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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
満年齢 |
使用開始 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月1日、「年齢のとなえ方に関する法律」施行(昭和24年5月24日法律第96号)、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定された。(Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」)
* 1950年(S25)1月1日より、年令を満で数えることになる(「重訂 宮城県郷土史年表」P540、「菅家年表」P44)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」
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満蒙開拓 |
宮城県関連(1) |
1932年(S7)~ |
<武装移民団>
* 1932年(S7)10月、宮城県初の武装満州移民団(開拓団)出発(「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183) / <編者注> 日付から、東北や長野県など数県の在郷軍人で構成する武装移民団「満州第一次武装開拓団弥栄村」と思われる
<満蒙開拓青少年義勇軍>
* 1938年(S13)1月、宮城県内で満蒙開拓青少年義勇軍募集が行われる
* 1938年(S13)~1942年(S17)の間に、当時の仙台市内から満蒙開拓青少年義勇軍として旧満州へ入植したのは103人(「仙台市史第2巻本編2」P604の表103)
* 1940年(S15)2月4日、宮城県は、大陸開拓のため県下農民海外移住を計画
* 1941年(S16)3月1日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が「満蒙開拓現地通信」放送開始
<宮城県人の移住地(例)>(「近代みやぎの歩み」より)
* S12、黒竜江省慶安の宮城村 /S12、趙家店、安拝 /S14、錦州省興城 /S15、六間房 /S16、頭導梁子
* 宮城県は満州開拓民団を昭和9年第1次から昭和18年第10次まで2000戸以上を満州へ入植させた(「仙台年表」P213)
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設(「仙台市史 年表」P111~112) → <商工業者がS17年に入植した仙台村開拓団>は、小項目「宮城県関連(4) 仙台村」に記述
・ 「仙台市史第2巻本編2」P604の103表に、宮城県からの満蒙開拓移民数(昭和13~19年、満蒙農業移民、満蒙開拓青少年義勇軍、仙台開拓団)
・ 「宮城県開拓団の記録」によれば、宮城県出身の開拓村関係者6743人のうち、帰国できたのは3267人(全体の48%)(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216)
* 1978年(S53)8月20日、松島町瑞巌寺境内に満蒙開拓団員の慰霊碑「拓魂」、除幕
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「私にとっての戦争 体験者は語る平和の中で」(朝日新聞仙台支局編)」P183/「仙台市史 年表」P109、P111/「仙台市史10 年表」P304/「仙台年表」P210、P212、P216/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P15/佐々久「近代みやぎの歩み」P106/「続・ 宮城県郷土史年表」P84/「仙台市史第2巻本編2」P604/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(3)南郷村の分村 |
1936年(S11)~1945年(S20) |
・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-1)仙台村 |
1942年(S17)~1945年(S20) |
<商工業者が入植した仙台村開拓団(仙台村)>
【仙台市市 年表」P111~112】
* 1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊出発、この後、浜江省五常県沙河子に「仙台村」を建設
【「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46】
1942年(S17)4月6日、満州大陸開拓仙台開拓団先遣隊26名、仙台駅を出発(「仙台年表P212]では、7日出発) / 第1陣11家族42人は一応、宮城村愛子の農学寮で訓練をうけ、7月10日、仙台市から贈られた「開拓旗」を先頭に出発 / 浜江省五常県沙河子(しゃほうず)地区に入植、仙台村を建設 / 仙台村に移民したのは、戦時中の価格統制下で生業を失った仙台の商工業者たちが中心 / S19年6月まで250戸、約1000人が入植したが、敗戦後帰国できたのは209人に過ぎなかった
【「仙台市史 特別編4 市民生活」P317】
* 仙台開拓団は、1942年(S17)3月結成 / 宮城郡広瀬村愛子の農学寮に入所して訓練を受け、先遣隊25名が4月6日に仙台を出発 / 翌年(S18)6月までに第5次本隊まで103戸が海を渡り、現地採用の4戸を加えて107戸415人が入植し仙台村を形成している / 同年9月には開拓団内で9組が結婚、13人が出生したとあるが、戸数110戸、412人とされている / 入植先は、ハルビンから南南東に鉄道拉浜線で3時間、さらに森林鉄道で4時間を要する浜江省五常県で沙河子(しゃほうず)という場所で、平坦で耕作に利用できる土地が1万haはあるというが、その中には現地の中国・朝鮮の農民から買収済という既耕地や家屋も含まれていたようである。このような土地には当局が強制的に買い上げた例が多いといわれている / 開拓団は仙台市内の中小商工業者の転業・廃業者を中心とするものであった。戦争の影響による経済統制のため、営業が成り立たなくなって転業・廃業に追い込まれた人々も少なくはなく、悪性インフレも進行していた / 団員は市内の居住者が大多数で、全市にわたり、北目町、連坊小路、南鍛冶町、南染師町、小田原、元寺小路、北四番丁、東二番丁などの周辺が多くなっている / 職種も多岐にわたるが、農家は少数で、各種食品・衣料・雑貨類の小売商、食品その他の加工業、サービス業など零細な経営を想像させるものが多く、やむぬやまれぬ事情がうかがえる。ほかに職工・工員や郵便局員も含まれている / 戦局の悪化につれ、この人たちについての情報はなくなるが、ソ連参戦後の逃避行とその引き揚げの苦難については多くの悲惨な事実が伝えられており、(「仙台市史 続編第1巻」によれば)「仙台村」には最終的に約250戸、1000人が入植し、帰国できたのは209人にすぎなかったといわれる
