項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
|
「番丁詳伝」P150~151
|
|
博覧会・フェア |
東北遺物博覧会 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月、東北産業博覧会開催中、宮城県図書館と商品陳列所を会場に、伊達家の宝物を中心に、東北各藩の違宝を陳列した
|
「目で見る仙台の歴史」P153
|
「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」
|
仙台鎮台 |
東北鎮台を改称 |
1973年(M6) |
* 1871年(M4)11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月、全国六鎮台となり、東北鎮台を仙台鎮台と改称(「仙台城」P231)
* 仙台鎮台は、福島県、宮城県、水沢県を徴兵を行う管轄県として、歩兵第4連隊、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵を常備し、また岩手・秋田・山形・青森県から徴兵して青森におかれた歩兵第5連隊をあわせて管轄、函館にも一隊を分遣 / 兵力は、平時4460人、戦時6560人
* 1882年(M15)9月7日、昼、仙台鎮台本営(司令部)火災、二の丸遺構の9割、17~18棟を焼失す(「仙台城」P232)
* 1884年(M17)、仙台鎮台に、新発田(新潟県)の分衛を附属
* 1884年(M17)、司令部庁舎新築(「目で見る仙台の歴史」P113)
1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つでもあった
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P292~298/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P231/「いつか見た街・人・暮らし」P232/「目で見る仙台の歴史」P113/「仙台市史 年表」P79、P80、P86
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P294(鎮台御用の米搗精所だった六合社)
|
戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P512
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
東北陸上競技大会(第1回) |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)8月、仙台市で開催
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P200
|
|
ビル建設 |
東北電力ビル |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)8月4日、東北電力ビル(地下1階一部2階、地上9階建、塔屋3階)が東二番丁70に完成 / 東北電力本社 / グランドホテル仙台、電力ホール、貸室、市民図書館分室を併設 / 当時は東北一の大型ビル
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P596
|
「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(S35年)、P60(S38、カラー)
|
高等学校(新制) |
東北電子工業高等学校/東北工業大学電子工業高等学校/東北工業大学高等学校/仙台城南高等学校 |
1960年(S35)/1965年(S40)/1994年(H6)/2013年(H25) |
<東北電子工業高等学校>
* 1960年(S35)10月、学校法人東北電子学院、設立
* 1961年(S36)4月、東北電子工業高等学校を開校
* 1961年(S36)4月、 東北大学片平キャンパス中央講堂で、開校式、第1回入学式 / 電子工学科、無線通信科、別科 / 東二番丁通りの仙台地方貯金局庁舎(現 仙台中央郵便局)とその元庁舎が仮校舎 / 二学期から太白区八木山松波町の校舎に移転
* 1964年(S39)4月、電子工学科を電子科に改称、無線通信の募集停止
* 1964年(S39)6月、普通科教室、体育館完成
<東北工業大学電子工業高等学校>
* 1965年(S40)4月、法人名を学校法人東北工業大学に改称(前年に東北工業大学を開学) / 学校名を東北工業大学電子工業高等学校に改称。
* 1966年(S41)4月、無線通信科を廃止、普通科を設置(普通科、電子科の2学科となる)
<東北工業大学高等学校>
* 1994年(H6)4月、 東北工業大学高等学校に改称 / 普通科を4コース(英数/文系/理系/教養)、電子科を4コース(制御技術/情報技術/電子技術/理数工学)とする
* 1999年(H11)4月、普通科を男女共学とする
* 2004年(H16)4月、電子科を男女共学とする
<仙台城南高等学校>
* 2013年(H25)4月、学校名を仙台城南高等学校に改称。特進科(文系/理系)、探究科(文系/理系)、科学技術科(メカトロニクス/情報通信/情報デザイン/電力技術)の3学科を設置
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P511/Wikipedia「仙台城南高等学校」2020年9月2日版
|
|
高等学校(新制) |
東北高等学校(平成時代) |
1989年(H1)~2019年(H31) |
* 1991年(H3)、通年用制服(8年振り)並びに夏季服装(11年振り)に芦田淳氏のデザインによりモデルチェンジ
