仙台よみとき用語年表
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項目 小項目 内容 出典/参考資料 関連映像
住宅団地 茂庭住宅団地  1978年(S53)  * 1978年(S53)10月16日、仙台市茂庭で起工式(鶴ケ谷団地に次ぐ規模)
* 1984年(S59)6月、団地内に中央公園完成
* 1987年(S62)5月7日、団地に茂庭台診療所開所 
「続・ 宮城県郷土史年表」P86、P178、P224   
仙台朝市 スタート  1948年(S23)  * 1948年(S23)、青空市場、通称“朝市”から始まる(「仙台朝市商店街振興組合」HP)
* 1978年(S53)10月31日、新仙台駅前ビル(通称「仙台朝市アメ横ビル」)、オープン 
「続・ 宮城県郷土史年表」P87   
銀行(都市銀行) 東海銀行  1978年(S53)  * 1978年(S53)11月14日、東海銀行仙台支店開設  「続・ 宮城県郷土史年表」P88   
仙台市立病院 五橋に新築・移転  1980年(S55) 
* 1979年(S54)1月19日、上棟式
* 1980年(S55)3月30日、竣工
* 1980年(S55)7月1日、五橋地区(清水小路)の三島学園移転跡地に、地上10階、地下1階建ての新病院を建設、移転
* 1991年(H3)4月24日、市立病院救急センター開設(鉄骨鉄筋コンクリート造地下1階、地上7階) / 8,428㎡、病床数36床 
「続・ 宮城県郷土史年表」P92、P113/仙台市立病院HP(病院の沿革)/「仙台市史 年表」P132/仙台市立病院HP  「新・目で見る仙台の歴史」P195(五橋に移転した仙台市立病院、カラー) 
大学・短大 聖和学園短期大学  1951年(S26)~  ・一宗一派にかたよらない一般的仏教主義を教育の根本方針とする

* 1951年(S26)4月1日、開校(国文科・被服科)
* 1957年(S32)、被服科を家政科に科名変更
* 1962年(S37)、保育科増設
* 1976年(S51)、木ノ下校地に新校舎完成
* 1987年(S62)、泉区南中山に新校舎完成、キャンパス移転
* 1993年(H5)、被服科を生活文化科に科名変更
* 1997年(H9)、保育科が保母養成所に指定認可
* 2003年(H15)、人間コミュニケーション学科を設置
* 2005年(H17)、キャリア開発総合学科を設置
* 2007年(H19)、保育福祉学科を設置
* 2016年(H28)、保育学科を設置 
「聖和学園短期大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「続・ 宮城県郷土史年表」P246/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P544 
藤崎(戦後期) 南館 開店  1963年(S38)  * 1963年(S38)10月、「南館」完成(青葉通りに面した7階建)

S38年秋には、仙台の3デパート(藤崎、三越、丸光)が同時に増築を完成させた 
「藤崎170年のあゆみ」P146、P196~197   
藤崎(戦後期) 屋上遊園地オープン(西館)  1956年(S31)  * 1956年(S31)3月、西館に「屋上遊園地」オープン
  (観覧車、モノレール、子ども用自動車などがあった)

 <編者注> 屋上観覧車が写る「写真18-09」はS29年夏の写真(理由:東一番丁通りのアーケードが大町角までで、藤崎以南にはまだ完成していない/西館がまだ一部4階建)なので、観覧車はS29年にはすでに出来ていたことがわかる 
「藤崎170年のあゆみ」P196~197  59-0118-09 
藤崎(戦後期) 東館 開店  1971年(S46)  * 1971年(S46)11月、「東館」を建設  「藤崎170年のあゆみ」P196~197   
藤崎(戦後期) リビング館 開店  1982年(S57)  * 1982年(S57)9月10日、「リビング館」オープン

・ 大町通り(中央通り)北側に面した6階建
・ S52年に解体された明治生命館(ロマネスク様式、赤レンガの壁)の跡地 
「藤崎170年のあゆみ」P196~197/「続・ 宮城県郷土史年表」P150   
藤崎(戦前期) 北売場 開店~焼失  1935年(S10)~1945年(S20)  * 1935年(S10)12月14日、「藤崎北売場」開店
・ 東一番丁・大町角(北西角)の梅川漆器店舗跡地に建設
・ 木造、地下1階地上3階建
 