<戦後>
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着(「仙台年表」P216=出典は「河北新報」S21.10.28)
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「仙台市史 年表」P111~112/「仙台市史 続編第1巻」(行政建設編)P46/「仙台市史 特別編4 市民生活」P317/「仙台年表」P216
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした
<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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満蒙開拓 |
宮城県関連(6)満蒙開拓青少年義勇軍 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
・ 満蒙開拓青少年義勇軍は、満州現地では「満蒙開拓青少年義勇隊」と称す
・ 1938年(S13)、満15歳~18歳の希望者が、各地の連隊区司令部で口頭試問や身体検査を受け、茨木県にある内原訓練場で2か月、満州で3年間訓練された後、本格的な活動に入る
・ 開拓団の組織内には警備隊もあって軍事的性格があった
・ 国内の訓練所は、その後、全国に拡大、山形県大高根道場、岩手県六原道場などでも入植訓練
・ 1942年(S17)時点で、宮城県から1548人が渡満していた
・ ソ連国境近くの満蒙開拓青少年義勇隊の東寧訓練所の大一中隊(宮城県出身者)の回想録「嗚々東吟達湾」では、隊員は開拓民の仕事のほかに、関東軍と連動した軍事行動(軍需物資、食料品の運搬、無線傍受して広報用文書作成など)も行った / 1944年(S19)秋になると、隊員が続々軍に召集され入隊、敗戦後ソ連軍により、シベリア抑留生活を送った人が多かった / 1969年(S44)8月、松島・瑞巌寺で物故者50人の慰霊祭
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/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168~169
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澱橋(広瀬川) |
鉄橋架橋/新たな橋架設 |
1892年(M25)/1951年(S26)? |
* 1889年(M22)9月10日・11日、大雨で広瀬川が氾濫し澱橋・大橋・広瀬橋が流失
* 1892年(M25)10月11日、大橋とともに鉄橋に架け替えられる
* 1951年(S26)11月、新たな橋に架け替え / 橋長137m、橋幅12m
* 1961年(S36)11月28日、新たな澱橋が完成、渡り初め式
(「重訂 宮城県郷土史年表」P602 / S26年架け替えの橋と混同か?)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P412~413/「仙台市史 年表」P87、P88/「重訂 宮城県郷土史年表」P602
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「目で見る仙台の歴史」P130に、「澱橋」(撮影年代不詳)
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火災(地域) |
宮町方面 |
1869年(M2) |
* 1869年(M2)1月28日、北二番丁から出火し、宮町方面一帯に延焼、130戸が焼失
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「仙台市史 年表」P78
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火災(地域) |
長町 |
1871年(M4) |
* 1871年(M4)1月17日、名取郡長町で火災、69戸が焼失
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「仙台市史 年表」P79
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火災(地域) |
北山 |
1876年(M9) |
* 1876年(M9)3月5日、北山で火災、一帯が焼失し、輪王寺、資福寺、覚範寺、東昌寺、寂光寺なども類焼
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「仙台市史 年表」P81
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火災(地域) |
河原町、南小泉村 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)3月27日、河原町より出火し、宮城郡南小泉村に延焼し、220戸焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
長町 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)4月11日、名取郡長町村で火災、68戸が焼失
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「仙台市史 年表」P82
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火災(地域) |
北五十人町など |
1891年(M24) |
* 1891年(M24)5月19日、北五十人町・角五郎丁で、25戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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火災(地域) |
新伝馬町北側 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)1月21日、新伝馬町北側で、33戸が焼失
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「仙台市史 年表」P87
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火災(地域) |
