項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
瑞鳳殿 |
大改修 |
2001年(H13) |
仙台開府四百年を記念して大改修工事が実施され、柱には彫刻獅子頭を、屋根には竜頭瓦を復元し、創建当時の姿が甦った
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公益財団法人瑞鳳殿HP
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環境基本条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
杜の都・仙台の良好な環境を保全・創造し、次の世代に引き継いでゆくための基本となる考え方、市・市民・事業者の役割と責務、それぞれの取り組みの基本的な事項を定めるための条例 / 条例に基づき、仙台市における環境の保全と創造に関わる政策・施策の基本的な方向を、環境基本計画「杜の都環境プラン」で定めています
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仙台市HP「仙台市環境基本条例」
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産業組合 |
仙台(市街地/農村部) |
1903年(M33)~ |
・ 産業組合は、事業の内容によって、信用組合(組合員の貯金を預かるとともに必要な資金の貸し付けを行う)・販売組合(組合員の生産物を共同で有利に販売する)・購買組合(組合員の生産に必要な資材や生活必需品を共同で購入し安価で提供する)・生産組合(機械・道具・施設などの共同利用を行う)の4種があったが、信用組合以外は兼営も認められた。しかし、のちには信用組合との兼営も可能になり、また、生産組合は利用組合と改められた
* 1900年(M33)、産業組合法施工(産業組合には、のちの農業協同組合・漁業協同組合・信用金庫・労働金庫・信用組合すべてを含む)
<仙台市内の産業組合>
・ 市街地では、1903年(M36)~1909年(M42)に、毛筆販売原料購買組合、製本販売購買組合、漆器販売購買組合、陶器販売原料購買組合、織物原料購買生産販売組合、下駄類製造販売原料購買組合、農具鍛冶業製造販売原料購買組合、埋木製作品販売原料購買組合、城南信用組合、仙台湾漁業信用組合など設立 / 1918年(T7)~1924年(T13)に、信用組合仙台市民金庫など8つの組合設立
・ 農村部では、1907年(M40)3月に生出村信用販売購買生産組合 / 1909年(M42)2月に六郷村信用販売購買生産組合、中田村信用購買組合、七郷村信用販売購買組合 / 1911年(M44)~1930年(S5)の間に、高砂、西多賀、根白石、諏訪、生出村折立、大沢村、中田村、岩切村、秋保村、名取にも設立 / 1934年~1939年(S14)に、七北田、西多賀、高砂村、広瀬村、生出村、六郷村すべてに四種事業兼業の信用販売購買利用組合設立
* 1910年(M43)9月、産業組合中央会宮城支会結成 / 参加98組合、事務所は宮城県商工課内
* 1930年(S5)5月、宮城県販売購買組合連合会、設立
* 1935年(S10)、産業組合中央金庫仙台支所開設
* 1935年(S10)、市街地信用組合協会設立
* 1940年(S15)8月、産業組合は農会と統合されることになり、1943年(S18)、農業界として発足
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「仙台市史 年表」P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P514~517
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P515(大正3年現在、県内産業組合名簿)
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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用語(東亜新秩序と大東亜新秩序} |
用語の使用はいつ始まったか |
1938年(S13)11月~/ 1940年(S15)7月~ |
・ 「東亜新秩序」は、1938年(S13)11月3日の第2次近衛声明(「東亜新秩序建設」声明)及び同年12月22日発表の「近衛3原則」で使われた
・ 「大東亜新秩序建設」は、第2次近衛文麿内閣の発足時、1940年(S15)7月26日の閣議決定「基本国策要綱」(大東亜新秩序・国防国家建設方針)で使用
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15、P17
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用語(皇居と宮城) |
用語の使用はいつ始まったか |
1888年(M21)/1948年(S23)7月 |
* 1888年(M21)、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示
* 1948年(S23)7月1日、宮内庁、「皇居」を「宮城」(きゅうじょう)と称する告示を廃止
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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男女共学 |
県内高校で初 |
1973年(S48) |
<戦後学制改革で>(「仙台市史 特別編4 市民生活」P275)
* 宮城県第三高等女学校が、戦後学制改革で宮城県第三女子高等学校となり男女共学実施(2年間で共学廃止)
* 仙台商業と仙台女子商業が形の上で合併し男女共学としたが、実質の伴わない共学で、1957年(S32)に元の2校に分離独立