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「藤崎170年のあゆみ」P203  53-3364-03/七夕飾りは20-3220-48/「藤崎170年のあゆみ」P203に全景写真/「番丁詳伝」P43/地図は98-110 
藤崎(戦後期) 藤崎シルバーマート 開店  1951年(S26)  * 1951年(S26)12月、「シルバーマート」(藤崎名店街、のれん街)を新築オープン(木造2階建て、銀色の外観)
場所は、仙台空襲で焼失した北売場跡地(東一番丁・大町交差点の北西角) 
「藤崎170年のあゆみ」P204  「藤崎170年のあゆみ」P204に写真あり 
藤崎(戦前期) 創業/大町4丁目へ進出  1819年(文政2年)/1879年(M12)  * 1819年(文政2年)、得可壽屋(えびすや、現・藤崎)、(旧)大町2丁目1番地の地に太物商として創業
・ 当時の屋号はエビスヤ(「えべすや」と発音していたと伝えられている)
・ 〇にエの字を配し至誠一貫の意を表す横棒を入れて店印とした

* 1879年(M12)、大町4丁目(東一番丁北西角)に進出、小売部を開店(M15年より、正札販売) / 大町2丁目を本店(ほんだな)、大町4丁目の店を出店(さきだな)と呼ぶ / 木綿から絹織物までを扱う呉服店 
「藤崎170年のあゆみ」P22、P42/同P196~197に、創業~1989年(H元年)までの年表あり/「東一番丁創立五十周年」P8/「番丁詳伝」P42~43/「重訂 宮城県郷土史年表」P266/「番丁詳伝」P40   
藤崎(戦前期) 東一番丁角に出店(土蔵造り店舗)  1896年(M29)~明治末年  * 1896年(M29)4月、(旧)大町5丁目3番地の470坪(一力健次郎氏より購入)に新店舗建築を開始(場所は大町通り・東一番丁南東角)
 
* 1897年(M30)2月11日、(旧)大町5丁目に「土蔵造り瓦葺座売式店舗」を完成、卸部・小売部を移転し、紀元節をもって移転開業
(跡地に、1932年(S7)11月3日に西館(3階洋館建)オープン)

* 1910年(M43)2月、藤崎三郎助がドイツ製二人乗り幌型自動車を3千円で自家用として入手(宮城県内第1号)
* 1912年(M45)2月、株式会社設立、「株式会社藤崎呉服店」とする、資本金70万円 
「藤崎170年のあゆみ」P253/「東一番丁物語」(柴田量平著)P214~217/「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 年表」P90/「重訂 宮城県郷土史年表」P307/「仙台年表」P171、P187/「番丁詳伝」P41、P110、  「仙臺市名家及實業家一覧圖」(明治34年地図)に、「(旧)大町5丁目の藤崎呉服店」/「藤崎170年のあゆみ」P199に、「土蔵造り店舗の絵と写真」 
藤崎(戦後期) 西館増築し一部5階建に  1955年(S30)  * 1955年(S30)10月15日、「西館」を増改築し一部5階建てに(第二次増築工事完成) / 仙台で初めてのエスカレーターを新設  「藤崎170年のあゆみ」P256   
藤崎(戦前期) 洋風木造館(2階建て)建設~焼失  大正期~1945年(S20)  場所は大町・東一番丁角の敷地のうち東側の部分で、(旧)大町5丁目通りの南側に面す

* 1919年(T8)11月3日、「洋風木造館」開店
・ 創業百年を記念し近代的な洋風二階建木造館(200坪)の陳列式店舗を建て百貨店化、藤崎マーケットと称する(座売式店舗を廃止した)、西隣(大町・東一番丁南東角)には土蔵造りの卸部があった
・ 店内にブロックを敷き詰め、歩道と同じように歩けるようにした陳列式店舗で、水洗便所、暖房装置、索道金銭運搬機(キャッシュキャリー)を設備 / 近代設備は当時の仙台名物のひとつ
・ 呉服、綿布、洋反物、洋品雑貨、洋服誂えで呉服と雑貨を主力とする

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「藤崎170年のあゆみ」P92、P254/「番丁詳伝」P43  98-01498-01598-01620-3799-042 /「藤崎170年のあゆみ」P199~200(洋風木造館外観イラストと写真、売場写真、内部配置図) 
エキスポートバザー 開設期間  1949年(S24)~1951年(S26)  * 1949年(S24)8月~1951年(S26)12月、藤崎デパートの地下にあった進駐軍専用売店(EXPORT BAZAAR)  「藤崎170年の歩み」P130、P256  55-0155-0255-04 
藤崎(戦後期) 戦災復興館(3階建てに)  1949年(S24)/1952年(S27)鉄筋に  * 1949年(S24)、「戦後復興館」(木造3階建)、T8年建設の旧本館跡に建設