福田町 |
1902年(M35) |
* 1902年(M35)4月6日、宮城郡高砂村福田町、72戸焼失
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「仙台市史 年表」P92
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火災(地域) |
仙台駅前 |
1907年(M40) |
* 1907年(M40)4月15日、仙台駅前で24戸焼失
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「仙台市史 年表」P94
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火災(地域) |
小田原遊郭 |
1910年(M43) |
* 1910年(M43)1月24日、小田原遊郭全体の四分の一にあたる30戸が焼失
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「仙台市史 年表」P95
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火災(地域) |
南町大火 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)3月2日未明、南町「電話横丁」北側から出火、折からの強風で南町から東二番丁まで燃えひろがり、12ケ町を焼き払って午前7時半鎮火、明治以降最大の出火災害となった / 仙台郵便局・電話交換局・東北学院中学部校舎・芭蕉館・横浜火災を含む700余戸余が焼失(「仙台市史 続編第1巻」P363では、焼失698戸 / 「仙台あのころこのころ八十八年」P243では707戸焼失) / この大火で南町は拡幅され大通りとなった
* 1927年(S2)、火災地の道路改修、8年がかりの区画整理工事完了
(良覚院丁、南町、南町通、柳町、柳町通、北目町、北目町通、東一番丁の各町内の、全部または一部) / 東一番丁は大町角の藤崎以南が拡幅され、通称「大通り」となった
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「目で見る仙台の歴史」P156/「仙台市史 年表」P98 / 「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P107/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P363~364/「番丁詳伝」P166
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「絵葉書で綴る大正・昭和前期の仙台」P106~107の写真/「目で見る仙台の歴史」P156に「南町大火の焼け跡」
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火災(地域) |
東一番丁大火 |
1933年(S8) |
<仙集館と東一番丁大火>
* 1933年(S8)3月20日早暁、東一番丁の活動写真館仙集館付近より出火し、52戸を焼く
* 仙集館→白崎写真館へ延焼→飛び火して、新国町界隈→国分町へ(51戸焼失、罹災戸数35)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P232/「番丁詳伝」P131
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火災(地域) |
長町八本松 |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)5月23日、長町八本松で30戸全焼
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「仙台市史10 年表」P298
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火災(地域) |
中央マーケット |
1948年(S23)/1961年(S36) |
* 1948年(S23)2月10日、東一番丁中央市場で火災、95戸焼失
* 1948年(S23)5月27日、東一番丁仙台中央市場、72戸焼失
* 1961年(S36)12月25日、東一番丁中央市場で、3棟焼失
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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火災(地域) |
国分町虎屋横丁 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)10月2日、国分町虎屋横丁13戸焼失
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「仙台市史10 年表」P319
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火災(地域) |
仙台駅前(駅前マーケット) |
1949年(S24)/1953年(S28) |
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前の裏五番丁に火災あり、46戸全焼
* 1949年(S24)3月16日、仙台駅前マーケット、46戸焼失
* 1953年(S28)1月7日、仙台駅前百貨商店街火事、8棟46戸全半焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818/「仙台市史 年表」P116/「重訂 宮城県郷土史年表」P534/「仙台年表」P226
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火災(地域) |
東一マーケット |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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火災(地域) |
二日町大火 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)4月22日、二日町から出火、二日町、国分町、表小路、跡付丁を含む89世帯、被災者403人、飛び火で宮城県宮黒地方事務所も焼失(「仙台市史 続編第1巻」P820~821)
* 1951年(S26)4月22日、仙台市二日町より出火、大火となり付近一帯の94戸全焼、4戸半焼」(「仙台市史10 年表」P325)
* 1951年(S26)4月22日、二日町より出火し、80戸、12棟を焼失す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P549)
