮なし)
(旧制高等学校は、S17~19年度卒業予定者は、6か月短縮し、2年6か月間 / 20年度予定者は1年短縮し2年間)
<戦後>
* 1945年(S20)11月28日、法文学部学生大会
* 1945年(S20)12月1日、服部英太郎、宇野弘蔵両教授復帰
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「仙台市史10 年表」P292、P296、P301、P302、P310、/「重訂 宮城県郷土史年表」P476、P479、P484、P485
大学・旧制高校の修業年限短縮の出典は、(1)「京都大学大学文書館研究紀要第15号」(2017年)P30、(2)文部科学省HP「高等教育の戦時体制化」https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317703.htm
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東北帝国大学 |
学園にみる時代相(1) |
1925年(T14)~1935年(S10) |
* 1923年(T12)秋、東北帝国大学社会科学研究会発足 / 都市貧困地区への援助活動としてのセツルメント活動を東二番丁で行ったり、無産政党設立準備のための政治研究会仙台支部を結成したり、仙台一般労働組合を組織など / 東北帝大を中心として社研関係者に徹底的な弾圧、医学部・法文学部などの学生が仙台警察署に拘引され、家宅捜索で押収した手紙や日記をもとに、関係者を召喚 / 社研は解散声明発表(「仙台市史 特別編4 市民生活」P535)
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく(「岩波」P5)
<満州事変 1931年(S6)9月18日~>
* 1931年(S6)12月1日、東北帝国大学満州慰問連合会結成(「仙台市史10 年表」P277)
* 1932年(S7)、満州ブームの一例、佐々久氏の旧制二高同級生の半分が、大学卒業後すぐに満州に渡る(佐々久「近代みやぎの歩み」P80)
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束(「市史10 年表」P278)
* 1932年(S7)11月14日、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「市史10 年表」P279)
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)(「市史10 年表」P280)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月14日、瀧川事件応援に東北帝大生代表出発 / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など) / 6月23日、東北帝大法文学部同盟休校(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙(「市史10 年表」P281)
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)(「市史10 年表」P282)
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置(「岩波」P11)
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙(「市史10 年表」P283)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P5、P11/「仙台市史10 年表」P277、P278、P279、P280、P281、P282、P283/「仙台市史 特別編4 市民生活」P265、P534~536//佐々久「近代みやぎの歩み」P80
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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東北大学 |
学園にみる時代相 |
昭和20年代~40年代 |
* 1950年(S25)5月、イールズ声明反対闘争 / 「共産主義思想をもった教授を大学から追放せよ」というGHQ教育局イールズ顧問の大学での講演会に反対し、学生が抗議、中止させた → 参照:項目「イールズ事件」
* 1952年(S27)5月30日、東北大学反ファシズム委員会主催、5・30記念デモ行進
* 1952年(S27)6月14日、破防法反対東北大学経済学部大会、スト決議/17日スト分裂し、一部学生が街頭デモ
* 1952年(S27)7月21日、破壊活動防止法公布施行、東北公安調査局設置
* 1952年(S27)9月29日、東北大学生約100名、無届デモ
* 1960年(S35)、日米安全保障条約改定反対闘争
「60年安保闘争では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生とともに東北大学の教官が講義デモに参加したことでも注目された。」(「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536)
* 1960年(S35)、国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生が死去した事件への抗議デモ、青葉通に3000名の学生が参加
* 1965年(S40)9月15日、教養部は授業放棄
* 1965年(S40)9月19日、石津照璽学長辞任
* 1966年(S41)2月1日、教育学部、宮城教育大学設置に反対し、期末試験を拒否
* 昭和43年~45年の大学紛争 → 項目「大学紛争」参照
* 1970年(S45)4月14日、教養部で留年学生479人(これまでの最高数)
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「仙台市史10 年表」P328、P329/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P621、P624、P659/「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536~538
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青年団 |
女子青年団 |
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<未婚女性の組織化>
・ 明治末期~大正期、全国的に「処女会」や「女子青年会」に組織化
* 1927年(S2)、処女会が、大日本連合女子青年団(全国的統一組織)に発展し、女子青年団に編成替え推進
・ 女子青年団は、男性の学校長や教員が主導する形が多い
・ 宮城県女子青年団、「郷土婦人のかがみ」編纂刊行(過去に褒賞された県下の庶民女性たち中心に235人を「婦女の鑑」として讃え紹介、登場女性は大部分が、貧窮生活の中で老親や夫、兄弟を扶養し、あるいは彼らの看護・介護に粉骨砕身の苦労を続けた姿を紹介、当時は日露戦争、第一次世界大戦を経て、経済恐慌や凶作が続き、家が崩壊の危機に瀕していた時代。女子青年団は主婦予備軍である未婚女性たちに、自己犠牲と献身によって家族を支えることを婦徳として教える修養の場として大きな意味を持っていた。
* 1933年(S8)以降、市内の各尋常小学校を拠点に、単位女子青年団の結成が進む
・ 1936年(S11)には東二番丁女子青年団をはじめとして16の単位組織が結成されており、これらを統合して仙台市連合女子青年団を組織(総数2029人)
・ 活動は、建国祭への参加、愛国婦人会と共同で婦人報国祭の開催など教化的事業、ラジオ体操・遠足など集団行動訓練、神社の境内清掃や生活改善講習会などの社会的事業、編み物・漬物講習会など
<戦時下の女子青年団>
* 1939年(S14)、仙台市連合女子青年団が仙台市女子青年団と名称変更
・ 活動は、従来の講習会・遠足・建学などのレクリエーション的行事を自粛
