項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
自衛隊 |
宮城県内(自衛隊) |
1954年(S29)~ |
<陸上自衛隊>
* 1954年(S29)、保安隊から「陸上自衛隊」への改編にあわせ、第六管区(東北6県と新潟県を管轄)を新設(総監部は暫定的に福島) / S31年に、青森と岩手は管轄外に
* 1954年(S29)12月5日、陸上自衛隊多賀城駐屯地創設
* 1955年(S30)3月19日、第六管区総監部駐屯各部隊の主力が福島から多賀城駐屯地に移動(宮城県内は、多賀城に総監部、普通科連隊、武器・通信・補給部隊、船岡に補給整備支援群部隊、大和に特車と偵察部隊を配置)
* 1955年11月1日、米軍松島キャンプ跡に自衛隊第二操縦学校を開設
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
* 1958年(S33)3月25日、原町苦竹(旧苦竹米軍キャンプ)に陸上自衛隊南仙台駐屯地を設置
* 1958年(S33)6月、原町苦竹に北仙台駐屯地設置
* 1960年(S35)1月13日、仙台駐屯地に東北方面総監部が発足(全国を5つの方面管区制に移行、東北地方は東北方面隊が統括)
* 1960年(S35)、仙台南と仙台北駐屯地を統合し、「仙台駐屯地」に
* 1962年(S37)、第六管区隊を第六師団、第九混成隊を第九師団と改称)、第六管区隊の総監部は、山形県東根市の神町(じんまち)に移され、多賀城には第22普通科連隊が残る
****************************
・ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P452の表207に「東北方面隊の部隊配置表」(S35年頃?) → 宮城県内には、第6師団が多賀城(第22普通科連隊・第1教育大隊ほか)と大和(第6戦車大隊ほか)/ 霞の目に東北方面航空隊ほか、船岡に第2施設団ほか、岩沼に航空学校岩沼分校ほか
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P587、P595/「仙台市史 年表」P120、P121/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P848~855/「仙台市史 特別編4 市民生活」P330~333
|
「市民の戦後史(仙台市)」P123(自衛隊東北総監部設置関連映像)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P331(S32年、苦竹キャンプ跡地に自衛隊の看板をかける)
|
自衛隊 |
仙台市への協力工事、災害派遣 |
1958年(S33)~ |
<協力工事、災害派遣>
・ 1960年代、火災や断水時の出動が多かった
・ 仙台第三高等学校や葛巻墓園の造成・整備を受託
・ 仙台七夕への支援
・ 苦竹駐屯地東側広場を東北博覧会(S42年)の会場に提供
**********************************
・ 自衛隊の仙台市に対する協力工事一覧表(S33~42年度)→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854の表208(学校敷地造成、葛岡墓園造成、公園敷地整備など8件)
・ 自衛隊の仙台市に対する災害派遣一覧表(S33~41年)→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P855(火災、チリ地震津波、人命救助、給水など9件)
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P332~333/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854、P855
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P333の図332(県立盲学校に植物円園造成で自衛隊員が作業奉仕)
|
自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
|
「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
|
22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
|
興亜奉公日/大詔奉戴日 |
興亜奉公日 |
1939年(S14)9月~ |
* 1939年(S14)9月から毎月1日実施 / 酒不買、ネオン消灯、禁酒禁煙、一汁一菜、など / S16年末で廃止、大平洋戦争開戦後のS17年1月からは、毎月8日を「大詔奉戴日」とする
・ 仙台市では、朝5時にサイレンを鳴らして市民に早起きをさせ、全市民に皇居や伊勢神宮への遙拝、戦没者などへの黙祷、日の丸弁当の強制、護国神社の工事に関して働くことや市内の清掃などへの奉仕活動が義務付けられた
