項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
横断歩道橋 |
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* 1966年(S41)12月、東二番丁通り市立病院前に横断歩道橋完成
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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歩兵第104連隊 |
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1937年(S12)~1945年(S20) |
・ 1937年(S12)、日中戦争開始後に仙台で急きょ編制された陸軍第十三師団隷下にあり、宮城県人を中心に編制された歩兵連隊
・ 当時、仙台の第二師団は、1937年(S12)4月から満州守備(駐箚)のため不在、仙台に一部残っていた第二師団留守部隊に加え新たに召集された兵士を合わせ十三師団(歩兵第104連隊)が編制され、中国戦線へ送られた
* 1937年(S12)9月9日、動員下令
* 1937年(S12)9月16日、軍旗拝受
* 1937年(S12)9月19日、編制完結
* 1937年(S12)9月24日、仙台から「出征」 上海から徐州、南京、武漢、漢口北部など中国各地を転戦し昭和20年敗戦まで帰還せず
* 1945年(S20)8月23日、衡陽郊外の三板橋にて軍旗奉焼
→ 項目「第十三連隊」参照
【「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P96】
「(日中戦争勃発で)仙台市内の兵舎は、動員令と出征準備で忙殺され、次々と動員された応召兵士は仙台に集まり、民家に分宿を割り当てられ、多きは一軒に十人にも及んだ。区長や町の世話役は食料をくばり、兵士は軍服を渡され、現役兵が出征すると、ただちに連隊に移り、この応召兵が出征すると、次の民宿応召兵士が入隊する有様であった。」
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「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)「仙台部隊関連年表」
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28-01(応召後、仙台の民家に分宿した将兵と民家家族たち)
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歩兵第4連隊 |
設置 |
1875年(M8)~1945年(S20) |
歩兵第4連隊は、明治初期から昭和20年敗戦まで、仙台榴ヶ岡に兵営をおいた歩兵部隊(当初は仙台鎮台、明治21年からは第二師団隷下)/ 毎年9月の軍旗祭では市民も兵営内に入ることができるなど、長い間地元に根付いた市民には馴染みの連隊だった
* 1974年(M7)9月11日、榴ケ岡の洋風兵舎竣工し、仙台城の第2大隊の兵移る
* 1875年(M8)5月27日、仙台鎮台に歩兵第4連隊を設置
* 1875年(M8)9月9日、宮中に於いて軍旗親授
明治・大正・昭和敗戦まで、海外出兵や国内出動多数
(→項目「第二師団(出兵記録)」参照)
* 1945年(S20)8月31日、軍旗奉焼
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「仙台市史 年表」P80、P81/「宮城県史7(警察)」のうちの「兵事」末尾(P685~715)『仙台部隊関連年表』
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98-085、99-150、98-087、06-23、16-58/「いつか見た街・人・暮らし」P3(第4連隊への入営スナップ、大正13年)/同P16(軍旗祭、大正13年9月9日)/同P19(第4連隊除隊の朝、大正13年)/同P47の写真167(第4連隊兵営空撮、戦前期)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P27(第4連隊除隊の朝、大正13年)
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歩行者天国(東一番丁) |
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1970年(S45)/1972年(S47)/1977年(S52)/1979年(S54) |
* 1970年(S45)10月10日から、東一番丁通り、土・日・祝日の歩行者天国始まる
* 1972年(S47)、歩行者天国を全面実施
* 1977年(S52)12月3日~25日、全面歩行者天国(午後0時~6時)
* 1979年(S54)、東一番丁通りが歩行者専用道路となる
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9/「仙台市史 年表」P127、P128、P131/「仙台あのころこのころ八十八年」P256
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22-58
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殉国勇士の家 |
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日中戦争以降 |
仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰
<参照> → 項目「兵事義会/銃後奉公会」
「誉輝く軍国の家」(河北新報) 「河北新報は中国と戦争を始めてから5年目の昭和17年7月、1家族で2人以上の戦死者を出した宮城県内の12家族を「誉輝く軍国の家」として取り上げています。・・・「お国のために散ったこと、親としてこんなうれしいことはありません」・・・・肉親を戦争で失った家族には、涙と絶望が数多くありましたが、人々はそれを平静というオブラートに包んで冷静を装っていました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12/「仙台市史 特別編4 市民生活」P315/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P79
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標)
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民生委員/児童委員 |
制度発足 |
1946年(S21)/1947年(S22) |
<前史>
* 1925年(T14)、宮城県で、奉仕委員制度開始(東北で4番目)
* 1928年(S3)、仙台市社会事業協会設立
* 1932年(S7)、救護法、実施
/ 仙台市内では奉仕委員の市内一区一名制