* 1992年(H4)、学校週5日制を完全実施
* 1993年(H5)、コース制を導入した総合型高等学校スタート / 普通科に創進、文理、文教の3コース、商業科にビジネス、ザ・コースフェスティーナを置く、
* 1993年(H5)、泉校地に泉キャンパスを設置
* 1994年(H6)、創立100周年 / 泉校地に校舎落成 / H8年、泉校地に東校舎落成
* 1997年(H9)、東北インターナショナルスクール(T.I.S)開校
* 1998年(H10)、小松島校地に新校舎,全天候型グラウンド落成 / 長野冬季オリンピックにフィギュアスケート男子シングルの本田武史・田村岳斗・女子シングルの荒川静香・ペアの荒井万里絵の4名が在学時に出場
* 2001年(H13)、文理コースの男女共学スタート / H16年、ビジネスコース、フェスティーナ・ジェネラルコースの共学がスタートし、全コース共学となる
* 2009年(H21)、商業科を廃止、普通科を創進コース、文理コース、文教コース、スポーツコースに再編 / 制服を「コムサデモード・スクールレーベル」に変更
* 2010年(H22)、東北インターナショナルスクールが、泉キャンパス東校舎に移転。
* 2017年(H29)、小松島校地に中央校舎(三楽館)完成
* 2019年(H31)、一番町サテライトキャンパス設置
|
「仙台市史 年表」P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P513~514/「東北高等学校」HP
|
|
高等学校(新制) |
東北高等学校(前史) |
1948年(S23) |
<前史>
* 1894年(M27)、東三番丁に私立東京数学院宮城分院創設 / 校名を仙台数学院と改称
* 1898年(M31)、北一番丁に新築移転
* 1900年(M33)、私立東北中学校設立
* 1911年(M44)、社団法人宮城県私立東北中学校と改称
* 1920年(T5)、財団法人東北中学校と改称
* 1929年(S4)、市内原町小田原字南光沢に移転
* 1930年(S5)、財団法人南光学園と改称/東北商業学校設立
* 1939年(S14)、財団法人東北薬学専門学校設立
* 1943年(S18)、戦時の国策に従い東北商業学校を転換して東北農業学校を設置
* 1947年(S22)、東北農学校を廃止し、東北商業学校に転換
|
「仙台市史 年表」P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P513~514/「東北高等学校」HP
|
|
高等学校(新制) |
東北高等学校(学制改革~昭和末) |
1947年(S22)~1988年(S63) |
<学制改革により高校に>
* 1947年(S22)、東北中学校、設立
* 1948年(S23)、東北高等学校および東北商業高等学校を設立
* 1951年(S26)、学校法人南光学園と法人名を改称
* 1960年(S35)、東北商業高等学校と東北高等学校を統合して東北高等学校とし、普通部および商業部を置く
* 1962年(S37)、創立記念日と開校記念日を統合し、9月3日を創立記念日とする / 帽章「南光」の文字を「東北」と改む
* 1963年(S38)、北校舎(鉄筋コンクリート4階建)落成 / S39年に、鉄筋コンクリート3階建管理棟完成、屋外スケートリンク完成
* 1964年(S39)、東京オリンピック出場選手(5名の卒業生)の壮行会を行う。 陸上競技 誉田 徹・油井 潔 自転車競技 赤松俊郎・河内 剛 柔道 神永昭夫
* 1970年(S45)、創立75周年記念体育館落成(フロア、柔道場、剣道場、レスリング場)
* 1974年(S49)、屋外プール竣工、卓球場、食堂落成、鉄筋コンクリート4階建西校舎落成
* 1977年(S52)、トレーニングセンター竣工
* 1978年(S53)、第2体育館落成
* 1980年(S55)、独自の夏季制服を制定 / S58年、独自の通年用制服(ブレザー)を制定
* 1986年(S61)、相撲場を新設、道場開き
* 1987年(S62)、第二校地(仙台市泉実沢)を取得 / S63年に“Athle Field 21”(アスレ・フイールド・トウエンティ・ワン)と命名、体育施設地鎮祭挙行
|
「仙台市史 年表」P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P513~514/「東北高等学校」HP
|
|
民間放送(仙台) |
東日本放送(KHB) |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)10月1日、テレビ放送開始(社屋は上杉2丁目)、コールサインJOEM-DTV
|
「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45
|
|
スポーツ大会(戦後復興期) |
東日本軟式野球 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)秋、第1回東日本軟式野球大会(宮城球場)
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
|
|
銀行(都市銀行) |
東洋信託銀行 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)10月8日、東洋信託銀行仙台支店が東五番丁・名掛丁角に新築移転
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P23
|
|
銀行(都市銀行) |
東海銀行 |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P88
|
|
仙台市営地下鉄 |