/「仙台年表」では、93戸全焼,3戸半焼、405名被災
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820~821/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P549/「仙台年表」P221
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40-01、40-02/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P820の写真197(焼けた宮黒地方事務所)/「市民の戦後史(仙台市)」P64(市役所付近の焼け跡)
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火災(地域) |
南町通りの仙台銀座マーケット |
1952年(S27) |
・ 戦前に東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった仙台逓信局が、仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、戦後その焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟の商店街、建坪3000坪)ができた / 防火壁がなく、火災保険では「禁止物件」に指定されていた
<火災で焼失>
* 1952年(S27)1月22日午後0時20分頃出火、通称「仙台銀座」の通称1~8丁目まで145戸のうち、東二番丁通りに面した棟と南側の棟を残してほどんど全焼し、さらに隣接の店舗、倉庫などに延焼し、計19棟106戸焼失して午後2時半頃鎮火、木造モルタル建物大小6棟がつなぎ合わされたマーケット形態の建物なので、延焼が非常に速かった(「宮城県百科事典」P575) / 「仙台年表」では、7棟110戸全焼、被災者450名(東二番丁仙台銀座内美術館から出火) / 「仙台市史10 年表」では、東二番丁仙台銀座大火240戸焼失 / 「重訂 宮城県郷土史年表」では、南町通銀座に大火、百貨店など140戸焼失 / 原因は電気ゴタツ / 「仙台市史第2巻本編2」P717~718に、詳細な経過、隣接する12棟類焼(宮城燃料や加藤商店の木炭倉庫、大睦建設木工場、長尾病院など)、被災者の避難所、食品衣類寝具などの救援内容を記載
* 1955年(S30)2月20日、東二番丁側に残っていた14棟68世帯(約4000㎡)も焼失(東二番丁の拡幅工事予定地だったのでこれを機に拡幅工事を強行)(「仙台市史 続編第1巻」P349、P782)
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「宮城県百科事典」P575/「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349、P782、P808/「仙台市史 年表」P117/「仙台年表」P223/「仙台市史10 年表」P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P554/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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「宮城県百科事典」P575(S27年の火災)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P782に、昭和30年の仙台銀座の火災写真/「市民の戦後史(仙台市)」P88(S30年2月の仙台銀座火災)
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火災(地域) |
川内追廻 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)3月13日、川内追廻住宅地(おいまわし)に火災、49戸焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P595
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火災(地域) |
東部飲食店街 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)7月10日、アパートなど10棟2500㎡焼失、37世帯94人被災
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「重訂 宮城県郷土史年表」P659
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火災(地域) |
ジャンジャン横丁 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)11月8日、中央1丁目のジャンジャン横丁で火災、7店焼失
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「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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灯火管制 |
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1935年(S10)~1945年(S20)8月 |
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
* 1937年(S12)9月15日、宮城県灯火管制規程公布
* 1945年(S20)8月20日、灯火管制、3年8か月ぶりに解除、町に灯、2日後には映画演劇娯楽放送も自由になる(「重訂 宮城県郷土史年表」P505、「仙台年表」P214、「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
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「仙台市史 年表」P107/「仙台市史10 年表」P291/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台年表」P214(出典:毎日新聞)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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無線中継所 |