* 1936年(S11)4月1日、方面委員と改称 / 同年11月3日、方面委員令公布
<戦後>
・ 荒廃した都市・農村に大量の戦災者、失業者、復員軍人、引揚者など多数の生活困窮者出現
・ GHQ、「救済並に福祉計画に関する覚書」 / 生活困窮者の救済は国家の責任など4原則を指令
* 1946年(S21)10月1日、(旧)生活保護法施行/民生委員令施行 / 1948年(S23)7月29日、民生委員法制定
* 1947年(S22)12月12日、児童福祉法公布
* 1950年(S25)5月、生活保護法(全面改正) / 国民に生活保護の請求権を認め、不服申立制度を規定 / 公務員である社会福祉主事の全国配置きまる
「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403「民生委員の始まり」に、民生委員制度の前史にあたる、戦前の方面委員(奉仕委員)以来の戦前戦後の制度の変遷、趣旨など記述あり
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P400~403
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P401に表「宮城県における方面カード登録件数と奉仕委員の割合」、P403(S46、民生委員児童委員大会)
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民間放送(仙台) |
東北放送(TBC) |
1952年(S27)/1959年(S34) |
<ラジオ仙台>
* 1951年(S26)10月30日、仙台放送創立総会
* 1952年(S27)4月5日、ラジオ仙台JOIR正式に許可
* 1952年(S27)5月1日、ラジオ放送開始(ラジオ仙台)、コールサインJOIR(スタジオはレジャーセンターの一室) / 開局日のプログラム(「仙台市史 続編第2巻」P270) / その後、東二番丁の河北新報社隣に新社屋建設
<テレビ>
* 1958年(S33)12月31日、東北放送テレビ塔が八木山に完成
* 1959年(S34)4月1日、テレビ放送開始(東北初の民間テレビ局IRTV)、コールサインJOIR-DTV
* 1964年(S39)10月1日、カラーテレビ放送開始
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<ラジオ>「仙台年表」P222、P224/「仙台市史10 年表」P325、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P205、P270
<テレビ>「仙台市史 年表」P120、P121/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P616/「目で見る仙台の歴史」P196
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「目で見る仙台の歴史」P193(河北新報社と東北放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P68(社屋と送信アンテナ)/同P196(東北放送テレビ塔)
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民間放送(仙台) |
仙台放送(テレビ) |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)10月1日、 仙台放送株式会社が、宮城県内の2番目の民放テレビ局として、仙台市茂ヶ崎の大年寺山麓に開局、テレビ放送開始 / コールサイン「JOOX-DV」、略称はOX
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「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P606
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P295の写真97)「市民の戦後史(仙台市)」P144(テレビ送信鉄塔、開局記念市長対談)
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民間放送(仙台) |
ミヤギテレビ(MMT) |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)10月1日、宮城テレビ放送株式会社、UHF波でテレビ放送開始、コールサインJOMM-DTV
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「仙台市史 年表」P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P664
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民間放送(仙台) |
東日本放送(KHB) |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)10月1日、テレビ放送開始(社屋は上杉2丁目)、コールサインJOEM-DTV
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45
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民間放送(仙台) |
エフエム仙台 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)12月1日、東北で民間初のFMラジオ仙台、スタート(全国で8番目) / コールサインはJOJU-FM
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P154
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気象台 |
仙台測候所/仙台地方気象台/仙台管区気象台 |
1937年(S12)/1939年(S14)/1945年(S20) |
* 1937年(S12)10月28日、中央気象台仙台測候所を仙台に開設
* 1939年(S14)11月1日、仙台測候所、仙台地方気象台と改称
* 1945年(S20)8月1日、仙台管区気象台に昇格
* 1946年(S21)6月10日、仙台地方気象台仙台航空気象観測所を仙台測候所仙台航空気象観測と改名
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
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「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台市史10 年表」P309/「続・ 宮城県郷土史年表」P133
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「目で見る仙台の歴史」P193(榴岡の仙台管区気象台)
