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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
文学碑など(仙台) |
石川善助の詩碑 |
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* 1958年(S33)9月27日、詩碑建立 / 愛宕山神社のかたわら、仙台市を一望できる場所にある
「化石を拾ふ。 光の澱む切り通しの中に、童子が化石を捜してゐた。 黄赭の地層のあちこちに、白いうづくまる貝を掘り、遠い古生代の景色を夢み、母の母なる匂ひを嗅いでゐた。 もう日は翳るよ、空に鴉は散らばるよ。 だのに、なほも探してゐる。探してゐる。 外界のこころを、生の始めを、母を、母を」
・ 「番丁詳伝」P104~105に、国分町生まれの詩人石川善助の生い立ち、経歴、詩の世界につき記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191/「番丁詳伝」P104~105
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文学碑など(仙台) |
原阿佐緒の歌碑 |
1961年(S36) |
* 1961年(S36)6月、除幕式 / 歌碑「家ごとにすもも花咲くみちのくの 春べをこもり病みて久しも」 / 野草園に近い、仙台放送の放送所とNHKTVアンテナの中間、道に東側に建つ
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P191
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P292の写真96
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文学碑など(仙台) |
浜夢助の句碑 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)12月、川柳宮城野社一同の手で、西公園内に句碑建立 / 「雪国にうまれ 無口に馴らされる」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
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文学碑など(仙台) |
阿部みどり女の句碑 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月1日、仙台城址、宮城護国神社南の池のはたに建立 / 「初蝶の流れ光陰ながれけり みどり女」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192
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文学碑など(仙台) |
菊地養之輔の歌碑 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)9月、西公園の公会堂西南隣に建設 / 「新しき世界のために靴の紐、結ぶしもべと我をならしめ」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P192~193
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斎藤報恩会 |
財団法人認可 |
1923年(T12) |
* 1923年(T12)2月20日、斎藤報恩会、宮城県前谷地村(のちの河南町)の大地主、斎藤善右衛門が財団法人として設立 / 学術研究、産業開発、社会福祉の事業を行ってきた
* 1923年(T12)2月、斎藤善右衛門、300万円を基金に斎藤報恩会を創設(「仙台あのころこのころ八十八年」P244)
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「仙台市史 年表」P101/「仙台あのころこのころ八十八年」P244
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斎藤報恩会博物館(斎藤報恩館) |
博物館竣工~取壊し |
1933年(S8)~2015年(H27) |
・ 東三番丁の元貞(げんてい)坂上にあった
・ 鉄筋コンクリート3階建て、秋保石張り、ドームのある建物として親しまれた / 設計は小倉強
* 1933年(S8)11月1日、東三番丁に斎藤報恩会会館完成、併置した博物館を開設
* 1945年(S20)7月の仙台空襲では焼失を免れる
戦後は、
* 1948年(S23)年5月27日~S27年5月、「仙台CIE図書館」(GHQの民間情報教育局管轄)が同居 → 項目「仙台CIE図書館」参照
* 1952年(S27)、「仙台アメリカ文化センター」(米国務省管轄)が館内に同居 → 項目「仙台アメリカ文化センター」参照
* 1953年(S28)11月3日、終戦後閉館中だった自然史博物館を再開(化石、動物はく製品等を展示)
* 1972年(S47)9月、解体
* 1973年(S48)~74年(S49)に改築のために取り壊し
* 建替え後、自然史博物館を継続
* 2015年(H27)3月末、斎藤報恩会博物館を閉館(所蔵資料は仙台市に寄贈された)