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23/「仙台市史 特別編4 市民生活」P313
|
|
興亜奉公日/大詔奉戴日 |
大詔奉戴日 |
1942年(S17)1月~ |
* 1942年(S17)1月2日、興亜奉公日を廃止し、以降毎月8日を「大詔奉戴日」とし、職場での詔書奉戴式、国旗掲揚、必勝祈願の日とする
|
岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28
|
|
芭蕉の辻 |
|
|
<芭蕉の辻、名称の初見>(矢島玄亮編著「仙台年表」P32より)
「1668年(寛文8)4月、岩城の俳諧執行者松山房仙台に再遊し芭蕉の辻を詠む。句に『聞よるやはせおをが辻をほととぎす』。これが芭蕉の辻の初見。」
【昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」より】
・ 藩政時代は、仙台城下町の中心(町の区画の中心)で札番所(ふだばんどころ)がおかれ、忠孝条目のほかキリシタン捨馬の制札が掲げてあったので、札の辻(ふだのつじ)と呼ばれた。辻の四隅には城郭風の櫓があった。
【写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻】
・ 「芭蕉の辻」は、藩政時代から商人町の中心として栄えた国分町(旧・奥州街道)と、青葉城大手門へ通じる大橋へむかう大町の通りが交わる交差点で、明治時代までは仙台で最も繁華だった場所。
・ 辻の四隅に建つ城櫓風(2階建て白壁)の建物(商家)が城下仙台のシンボル的な景観だったが、明治半ばに三隅(北東角、南西角、南東角)を焼失した。
・ その後は、残る北西角の城櫓風建物と、向いあう北東角の洋館(明治36年竣工のドイツルネッサンス式純洋風建築、七十七銀行本店)が、仙台の代表的な景観の1つとして絵葉書やアマチュア写真の対象となったが、いずれも1945年(S20)7月の仙台空襲で周辺一帯と共に灰燼に帰した。
<明治初期の地価>
(「重訂 宮城県郷土史年表」P244、明治6~7年の項より)
「この頃政府は土地の整理を開始し、地籍を設け、地価を定め地券を発行す。 当時仙台の中心地芭蕉の辻は一反に付き三百六十円即ち一坪壱円二十銭。 今の東一番丁は僅かに一反三十円即ち一坪十銭、田地の価格が一反歩金十円乃至二十円なりき」
|
矢島玄亮編著「仙台年表」P32/昭和40年8月、河北新報企画シリーズ「わが町昔がたり」/「写真データベースの【解説】A-03 芭蕉の辻」/「重訂 宮城県郷土史年表」P244
|
「写真データベースの分類A-03 「芭蕉の辻」の全写真(98-020、77-18-01、99-022、22-33、20-03など)/「目で見る仙台の歴史」P189(S30年前後の芭蕉の辻)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図5~7(S10年頃、S36年、H8年)
|
芭蕉の辻の交番 |
屯所設置/巡査派出所/建替 |
1884年(M17)/1889年(M18)/1926年(T15) |
* 1884年(M17)3月、芭蕉の辻など仙台区内8カ所に屯所を置く / 1889年(M18)年6月、屯所の名称を巡査派出所とする(「仙台市史 本編2」P650~651)
* 1926年(T15)3月20日、附近有志の寄付により芭蕉の辻巡査立番所を改築、同巡査派出所と改めた(「仙台市史 本編2」P652、「仙台市史10 年表」P267) / 陸屋根コンクリート造りに建替えられた(粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21)
|
「仙台市史 本編2」P650~652/「仙台市史10 年表」P267/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P21(河北新報T15年1月18日の記事)
|
16-01(右下の建物)
|
芭蕉の辻の城櫓風建物 |
4棟の焼失年 |
1890年(M23)~1945年(S20) |
藩政時代以来芭蕉の辻の四隅を占めていた城櫓風の建物(白壁の櫓屋敷)は、明治年間に3棟が焼失、昭和20年の仙台空襲で残りの1棟も失われた
<芭蕉の辻の建物の焼失>
「重訂 宮城県郷土史年表」より
* 1890年(M23)1月14日、南東角(近江屋馬渕善吉商店)焼失
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1902年(M35)2月3日、南西角(田中時計店)焼失
「仙台市史10 年表」より
* 1890年(M23)1月14日、芭蕉の辻、東南部焼失
* 1890年(M23)5月25日、芭蕉の辻、東北部16棟焼失
* 1902年(M35)2月3日、芭蕉の辻、南西部焼失
<北西角焼失>
