項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
東北学院中学部 |
東二番丁(赤レンガ校舎)
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1922年(T11)
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<東二番丁・再建校舎=赤レンガ校舎>
・ 南町大火で焼失した東二番丁の旧校舎の跡地に再建
・ 鉄筋コンクリートレンガ張り(通称「赤レンガ校舎」)
・ 正面入り口に「LIFE LIGHT LOVE」が掲げられている
* 1922年(T11)6月、新校舎建築(赤レンガ校舎)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で被災(外観は残る)
<名称変更>
* 1943年(S18)、中学部→中学校
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「東北学院創立七十年写真誌」P32~35 /「東北学院」HP
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「東北学院創立七十年写真誌」P33~35、P44、P60の写真
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東北学院(専門科/専門部/高等学部) |
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1904年(M37)~1944年(S19) |
<専門部の校舎>
・ 大正11年9月、南町通り→東二番丁の仮校舎へ(中学部の)
・ 大正15年9月、東二番丁仮校舎→南六軒丁の新校舎へ
<専門科→専門部>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部と改称(文学部を文科、神学部を神学科と改称)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
<土樋キャンパス(南六軒丁)>
* 1926年(T15)、南六軒丁に専門部校舎完成(のちの土樋本館)、9月より使用 / 鉄筋コンクリート3階建
<専門部→高等学部>
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、礼拝堂献堂式、高等学部の講堂落成式
* 1942年(S17)9月、高等学部の文科と師範科廃止
* 1943年(S18)、高等学部商科を高等商業部と改称(S20年に廃止)
<航空工業専門学校>
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置
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「東北学院創立七十年写真誌」末尾年表
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「目で見る仙台の歴史」P149と「東北学院創立三十年写真誌」P37に、「専門部校舎(大正15年竣工)」
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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大学・短大 |
東北工業大学(2) |
2004年(H16)以降 |
* 2004年(H16)4月、工学部通信工学科を情報通信工学科に名称変更
* 2005年(H17)4月 情報処理技術研究所を改組 / 新技術創造研究センター、eラーニングセンター及び情報ネットワーク管理室を開設
* 2007年(H19)4月 工学部電子工学科を知能エレクトロニクス学科に名称変更
* 2008年(H20)4月、ライフデザイン学部開設(クリエイティブデザイン学科・安全安心生活デザイン学科・経営コミュニケーション学科開設)、工学部デザイン工学科募集停止
* 2008年(H20)4月、香澄町キャンパスを八木山キャンパスに、二ツ沢キャンパスを長町キャンパスに名称変更
* 2011年(H23)4月、工学部建設システム工学科を都市マネジメント学科に名称変更
* 2012年(H24)4月、工学部環境エネルギー学科を開設、工学部環境情報工学科募集停止 / 大学院ライフデザイン学研究科デザイン工学専攻開設、大学院工学研究科デザイン工学専攻募集停止
* 2013年(H25)1月、 長町キャンパス4号館完成
* 2014年(H26)4月、 新技術創造研究センターを地域連携センターに改称
* 2016年(H28)4月、情報センターにe-ラーニングセンターを統合し、情報サービスセンターに改称
* 2017年(H29)4月、工学部知能エレクトロニクス学科を電気電子工学科に名称変更
* 2020年(R2)4月、工学部環境応用化学科 設置(工学部環境エネルギー学科 募集停止)/ 建築学部建築学科設置(工学部建築学科 募集停止) / ライフデザイン学部クリエイティブデザイン学科を産業デザイン学科に名称変更、ライフデザイン学部 安全安心生活デザイン学科を生活デザイン学科に名称変更
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「東北工業大学」HP
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/「市民の戦後史(仙台市)」P179(八木山キャンパス)
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大学・短大 |
東北工業大学(1) |
1964年(S39)~2003年(H15)
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* 1964年(S39)4月、東北工業大学開学(電子工学科・通信工学科設置)
* 1965年(S40)、法人名変更、学校法人東北工業大学
* 1966年(S41)4月、建築学科増設
* 1967年(S42)4月、土木工学科・工業意匠学科増設
* 1982年(S57)4月、情報処理教育センター発足
* 1985年(S60)4月、情報処理技術研究所設置
* 1990年(H2)4月、二ツ沢キャンパス開設
* 1992年(H4)4月、大学院工学研究科修士課程開設、同専攻教職課程開設
* 1994年(H6)4月、大学院工学研究科博士課程開設
* 1997年(H9)6月、ハイテク・リサーチ・センター設置
* 2001年(H13)4月、環境情報工学科増設
* 2003年(H15)4月、工学部土木工学科を建設システム工学科に、工学部工業意匠学科をデザイン工学科に名称変更
* 2003年(H15)10月、香澄町キャンパス9・10号館完成、一番町ロビー開設
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「東北工業大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P558/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P538
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P538 /「新・目で見る仙台の歴史」P142
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大学・短大 |
三島学園女子大学/東北生活文化大学 |
1958年(S33)/1987年(S62) |
<前史>
* 1900年(M33)10月28日、三島駒治が「東北法律学校」を東三番丁に開校(夜間、修業年限は本科3年、別科1年)
* 1903年(M36)10月10日、東北女子職業学校(本科・別科・高等研究科)を創設
* 1913年(T2)9月、東三番丁より清水小路へ校舎を移転
* 1922年(T11)3月、東北法律学校を廃止
* 1926年(T15)3月、東北女子職業学校に高等師範科を設置
* 1940年(S15)3月25日、財団法人三島学園設立認可(理事長 三島駒治)
* 1944年(S19)4月15日、東北女子職業学校を東北女子実業学校に改称
* 1951年(S22)2月22日、財団法人三島学園を学校法人三島学園に改組(理事長、佐藤 兊)
* 1947年(S22)2月、三島学園女子専門学校を設置
* 1948年(S23)3月、東北女子実業学校を廃止
* 1951年(S26)3月、三島学園女子専門学校を廃止し、4月、三島学園女子短期大学(被服科)を開校(→ 以下、短大は、小項目「三島学園女子短期大学」参照)
<大学>
* 1958年(S33)1月、三島学園女子大学(家政学部家政学科)を設置 / 4月開校
* 1974年(S49)12月、清水小路より泉市上谷刈(現:仙台市泉区虹の丘:当時丸田山校地と呼んだ)にキャンパスを移転