完成 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月26日、仙台市国見峠に完成、東京・仙台間のマイクロウェーブ全通し、テレビ中継も可能になる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P579
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爆弾三勇士 |
歌発表音楽会開催 |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)4月14日、「爆弾三勇士の歌」発表音楽会、仙台市公会堂で開催 / NHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1934年(S9)2月22日、爆弾三勇士銅像除幕式(東京芝区の青松寺)
【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月22日) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」
【「昭和生活文化年代記・戦前編」P256】
・ 映画5社が「肉弾三勇士」を一斉に封切ったほか、ラジオ、出版、芝居などにもブーム
・ S7年、キリンビールの広告に「爆弾三勇士」
・ S10年、レートクレームの広告「肉弾三勇士」をもじった化粧品広告
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「仙台放送局60年のあゆみ」P5
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53-68(仙台七夕の仕掛け物「爆弾三勇士」)
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片倉製糸 |
仙台製糸場(開設~閉鎖) |
1905年(M38)~1956年(S31) |
* 1905年(M38)、片倉組仙台製糸場、東六番丁で操業開始 / 300釜、片倉組は長野県の製糸業者、職工は農家の未婚女子が多かった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P347)
* 1905年(M38)6月24日、片倉組仙台製糸場開業(「仙台市史10 年表」P228)
* 1905年(M38)6月24日、片倉製糸紡績株式会社仙台製糸場を東八番丁に開設(敷地6000坪、建坪1473坪、300人)(「重訂 宮城県郷土史年表」P333) / <編者注>この時代、正しくは「片倉組」
* 1920年(T9)3月23日、片倉組仙台製糸所が、片倉製糸紡績仙台製糸所と改称(「仙台市史 年表」P99)
* 1923年(T12)12月、片倉組仙台製糸所の女子職工1100余名が、賃上げ要求(「仙台市史 特別編4 市民生活」P365)
* 1956年(S31)1月31日、片倉製糸紡績、仙台製糸所を閉鎖(「仙台市史 年表」P119)(「重訂 宮城県郷土史年表」P581では、片倉工業仙台製糸工場)
* 1957年(S32)2月13日、第二精工舎、旧片倉製糸工場構内に工場を建設し営業開始(東北大学金属材料研究所増本量博士発明のゼンマイを実用化するため)(「重訂 宮城県郷土史年表」P584)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P347、P365/「仙台市史10 年表」P228、「重訂 宮城県郷土史年表」P333、P581、P584/「仙台市史 年表」P99、P119
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P355(M41年ころ、仙台製糸場)/「目で見る仙台の歴史」P143に、「片倉製糸場」(俯瞰)
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牛越橋(広瀬川) |
流失/再建 |
1883年(M16)/1913年(T2)/1954年(S29) |
* 1883年(M16)5月7日、広瀬川が氾濫し、牛越橋(吊り橋)が流失
* 1905年(M38)11月20日、架橋
* 1913年(T2)8月26日、広瀬川が氾濫し、牛越橋などが流失
* 1947年(S22)、水害後に木造桁橋に架け替え
* 1948年(S23)と1950年(S25)の洪水で被害
* 1954年(S29)5月、ゲルバー型鋼板桁橋完成(橋長134.7m、橋幅9m、歩道両側1.5mずつ、車道6m)
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「仙台市史 年表」P85、P93、P96/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P413
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物価上昇 |
戦後インフレ |
昭和20年代 |
* 1946年(S21)3月、国鉄運賃25割値上げ、仙台~東京間250円に(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P702)
* 1946年(S21)秋、物価はウナギのぼり、ヤミ値はつりあがる(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701)
* 1947年(S22)、この年、酒、タバコ、郵便が一斉に値上げ / 消費者物価が終戦時の4倍となる
* 1948年(S23)末、同年3月比の物価
・ 5割以上値上がりした品目(鯨油、黒砂糖、白砂糖、清酒、茶、ポプリン、キャラコ、革靴、練炭、化粧石鹸、ポマード、クリーム、アルコール、紙類、材木、自転車など)
・ 下落した品目(白菜、ホウレンソウ、大根、イカ、蒲鉾、スルメ、りんご、人絹、絹布、靴下、マッチ、サッカリン、ペニシリン、セメント、畳、鉄くぎ など)
* 1949年(S24)3月、物価調査で公定価格割れが続々と出てくる
* 1950年(S25)7月、仙台市、ガス料金を23.8%値上げ
* 1954年(S29)春、前年秋からのデフレ政策が仙台にも波及、市内商店の売り上げは2~3割減、一方デパート売上は堅実に伸びる
* 1954年(S29)秋から翌年6月ごろまで仙台の物価は横ばい
* 1955年(S30)6月の仙台の物価指数、S26年を100として、120 / 市内の標準家庭(5人)の家計支出は月平均2万5000円で食費は半分以下となった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P701~702、P710/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41、P43/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P107
