項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
釜房湖(ダム) |
給水開始 |
1970年(S45) |
釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム
* 1966年(S41)、釜房ダム建設開始
* 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始
* 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン
* 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕
* 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生
* 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式
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「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル)
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針久旅館支店(仙台駅前) |
開業 |
1887年(M20) |
場所は、仙台駅前広場の北側に面する
* 1868年(M元年)、国分町に旅館開業
* 1882年(M15)、針久旅館と改称
* 1887年(M20)、仙台駅開業の年に二代目久助が東北本線(日本鉄道)仙台駅前に支店を開設
その後、三代目久助が東五番丁に千坪の別館を建て、東京にも神田と上野、築地の3つの支店を開業した
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「仙台老舗百店史P182~189『針久旅館』
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61-18/53-88の右端建物/06-23の上部(陸奥ホテルの左隣の建物)/「目で見る仙台の歴史」P155に、国分町の針久旅館
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銀行(地域の銀行) |
銀行一覧(明治34年時点/昭和10年時点) |
1901(M34)/1935年(S10) |
(1) 明治34年時点の仙台の銀行(仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図の裏面より) いずれも株式会社
・ 七十七銀行(大町1丁目33)
・ 宮城商業銀行(大町3丁目31)
・ 仙台銀行(大町2丁目)
・ 宮城貯蓄銀行(大町3丁目20)
・ 国民貯蓄銀行(大町5丁目)
・ 宮城銀行(大町4丁目10)
・ 通商貯蓄銀行(名掛丁)
・ 仙台貯蓄銀行(大町2丁目)
(2) 昭和9年度末の仙台の銀行(「仙台市大観」P19~20) 地名は本店所在地、数字は支店及び出張所数
<地元4行>
・ 七十七銀行(大町 / 84)
・ 宮城銀行(元寺小路 / 6)
・ 東北貯蓄銀行(大町 / 4)
・ 宮城県農工銀行(東二番丁 / 1)
<県外銀行の支店>
・ 安田銀行仙台支店(大町)
・ 常磐銀行仙台支店(元寺小路)
・ 安田貯蓄銀行仙台支店(大町)
・ 不動貯蓄銀行仙台支店(東二番丁)
(3) 昭和11年時点(「仙台の産業と観光」P22)
・地元銀行、県外銀行の支店とも、昭和10年と全く同じ
ただし、常磐銀行は常陽銀行と記載されている
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仙台市名家及び実業家便覧~明治34年地図~ / 「仙台市大観」(昭和10年刊)P19~20 / 「仙台の産業と観光」(仙台市役所 昭和11年刊)P22
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銀行(地域の銀行) |
七十七銀行 |
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→ 内容は、項目「七十七銀行」参照
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銀行(地域の銀行) |
仙台銀行(明治年間) |
1892年(M25)~1901年(M34) |
* 1892年(M25)、仙台銀行設立
* 1901年(M34)6月28日、仙台銀行破綻 / 平成の仙台銀行とは関連なし
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91
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銀行(地域の銀行) |
仙台貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1901年(M34) |
* 1893年(M26)3月4日、仙台貯蓄銀行開業
* 1901年(M34)6月28日、破綻
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P88、P91
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銀行(地域の銀行) |
宮城商業銀行 |
1897年(M30) |
* 1897年(M30)4月27日、株式会社宮城商業銀行、仙台に設立 / 資本金5万円、頭取は佐和正(「重訂 宮城県郷土史年表」P308)
* 1897年(M30)7月1日、宮城商業銀行、開業(「仙台市史 年表」P90)
* 1898年(M31)2月21日、頭取に手島雄八郎就任
* 1912年(M45)2月29日、仙台市の金庫事務取扱銀行指定
第一本金庫(東北実業銀行)、第二本金庫(宮城商業銀行)、第三本金庫(七十七銀行)(「重訂 宮城県郷土史年表」P351)
* 1912年(S2)12月31日、七十七銀行が、宮城商業銀行及び仙台興業銀行を合併(「重訂 宮城県郷土史年表」P409)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P308、P311、P351、P409/「仙台市史 年表」P90
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
宮城県農工銀行 |
1898年(M31) |
* 1898年(M31)4月1日、宮城県農工銀行、設立認可 / 東二番丁に開設(木造下見板張りの洋風建築)
* 1898年(M31)4月10日、宮城県農工銀行を創設し、4月より東三番丁に開業す(初代頭取遠藤温 / 不動産を担保とする農・工・商及び養蚕業の金融機関)