東西線開業 |
2015年(H27) |
八木山動物公園駅~ 荒井駅間、計13.9km
* 2005年(H17)4月25、地下鉄東西線工事施行が許可
* 2007年(H19)11月、本体工事着工
* 2015年(H27)12月6日、開業
|
仙台市HP「仙台市のあゆみ」/Wikipedia「仙台市地下鉄」
|
|
幹線道路 |
東部復興道路 |
2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
「東部復興道路は、仙台市宮城野区蒲生から若林区藤塚までの延長10.2km(県道区間6.8km、市道区間3.4km)からなり、約6mかさ上げし、海岸堤防、海岸防災林との多重防御で津波被害を軽減し、内陸側の既存集落や防災集団移転先の安全確保を図るためのもので、津波に対する多重防御の要となるものです。」(復興庁HPより)
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
|
河北新報記事(2019年12月1日)/復興庁HP
|
|
火災(地域) |
東部飲食店街 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)7月10日、アパートなど10棟2500㎡焼失、37世帯94人被災
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P659
|
|
藤崎(戦後期) |
東館 開店 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)11月、「東館」を建設
|
「藤崎170年のあゆみ」P196~197
|
|
松根油 |
松を伐採 |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、栗原郡長岡村より高清水町に至る国道筋の古松の並木、“応召”により伐採に取りかかる(「重訂 宮城県郷土史年表」P500)
* 1944年(S19)10月20日、松根油等緊急増産対策措置要綱決定
* 1945年(S20)3月16日、松根油等拡充増産対策措置要綱、閣議決定
・松根、桧ノ根、針葉樹ノ枝葉樹皮等モ本増産ノ対象
・(要員確保)農山漁村所在労務、農業出身工場労務者ノ帰農、農家ノ子弟タル国民学校卒業者、中等学校学徒動員
・乾溜釜ヲ速カニ設置 ・精製工場ノ急速整備
「仙台市御立場町(現・宮城野区東仙台一丁目)の松原街道(現在の宮城県道8号仙台松島線)の両端に沿って松並木が存在していたが、樹齢300年以上の松もふくむすべての松並木が松根油(しょうこんゆ)採取のために伐採されている」(地元学の会『松原街道にそったまち ひがしせんだい 東仙台一丁目~五丁目・松岡町』(みやぎの区民協議会 仙台市宮城野区役所 2005年刊)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P500/国立国会図書館リサーチナビ/ウィキペディア「松根油」
|
|
映画館(戦前・戦後) |
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場 |
1885年(M18)~ |
→ 項目「松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場」参照
|
|
|
映画館(戦後) |
松竹映画劇場 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)4月、南町通12に開設(560席)
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P510
|
|
銀行(地域の銀行) |
松良銀行 |
1900年(M33) |
* 1900年(M33)7月4日、松良銀行、合議会社で開業(東四番丁) / 木造2階建て下見板張りの洋風建築 / 松良盤植による個人銀行 / 夫人みつと共に常盤木学園高等女学校も創立した
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P350/「仙台市史 年表」P91/「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
|
「目で見る仙台の歴史」P136/「新・目で見る仙台の歴史」P132
|
青葉通り(植栽) |
枝垂れ柳、ケヤキを植栽 |
1950年(S25)~1966年(S41) |
<街路樹の植栽樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P253~254)
・ 高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
助役はネムノキかサルスベリに、課長は大木になる樹種が良い
・ 一市会議員の提案「台原の仙台営林署所有のケヤキを、失業対策事業で移植」をうけて、仙台駅前~東一番丁間にケヤキを植樹、その後西公園までの両側歩道などに計180本ほどのケヤキを植樹
・ 助役は駅前から東二番丁通り角までの中央グリーンベルトには、シュロとユッカラン植栽を指示し、植栽したが、東京農大井上教授視察時に評価低く、ケヤキは高評価だった
* 1949年(S24)4月、植樹式(ケヤキ植え初め式)
・ 台原の国有林から、樹齢15~35年の成木を移植
・ 「東五番丁~西公園間」の両側歩道に計180本のケヤキを植えたが、このうち50本は市会議員全員により市に寄付されて東三番丁~国分町間の歩道に植えられた
* 1949年(S24)5月、東三番丁~東四番丁間の分離帯(中央グリーンベルト)にモデル植樹(高麗芝を地にしてシュロ、さつき、玉伊吹、雪柳、紫南天など約200本)
* 1950年(S25)4月3日、青葉通りでケヤキ植え初め式(「仙台市史 年表」P116)