* 1973年(S48)開校の県立泉高校が、公立私立を問わず、仙台市内では初の男女共学高校(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1950年(S25)4月8日、県立仙台第三高校、県内初の男女共学を採用(「仙台市史10 年表」P323)→これは間違い(県立仙台第三高校の開校は1963年(S38)年1月 同校HPより)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P274~275/「仙台市史10 年表」P323
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発電事業 |
宮城紡績会社/宮城水力紡績会社/宮城水力紡績製紙会社/宮城紡績電灯会社 |
1888年(M21)/1894年(M27)/1897年(M30)/1899年(M32)~1912年(T1) |
<宮城紡績会社、アーク灯試験点灯>
* 1888年(M21)7月1日、宮城紡績会社、三居沢工場において水力発電による電灯の試験点灯を行う(アーク灯の点灯に成功)
<宮城水力紡績株式会社、市内に供給開始、365灯>
* 1894年(M27)、宮城紡績会社が宮城水力紡績株式会社と改称、30kwの発電所の運転開始
* 1894年(M27)7月15日、宮城水力紡績株式会社が、この日開業した仙台電灯株式会社を通じて供給し仙台市内に365灯の電灯が灯る
* 1894年(M27)7月、三居沢紡績会社の水力発電を利用して、仙台市中に電灯をはじめて点ず(当時の点灯数365灯)
* 1895年(M28)、221戸で752灯
* 1896年(M29)1月1日、宮城水力紡績、三居沢第一発電所の運転開始
<宮城水力紡績製紙株式会社>
* 1897年(M30)10月16日、宮城水力紡績株式会社、仙台製紙と合併して宮城水力紡績製紙株式会社となる
* 1898年(M31)6月、宮城水力紡績製紙株式会社、清水小路火力発電所の運転開始
<宮城紡績電灯株式会社>
* 1899年(M32)10月、宮城水力紡績製紙株式会社と仙台電灯株式会社が合併し、宮城紡績電灯株式会社となる(供給区域は、仙台市、茂ケ崎村の一部、原町、七郷村南小泉、七北田村に及び、4000灯を超える
* 1900年(M33)、宮城紡績電灯株式会社、清水小路火力発電所を廃止
* 1908年(M41)、宮城紡績電灯株式会社、三居沢に新発電所設置、試運転開始
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市が買収>
* 1912年(T1)12月、仙台市が宮城紡績電灯を買収、計4万1145灯に達する
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P140~141/「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台市史 年表」P86、P88、P89、P90、P91、P94、P95/Wikipedia「三居沢発電所」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141(M27年頃の清水小路の火力発電所)
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発電事業 |
仙台電力 |
1908年(M41)~1911年(M44) |
<仙台電力株式会社>
* 1908年(M41)6月23日、仙台電力株式会社、国分町に設立
この年に、宮城郡大倉村岩下に大倉発電所建設着手
* 1908年(M41)、仙台電力株式会社設立、供給区域は仙台市東部、岩切村、高砂村、茂ケ崎村の一部、中田村、西多賀村のほか、宮城、名取、亘理郡下の町村で、1910年(M43)に営業開始
* 1910年(M43)4月1日、仙台電力、大倉発電所の運転開始
<仙台市が買収>
* 1911年(M44)7月1日、仙台市、仙台電力株式会社を買収し仙台市電気部を設置
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「仙台市史 年表」P94、P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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発電事業 |
仙台市営電気事業 |
1911年(M44)~1942年(S17) |
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市営電気事業>
* 1911年(M44)6月 仙台市が仙台電力と契約し、同年7月1日電気事業を開始
* 1912年(T1)、仙台市が宮城紡績電灯も買収、大倉(現在の大倉発電所とは異なる)・大堀・碁石川・三居沢の水力発電所を所有
「土樋火力発電所」(仙台市営)
* 1926年(T15)6月、土樋火力発電所トンネル工事による水量減少で、七郷・高砂・原町3村の600余名に影響し騒動(「番丁詳伝」P122)
* 1926年(T15)12月24日、土樋火力発電所が竣工(出力、2000kW)
* 土樋火力発電所の設備は1941年(S16)に北支那開発関係機関へと徴用され、廃止
<仙台市営電気事業>
* 1941年(S16)公布の配電統制令に基づき、市が新たに設立される東北配電株式会社の設立に参加
* 1942年(S17)3月31日、仙台市電気事業、配電統制令に基づき東北配電KKに移行
* 1942年(S17)4月、市営電車部門を除く電気事業設備を出資して市の電気事業は終焉を迎える
<東北配電株式会社>
* 1942年(S17)4月1日、事業開始
* 1942年(S17)6月30日、宮城県電気部解散式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141/「東北大学鉄道研究会公式ブログ」/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P304
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08-10-03(右端の煙突が土樋火力発電所)