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水の森スケート場 |
開場 |
1974年(S49) |
* 1974年(S49)12月29日、仙台市が「水の森スケート場」を設置
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「仙台市史 年表」P129
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水害 |
大雨 |
1874年(M7)7月20日 |
大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
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「仙台市史 年表」P81
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水害 |
大雨 |
1883年(M16)5月7日 |
広瀬川が氾濫し、牛越橋が流失 (1905年(M38)11月20日に架設)
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「仙台市史 年表」P85、P93
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水害 |
台風 |
1884年(M17)9月15日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失 / この台風被害により、野蒜築港工事が中止される
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「仙台市史 年表」P85
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「新・目で見る仙台の歴史」P124(野蒜築港設計図)
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水害 |
暴風雨 |
1885年(M18)11月24日 |
広瀬川が氾濫し、仲の瀬仮橋が流失
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「仙台市史 年表」P85
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水害 |
大雨 |
1889年(M22)9月10日~11日 |
広瀬川が氾濫し、澱橋・大橋・広瀬橋が流失 / 仙台で、死者17名、家屋流出40戸、倒壊39戸、浸水1012戸
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「仙台市史 年表」P87
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水害 |
大雨 |
1897年(M30)9月9日 |
仙台市街で洪水となる
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「仙台市史 年表」P90
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水害 |
大雨 |
1908年(M41)9月30日 |
広瀬川が氾濫し、広瀬橋が流失
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「仙台市史 年表」P94
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水害 |
豪雨 |
1910年(M43)8月2日~11日 |
* 1910年(M43)8月2日~11日、宮城県内の諸河川で大洪水が起こる / 家屋流失・浸水、田畑冠水、地崩れ、橋損壊など被害多数
仙台市内では広瀬川が氾濫し、床上浸水347戸、床下浸水1109戸
* 1983年(S58)11月6日、荒井保子(鳴子町里沼)は、明治43年の水害死亡者79人の慰霊地蔵尊建立、開眼
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「仙台市史 年表」P95/「仙台あのころこのころ八十八年」P241/「続・ 宮城県郷土史年表」P168
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水害 |
暴風雨 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)8月26日、広瀬川が氾濫し、牛越橋などが流失
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「仙台市史 年表」P96
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水害 |
暴風雨 |
1941年(S16) |
* 1941年(S16)7月22日、広瀬川氾濫
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「仙台市史10 年表」P301
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水害 |
カスリーン台風 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月、県内に水害
* 1947年(S22)9月、カスリン台風で、県内はさらに大きな被害をうけ、物資はいっそう不足した
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702
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「市民の戦後史(仙台市)」P35(流失した根岸橋)
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水害 |
アイオン台風 |
1948年(S23)9月16日~17日 |
広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊28か所、橋梁流失15か所、道路損壊32か所、仙台鉄道七北田鉄橋の流失を受け代行バス輸送
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「仙台市史 年表」P115
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「市民の戦後史(仙台市)」P38(洪水被害)/「新・目で見る仙台の歴史」P174(水害の太子堂付近)
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水害 |
集中豪雨 |
1950年(S25)8月3日~4日 |