* 1987年(S62)4月、 三島学園女子大学に男女共学制を導入、校名を東北生活文化大学と改称
* 2000年(H12)10月、三島学園創立100周年記念事業
* 2004年(H16)4月、三島学園女子短期大学を男女共学とし、校名を東北生活文化大学短期大学部に改称
* 2008年(H20)、大学創立50周年
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「東北生活文化大学」公式HP/「仙台市史 年表」P91、P120/「重訂 宮城県郷土史年表」P587/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P545/Wikipedia「東北生活文化大学」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P545(清水小路の三島学園女子大学)
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大学・短大 |
三島学園女子短期大学/東北生活文化大学短期大学部 |
1951年(S26)/2004年(H16) |
* 1951年(S26)3月31日、三島学園女子専門学校廃止
* 1951年(S26)4月1日、三島学園女子短期大学開校(被服科)
* 1974年(S49)12月、清水小路より泉市上谷刈(現:仙台市泉区虹の丘:当時丸田山校地と呼んだ)にキャンパスを移転
* 2004年(H16)4月、三島学園女子短期大学を男女共学とし、校名を東北生活文化大学短期大学部に改称 / 生活文化学科(生活学専攻・子供生活専攻)
* 2008年(H20)、生活文化学科(生活学専攻を廃止)
* 2013年(H25)、食物栄養学専攻新設
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「東北生活文化大学短期大学部」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P545
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P545(清水小路の三島学園女子大学・短大)/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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東北産業博覧会 |
開催 |
1928年(S3) |
* 1928年(S3)4月15日~6月8日、仙台で、「東北産業博覧会」開催
・ 仙台商工会議所主催
・ 第一会場は川内の元騎兵隊跡(新築早々の仙台第二中学校)
第二会場は桜ケ岡公園(=西公園)
第三会場は榴ケ岡公園
・ 第一と第二の会場間には、広瀬川をまたぐケーブルカー架設、広瀬川に向かってウォーターシュートも設置
・ 「県庁舎(昭和6年)、市庁舎の改築(昭和4年)と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった」(「番丁詳伝」P123)
「東北産業博覧會記念寫眞帖」の記述
→「不景気挽回策と銘打って、延期5日間を加えて55日間開催、入場者は昼間153万1千人、夜間13万2千人。 市民から集めた寄付金十余万円・・・・・・」
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「東北産業博覧會記念寫眞帖」/「番丁詳伝」P123
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「目で見る仙台の歴史」P158に「会場写真」/「新・目で見る仙台の歴史」P143、P148/99-149、34-01、61-13、63-10、95-01、95-02/「東北産業博覧會記念寫眞帖」 に関連写真多数/「仙台市史 特別編4 市民生活」P42(東北産業博覧会ポスター2種、カラー)/同P233(博覧会会場全図、カラー)/「新・目で見る仙台の歴史」P148(会場間のケーブルカー、第一会場入場門、ポスター)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P233(会場図、カラー)
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大学・短大 |
東北福祉短期大学 |
1958年(S33)~1962年(S37) |
* 1958年(S33)4月1日、荒巻伊勢堂に開校
* 1960年(S35)4月、専攻科併設
* 1962年(S37)4月、四年生大学へ昇格
( → 以下、小項目「東北福祉大学」参照)
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「東北福祉大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P556/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539~540
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大学・短大 |
東北福祉大学 |
1962年(S37)~ |
<前史>
* 1875年(M8)、宮城県曹洞宗専門学支校として現在の仙台市若林区荒町に創立
* 1926年(T15)、栴檀中学校と改称、現在地(国見キャンパス)に移転
* 1948年(S23)、新制栴檀学園高等学校設置
* 1951年(S26)、学校法人栴檀学園となる
* 1956年(S31)、東北社会事業学校、発足
<短大>
* 1958年(S33)、東北福祉短期大学を開学
* 1962年(S37)、東北福祉短期大学を廃止
<大学>
* 1962年(S37)、東北福祉大学を開校(市内伊勢堂)
* 1975年(S50)、栴檀学園高等学校廃止
* 1982年(S57)、国見ケ丘第2キャンパス総合運動施設竣工
* 1986年(S61)、トレーニングセンター(全天候型体育館)完成
* 1989年(H1)、H-one館竣工、芹沢銈介美術工芸館竣工
* 1994年(H6)、音楽堂「けやきホール」竣工
* 2000年(H12)、大学院棟(5号館)竣工
* 2003年(H15)、ウェルコム21竣工
* 2005年(H17)、6号館竣工
* 2007年(H19)、北山キャンパス運動場竣工、ステーションキャンパス館竣工
* 2008年(H20)、東北福祉大学附属病院 せんだんホスピタル開院(精神科・児童精神科・内科)
* 2015年(H27)、仙台駅東口キャンパス開設、通信教育部と東北福祉看護学校を移転
* 2016年(H28)、仙台駅東口キャンパスに「TFUギャラリーMini Mori」開設
* 2018年(H30)、国見ケ丘第2キャンパス陸上競技場改修
* 2019年(H31)、仙台駅東口キャンパスに「芹沢銈介美術工芸館」を移転
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「東北福祉大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P557/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P539~540
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P540/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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用語(大東亜共栄圏) |
用語の使用はいつ始まったか |
1940年(S15)8月 |
有田八郎外相(第2次近衛内閣)の1940年(S15)8月のラジオ放送に始まるとされる
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「東洋経済新報社 百年史」P647
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仙台七夕 |
終戦直前、1本の七夕飾り/戦後復活七夕第1号 |
1945年(S20)/1946年(S21) |
<終戦直前、1本の竹飾り>
* 1945年(S20)8月5日、「広島へ原爆が投下されたその前日、(仙台空襲で焼け残った)一番丁三越前に一本の青竹が風に吹かれていた。近寄ってみると、それは申し訳のように、五色の細く切った紙がつるしてある。仙台に育った私に、いままでこれほど美しいと思ってみた七夕竹はまだなかった。」(一番丁一丁目の瀬川善太郎氏の回顧 / 「番丁詳伝」P156より)
<敗戦翌年、東一番丁で七夕復活>
* 1946年(S21)8月5日、敗戦の翌年夏に東一番丁通りの森権五郎さん(森天祐堂)が仙台で一番早く自分の店の前に七夕飾りを出した