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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発電事業 |
仙台愛宕下水力発電所 |
1921年(T10)~1929年(S4)頃 |
* 仙台市内の電気会社が1920年(T9)に建設し、翌年に開業
* 1929年(S4)頃には操業を停止、約10年間の短い歴史で幕を閉じた
「大橋の下流に築いた堰から取水した広瀬川の水を、約2キロメートルの導水トンネルを通して愛宕山の麓へ導き、そこに設けた反動水車で発電し、当時の名取郡六郷村(のち、昭和16年に仙台市に合併)へ電気を通して電灯などに運用されていたということです」
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仙台市役所関連の「広瀬川ホームページ」よりhttp://www.hirosegawa-net.com/
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発電事業 |
その他の発電事業 |
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141には、宮城紡績電灯、仙台電力、仙台市営電気事業のほかに、以下の発電事業の記述
* 「T12年から宮城県営電気事業開始/T6年設立の秋保電気、T8年の名取川水力発電、T10年の冠川電気(根白石村)は、T13年に東北電灯に合併/T10年開業の仙台電気工業、広瀬電力はT15年に二本松電気に合併/これら仙台市周辺地域の会社はS4年~5年に県営事業に移る」
* 1936年(S11)、東北振興策の1つとして、東北振興電力(株)設立されたが、1941年(S16)に日本発送電(株)に統合
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141
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発電事業 |
電力の国家統制(日本発送電/東北配電) |
1939年(S14)/1942年(S17) |
戦時体制の下、電力は国家管理となる
<日本発送電>
* 1939年(S14)、日本発送電株式会社設立(国家総力戦体制を構築しようとする当時の日本政府の電力国家管理政策に基づき、東京電燈・日本電力など全国の電力会社の現物出資や合併によって設立された半官半民の特殊会社) / これにより、東北地方は仙台にある日本発送電(株)東北支店の所管となる
<昭和17年、東北地方は東北配電に一本化>
* 1941年(S16)8月30日、配電統制令が公布、即日施行
・ 全国各地の配電事業者は統合を余儀無くされ、五大電力会社を含めて全て解散
・ 1942年(S17)には全国9ブロック(北海道・東北・関東・中部・北陸・近畿・中国・四国・九州)に新たな配電会社が設立され、この9配電事業体制の下で日本発送電と連携した配電事業が行われた
・ 東北送電(株)は解散し県営の3発電所とともに日本発送電に強制移管される → 仙台市電事業を除き、仙台市営と宮城県営のすべての施設が「東北配電」に移行
・ 仙台では当時、長町・原町周辺を中心に工場が増え始め、特に軍需関係産業には優先的に電力とガスの供給が行なわれた
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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発電事業 |
戦後の電気事業再編成(東北電力に一本化) |
1951年(S26) |
* 戦後、日本発送電が解体され、1951年(S26)には発電から配電までを一貫して行う電力会社が全国9地区に誕生 / 東北では東北電力が設立され、日本発送電東北支店所管の施設と東北配電の施設および供給区域を継承した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P142
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盲人専用信号機 |
北六番丁交差点 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月4日、北六番丁交差点に設置(全国初)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P647
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県令 → 知事 |
名称変更 |
1886年(M19) |
* 1886年(M19)7月20日、地方官官制により「県令」を改めて「知事」に
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「仙台市史 年表」P85
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県営宮城自転車競技場 |
開場 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)、第7回国民体育大会(東北3県国体)の開催のため、同年に開場
* 2014年(H26)5月7日、廃止(北隣にある国立病院機構仙台医療センターの建て替え用地になったため)
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Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
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県営宮城野原公園総合運動場 |
各施設の開場 |
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宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン、昭和20年代半ばに以下のスポーツ施設が完成
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場開場