* 1950年(S25)、仙台駅前~国分町角の歩道、80本のケヤキ植樹 / 当時の市会議員48人が1本ずつ寄贈
* 1950年(S25)末から、しだれ柳植栽
「仙台駅前~東五番丁間」の歩道には、S25年末から100本のしだれ柳を植栽した(写真14-07)
* 1951年(S26)9月、駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される
* 東二番丁通りとの交差点付近の青葉通りの車道にあった分離帯(グリーンベルト)には、高麗芝を地にしてシュロなどを植えていた(写真50-01) / その後、生育が悪くなり、トウカエデを植える→その後、ケヤキに
* 1966年(S41)、青葉通りの植栽が完了(「仙台市史 年表」P125)
* 1971年(S46)、ケヤキの並木にも赤信号(車の排気と車歩道の全面アスファルト化による公害)(「重訂 宮城県郷土史年表」P678)
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P253~254/「仙台市史 続編1(行政建設編)」P324、P468/「戦災復興余話」P51~P53/「仙台市史 年表」P116、P125
座談会「仙台 戦中戦後を語る」/「重訂 宮城県郷土史年表」P678
|
14-07、18-21、14-01、22-17、201-11、50-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P163(S26年、ケヤキ植栽セレモニー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P23(S33、東五番丁角付近)、P44(S33頃、仙台駅近くの枝垂れ柳並木)/同P92(S45、緑の欅並木、カラー)/同P98(S46、中央分離帯あり、ケヤキ並木)
|
X橋(宮城野橋) |
架設 |
1920年(T9)または1921年(T10) |
1920年(T9)8月1日、名掛丁に陸橋宮城野橋(通称エックス橋)が架設される(東北本線の線路を越える橋で、橋の取付道路が両方とも二方向に分かれていたので、通称X橋とよばれた)
* 1921年(T10)、宮城野橋を名掛丁に架設す(長さ30.8m、幅7.3m)(「重訂 宮城県郷土史年表」)
* 1921年(T10)、仙台市X道路新設(「仙台年表」P194、出典:河北新報26.10.25)
* 1961年(S36)、架け替え(「仙台クロニクル」P120)
* 2017年(H29)、上下6車線の3代目の橋、完成(「仙台クロニクル」P120)
* 2017年(H29)、片側3車線の大きな橋に改装されて1本の道路になった / 東北線をはさんで西側のX橋下にあった赤レンガづくりのトンネルも橋の改装でなくなった(「戦争のころ 仙台、宮城」P250)
|
「仙台市史 年表」P99/「仙台市史10年表」P255/「重訂 宮城県郷土史年表」P383/仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P250
|
22-15/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図12~13(空撮S40,空撮H8)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、2代目の橋)
|
国定公園 |
栗駒国定公園 |
1968年(S43) |
* 1968年(S43)7月22日、栗駒山を中心にする一帯を国定公園に指定(岩手県、宮城県、秋田県、山形県にまたがる大規模な山岳国定公園)
|
Wikipedia「栗駒国定公園
|
|
高等学校(新制) |
栴檀学園高等学校/東北福祉大学付属高校 |
1948年(S23)~1975年(S50) |
<前史>
* 1896年(M19)、曹洞宗仙台専門支校、東二番丁で発足
* 1902年(M35)、曹洞宗第二中学校と改称、南鍛冶町へ新築移転
* 1926年(T15)、栴檀中学と改称、伊勢堂山(国見1丁目)に移転(鉄筋コンクリート3階建て)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎の約6割を焼失
<学制改革で高等学校に>
* 1948年(S23)、栴檀学園高等学校設置、中学校も併置
* 1958年(S33)、東北福祉短大設立に伴い、同附属高校に改称
* 1960年(S35)、商業科を併置、校舎も完備
* 1962年(S37)、短大廃止、東北福祉大学設立に伴い、その付属高校となる
* 1968年(S43)4月、名称を栴檀学園高等学校へ戻す / 男女共学制採用
* 1975年(S50)、廃校
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P516~517/「東北福祉大学」HP
|
「目で見る仙台の歴史」P149に「栴檀中学校舎(大正15年)」
|
映画館(戦前) |
森徳座 |
明治時代~1931年(S6) |
→ 項目「森徳座」参照
|
|
|
青葉通り |
概要 |
|
仙台市は、1945年(S20)7月10日の仙台空襲で広範な中心市街地を焼失したが、「青葉通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、仙台駅前から焼失地域を東西に貫き大橋へつながる幹線として新たに生まれた
長さ1.5km、幅員は、仙台駅前から東二番丁角までが50m、それ以西の西公園までが36m / 開通時には車道の両端近くに2本の分離帯があったが、その後交通渋滞解消のため取り払い、中央分離帯1本にした / 1965年(S40)に1本化工事着手
<曲直問題>