* 1946年(S21)8月6日~7日、東一番丁で商店52軒が一斉に七夕飾りをあげる
・ 戦争が続いて仙台七夕は昭和12年を最後に途絶えていた。
・ S20年7月、仙台は米軍による空襲で市中心市街地500ヘクタールが灰燼に帰すが、敗戦翌年のS21年8月、東一番丁の焼け跡に戻って商売を再開した商店主たち52戸(当時の全戸)が、バラック建ての商店街で市内のトップをきっていち早く七夕飾りを掲げ、多くの市民が見に訪れた / 森さんがトラックで近郊から竹を手に入れ運び、52軒に配った / 市民による戦後復興の狼煙となった
【「番丁詳伝」P156】より 「昭和21年は、新円切換えや農地改革が行われ、食糧事情は極度に悪化して生きることに汲々としていた混乱の時であった。(空襲の)焼け跡がまだだいぶ残り、歯の抜けたようにまだ軒並みも続かない東一番丁だった。 (8月)7日付けの河北新報は「十年ぶりの七夕祭り涙の出るほど懐かしい」の見出しで紙面をさいたが、これは復興に活を入れるとの心意気で東一番丁の人々が相はかって企画したので、荒れすさんだ生活となにもない欠乏時代の市民に一抹の清涼剤となった。(中略)52本の七夕飾りが取り去られた8月中旬、東一番丁旧一力邸跡で盆踊り、また広瀬川に5年振りで灯篭流しが行なわれるというように、この年の夏の行事は平和をとりもどした喜びの祭りとなった。」
<参照> 仙台七夕の概要は、当サイト内、写真データベースの【解説】E 「仙台七夕」
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「森権五郎さんの手記」/「仙台市史 年表」P114/「仙台市史年表 10 年表」P313/「仙台あのころこのころ八十八年」P250/「番丁詳伝」P156
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53-12(森さんが掲げた戦後七夕第1号)
/「市民の戦後史(仙台市)」P33(東一番丁・戦後復活した七夕に集まった人々)
/戦前・戦後の七夕は、写真分類E「仙台七夕」の全写真
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映画館(戦前) |
仙台の映画館一覧 |
大正末期~昭和初期
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・ 東一番丁(北部) 森徳座(昭和6年閉館)
・ 東一番丁(中央部) 日活パテー館
同 仙集館(昭和8年閉館)
・ 東一番丁(文化横丁) 文化キネマ
・ 東三番丁 読売会館(洋画中心)
→項目「仙台東宝劇場」参照
・ 国分町 世界館(大正3年4月開館、
その後日本館、帝国館、キネマ館
と改称、大正11年5月に電気館
・ 河原町 第二パテー館
・ 南鍛冶町 栄楽館(第二仙集館)
・ 長町 長町劇場(昭和3年開場)
無声映画時代の弁士
「番丁詳伝」P113に、大正末期~昭和にかけ活躍した、各映画館(仙集館、日活松島座、文化キネマ、世界館、パテー館)の弁士名が記載されている
入場料(昭和4~5年頃) 大人一人、20~30銭
(かけそば、ゴールデンバット(たばこ)が5銭、火鉢や座布団の賃料が5銭)
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「番丁詳伝」P108、P112~113/「東一番丁物語り」(柴田量平著)P236
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タクシー |
大正時代 |
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* 1923年(T12)8月、仙台タクシー自動車合資会社、名掛丁に設立、営業開始
* 1925年(T14)、合名会社実用タクシー(裏五番丁)設立、営業開始
・ 大正11年~昭和8年に開業した東一番丁界隈のタクシー業者 / 清水自動車部(清水源太郎、立町通、大正11年)、トモエタクシー(国分町、大正15年)、柳タクシー(本柳町、昭和元年)、サカタタクシー(東二番丁、昭和2年)、キングタクシー(東一番丁、昭和5年、高級車のエセックスとハドソン数台を使用)、第一タクシー(南町)、など9業者あり
* 1925年(T14)12月25日、仙台自動車運転手会、やよい軒に集まり設立(タクシ-、バス運転手、官庁自家用運転手)
・ 宮城県の運転手免許番号簿(昭和4年現在)には、2547号まで記録されている
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「番丁詳伝」P110~111
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金の星(カフェ) |
焼失 |
1941年(S16) |
・ 昭和初期、東一番丁の三越やや南にあった「金の星」は仙台一のカフェといわれた
・ 東久邇宮稔彦王殿下も第二師団長時代に通った伝えられる
・ 女給たちで結成した「金の星楽団」もあり、日中戦争では兵士慰問のため中国大陸に派遣された(「番丁詳伝」P111)
* 1936年(S11)、河北新報主催「麗人同乗のシボレー県下南北早回り競争には、紅組「金の星」の玲子とミチル、白組「エー・ワン」(国分町)のすみ子とたき子が同乗・・・」(河北新報、昭和41年「東一番丁企画シリーズ」より)
当サイト内「市民の思い出・時代の記憶」F-5 市民の楽しみに、金の星楽団につき記述あり
* 1941年(S16)、焼失 (その跡地で印舗の錦章堂が営業)
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「番丁詳伝」P111/焼失年は、東一番丁の錦章堂主人談
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22-53、98-110、47-06、53-34、20-57、44-76
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文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場 |
弁士/トーキー |
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「文化キネマは東京浅草から弁士を招致して新風を吹き込んだという / 日本初のトーキー映画「マダムと女房」もここで上映 / トーキーが盛んになるにつれ、文化キネマ説明部の弁士は職を失うとストライキを行い、これを他館の弁士たちが応援した」
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「番丁詳伝」P113
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仙台市電 |
実現しなかった予定路線 |
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「大正十五年版・仙台市全図」(川名文明堂)によれば、市電の予定路線として、定禅寺通り~北鍛冶町~青葉神社下、長丁~宮町~東照宮下などの計画もあったことがわかる
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「番丁詳伝」P118
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宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
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「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
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99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
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仙台七夕 |
昭和初期、復活させた商人たち |
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【「番丁詳伝」P124】
「昔から仙台の代表的なまつりの一つとして有名であった仙台七夕まつりは、明治以降はほそぼそとその伝統を守ってきたもののその衰退はどうしようもなく、特に大正期から昭和にかけての不況の時代、ますます淋しいものとなっていた。仙台七夕の伝統を生かしながら下火になったこの七夕行事に活を入れたのは大町五丁目の人々である。(以下略)」
【「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100】
