分類項目 | 七夕(戦前) 仕掛物 |
タイトル | 仙台七夕 国分町の飾りつけと仕掛物「爆弾三勇士」(国分町通り) |
写真番号 | 53-68 |
場所 | 仙台市国分町 |
映像内容 | 右端の店の看板は、及川時計店(国分町五丁目)の仕掛物「爆弾三勇士」(関連情報欄参照) / 「わしが国さ」(昭和7年8月号 P7)に「及川時計店の爆弾三勇士はゼンマイ仕掛けで手足と爆弾の動くところが面白く・・・」と記述されている / 及川時計店の2軒先に、永楽屋の看板あり / 「店舗配置図 東一番丁中央部と周辺部(大正末~昭和初期)」 98-130 では、「及川時計店」の北隣は「玉澤本店」、さらに玉澤横丁をはさんで、「永楽家具店」 / 国分町は玉沢横丁角を境に、先(北側)の虎屋横丁角までが四丁目、玉沢横丁角から手前(南側)、芭蕉の辻までが五丁目 / 国分町の街灯(1基1灯型)が写る(関連情報欄参照) |
撮影年代 | 1932年(S7)8月 |
撮影年代判定根拠 | 「わしが国さ」(昭和7年8月号 P7) |
関連情報/参考文献 | <参考文献(爆弾三勇士)> 【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」 【「仙台放送局60年のあゆみ」P5】「1932年(S7)4月14日、爆弾三勇士の歌発表音楽会が 仙台市公会堂で開催され、NHK仙台放送局がラジオで中継放送した。」 【Wikipedia「爆弾三勇士」より抜粋】 「爆弾三勇士は、「軍神」として映画6社が競って映画化、新聞各社は連日競って記事を掲載、弔慰金の寄託者を一面に載せ、新聞2社が顕彰歌の歌詞を公募し「爆弾三勇士の歌」や「肉弾三勇士の歌」を発表、このほか、歌舞伎や文楽、新派、新国劇、エノケン、浪曲、落語、都都逸、安来節、レコード、軍歌、小唄、琵琶、音頭、童謡等、あらゆるジャンルの芸能が題材にした。」 <国分町の街灯(昭和戦前期)> この写真(53-68、昭和7年)では、玉沢横丁を挟んで四丁目、五丁目ともに同じ「1基1灯型」 / 四丁目の写真 20-52 (昭和12年)と、 99-056 (昭和戦前期)も「1基1灯型」 / ただし、同じ五丁目でも芭蕉の辻に近いエリアは1基2灯型 →写真 20-18 (昭和初期)の乗用車の背後、 99-028 (昭和ヒトケタ代)の奥のバスの左 |
備考 | 撮影)森権五郎 <参照> 当サイト内「市民の思い出・時代の記憶集」の分類項目「E-1 仙台七夕」 <丹野邦夫さん(大正12年生まれ)の記憶 「肉弾三勇士」> 「肉弾三勇士」は、満州事変( →編者注)の時、上海廟行鎮(ビョウコウチン)で駅の陣地を爆破し進軍した」というニュースが私の小学校3年4年生頃の記憶にある」 (編者注:満州事変勃発後の第一次上海事変(昭和7年)の軍国美談) |
カラー/モノクロ | モノクロ |
分類内の通し番号 | 1 |
画像ファイル名 | sendai7060 |