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内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
高等学校(新制) |
宮城県第一女子高等学校/宮城県宮城第一高等学校 |
1948年(S23)/ |
<前史>
* 1895年(M28)1月14日、前年末をもって休業となった「東北女子実業科伝習所」の指導者たちが、「仙台女子実業学校」を東二番丁に開校
* 1897年(M30)4月1日、「私立仙台女子実業学校」を引継いで東三番丁に「仙台市高等女学校」として開校
* 1899年(M32)、元寺小路に校舎新築(写真99-075)
* 1900年(M33)4月1日、宮城県に移管され、「宮城県高等女学校」と改称 / 補習科設置(T2年廃止)
* 1901年(M34)7月1日、「県立宮城県高等女学校」と改称
* 1904年(M37)6月1日、「宮城県立高等女学校」と改称 / 技芸専修科設置(S45年廃止)
* 1911年(M44)、実科設置 (T7年廃止)
* 1918年(T7)、「宮城県立第一高等女学校」と改称
* 1919年(T8)、「宮城県第一高等女学校」と改称
* 1921年(T10)、高等科設置(のちに宮城県立女子専門学校の母体)
* 1939年(S14)、黒川郡富谷村に学校林を設ける
* 1945年(S20)、仙台空襲で校舎焼失 / 連坊小路の第二高女と連坊小学校、県立盲学校で授業再開
* 1947年(S22)、北六番丁の旧制二高跡に校舎新築移転(東北大農学部が使用することになり、中島丁の旧女子師範跡に新設された東北大学付属中学と校舎を交換)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月1日、「宮城県第一女子高等学校」と改称
* 1953年(S28)、校舎移転(八幡へ)
* 1955年(S30)、専攻科(修業年限1年)併設(S40年に廃止)
* 1969年(S44)、全校が新校舎に移転
* 1973年(S48)、服装自由化実施
* 1997年(H9)、創立100周年記念式典,理数科新設
* 2002年(H14)、文部科学省「スーパーサイエンスハイスクール」(全国で26校)に指定
* 2008年(H20)、宮城県宮城第一高等学校と改称(男女共学開始、単位制移行)
* 2016年(H28)、 英国シティ・オブ・ロンドン・フリーメンズスクールと姉妹校締結
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「宮城県宮城第一高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89/「宮城県百科事典P1000「宮城県第一女子高等学校」/「仙台市史 年表」P90、P91、P98/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P518~520/「番丁詳伝」P67
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99-075/「目で見る仙台の歴史」P134に「宮城県第一女子高等学校」の校門付近
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高等学校(新制) |
宮城県工業第二高等学校 |
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<前史>
* 1943年(S18)4月、「宮城県第二工業学校」、開校(米ケ袋広丁)、県工業学校の校舎と設備を共用、夜間機械科新設
* 1944年(S19)4月、電気科を設置
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、「宮城県工業第二高等学校」と改称(夜間定時制)
* 1993年(H5)、機械科を電子機械科に学科改編
* 1994年(H6)、新校舎が完成し(専用教室・体育館・食堂・図書室など,最新の施設・設備を持つ)
* 1995年(H7)4月、完全給食、女子生徒募集を開始
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「宮城県工業第二高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P510~511
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高等学校(新制) |
宮城県工業高等学校 |
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<前史>
* 1916年(T5) 3月、 宮城県立工業学校、米ケ袋広丁に創立(機械電気科,漆工科)
* 1919年(T8)11月、宮城県工業学校と改称
* 1938年(S13)4月、採鉱科、第二本科電気科、第二部機械科設置
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎の約8割焼失
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、宮城県工業高等学校と改称
・ 学科新設(S24年、機械科・電気科・木材工芸科・採鉱科 / S27年、化学工業科)/廃止(S29年、採鉱科)
* 1954年(S29)2月、火災で校舎7棟焼失/S31年迄に校舎再建
・ 学科新設(S34年、電気通信科設置)
・ 学科改称(38年、木材工芸科を工芸科,電気通信科を電子科に改称)(S48年、工芸科をインテリア科とし男女共学にした)
* 1974年(S49)4月、電気・電子・化学工業科を男女共学に
* 1977年(S52)8月、第二運動場取得
* 1978年(S53)10月、体育館竣工
* 1992年(H4)10月、総合実習棟竣工
* 1992年(H4)12月、機械3クラスのうち1クラスを電子機械科に学科転換, 電子科を情報技術科に学科転換
* 1994年(H6)10月、校舎棟竣工
* 1996年(H8)1月、屋外運動場竣工
* 1999年(H11)4月、機械科を男女共学とした
* 2013年(H25)11月15日、創立100週年記念式典挙行
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「宮城県工業高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P509~510
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養賢堂 |
講堂 建築~焼失 |
1817年(文化14年)~1945年(S20) |
養賢堂は仙台藩の学問所
* 1760年(宝暦10)、北一番丁・勾当台通りの一角に移り養賢堂と名付けられた
* 1817年(文化14年)、講堂を建築
(木造平屋・東西24間南北24間・桟瓦葺=サンカワラブキ)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「宮城県百科事典」P1076「養賢堂」 /「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P41/「仙台市史 年表」P79、P100
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53-54/「目で見る仙台の歴史」P77~79(門、講堂、孔子廟、構内略図、絵図)/「新・「目で見る仙台の歴史」P110~111(養賢堂俯瞰図、講堂)/「市民の戦後史(仙台市)」P22
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火災(地域) |
南町通りの仙台銀座マーケット |
1952年(S27) |
・ 戦前に東二番丁・南町通り交差点の南東角にあった仙台逓信局が、仙台空襲(S20年7月10日)で焼失し、戦後その焼け跡に通称「仙台銀座」(木造6棟の商店街、建坪3000坪)ができた / 防火壁がなく、火災保険では「禁止物件」に指定されていた
<火災で焼失>
* 1952年(S27)1月22日午後0時20分頃出火、通称「仙台銀座」の通称1~8丁目まで145戸のうち、東二番丁通りに面した棟と南側の棟を残してほどんど全焼し、さらに隣接の店舗、倉庫などに延焼し、計19棟106戸焼失して午後2時半頃鎮火、木造モルタル建物大小6棟がつなぎ合わされたマーケット形態の建物なので、延焼が非常に速かった(「宮城県百科事典」P575) / 「仙台年表」では、7棟110戸全焼、被災者450名(東二番丁仙台銀座内美術館から出火) / 「仙台市史10 年表」では、東二番丁仙台銀座大火240戸焼失 / 「重訂 宮城県郷土史年表」では、南町通銀座に大火、百貨店など140戸焼失 / 原因は電気ゴタツ / 「仙台市史第2巻本編2」P717~718に、詳細な経過、隣接する12棟類焼(宮城燃料や加藤商店の木炭倉庫、大睦建設木工場、長尾病院など)、被災者の避難所、食品衣類寝具などの救援内容を記載