* 1951年(S26)5月、県営宮城野原蹴球場完成
* 1951年(S26)8月10日、県営宮城野原陸上競技場開場
* 1952年(S27)10月21日、県営宮城野原総合運動場庭球場落成(「重訂 宮城県郷土史年表」P557では、8月21日落成)
* 1952年(S27)、県営宮城自転車競技場開場
* 1973年(S48)4月28日、宮城野原公園に総合運動場の標識除幕
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「仙台市史」P117/「仙台市史10 年表」P323、P328/「仙台市史 年表」P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P542、P551、P557/「続・ 宮城県郷土史年表」P19/Wikipedia「宮城自転車競技場」2020年1月版
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「目で見る仙台の歴史」P189(運動公園全域空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P181(同空撮)/「市民の戦後史(仙台市)」P62(S25年5月、空撮)
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県営宮城野原硬式庭球場 |
落成式 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)10月21日、落成式
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「仙台市史 年表」P118
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県営宮城野原蹴球場 |
完成~撤去 |
1951年(S26)~1989年(H1) |
* 1951年(S26)5月、県営のサッカー場、宮城野原総合運動場に完成
* 1989年(H1)11月、蹴球場が撤去され、多目的広場となる
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「仙台市史 年表」P117、P136
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県営宮城野原陸上競技場 |
宮城県営/仙台市営 |
1951年(S26)/2009年(H21) |
<「宮城百科事典P1007」より>
・ 戦前の宮城野原練兵場跡地の宮城野原公園総合運動場にある陸上競技場
・ 特に陸上競技場の走路はアンツーカー舗装で、当時東洋一といわれた程、整備された施設であった
・ オープン早々、S27年の第7回国体秋季大会の会場の1つとなった
* 1951年(S26)8月10日、宮城県営宮城野原陸上競技場開場
* 1951年(S26)8月16日、日米陸上仙台大会開催
* 1952年(S27)10月19日~23日、第7回国民体育大会、宮城・福島・山形県で開催、宮城野原総合運動場が、宮城県の主会場となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P559では、10月20日から5日間)
・ 開会入場式終了後、市内の女子高校生600人がマスゲーム「荒城の月」を披露 / その前夜、土井晩翠が晩翠草堂で永眠を場内アナウンスで伝える(「仙台市史 続編第2巻」P271)
* 1956年(S31)10月6日、第40回全日本陸上競技大会開催
* 1988年(S63)7月16日、陸上競技場改築落成
<仙台市陸上競技場となる>
* 2009年(H21)4月1日、仙台市に譲渡され、「仙台市陸上競技場」となる
* 2017年(H29)4月、弘進ゴムが命名権を取得し、愛称が「弘進ゴム アスリートパーク仙台」となる
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「仙台市史10 年表」P326/「仙台市史 年表」P117、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P547、P551、P559、P583/「続・ 宮城県郷土史年表」P249/「宮城百科事典P1007」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P271/Wikipedia「仙台市陸上競技場」2020年6月7日版
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14-06、14-04/「目で見る仙台の歴史」P189(グラウンドで女子生徒たちのマスゲーム)
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県営宮城野球場(宮城球場) |
開場 |
1950年(S25) |
宮城野原(戦前の宮城野練兵場跡)にオープン
<開場式、記念のプロ野球戦試合>
* 1950年(S25)5月3日、県営宮城球場グランド開き / 5月5日、観客殺到し、圧死3名、重軽症23名(「仙台市史10 年表」P323)
* 1950年(S25)5月3日、開場式 / 5月5日、仙台初のプロ野球公式戦(毎日対大映、毎日対南海)(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)5月3日、球場開きの際、入場者殺到し、作ったばかりの金網の柵が倒れ、死者3人、負傷者23人という惨事(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266)
* 1950年(S25)5月5日、開場式(記念試合として、毎日・大映・南海の公式試合あり)(「重訂 宮城県郷土史年表」P542)
* 1951年(S26)10月25日、日米親善野球米選抜軍対巨人軍
* 1973年(S48)4月20日、照明塔6基点灯式
* 1973年(S48)5月22日、ナイター開幕
* 1974年(S49)1月、プロ野球ロッテ球団が、宮城県営野球場を本拠地とする