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「仙台年表」P204/「仙台市史10 年表」P437/Wikipedia「斎藤報恩会」/「仙台市史 年表」P115、P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P437、P569/「続・ 宮城県郷土史年表」P14/「古写真にみる仙台の建築」P46
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戦前は、53-110、99-101、「目で見る仙台の歴史」P165/「新・目で見る仙台の歴史」P151/空襲焼け跡に立つのは、35-14、62-04、53-71、35-09、35-10 /戦後は53-50、07-01-04
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新仙台港 |
開港 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港開港式
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P978/「続・ 宮城県郷土史年表」P67
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P369の図353(仙台港、カラー)
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新伝馬町商店街 |
由来 ほか |
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<仙台市HPより 新伝馬町(しんてんまち)>
「城下町開府当初は日形町と称したが、延宝六~八年(1678~80)の仙台城下絵図からは新伝馬町となっている。国分町、北材木町、北目町と共に四伝馬町のひとつとして栄え、毎月二十六日から晦日までを担当、伝馬十匹を置いた。明治二十年の鉄道開通後も中心街をむすぶ商店街として発展を続けている。」
* 1964年(S39)12月10日、新伝馬町商店街アーケード完成
* 1964年(S39)、通称「中央通り」の3商店街の中で最初にアーケードが完成 / 大町五丁目、名掛丁の順にあとを追い、三者一体の印象を強めた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116)
<編者注>「重訂 宮城県郷土史年表」P617の、「1964年(S39)12月10日、仙台市名掛丁・新伝馬町・大町五丁目の中央商店街にアーケード完成」は正確でない、大町5丁目は1965年(S40)3月、名掛丁は1965年(S40)12月に完成
* 1977年(S52)7月30日、仙台市中央通り(中央二丁目振興組合、おおまち商店街)の新アーケード完成
* 1991年(H3)5月、中央二丁目商店街振興組合でアーケード改築工事始まる
* 1992年(H4)、新アーケード完成、それと共に新伝馬町商店街名を「クリスロード商店街」と名付ける
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仙台市HPの「道路の通称として活用する歴史的町名の由来(新伝馬町通り)/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P617/「続・ 宮城県郷土史年表」P70、P271/「クリスロード商店街」HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(S32年、中央通り新伝馬町商店街)
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新住居表示制度(仙台) |
実施 |
1965年(S40)~ |
* 1965年(S40)4月1日、旭ヶ丘地区で実施(仙台市初)
* 1965年(S40)11月1日、宮城野地区で実施
* 1966年(S41)5月1日、向山地区で実施
* 1967年(S42)2月1日、南材木町、南小泉地区で実施
* 1967年(S42)11月1日、八幡地区で実施
* 1968年(S43)2月1日、通町地区で実施
* 1968年(S43)8月1日、長町地区で実施
* 1970年(S45)2月1日、中央地区で実施(北は、柏木、昭和町、梅田町、南は、米ケ袋、土樋、五橋、西は広瀬町と広瀬川、東は宮町と仙台駅付近、に囲まれた市中央部で、上杉、中央、本町、一番町、立町、大町、など、計28町・44丁目)
(中央地区の該当範囲図は、http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/documents/s45chuuou.pdf)
* 1971年(S46)5月1日、東六番丁・原町地区で実施
* 1971年(S46)12月、露無地区の新町名公示後に異議申し立て(仙台市で初)
* 1972年(S47)5月、台原地区で実施
* 1973年(S48)5月1日、長町北地区で実施
* 1973年(S48)5月、土手内1・2・3丁目で実施
* 1974年(S49)5月1日、桜が丘地区で実施
* 1975年(S50)5月1日、若林区小泉地区と、太白区太白地区で実施
* 1976年(S51)7月5日、高松・幸町地区で実施
* 1976年(S51)9月1日、富谷町向陽台団地で実施
* 1977年(S52)2月1日、仙台港北側の港4・5丁目で実施
* 1977年(S52)7月4日、本澤・中山地区で実施
* 1978年(S53)7月3日、北根・荒町地区で実施
* 1979年(S54)7月1日、中田・西多賀地区で実施
* 1985年(S60)7月1日、六丁目地区、長町茂ケ崎地区で実施
* 1988年(S63)7月4日、榴ヶ岡1~5丁目、宮城野1丁目、八幡7丁目の新住居表示実施