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物価上昇 |
高度成長期 |
1961年(S36)~1973年(S48) |
* 1961年(S36)8月、市内物価指数が前年同月比7.9%上昇
* 1963年(S38)9月、市内のし尿汲み取り料70%値上げ
* 1963年(S38)、物価大幅上昇 / 背景に建築ブーム、生産者米価大幅引き上げ、労賃高騰、公務員のベースアップ
* 1966年(S41)2月27日、春闘共闘委員会、「物価値上げ反対・生活危機突破国民大会」開催(物価メーデー)
* 1966年(S41)3月5日、国鉄運賃値上げ、旅客31%
* 1969年(S44)5月9日、国鉄運賃15%値上げ
* 1970年(S45)3月11日、仙台市営バス、平均31%値上げ
* 1972年(S47)2月24日、宮城県生活協同組合を中心に物価値上げ反対仙台市民会議結成
* 1972年(S47)4月1日、国鉄運賃改正
* 1972年(S47)秋、物価上昇率(仙台)、前年度同月比で15%超(「仙台市史 特別編4 市民生活」P544)
* 1972年(S47)12月1日、仙台市電の均一料金を40円に(10円値上げ)(「続・ 宮城県郷土史年表」P15)
* 1973年(S48)4月2日、<全国の地価>建設省、1973年1月1日現在の地価発表(前年比30.9%の暴騰)
<第1次オイルショックで、物価上昇、物不足、不況>
* 1973年(S48)10月25日、オイルショック発生
* 1973年(S48)11月5日、物価大幅上昇(チリ紙150%、砂糖51%、牛肉42%上昇)
* 1973年(S48)11月、12月、灯油大幅に値上がりなど、物価急上昇
* 1973年(S48)11月23日、ガソリンスタンド、日曜・休日、休業
* 1973年(S48)秋、ガソリン、紙、洗剤など品不足
* 1973年(S48)12月、紙不足で、新聞・雑誌のページが減る
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P714、P718、P720/岩波ブックレット「年表 昭和史」P46、P54/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P649、P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P7、P8、P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P67/「仙台市史 特別編4 市民生活」P544
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「新・目で見る仙台の歴史」P198(S41年物価メーデーで風船を手に婦人たちがデモ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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物価上昇 |
反対運動/行政の対策 |
1973年(S48)~1974年(S49) |
* 1973年(S48)7月、「生活関連物資等の買占め及び売惜しみに対する緊急外に関する法律」制定
* 1973年(S48)11月7日、宮城県生活協同組合連合会、仙台通産局に、灯油確保、便乗値上げ防止を陳情
* 1973年(S48)11月11日、物価メーデー(宮城県春闘共闘委員会主催)「インフレ防止、物価値上げ反対、生活防衛」を掲げて、デモ行進と集会(県労評主婦の会など市民団体、労働団組合など24団体、6000人参加)
* 1973年(S48)11月14日、衆議院物価問題等に関する特別委員会地方懇談会(於:宮城県庁) / 宮城県各種婦人団体連絡協議会など発言
・ 仙台市消費者団体連絡会(市内8団体)が行政当局と話し合い / 消費者団体が街頭で呼びかけ
* 1973年(S48)11月、宮城県、生活物資等需給安定緊急対策要綱策定
* 1973年(S48)12月、国民生活安定緊急措置法制定、物価統制令改正
* 1974年(S49)5月、仙台市物価監視委員制度主婦モニター制度、制定
* 1974年(S49)12月、仙台市消費生活をまもる条例、制定
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P544~545
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P545(S40年代、物価メーデー集会)
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物価上昇 |
狂乱物価 |
1974年(S49) |
<岩波ブックレット「年表 昭和史」P55>
1974年(S49)は、
・ 狂乱物価(卸売物価指数31.3%、消費者物価指数34.5%上昇)
・ 戦後初のマイナス成長(実質成長率、マイナス0.5%)
・ スタグフレーション問題化
* 1974年(S49)1月16日、電力の使用制限始まる(16年ぶり)、ネオン、広告塔、テレビ放送時間短縮(深夜放送禁止)(「菅家年表」P68)
* 1974年(S49)1月25日、物価が前年同月比20.6%上昇
* 1974年(S49)3月13日、仙台、タクシー初乗り210円に
* 1974年(S49)3月31日、インフレ反対国民集会、全国270カ所で130万人参加
* 1974年(S49)4月11日、春闘で空前の交通スト(600万人参加、国鉄初の全面運休)
* 1974年(S49)4月30日、仙台市の物価上昇率は全国第2位(1位は札幌)
* 1974年(S49)5月1日、<全国の地価>建設省、1月1日現在の土地公示価格(前年比32.4%上昇、宅地は2年で倍)
* 1974年(S49)7月10日、仙台市営バス、均一区間50円に
* 1974年(S49)8月、「千円亭主」多数、500円昼飯、ほか
* 1974年(S49)8月17日、政府、石油緊急事態を解除
* 1974年(S49)10月11日、仙台市内、ハイヤータクシー料金がアップ
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P55/「続・ 宮城県郷土史年表」P27、P28、P30、P33/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P68
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物価上昇 |