* 1898年(M31)、東二番丁に設立 / 政府の施策により中小規模の農家や商工業の振興を目指したが、地主・富商金融に重点が移った(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P90/「目で見る仙台の歴史」P136/「重訂 宮城県郷土史年表」P311/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
宮城商業貯蓄銀行 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)3月、宮城商業貯蓄銀行、開業
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「仙台市史 年表」P90
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銀行(地域の銀行) |
国民貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、国民貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、国民貯蓄銀行、解散
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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銀行(地域の銀行) |
通商貯蓄銀行 |
1899年(M32)~1905年(M38) |
* 1899年(M32)、通商貯蓄銀行、開業
* 1905年(M38)、通商貯蓄銀行、休業
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350
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銀行(地域の銀行) |
松良銀行 |
1900年(M33) |
* 1900年(M33)7月4日、松良銀行、合議会社で開業(東四番丁) / 木造2階建て下見板張りの洋風建築 / 松良盤植による個人銀行 / 夫人みつと共に常盤木学園高等女学校も創立した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91/「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
東北実業銀行 |
1910年(M43)~1932年(S7) |
* 1910年(M43)6月15日、東北実業銀行が涌谷町で開業
* 1911年(M44)2月11日、本店を仙台市名掛丁に移転
* 1918年(T7)、名掛丁に竣工(秋保石積の荘重なルネッサンス風)
* 1932年(S7)1月31日、五城銀行と共に、七十七銀行と合併
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P346、P348、P429/「宮城県百科事典」P750/「仙台市史 年表」P95、P106/「目で見る仙台の歴史」P151
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33-05/「目で見る仙台の歴史」P151(大正7年竣工の社屋)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P138(社屋)
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銀行(地域の銀行) |
宮城貯蓄銀行/五城銀行/東北貯蓄銀行 |
1893年(M26)~1932年(S7) |
* 1893年(M26)、第七十七国立銀行が、銀行条例の改正により、貯蓄預金取り扱いのため、宮城貯蓄銀行を大町1丁目に開業(「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* 1893年(M26)、宮城貯蓄銀行を仙台市大町二丁目に創立
* 1901年(M34)、株式会社宮城貯蓄、同仙台貯蓄両銀行倒産
* 1902年(M35)、仙台貯蓄、通商貯蓄、国民貯蓄の各銀行解散
* 1908年(M41)、宮城貯蓄銀行に取付あり
************************************
* 1921年(T10)11月、宮城貯蓄銀行が、普通銀行に改組し、商号を五城銀行と改称(貯蓄銀行業務は新設の宮城貯蓄銀行に譲渡) (「仙台市史 年表」P100、「重訂 宮城県郷土史年表」P382、「新・目で見る仙台の歴史」P132)
* T12年3月26日、五城銀行(頭取、伊沢平左衛門) が、第八銀行(大正3年12月国分町に創設、頭取山田久右衛門)と塩釜銀行を合併(頭取、伊沢平左衛門)( 「仙台市史 年表」P101)
* 1932年(S7)2月1日、七十七銀行が、五城銀行と東北実業銀行を合併
* 1934年(S9)1月20日、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行とが合併、東北貯蓄銀行を大町五丁目に設立(「仙台市史 年表」P107、「重訂 宮城県郷土史年表」P439)
* 1945年(S20)5月1日、七十七銀行が東北貯蓄銀行を買収(「重訂 宮城県郷土史年表」P504)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「重訂 宮城県郷土史年表」P294、P323、P326、P342、P382、P387、P439、P504/「新・目で見る仙台の歴史」P132/「仙台市史 年表」P100、P101、P107/「仙台年表」P203
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「新・目で見る仙台の歴史」P132
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銀行(地域の銀行) |
東北貯蓄銀行 |
1934年(S9)~1945年(S20) |
* 1934年(S9)1月20日、東北貯蓄銀行は、東北実業貯蓄銀行と宮城貯蓄銀行が合併し、(旧)大町五丁目に設立された(東北実業貯蓄銀行はT4年に本店を志田郡古川町から仙台市に移転)
* 1945年(S20)4月10日、東北貯蓄銀行、七十七銀行へ営業譲渡契約書に調印、一県一行体制が完成
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「仙台市史10 年表」P282、P309/「仙台市史 年表」P107、P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P439、P504
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東北貯蓄銀行の仙台七夕飾り物「貯蓄校」は20-53、同「東北振興丸」は、83-04
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銀行(地域の銀行) |