* 1945年(S20)7月10日、北西角(安田生命)は仙台空襲で焼失
<参考> 「仙台あのころこのころ八十八年」P21~23の「芭蕉の辻は悲し」(三原良吉)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P285、P324/「仙台市史10 年表」P200、P201、/「仙台あのころこのころ八十八年」P238
|
98-022
|
芭蕉の辻の城櫓風建物 |
北西角の入居者、変遷 |
|
芭蕉辻北西角の建物は、
* 奥田金物店 →1911年(M44)に共済生命保険 →1929年(S4)に社名改称し、安田生命保険
* 1887年(M20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 1971年(S46)2月3日、芭蕉の辻北西角に安田生命保険相互会社が、仙台ビルを建設するにあたり、かつての「芭蕉の辻道標」と「棟の竜屋根瓦」を再現し除幕式
|
粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P15/「重訂 宮城県郷土史年表」P668
|
98-023、44-22、99-023、99-024、44-06、99-027、99-028、20-18、53-52
|
芭蕉の辻の城櫓風建物(4棟) |
4棟の向き |
|
<特徴> 城櫓風2階建て白壁の店舗(商家)で、屋根棟には二つの竜が這い、屋根の四隅には唐獅子が踊っている
<屋根の向き> 芭蕉の辻の北東角と南東角は東西方向に長く、北西角と南西角は南北方向に長い
|
|
98-022
|
芭蕉の辻の洋館 |
七十七銀行本店 |
1903年(M36)~1929年(S4) |
・1900年(M33)に焼失した「芭蕉の辻商館」(芭蕉の辻・東北角)の跡地に七十七銀行が建設
・ ドイツ・ルネッサンス式純洋風建築で地下室付き2階建て、2本の3階建て塔屋をもつ
<「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載、小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)>
「明治35年2月起工、36年8月1日竣工。松崎という技師がドイツへ留学し習って帰って建てた。ドイツ風のルネッサンス式を模した純洋風建築。大体は石造りで、一部煉瓦を用い、屋根にはスレートを葺いてある。八角形の尖塔と四角錘の塔が屋根に変化を与え、ベランダあり塔あり、形の変化に苦心しております。特徴は屋根裏に室を有することと地下室があることであります。」
* 1902年(M35)2月、起工
* 1903年(M36)8月1日、竣工
七十七銀行が(旧)大町1丁目から本店を移転
* 1929年(S4)7月10日まで使用
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P328/「仙台市史 年表」P92/「わしが国さ」第29号(昭和5年12月、仙台協賛会発行)P2掲載の小倉強著「仙台に於ける建築の変遷」(下)
|
99-021、99-022、99-024、99-025、53-49、43-27
|
芭蕉の辻の洋館 |
精養軒が使用 |
1929年(S4)~1941年(S16) |
* 1929年(S4)~1941年(S16)、精養軒(洋食レストラン)が使用
|
|
99-026、22-33、64-05、99-028/地図は98-110
|
芭蕉の辻の洋館 |
日本銀行が使用 |
1941年(S16)10月~ |
* 1941年(S16)10月10日~ 日本銀行仙台支店が使用
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(外観もかなり損傷)
* 1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に営業所再建
|
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302
|
16-01/S20年戦災で損傷→53-77、35-13
|
芭蕉の辻商館 |
建築~焼失 |
1891年(M24)~1900年(M33) |
<芭蕉の辻(北東角)>
* 1890年(M23)5月25日、北東角(若松屋)焼失
* 1891年(M24)9月19日、北東角に「芭蕉の辻商館」完成、落成式(木造2階建外部漆喰塗でドーム屋根の塔)
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に、宮城県物産陳列場開設
* 1900年(M33)4月10日、「芭蕉の辻商館」焼失
* 1903年(M36)8月1日、跡地に「七十七銀行本店」が竣工(洋館)、落成披露宴開催
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P285/「仙台市史 年表」P87、P88/「仙台市史10 年表」P202、P218、P225/「明治の洋風建築~宮城県~」P113/粟野邦夫「芭蕉ノ辻」P3/「目で見る仙台の歴史」P135