20mの強風下、仙台で200ミリの豪雨 / 広瀬川・七北田川・名取川などが氾濫 / 堤防決壊10か所、橋梁流失47か所 / 仙台で138戸流失、死者6名、行方不明10名、浸水家屋1万戸以上 / 元虚空蔵の崖が崩れて水がせき止められ、評定河原に水があふれ家屋流失138戸 / 市制施行以来の大水害
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P405/「仙台市史 年表」P116/「仙台市史10 年表」P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P544/「目で見る仙台の歴史」P175
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「目で見る仙台の歴史」P175に「新聞掲載写真」
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水害 |
豪雨 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月6日、豪雨で河川氾濫、床下浸水140戸
* 1952年(S27)9月28日夜から29日にかけ、宮城県一帯に50~70ミリ程度の豪雨、各地で洪水
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「仙台市史10 年表」P328
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水害 |
台風豪雨 |
1986年(S61)8月5日 |
台風10号による豪雨災害発生 / 仙台市の降雨402ミリ、仙台市東部で5474棟浸水、仙台市・塩釜市など5市町に災害救助法適用
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195/「続・ 宮城県郷土史年表」P209
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水道事業 |
創設~第2次拡張 |
1913年(T2)~1954年(S29) |
仙台市の水道事業
<創設 水源:大倉川表流水>
* 1913年(T2)4月着工~1923年(T12)3月完工、
・計画給水人口12万人、実際の給水人口約3万人
<第1次拡張事業 青下川貯水池3池>
* 1931年(S6)8月着工~1934年(S9)3月完工
・累積給水人口18万人
<仙台空襲で被災、戦後の水不足>
* 仙台空襲(昭和20年7月)で全給水戸数の44%が被災、戦後は海外からの引き揚げ者帰国と駐留軍(米軍)の需要で、一気に水不足
<第2次拡張事業 名取川伏流水を揚水>
* 1948年(S23)10月着工~1955年(S30)6月完工
・累積給水人口25万人
* 1953年(S28)、大年寺配水池使用開始
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P485~487
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「市民の戦後史(仙台市)」P90(大年寺山配水池)
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水道事業 |
深刻な水不足 |
1955年(S30)~1961年(S36) |
<水不足>
* 1955年(S30)、水不足深刻
* 1958年(S33)夏、夜間給水停止、7月から昼間も断水、
南小泉若柳に2本の動力揚水井戸
* 1959年(S34)3月、夏の渇水期にそなえ若林、富田地区に井戸掘削するも、全体的には焼け石に水
* 1959年(S34)5月、抜き打ち断水、給水車出動/7月に15カ所で断水、学校給食にバケツ利用、プール閉鎖/9月、給水1日8時間
<臨時応急拡張事業 さく井>
* 1956年(S31)8月着工~1960年(S35)3月完工
・市内安養寺下と小田原露無に深井戸、長町下河原に浅井戸
・累積給水人口30万人
<水不足>
* 1960年(S35)6月、市西部、南部などの高台地区に給水車 / 7月、水圧低下で2/3給水がやっと、病院も時間給水、消防車、自衛隊出動するも全市の1割以上が断水地帯
* 1961年(S36)春~夏にかけ水飢饉
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P488~493
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P145(S26年、日照りで込み合う西多賀地区の井戸)
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水道事業 |
第3次~第4次拡張 |
1958年(S33)~1976年(S51) |
<第3次拡張事業 大倉ダム放流後の表流水>
* 1958年(S33)4月大倉ダム着工~1965年(S40)3月完工
・累積給水人口40万人
* 1961年(S36)8月3日、大倉ダム通水式/水圧が上がり、パイプ破損が市内で続出で一時的に水不足
* 排水管、給水管などの老朽化で高い漏水率
* 1962年(S37)8月、追加給水可能となり水枯れ現象だけは解消
<国見浄水場>
* 1963年(S38)1月12日、国見浄水場完成、大倉ダム導水のフル操業可能(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P493)
* 1965年(S40)5月、国見浄水場落成(「市民の戦後史(仙台市)」P113/「仙台市史 年表」P124/仙台市HP)
<第4次拡張事業 釜房ダム貯留水>
* 1966年(S41)4月着工~1976年(S51)3月完工予定
・累積給水人口62万人
・1970年(S45)、釜房ダム完工予定
・1970年(S45)7月1日、給水開始(20万トン)
<仙台市水道配水管系統図(第5次拡張事業まで)> → 「仙台市史 続編第1巻」P497
<給水人口と給水量の伸び グラフ> → 同上P499
<普及率>
・ 1967年(S42)年度末、給水区域内人口の82.6%
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P487~500/「市民の戦後史(仙台市)」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P662
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「市民の戦後史(仙台市)」P170(国見浄水場空撮)
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江陽会館 |
竣工/増築 |
1957年(S32)/1964年(S39)/1973年(S48) |
* 1933年(S8)、後藤江陽(岩切の後藤豆腐店の末っ子)が仙台市内に写真館を開業(「番丁詳伝」P31)
* 1940年(S15)、後藤江陽は、戦時、中支に渡りカメラマンとして活躍
* 1940年(S15)、後藤江陽が、東一番丁森徳座跡に「江陽写場」を開業(「番丁詳伝」P218)
<戦後>