三徳無尽/徳陽相互銀行/德陽シティ銀行 |
1942年(S17)/1951年(S26)~1998年(H10) |
* 1942年(S17)4月1日、 宮城無尽・太陽無尽・東北無尽の三社が合併し、「三徳無尽」として設立
* 1951年(S26)10月20日、三徳無尽株式会社が改組、徳陽相互銀行に商号変更
* 1982年(S57)5月24日、一番丁支店オープン
<以下、Wikipedia「徳陽シティ銀行」より>
* 1990年(H2)8月、 第二地方銀行となる / 商号を「株式会社德陽シティ銀行」に変更
* 1994年(H6)3月、「1995年をもって、北日本銀行および殖産銀行と合併し、新名称を『平成銀行』とする」と発表したが、後に徳陽シティ銀行の財務内容がネックとなり、破談となる
* 1997年(H9)11月26日、経営破綻 / 仙台銀行、七十七銀行、北日本銀行などに営業譲渡を決定
1998年(H10)11月16日、 営業を終了
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「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P552/「続・ 宮城県郷土史年表」P146/Wikipedia「徳陽シティ銀行」(2020年10月22日版)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P742(徳陽相互銀行)
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銀行(地域の銀行) |
振興相互銀行/仙台銀行(平成時代) |
1952年(S27)/1989年(H1) |
* 1951年(S26)、振興無尽株式会社創業
* 1952年(S27)5月29日、振興無尽株式会社が振興相互銀行と改称
* 1970年(S45)5月、本店を青葉通りに新築移転
* 1989年(H1)2月1日、振興相互銀行が普通銀行に転換し、仙台銀行と改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705、P755/「仙台市史 年表」P117、P135
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P755(青葉通りに進出した振興相互銀行本店、S44年5月)
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銀行(地域の銀行) |
青和銀行/みちのく銀行 |
1974年(S49)/1976年(S51) |
* 1974年(S49)12月9日、青和銀行仙台支店開店
* 1976年(S51)10月、みちのく銀行と改称
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「続・ 宮城県郷土史年表」P35
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銀行(地域の銀行) |
宮城県労働金庫/東北労働金庫 |
1951年(S26)/2003年(H15) |
* 1951年(S26)12月8日、宮城県労働金庫創設(<編者注>宮城労働金庫が正しい)
* 2003年(H15)10月1日 - 東北6労働金庫が合併し、「東北労働金庫」を設立(Wikipedia「東北労働金庫」より)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P553/「仙台市史 特別編4 市民生活」P368
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銀行(都市銀行) |
日本銀行 |
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→ 内容は、項目「日本銀行」参照
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銀行(都市銀行) |
日本興業銀行 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)8月、日本興業銀行東北支店を福島市より仙台市東一番丁に移転
* 1951年(S26)10月、仙台支店と改称
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「重訂 宮城県郷土史年表」P502
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P730(日本興行銀行仙台支店)
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銀行(都市銀行) |
住友銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)2月17日、住友銀行仙台支店を新伝馬町に開業
* 1948年(S23)10月1日、株式会社大阪銀行に商号変更
* 1952年(S27)12月1日、商号を株式会社住友銀行に復帰
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「住友銀行」2020年9月13日版
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銀行(都市銀行) |
三和銀行 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)5月1日、三和銀行仙台支店を東二番丁元寺小路角に開設
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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銀行(都市銀行) |
三菱銀行 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)2月17日、三菱銀行仙台支店を東一番丁に開業
* 1948年(S23)10月、 持株会社整理委員会より「三菱」商号使用禁止を命じられ、株式会社千代田銀行に商号変更
* 1953年(S28)7月、再び商号を株式会社三菱銀行に変更
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516/Wikipedia「三菱銀行」2020年9月版
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/帝国銀行/第一銀行/第一勧業銀行 |
1937年(S12)/1947年(S22)/1971年(S46) |
<日本勧業銀行仙台支店>