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「仙台あのころこのころ八十八年」P254/「重訂 宮城県郷土史年表」P619、P622、P626、P630、P635、P638、P641/「仙台市史 年表」P124/「続・ 宮城県郷土史年表」P10、P19、P20、P29、P40、P57、P64、P70、P71、P83、P96、P194、P248
/仙台市HPの「住居表示実施状況 実施地区名一覧《実施年降順》」http://www.city.sendai.jp/kosekijumin/kurashi/tetsuzuki/koseki/jisshi/hyoji/kojun.html
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「市民の戦後史(仙台市)」P167(市内初の旭ヶ丘新住居表示板」
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新国町/日の出横丁 |
新設 |
1902年(M35) |
東一番丁と国分町を結ぶ東西の小路(北側の玉沢横丁=現・広瀬通、南側の大町通りと平行)
* 1902年(M35)6月8日、新国町新設開通 / 屋敷の中を南北両側から、4尺5寸ずつの地所を出し合って幅9尺の私設街路をつくる / 両側に小店が並んだ(「東一番丁物語り」P120~123に店の配置やコメントあり) / 北側に16軒、南側に20軒)
* 大正時代は、“日陰町”とよばれさびれた
* 1932年(S8)3月、映画館「仙集館」付近より出火した火災(東一番丁大火)で新国町の大半が焼失
* 1932年(S8)、街路幅拡張
* 1932年(S8)5月、東一振興会が町名募集し、「日の出横丁」と決まる
* 1935年(S10)3月、映画館「日乃出映画劇場」開場
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「仙台市史 年表」P92/「東一番丁物語 明治編」P120~123/「番丁詳伝」P80、P108/「わが町昔がたり」P22
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位置は、98-110の地図で確認
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新寺小路地区都市改造事業(区画整理) |
計画公示~完了 |
1960年(S35)
~2000年(H12) |
<「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」(昭和44年9月発行)P388より>
「新寺小路地区第一工区土地区画整理事業=寺院と墓地によって相当部分が占められており、仙台駅に隣接してしているにもかかわらず市街地としての環境整備が遅れているので、市中心部と東部地区を連絡する都市計画街路を築造し、駅前広場(東口)を拡張して交通の円滑化を図るとともに、区画街路、公園などを設置、墓地を整理して総合的に近代市街地化する。このため墓地は別途事業で造成中の葛岡墓園に移転改葬し跡地は宅地として利用する計画。事業認可面積は約60.3haで、昭和35年から5か年計画で着工したが、墓地の所有権をめぐる訴訟事件などのため事業は進まなかったが、同地区の10カ寺との話し合いがつき、昭和44年一部墓地の移転が開始されたので、清水小路多賀城線の拡張工事は軌道に乗り始めた。」
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127>
「新寺小路の区画整理は、区域内約1100戸を交換分合するほか、約30カ寺の墓地を整理、3万基近い墓を葛岡墓地公園に移転。そして道幅を7.5mから25mに広げ、都心部と仙台バイパスを結ぶ最短路線にしようというもの。」
* 1960年(S35)6月、新寺小路地区都市改造事業計画公示(施行年度は、2000年度(H12)まで / 施行面積60.4ha)
* 1960年(S35)9月、新寺小路地区の33カ寺、墓地所有をめぐり市を相手に訴訟
* 1964年(S39)2月、葛岡墓園造成開始(新寺小路地区の都市改造事業=区画整理による移転墓地) / 第一工区分(21カ寺、2万8000基)、第二工区分(12カ寺、6600基)の代替墓地にするため、仙台市が当時の宮城町葛岡地区の国有山林を借り造成
* 1965年(S40)1月、新寺小路墓地問題で11カ寺と市が和解
* 1969年(S44)3月、移転第1号として応瑞寺の墓碑50基を移転
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P388/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P127、P744/「同書」末尾年表P871、P888/「仙台市史 年表」P123/「市民の戦後史(仙台市)」P110、P113
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「市民の戦後史(仙台市)」P211(葛岡墓地公園)
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新常盤町(遊郭) |
(1)新常磐町以前 |
明治初期~1894年(M27) |
<遊廓> 「くるわ」(廓または郭と書く)は城郭のように周囲を石や土で覆い、塀などをめぐらせた一画で、ここに遊女や関係の業者だけを集中的に存在させ、官許の遊女町とすることがあった / 遊女屋は郭外での営業を禁止