* 1957年(S32)4月、東一番丁(森徳横丁角)の江陽会館が総合結婚会館として竣工(6階建)
* 1964年(S33)9月、増築
* 1964年(S39)5月に増築
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* のちに、江陽パルサー飲食ビルとなる
* 2017年(H19)現在、株式会社江陽会館江陽写真室(貸し会議室・イベントホール・レンタルスペース)
<江陽グランドホテル開業>
* 1985年(S60)、宿泊施設を付帯する地元経営の都市型ホテルへと発展(広瀬通り / 青葉区本町二丁目3-1)
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江陽グランドホテルHPの「会社概要」/「番丁詳伝」P31、P218/「続・ 宮城県郷土史年表」P25
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99-014、201-45、201-47
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河北新報社 |
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1897年(M30)~ |
* 1897年(M30)1月17日、 一力健治郎が「東北日報」を買収し「河北新報」 創刊
* 1934年(S9)、東北美術展開催 / 以後毎年(戦時中の4年間を除き)「河北美術展」を開催
* 1942年(S17)7月、全国の新聞は中央各紙を含め一県一紙に整理統合、(宮城県では河北新報に統合)
・ 「内務省は言論統制を容易にするため全国の新聞社の整理統合に取り掛かりました。新聞用紙の配給を武器に、力の弱い新聞の廃刊や合併による統合を進めたのです。
その結果、東京、大阪、名古屋、福岡は複数の新聞を認めましたが、ほかの道府県は一県一紙となりました。
宮城県警察部特高課が知事に提出した報告「県内には日刊の新聞社が13社あり、整理統合を断行し昭和17年1月31日をもって一県一紙(河北新報)実現す。ほかにも108社の新聞社、出版社があり最終的に19社を目標にしている。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P110)
* 1944年(S19)3月、「河北新報」夕刊廃止
・ 「S20年春、地方紙は共同印刷となり、宮城県では、河北新報社が読売報知、毎日新聞、朝日新聞の題字を併記した新聞を制作した。用紙不足から2ページ、日によってはタブロイド版2ページの時もあった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P200)
* 1945年(S20)8月1日、河北新報社に診療所を設く(はじめ内科、次いで外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科)
* 1946年(S21)9月28日、社内に夕刊東北新聞社設立し、10月1日から日刊新聞「夕刊とうほく」発行
* 1950年(S25)10月、「夕刊とうほく」と「河北新報」併合
* 1951年(S26)9月1日、河北夕刊を発行
* 1951年(S26)11月3日、河北文化賞創設
* 1960年(S35)月日、「さくら号」(ジープ)地球一周(南北アメリカ)に出発
* 1988年(S63)9月14日、河北新報社、新社屋完成
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「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P501、P505、P513、P545、P551、P552、P595/「続・ 宮城県郷土史年表」P251/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P257/「番丁詳伝」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P110、P200
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「目で見る仙台の歴史」P132に、「河北新報創刊号と初代社長一力健治郎」/「目で見る仙台の歴史」P161に「河北美術展」/同P187に「河北文化賞」受賞者記念写真(小倉強、海鋒義美氏ら)/同P193(河北新報社と東北放送)/「市民の戦後史(仙台市)」P127(仙台に帰還したさくら号スタッフ、山中をゆく「さくら号」)/25-10、25-09、25-08/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P39(S33年 空撮)
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河北遊園地 |
開園 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)7月2日、開園(仙台市史10年表」P323)
(「重訂 宮城県郷土史年表」P542では、「昭和25年4月、河北新報社計画のもとに子どものため天神社境内西隣に榴ケ岡遊園地を特設し、河北遊園地と称す」)
* 1950年(S25)4月、河北新報社では、榴ケ岡公園などに「東北子供博覧会」を開いた。博覧会終了後、同社は榴ケ岡の天神社境内に博覧会の施設を活用して「河北遊園地」を開園した。」(「仙台市史 続編第2巻」P199)
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「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541、P542/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P199
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16-50
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泉ヶ岳勤労者野外活動センター |
開館 |
1980年(S55) |
* 1980年(S55)9月、泉ヶ岳勤労者野外活動センターが開館
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「仙台市史 年表」P132
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泉岳少年自然の家 |
開設 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)6月15日、泉ヶ岳に仙台市泉岳少年自然の家を開設
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P20
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
明治期 |
<明治期>