* 1955年(S30)2月20日、東二番丁側に残っていた14棟68世帯(約4000㎡)も焼失(東二番丁の拡幅工事予定地だったのでこれを機に拡幅工事を強行)(「仙台市史 続編第1巻」P349、P782)
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「宮城県百科事典」P575/「仙台市史第2巻本編2」P717~718/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349、P782、P808/「仙台市史 年表」P117/「仙台年表」P223/「仙台市史10 年表」P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P554/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P167
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「宮城県百科事典」P575(S27年の火災)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P782に、昭和30年の仙台銀座の火災写真/「市民の戦後史(仙台市)」P88(S30年2月の仙台銀座火災)
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第二高等学校(旧制) |
北六番丁校舎時代 |
1926年(T15)~1945年(S20) |
<北六番丁校舎時代>
東北帝国大学法文学部設置にあたり片平丁の校地を提供して、北六番丁(現・東北大学農学部)に移転した
* 1925年(T14)7月、北六番丁校舎へ移転(「宮城県百科事典」P637)
* 1926年(T15)10月9日、二高新築校舎、尚志会運動場落成(「重訂」P404、「仙台年表」P197、「市史10 年表」P268)
* 1927年(S2)、自治問題や明善寮管理問題をめぐり校長排斥のストライキ
* 1934年(S9)12月28日、旧制二高7名と東北帝大ボート部員3名、松島湾で突風吹雪のため遭難、10人死亡(「重訂」P443、「市史10 年表」P284)
<護国尚志会>
* 1941年(S16)1月8日、第二高等学校護国尚志会発会式(「市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)7月20日、第二高等学校護国尚志会、二高総蹶起大会挙行(「重訂」P502、「市史10 年表」P308)
<戦時中、修業年限短縮>
* 1941年(S16)10月16日、勅令第924号「大学学部等ノ在学年限又ハ修業年限ノ臨時短縮ニ関スル件」により、大学・高等専門学校、中等学校での就業年限を6か月短縮 / この年は12月に、翌年3月卒業予定者を繰上げ卒業
* 1942年(S17)8月21日、修業年限3年から2年に短縮(中等学校は5年を4年に短縮)
* 1943年(S18)1月21日、大学令改正で、大学予科、高等学校の修業年限を3年間から2年間に短縮(「市史10 年表」P304、「菅家」P30)
<終業年限短縮 Wikipedia「旧制高等学校」より転記>
「太平洋戦争が激化すると、非常時の臨時措置として1942年、43年には半年繰り上げの2年半で、また、1943年入学の学年からは法改正により正式に修業年限が2年に短縮された。ただし、終戦直後の1945年9月に再び修業年限3年に改められたため、2年の年限で卒業したのは1943年入学の学年だけである。 」
<校舎焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、北六番丁校舎焼失(その後、三神峯に移転)
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「宮城県百科事典」P637/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18/「重訂 宮城県郷土史年表」P404、P443、P502/「仙台年表」P197 /「仙台市史10 年表」P268、P284、P300、P304、P308/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P10/「菅家年表」P36/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P312/新・目で見る仙台の歴史」P148/「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
Wikipedia「旧制高等学校」2020年8月版
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53-41、53-42/「新・目で見る仙台の歴史」P148(S2年、校長排斥スト、講堂で集会と決議文)/「目で見る仙台の歴史」P160(松島湾ボート遭難30分前の写真)
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第二師団 |
仙台鎮台を改称 |
1888年(M21)~1945年(S20) |
・ 1945年(S20)の敗戦まで仙台は日本の軍都の一つだった
・ 明治初期以来、東北鎮台・仙台鎮台・第二師団の時代を通じ、仙台市川内(旧仙台城二の丸跡)に司令部を置き、市内の川内、榴ヶ岡、宮城野原に、歩兵・騎兵・砲兵・工兵・輜重兵など各種部隊(連隊・大隊)を配置、県外では時代により変遷はあるが、福島県内、新潟県内などの連隊も隷下においた
* 1871年(M4)年11月12日、全国四鎮台のひとつとして仙台城二の丸跡に「東北鎮台」がおかれた
* 1973年(M6)1月9日、「仙台鎮台」と改称
* 1888年(M21)5月14日、「第二師団」と改称
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台本営を第二師団司令部とす(「仙台城」P232)
* 明治、大正、昭和(20年まで)、海外出兵、国内出動多数
→ 項目「第二師団(出兵記録)」参照
→ 項目「歩兵第4連隊」参照
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯
<参考> 当サイト内、写真ベータベースの【関連資料】G-26「仙台の兵営」には、仙台関連の陸軍師団、各連隊などの一覧、学校、工廠など軍関連施設一覧と、それぞれの年表が記載されている
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「宮城県百科事典」P638/「宮城県史(兵事)」P685以降の「仙台部隊関係年表」参照/「仙台市史 年表」P79、P80、P86/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232
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師団司令部は、98-084、「市民の戦後史(仙台市)」P22、「新・目で見る仙台の歴史」P135/「いつか見た街・人・暮らし」P47の写真169(大正7年度軍旗祭、歩兵第29連隊)/同P169の写真171(大正15年、陸軍特別大演習での観兵式、宮城野原練兵場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P295(M30年、川内兵営の図)/ 95-02
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東照宮(仙台) |
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1654年(承応3年)~ |
・伊達政宗公が、将軍家光からの許しを受けて創建
・二台藩主忠宗の創建、1654年(承応3年)落成
・祭神は徳川家康 ・本殿などが国の重要文化財
<藩政期>
* 1654年(承応3年)、江戸から神霊を迎えて遷座祭を行ったと伝えられている(「宮城県百科事典」P741)
* 1654年(承応3年)3月16日、宮城郡小田原の東照宮造営なる(「仙台年表」P34)
<昭和戦前期の火災>
* 1935年(S10)8月6日、放火で拝殿、進せん所、宝物三六歌仙を焼失 / 同23日に再度出火、神殿一部消失(「重訂 宮城県郷土史年表」では、拝殿は半焼)
* 1944年(S19)、浮浪者の放火あり、拝殿を半焼す
<戦後>
* 1948年(S23)アイオン台風、1959年(S34)伊勢湾台風で、参道両側の杉110本倒壊
* 1952年(S27)1月31日、本殿、唐門、楼門を宮城県重要文化財に指定(「仙台市史10 年表」P327、「重訂 宮城県郷土史年表」P554)
* 1952年(S27)1月31日、随身門、宮城県需要文化財に指定 / 同年3月31日、本殿、唐門透塀鳥居、宮城県重要文化財に指定(「仙台年表」P223~224 ← 出典:毎日新聞)
* 1953年(S28)3月31日、本殿、唐門、透塀、鳥居が、国の重要文化財に指定
* 1980年(S55)1月26日、随身門が国の重要文化財に指定
<復旧・修理工事>
* 1962年(S37)11月17日、拝殿(昭和27年に焼失)復旧工事開始
* 1979年(S54)2月、倒壊鳥居復旧