<公娼と私娼> 「公娼」は、遊郭で働く法律で許可された売春婦で、鑑札(営業許可証)定期検診が義務付けられた / 多くの場合、貧民の子女が、貧しさの為に、親に手渡されるまとまった前渡し金によって、年季を定められ売春生活を余儀なくされた / 「私娼」は、許可されていない売春婦
・ 藩政時代は、仙台城下における遊女屋営業は禁止
・ 明治維新期、薩長軍相手の遊女屋(妓楼)が虎屋横丁に開業
* 1869年(M2)、国分町を中心に、遊女屋28軒が官許を得て開業開始/ 中正楼(ちゅうせい)楼、新盛楼(しんせい)、舞鶴楼(まいづる)、南幸楼(なんこう)など
* 1878年(M11)9月15日、国分町遊郭の妓楼(貸座敷)15軒が、片平丁河岸(常盤町、のちの元常盤町)に移転完了
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
(新常盤丁の名称は1894年(M27)7月15日に市会の決議による / 戦後は旅籠町と改名した) / 常盤町の川向かいに川内の第二師団兵舎があり、若い兵士の士気に影響ありと軍の圧力があり、県は移転期限をきめ移転を強要
<新常磐町(遊郭)の沿革>
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123、「仙台市史 特別編4 市民生活」P389に、記述あり
<編者注> 常盤町、新常盤町の表記は、文献により「町」と「丁」の二通りあり
<廃娼運動> 明治期~昭和戦前期の宮城県内の廃娼運動については、「仙台市史 特別編4 市民生活」P392~393に記述あり
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123/「仙台市史 年表」P82、P88、P89/「重訂 宮城県郷土史年表」P330/「仙台市史 特別編4 市民生活」P393、P392~393
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99-033、98-079/「目で見る仙台の歴史」P118に、国分町の貸座敷「南幸楼錦絵」(のち明治4年に中正楼)と「常盤町の妓楼街」
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新常盤町(遊郭) |
(2)移転開業 |
1894年(M27) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391より>
* 1895年(M28)、常盤丁の遊郭が小田原(新常盤丁)へ移転開業
・ 遊廓の土地整備は、米ケ袋の集治監(監獄)の囚人を使用
・ 建築は東京の大工やとび職を招き、吉原の建築様式をそのまま模倣し、文字通り東北一の遊郭をつくる / 南側には「大門」、道は南北に走り、その道を挟んで妓楼が連なり、大門を入ると軒が見えるようになっていた / 大門に入る前に四ツ谷堰に注ぐ川があり、その川にかかった橋を吉原と同じように思案橋と名付けた
・ 大門と対極の道路の北端に、娼妓たちの教育をする「女紅場」
・ それに隣接して彼女たちのための病院(梅毒院)があった
・ 各年度別の娼妓数・貸座敷数
1892年(M25)、192人・21軒
1900年(M33)、325人・32軒
1901年(M34)、363人・35軒
・ 軍人の利用には、割引があった
・ 1926年(T5)6月、妓楼は32軒 / 安積楼(あさか)、中正楼(ちゅうせい)、新竹楼(しんちく)、昌平楼(しょうへい)、千州楼(せんしゅう)、若松楼(わかまつ)、永明楼(えいめい)、甲子楼(こうし)、宝来楼(ほうらい)、吉辰楼(よしたつ)、など / 娼妓総数273人(宮城県出身202人、うち仙台市出身29人、県外出身71人)
<娼妓>
・ 年季が空けるまですべてが警察の取り締まりの対象になった
・ 外出先はもちろんのこと、病気による休業、懐妊のための休業も警察の許可が必要 / 生理で仕事を休むこともできなかった
・ 取り締まりの業務のために、郭の近くに交番が建てられていた
<娼妓の生活収支>
・ 稼ぎは、楼主4割、娼妓6割 / 娼妓収入のうち、賦金(税金)・食費・席料・衣類・寝具損料・その他を引くと、むしろマイナスになり、前借金に足されて借金は増えてゆく仕組みになっていた
<娼妓になる原因>
・ 借金などによる家の貧困を救うため / 父母兄弟の病気や死亡により医療費と生活費を稼ぐため / 事業失敗による家の没落を救うため / 子供の養育費のため / 多くは、上記のような理由による芸妓や酌婦の時の自分の借財を整理するため
・ 貧しい東北地方の農村では、冷害や飢饉などの凶作のため口減らしを目的とした人身売買によって遊廓に連れてこられる者も多かった
<宮城県内の娼妓、なる前の職業(昭和11年、県警察部調)>
・ 農業29.4%、酌婦19.6%、無職19.4%、女中11.4%、女工9.0%、雑役4.9%
* 太平洋戦争期 戦時体制強化により、遊郭は急速に衰退
* 1946年(S21)1月、GHQ指令で公娼制度廃止により一斉に閉店 / 旅館や料理屋・飲食店などに転業することになった
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P389~391
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目で見る仙台の歴史」同P129に「新常磐町遊郭全景と妓楼」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P386(M31年、新常盤町の図)/同P390(S8年、遊客人名簿)