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1975年(S50)
~1979年(S54) |
* 1975年(S50)2月、不況が深刻化、完全失業者100万人を突破
* 1975年(S50)3月7日、前年のGNP初のマイナスとなる、1.8%減
* 1975年(S50)7月、仙台市のタクシー料金は初乗り270円に、迎え料金100円実施
* 1975年(S50)9月1日、仙台市営バス、均一区間料金、50円から70円に値上げ
* 1975年(S50)10月、仙台市で汲取り料金1人120円に改定
* 1975年(S50)12月5日、11月は戦後最高の企業倒産となる、1315件
* 1975年(S50)12月13日、宮城交通バスは、最低料金50円に改訂
* 1976年(S51)、この年、国鉄、電話、郵便、電気、ガスなど公共料金一斉値上げ
* 1976年(S51)2月1日、牛乳は52円(前は47円)
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、宮城交通バス運賃値上げ(塩釜~利府が220円)
* 1978年(S53)9月8日、仙台市バス、市内均一料金を10円値上げし90円に
* 1979年(S54)1月17日、第2次オイルショック
* 1979年(S54)3月10日、国鉄運賃、近距離大幅アップ、(仙台~石巻間590円申請)
* 1979年(S54)4月1日、ふろ代、大人150円・小学生80円に値上げ
* 1979年(S54)5月27日、ガソリンスタンド、日曜祝日全面休業
* 1979年(S54)12月12日、仙台市のタクシー代値上げ
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「続・ 宮城県郷土史年表」P43、P44、P46、P48、P50、P73、P74、P85、P93、P94、P104/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P69、P70、P73
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物価上昇 |
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1980年(S55)~1989年(H1) |
* 1980年(S55)1月9日、冬野菜が高値、白菜、キャベツが10倍、大根5倍
* 1980年(S55)、この年、電気・ガス料金大幅値上げ
* 1981年(S56)3月、宅地高騰、仙台市は9.8%アップ
* 1981年(S56)11月28日、仙台市営バス運賃は、1区間120円(10円値上げ)
* 1982年(S57)6月1日、東北自動車道料金、仙台~盛岡間2700円から3200円に値上げ
* 1983年(S58)12月2日、仙台市内タクシー、初乗り運賃、小型400円から440円にアップ改訂
* 1986年(S61)4月1日、仙台市のハイタク初乗りが460円に改訂
<ガス・電気は値下げ>
* 1986年(S61)7月1日、東北の24社が、ガス料金値下げ
* 1987年(S62)1月、東北電力、電気料金を引き下げ
* 1987年(S62)2月、仙台市ガス局など料金再値下げ
* 1988年(S63)1月6日、仙台市ガスは平均6.22%引き下げ
<消費税>
* 1989年(H1)4月1日、初の消費税導入(3%)
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P125、P136、P147、P169、P204、P207、P219、P220、P238、P242、P258、P259/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P74
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物価上昇 |
地価狂乱(バブル) |
1987年(S62)~1991年(H3) |
<東京>
* 1987年(S62)1月、東京で地上げが始まって地価上昇
* 1987年(S62)4月、東京の地価狂乱、53.9%上昇
* 1987年(S62)9月30日、東京の地価、1年で85.7%上昇
* 1988年(S63)9月14日、大都市の地価、狂乱高騰
<仙台>
* 1988年(S63)4月1日、国土庁発表地価公示で、仙台市は29%上昇
* 1989年(H1)1月27日、仙台国税局が最高路線価格発表、平均17.8%上昇
* 1989年(H1)1月27日、東北初の億マンション「サンライズ東照宮ロイヤル別館」入居開始
* 1991年(H3)7月1日、都道府県地価(基準地価)は、仙台で、住宅地6.7%、商業地8.5%上昇
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P82、P83、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P242、P258、P272
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特別調達庁 |
仙台支局設立 |
1947年(S22) |
<国立公文書館アジア歴史資料館「アジ歴グロッサリー」より> 特別調達庁は、1947年(S22)年9月、法律第78号「特別調達庁法」により公法人として設置。業務内容は、連合軍関係の設営工事の契約・連合軍需要品の調達・連合軍の需要する労務その他の役務調達・連合軍関係の設営に伴う設計調査の受託など。連合国軍の占領政策の縮小に伴い再編され、1952年(S27)に調達庁と改称、1958年(S33)には防衛庁の外局となり、1962年(S37)に防衛庁建設本部と合わせて防衛施設庁となった。
* 1947年(S22)12月10日(または、翌年1月)、特別調達庁仙台支局設立
* 1948年(S23)1月、特別調達庁仙台支局業務開始(県庁内に事務所)
* 1949年(S24)6月1日、仙台特別調達局と改称
* 1950年(S25)1月14日、仙台特別調達局全焼
* 1952年(S27)4月1日、仙台特別調達局、仙台調達局と改称(駐留軍施設及び区域提供、その損害補償の業務を開始)
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「仙台市史10 年表」P317、P319、P321、P322、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P524、P540、P555
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特急はつかり |
上野~青森間 |
1958年(S33)~1982年(S57) |