* 1979年(S54)4月20日、12年ぶりの東照宮春祭、伊達政宗の木像先頭に武者行列
* 1980年(S55)10月、社殿修理工事終了
* 1983年(S58)4月17日、唐門・透塀・本殿の一部修理完了
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「宮城県百科事典」P741/「仙台年表」P34、P206、P223~224/「仙台市史10 年表」P286、P327/「重訂 宮城県郷土史年表」P447、P503、P554/「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P94、P118、P161、/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P123~124、216~217/文化庁「国指定文化財データベース」
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99-130、99-131/「目で見る仙台の歴史」P55~56(本殿、本殿厨子、唐門、薬師仏、神輿など)/同P99(東照宮祭礼絵巻)
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東北振興/農村更生 |
1 |
1926年(T15)~1930年(S5) |
・ 東北は、1931年(S6)、1934年(S9)とつづく大冷害や、農業恐慌(生糸や米価の暴落)、1930年(S5)からの昭和恐慌が重なり、疲弊した苦難の時代が続いた
・ 「東北振興」が重要な政策課題となり、農村経済更生が叫ばれた
・ 「東北興業会社」(S11年秋創設)が中心となって諸事業を手掛けたが、1937年(S12)夏からの日中戦争拡大とともに先細りの傾向を示した
* 1926年(T15)12月18日、生糸相場が暴落
* 1928年(S3)、不景気で農村からの出稼ぎ増える
* 1929年(S4)10月24日、ニューヨーク株式市場大暴落、世界恐慌始まる
* 1930年(S5)、世界恐慌が日本に波及(昭和恐慌)、不況状態1932年(S7)頃まで続く
* 1930年(S5)3月3日、生糸大暴落、この日大正5年以来の最安値となる
* 1930年(S5)秋の豊作で農産物価格が下落
* 1930年(S5)、東北では「娘身売りの際は相談してください」と村の掲示板に張り紙が出される/農村には現金がなく、米との交換が始まる
* 1930年(S5)、農業大恐慌、全般的に繭、野菜などが大暴落、農家の負債700~800円に
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「宮城県百科事典」P754/岩波ブックレット「年表 昭和史」P7/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P6、P8、P10、P11、/「仙台市史 特別編4 市民生活」P356
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東北帝国大学医学部付属病院 |
開院 |
1913年(T2)~1947年(S22) |
* 1911年(M44)4月、北四番丁(現星陵地区)に県立宮城病院の新病院棟が開院(宮城病院本館として建築)
<東北帝国大学時代>
* 1913年(T2)4月1日、宮城病院、東北帝国大学に委譲され、医学専門部附属医院となる / 内科(2科)、外科、眼科、産科婦人科、小児科、皮膚科及び耳鼻咽喉科の8診療所(340床)を開設
* 1915年(T4)7月、東北帝国大学医科大学附属医院と改称
* 1919年(T8)4月、東北帝国大学医学部附属医院と改称
* 1944年(S19)12月、鳴子分院開設(温泉医療目的)
<戦後>
* 1946年(S21)3月1日、長町分院開設(臨床講義のため)
* 1947年(S22)9月、東北大学医学部付属医院に名称変更
→ 以降は、項目「東北大学医学部付属医院」参照
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「宮城県百科事典」P759「東北大学医学部付属病院」/「仙台市史 年表」P96/「明治の洋風建築-宮城県- P73「宮城病院」/「重訂 宮城県郷土史年表」P509/「仙台市史10 年表」P312/東北大学病院HPの「沿革」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P727~728
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99-067、53-60/「目で見る仙台の歴史」P144/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図30(T5年)
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東北大学医学部付属病院/東北大学病院 |
改称/設置 |
1947年(S22)/2003年(H15) |
これ以前は → 項目「東北帝国大学医学部附属病院」参照
* 1947年(S22)9月30日、東北帝国大学医学部附属病院が、東北大学医学部付属医院と改称
* 1959年(S34)3月1日、がんセンター開設
* 1965年(S40)3月、東病棟完成(6階建、9742㎡)
* 1965年(S40)10月、西病棟完成(9階建、1万3000㎡)
* 1969年(S44)3月、第一臨床研究棟(14,080㎡)完成/塔屋まで高さ57.1m、鉄筋コンクリート12階建(当時仙台一の高層ビル)
* 1979年(S54)9月、外来診療棟(15,640㎡)完成/12月17日、診察開始
* 1980年(S55)3月、長町分院廃止
* 1984年(S59)4月、中央診療棟(7,567㎡)完成
* 1985年(S60)4月、救急部設置
* 1988年(S63)3月、第二臨床研究棟(7,960㎡)完成
* 1994年(H6)6月、鳴子分院廃止
* 2000年(H12)4月、加齢医学研究所附属病院と統合
* 2003年(H15)10月、東北大学病院創設(歯学部附属病院と統合)
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「宮城県百科事典」P759「東北大学医学部付属病院」/「重訂 宮城県郷土史年表」P591、P647/「続・ 宮城県郷土史年表」P105/東北大学病院HPの「沿革」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P727
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16-37、77-20、22-16/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図31~32(医学部付属病院S36年、H8年カラー)
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高等学校(新制) |
宮城県立盲学校/宮城県立視覚支援学校 |
1948年(S23)/2009年(H21) |
<学制改革後>
* 1948年(S23)4月、盲・聾学校教育が義務制となる /宮城県立盲唖学校」が学制改革で小・中学部、高等部専攻科を編制、同時に同校盲部が「宮城県立盲学校」、聾啞部が「宮城県立聾学校」となる
* 1948年(S23)9月11日、ヘレン・ケラー女史、2回目来校
* 1951年(S26)3月、あんま師、はり師、きゅう師養成学校として文部省認定
* 1951年(S26)7月、聾学校が分離し長町鹿又の新築校舎に移転
* 1959年(S34)5月、盲学校が北七番丁(旧宮城師範跡)に移転
* 1962年(S37)4月、文部省から新職業教育研究校に指定され、高等部に園芸科設置
* 1963年(S38)、宮城県点字図書館落成、弱視学級設置
さらに、「香る植物園」、「小鳥の家」「リハビリテーション・ルーム」など完成
* 1966年(S41)2月、スクールバス「のぞみ号」運行開始
* 1967年(S42)10月~1971年(S46)3月、4期にわけ校舎新築
* 1969年(S44)4月、小学部に重複障害学級設置(S51年に中学部、H1年に高等部に、重複障害学級設置)
* 1971年(S46)4月、高等部普通科設置
* 1973年(S48)4月、高等部に保健理療科、専攻科理療科設置
* 1977年(S52)11月、全日本吹奏楽コンクール招待演奏に出演(東京普門館)
* 1983年(S58)10月、創立70周年記念、吹奏楽部創立20周年記念演奏会(電力ホール)
* 1994年(H6)4月、高等部に専攻科保健理療科設置、高等部新教育課程実施開始
* 2001年(H13)10月、第1回全国障害者スポーツ大会(翔く・新世紀みやぎ大会)参加
* 2008年(H20)7月、東北盲学校野球大会(岩手)で、野球部が準優勝
* 2009年(H21)4月、校名を、宮城県立盲学校から「宮城県立視覚支援学校」に変更
* 2014年(H26)9月、創立100周年記念式典挙行