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新憲法 |
施行 |
1947年(S22) |
* 1946年(S21)11月3日、日本国憲法公布、大々的な県民大会、市民大会開催、市民に米3合特配
* 1947年(S22)5月3日、日本国憲法施行、地方自治法など憲法附属24法律施行、県民祝賀大会
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P25/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P89/「仙台市史10 年表」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P518
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「新・目で見る仙台の歴史」P175(新憲法発布祝賀会、祝賀提灯づくり、県庁前祝賀行列)
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新産業都市 |
仙台湾地区を指定 |
1964年(S39) |
<全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪
<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)
「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり
<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)
<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
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<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式
・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮)
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新聞社(戦後) |
創刊年 |
戦後 |
* 1949年(S24)、「人民新聞」を「東北日報」と改題して続刊
* 1960年(S35)5月25日、福島民友新聞社が、「民友新聞・宮城」朝夕刊を発行
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「重訂 宮城県郷土史年表」P535/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P290
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新聞社(明治) |
創刊年 |
明治年間 |
*「宮城新聞」 創刊 1973年(M6)4月3日、仙台初の新聞
*「東北新聞」 創刊 1973年(M6)5月8日
→M10年1月「仙台新聞」と改称(仙台初の隔日刊紙となる)
→M11年1月に「仙台日日新聞」(仙台初の日刊紙)
→M13年に「陸羽日日新聞」(M13年に3度の発行停止処分)
→M16年に「奥羽日日新聞」
→M37年に「奥羽新聞」と改称
* 自由党系の「自由新報」「東北自由新報」
1882年(M15)、言論機関への統制・弾圧が強まり、発行停止処分
*「東北新聞」(松田常吉ら) 創刊 1892年(M25)1月
*「東北日報」(秋葉忠七ら) 創刊 1892年(M25)2月15日
*「河北新報」創刊 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し創刊 → 以下、項目「河北新報社」へ
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「仙台市史 年表」P80、P82、P90
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日乃出映画劇場 |
開館 |
1935年(S10)3月20日 |
東一番丁(横丁の新国町)に杉村多利治が開場
・ 水洗式トイレ、トーキーは35年型トービスと最新式の設備
・ 館名を一般公募で決める
・ PCC特約で洋画ファンを喜ばせ、学生の多いところから独特な雰囲気をもっていた
・ この後、新国町は日の出横丁と呼ばれるようになる
* 1935年(S10)3月20日、東一番丁(新国町)に開館
* 1940年(S15)12月からは東宝と提携、直営となった
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失し休館
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「仙台映画大全集」P451/「番丁詳伝」P131
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日乃出映画劇場 |
戦後再開 |
1946年(S21) |
<戦災焼失後>
* 1946年(S21)8月、青葉通り・東五番丁通り東南角へ移転し開場(三和興行)
* 1946年(S21)8月10日、(旧)東五番丁26(日本通運倉庫跡)で、東宝直営として「命ある限り」などでお目見えした
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「仙台映画大全集」P454