* 1974年(S49)4月6日、東北初のプロ野球開幕試合(ロッテ対阪急)
* 1977年(S52)9月13日、ロッテ球団、本拠地を川崎ヘ移す
* 1985年(S60)6月18日、県営宮城球場、大改造完成
* 2004年(H16)、全面改修され、プロ野球団東北楽天ゴールデンイーグルスの本拠地となる(施設は宮城県が所有し、東北楽天ゴールデンイーグルスの運営法人・株式会社楽天野球団が都市公園法に基づく管理許可制度により運営管理)
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「仙台市史 年表」P116、P129/「仙台市史10 年表」P323、P326/「重訂 宮城県郷土史年表」P542/「続・ 宮城県郷土史年表」P19、P20、P71、P192/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P204、P266/「仙台あのころこのころ八十八年」P251
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20-06、25-15、25-16
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県立学校、名称変更 |
名称改正 |
1919年(T8) |
* 1919年(T8)11月1日、各学校名から「立」が削除される(例: 宮城県立高等女学校 →宮城県第一高等女学校)
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「仙台市史 年表」P99
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瞑想の松 |
概説 |
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樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
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08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
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瞑想の松 |
歌碑建立 |
1941年(S16) |
・ 「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」という土井晩翠の歌碑、瞑想の松の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<WEBサイト 松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』 https://www.tohoku-mpu.ac.jp/laboratory/germany/cyogyuu.bak より>
「・ 樗牛の没後、40年近くを経て、仙台の北部、台原の丘陵の一角、一本松の根元に、樗牛を顕彰する記念碑が建立されることになった。実は、昭和15年頃に、開発(軍需工場の建設?)のために、この松の伐採計画が持ち上がる。幸いにも、心ある人々の尽力のお陰で、その伐採計画は白紙に戻され、さらに樗牛を顕彰する碑の建立が計画されたのだった。(中略) 「高山樗牛冥想の松」が「仙台市民の憧憬の松」であり続けたことが、この松の保存と記念碑建立の要因として挙げられねばならない。(中略) この「樗牛顕彰の碑」建立の記念式典は、昭和16年6月1日に挙行された。
・ 「冥想の松保存会」は昭和17年3月に成田正毅著『高山樗牛冥想の松』と題する記念誌を発行したが、そのなかに、前年(昭和16年6月1日)に行なわれた樗牛顕彰碑建立の記念式典の式次第が掲載されている。」
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佐々久著「仙台の散策」/WEBサイト・松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』
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社会教育(戦後) |
青年学級/社会学級/老壮大学 |
昭和20年代、30年代 |
* 1949年(S24)、社会教育法制定
* 1950年(S25)、教育委員会発足
・ 戦後の社会教育の中心は、(1)青少年教育と(2)成人教育
(1)青少年教育
指導者講習(1940年代後半~1950年代前半)
青年学級活動
レクリエーション、スポーツ、学習活動
青年団活動活発化とともに広がる
1953年(S28)、青年学級振興法制定
1956年(S31)現在、市内に43学級
1961年(S36)現在、13学級
1967年(S42)、青年学級廃止し、青年教室に組み替え
拡大発展はあまりなかった
(2)成人教育
各学校に、PTA会員父兄対象に社会学級
1950年(S25)、16学級発足
1951年(S26)、45学級発足
1961年(S36)には小学校に38学級、中学校に10学級
成人学校 1959年(S34)開始(技能科目、教養科目)
生活学校(主に婦人対象の技能習得、夜間休日開講)
家庭教育学級 1964年(S39)発足、翌年社会学級に統合
(3)高齢者対象
1962年(S37)、老壮大学開設(65歳以上)
1966年(S41)、修了者が自主的に明治青年大学結成
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P284~285、P452
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P452(仙台市の青年学級・青年教室数の推移
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祝賀行事 |
普通選挙祝賀 |
1925年(T14) |
* 1925年(T14)4月3日、仙台市内で、普通選挙祝賀提灯行列