|
「明治の洋風建築~宮城県~」P113(芭蕉の辻商館)/「目で見る仙台の歴史」P135(芭蕉の辻商館と、同火災図)/「新・目で見る仙台の歴史」P133(火災図)
|
花火大会 |
|
|
* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
|
「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
|
「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
|
蔵王エコーライン |
開通 |
1962年(S37) |
* 1960年(S35)1月7日、着工
* 1962年(S37)7月14日、開通
* 1962年(S37)11月9日、全線開通(全長26キロ)
* 1967年(S42)8月4日、全線の舗装完成
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P605、P606、P633
|
「市民の戦後史(仙台市)」P143
|
藤崎(戦前期) |
創業/大町4丁目へ進出 |
1819年(文政2年)/1879年(M12) |
* 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした
* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店
|
「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40
|
|
藤崎(戦前期) |
東一番丁角に出店(土蔵造り店舗) |
1896年(M29)~明治末年 |
* 1896年(M29)4月、(旧)大町5丁目3番地の470坪(一力健次郎氏より購入)に新店舗建築を開始(場所は大町通り・東一番丁南東角)
* 1897年(M30)2月11日、(旧)大町5丁目に「土蔵造り瓦葺座売式店舗」を完成、卸部・小売部を移転し、紀元節をもって移転開業
(跡地に、1932年(S7)11月3日に西館(3階洋館建)オープン)
* 1910年(M43)2月、藤崎三郎助がドイツ製二人乗り幌型自動車を3千円で自家用として入手(宮城県内第1号)
* 1912年(M45)2月、株式会社設立、「株式会社藤崎呉服店」とする、資本金70万円
|
「藤崎170年のあゆみ」P253/「東一番丁物語」(柴田量平著)P214~217/「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P307/「仙台年表」P171、P187/「番丁詳伝」P41、P110、
|
「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に、「(旧)大町5丁目の藤崎呉服店」/「藤崎170年のあゆみ」P199に、「土蔵造り店舗の絵と写真」
|
藤崎(戦前期) |
洋風木造館(2階建て)建設~焼失 |
大正期~1945年(S20) |
場所は大町・東一番丁角の敷地のうち東側の部分で、(旧)大町5丁目通りの南側に面す
* 1919年(T8)11月3日、「洋風木造館」開店
・ 創業百年を記念し近代的な洋風二階建木造館(200坪)の陳列式店舗を建て百貨店化、藤崎マーケットと称する(座売式店舗を廃止した)、西隣(大町・東一番丁南東角)には土蔵造りの卸部があった
・ 店内にブロックを敷き詰め、歩道と同じように歩けるようにした陳列式店舗で、水洗便所、暖房装置、索道金銭運搬機(キャッシュキャリー)を設備 / 近代設備は当時の仙台名物のひとつ
・ 呉服、綿布、洋反物、洋品雑貨、洋服誂えで呉服と雑貨を主力とする
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「藤崎170年のあゆみ」P92、P254/「番丁詳伝」P43
|
98-014、98-015、98-016、20-37、99-042
/「藤崎170年のあゆみ」P199~200(洋風木造館外観イラストと写真、売場写真、内部配置図)
|
藤崎(戦前期) |
改称 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)5月1日、株式会社藤崎呉服店、株式会社藤崎と改称
|
「仙台市史 年表」P105/藤崎170年のあゆみ」P255
|
|
藤崎(戦前期) |
西館 開店 |
1932年(S7) |
S8年の三越進出(東一番丁)を視野に、先手をうって本館横に西館を建設
* 1932年(S7)4月5日、地鎮祭
* 1932年(S7)11月3日、「西館」開店
・ オープン後は西館が藤崎の主力店舗となった
・ 東一番丁・大町交差点(南東角)で、T8年建設の洋風木造本館の西に隣接、それ以前この場所には土蔵造り瓦葺平屋店舗(M30年建設)があった