・ 1873年(M6)開店、活雲牛肉店(いきぐも 東一番丁・立町通) / 1階は牛・豚肉を販売、2階3階(座敷)は牛鍋5銭、焼き鍋7銭
・ 1877年(M10)開店、大洋亭(玉沢横丁) / 仙台初の西洋料理店 / 上等料理75銭、中等50銭、並30銭 / 牛鳥料理8銭5厘、コーヒー2銭5厘、ミルク入りコーヒー3銭5厘、パン2銭5厘、バター付きパン4銭~5銭 / 高くて繁盛せず
・ 明治初期、精養軒(のちの仙台に進出した東京の精養軒とは別の店) / 牛肉と洋食 / 上等50銭、下等30銭
・ 1884年(M17)開店、都川亭(みやこがわてい / 前身の「都川」は、1972年(M5)にそば屋として開業、翌年に懐石料理や軍鶏(しゃも)料理
・ 1887年(M20)開店、挹翠館(ゆうすいかん、桜ケ岡公園内) / 和洋料理 → 項目「挹翠館」参照
・ 1890年(M23)の「仙台案内」掲載店
北川亭(東四番丁)、陸奥園(南町通り)
・ 1894年(M27)、陸奥ホテル(仙台駅前 / 日本鉄道経営)
1階がビリヤードとロビー、2階に食堂、3階に客室
洋食もあったが、ハイカラすぎてはやらなかった
洋風木造3階建、東北初の洋風ホテル
→ 項目「仙台陸奥館」参照
・ 1896年(M29)、仙台駅前の大泉支店が、駅前に仙台ホテルを開業、1903年(M36)から洋食提供 → 項目「仙台ホテル」参照
・ 1906年(M39)開店、天満屋(東一番丁、鶏料理と西洋料理)
・ 1910年(M43)、弥生軒(東一番丁)、入間牛肉店(新国町 牛・豚のすき焼き、西洋料理)開店
・ 1901年(M34)か1902年(M35)、ブラザー軒が新国町で創業 / 1910年(M43)11月3日、ブラザー軒(東一番丁に移転開業) / 一品料理10銭均一 / 仙台の師団関係者も利用 → 項目「ブラザー軒」参照
・ 1912年(M45)、カフェクレーン(東一番丁のツルヤ洋菓子店2階) → 項目「ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P82~85/「番丁詳伝」P28/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
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洋食屋(仙台) |
開店時期 |
大正~昭和初期 |
<大正期>
・ 1913年(T2)の「仙台案内」掲載店
内藤洋食店(大町3丁目)
・ 1920年(T9)の「仙台商工案内」掲載店
仙台カフェ・パウリスタ(東一番丁)
・ 1923年(T12)、精養軒(東京上野精養軒の仙台支店)が東一番丁弥生軒跡で開業 → 項目「精養軒」参照
・ 1925年(T14)、カルトン食堂開業(大町5丁目)
→ 項目「カルトン食堂」参照
<昭和初期>
・ 1937年(S12)の「仙台商工名鑑」掲載
ミウラ(勾当台通り)、金富士(国分町)、ブラザー軒(東一番丁)、小原(元寺小路)、カフェライト(裏五番丁) → 項目「ブラザー軒」、項目「金富士」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P85
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洞雲寺 |
焼失 |
1943年(S18) |
仙台市泉区山の寺(旧・七北田村)にある曹洞宗の寺院で、山形の立石寺、近江の石山寺とともに日本三大山寺の一つと言われた。仙台近郊の名所のひとつだった。
* 1935年(S10)、汽車の飛び火で洞雲寺山寺が3度目の炎上(「仙台年表」P206=出典は「河北新聞」)
* 1942年(S17)11月6日、戦時中の金属回収で仙台の寺社の鐘が供出されるが、洞雲寺の鐘は国宝級としてまぬかれた県内3か所の鐘の1つ(応召より除かれた県内の三古鐘は、正楽寺、洞雲寺、箟峯寺)(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
* 1943年(S18)4月20日(28日?)、野火に全焼す/門前付近の芝草より出火し延焼、山門・本堂・庫裡などを焼失/仙台鉄道山ノ寺駅付近で機関車の排煙から山火事が発生し、洞雲寺(山ノ寺)が類焼(建物全て焼失)、その後コンクリート造りで再建(「仙台年表」P212=出典は「七北田村誌」、「重訂 宮城県郷土史年表」P496、Wikipedia「洞雲寺(仙台)」、Wikipedia「仙台鉄道」)
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災でコンクリート柱破壊され建物解体
* 2017年(H29)5月9日、本堂及び山門の落慶式
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「仙台年表」P206、P212/「重訂 宮城県郷土史年表」P493、P496/Wikipedia「洞雲寺(仙台)」(2009.2現在)/Wikipedia「仙台鉄道」
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99-135、76-14
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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海岸公園 |
全面復旧オープン |
2018年(H30) |
七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる
* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開
<施設内容>
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場
<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」
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仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385
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消費者団体 |
みやぎ生協 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)1月12日、宮城県民生活協同組合とみやぎ学校生活協同組合合併し、宮城生活協同組合誕生
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「続・ 宮城県郷土史年表」P140
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消費者団体 |
日本消費者連盟 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)2月24日、県内9カ所の消費者団体が、日本消費者連盟宮城グループを結成