* 1928年(S3)2月20日、普通選挙法で初の衆議院議員臨時総選挙(宮城県8人選出)
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「仙台市史 年表」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P409
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「いつか見た街・人・暮らし」P22(大正14年4月4日夜)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P501(T14年、仙台、普選案通過祝賀会提灯行列)
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祝賀行事 |
紀元2600年 |
1940年(S15) |
→ 項目「紀元2600年」参照
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禁煙 |
列車内 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)2月20日、東北線郡山行普通列車で禁煙実施
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「続・ 宮城県郷土史年表」P173
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福祉ボランティアのまちづくり事業 |
指定 |
1985年(S60) |
* 1985年(S60)7月8日、仙台市ボランティア連絡協議会結成
* 1985年(S60)10月、「福祉ボランティアのまちづくり事業」、仙台市が国に指定される
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「続・ 宮城県郷土史年表」P193/「仙台市史 年表」P134
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秋保電鉄 |
秋保石材軌道開通 |
1914年(T3) |
* 1914年(T3)10月、覗橋~茂庭間開通
* 1914年(T3)12月23日、秋保馬車軌道、長町~湯元(後の秋保温泉)間16キロが開通 / 秋保石(凝灰岩の一種)と旅客の輸送が目的 / 箱型の客車を馬が曳いて走った
・ 停車場は、長町、西多賀、鈎取、太白山、茂庭、北赤石、覗橋
・ 所要時間は1時間半
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「重訂 宮城県郷土史年表」P353/8「仙台年表」P189/「仙台市史 年表」P97 /「仙台きょうはなんの日」P201/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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22-45 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P51/「目で見る仙台の歴史」P156と「新・目で見る仙台の歴史」P147に「秋保馬車軌道」/同P156(秋保石の運搬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P198
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秋保電鉄 |
秋保石材電気軌道/秋保電気軌道(通称、秋保電鉄)/仙南鉄道秋保線/秋保線廃止 |
1922年(T11)/1925年(T14)/1959年(S34)~1961年(S36) |
* 1922年(T11)10月29日、秋保石材軌道株式会社が株式会社となる
* さらに、T14年1月12日に秋保電気軌道株式会社と改称
* 1925年(T14)6月13日、電気鉄道に切り替え(全線の電化と軌道拡幅が完成し電車に)
<バスも運行>
* S24年4月に長町~鈎取、S26年4月に長町~秋保温泉、同8月に仙台駅前~秋保温泉など、S33年までに順次6路線運行開始(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P601)
<仙南自動車>
* 1950年(S25)、仙台市交通部から岩沼以南の路線を譲り受けて、仙南自動車が営業開始 / 以後、仙台と荒浜・白石・角田・相馬・青根などを結ぶ路線開設
<仙南交通秋保線となる>
* 1959年(S34)7月3日、秋保電気軌道が仙南交通自動車と合併し、仙南交通となる(鉄道は仙南鉄道秋保線と改称)
* 1961年(S36)5月7日、秋保線廃止、長町駅から「さよなら列車」運行
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「仙台市史 年表」P101、P102、P103、P121、P122/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P600~601に、旧秋保電鉄、旧仙南交通自動車、仙南交通について記述あり/「重訂 宮城県郷土史年表」P591/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P527(S14年、沿線の様子を伝える秋保電気軌道リーフレット)
/さよなら電車(S36年5月)は、22-09、「市民の戦後史(仙台市)」P124)/「新・目で見る仙台の歴史」P187
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移民 |
ハワイへ |
1902年(M35) |
* 1902年(M35)、県内から152名が移民
* 1903年(M36)、県内から148名が移民
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「仙台市史 年表」P92
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税務署 |