・ 教養部(国籍調査・合同訓練・団報発行など)、奉仕部(勤労奉仕・集団勤労などの公共的活動)を新設
<女子青年義勇隊>
・ 公共的精神を涵養し婦道を発揚させるという目的のもとに女子青年義勇隊も結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455、P457
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戦時中の勤労動員/就労規制(6) |
女子挺身勤労令 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<女子の勤労義務化>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令、公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子挺身隊の期間1年延長を通牒/女子徴用実施
<編者注>「女子徴用は検討されたが施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)という解説もある
→ 項目「女子挺身勤労令」参照
項目「女子挺身隊」参照
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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敗戦後の諸相・仙台 |
女子の登校、婦女子の夜間外出見合わせ |
1945年(S20)9月 |
9月16日からの進駐軍(米軍)の宮城県内進駐を警戒して
* 1945年(S20)9月13日、県教学課「連合国軍の本県進駐に伴う臨時措置として、仙台市と占領軍の駐留地周辺町村内の女子中等学校(高等女学校)と国民学校高等科の女子生徒児童の授業を、9月15日から当分の間中止するよう」通達(のち、9月25日と10月1日から授業再開)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327)
* 1945年(S20)10月1日、進駐軍との関係で再開の遅れていた仙台の高等女学校の授業が再開(焼失した学校は他の女学校や小学校の校舎に間借り)
・ 仙台女子商業学校「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495)
* 警察署は、婦女子の夜間外出を避けるよう呼びかけたので、繁華街の東一番丁もしばらくは夜の人出は絶えるほどであった(「番丁詳伝」P158)
* 仙台市役所では、女子職員を午後4時に退庁させた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P326)
・ 占領軍が進駐してくる県内市町村の高等女学校では当分授業を中止、役所の女子職員は午後4時に退庁、一般市民も夜間は外出を控えるよう注意が出された(「戦争のころ 仙台、宮城」P242~243)
・ 「昭和20年9月半ばから1か月間の進駐軍関係の事故は257件、悪質なものとしては婦女暴行未遂4件、傷害6件(うち1人死亡)など・・・戦後しばらくの間、住民は進駐軍の姿におびえ、日没後、進駐軍の姿を恐れて外出を控える婦女子が多かったのも、当時としては無理もない。」「県警統計では、その後、1946年(S21)までに進駐軍犯罪が、届出あったものだけでも、1053件」(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P68、「仙台市史 特別編4 市民生活」P327)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P66~68/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P244、P495/「番丁詳伝」P158/「仙台市史 特別編4 市民生活」P271、P326、P327/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P242~243
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国民徴用令(2) |
女子の徴用は? |
1944年(S19) |
<女子の徴用>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)(岩波年表P21、仙台市史年表P113)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長を通牒(「岩波年表」P21)
<女子の徴用はなかった>
☆ 「女子の徴用是非も議論になったが最後まで施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)
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岩波ブックレット「昭和史年表」P21/「仙台市史 年表」P113/「日録20世紀 1943年」P42『女子挺身隊』
<参考> 「週刊20世紀 1939年」P8~9『白紙が来る! 労働力調達の国民徴用令公布』
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「新・目で見る仙台の歴史」P162(原町の陸軍工廠で働く若い女子挺身隊員たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人たちも軍需工場で弾丸検査)
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銀行(都市銀行) |
太陽神戸銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月8日、太陽神戸銀行仙台支店開設
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「続・ 宮城県郷土史年表」P81
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仙台七夕 |
天皇を七夕飾りで歓迎 |
1947年(S22) |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察) / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「5日の夕、常磐炭鉱・平市を経て仙台入りをなされた陛下御一行が予定外のを五彩の吹流しがトンネルをつくる飾りつけの中を一本杉の伊達邸に入られた。市中のコースについては各商店ともぜひわが町をご通過いただきたいとその要望合戦は激烈であったが、予定外の新伝馬町も加えられている。河北新報は「紙吹雪のなかを歓呼にゆれて進む御料車」の見出しで伝えた。この年七夕飾りを行った家は約五千軒、中心部の商店の中には1本に2万円もかけた店もあった。」(「番丁詳伝」P157)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町のさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520/「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180/「番丁詳伝」P156~157
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S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「番丁詳伝」P157)
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伝染病流行 |
天然痘 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)1月9日~5月、天然痘が流行、仙台市を含む宮城県の罹患者数766名
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「仙台市史 年表」P89