* 1958年(S33)10月10日、東北初の特急列車「はつかり」、上野~青森間を常磐線経由で運転開始(「仙台市史 年表」P120)
* 1960年(S35)12月10日、「はつかり」(常磐線経由)が気動車(ディーゼル)特急となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P598)
* 1968年(S43)10月、特急「はつかり」が全列車東北本線経由となる(Wikipedia「はつかり(列車)」)
* 1982年(S57)11月15日、特急「はつかり」、新幹線開業(6月23日)により運行区間を盛岡駅~青森駅間に短縮(Wikipedia「はつかり(列車)」)
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「仙台市史 年表」P120/「重訂 宮城県郷土史年表」P589、P596、P598/Wikipedia「はつかり(列車)
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「市民の戦後史(仙台市)」P104(S33年10月、はつかりの蒸気機関車)/「市民の戦後史(仙台市)」P220(走行する電車特急はつかり)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37)
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特急ひばり |
上野~仙台間 |
1962年(S37)~1982年(S57) |
* 1962年(S37)4月27日、特急「ひばり」、東北本線の上野~仙台間で運転開始(「仙台市史 年表」P122)
* 1982年(S57)11月22日、特急「ひばり」(上野~仙台)お別れ運転(この年6月23日、東北新幹線が大宮~盛岡間で開業)
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「仙台市史 年表」P122/「続・ 宮城県郷土史年表」P153
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P567に、特急「ひばり号」の写真/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P58(S37)
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瑞鳳殿 |
国宝指定 |
1931年(S6) |
仙台市経ケ峯にある藩祖伊達政宗公の霊廟 / 経が峯には二代目忠宗公霊廟「感仙殿」、三代目綱宗公霊廟「善応殿」もある / 感仙殿は瑞鳳殿と同等に華麗なものだったが、明治初年に本殿を除いて取り壊された
* 1928年(S3)、鐘楼堂落成(350貫の大梵鐘を釣る)
* 1931年(S6)12月14日に瑞鳳殿と感仙殿が、旧仙台城の大手門、隅櫓ともに国宝に指定される
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P414/「仙台年表」P202/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187
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99-084、99-085、99-086、99-087、44-21、53-56、53-57/「目で見る仙台の歴史」P46~49(瑞鳳殿、涅槃門、本殿正面、本殿厨子、梵鐘)/同P57~58(空襲焼失以前の感仙殿、厨子、門)/同P60(戦災焼失以前の善応殿霊屋)
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瑞鳳殿 |
空襲で焼失/仙台市に移管 |
1945年(S20)/1952年(S27) |
* 1945年(S20)7月10日仙台空襲で焼失
・ 焼失後は、政宗の墓として白木の墓標が1基たてられただけだった / 伊達家の財政窮乏でかなり荒れ果てていたが、1951年(S26)に伊達家が京ヶ峯一帯を仙台市に寄付
* 1952年(S27)3月、伊達家所有の瑞鳳殿霊廟一帯の地域の所有権を仙台市に移管
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公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P187/「重訂 宮城県郷土史年表」P554
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瑞鳳殿 |
戦後の再建 |
1974年(S49)~ |
* 1948年(S23)12月、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(重訂 宮城県郷土史年表)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除(瑞鳳殿、感仙殿)(仙台市史10年表)
* 1966年(S41)8月13日、再建のための基礎調査開始
* 1968年(S43)1月31日、経ヶ峰整備委員会が再建計画案を市に提出
* 1974年(S49)9月11日、再建起工式、再建にともなって墓室発掘調査(9月25日から政宗公の遺体発掘)が実施され、同年10月26日~28日に墓室が一般公開される
* 1975年(S50)5月24日、政宗公の遺体を、瑞鳳殿に再埋葬
* 1975年(S50)7月30日、再建上棟式
* 1977年(S52)7月16日、伊達政宗の殉職者の墓碑復元
* 1988年(S53)3月、再建第1期工事完成
* 1979年(S54)11月30日、竣工
* 1979年(S54)12月4日、瑞鳳殿再建落慶式
* 1980年(S55)、瑞鳳殿資料館開館
* 1981年(S56)10月12日、感仙殿と善応殿発掘調査
* 1983年(S58)8月5日、感仙殿、善応殿を再建、一般公開
* 1985年(S60)5月、感仙殿、善応殿の再建落成式(戦前のとは形が違っている)
* 1986年(S61)5月23日、伊達政宗の座像公開
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「重訂 宮城県郷土史年表」P531、P627、P638/「仙台あのころこのころ八十八年」P258/「仙台市史10 年表」P322/公益財団法人瑞鳳殿HP/「仙台市史 年表」P129、P131、P132、P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P32、P41、P43、P70、P104、P134、P164、P205
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