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* 1914年(T3)9月20日、「仙台税務署庁舎」、北一番丁・上杉山通に建設し移転
* 1948年(S23)1月、「仙台税務署」を、東二番丁73(旧憲兵跡)に移転
* 1948年(S23)12月、仙台南税務署新設、仙台税務署は仙台北税務署に名称変更
* 1950年(S25)3月、北仙台税務署庁舎を、東二番丁73に新築
* 1970年(S45)3月25日、旧・仙台北税務署跡(森徳横丁と東二番丁通り交差点南西角)に、仙台中央警察署が庁舎建設
(仙台北税務署は、2020年現在、青葉区上杉1丁目1番1号)
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「目で見る仙台の歴史」P150/「仙台市史10 年表」P245/「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P531、P541、P658
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「目で見る仙台の歴史」P150に、仙台税務署庁舎(T3建設)/
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<松島海軍航空隊への攻撃>
8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた
<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 |
1945年(S20) |
<県内の空襲犠牲者>
仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害
<筆者石澤友隆氏の体験>
戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236
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空襲(釜石艦砲射撃) |
釜石製鉄所を攻撃、市街地壊滅 |
1945年(S20)7月14日、8月9日 |
<釜石に艦砲射撃、773人が犠牲>
・ 岩手県釜石の日本製鉄釜石製鉄所が2度の艦砲射撃を受け、市街地は壊滅し、773人が死亡 / 昭和20年7月14日は米軍艦隊から、8月9日は米英両艦隊から5000発以上の砲弾を撃ち込まれた / 気仙沼(釜石から40キロの距離)でも、ドーンドーンと鈍い不気味な音が何度も聞こえ、大地がぐらぐら地響きをたてて揺れた(「戦争のころ 仙台、宮城」P236~237)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236~237
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空襲(宮城県内) |
塩釜空襲 |
1944年(S19)12月29日 |
<塩釜空襲>
* 1944年(S19)12月29日、塩釜に、B29、1機が油脂焼夷弾約500個を投下、焼失570余戸、被災者3200余人(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56)
* 1944年(S19)12月29日、B29、1機、塩釜市尾島町、南町、本町に小型油脂焼夷弾約500発(570発説も)を投下、441戸(483戸説も)2142人(2240人説も)が焼け出される / 警戒警報が解除になった直後で、早朝の空襲 / 隣組で用意していた防火用水は凍結していて役にたたず / 赤子1人がやけど、死者なし(「戦争のころ 仙台、宮城」P185~187)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P55~56 /「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P185~187
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空襲(宮城県内) |
霞目陸軍飛行場を爆撃 / 米軍機、蔵王山中に墜落 |
1945年(S20)3月10日~11日 |
<霞目陸軍飛行場(仙台)>
* 1945年(S20)3月10日夜、米軍機が霞目陸軍飛行場(仙台)と太白区四郎丸地区を爆撃、ほとんど被害なし / 霞目には仙台少年飛行学校があり、油脂焼夷弾1371発投下、うち248発は不発弾、西風が強く、焼夷弾は目標を外れて周辺の田んぼに落ち燃え上がる
・ この夜(3月10日)、東北地方では、いわき市、盛岡市、青森県上北郡もB29が空襲 / いわき市で16人、盛岡市で4人死亡
<米軍機、蔵王山中に墜落>
・ この夜(S20年3月10日)、吹雪の蔵王連峰不忘岳に3機の米軍B29が間をおいて激突、34人の乗員全員が死亡 / 時刻は、午後9時50分ころ、その1時間後、翌11日午前2時頃 / 翌日、地元七が宿村横川集落の警防団十数人が吹雪と積雪1mのなか現場へ向かい墜落した1機と死亡した搭乗員を発見
・ 1945年(S20)5月、仙台の藤崎百貨店で、不忘岳に墜落した機内から回収した救命具、携行食品などを展示
・ 1961年(S36)9月、登山グループ「不忘会」が呼びかけ、地元婦人会、キリスト協会、仏教会、航空自衛隊などが協力し、現地にB29搭乗員の慰霊碑「不忘の碑」を建立
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P191~192
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以前の空襲 |
1945年(S20)5月29日~7月9日 |
<仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲 |
1945年(S20)7月10日未明 |
→ 項目「仙台空襲」を見よ
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 |