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「宮城県立視覚支援学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P517~518
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進駐軍(米軍) |
概説 |
1945年(S20)9月~1957年(S32)11月 |
米軍が仙台および周辺に進駐・駐留したのは、S20年9月~S32年11月
<仙台進駐>
* 1945年(S20)9月16日、米軍(占領軍、進駐軍ともいう)、仙台に到着し原町、松島等に駐屯す
* 進駐軍進駐は9月11日(注:この日は先遣隊約20人が仙台到着)、1週間のうちに6000人を超える米軍が、原町と多賀城に駐屯、北一番丁の簡易保険局に司令部が置かれる(「番丁詳伝」P158)
・「終戦直後、仙台には約2万人の米軍が進駐」(「市民の戦後史(仙台市)」P72)
<朝鮮戦争で、県内の米兵大幅減>
* 1950年(S25)6月の朝鮮戦争勃発に伴い、米軍将兵が県内米軍キャンプからも戦線へ大量移動し、県内の米兵大幅減
<講和条約発効後、駐留軍となる>
* 1952年(S27)4月28日、午後10時半、日本占領終る(米軍は「駐留軍」として引き続き日本に基地を置く)
→ これ以降は、項目「駐留軍(米軍)」参照
<全キャンプ返還>
* 1957年(S32)11月13日、川内と苦竹の両キャンプの土地が返還され、宮城県内の米軍基地はすべて姿を消す
<米軍の宮城県進駐> → 【「宮城県警察史(第二巻)」(昭和47年 宮城県警察本部)P13~30「米軍の本県進駐と警察」】に詳述されている
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「宮城県警察史(第二巻)」P13~30「米軍の本県進駐と警察」/「番丁詳伝」P158/「重訂 宮城県郷土史年表」P506 /「仙台市史10 年表」P310/「仙台市史 年表」P114/「仙台年表」P214、P224/「市民の戦後史(仙台市)」P50、P72
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90-06、90-07、90-08、90-09、90-10、90-11、90-12、90-13、90-14、90-15/「市民の戦後史(仙台市)」P50(朝鮮戦争に向かう米兵たち)/同P72(米軍キャンプの返還式)/同P72(お茶を習う米兵たち)
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東邦生命ビル |
進駐軍が接収(CIDなど) |
1946年(S21) |
・第一徴兵保険が戦後、東邦生命と改称され、仙台支店ビルは、「第一徴兵館」から「東邦生命ビル」に名称変更
・南町(芭蕉の辻の南)にあった
青葉通り開通後は、青葉通りと南町(国分町通り)の東南角になった
* 仙台空襲(1945年7月)で焼け残る
* 1946年(S21)2月、米軍が接収(当初はAmrican post officeが使用)
* 1947年(S22)6月頃からは、進駐軍のCID(軍事犯罪捜査機関 Criminal Investigation Command)が規模拡大により、東邦生命ビルに移転、
* 1952年(S27)7月、接収解除
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「宮城県警察史 第二巻」P30
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44-37、18-21、22-07
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大学・短大 |
尚絅学院大学・大学院 |
2003年(H15)~ |
* 2003年(H15)、尚絅学院大学開学、総合人間科学部開設
* 2007年(H19)、大学に表現文化学科、現代社会学科、生活環境学科、大学院総合人間科学研究科を開設
* 2009年(H21)、大学図書館棟、実習棟竣工 / 名取市増田地区に「尚絅学院大学生涯学習センター」を開設
* 2010年(H22)、子ども学科を開設
* 2016年(H28)、尚絅学院大学大学院臨床心理実習棟竣工
* 2017年大学院 人間学専攻を開設
* 2018年(H30)、ブランドコンセプト「Passion with Mission」制定
* 2019年(H31)、3学群5学類制スタート
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「尚絅学院」HP/Wikipedia「尚絅学院大学
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大学・短大 |
尚絅女学院短期大学/尚絅学院大学女子短期大学部 |
1950年(S25)/2003年(H15)/2011年(H23)廃止 |
<前史>
*1920(T9)、当時の尚絅女学校に高等科(英文科、家事科)を併設
* 1935年(S10)、高等科が専攻部と改称し、保母科と商科を増設(専攻部が戦後の短期大学の母体)
・ 戦時中、専攻部も勤労動員や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用される
* 1945年(S20)9月~11月、校舎が進駐軍に接収され、八幡国民学校と女子師範付属国民学校校舎で授業
<開学>
* 1950年(S25)3月14日、専攻部を母体として、尚絅(しょうけい)女学院短期大学設置認可
* 1950年(S25)4月1日、設置(英文、家政の2科)
* 1955年(S30)、保育科を開設
* 1964年(S39)、家政科を家政専攻・食物栄養専攻に分離、保育専攻科を設置
* 1967年(S42)、英文科を再開(S33~募集中止していた)
* 1989年(H1)、名取市に移転、人間関係科を新設
* 2003年(H15)、尚絅学院大学女子短期大学部となる
* 2011年(H23)3月31日、廃止
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「尚絅学院」HP/「仙台市史10 年表」P323/「重訂 宮城県郷土史年表」P541/Wikipedia「尚絅学院大学」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543~544
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543/「市民の戦後史(仙台市)」P178(校舎)
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高等学校(新制) |
尚絅女学院高等学校(前史) |
1948年(S23) |
<前史>
* 1890年(M23)、米合衆国バプテスト派宣教師ラヴィニア・ミードが来仙し、新坂通に家塾を開く
* 1892年(M25)、「尚綗女学会」開校式(生徒5人が在学)
* 1893年(M26)、中島丁(現・青葉区八幡)に校舎建設移転
* 1896年(M29)、校舎と寄宿舎(エラ・オー・パトリックホーム)落成
* 1899年(M32)11月24日、「私立尚綗女学校」創立(初代校長アンネ・S・ブゼル)(当時は、尚絅女学校でなく字は「尚綗」を用いた)
* 1900年(M33)、制服としてお納戸色のはかまを着用決まる
* 1902年(M35)、校章を制定
* 1903年(M36)、同窓会発足(卒業生総数20人)、
* 1917年(T6)、創立25周年講堂と新校舎が落成 / 校歌(土井晩翠作詞、佐々木英作曲)、と校旗を制定
* 1919年(T8)、附属幼稚園を開設、メリー・D・ジェッシーが第2代校長となる
* 1920年(T9)、高等科(英文科、家事科)新設
* 1921年(T10)、高等科に音楽科新設
* 1928年(S3)、高等科校舎新築
* 1932年(S7)、本科の制服をセーラー型にする
* 1935年(S10)、高等科を専攻部と改称(保母科、商科を増設)
* 1944・45年(S19・20)、学徒動員で軍需工場などに出勤
<戦災>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で寄宿舎が焼失
・ 戦災で校舎を失った常盤木女学校に校舎の一部を貸す
・ 終戦後は進駐軍に校舎を撤収され、八幡国民学校(小学校)や女子師範学校校舎を借りて授業
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「尚絅学院中学校・高等学校」HP/「仙台市史 年表」P89、P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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「目で見る仙台の歴史」P134に、「尚絅女学校と学校長ブセル」/「新・目で見る仙台の歴史」P139(尚絅女学校)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P133(エラ・オー・パトリック・ホーム)