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日乃出映画劇場 |
改築開場 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)12月、映画館ビルとして改築され、日乃出地下映画劇場を併設(東五番丁26)
* 1950年(S25)12月、日乃出劇場(三和興業、700席)を東五番丁17に開設
/ この月はこのほかに、文化劇場再開(東一番丁、松竹、943席)、仙都劇場(東三番丁、大映、888席)と銀映画劇場(旅籠町、200席)もオープンした
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「重訂 宮城県郷土史年表」P546
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22-18
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日乃出映画劇場 |
出火 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された
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「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場)
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日乃出映画劇場 |
日乃出会館オープン |
1957年(S32) |
日乃出映画劇場出火(S31年2月)後、日乃出会館を新築
* 1957年(S32)4月14日、地上8階・地下1階の商業施設ビルとしてオープン / 館内に4つの映画館や大ホールなどがあった
* 1973年(S48)7月、日の出興行ビル完成
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Wikipedia「日乃出会館」2019年12月18日版/わが心の仙台駅前史」P40、P89
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99-031/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P26(S32)/同P41(S33、仙台駅界隈空撮、日の出会館は画面左の交差点右角のビル)
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日乃出映画劇場 |
映画館閉館/ビル解体 |
2002年(H14)/2019年(R1) |
* 2002年(H14)9月17日、映画館は全館閉館となり、45年の歴史に幕を閉じた。
・ ビルはパチンコホール「ベガスベガス」などを運営する山形市の「大成商事」(当時)に売却され『大成商事GSビル』となった
* 2008年(H20)4月17日、『大成商事GSビル』はオリックス不動産に売却され『GSビル』となった
* 2018年(H30)6月、「GSビル」の解体工事開始
* 2019年(R1)秋、解体完了
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Wikipedia「日乃出会館」 2019年12月18日版
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日本生命館 |
落成 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)10月8日、東一番丁・南町通り交差点の南西角に、落成(レンガ造り)
* 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、内部は焼けたが、外観は残った
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渋沢社史データベース「日本生命九十年史」P369/「番丁詳伝」P209
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戦前は、53-91/戦後は、63-04、18-14、36-08
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日本生命館 |
取壊し |
1968年(S43) |
・「S43.11 消えるレンガ館 仙台日生館」の写真あり(「市民の戦後史」P202)
・ 解体はS42年(か?)(「仙台クロニクル」P89)
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202
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「仙台市史写真集 市民の戦後史」P202の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P88~89(カラー、S42年、解体中)
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日本農民組合 |
宮城県連合会大会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)、日本農民組合宮城県連合会第3回大会(仙台市公会堂) / ビラに書かれたスローガン(俺達の大会を守れ! 働く農民に土地を保証せよ! 土地取上絶対反対! 耕作権を確立せよ!)