・ 「昭和に入ってすぐ、その伝統を生かしながら、下火になった七夕行事に喝をいれたのは大町の人々である。 当時大町五丁目共同会会長の佐々木重兵衛は、町内の桜井常吉、三原庄太らに相談。 『不景気退散』の合言葉で、仙台商人の意気をみせようと町内一斉に七夕を飾りつけて、市民から喜ばれたのは昭和2年のことである。」
・ 「昭和3年6月、東北産業博覧会終了後、昨年の七夕を一層盛大にしようと、佐々木重兵衛の提唱を取り上げた仙台協賛会は、連合協議会の案をもって商工会議所に建議し、共同開催で実施することとした。 参加町内を募ったところ、仙台駅前、名掛丁、新伝馬町、大町通り、国分町、東一番丁、虎屋横丁、立町通り、五丁目新丁、元櫓町など11町会が参加し、八月六日夕四時一斉に飾付けがはじまり仕掛物が披露され、三日二夜にわたる祭典が開幕した。(以下略)」
【「番丁詳伝」P125】
・ 「昭和3年は、11か町会が参加し3日間2夜にわたる復活七夕が開幕、8月6日夕4時から一斉に飾り付けが始まり仕掛け物が披露され3日2夜にわたる復活七夕が開幕、この日は霧さえ立ちこめて今にも雨の降りそうな空模様のなか、しばしば通行整理と交通禁止が行なわれるほどの盛況を呈した。 飾りつけの審査(1~5等)が行われ、大町五丁目が優勝。」
・ 「昭和4年は、8月6日夜を本祭り、7日夜を後祭りとし、前年より4町多い15町会が参加。審査1等には、銀カップの優勝杯と賞金20円、・・・4等5等は5円授与」
・ 「昭和5年には、菖蒲田の外人村、東京、水戸、福島、森岡、青森から団体の繰りこみがあった。道路ごとに南進、北進の一方通行とした。見物客が年毎に増加し臨時列車の運行も」「東一番丁の東一振興会(第一区)では個人審査も行い、軒並み仕掛け物(仕掛け飾り)を飾って話題をまいた。(昭和5年の仕掛け物の具体記述あり)」
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「番丁詳伝」P124~125/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四百年」P100
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戦前・戦後の仙台七夕の写真は、写真分類E-15、E-16、E-17、E-18、E-19
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仙台ホテル(前身の大泉旅館支店) |
仙台駅前に開業 |
1887年(M20)頃 |
<仙台ホテル前史>
* 1850年(嘉永3年)、国分町に大泉旅館開設(「番丁詳伝」P133)
* 1887年(M20)、国分町の旅籠「大泉屋」が、日本鉄道開通に合わせて仙台駅前に支店を開業 / 2階建ての切妻造平入り町屋建築で、1937年(昭和12年)まで使用された(Wikipedia「仙台ホテル」)
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「番丁詳伝」P133/「目で見る仙台の歴史」P124/「仙台市老舗百店史」P129/Wikipedia「仙台ホテル」
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「目で見る仙台の歴史」P124に、開業当時の大泉支店
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仙台市民金庫/仙台信用金庫 |
改称 |
1932年(S7)/1951年(S26) |
* 1932年(S7)10月3日、仙台市民金庫、創立 / 三越進出問題に触発されての設立(「番丁詳伝」P141)
* 1932年(S7)10月、仙台市民金庫を産業組合法により、定禅寺通・東一番丁突き当りに開業(「重訂 宮城県郷土史年表」P433)
* 1951年(S26)10月、仙台市民金庫を仙台信用金庫と改称
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「番丁詳伝」P141/「重訂 宮城県郷土史年表」P433、P552
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53-61、40-07、201-04、07-01-01、22-29/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(29~33年頃)の右端
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仙台空襲 |
東北軍管区発表/号外記事 |
1945年(S20)7月10日 |
<東北軍管区発表 7月10日午前8時>
「B29百機来襲/仙台市街猛爆/各所に火災、生産陣異状なし 敵約百機は今十日零時五分頃より約二時間三十分に亘り仙台市中心部に対し無差別焼夷攻撃を加へ来り市内各所に火災発生せるも概ね五時頃には鎮火せり。市民はかねて準備せられありたる食糧並附近町村よりの炊出しにより本朝直ちに配給を受け逐次指定収容所に復帰し鎮静に帰しつつ市の再建設に向ひ猛進しつつあり。仙台市民は東北一般民衆の粘り強さを如実に発揮しつつあり。」
<河北新報号外 7月10日付>には、
「上記の東北軍管区発表のほか、集団避難の戦災者に、米、味噌、醤油の無料配布を行うこと、片平丁、上杉山通、八幡、東六番丁、連坊小路、五橋、南材木町、南小泉、榴岡、木町通、通町、北六番丁小学校と第二中学校の十三カ所を罹災者収容所とし臨時市役所出張所を設けて罹災証明書、一般物資配給券を交付することにしたことを報じている。」
・ 「救援物資の配給が本格的になされるのは14日からだが、焼のり、コンニャク、塩、茶などで腹を満たすものはなかった。中古衣料は5人以上の家族に1点、タオル1枚、縫い針2本というもので、ちり紙はひとり25枚というような数量であった。」
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「番丁詳伝」P150~151
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仙台空襲 |
仙台北警察署の報告 |
1945年(S20)7月10日 |
<空襲避難中の状況>
【仙台北警察署『仙台空襲の被害と民防空機関の活動状況』より】「東一番丁巡査派出所の後藤、佐藤両巡査にして東一番丁界隈の避難者約百名を誘導、台原方面に向かいつつありたるが、北一番丁野沢醤油店前広場に至るや、前途は火焔にて進む事不能、風の為火焔は渦巻き、行く事は完全に阻まれ如何とも成難き状況に至りたり。 両巡査は此処は安全なりとは謂ひ兼ぬるも避難不能なり。 俺達と此処へ止れ、此処より動くと死ぬぞと連呼し狂象の如き避難者を沈静せしめ事なきを得たり。」
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「番丁詳伝」P151
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仙台空襲 |
空襲体験記 |
1945年(S21) |
<空襲体験記>
「番丁詳伝」P151に、『仙台空襲』に載せられた、空襲体験者の手記、空襲直後の状況の抜粋あり
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「番丁詳伝」P151
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警察(戦後) |
自治体警察 |
1948年(S23)2月~1954年(S29)6月 |
<戦後の警察官>
* 1920年(S20)秋~1946年(S21)11月、警察官は識別を容易にするため、上部に「警察」、下部に「POLICE」と書かれた白布腕章をつけたが、1年有余後に汚損等外観上不体裁ということで廃止(「番丁詳伝」P151)
* 1946年(S21)1月、GHQ覚書により、警察官、佩刀とりさられて丸腰に(かわりに警棒) / 特別に拳銃形態の場合あり(「仙台市史」本編2」P654)
* 1946年(S21)12月24日、仙台北警察署に初の婦人警察官11名配属(「番丁詳伝」P151)
<自治体警察>
* 1947年(S22)12月17日、警察法公布(地方分権化・民主化を目的に国家地方警察・自治体警察設置)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P26)
* 1947年(S22)12月22日、宮城県警察部の機構改正 / 従来の警察署が、「地区警察署」と「市町村警察署」の2本立てとなる / 地区警察署は、仙台地区警察署以下19ケ署 / 市町村自治体署は、仙台市北署以下41ケ署を新設(重訂 宮城県郷土史年表P523)
* 1948年(S23)2月11日、自治体警察発足(重訂 宮城県郷土史年表P525)