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高等学校(新制) |
尚絅女学院高等学部(学制改革後)/尚絅女学院高等学校/尚絅学院女子高等学校/尚絅学院高等学校 |
1948年(S23)/1961年(S36)/2003年(H15)/2008年(H20) |
<学制改革で新制高校に>
* 1947年(S22)、新制中学校を設置、保護者会が父母教師会となる
* 1948年(S23)、新制高等学校を設置、校名を「尚絅女学院」と改め、中学部・高等学部・専攻部となる
* 1950年(S25)、中学・高等学部の制服を制定
* 1956年(S31)、幼稚園を開設
* 1958年(S33)、礼拝堂と南校舎を落成
* 1961年(S36)、中学部・高等学部を中学校・高等学校と改称
* 1974年(S49)、体育館が落成
* 1984・85年(S59・60)、中校舎と北校舎が落成
* 1992年(H4)、創立100周年記念式典を行う
* 1993年(H5)、礼拝堂にパイプオルガン設置
* 1998年(H10)、大韓民国釜山市「イサベル中学・高等学校」との姉妹校調印式
* 2000年(H12)、中・高、フィリピン共和国で初の海外ワークキャンプ実施
* 2003年(H15)、法人名を「尚絅学院」、校名を「尚絅学院大学女子短期大学部」、「尚絅学院女子高等学校」、「尚絅学院女子中学校」、「尚絅学院大学女子短期大学部附属幼稚園」と改称 / タイ国「サハミット学園」との姉妹校調印
* 2008年(H20)、校名を「尚絅学院中学校」「尚絅学院高等学校」と改称 / 中学を男女共学化、高校は特別進学コースのみ共学に
* 2009年(H21)、高校、総合進学コースに文理(共学)・文系(女子のみ)を設置
* 2011年(H23)、高校、全コース男女共学化
* 2015年(H27)、新校舎完成
* 2016年(H28)、体育館・グラウンド完成
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「尚絅学院中学校・高等学校」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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ユネスコ協会(仙台) |
発足 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)7月19日、仙台ユネスコ協力会発足
* 1948年(S23)、第2回ユネスコ運動全国大会(於仙台)/ 14回・40回も仙台で開催
* 1951年(S26)、仙台ユネスコ協会と改称
* 1954年(S29)、ユネスコ子供学校創設
* 1955年(S30)、第1回仙台ユネスコ夏期学校開催
* 1957年(S32)、社団法人仙台ユネスコ協会に改組
* 1957年(S32)6月16日、仙台ユネスコ会館落成(現・青葉区大町1-2-2、晩翠草堂の隣) / 2011年の東日本大震災で、ユネスコ会館被災⇒改修不能
これ以降は、「仙台ユネスコ協会HP」の「仙台ユネスコ協会のあゆみ」参照
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「市民の戦後史(仙台市)」P101/仙台ユネスコ協会HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P585
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「市民の戦後史(仙台市)」P101(ユネスコ会館)
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大型店・量販店 |
エンドーチェーン |
1958年(S33) |
エンドーは、かつて、スーパーマーケット「エンドーチェーン」を東北地方を中心に展開した会社
* 1957年(S32)12月、市内に初のスーパーマーケット誕生(「市民の戦後史(仙台市)」P102)
* 1958年(S33)11月20日、仙台市内初のスーパーマーケット「遠藤」を開設(宮町)(「重訂 宮城県郷土史年表」P590)/ エンドーチェンの第1号店
* 1964年(S39)3月、エンドー仙台駅前店、開業
* 1987年(S62)7月15日、新エンドー仙台駅前店開店
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「市民の戦後史(仙台市)」P102/「重訂 宮城県郷土史年表」P590/「続・ 宮城県郷土史年表」P226/「仙台市史 特別編4 市民生活」P41/「わが心の仙台駅前史」年表
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「市民の戦後史(仙台市)」P102(市内初のス-パーマーケット)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P108(S53、仙台駅前店
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大倉ダム |
完成 |
1961年(S36) |
* 1958年(S33)10月、ダム工事着工
* 1961年(S36)6月17日、大倉ダム工事完成し、貯水開始
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「市民の戦後史(仙台市)」P104/「重訂 宮城県郷土史年表」P600
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「市民の戦後史(仙台市)」P104(ダム工事)/同P135(S36年8月、大倉ダム完成し放流開始)/同P170(大倉ダムから放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P188(大倉ダム、カラー)
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仙台市役所庁舎 |
第2代庁舎塔屋の大時計 |
1959年(S34) |
* 1959年(S34)5月10日、仙台市制70周年を記念し、東一番丁商店街から贈られた大時計を白亜の市庁舎塔屋に掲げる(6月8日始動)
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「市民の戦後史(仙台市)」P107/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P288
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201-01/「目で見る仙台の歴史」P197(市制70周年祝賀マンモス時計除幕式)/「市民の戦後史(仙台市)」P107(塔屋に大時計)
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市民土曜音楽会 |
開始 |
1960年(S35) |
* 1960年(S35)7月、始まる(市役所庁舎前で)
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「市民の戦後史(仙台市)」P125
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「市民の戦後史(仙台市)」P125(S35年7月、土曜音楽会)
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住宅団地 |
鶴ケ谷団地 |
1968年(S43) |
* 1964年(S39)9月、鶴ケ谷団地造成開始
* 1968年(S43)、仙台市は市営住宅鶴ケ谷第一、第二団地(1250戸)を3年間に亘って建築
* 1971年(S46)12月1日、鶴ケ谷ショッピングセンター開店
* 1971年(S46)12月10日、鶴ケ谷地区の地域冷暖房プラント完成
* 1971年(S46)12月16日、市営住宅40戸完成
* 1971年(S46)12月24日、公設小売市場オープン
* 1972年(S47)4月1日、鶴ケ谷郵便局開局、消防出張所設置
* 1972年(S47)4月、2つ目の幼稚園開園
* 1972年(S47)5月23日、鶴ケ谷市民センター一般開放
* 1972年(S47)11月、地域暖房の湯供給開始
* 1973年(S48)3月、鶴ケ谷住宅団地造成完成
* 1974年(S49)8月15日、団地に特別養護老人ホーム完成
* 1974年(S49)11月2日、トーコー鶴ケ谷ショッピングプラザがオープン
* 1975年(S50)5月、鶴ケ谷団地の大堤池にホタルの幼虫300匹放流(S49年から)
* 1980年(S55)12月、鶴ケ谷団地の店舗禁止規定解除
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「市民の戦後史(仙台市)」P148、P214/「重訂 宮城県郷土史年表」P645/「続・ 宮城県郷土史年表」P5、P8、P9、P13、P31、P34、P41、P120/「仙台あのころこのころ八十八年」P257