・ 鉄筋コンクリート造地下1階地上3階、一部4階建、ルネッサンス式総タイル張り、一部4階建て、のべ614坪
・ 大食堂(3階)、催事場(2階)、屋上には遊園地、エレベーターを設置
新設されたエレベーターと、それを操縦するエレベーターボーイ(紺の詰襟服、金ボタンに赤線の入ったズボン姿)が人気を博した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P39)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物は焼け残る
* 1945年(S20)8月3日、空襲後の営業再開
|
「藤崎」の店舗の変遷(増改築)は「藤崎170年のあゆみ」P196~209の年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P39、P40/「仙台市史 年表」P113
|
20-37、20-38、18-22、98-016、64-03、53-33、53-46、22-27、98-019、20-23、53-100、20-26、20-31、72-02
|
藤崎(戦前期) |
北売場 開店~焼失 |
1935年(S10)~1945年(S20) |
* 1935年(S10)12月14日、「藤崎北売場」開店
・ 東一番丁・大町角(北西角)の梅川漆器店舗跡地に建設
・ 木造、地下1階地上3階建
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
|
「藤崎170年のあゆみ」P203
|
53-33、64-03/七夕飾りは20-32、20-48/「藤崎170年のあゆみ」P203に全景写真/「番丁詳伝」P43/地図は98-110
|
藤崎(戦後期) |
戦災復興館(木造平屋) 開店 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)、藤崎「戦後復興館」建設
・ T8年建設の旧本館(洋風木造2階建)が仙台空襲(S20年7月)で焼失
・ その跡地に建設(木造1階建)
|
藤崎170年のあゆみ」P196~197
|
|
藤崎(戦後期) |
戦災復興館(3階建てに) |
1949年(S24)/1952年(S27)鉄筋に |
* 1949年(S24)、「戦後復興館」(木造3階建)、T8年建設の旧本館跡に建設
* 1952年(S27)11月、戦後復興館(木造3階建)を解体し、鉄筋コンクリート(地上3階、地下1階)の売場が完成
|
「藤崎170年の歩み」P138に記述と広告(S27年11月の新聞広告に建物イラストあり →西館が4階建)
|
18-22
|
藤崎(戦後期) |
エクスポート・バザー 開設 |
1949年(S24)~1951年(S26) |
* 1949年(S24)8月10日~1951年(S26)12月、「西館」の地下1階に、外人専用売り場「エクスポートバザー」開設
・ 進駐軍(米軍)将兵と家族が対象
|
「藤崎170年の歩み」P256/同P205の写真(S27年8月)とP140の写真(S26年11月)にエクスポートバザーの表示あり
|
55-01、55-02、55-03、55-04
|
藤崎(戦後期) |
本館屋上建て増しと展望台設置 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月17日、大町五丁目の本館屋上に、鉄筋コンクリート造1階および展望台増築
|
藤崎170年のあゆみ」P196
|
18-34、20-01-01
|
藤崎(戦後期) |
藤崎シルバーマート 開店 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)12月、「シルバーマート」(藤崎名店街、のれん街)を新築オープン(木造2階建て、銀色の外観)
場所は、仙台空襲で焼失した北売場跡地(東一番丁・大町交差点の北西角)
|
「藤崎170年のあゆみ」P204
|
「藤崎170年のあゆみ」P204に写真あり
|
藤崎(戦後期) |
西館増築し一部5階建に |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)10月15日、「西館」を増改築し一部5階建てに(第二次増築工事完成) / 仙台で初めてのエスカレーターを新設
|
「藤崎170年のあゆみ」P256
|
|
藤崎(戦後期) |
屋上遊園地オープン(西館) |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
(観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)
<編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる
|
「藤崎170年のあゆみ」P196~197
|
59-01、18-09
|
藤崎(戦後期) |
南館 開店 |