* 1952年(S27)11月、戦後復興館(木造3階建)を解体し、鉄筋コンクリート(地上3階、地下1階)の売場が完成 
「藤崎170年の歩み」P138に記述と広告(S27年11月の新聞広告に建物イラストあり →西館が4階建)  18-22 
藤崎(戦後期) エクスポート・バザー 開設  1949年(S24)~1951年(S26)  * 1949年(S24)8月10日~1951年(S26)12月、「西館」の地下1階に、外人専用売り場「エクスポートバザー」開設

・ 進駐軍(米軍)将兵と家族が対象 
「藤崎170年の歩み」P256/同P205の写真(S27年8月)とP140の写真(S26年11月)にエクスポートバザーの表示あり  55-0155-0255-0355-04 
藤崎(戦前期) 西館 開店  1932年(S7)  S8年の三越進出(東一番丁)を視野に、先手をうって本館横に西館を建設

* 1932年(S7)4月5日、地鎮祭
* 1932年(S7)11月3日、「西館」開店
・ オープン後は西館が藤崎の主力店舗となった
・ 東一番丁・大町交差点(南東角)で、T8年建設の洋風木造本館の西に隣接、それ以前この場所には土蔵造り瓦葺平屋店舗(M30年建設)があった
・ 鉄筋コンクリート造地下1階地上3階、一部4階建、ルネッサンス式総タイル張り、一部4階建て、のべ614坪
・ 大食堂(3階)、催事場(2階)、屋上には遊園地、エレベーターを設置

新設されたエレベーターと、それを操縦するエレベーターボーイ(紺の詰襟服、金ボタンに赤線の入ったズボン姿)が人気を博した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P39)

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で建物は焼け残る
* 1945年(S20)8月3日、空襲後の営業再開 
「藤崎」の店舗の変遷(増改築)は「藤崎170年のあゆみ」P196~209の年表/「仙台市史 特別編4 市民生活」P39、P40/「仙台市史 年表」P113  20-3720-3818-2298-01664-0353-3353-4622-2798-01920-2353-10020-2620-3172-02 
仙台市の動物園(戦後) 河北動物博覧会  1953年(S28)  * 1953年(S28)10月24日、西公園で「河北動物博覧会」開催  「見験楽学」(仙台・宮城のミュージアム情報サイト)/「仙台年表」P227   
二十人町 戦前    「二十人町」は東北線の東側にある商店街

(仙台駅東口がなかった1952年(S27)夏までは)仙台駅からは、駅西側の駅前通りを北へゆき、すぐの名掛丁角の交差点を東へ右折し、線路を宮城野橋(通称・X橋エックスバシ)で越えるのが経路だった

・ 藩政時代に、仙台城大手筋をそのまま東へ延ばした要の場所に、鉄砲組二十人衆を配し城を守らせたのが町の始まりといわれる

・ 戦前は、釈迦堂の門前町として、また花見で有名な榴ケ岡公園へゆく行楽客で賑わい、明治時代から榴ケ岡に置かれた歩兵第4連隊の兵隊さんや連隊に出入りの人々相手の商売(入隊・除隊時の記念品、食料品、飲食店、菓子屋など)が多く、近くの片倉製糸仙台工場(明治38年開設、昭和31年1月閉鎖)に大勢いた女工さんもお得意さんで、庶民的な町として栄えた

・ 1937年(S12)の日中全面戦争以降は、次第に戦時色が強まるなかで軍事優先の統制経済による物資不足でやむなく店を閉鎖したり、太平洋戦争期には商店主たちが軍需産業へ強制動員されるなど苦難の時代が続いた  

・ 1945年(S20)7月の仙台空襲では、商店街の一部を焼失

<二十人町と鉄砲町>
・「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121に、両町の由来、沿革の記述あり 
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P120~121  写真分類A-05-07二十人町の全写真(34-0534-0634-0475-0498-142など)/16-0416-10ほか/「目で見る仙台の歴史」P138に「二十人町教会堂」 
二十人町 戦後    ・ 戦後、昭和20年9月~31年6月に、近くの歩兵第4連隊兵営跡地に米占領軍が駐留(キャンプ・ファウラー)
・ 市中心部が戦災で壊滅した中で二十人町は戦災被害が比較的少なく、駅に近い下町は仙台では有数の活きた町で夜遅くまで活気にあふれたという 
・ 商店数はS10年頃が54店、S30年頃が70店

しかし、
* 1952年(S27)、最寄駅の仙石線東七番丁駅(昭和19年に仙台東口駅と改称)が廃止
* 1956年(S31)6月、米軍キャンプ・ファウラーが返還
* 1956年(S31)、片倉工場閉鎖 などで
商店街はそれまでの存立基盤を失うが、S20年代半ば以降、仙台七夕に積極的に参加するなど商店主たちが結束、青年会もS32~35年には七夕仕掛物で毎年、全市商店街コンクールで2等賞を獲得などが明るい話題となった