* 1937年(S12)3月、日本勧業銀行が宮城県農工銀行を合併、東二番丁80(1984年現在、小田急ビルの場所)に仙台支店を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台支店が仙台空襲で被災、引き続き同地で営業
* 1950年(S25)、特殊銀行から普通銀行へ転換
* 1952年(S27)6月、現・一番町3丁目1-26に支店新築(鉄筋コンクリート3階建)し移転
<帝国銀行仙台支店→第一銀行仙台支店>
* 1879年(M12)3月、第一国立銀行仙台出張所を仙台支店と改称し、一般営業を開始(「重訂 宮城県郷土史年表」P256) / M29年に第一銀行となる
* 1947年(S22)2月24日、帝国銀行仙台支店を東三番丁南通り角に開業(帝国銀行は、S18年太平洋戦争戦時下の国策により第一銀行と三井銀行と合併した銀行)
* 1948年(S23)10月 、第一銀行設立(帝国銀行より営業譲渡を受け開業)
* 1948年(S23)10月1日、第一銀行仙台支店と改称し、東一番丁82(青葉通りに面し、東一番丁角のやや西)に新築移転
<第一勧業銀行仙台支店、青葉通支店>
* 1971年(S46)10月1日、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が発足 / 勧銀仙台支店は仙台支店に、第一銀行仙台支店は青葉通支店に
* 1974年(S49)11月、仙台支店?を新築
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「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P256、P516、P529/Wikipedia「第一銀行」/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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22-07、58-03/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P79(S39、カラー)/「あきんどの町 おおまちに至るまでの四〇〇年」P208
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銀行(都市銀行) |
日本勧業銀行/第一勧業銀行 |
1952年(S27)/1971年(S46) |
* 1952年(S27)6月13日、日本勧業銀行仙台支店を東二番丁・大町角に新築移転
* 1971年(S46)10月1日、第一勧業銀行発足(日本勧業銀行が株式会社第一銀行を合併)
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/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/岩波ブックレット「年表 昭和史」P51
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銀行(都市銀行) |
不動貯蓄銀行/日本貯蓄銀行/協和銀行 |
1912年(T9)/1945年(S20)/1948年(S23) |
<協和銀行仙台支店>
* 1912年(T1)8月1日、不動貯蓄銀行仙台代理店を南町通り36に開業
* 1945年(S20)5月13日、9大貯蓄銀行合同し、日本貯蓄銀行と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P504 / ただし、同P353では、9大貯蓄銀行合同は、1947年5月15日)
* 1948年(S23)7月15日、日本貯蓄銀行を普通銀行に転換して、協和銀行と改称
* 1953年(S28)12月、仙台支店を東一番丁南通り北西角に新築(仙台ビルヂング)し、東二番丁通りより移転(6階建て、仙台初の本格的な貸事務所ビル / 1階は東二番丁から移転した協和銀行が入居したほか、銀行協会、仙台手形交換所、弁護士事務所、会計士事務所、中央出先会社が入居 / この場所にあった飯田信七商店(小間物、化粧品の卸小売)は、卸町に移る(「番丁詳伝」P210)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353、P504、P528/「仙台市史 年表」P118/「番丁詳伝」P210/「仙台市史 特別編4 市民生活」P194
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東二番丁の協和銀行は、22-25、22-26、南町通移転後の協和銀行36-08 /「仙台市史 特別編4 市民生活」P194(仙台ビルディング)
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銀行(都市銀行) |
東洋信託銀行 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)10月8日、東洋信託銀行仙台支店が東五番丁・名掛丁角に新築移転
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「続・ 宮城県郷土史年表」P23
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銀行(都市銀行) |
太陽神戸銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月8日、太陽神戸銀行仙台支店開設
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「続・ 宮城県郷土史年表」P81
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銀行(都市銀行) |
東海銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設
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「続・ 宮城県郷土史年表」P88
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錦章堂ビル |
竣工 |
1957年(S32) |
東一番丁通りに面し、三越の南手前にある小ビル(印舗の錦章堂ビル)はS32年に竣工
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錦章堂主人談
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22-61
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鐘景閣 |
開館 |
1985年(S60) |
* 1984年(S59)10月15日、茂庭荘で、旧伊達邸復元起工式
* 1985年(S60)10月8日、鐘景閣(しょうけいかく/旧伊達邸)を復元・落成