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「市民の戦後史(仙台市)」P149(団地完成予想図、まだ空き地が目立つ鶴ケ谷住宅団地空撮)/「新・目で見る仙台の歴史」P186(H1年頃、カラー鶴ケ谷団地/団地完成予想図)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図75~76(S43年、H9年空撮カラー)/同P186(鶴ケ谷団地土地利用図)/同P469(鶴ケ谷市民センターの利用案内)
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下水処理 |
事業決定 |
1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)2月、仙台市、下水道処理事業決定
* 1963年(S38)9月、南蒲生の下水週末処理場一部運転開始
* 1964年(S39)2月、下水の南蒲生幹線貫通
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「市民の戦後史(仙台市)」P152~153
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P151(建設中の南蒲生下水処理場)/「市民の戦後史(仙台市)」P152~153(南蒲生下水道終末処理場、下水道清掃車、下水幹線工事完成で握手、澱ポンプ場)
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勤労青少年ホーム |
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* 1964年(S39)12月、新築された東二番丁小学校内に、勤労青少年ホームが発足
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「市民の戦後史(仙台市)」P160
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「市民の戦後史(仙台市)」P160(茶室やスポーツ室を利用する青年男女)
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横断歩道橋 |
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* 1966年(S41)12月、東二番丁通り市立病院前に横断歩道橋完成
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P181
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宅地造成ブーム |
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1960年(S35)頃~ |
「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190)
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「市民の戦後史(仙台市)」P190
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「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家)
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花火大会 |
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* 1967年(S42)8月、広瀬河畔の花火大会、交通事情などでこの年限りで廃止
* 1970年(S45)8月5日、仙台七夕で、花火大会初開催
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「市民の戦後史(仙台市)」P201/仙台市史 年表」P127
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「市民の戦後史(仙台市)」P201(S42年、広瀬河畔の花火大会)
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市民のつどい |
第1回 |
1967年(S42) |
島野市長時代に始まり、毎年定期的に会合
* 1967年(S42)11月9日、第一回市民のつどい
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「市民の戦後史(仙台市)」P204~205
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「市民の戦後史(仙台市)」P204~205
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釜房湖(ダム) |
給水開始 |
1970年(S45) |
釜房ダムは貯水量4500万トン、仙台市と周辺市町村に飲料水1日20万トンと工業用水10万トン供給、洪水調節、発電などの多目的ダム
* 1966年(S41)、釜房ダム建設開始
* 1970年(S45)7月10日、川崎町の釜房ダム、給水開始
* 1973年(S48)12月、釜房湖畔に、レジャーランドのバリハイセンターがオープン
* 1976年(S51)6月22日、湖畔に「鎮魂の碑」除幕
* 1978年(S53)10月15日、釜房湖畔公園誕生
* 1984年(S59)9月15日、湖畔で国営公園起工式
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「市民の戦後史(仙台市)」P219/「重訂 宮城県郷土史年表」P662/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P86、P181
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「市民の戦後史(仙台市)」P219(工事現場俯瞰、導水路トンネル)
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光ヶ丘天使園 |
仙台版「少年の町」建設 |
1948年(S23) |
* 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察)
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「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259
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S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194
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市場 |
仙台市中央卸売市場 |
1960年(S35)/1973年(S48) |
* 1955年(S30)7月、市場内の製氷工場操業開始
* 1957年(S32)4月26日、起工式(宮城野原旧練兵場跡)
* 1960年(S35)12月4日、宮城野原に開設、「水産物部」の業務開始
* 1961年(S36)12月11日、「青果物部」の業務開始(これまであった長町市場を暫定的に1年間、分場として残す)
<新・仙台市中央卸売市場>
* 1973年(S48)11月1日、原町南目(卸町4丁目)に、新たな「仙台市中央卸売市場」開場(青果、水産、花き部門を併設)
* 1975年(S50)7月、仙台市田子(扇町6丁目)に、中央卸売市場(食肉市場)開業
* 1988年(S63)1月、花き部門を分離、花き市場が苦竹4丁目に完成した新施設で営業開始
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「市民の戦後史(仙台市)」P90/仙台市HPのうち、仙台市中央卸売市場(市場の歴史)および仙台市中央卸売市場(食肉市場の歴史)
/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P465~467/「仙台市史 年表」P121、P122、P129、P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P602/「続・ 宮城県郷土史年表」P24、P43、P238/