* 1948年(S23)3月7日、新警察制度発足、仙台市警察開庁(仙台市史10年表、岩波ブックレット「年表 昭和史」P27、「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1948年(S23)3月7日、自治体警察である仙台市警察本部を設立
* 1950年(S25)1月17日、仙台市警察本部庁舎新築落成移転
* 1954年(S29)6月8日、警察法改正公布(国家地方警察と自治体警察を、都道府県警察に一元化、中央集権化を強める)
* 1954年(S29)7月1日、仙台市警察が廃止され宮城県警察に引き継がれる
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「番丁詳伝」P151/「仙台市史」本編2」P654/岩波ブックレット「年表 昭和史」P26、P27、P33/「仙台市史 年表」P115、P118/「重訂 宮城県郷土史年表」P523、P525/「仙台市史10 年表」P318、P323/「仙台あのころこのころ八十八年」P250
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「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市警察本部)/「市民の戦後史(仙台市)」P38(仙台市警察本部旗)/「市民の戦後史(仙台市)」P80(S29年6月、仙台地区警察署閉庁式看板)
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ひらつか(東一番丁) |
戦後、進駐軍専用店を経営 |
1948年(S23) |
【「番丁詳伝」P152より】
* 1918年(T7)、平塚長蔵氏、塩釜で「ひらつか製菓舗」創設
* 戦時中は、多賀城にある海軍工廠の御用商人として自由に農産物を入手でき、漬物などを大量に生産
* 戦後、仙台・東一番丁(大通り)の一力邸の焼け跡を取得
* 1948年(S23)、敷地内に50m幅の青葉通りが造成しつつあった当時、敷地はヤミ市商人の密集中心地であったが、撤去後、「コックドール」(2階建ての洋風店舗)を建築、開業 / アメリカ進駐軍家族専用の店舗(レストランとフードマーケット)で日本人はオフリミット / 子息の長治氏が英語が話せたことから、進駐軍民生部に日参し、ヤミ市撤去と米軍関係者の利用施設を実現 / 進駐軍専用施設なので原材料の入手に困ることはなかった
・ 1950年(S25)の朝鮮戦争開始により在仙台米軍の大半が引上げ後は、方針を日本人向けに転換した
・ 仙台市高砂に最新技術を取り入れた東北初のオートメーション工場を建設
・ 一番町店舗の改築を行い、和・洋・中の総合レストランビルを完成
・ 平塚製パン、平塚物産、ひらつか、平塚販売等を展開
*****************************************
・ 昭和26年の絵葉書(写真20-01-01)でも、「ひらつか」は表示塔に「ON LIMITS RESTAURANT」とあるように、進駐軍専用のフードマーケット(1階)とレストラン(2階)だった
・ 昭和28年からは、パン・洋菓子販売と日本人むけに喫茶・レストランを経営
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「番丁詳伝」P152/昭和26年発売の絵葉書20-01-01の内容から
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20-01-01、22-07、58-01、58-03
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仙台七夕 |
戦後エピソード |
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* 1949年(S24)、商工会議所を中心に、市、県、各商店会で七夕協賛会が結成され、開催期間を8月5日から3日間と決定(「番丁詳伝」P157)
* 1953年(S28)から、仙台商工会議所が公募してミス七夕コンテスト
* 1954年(S29)、東一番丁にアーケード設置され、親竹・子竹と大小の七夕飾り(高さ制限、歩道で2.1m、車道で4.5m以下)
* 1955年(S30)、壱岐紙店が雨に強いシリコン加工の七夕紙の試作成功
・ 七夕流しの習慣は清掃法の強化でなくなる
・ 七夕音頭、七夕踊り制定され、一番町をパレード(開始年不詳)
* 1956年(S31)8月6日、NHK仙台放送局が、仙台七夕を初のTV生中継(全国放送)
* 1958年(S33)、山下清が来仙、仙台七夕を描く
* 1971年(S46)、音と光を取り入れて「動く七夕パレード」開催(会場は定禅寺通り)
* 1986年(S61)、ミス七夕コンクールが13年振りに復活(5人のミス七夕選出)
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「番丁詳伝」P157、P187/「市民の戦後史(仙台市)」P92/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P31
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「市民の戦後史(仙台市)」P92(S48年のミス七夕たち/七夕を描く山下清画伯)
NHKテレビが七夕全国中継(18-33 、「市民の戦後史(仙台市)」P92、「新・目で見る仙台の歴史」P180)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P17(東一番丁北部の七夕飾り)
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街灯(東一番丁北部 |
戦後 3灯型 |
1947年(S22)~1954年(S29) |
戦後>
* 1947年(S22)、戦後のスズラン灯建つ(「仙台年表」P217)
・ 戦前に「番街」の名物であったスズラン灯に似せて、戦後は1基3灯型(三灯銀白色柱)
・ 同じスズラン灯の形であったが、立町通(広瀬通)角以北と、立町通(広瀬通り)角~大町通(中央通)角では、デザインに違いがあり、街の特色を出す試みがなされている
* 1954年(S29)にアーケード設置のため撤去
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「番丁詳伝」P166/「仙台年表」P217(河北新報 S29.7.28)
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16-38、16-39、16-40、18-16
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一番町(旧・東一番丁)南部 |
サンモール一番町商店街<年表> |
明治期~平成10年 |
M30.2.11、藤崎が東一番丁に進出 / T8.3、南町大火 / 南町大火後の道路改修計画(T9~S2)で、東一番丁では大町角の「藤崎」以南が拡幅され、通称「大通り」となった / T14.12、大映文化シネマがオープン / S23.2.20、東一番丁に昼火事あり、東一中央市場と南松竹映画全焼 / S29.12.2、第1代アーケード完成 /S50.11.20、大通りアーケード改築完成、藤崎以南にクリスタル製シャンデリア点灯 / S52、大通りアーケード改築 / S53、大通り30周年記念行事 / S61.11.29、電動式全蓋(ドーム型)アーケード完成 / H9.11.19、藤崎アネックス開店
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「番丁詳伝」P166/「東一番丁連合会創立五十周年」(平成10年発行)のP8~9/「仙台市史 年表」P115、134、218 / 「重訂 宮城県郷土史年表」P525、P526、P575
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20-45、22-55、22-59、53-117、20-01-01、64-03など写真分類A-02-03(東一南部)の全写真
/ 戦後間もない東一番丁南部は、「目で見る仙台の歴史」P172、「市民の戦後史(仙台市)」P25
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市場 |
駅前マーケット |
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戦後のヤミ市からできたマーケットの1つでバラック小屋が集まっていた / 場所は東五番丁・南町通り交差点北側 / 経営は仙台駅前商業組合
<火災>
* 1949年(S24)3月16日、46戸焼失
* 1949年(S24)10月10日、駅前マーケット(青葉通り)67戸に撤去代執行(「仙台市史 別冊2」P382)