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「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「新・目で見る仙台の歴史」P148(大会ビラにスローガン)
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日本銀行 |
仙台支店(芭蕉の辻)開設 |
1941年(S16) |
「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
(1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店
(2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
(3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建
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「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
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戦前は、16-01/戦災焼失は、35-13、53-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対明治大学 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)11月10日、八木山球場で、「アメリカ大リーグ選抜(グローブ投手やゲーリッグら)対明治大学チーム」の日米野球試合(米13-明治2)が行われた
(【「仙台はじめて物語」P235~241】に詳述あり)
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「仙台はじめて物語」P235~241/「重訂 宮城県郷土史年表」P428/「仙台年表」P202
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98-064 (「新・目で見る仙台の歴史」P155の米チーム一行記念撮影と同じ)
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日米野球 |
米大リーグ選抜対全日本選抜 |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)11月9日、八木山球場で、「米大リーグ選抜と全日本選抜」が対戦、ベーブ・ルースがホームラン2本を放つ
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「仙台市史 年表」P107
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日米野球 |
シールズ対六大学選抜 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)秋、サンフランシスコ・シールズ(オドール監督)対六大学選抜(評定河原球場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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日米野球 |
米大リーグ選抜対巨人軍 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球、米大リーグ選抜対巨人戦、宮城県営野球場で開催 / オドール監督以下ディマジオ兄弟ら
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「仙台市史10年表」P326/「仙台市史 年表」P117/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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日米野球 |
全米オールスターズ対全パシフィック |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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日米野球 |
来仙チーム |
1953年(S28)?~1956年(S31) |
* 1953年(S28)?、ニューヨーク・ジャイアンツ来仙試合
* 1955年(S30)、ニューヨーク・ヤンキース
* 1956年(S31)、ブルックリン・ドジャース
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P469
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明治三陸地震津波 |
発生 |
1896年(M29) |
* 1896年(M29)6月15日発生、マグニチュード8.2~8.5 / 岩手、宮城、青森中心に大津波被害甚大(死者・行方不明者 約2万2000人、うち宮城県が3400余人)
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明治生命館 |
竣工~解体 |
1920年(T9)~1977年(S52) |
大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた
* 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設
* 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎
* 1920年(T9)7月旧、竣工
* 戦後、進駐軍に接収された
* 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称
* 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組
* 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体
(5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215
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16-44、22-28、43-25/「目で見る仙台の歴史」P151
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明治百年 |
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1968年(S43) |
明治元年から100年経過した1968年(昭和43年)、国内各地で記念行事や催しが開催された
* 1967年(S42)6月21日、明治百年記念として台原森林公園(59ha)開設きまる(全国10カ所に開設する施設のひとつ)
* 1968年(S43)10月23日、明治百年記念式典
* 1968年(S43)10月、仙台市が記念植樹式
* 1973年(S48)4月、台原森林公園開園
→ 項目「台原森林公園」参照
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P62/「市民の戦後史(仙台市)」P211
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53-125(仙台七夕 明治百年に因んだ飾り)/「市民の戦後史(仙台市)」P211(市が記念植樹)
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明治製菓仙台売店 |
芭蕉の辻/東一番丁 |
1927年(S2)~1945年(S20) |
<芭蕉の辻>
* 1927年(S2)12月5日、仙台明治製菓売店、芭蕉の辻南西角に開店(出典:「明治製菓40年小史」)
* 1932年7月の七夕写真 99-046 には、芭蕉の辻南西角の明治製菓が確認できる
(編者注:芭蕉の辻南西角にあった「明治製菓」が昭和10年頃になくなったが、店を東一番丁にだけにした可能性がある)
<東一番丁>
* 1932年7月の東一振興会(東一番丁中央部の商店会)仙台七夕の描写に「明治製菓店の海水浴は自働式に波の上に人が現れたりチョコレートが現れたりするので、子供をよろこばせる事頗る非常」(「わしが国さ」昭和7年8月号P9)→ 遅くとも昭和7年には東一番丁に店があったことがわかる