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「目で見る仙台の歴史」P183(宮城野原の中央卸売市場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P89(S30年代、中央卸売市場セリ風景)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(宮城野原の中央卸売市場俯瞰全景、セリ風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(製氷工場)/同118~119(市場全景、青果物市場、水産市場、せち)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(魚市場セリ、カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P75(S50年頃、食肉市場)
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東一マーケットと中央マーケット |
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・ 東一マーケットは、「仙台東一公設市場」のことで、戦後しばらく、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道東側に面してあった
( → キーワード「仙台東一公設市場」または「東一マーケット」で検索)
・ 一方、東一番丁通り南部(藤崎より南)には、「仙台中央公設市場」(中央マーケット)が道東側に面してあった
( → キーワード「仙台中央公設市場」または「中央マーケット)」で検索)
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「市民の戦後史」P50、P30
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東一マーケットは、16-38、16-39 /中央マーケットは、98-013、22-55(右端に写る)
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日乃出映画劇場 |
出火 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された
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「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場)
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高等学校(新制) |
常盤木学園高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1928年(S3)、仙台市元柳町(現・西公園内)に、常盤木学園高等女学校及び専攻科を設立
* 1934年(S9)、専攻科第二部(裁縫科)を増設
* 1936年(S11)、家庭寮花嫁学校を開設
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎焼失 / この後2年数ヶ月間、尚絅女学院、片平丁小学校、東六番丁小学校に転々とした間借り授業
* 1947年(S22)、青葉区小田原金剛院丁に校舎再建
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、常盤木学園中学校・高等学校と改称
* 1957年(S32)12月、円型校舎竣工
* 1961年(S36)、音楽科を設立
* 1963年(S38)、プール竣工
* 1974年(S49)、新校舎本館竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震(被害相当)
* 1986年(S61)、松良記念館竣工/新プール移設
同年、中学校を休止(H16年に廃止)
* 1991年(H3)、ニュージーランド、ホーンビィ高校と姉妹校
* 1997年(H9)、国際コースを開設
* 2003年(H15)、6月シュトラウスホール竣工
* 2004年(H16)、東校舎竣工 / 国際コース開設
* 2010年(H22)、スーパー両立コース(SBC)の開設
* 2016年(H28)、ビジネスコース開設
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「常盤木学園高等学校」HP/「仙台市史 年表」P104/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P525~526
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/「仙台市史 特別編4 市民生活」P139(校舎外観)/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する常盤木学園の女学生たち)/「目で見る仙台の歴史」P180と、「市民の戦後史(仙台市)」P101に、円形校舎
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学徒出陣 |
壮行式など |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)
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学徒出陣 |
東北帝大の壮行大会 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)9月23日、東北帝大出陣学徒の卒業式(片平キャンパスの講堂で、法学204人、経済学37人、文学30人、計271人が繰上げ卒業)
* 1943年(S18)10月8日、東北帝国大学学徒出陣壮行会
壮行会は、全学部2000余人の学生を前に、出陣学徒代表が「大命は下った。日ごろ練磨した体育、知育を役立てる時がきた。日本に生まれ育った我らのみに与えられた感激である」と答辞。 (「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)10月8日、NHK仙台中央放送局が、「東北帝国大学徒出陣壮行大会」を放送
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史10 年表」P306/「仙台年表」P212/「宮城県百科事典」P1114(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P498/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P18
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98-090
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仙台空港 |
矢ノ目飛行場時代 |
1940年(S15)~1964年(S39) |
<戦前は軍用>
* 1940年(S15)11月、矢ノ目飛行場、熊谷陸軍飛行学校増田分校教育隊練習基地として名取郡下増田村・玉浦村に飛行場が建設される(「仙台市史 年表」P110)
* 1939年(S14)、玉浦飛行場造成。 名取郡玉浦村矢野目と同郡下増田にまたがる松林と農地300haを買収し、突貫工事で造成。熊谷陸軍飛行学校増田分教場としてパイロット養成にあたる。2年後に、熟練パイロット養成の部隊に通信隊を併設。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
* 1945年(S20)、本土決戦に備えて隼(はやぶさ)、鐘馗(しょうき)、疾風(はやて)などの偵察隊や重爆撃機を配備したが、活躍の場がないまま敗戦。(「戦争のころ 仙台、宮城」P155)
<戦後、進駐軍(米軍)が接収>
* 戦後、米軍が接収し弾薬集積場として使用
<防衛庁、運輸省が共同使用>
* 1955年(S30)?1956年(S31)?、「矢ノ目飛行場」がGHQ(連合軍総司令部)より返還され、防衛庁と運輸省が共同使用(空港の管理は防衛庁)
* 1957年(S32)7月14日、自衛隊第二操縦学校矢目分校開設
<民間機、定期航空路線開設>
* 1957年(S32)4月22日、「仙台飛行場」開港式、民間空港として使用開始、仙台~東京間の定期航空路線開設(第1便運行)
* 1957年(S32)4月24日、矢ノ目飛行場、民間空港「仙台飛行場」として供用開始、1番機運航
* 1958年(S33)6月1日、全日空、仙台~札幌便就航
* 1963年(S38)5月10日、全日空機が仙台空港で着陸に失敗し、8人重軽傷
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)
<所管、防衛庁→運輸省へ>
* 1962年(S37)6月25日、仙台空港は防衛庁より運輸省へ所管換えとなる(「重訂 宮城県郷土史年表」P605)
* 1964年(S39)8月、飛行場面の管理が、防衛庁から運輸省航空局へ(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P155/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P605/「仙台市史 年表」P110、P120、P123/「仙台あのころこのころ八十八年」P253/「重訂 宮城県郷土史年表」P579、P585、P605、P608/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/仙台国際空港HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P99(矢ノ目飛行場、就航したフレンドシップ機)/「市民の戦後史(仙台市)」P145(S38年5月、着陸失敗事故の全日空機)