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「番丁詳伝」P168/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818
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アーケード |
一番町一番街商店街「ぶらんど~む一番町」 |
1954年(S29)ほか |
「一番町一番街」は、一番町商店街のうち、「広瀬通り角~中央通り(旧・大町通り)角まで」
・ 大正時代、「大内ビルアーケード街」があった(大町角の大内屋、西内楽器店、玉沢総本店、家庭金物の岡元、銘仙専門店の大丸などが長さ15mほどが広い庇でつながる)(「番丁詳伝」P169)
<第1代>
* 1954年(S29)1月14日、大町通り~広瀬通り間、第1代アーケード完成 (「仙台年表」P229=出典:毎日新聞)
* 1954年(S29)1月、大町通り~広瀬通り間、アーケード新設(長さ26間完成)(「重訂 宮城県郷土史年表」P571)
<第2代>
* 1972年(S47)、一番街アーケード改築(高さ5.2m)
<第3代>
* 1979年(S54)9月1日、「一番街買物公園」完成 街路樹・ストリートファニチャーを設置、歩行者専用道路 / 時計塔2基(モチーフは支倉常長のローマ法王謁見、文字盤盤に世界古地図)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
<第4代>
* 1993年(H5)7月、一番街アーケード完成 (高さ18mの全天候型高層アーケード「ぶらんどーむ一番町」 がオープン)
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「番丁詳伝」P169、P200、P203~205/「仙台年表」P229/「重訂 宮城県郷土史年表」P571/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10/「仙台市史 年表」P127、P128
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<第1代>は、22-58、18-09、22-01/ 「仙台一番町一番街商店街ぶらんど~むのHP」に、第1代、第2代のアーケードの写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P80(第1代アーケード)
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アーケード |
一番町四丁目買物公園 |
1954年(S29)ほか |
「四丁目買物公園」は、一番町商店街のうち、一番北の「定禅寺通り角から広瀬通り角まで」
<第1代以前>
* 1953年(S28)?、「ズック布張り」のアーケードが、三越南~森徳横丁角の東一番丁東側のみに完成(「番丁詳伝」P178)
<第1代>
* 1954年(S29)7月、第1代アーケード完成(定禅寺通角~広瀬通り角)
* 同年12月11日、定禅寺通角~南町通り角までを含めた東一番丁通り全体に統一デザインの第1代アーケードが完成(東北初の商店街アーケードだった) 奥行4.5m、屋根は一部可動式、銀色の柱、ジュラルミン製、天井に二列の蛍光灯(第1代の特徴は、天井の蛍光灯が道路に対し直角)
* 翌12月12日、完成祝賀仮装行列挙行
<第2代>
* 1970年(S45)12月2日、北振会(森徳横丁角以北)アーケード改築完成(高さ5.5m、照明に水銀灯を使いさらに明るくなる)(「番丁詳伝」P179では、定禅寺通~虎屋横丁間に完成)
* 1971年(S46)、中央会(森徳横丁角~広瀬通り角)のアーケード改築完成(「番丁詳伝」P179では、虎屋横丁間~広瀬通り間に完成)
<第3代>
* 1982年(S57)10月2日、四丁目商店街「アーケードのある買物公園」完成(高さ7mの透明なアーケード、茶系統を基調にした路面、12種約70本の街路樹、広瀬通角には噴水付き時計塔で世界の姉妹都市5都市の民族衣装人形つき)
・ 「番丁詳伝」P205に、一番町3商店街のアーケード(3代目)の比較表あり
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「番丁詳伝」P178~179、P201、P203~205 /「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9~10
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<ズック布張り>
「市民の戦後史(仙台市)」P73の左側(S28年頃)
<第1代>は、99-014、22-61
/ 第1代完成祝賀仮装行列は、51-01、51-02/「新・目で見る仙台の歴史」P178(蛍光灯が点灯したアーケード街)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、空撮)
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ネオンサイン |
仙台では・・・ |
1928年(S3)~ |
* (仙台では)ネオンや電飾が目立ってくるのは、1928年(S3)以降
* カフェや映画館の隆盛時代を迎え、またビルラッシュと三越が進出した1933年(S8)から1935年(S10)にかけては特に電飾が盛んであった。東京銀座の銀ブラにならって番街(東一番丁)を散策する人が多く「番ブラ」の名を定着させていった。
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「番丁詳伝」P197
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流行歌「ミス仙台」 |
発売 |
1936年(S11)夏 |
* 1935年(S10)頃、西城八十作詞、今関裕而作曲「ミス仙台」は、売れっ子流行歌手コロンビヤ・ローズの甘い声でレコーディングされ大流行となり、仙台だけでなく全国に仙台・一番丁の名を高からしめた。戦後は花柳界にわずかに保たれ忘れかけられていたが(昭和)40年代に入り再び歌われるようになった。 一番町だけでなく、仙台の最初のイメージ・タウン・ソングとして忘れられない歌のひとつである。
(「番丁詳伝」P197)
<歌詞>
一、森の都の花乙女 月に掉さす広瀬川
若きひと夜の恋ごころ
仙台 仙台 なつかしや
二、夏の祭りは七夕に 星も逢瀬の笹の露
君と歩みし思い出や
仙台 仙台 なつかしや
三、青葉城下に秋立てば ネオン色めく一番丁
三味の音いろも泣きぬれて
仙台 仙台 なつかしや
*「 (日中戦争の)戦地では作戦が一段落するたびに部隊ごとに集会が開かれました。食べ物が出て酒が出て、後はお決まりの演芸会になります。仙台の部隊で必ず歌われたのはご当地ソング「ミス・仙台」(西城八十作詞、今関裕而作曲、二葉あき子歌)でした。昭和11年夏に発売されると仙台市民の間で爆発的に歌われた歌です。(戦地では)みんなで何度も何度もこの歌を歌って故郷に思いをはせたということです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
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「番丁詳伝」P197/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34
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一番町(旧・東一番丁)全域 |
一番町の年中行事 |
1987年(S62)現在 |
・ 初売り 1月3日
・ どんと祭 1月14日
・ 節分会(4丁目) 2月初旬(豆まき、厄払い)
・ 青葉くじセール 2月~3月
・ 春の売り出し(4丁目) 3月~4月
・ なんじゃもんじゃ広場(4丁目) 5月5日、昭和51年開始(屋台、ゲーム、音楽会やおどり、小イベント15~20種展開)
・ 三社まつり 7月 昭和55年開始(三社まつりは、大町のえびす神社、一番街の和合神社、大通りの野中神社の三社の神輿が一番町と中央通りを渡御 / 前夜祭の土曜は、一番街では夜店を出しうなぎつかみ、大通りはチャリティー・オークヨンとカラオケ大会、おおまちでは音楽祭と大町小町コンテスト)
・ 七夕まつり 8月6~8日
・ 金蛇水神社祭典(4丁目) 8月下旬(神輿渡御、夜店)
・ 体育まつり(一番街) 10月体育の日 S58年開始(体力測定、栄養相談など)
・ 市民まつり(一番街) 11月1日~3日
・ 青葉くじセール 12月
・ 年末チャリティー歳の市(一番街) 12月26~30日
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「番丁詳伝」P198~199
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ビル建設 |