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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水害 |
大雨 |
1874年(M7)7月20日 |
大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
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「仙台市史 年表」P81
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水害 |
大雨 |
1883年(M16)5月7日 |
広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)
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「仙台市史 年表」P85、P93
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水害 |
大雨 |
1889年(M22)9月10日~11日 |
広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸
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「仙台市史 年表」P87
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水害 |
大雨 |
1897年(M30)9月9日 |
仙台市街で洪水となる
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「仙台市史 年表」P90
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水害 |
大雨 |
1908年(M41)9月30日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失
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「仙台市史 年表」P94
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工兵第二大隊 /工兵第二連隊 |
大隊を連隊に改編 |
1936年(S11) |
* 1882年(M15)5月1日、「工兵第二中隊」を仙台鎮台に設置
* 1884年(M17)5月の仙台鎮台の編制表に「工兵第二大隊」がみられる
* 1888年(M21)、1897年(M30)、1907年(M40)、1925年(T14)の第二師団編制では、「工兵第二大隊」
* 1936年(S11)6月1日、「工兵第二連隊」と改編
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宮城県史7の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P452
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99-153、34-31-01、53-115
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輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊 |
大隊 →連隊と改編(名称変更) |
1936年(S11) |
* 1880年(M13)4月24日、輜重兵(しちょうへい)第二小隊を仙台鎮台に設置(仙台城内に仮営を開設)
* 1884年(M17)5月の仙台鎮台編制に「輜重兵第二大隊」がみられる
* 1888年(M21)、1897年(M30)、1907年(M40)、1925年(T14)の第二師団編制にある
* 1936年(S11)6月1日、輜重兵第二連隊と改編
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宮城県史7の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P452
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大隊は98-108、99-156
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興亜奉公日/大詔奉戴日 |
大詔奉戴日 |
1942年(S17)1月~ |
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28
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商店など |
大竹園(茶舗) |
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・ よろづ園とともに、仙台の二大茶商とうたわれ、一族が市内各所に茶舗をひらく
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「番丁詳伝」P99
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53-98
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三原時計店 |
大町の店、時計塔設置 |
1903年(M36) |
* 1903年(M36)、大町の店に時計台をあげる(三原本店HPの掲載写真記載メモ)
* 1903年(M36)、大町の店に時計塔設置(「古写真にみる仙台の建築」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217)
* 1905年(M38)3月、店舗屋上に4面塔時計台を設置(三原本店HPの年表)<編者注>写真記載メモと設置年が違う
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三原本店HP/「東北大資料」P43/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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「いつか見た街・人・暮らし」P36(三原時計店内部、大正4年)
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三原時計店 |
大町の店、取壊し |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、大町の店(時計塔のある土蔵造)を取り壊し、その跡にハイカラな時計塔のある店を新築
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あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P217/「古写真にみる仙台の建築」P43
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仙台市電 |
大町1丁目~大学病院 開通 |
1927年(S2)4月 |
・ 1.2キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)4月1日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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二日町大火 |
大火 |
1951年(S26)4月22日 |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