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「続・ 宮城県郷土史年表」P188
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台消防組 |
1881年(M14) |
* 1881年(M14)12月、仙台区の「町火消組」が「消防組」と改称
* 1894年(M27)5月22日、「仙台消防組」設置(宮城県消防規則に基づき)
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「仙台市史 年表」P84、P88
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験)
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市防護団 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)9月15日、仙台で「防空救護団」発団式
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、青年訓練所生、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)4月29日、「仙台市防護団」結成(17分団成立)
* 1937年(S12)、仙台市防護団、防護団の下に5~20戸をまとめた「家庭防火群」をおく
* 1943年(S18)1月19日、「仙台市役所特別防護団」設置
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P38/「仙台年表」P204/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台市史10 年表」P305
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台市警防団 |
1939年(S14) |
* 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)
* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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隣組の防空演習は、76-10、16-10、16-11
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消防組/防護団/警防団/消防団 |
仙台北消防団/仙台南消防団 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月1日、消防団令公布
* 1948年(S23)1月20日、「仙台北警防団」・「仙台南警防団」が解散し、「仙台北消防団」・「仙台南消防団」が発足
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「仙台市史10 年表」P316、P318/「重訂 宮城県郷土史年表」P524
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清掃事業(行政) |
開始 |
1918年(T7)~1965年(S40) |
* 1918年(T7)、仙台市が清掃事業を開始、一部地域は市直営、その他は請負業者による収集と、2本立て
* 1924年(T13)6月、市営焼却場建設
* 1925年(T14)9月、原町に新焼却場建設
* 1929年(S4)、請負制廃止しすべて市直営に、馬車付き人夫35人を直雇いに
* 1931年(S6)、請負制に復帰、市と二本立て / 戦後も二本立てが続く
* 1956年(S31)10月、請負業者による収集を廃止し、全て市直営収集とする
* 1957年(S32)9月、鶴ケ谷焼却場、稼働開始 / 従来の市営焼却場廃止
* 1962年(S37)6月、定時容器収集(ポリ容器に入れたごみを各家庭が持ち出し決まった時間に市の清掃部員が収集)、土樋など5町内会で試験実施
* 1963年度(S38)、定時容器収集を全地域に広げ、収集を週2回に増やす
このころごみ収集量は1日200トン、約60トンは鶴ケ谷焼却場で焼却、残りは埋め立て
* 1964年(S39)3月、新埋め立て地、六郷地内の子牛沼6000㎡を買収し埋め立て
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P690~691、P701~704
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「目で見る仙台の歴史」P183(鶴ケ谷の塵芥焼却場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(ゴミ収集作業作業/鶴ケ谷焼却場)
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清掃工場 |
清掃工場 |
1966年(S41)以降 |
* 1967年(S42)2月9日、今泉ゴミ焼却場起工式
* 1968年(S43)7月、今泉ゴミ焼却場完成(2基で、1日180トン処理) / 鶴ケ谷と合わせ1日250トンで、埋め立ては不燃物含め1日50トン以下に
* 1971年(S46)6月15日、松森清掃工場完成、焼却開始(宮城郡泉町松森に)
* 1986年(S61)1月18日、今泉清掃工場落成式
* 1986年(S61)4月10日、今泉清掃工場に、ごみ・PAL開館
* 1987年(S62)4月、今泉清掃工場の温水プール使用開始
2020年現在、仙台市には、今泉、葛岡、松森の3清掃工場がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P675/「続・ 宮城県郷土史年表」P201、P204、P223
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「市民の戦後史(仙台市)」P213(今泉清掃工場外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P196
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渇水 |
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1973年(S48) |
* 1973年(S48)8月、仙台管区気象台始まって以来の干ばつ
/8月21日、水不足で仙台市、塩釜市で給水制限/8月22日、阿武隈川水系の32工場に50%排水カット命令/8月27日、釜房ダム渇水で仙台市給水制限、県は干ばつ被害約36億円、水稲全滅は600haと発表/8月、大倉ダム渇水
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「続・ 宮城県郷土史年表」P22
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