1963年(S38) |
* 1963年(S38)10月、「南館」完成(青葉通りに面した7階建)
S38年秋には、仙台の3デパート(藤崎、三越、丸光)が同時に増築を完成させた
|
「藤崎170年のあゆみ」P146、P196~197
|
|
藤崎(戦後期) |
東館 開店 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)11月、「東館」を建設
|
「藤崎170年のあゆみ」P196~197
|
|
藤崎(戦後期) |
リビング館 開店 |
1982年(S57) |
* 1982年(S57)9月10日、「リビング館」オープン
・ 大町通り(中央通り)北側に面した6階建
・ S52年に解体された明治生命館(ロマネスク様式、赤レンガの壁)の跡地
|
「藤崎170年のあゆみ」P196~197/「続・ 宮城県郷土史年表」P150
|
|
藩祖政宗公の記念祭 |
仙台開府三百年記念祭 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)5月23~24日、本丸跡と追廻において挙行 / 追廻広場や国分町には山鉾が飾られて壮観を極めた
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P315/「目で見る仙台の歴史」P132
|
「目で見る仙台の歴史」P132に「奠城三百年祭」(屏風絵?)
|
藩祖政宗公の記念祭 |
藩祖政宗公三百年祭 |
1935年(S10) |
→ 項目「藩祖政宗公三百年祭」参照
|
|
|
藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公誕生四百年祭 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月27日~5月24日、政宗公誕生400年にあわせ、東一番丁百年祭大仮装行列
* 1966年(S41)9月15日、政宗公誕生四百年祭にあたり、伊達名宝展開催(仙台市博物館)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P627
|
仮装行列は、47-01、47-02、47-03、47-04、47-05
|
藩祖政宗公の記念祭 |
政宗公三百四十年忌大法要 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)5月、大法要と再葬儀、瑞鳳殿で実施。 合わせて、瑞鳳殿の墓室および副葬品が一般公開される
|
「仙台市史 年表」P129
|
|
藩祖政宗公の記念祭 |
伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)4月27日~6月2日、伊達政宗公三百五十年祭青葉まつり開催(没後350年) / これをきっかけに、1968年(S43)から交通事情変化などを理由に途絶えていた「青葉まつり」が復活した
「続・ 宮城県郷土史年表」P190では、開催期間が4月27日~5月24日
|
「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P190
|
|
藩祖政宗公三百年祭 |
|
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日~26日、仙台藩祖伊達政宗公没後300年にあたり、仙台市を挙げて盛大に「藩祖政宗公三百年祭」が行われた
・ 伊達政宗は、1636年(寛永13)5月24日没
・ これに先立ち、同年5月14日に、宮城県青年団により「政宗卿騎馬像」が青葉山の天守台に建てられ、5月23日に除幕式
<関連行事>
・ 5月、伊達家贓品展覧会(斎藤報恩会館)
・ 5月10日、NHK仙台中央放送局(ラジオ)が、「政宗公300年祭記念放送」(子供の時間、琵琶演奏、座談会「政宗公を語る」)
・ 5月12日、三百年祭記念産業観光博覧会
|
「重訂 宮城県郷土史年表」445/「仙台市史10 年表」P285/「仙台城)」P234/「NHK仙台放送局~60年のあゆみ~」P9
|
三百年年祭仮装行列は、44-68、44-69、44-70、44-89、44-90、「目で見る仙台の歴史」P159と、「新・目で見る仙台の歴史」P155に「仮装行列」/花電車は、44-84、44-85、44-86、44-87、44-88 /青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83
|
蛍光灯 |
普及始まる |
1949年(S24) |
* 1941年(S16)、東芝が“マツダ蛍光ランプ”として、昼光色15Wと20Wを正式に発売
* 1949年(S24)、この年、白色蛍光灯(40W)、発売、商店、事務所に普及
|
Wikipedia「蛍光灯」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
|
|