* 1985年(S60)10月10日、茂庭荘の敷地内に移築・復元された一本杉の旧伊達邸、鐘景閣として開館
* 1987年(S62)5月31日、仙台市の保存樹木、明和学院(錦町2丁目)の松・臥竜松(樹齢300年)を茂庭荘に移植
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「仙台市史 年表」P134/「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P195
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長町駅貨車操車場 |
完成 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)6月11日、東北本線の長町駅貨車操車場(長町ヤード)が完成
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「仙台市史 年表」P102
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長町駅(JR) |
開業 |
1896年(M29) |
<JR東北本線・長町駅>
* 1894年(M27)10月、日本鉄道の長町駅完成
* 1894年(M27)10月30日~11月3日、第2師団が長町から出征(日清戦争)(「仙台市史 年表」P89)
* 1896年(M29)2月21日、一般営業(民用の駅として)開業(「仙台市史 年表」P89)
* 1923年(T12)、2代目駅舎に改築
* 2006年(H18)9月18日、JR駅が高架化(翌日から、2代目駅舎撤去開始)
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「仙台市史 年表」P89/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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長町駅(仙台地下鉄) |
開業 |
1987年(S62) |
<仙台地下鉄南北線・長町駅>
* 1987年(S62)7月15日、仙台市営地下鉄南北線の長町駅が開業
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「仙台市史 年表」P135/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(仙台市電) |
開業 |
1936年(S11) |
<仙台市電・長町駅前停留所>
* 1936年(S11)12月19日、仙台市電「長町駅前」できる
* 1976年(S51)4月1日、仙台市電廃止
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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長町駅(秋保電鉄) |
開業 |
1914年(T3) |
<秋保電鉄・長町駅>
* 1914年(T3)12月23日、秋保石材軌道(のちの秋保電気鉄道)の駅が開業
* 1961年(S36)5月8日、秋保電気鉄道線廃止(7日にさよなら運転)
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「仙台市史 年表」P122/「仙台市史 年表」P97/「Wikipedia「長町駅」(2020年7月)
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閖上大橋 |
開通 |
1972年(S47) |
* 1972年(S47)9月14日、「閖上大橋」(ゆりあげおおはし)開通 / 県道10号線(塩釜亘理線)の名取川に架かる橋
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「仙台市史 年表」P128
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闇市 |
仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけ望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
戦後、仙台市内で強制撤去された、ヤミ市を含む場所の一覧(S23年3月~27年12月)は、当サイト内「写真データベース」、写真(画像)番号98-034にあります
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「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158
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98-034/「新・目で見る仙台の歴史」P171(ヤミ市の風景)
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防空演習(防空訓練) |
宮城県で初の防空演習 |
1930年(S5) |
* 1930年(S5)11月4日、第二師団司令部、仙台市を中心に1市4町18カ村で防空演習を実施させる(仙台で初の防空演習)/ NHK仙台放送局が防空演習を中継放送
(* 1931年(S6)9月18日、満州事変勃発)
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台放送局60年のあゆみ」P3/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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防空演習(防空訓練) |
灯火管制訓練 |
1935年(S10) |
<訓練>
* 1935年(S10)3月9日、仙台市で全市一斉の灯火管制を実施
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「仙台市史 年表」P107
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防空演習(防空訓練) |
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1936年(S11)~1938年(S13) |
<防護団>
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)8月17日、仙台中央街防空演習
* 1936年(S11)9月18日、仙台市で大防空演習(満州事変5周年記念)
(* 1937年(S12)7月7日、日中戦争勃発)
* 1937年(S12)
4月5日、防空法公布(10月1日施行)/9月15日、宮城県灯火管制規程公布/9月17日、仙台市防空演習/10月1日、仙台市役所に防空係設置/11月16日、関東東北地方防空訓練