路線計画策定段階で、東五番丁交差点の前後を10度屈折か直線かで利害対立あり、半年余り紛糾、1948年(S23)5月建設院総裁裁定で10度屈折で決着(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P324~328に詳述)
|
「戦災復興余話」P27~P55/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~328
|
14-07、99-031など「写真データベース」A-05-05「青葉通り」の写真全部/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P762(銀行が立ち並ぶ青葉通り(S40年代前半)/「目で見る仙台に歴史」P188(S33頃、駅前から伸びる青葉通り俯瞰)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(S32年、青葉通り)/同P185(H1頃、俯瞰)/「市民の戦後史(仙台市)」P61(S26年10月、青葉通りと南町通り一帯空撮)/同P108(S32年、雪化粧の青葉通り空撮)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P36~37(S33年頃、東三番丁角付近から西方向)/同72~73(S39年、カラー、駅前から西方向)/同P76~77(S39、カラー、藤崎から東方向)/P79(S39、カラー、藤崎屋上から西方向)/同P104(S51、東五番丁角以西)
|
ブラザー軒 |
概要 |
|
ブラザー軒は、仙台初の本格的な西洋料理店(高級レストラン)
1) 1901年(M34)か1902年(M35)、新国町で創業
2) 1910年(M43)、東一番丁通りに新築移転するが3年後に焼失
3) その後は森徳横丁で営業
第二師団の将校たちがよく利用したほか、東北帝国大学や仙台高等工業学校の学生たちも送別会や歓迎会などで利用した
|
「東一番丁物語」(柴田量平著)P112/「仙台市史 特別編4 市民生活」P352
|
62-14
|
南町通り(多門通り) |
概要 |
|
・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
|
「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
|
53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
|
東二番丁通り(拡幅) |
概要(戦後) |
|
・ 東二番丁通りは、定禅寺通角~五橋通角までの周辺一帯が仙台空襲(S20年7月)で焼失したが、戦後の戦災復興事業により(それまでの)幅員8mから50mに拡幅され、市中心部を南北に貫く幹線道路となった
・ その際、拡幅予定線上にあった堅ろう建物(三井生命、商工会議所、市立病院表玄関、協和銀行、逓信病院、東北学院中学校、宮城学院)の移転や撤去に時間がかかり、建物が拡幅された道路上にはみ出した状態がしばらく続いたが、1958年(S33年)7月までにすべて移転、撤去が完了し、幅50mの全線が完成した
・ 北の起点に近い三井生命はビルごと移転させた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132)
・ 両側には歩道(幅9m)と、車道内には2本の側方分離帯(幅3m)が設けられ、車道は側方分離帯にはさまれた中央の15m幅に片側2車線ずつと、2本の側方分離帯と歩道との間に5.5m幅の停車帯および低速車線が両側に設置された
・ 戦災で失われた緑を復活させて杜の都を復興する目的があり、側方分離帯と歩道には並木が設けられた
* 1975年(S50)4月1日、五橋通り角からさらに南へ延伸されて当時の仙台市立病院前交差点(*)までの区間が開通、この時期に全線の側方分離帯を廃止して中央分離帯を設け、片側4車線の道路へと改修された <* 注> 仙台市立病院はその後、2014年(H26)11月1日に長町へ移転した
* 1986年(S61)、クランク型につながっていた東二番丁通りと勾当台通りが、勾当台公園の端を削ってゆるいカーブで繋がった
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P132/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345、P349/「続・ 宮城県郷土史年表」P39/Wikipedia「東二番丁通り」(2018年現在)を参考にした
|
拡幅中の東二番丁通りは、22-24">22-24、53-20、22-25">22-25、22-26、36-06、22-23、36-05、36-04、36-03、98-028">98-028、36-06-01、22-24">22-24、22-25">22-25、201-03、98-028">98-028
/「市民の戦後史(仙台市)」P66(無電柱の東二番丁通り)/同P77(拡幅部分にはみ出した宮城学院校舎)/同P76(S28、拡幅中の東二番丁・中央通り交差点付近)/「目で見る仙台の歴史」P177(拡幅部分にはみ出した協和銀行)/「「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P133の写真33(東二番丁通り俯瞰、側方分離帯にも街路樹あり)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図39~40(S32年拡幅中、H8年カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P38(S33年 空撮 北端のクランク状態がわかる)、同P39(S33年空撮、河北新報付近)、同P60(S38、北端)
|