血液センター |
日赤宮城県血液センター |
1965年(S40) |
日本赤十字社宮城県支部が支部内に設置
* 1965年(S40)2月5日、宮城県血液センター開所、4月から献血車「いずみ号」稼働開始
* 1966年(S41)5月、民間血液閉鎖、売血制度廃止
* 1966年(S41)8月、県内6カ所に出張所開所
* 1967年(S42)、「第二いずみ号」配置
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P736/「重訂 宮城県郷土史年表」P618
|
「市民の戦後史(仙台市)」P166(献血の様子)
|
街灯(停車場前通り) |
戦前 2灯型 |
|
戦前> 1基2灯型(柱の両側に1灯ずつ)
|
|
99-020、44-10、44-09、64-04
|
街灯(南町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1基1灯型(柱の上に1灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」に1基1灯型が写る/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
|
|
東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町」、53-95、44-90-01
|
街灯(南町通り) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から左右へ2灯、アームが曲線) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」には1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
|
|
東北産業博覧会記念写真帳に写る「南町通り」、53-91、43-30
|
街灯(南町通り) |
戦後 2灯型 |
|
戦後> 柱から左右へ2灯(アームが直線)
/ 昭和26年にはまだ無かった(写真 20-02 、 16-45 )
|
|
18-14、36-08
|
街灯(南町通り) |
戦後 1灯型 |
|
1959年(S34)~1965年(S40)頃の写真に写る
|
|
201-12、201-13、201-14
|
街灯(国分町) |
戦前 1灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「国分町」に1基1灯型(柱の上に1灯)が写る(ただし、国分町4~5丁目とそれ以北の国分町では、同じ1灯型でも形が違う)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
|
|
東北産業博覧会記念写真帳の「国分町4、5丁目」、同「国分町(その2)
|
街灯(新伝馬町) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 1期2灯型(柱から道方向に突き出たアームに2灯) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町」に1基2灯型が写る)/ 仙台空襲(S20年7月)で焼失
|
|
東北産業博覧会記念写真帳に写る「新伝馬町]
|
街灯(旧・大町一、二、三丁目) |
戦前 2灯型 |
1928年(S3)?~1945年(S20) |
戦前> 旧大町1,2,3丁目の街灯は1基2灯型(柱から両側に突き出でたアームに1灯ずつ、アームは道に平行) / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」に1基2灯型が写る / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
|
|
東北産業博覧会記念写真帳の「大町一二三丁目全景」
|
街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(1) 1灯型 |
1928年(S3)?~1935年(S10)頃 |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型 / 1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町四五丁目」に1基1灯型が写る / 昭和7年の絵葉書、昭和10年のスタンプがある絵葉書では1基1灯型
|
|
1928年(S3)の東北産業博覧会記念写真帳の「大町五丁目」、20-47、22-27
|
街灯(旧・大町五丁目) |
戦前(2) 3灯型 |
1935年(S10)頃~1945年(S20) |
戦前> 旧・大町五丁目の街灯は、1基1灯型から1基3灯型になった/ 昭和10年か11年の写真では1基3灯型 / 仙台空襲(昭和20年7月)で焼失
|
|
20-51、20-55、53-100、22-52
|