<家庭防火群>
「1937年(S12)10月頃から、家庭防火群組織開始。5~20戸で1ブロック、数ブロックで町家庭防火団を結成、防護分団がこれを統制する。家庭には防火担当者、群には群長を選任、工場やアパートなど特殊建物には特別家庭防護群をおく / 各家庭は常時防水用として水槽やたらい、バケツ、ホースなどを備え、戸外には防火土砂を用意。訓練警戒警報が出ると婦人はモンペ姿でバケツ・リレーの演習に引っ張り出された。」(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1938年(S13)
3月、仙台市防空委員会設置/ 8月27日、防空訓練/9月13日、東部防空訓練/11月26日、東部防衛司令部防空演習
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P37~39/「仙台放送局60年のあゆみ」P12/「仙台市史10 年表」P289、P290、P291、P294/「重訂 宮城県郷土史年表」には防空訓練関連記述なし
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防空演習(防空訓練) |
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1939年(S14) |
* 1939年(S14)5月18日、第一次防空訓練開始
* 同年7月24日、第二次防空訓練(5日間実施)
* 同年8月24日、内務省、家庭防空隣保組織要綱通牒(町内防空業務を隣組へ統合)
* 同年10月22日、第三次防空訓練(一週間実施)
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* 同年7月22日~一週間、仙台を中心とする防空演習(仙台駅が爆撃をうけたという想定で消火避難訓練)(「ものがたり東北本線史」P510)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/「仙台市史 10 年表」P295、P296/「ものがたり東北本線史」P510/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39
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防空演習(防空訓練) |
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1940年(S15) |
* 1940年(S15) 東部特別防空訓練
第1次開始6月7日、第2次開始9月2日(20日か?)、第3次実施10月1日(5日間)
* 1940年(S15)11月、仙台市は公会の設置に伴い、家庭防空業務規程制定(翌16年5月から町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P39/「仙台市史10 年表」P298~P299
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防空演習(防空訓練) |
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1941年(S16) |
* 1941年(S16)5月1日、仙台市家庭防空業務規程公布(町内および隣組防空業務は公会関係者が担当)
* 1941年(S16)
8月15日、特別防空訓練実施(17日間)
10月12日、総合防空訓練、仙台市で実施
(* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦)
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「仙台市史10 年表」P301、P302/「仙台市史 年表」P111
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防空演習(防空訓練) |
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1942年(S17) |
* 1942年(S17)
4月18日、本土初空襲
(米空軍B25、16機により東京、横浜、川崎、名古屋、四日市、神戸)(「重訂 宮城県郷土史年表」P488、岩波ブックレット「年表昭和史」P19)
6月、防空指導員に対する防空講習会3回
8月1日、特別防空訓練 6日間
9月28日、総合防空訓練 3日間
12月9日、大東亜戦一周年記念防空強化運動実施
・ S17年9月、仙台市東二番丁国民学校で行われた総合訓練には、本物の焼夷弾が持ち込まれ、東二番丁警防分団、育英中学の生徒が消火訓練。
しかし、繁華街で訓練しているそばのビアホールに長い列ができて訓練どこ吹く風だった。太平洋戦争翌年で日本軍が勝ち進んでいたころで、まだ空襲の現実味がなかった。(「戦争のころ 仙台、宮城」P151)
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「仙台市史10 年表」P304~P305/「「重訂 宮城県郷土史年表」P488/岩波ブックレット「年表昭和史」P19/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P151
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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防空演習(防空訓練) |
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1943年(S18) |
* 1943年(S18)6月、防空警報伝達当直規程を設け、警報を受けたときに市内各変電所とも連絡して一斉にサイレンを鳴らす
* 1943年(S18)
3月15日、仙台市特別防空訓練 6日間
7月10日、仙台市第1期防空訓練 3日間
8月25日、仙台市臨時特別防空訓練(東久邇宮稔彦王殿下が防空状況視察)
10月11日、仙台市第2期防空訓練開始
12月14日、仙台市防空講習所開設
戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P40/「仙台市史10 年表」P305~P307/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152
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防空演習(防空訓練) |
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1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月26日、東京15カ所・名古屋8カ所に改正防空法による初の疎開命令、指定区域内の建物強制取壊し