西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦前 |
仙台市中心部、広瀬川東岸にあり、東の榴ケ岡公園とならんで、仙台の代表的な公園
* 1875年(M8)6月、宮城県が設置(市史年表P81)
宮城県県令が旧仙台藩門閥の3つの邸地5447坪を収容し明治8年に公園とし「櫻ケ岡公園」と称した(別に本柳町公園、西公園とも称した)
園内には、
・ 桜ケ岡大神宮のほか、
・ 戦前は仙台市公会堂の木造本館(M42年に市が割烹・挹翠館=ゆうすいかんを買収)と洋館の新館(T5年竣工)
・ 公会堂前付近にS3年5月、地元有志「桜ケ岡会」により、動物園・噴水・池などが新設された。(Wikipedia「西公園」)
・ 軍馬の銅像(日露役殉死軍馬銅像)
・ 朝鮮館(S3年の東北産業博覧会の展示館の1つで、博覧会後に寄付された仙台市が民間に貸し付け、仙台銘産品の紹介所と喫茶があった)
・ 殉職消防組員招魂碑(S6年6月建立)
・ 花壇(S7年11月、市民の寄付で設置)などがあった
軍馬の銅像は戦時中の金属回収で1943年(S18)か1944年(S19)に供出され、戦後しばらくは台座のみが残っていた 公会堂(本館、新館)は仙台空襲(S20年7月)で焼失、朝鮮館は焼失を免れたが、1950年(S25)に解体された
<参考>
・ 以上の記述にある「桜ヶ丘大神宮」「仙台市公会堂」「挹翠館」「軍馬の銅像」「朝鮮館」を、キーワードで検索すると、それぞれの詳細な記述あり
・ 「仙台市史本篇2 P371」に戦前期(推定、S5~6年頃)の公園の平面図がある ⇒ 写真[98-074]はその平面図の接写
|
「仙台市史 年表」P81/「仙台市史 本編2」P367~373の「桜ガ岡公園」/Wikipedia「西公園」/「仙台あのころこのころ八十八年」P246
|
53-63、99-119、44-67など分類D-13-02「桜ケ岡公園(西公園)」の全写真/「公園内見取り図」(昭和5~6年頃)は、98-074/「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P119(桜ケ岡大神宮の鳥居と社殿)
|
西公園(桜ケ岡公園) |
概要、公園内の施設など |
戦後 |
<戦後>
・ 仙台空襲後の住宅難対策で一時期は集団公営住宅(60棟)が建てられていたが、戦災復興事業により北方に大拡張し、あわせて3万6230坪の公園として整備された(11.45haに拡張)
* 1947年(S22)3月13日、戦災復興事業による道路・公園名の公募の結果、名称は「西公園」と決定 / S23年から整備開始
* 1949年(S24)4月20日~5月31日、西公園で、仙台復興祭グランド・フェア開催
* 1950年(S25)6月、軟式野球場
* 1960年(S35)8月、仲の町の「不法占拠住宅」約200世帯のうち、一部を強制立ち退き
* 2015年(H22)12月6日、地下鉄東西線開通し、最寄駅の「大町西公園駅」開業
<天文台>
* 1955年(S30)2月1日、西公園に、民営の仙台天文台が開台(市史年表P119) / 41センチ・マケリン氏反射赤道儀、当時は全国4番目の大きさ(「重訂 宮城県郷土史年表」P575)
* 翌年、市に寄贈され、市営の「仙台市天文台」に
* 1968年(S43)5月、プラネタリウム館併設(河北新報社寄贈)
* 2007年(H19)11月25日、観覧業務終了(翌年、新天文台が青葉区錦ケ丘にオープン) → 項目「仙台市天文台」参照
<市民プール>
* 1961年(S36)7月20日、市民プール(西公園プール)が西公園西下の中瀬に竣工し、落成式(22日に開園)(市史年表P112)
* 2006年(H18)、西公園プール廃止
<市民図書館>
* 1962年(S37)10月27日、公園内に、市民図書館が設置された(市史年表P112)
* 1962年(S37)10月、浜夢助の句碑「雪国にうまれ無口に馴らされる」市民図書館付近に建立
* 2001年(H13)1月、メディアテーク完成と同時に「仙台市民図書館」を移転
<こけし塔>
* 1961年(S36)3月27日、仙台市の戦災復興都市計画事業完了を記念して、西公園で「こけし塔」除幕式がおこなわれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P600)
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P464~465/「仙台市史 年表」P119、P122/「仙台市史 本編2」P36~37の「桜ガ岡公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P601、P606、P607/Wikipedia「西公園」/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P601
|
「目で見る仙台の歴史」P178(戦後の西公園)/「市民の戦後史(仙台市)」P129(戦災復興都市計画事業完了記念こけし塔)/同P136~137(市民プール)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール、カラー)
|
戦時中の物資統制、使用規制 |
概説 |
|
・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。
・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
|
「目で見る仙台の歴史」P170
|
「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
|
進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