・ 二十日町大火は、市役所、県庁前周辺のバラック建てが再び変貌するきっかけとなった(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)
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市場 |
大正期(公設市場) |
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* 1919年(T8)9月15日、公設市場として南町通りに「仙台市南市場」、表小路に「仙台市北市場」を開設
* 1920年(T9)9月28日、両市場を閉鎖
* 1920年(T9)12月17日、新たな公設市場として「名掛丁市場」を開設
* 1921年(T10)12月24日、名掛丁市場を閉鎖し、翌日、定禅寺通に「中央公設市場」、清水小路に「南公設市場」、北一番丁に「北公設市場」を開設
* 1922年(T11)8月4日、宮城県公設市場増設し、木町通に「西公設市場」開設
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「仙台市史 年表」P99、P100/「仙台市史10年表」P259
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タクシー |
大正時代 |
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* 1923年(T12)8月、仙台タクシー自動車合資会社、名掛丁に設立、営業開始
* 1925年(T14)、合名会社実用タクシー(裏五番丁)設立、営業開始
・ 大正11年~昭和8年に開業した東一番丁界隈のタクシー業者 / 清水自動車部(清水源太郎、立町通、大正11年)、トモエタクシー(国分町、大正15年)、柳タクシー(本柳町、昭和元年)、サカタタクシー(東二番丁、昭和2年)、キングタクシー(東一番丁、昭和5年、高級車のエセックスとハドソン数台を使用)、第一タクシー(南町)、など9業者あり
* 1925年(T14)12月25日、仙台自動車運転手会、やよい軒に集まり設立(タクシ-、バス運転手、官庁自家用運転手)
・ 宮城県の運転手免許番号簿(昭和4年現在)には、2547号まで記録されている
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「番丁詳伝」P110~111
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冷害・凶作 |
大正年間 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)、冷害のため凶作となる
* 1914年(T3)1月13日、東北凶作救済会結成(総裁松方正義、副総裁渋沢栄一) / 翌日に東北九州災害救済会と改称
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「仙台市史 年表」P96
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天皇、仙台行幸 |
大正天皇 |
1908年(M41)~ |
<皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)
(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)
* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)
<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真)
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「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144
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99-094、99-075
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宮城県庁舎 |
大正の庁舎落成 |
1915年(T4) |
* 1915年(T4)9月、木造2階建の庁舎落成(県会議事堂跡)
(1931年(S6)の新庁舎完成まで使用されたあと、塩釜町役場に移築された)
* 1915年(T4)、県会議事堂を取り壊して、木造2階建ての県庁舎を新築(「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「新・目で見る仙台の歴史」P153/「宮城県の百年」P36、P37
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99-007、98-054/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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瑞鳳殿 |
大改修 |
2001年(H13) |
仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦った
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公益財団法人瑞鳳殿HP
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戦勝祝賀行事 |
大平洋戦争中 |
1942年(S17) |
<シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
/ 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)
・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)
* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)
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シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05
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大学・短大 |
大学紛争 |
1969年(S44) |
この年、東北大学、宮城教育大学、東北学院大学で大学紛争が盛んになる → 項目「大学紛争」参照
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「仙台市史 年表」P126
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軍事教練 |
大学も必須に |
1939年(S14)~1945年(S20) |
* 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属
<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93)
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「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93
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商店など |
大一楽器店 |
創業年不詳 |
・ 大町4丁目で和楽器店開業
・ 2回目孝吉が戦前、東一番丁の「大通り」に移転し、音楽ホールつきのビルを建設 / 杮落しは藤原義江のリサイタル、以後仙台の音楽愛好家の殿堂となった
・ 店主孝吉夫人の「いとさん」は、番街三美人の一人と言われ、いつもきりっとした身嗜みで物故するまで店頭に立っていた