・仙台市でもS19年初めに防空壕用材木を配給(「新・目で見る仙台の歴史」P162)
* 1944年(S19)8月31日、仙台市防衛課設置
* 1944年(S19)
4月23日、仙台市全市一斉退避訓練
5月11日、臨時特別防空訓練 2日間
9月8日、仙台市総合防空訓練
10月6日、仙台衛戍地総合防空訓練
<防空壕>(「戦争のころ 仙台、宮城」P152~153)
・ 1944年(S19)、内務省の指示で、県内の市部(仙台、石巻、塩釜)に、防空壕設置。
・ 仙台市内には資材として丸太20万本配給
・ 「知事引継書」には、「仙台は、市内繁華街に157カ所、全市では575カ所に公共待避所、横穴防空壕15カ所、一般待避所5万5000完成。 塩釜、石巻両市と女川町(海軍基地があった)にも横穴防空壕と一般待避所がつくられ、県内合計で6万4507か所。
・ 塩釜には横穴防空壕が55カ所あり、2000人収容や1600人収容の超大型もあった。
・ 仙台の横穴防空壕は、広瀬川河畔や段丘崖で、評定河原に13か所(706m)、西公園西側に12か所(480m)のほか、北山輪王寺、青葉神社付近、蟹子沢、中島丁、愛宕橋付近にもあった。青葉区八幡手島貞一(東北大名誉教授)宅のは今も健在で入口を石で囲み、コンクリートで覆った本格的な防空壕。
しかし、仙台で作られた豪の大半は、庭や畑、空き地に穴を掘って木材やトタン板で蓋をし、土盛りした簡単な竪穴豪だった。竪穴式防空豪の基本は爆弾の爆風除けなので、仙台空襲のように油脂焼夷弾など焼夷弾が多くばらまかれた地区では、豪の中に火がついた焼夷弾が流れ込んできて犠牲者を増やした。
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32/「仙台市史10 年表」P307、P308/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152~153
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457(S19年、炊き出し訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P322の図323(退避所の設計図)
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防空演習(防空訓練) |
甘かった認識 |
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『仙台市史 特別編4 市民生活』P321より「甘かった認識」
・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。
<防火貯水槽>「戦争のころ 仙台、宮城」P154)
・ 仙台市では310カ所 江戸時代につくられた四ツ谷用水の水路を改修したり、道路わきや神社仏閣の境内に、隣組総出で数多くの貯水槽を設置した。南町には17カ所、土橋通りには10か所。空襲時に消火活動に役立ったという話はあまり聞かず、熱風の中を逃げ回る人たちが顔や体を防火用水に浸け、かぶっていた布団や毛布を水で浸して難を避けた。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P154
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16-10、16-11、16-69、16-70/「目で見る仙台の歴史」P169に「バケツリレー」/「新・目で見る仙台の歴史」P163(消火訓練)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321(小学生がバケツリレー訓練)
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陸奥国分寺跡 |
薬師堂、国重要文化財に指定 |
1903年(M36) |
【宮城県HPの「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗が泉州(大阪府)の工匠駿河守宗次等を招いて再建したもので、慶長12年(1607)に竣工した。屋根は入母屋造、本瓦葺。法5間、向拝をつけ廻縁をまわす。妻飾りには素木造の簡潔・雄勁な構成美がみられる。内部は内陣と外陣とを峻別して、奥の須弥壇上に宮殿形の厨子が安置されている。厨子は巧緻な架構で、豊かな装飾により燦然たる光彩を放っている。
大崎八幡宮社殿とともに、仙台市における桃山建築の双璧である。「造立慶長十二年丁未十月廿四日」の棟札がある。」
【公益財団法人仙台観光国際協会仙台観光情報サイト「陸奥国分寺薬師堂」より】「伊達政宗公の命により再建された陸奥国分寺の金堂です。慶長12(1607)年落慶した現存する仙台最古の木造建築物の一つで、国指定重要文化財です。本尊薬師如来に因み薬師堂と通称されています。 天平年間に聖武天皇の勅願に基づいて建立された金光明四天王護國之寺のうち最北に位置する奥州鎮護の根本道場です。」
* 1607年(慶長12年)、国分寺薬師堂の再興造営なる
* 1903年(M36)4月15日、薬師堂、国の重要文化財に指定(文化庁、文化財データベース)/ 桃山時代の堂宇、白木造り / 明治36年以来国宝(史跡)に指定されていたが、戦後文化財保護法により改めて、重要文化財に指定(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216)
* 発掘調査(S30~33年、毎年8月に発掘)
<参考資料>
・ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216(薬師堂の堂宇の特徴など)、P223~224(国分寺跡の概要説明、発掘踏査など)
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宮城県公式HP「指定文化財〈重要文化財〉陸奥国分寺薬師堂」/「仙台市史年表」P25/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215~216、P223~224/「目で見る仙台の歴史」P195
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P216の写真63(薬師堂)/同P223(発掘調査)/「目で見る仙台の歴史」P19(国分寺跡、金堂跡)/同P190(薬師堂ごまたき)/同P195(国分寺跡発掘調査)/同P38~39(薬師堂の社殿、厨子、護摩壇」、仁王門)/「市民の戦後史(仙台市)」P83(国分寺跡一帯空撮、出土した瓦、発掘現場)/「市民の戦後史(仙台市)」P225(2月13日の薬師堂ごま焚き)
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