|
「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
|
90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
|
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
概説 |
|
<場所> 勾当台通に面し図書館の北隣
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、商品陳列所と工業試験場の位置が分かる
<名称変遷>
1901年(M34)、宮城県物産陳列場 →1921年(T10)、宮城県商品陳列所 →1935年(S10)、宮城県商工奨励館
<建物>
1901年(M34)建設 →1923年(T12)か1924年(T13)に改築
<工業試験場>
1924年(T13)か1925年(T14)に宮城県工業試験場を併設
|
|
98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
|
瞑想の松 |
概説 |
|
樗牛瞑想の松
・ 樹齢600年以上と伝えられる赤松
・ 明治20年代に旧制第二高等学校に在学した高山樗牛(のち、1年半ほど旧制二高教授)が、ここで瞑想にふけったといわれ、松は土井晩翠らの説得で伐採を免れたという
・ 場所は、台原天神山の東北医科薬科大学の構内
|
|
08-07、53-112/「新・目で見る仙台の歴史」P150に「樗牛肖像、瞑想の松)
|
東北学院榴ケ岡高校 |
榴ケ岡に高校分校/東北学院榴ケ岡高等学校 |
1959年(S34)/1972年(S47) |
* 1959年(S34)4月、高等学校榴ケ岡校舎を開設(高校生急増対策として県市の要望もあり、榴ヶ岡に男子部の高校分校を設置)
* 1972年(S47)4月、榴ケ岡校舎が独立して東北学院榴ケ岡高等学校となり、8月に泉市市名坂に移転
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P592/「東北学院」HP/「東北学院榴ケ岡高等学校」HP
|
|
高等学校(新制) |
榴ケ岡に高校分校/東北学院榴ケ岡高等学校 |
1959年(S34)/1972(S47)年 |
* 1959年(S34)4月、東北学院高等学校榴ケ岡校舎を開設(高校生急増対策として県市の要望もあり、榴ヶ岡に男子部の高校分校を設置)
* 1972年(S47)4月、榴ケ岡校舎が独立して東北学院榴ケ岡高等学校となり、8月に泉市市名坂に移転
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P592/「東北学院」HP/「東北学院榴ケ岡高等学校」HP
|
|
宮城県図書館(戦後) |
榴ヶ岡へ移転/泉区へ移転 |
1968年(S43)/1998年(H10) |
<榴ヶ岡へ>
* 1968年(S43)1月17日(18日?)、榴ケ岡に新築移転し開館
<泉区柴山へ>
* 1998年(H10)3月21日、泉区芝山に新築移転し、開館
|
「重訂 宮城県郷土史年表」P637/「市民の戦後史(仙台市)」P208
|
「市民の戦後史(仙台市)」P208(榴ヶ岡の宮城県図書館外観、閲覧室)
|
駐留軍(米軍) |
榴ヶ岡キャンプ返還 |
|
* 1956年(S31)6月、榴ヶ岡キャンプ(キャンプ・ファウラー)返還
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P282
|
|
広瀬通り |
横断地下道 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)5月16日、広瀬通地下歩道、一部完成
* 1987年(S62)4月13日、横断地下道開通
|
「続・ 宮城県郷土史年表」P205、P222
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
欠食児童 |
|
・ 荒町国民学校、全児童2000人中、食糧事情による欠席が1割近くあり、授業は午前中のほか体操は休ませる措置 / 十日間も野菜だけを食べ、米を一粒も口にしない児童が50人いた
・ 東六番丁国民学校では、昼食抜きの児童が3分の1に達し、子供らしくはしゃぎまわる姿もない
・ 仙台中学では、週5日授業で山菜とり、県立一高女など各校でも野草・山菜つみに近郊へ出かけた
☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり
|
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P70~71/「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407
|
「仙台市史 特別編4 市民生活」P405(敗戦直後に野外で食事する子供たち)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ)
|
爆弾三勇士 |
歌発表音楽会開催 |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)4月14日、「爆弾三勇士の歌」発表音楽会、仙台市公会堂で開催 / NHK仙台放送局がラジオ中継放送
* 1934年(S9)2月22日、爆弾三勇士銅像除幕式(東京芝区の青松寺)
【中公文庫「日本の歴史24 ファシズムへの道」P346】 「爆弾三勇士(または肉弾三勇士)は、第1次上海事変で「3人の日本兵が火のついた破壊筒をもって身体ごと敵(中国)の鉄条網に突進し、突破口を開いた」という。(昭和7年2月22日) 当時、国民精神作興のため“美談"として銃後(国内)で大々的に宣伝された。」
【「昭和生活文化年代記・戦前編」P256】