興和ビル |
1979年(S54) |
* 1979年(S54)、青葉通りに面した興和ビル完成 / 地上15階建て、高さ63.8mで、当時は仙台3番目の高さ / 日本興業銀行がある / 建物南側の滝と緑の「フラタニテ・パーク」が市民に開放されている
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「番丁詳伝」P211
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商店など |
大一楽器店 |
創業年不詳 |
・ 大町4丁目で和楽器店開業
・ 2回目孝吉が戦前、東一番丁の「大通り」に移転し、音楽ホールつきのビルを建設 / 杮落しは藤原義江のリサイタル、以後仙台の音楽愛好家の殿堂となった
・ 店主孝吉夫人の「いとさん」は、番街三美人の一人と言われ、いつもきりっとした身嗜みで物故するまで店頭に立っていた
・ 戦後まもなく(進駐軍がいた時代)、2階に米軍下士官兵専用のキャバレー「「セント・クイーン」があった(写真番号44-35に、その入口が写る)
・ ホールは、戦後「名画座」(洋画のリバイバル館)となる
* 1984年(S59)、野村大一ビルを完工 / 長崎屋(カステラ)、マクドナルド、文明堂などが入居
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「番丁詳伝」P211
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戦前は、20-45、22-55、53-117/戦後は、53-08、44-35/「市民の戦後史(仙台市)」P70
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商店など |
かき徳 |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)、仙台市東一番丁に開店 / 仙台初のかき専門店 / 当時、本店の塩釜で種牡蠣を養殖し、仙台支店で販売した
・ 戦後はドリアン・キャンディーなどを扱った、
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「番丁詳伝」P220~221
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44-03
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自動車など各種車両台数 |
馬車(仙台市) |
明治・大正 |
* 1889年(M22)、二頭立、8輌
* 1897年(M30)、一頭立、2輌
* 1905年(M38)、一頭立、1輌
* 1916年(T5)頃、12輌
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「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)
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自動車など各種車両台数 |
自転車(仙台市/宮城県内) |
1889年(M22)~1935年(S10)頃/1918年(T7) |
<仙台市内>
* 1889年(M22)、5台(「番丁詳伝」P63)
* 1897年(M30)、30台(「番丁詳伝」P63)
* 1905年(M38)、213台(「番丁詳伝」P63)
* 1916年(T5)、1652台(「番丁詳伝」P63)
* 1935年(S10)頃、2万1978台(「仙台の産業と観光」P27)
<宮城県内>
* 、1万台を越える(「仙台市史 特別編4 市民生活」P193)
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「番丁詳伝」P63(原本は富岡広重著「仙台繁盛記」1916年発行)/「仙台の産業と観光」P27/「仙台市史 特別編4 市民生活」P193
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、
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自警団 |
発足 |
1922年(T11) |
<「番丁詳伝」P71より>
・ 自警団は、消防組の補助機関として町内につくられた民間組織で、犯罪予防、災害防止、衛生・交通思想の普及を担う / 大正11年頃から結成され、1934年(S9)末には市内で135にのぼる / 火事の時には現場に出て非常線の警戒援助、傷病者の救護、家財道具などの搬出援助、その盗難予防警戒にあたる / 特に町の催し物の時には提灯を下げて交通整理にあたった / 日中戦争期には防護団、さらに警防団となった
・ 市中心部の各自警団名と設立年一覧表(「番丁詳伝」P71)
* 1922年(T11)10月9日、仙台市自警団が発足
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「番丁詳伝」P71、P130/「仙台市史 年表」P101
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22-35 (大正10年の藩祖政宗公三百年祭の奉祝アーチに立町自警団の字)
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南町通り(多門通り) |
概要 |
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・「南町通り」は、仙台駅前から裁判所(戦前は宮城控訴院、戦後は仙台高等裁判所)へ向かう通りで、戦前の仙台市では市中心部を東西に貫くもっとも広い幹線道路だった
・ 仙台で初めて街路樹が植栽され、歩車道の区別が設けられるなど、大正期から昭和期にかけ整備がすすんだ(「番丁詳伝」P81)
・ 仲見世(南町通り) 大正年間、毎年年末25日頃より、道路真ん中に一間くらいに仕切った板囲いの小屋が両側にできた。(露天商が東京など全国からやってきた)
・ 戦前から、コンクリート舗装されていた
・ 1933年(S8)1月、第二師団(多門師団長)が満州事変から「凱旋」し、これを機に「多門通り」と改称され、1945年(S20)日本敗戦後、再び「南町通り」となった
* 1926年(T15)11月、仙台初の市電が、「仙台駅前」から南町通りを経由し、大橋や川内の第二師団への入口である「大町一丁目」まで開通した
* 1933年(S8)1月、 第二師団(師団長の名を関して、通称多門師団)が「凱旋行進」 / 「満州事変」で「武勲」をたてた第二師団が仙台に帰還し、市民の熱狂の中を仙台駅から南町通りを行進
* 1933年(S8)1月、「多門通り」と改名(「凱旋」を記念して、仙台市会が当時の師団長の名を冠した改名を決議)
* 1945年(S20)7月、 仙台空襲で南町通り周辺一帯も焼失し壊滅的な被害
* 戦後は「南町通り」に復名
* 1953年(S28)月日、南町通り・西公園線の一部の舗装が、日米行政協定による事業として、一気にすすむ
* 1963年(S38)、仙台初の地下ケーブルの水銀灯点灯、歩道の舗装も完成、街路樹もヤナギから唐カエデに植え替えられた(「仙台市史 続編第2巻」P167)
* 1976年(S51)3月、仙台市電廃止
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「番丁詳伝」P81/「わが心の仙台駅前史」P43/「仙台市史 年表」P103、P106、P130/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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53-91、65-01-01、20-02など分類A-05-06「南町通り」の全写真 / 戦災焼失後の様子は、63-04/「目で見る仙台の歴史」P198(南町通り東五番丁交差点、朝のラッシュ、S30年代前半)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P100(S51、東一番丁角以東、カラー)
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仙台七夕 |
明治・大正期/七つ道具 |
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【「番丁詳伝」P94~95】
・ 藩政期の諸文書にみる七夕と七夕流しに関する記述あり
・ 仙台七夕が7月6日にからに固定したのは、18世紀中期(六代藩主宗村の時代)からで、月遅れ(8月6日)ながら今日まで継承されている
・ 明治維新の大変革や、日露戦争後の明治30年代末以降、全国的に七夕行事が衰退するが、仙台では女子・家族のまつりとして、町家、屋敷町に守られてその火を消すことはなかった