1945年(S20)7月14日~8月10日 |
<仙台空襲後の空襲(宮城県内)>
・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた
・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した
・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回
・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった
・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射
・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた
・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 |
1945年(S20)7月14日 |
・ 7/14は、県内の18か所で空襲
<陸海軍基地への攻撃>
7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続
<鉄道への攻撃>
7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
<船舶への攻撃>
7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234
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空襲(宮城県内) |
仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 |
1945年(S20)8月9日~10日 |
<鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)
<女川湾の海戦>
海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった
<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235
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立町小学校 |
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* 1945年(S20)、仙台空襲で焼失
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「市民の戦後史(仙台市)」P22(戦前の校舎)
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競馬 |
仙台競馬会社設立 |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)5月24日、青葉神社下で第1回競馬を開催
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「仙台市史 年表」P86
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競馬 |
愛子競馬場開設 |
1929年(S4) |
* 1929年(S4)11月21日、愛子(あやし)競馬場開設
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「仙台市史 年表」P105
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競馬 |
長町競馬場の開設認可 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)4月18日、長町競馬場、開設認可
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「仙台市史 年表」P105
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競馬 |
県営(市営)競馬復活/県営廃止、市に移譲/市営も廃止 |
1946年(S21)/1952年(S27)/1960年(S35) |
場所は仙台市長町郡山(のちの飯田団地と宮城自動車学校のところ)にあった
* 1946年(S21)11月16日、宮城県営仙台競馬復活(仙台市史 年表」P114、「仙台市史10 年表」P314)
* 1946年(S21)11月、仙台市営競馬(長町郡山の市営競馬場)が7年ぶりに復活、戦災復興事業の資金調達のため
* 1952年(S27)、仙台競馬場の県営競馬が廃止となり、競馬場が仙台市に移譲される(「仙台市史 年表」P118)
* 1960年(S35)3月13日、仙台市営競馬廃止を仙台市議会で決議(「仙台市史 年表」P121、「重訂 宮城県郷土史年表」P595では3月23日決議)
* 1960年(S35)3月、仙台市営競馬廃止(「仙台市史 続編第2巻」P200)
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「「重訂 宮城県郷土史年表」P314、P514、P595/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 年表」P118、P121/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200の写真57(市営競馬)/「市民の戦後史(仙台市)」P44(S24年長町で市営競馬)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P236(市営競馬のマッチラベル、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P42(S33頃)
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