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軍需工場(宮城県内) |
海軍火薬廠、海軍工廠、陸軍造兵廠 |
1939年(S14)~1945年(S20) |
→ 項目「陸海軍の工場(宮城県内)」の小項目「第一海軍火薬廠」「多賀城海軍工廠」「東京第一陸軍造兵廠仙台製造所」を見よ
・ 陸海軍は、宮城県内にそれぞれ直営の軍事工場を持っていました。民間工場も含めて軍需工場がこれだけ集積していた県は東北にはありません。(「戦争のころ 仙台、宮城」P156)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P156
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軍需工場(宮城県内) |
民間工場 |
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・ 東北金属(現・太白区諏訪) →マグネット通信機器、機関砲部品
・ 東北特殊鋼(現・太白区長町八幡前) →銃の中心部分となる銃身鋼
・ 三馬弘進護謨 →軍用地下たび、被服など
・ 大日本航空 →新型ジェット機「秋水」の訓練用グライダー
・ 萱場製作所(のちのカヤバ工業)仙台工場(現・太白区八本松) →戦闘機や偵察機の油圧緩衝機、陸軍の依託で着弾観測用のオートジャイロ(カ号観測機)の組立作業
・このほか、日本電気、東北ゴム、本山製作所、仙台発動機、塩釜ドック、東北ドックでも軍需品を製造
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P158~159
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満蒙開拓 |
宮城県関連(2)満蒙開拓団リスト |
1932年(S7)~ |
<(戦争のころ 仙台、宮城」P164~165より転記>
・ 宮城県は長野県、山形県に次いで全国で3番目に開拓団を多く送り出した県といわれ、国策の名のもと38地点に1万2000人の開拓団や義勇隊が渡満した
・ 宮城県知事引継書(昭和17年10月7日 林信夫知事→加藤於兎丸知事)の記述
「北海道自作農や、南米、南洋方面への移住希望者はほとんどなく、目下満州開拓民の創出に全力を挙げている。特に(南郷村のような)分村計画を樹立したところもあり移民業務は円滑に行われている」
・宮城県から渡満開拓団のリスト
昭和7年、第1次弥栄村37人 8年、第2次千振郷39人 9年、第3次瑞穂村17人 10年、第4次城子河、吟達河44人 11年、第5次大安屯、朝陽卍、黒台南郷、自警村移民168人 12年、第6次湯原、第7次先遣隊304人 13年、第7次本隊拉林、安井、第8次先遣隊420人 14年、第8次本隊横泰、青葉、韓家、第9次先遣隊173人 15年、第8次、第9次補充、第10次先遣隊137人 16年、第8、9、10次補充210人 17年、第8、9、10次補充216人 (以上、昭和17年知事引継書より)
以降は昭和19年まで続き、沙河子仙台657人、三裸樹北方村34人、三竜津久毛45人、吟達村南郷122人が移住(以上、鈴木文雄編著「宮城県開拓団の記録」)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P164~165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(3)南郷村の分村 |
1936年(S11)~1945年(S20) |
・ 南郷村(現・美里町)は県内で満州開拓(移住)に最も熱心だったと言われ、満州の各地に数十戸ずつの移住者を送り「南郷集落」を展開(分村計画)
・ 提唱者は南郷村の国民学校校長松川五郎氏、米作地帯の南郷で安定した経営を図るには1戸3ha必要とし、計算上はみ出す農家405戸を満州移住させる計画に多くの村民が応じた
・ 1936年(S11)以降、第5次黒台村50戸、第6次宮城村、第7次安拝村など、各地に数十戸ずつ、計約300戸、1500人
・ 1944年(S19)には、第13次南郷開拓団122人をソ連国境付近に
・ 大陸の花嫁のはしりとなる乙女たちが渡満したのも南郷村が先駆
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P165
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満蒙開拓 |
宮城県関連(4-2)仙台村(つづき) |
1942年(S17)~1945年(S20) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P166~167】にも、「仙台村」開拓団の記述あり
・ 農作業は4戸1組となり、水田3ha、畑7haを共同経営、米、大豆、小豆、大麦、小麦、コーリャン、馬鈴薯、家畜として牛38頭、馬60頭、ニワトリ50羽
・ 朝6時起床、朝食7時、作業は8時~夕方5時、朝食だけは、共同炊事場で作ったものを皆で食べる
・ 開拓団本部は東西500m、南北800mの土塁で囲まれ、これを二分して半分が日本人、残る半分に満州国民、朝鮮人が住んでいた
・ 国策として入植した仙台村には、激励を兼ねて宮城県や仙台市の職員が視察、河北新報記者も取材し現地ルポを記事にした
<敗戦時>(「戦争のころ 仙台、宮城」P170)
「敗戦時、「仙台村」では周囲を囲んでいた土塁を破って数百人の暴徒が侵入、立ちはだかる者に容赦なく大きな鳶口が振り下ろされました。 男たちだけでなく婦女子、赤ちゃんも殺され、それだけでなく、逃亡の途中にも栄養失調で餓死したり、絶望の果てに自殺したりした人もいました。 「子供を売れ」と言われて従った人、生きるために中国人の妻になった人もいました。この結果、「仙台村」に入植した約250戸、1000人のうちで、帰国できたのは209人(仙台市史)とか、657人中、引き揚げたのは396人(「宮城県開拓団の記録」)との説もあります。」
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P166~167、P170
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満蒙開拓 |
宮城県関連(5)農漁村スタイルの亘理開拓団 |
1940年(S15)~1945年(S20) |
・ 亘理郡の農漁民で構成する興城亘理開拓団
* 1940年(S15)11月、山下村(現・山元町)、荒浜村(現・亘理町)から先遣隊13人
・ 場所は、大連と山海関の中間、渤海湾に面した温暖な海岸で近くには興城温泉、陸軍の温泉保養所、飛行場もある南満州随一の保養地
・ 開拓団は、中国人の没落豪農の屋敷を買い取って本部とし、敗戦時の規模は戸数60数戸、300人
・ 米と魚の二本立てで経営、内地から漁船を運び、現地の幼稚な漁法の改善を指導、カニ、エビ、カレイなどの漁獲高は倍増、米作は、満州の直播方式でなく内地の本植えにし、収量5割増、敗戦時の水田は150ha(1戸平均3ha)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P168
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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女子挺身隊 |
結成 |
1944年(S19) |
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P177)
* 1944年(S19)
3月、仙台市内の女学校で女子挺身隊の結成が相次ぐ
3月10日、県下女子挺身隊、各工場に配置
3月12日、県下女子中等学校挺身隊壮行式(宮城県第一高女で)
8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
11月2日、宮城県女子学徒勤労義勇隊壮行式(宮城県第一高女で)
11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長通牒
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P177/仙台市史 年表」P113/「仙台年表」P213/「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P500/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人も軍需工場で弾丸検査)
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