・ 映画5社が「肉弾三勇士」を一斉に封切ったほか、ラジオ、出版、芝居などにもブーム
・ S7年、キリンビールの広告に「爆弾三勇士」
・ S10年、レートクレームの広告「肉弾三勇士」をもじった化粧品広告
|
「仙台放送局60年のあゆみ」P5
|
53-68(仙台七夕の仕掛け物「爆弾三勇士」)
|
土井晩翠 |
歌碑、詩碑 |
1952年(S27) |
<樗牛瞑想の松の歌碑>
・ 土井晩翠の歌碑「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」が樗牛瞑想の松(台原)の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<荒城の月詩碑>
* 1952年(S27)7月11日、土井晩翠詩碑除幕式(「仙台市史10 年表」P328)
* 1952年(S27)8月11日、荒城の月四節全文、青葉城址に建立、除幕式(「重訂 宮城県郷土史年表」P557、「仙台市史 続編第2巻]P270)
・ 晩翠忌には、晩翠賞を東北の詩人に授賞し、毎年市内の小学生や幼稚園の子ども達が荒城の月詩碑前で「荒城の月」を合唱や木琴合奏(「仙台市史 続編第2巻」P189)
<詩碑「天地有情」>
* 1949年(S24)4月(9月?)、本荒町に晩翠草堂完成、旧制二高同窓会が草堂前に晩翠の詩碑「天地有情」を設置
|
「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P270/「市民の戦後史(仙台市)」P70/「仙台市史 続編第2巻」P189
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P189の写真55(荒城の月詩碑)/「目で見る仙台の歴史」P137に「晩翠肖像写真」/「市民の戦後史(仙台市)」P41(晩翠草堂と詩碑)/「市民の戦後史(仙台市)」P70(荒城の月詩碑、市葬)
|
瞑想の松 |
歌碑建立 |
1941年(S16) |
・ 「いくたびか真昼の夢みたる高山樗牛瞑想の松」という土井晩翠の歌碑、瞑想の松の脇に建てられた
* 1941年(S16)初春、「高山樗牛瞑想の松碑を萱場資郎たつ」(佐々久著「仙台の散策」)
<WEBサイト 松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』 https://www.tohoku-mpu.ac.jp/laboratory/germany/cyogyuu.bak より>
「・ 樗牛の没後、40年近くを経て、仙台の北部、台原の丘陵の一角、一本松の根元に、樗牛を顕彰する記念碑が建立されることになった。実は、昭和15年頃に、開発(軍需工場の建設?)のために、この松の伐採計画が持ち上がる。幸いにも、心ある人々の尽力のお陰で、その伐採計画は白紙に戻され、さらに樗牛を顕彰する碑の建立が計画されたのだった。(中略) 「高山樗牛冥想の松」が「仙台市民の憧憬の松」であり続けたことが、この松の保存と記念碑建立の要因として挙げられねばならない。(中略) この「樗牛顕彰の碑」建立の記念式典は、昭和16年6月1日に挙行された。
・ 「冥想の松保存会」は昭和17年3月に成田正毅著『高山樗牛冥想の松』と題する記念誌を発行したが、そのなかに、前年(昭和16年6月1日)に行なわれた樗牛顕彰碑建立の記念式典の式次第が掲載されている。」
|
佐々久著「仙台の散策」/WEBサイト・松山雄三研究報告『高山樗牛と「冥想の松」』
|
|
敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
|
・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
|
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
|
|
NTT東北支社 |
民営化スタート |
1985年(S60) |
<これ以前は、項目「日本電信電話公社」に>
* 1985年(S60)4月1日、日本電信電話公社が民営化し、日本電信電話株式会社に / NTTは民営化以前から使われていた略称
* 1988年(S63)4月1日、NTT東北支社が、仙台周辺地区で、伝言ダイヤルサービス開始
|
「仙台市史年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P242
|
|
軍需工場(宮城県内) |
民間工場 |
|
・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品
・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼
・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など
・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー
・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業
・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造
|
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159
|
|
商店など |
永楽園(茶舗) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)、山形市からきて、国分町で開業
* 大正初期に家具販売も、銘茶・漆器・家具を扱う家庭洋品百貨店に
* 漆器や家具販売部門が独立 / 茶は一番町
|
「番丁詳伝」P99
|
永楽園の七夕飾り物(79-01 ほか)
|