・ 戦後まもなく(進駐軍がいた時代)、2階に米軍下士官兵専用のキャバレー「「セント・クイーン」があった(写真番号44-35に、その入口が写る)
・ ホールは、戦後「名画座」(洋画のリバイバル館)となる
* 1984年(S59)、野村大一ビルを完工 / 長崎屋(カステラ)、マクドナルド、文明堂などが入居
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「番丁詳伝」P211
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戦前は、20-45、22-55、53-117/戦後は、53-08、44-35/「市民の戦後史(仙台市)」P70
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陸海軍の工場(宮城県内) |
多賀城海軍工廠 |
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<海軍工廠>
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠、開庁式(「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」)
* 1942年(S17)10月30日、多賀城海軍工廠開庁式 (「重訂 宮城県郷土史年表」P492)
* 旧多賀城村のほぼ4分の1に当たる500haを強制買収して建設
南地区の機銃部は、ゼロ戦の20ミリ機銃弾、北地区の火工部では爆弾、焼夷弾、親子爆弾、照明弾など
* 1945年(S20)3月から、松島町高城地区の丘陵地に地下分工場を建設中に敗戦(以上、「戦争のころ 仙台、宮城」P157)
・ 宮城県内の陸海軍の3工場では、それぞれ1万人が働く(徴用工や学徒勤労動員の学生生徒が24時間体制で)(「戦争のころ 仙台、宮城」P173)
「戦争のころ 仙台、宮城」P159~160に、土地所有者からの強制的な用地取得と移転の強要、土木作業員には宮城刑務所の服役囚や強制連行された朝鮮半島からの労働者(728人)も含むこと、残酷な強制労働につき記述あり
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾「仙台部隊関連年表」P711/「重訂 宮城県郷土史年表」P492/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P157、P159~160、P173
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敗戦後の諸相・仙台 |
外食券食堂 |
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・ 1947年(S22)7月1日、外食券食堂、旅館、喫茶店を除き、全国の料理飲食店の営業が停止された。仙台でも1168軒が休業し外食券食堂だけが残った。
・ 飲食営業緊急措置令により、主食を販売できる店は「外食券食堂」だけになった。食糧事情悪化のため政府がとった苦肉の策だが、こっそり店を開ける裏口営業が流行するが、22年内に解ける予定が24年まで続くことになる。(「番丁詳伝」P160)
・ 1949年(S24)には料理飲食店が再開されることになり、許可申請し「丸許」となった店は外食券食堂28を含め計93店だけで、客は食料品購入通帳で「外食券」「副食券」を入手し持参しないと店では食事できない建前だった。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P100~101/「番丁詳伝」P160
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(外食券)
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車両ナンバー |
変更 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)1月4日、車両ナンバーは、「宮」から「宮城」に変更
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「続・ 宮城県郷土史年表」P238
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主食配給量 |
変化 |
1940年(S15)~1948年(S23) |
* 1939年(S14)、戦争拡大と、秋には移入先の朝鮮米大減収が重なり需給ひっ迫、14年秋からは、全国一斉に7分搗き米、混食、代用食、かゆ食など奨励(「仙台市史 続編第1巻P13)
* 1940年(S15)、「この頃米は切符制となり、配給は2.6合となった」(佐々久「近代みやぎの歩み」P109)/ 宮城県では、東北でも一番遅れて、S15年12月17日から米穀商業組合発行の通帳で米配給実施、基準配給量は年齢別5段階の1日量平均2.574合(「仙台市史 続編第1巻」P19)
* 1941年(S16)4月、米穀配給通帳制(4月に6大都市で、12月までに全国に拡大)→(米1人、2.3合、330gに) / 仙台では7月から市長発行の通帳となり、配給量は年齢のほか、職業、男女別要素が加わる(「仙台市史 続編第1巻P20)
* 1941年(S16)12月、仙台で米穀類が配給制になる、成人1人あたり1日2合3勺(145g)配給 / 戦時中配給された米は白米ではなく、太平洋戦争が始まったころは七分つき米、1943年からは五分つき以下になり、玄米に近くなる(「戦争のころ 仙台、宮城」P179)
* 1945年(S20)7月4日、主食配給量減、7月~10月、10%減、労務特配停止決定(「仙台市史10 年表」P309)
* 1945年(S20)7月11日、主食の配給2.1合に(菅家年表)
* 1945年(S20)7月、主食配給量が10%減
河北新報は見出し「これを契機に食生活も決戦切り替えだ」で、祖先が飢饉のときに食べた草木の芽、皮、根、木の実も食料になると報じる(「戦争のころ 仙台、宮城」P180)
<戦後の食糧事情>
* 1946年(S21)5月16日、宮城県の米配給量、2.1合から1.8合へ減ず(「重訂 宮城県郷土史年表」P511) / 「買出し部隊」が農村へ向かう(「仙台市史 続編第2巻」P701)
* 1946年(S21)5月24日、天皇、食糧事情に関し放送
* 1946年(S21)6月2日、仙台市食糧危機突破対策委員会結成、対策要綱決定
* 1946年(S21)6月9日、食糧危機、2.1合配給を維持(「仙台年表」P216)
* 1946年(S21)11月1日、主食の配給、1日2.5合に増配(農林省発表)
* 1947年(S22)7月20日、主食の遅配、東京25.8日、北海道90日
* 1947年(S22)9月1日、パンの切符配給制を開始(「菅家年表」P41)
* 1948年(S23)11月1日、米配給量、1日2.7合
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戦時中の主食事情につき記述→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P18~20、「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P178~182
/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「仙台年表」P216/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P34、P37、P41、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、513/「仙台市史10 年表」P309、P312、P313/佐々久「近代みやぎの歩み」P109、P164/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701
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