* 1934年(S9)、仙台明治製菓売店開業(「番丁詳伝」P147)
* 1934年(S9)頃、東一番丁の明治製菓(喫茶)の思い出(→<参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」のID146)
* 1939年(S14)、明治商事(菓子、食料品、砂糖)東一番丁76に開業(重訂 宮城県郷土史年表P471)」
* 1945年(S20)7月9日、戦災(仙台空襲)により東一番丁の店を焼失
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粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P33(出典:「明治製菓40年小史」)/「わしが国さ」昭和7年8月号P9/「重訂 宮城県郷土史年表」P471/「番丁詳伝」P147
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芭蕉の辻の店は、53-49、99-046、22-33、99-026、64-05、99-028、98-110 / 東一番丁の明治製菓→「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P64(右の建物)
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映画館(戦前) |
森徳座 |
明治時代~1931年(S6) |
→ 項目「森徳座」参照
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映画館(戦前) |
仙集館 |
1909年(M42)~1933年(S8) |
→ 項目「仙集館」参照
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映画館(戦前) |
仙台の映画館一覧 |
大正末期~昭和初期
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・ 東一番丁(北部) 森徳座(昭和6年閉館)
・ 東一番丁(中央部) 日活パテー館
同 仙集館(昭和8年閉館)
・ 東一番丁(文化横丁) 文化キネマ
・ 東三番丁 読売会館(洋画中心)
→項目「仙台東宝劇場」参照
・ 国分町 世界館(大正3年4月開館、
その後日本館、帝国館、キネマ館
と改称、大正11年5月に電気館
・ 河原町 第二パテー館
・ 南鍛冶町 栄楽館(第二仙集館)
・ 長町 長町劇場(昭和3年開場)
無声映画時代の弁士
「番丁詳伝」P113に、大正末期~昭和にかけ活躍した、各映画館(仙集館、日活松島座、文化キネマ、世界館、パテー館)の弁士名が記載されている
入場料(昭和4~5年頃) 大人一人、20~30銭
(かけそば、ゴールデンバット(たばこ)が5銭、火鉢や座布団の賃料が5銭)
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「番丁詳伝」P108、P112~113/「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236
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映画館(戦前) |
仙台の映画館と劇場一覧 |
昭和11年頃 |
<映画館>
・ 東一番丁(中央部) 日活館(日活契約、椅子席)
・ 同(日の出横丁) 日乃出映画劇場(P.C.L特約、椅子席)
・ 東一番丁(南部) 文化キネマ(松竹特約、椅子席)
・ 東三番丁 読売会館(新興契約)
・ 河原町 (第二)パテー館(大都契約)
・ 国分町 世界館(大都特約)
・ その他 公園館(大都特約)
廣瀨座(新興契約)
<このころから、映画に対する統制が強まる>
・ 1934年(S9)、内務省、映画統制委員会を中央に設置 / 映画は国策の一環に組み入れられ制約をうけてゆく
・ 1936年(S11)夏、これまで自由配給されていた欧米映画に対する干渉が高まり、検閲が苛烈になってゆく
<劇場>
・ 仙台歌舞伎座(国分町、大正9年開座、収容力1200)→ 項目「仙台歌舞伎座」参照
・ 仙台座(南町通・東四番丁角、明治23年開座、収容力1800) → 項目「仙台座」参照
・ 東一館(収容力500 / 東一番丁、大正6年開業)
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「仙台の産業と観光」(昭和11年刊)P72/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352(東一館の開業年)
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映画館(戦前・戦後) |
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
1885年(M18)~ |
→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
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映画館(戦前・戦後) |
仙台東宝劇場 |
1922年(T11)~ |
→ 項目「仙台東宝劇場」参照
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映画館(戦前・戦後) |
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
1925年(T14)~戦後 |
→ 項目「文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場」参照
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映画館(戦前・戦後) |
日乃出映画劇場 |
1935年(S10)~ |
→ 項目「日乃出映画劇場」参照
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映画館(戦後) |
第一映画劇場 |
1945年(S20)? |
* 1945年(S20)1月、開設(北日本興業、500席)
・ 昭和22年1月1日仙台市内映画館上映一覧に第一劇場「ターザンの猛襲」あり(「仙台市史 続編第2巻」P254)
<編者注> 太平洋戦争末期に、映画館開設は考えにくが・・・?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P503
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映画館(戦後) |
青葉劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)10月8日、東七番丁に開設(9~10日は、戦災市民無料招待)
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「仙台年表」P208/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P549
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映画館(戦後) |
錦映画館 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、錦町21に開設(480席)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508
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映画館(戦後) |
東北劇場 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月、本櫓町51に開設(700席)
* 1979年(S54)4月13日、立町の東北劇場焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P508/「続・ 宮城県郷土史年表」P94
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「市民の戦後史(仙台市)」P42(NHKのど自慢会場の看板あり)
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