・ 1894年(M27)、仙台市内に電柱がたてられるようになってから竹飾りは斜めに立てられるようになった、明治40年以降は電気照明もだいぶ利用されている
<七つ道具>
・ 仙台独自の飾りつけ「七つ道具」が確立するのは明治期
・ 七夕線香を飾るのは、昔は遊郭や芸妓屋のあった町に特にみられ、線香を三段に吊るすところもあった
(1)短冊 梶の葉のならいから。シメの変化とも考えられ、歌や願いごとを書き、歌や書の上達を願う。
(2)吹流し 五色の糸の変形。機織りの上達を願うが、この日そうめんを食べ供えた故事からかえられたとも考えられる。願いの糸にかけた願いは3年のうちに叶うという
(3)千羽鶴 吉兆として延命長寿を願う。家族の最年長者の数だけ折られた。
(4)紙衣 一般には白石紙子を使用するが、小袖がそのまま吊るされることもある。病災を身代わりに流す形代の意味をももち、タナバタツメの信仰から生まれた裁縫の上達と、子どもが丈夫に育つようにと祈りながら一番先端に吊るされる。
(5)巾着 富貴を祈りつくられる。
(6)投網 海の幸の豊漁を願い感謝のしるしをあらわす。
(7)屑籠 倹約と始末することの大切さを教える。
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「番丁詳伝」P94~95
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商店など |
村上屋餅店 |
1877年(M10) |
* 1877年(M10)、創業
・ 戦前、柳町の大日横丁にあった / 大日様をお詣りしての帰りには、必ずお土産にするのが習いという郷土名物おはぎやダンゴが人気 / その後、北目町に移転した
・ 兵隊さんに人気の店、学生たちの集まりや送別会などでもよく使われた
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「番丁詳伝」P97
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18-35
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商店など |
永楽園(茶舗) |
1889年(M22) |
* 1889年(M22)、山形市からきて、国分町で開業
* 大正初期に家具販売も、銘茶・漆器・家具を扱う家庭洋品百貨店に
* 漆器や家具販売部門が独立 / 茶は一番町
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「番丁詳伝」P99
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永楽園の七夕飾り物(79-01 ほか)
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商店など |
菅原園(茶舗) |
1853年(安政元年) |
* 1853年(安政元年)、開業 / 各地に支店あり
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「番丁詳伝」P99
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菅原園の七夕飾り物(79-03ほか)
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商店など |
よろづ園(茶舗) |
1829年(文政12年) |
* 1829年(文政12年)、創業
* 1897年(M30)、藤崎と土地を交換
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「番丁詳伝」P99
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77-19 、77-17 / よろづ園の七夕飾り物(77-10 ほか)
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商店など |
大竹園(茶舗) |
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・ よろづ園とともに、仙台の二大茶商とうたわれ、一族が市内各所に茶舗をひらく
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「番丁詳伝」P99
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53-98
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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東北学院(沿革) |
戦前期 |
1891年(M24)~1945年(S20)夏 |
<東北学院>
* 1891年(M24)9月11日、東二番丁南町通角に仙台神学校新校舎(赤煉瓦造2階建スレート屋根、方形五層の塔および円錐形スレート屋根の円塔、城郭風ゴシック建築)が完成 / 仙台神学校、その年に校名を「東北学院」と改称し、予科2年・本科4年・神学部3年とする
* 1895年(M28)、予科、本科を改組し、普通科5年、その上に専修科(文科、理科)2年、さらにその上に神学部3年を置く
<仙台日本基督教会→東二番丁教会→東一番丁教会>(「番丁詳伝」P193)
* 1902年(M34)10月、仙台日本基督教会献堂式挙行(東二番丁南町通角・仙台神学校校舎に隣接、木骨赤レンガ造り、壁柱と窓縁は御影石、スレート葺きで中央に方形の塔、ドイツ人リチャード・シール設計)
* 1931年(S6)、東二番丁教会と改称、S20年仙台空襲で焼失
* 1951年(S26)5月、敷地を三馬弘進ゴムに売却し道場小路(現・一番町1丁目)に移転、
* 1953年(S28)、献堂式を行い東一番丁教会と改称
* 1955年(S55)、パイプオルガン設置
<東北学院>
* 1904年(M37)、全校を普通科(5年)と専門学校令による専門科(3年)とに分け、専門科に文学部と神学部とを置く
* 1905年(M38)、専門科を専門部とし、文学部を文科、神学部を神学科と改称 / 東二番丁に普通科校舎完成。
* 1915年(T4)5月、普通科を中学部と改称(生徒数357名)
* 1918年(T7)、専門部を改組、神学科・文科・師範科・商科とする
* 1919年(T8)3月、南町大火のため中学部校舎(東二番丁)全焼
* 1922年(T11)6月、中学部校舎再建(東二番丁・通称赤レンガ校舎)
* 1925年(T14)、神学科を専門部より分離し、神学部(第一科・第二科)とする。専門部は文科、師範科、商科となる
* 1926年(T15)、専門部校舎落成(南六軒丁)~設計:横浜のモルガン、建築:新田工務店、鉄筋コンクリート3階建~
* 1929年(S4)、専門部を高等学部と改称
* 1932年(S7)3月19日、ラーハウザー礼拝堂献堂式(南六軒丁) / シャンデリア、スチーム、鉄柵などは戦時に供出
* 1937年(S12)、神学部廃止(東京日本神学校と合同)
* 1940年(S15)5月、南町通旧神学部校舎および敷地を日産株式会社に売却
* 1943年(S18)、中学部を中学校と改称
* 1944年(S19)、航空工業専門学校設置(S20年12月、工業専門学校と改称、S22年廃止)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、校舎の大半を失う
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「目で見る仙台の歴史」P122、P164/「東北学院創立七十周年写真誌」P11、P36、P65~P69/東北学院HP
/「仙台市史 年表」P84、P85、P87、P91/「仙台市史10 年表」P268、P278/「番丁詳伝」P193
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「新・目で見る仙台の歴史」P139(仙台神学校)/「東北学院創立七十周年写真誌」P11とP50に、南町通の仙台神学校校舎、P11に同玄関と講堂内景/「目で見る仙台の歴史」P112に南町通りの仙台神学校(東北学院神学部)/同P149に「専門部校舎(大正15年)」/99-068(神学部校舎)、43-30(神学部校舎と東二番丁教会)/「目で見る仙台の歴史」P138と「市民の戦後史(仙台市)」P23に、「日本基督教会」/目で見る仙台の歴史」P164に「ラーハウザー礼拝堂」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P124(日本基督教会堂)
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