* 1985年(S60)、再開発事業に着手(「仙台クロニクル」P120) 

<二十人町教会>
商店街の真ん中に1895年(M28)年から二十人町教会があった
* 1982年(S57)6月、1909年(M42)建築の教会堂、取壊し始まる
* 1988年(S63)、教会が原町5丁目に移転 
「記念誌 わがまち.商店街50年のあゆみ」/「道股(ちまた)読本 その3」/「榴岡といっしょに生きてきた鉄砲町・二十人町」/「続・ 宮城県郷土史年表」P148/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120  二十人町の七夕仕掛け物、75-0175-02/「目で見る仙台の歴史」P189(戦後20年代の二十人町)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図67~68(二十人町S32年、H8年、カラー)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P120(H5、カラー) 
戦時中の勤労動員/就労規制(1) 国民職業能力申告令  1939年(S14)  * 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象 
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に) 
「週刊20世紀 1339年」P8~P9   
青年学校 発足  1935年(S10)  <「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)>
1935年(S10)4月1日、青年学校令公布 / 実業補習学校と青年訓練所が統合され、同年10月に全国約1万7000校が開校、小学校卒の国民教育の向上・再教育、国民皆兵への道筋 / 昭和14年には、男子は義務制になり、年350時間の軍事教練実施(満12歳以上~19歳以下の不就学男子が入学)

<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311>
・普通科(尋常小学校卒対象)は2年間(科目は、修身および公民科、普通学科、職業科、体操科、女子にはこのほかに家事および裁縫科)
・本科(高等小学校卒対象)は男子5年間(体操の代わりに教練)、女子3年間 / 土地の事情により1年短縮可
・昭和14年から義務化され、第1期検閲までの訓練を入営前に完了が目標で、実業補修の影が薄れ、教練のみが強化された

<「仙台市史 特別編4 市民生活」P452>
・ 陸軍省の強い要請に基づき、在郷軍人会・青年団・青年学校を軍事的な統一組織にしてゆくためのものだったことを物語っている
   *************************************

* 1935年(S10)7月31日、デパート藤崎に私立藤崎青年学校(男子38人)、片倉製糸工場内に私立片倉仙台青年学校(男子30人、女子570人)設置
* 1935年(S10)8月1日、仙台市青年学校16校開校(16あった実業補修学校や青年訓練所を所在の町名の青年学校とする、補習学校と青年訓練所の両方があったのは、南小泉・長町・西多賀・原町の4つで、原町以外の3つには青年学校となってからも女子部があった) / 仙台市工業専修学校が仙台市工業青年学校に、仙台市商業専修学校が仙台市商業青年学校になる(工業青年学校、商業青年学校は、S16年3月10日廃止)

* 1939年(S14)4月26日、青年学校、男子のみが義務制になる
* 1942年(S17)3月31日、仙台市立青年学校、17校廃止
* 1942年(S17)4月1日、仙台市立独立青年学校4校設置
* 1947年(S22)、青年学校廃止(「仙台市史 特別編4 市民生活」P452) 
「週刊20世紀 1935年」P26、「同1939年」P10~11)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P310~311/「仙台市史 特別編4 市民生活」P451~452/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史10 年表」P286、P304/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16/  06-06/仙台市史 特別編4 市民生活」P451(秋保村青年学校の旗、カラー) 
軍事教練 大学も必須に  1939年(S14)~1945年(S20)  * 1939年(S14)3月30日、文部省、大学の軍事教練を必修とする
* 1941年(S16)8月30日、大学学部にも軍事教練担当現役将校を配属

<東北帝国大学>
軍事教練を行わない学校だったが、昭和14年からの義務化に際し、全学部2000人に毎週2時間程度実施のための武器がなく、文部省の斡旋で481丁の小銃、軽機関銃を急いで入手。(「戦争のころ 仙台、宮城」P93) 
「週刊20世紀 1939年」P10/「仙台年表」P209/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P27/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P93   
戦時中の勤労動員/就労規制(2) 国民徴用令  1939年(S14)~1945年(S20)  * 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布

戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる

  → 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照 
「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など   
陸軍の学校(宮城県内) 仙台陸軍教導学校  1927年(S2)~1943年(S18)  * 1927年(S2)7月1日、「陸軍教導学校令」(勅令)制定、歩兵科の下士官候補者を養成する陸軍教導学校を、仙台、豊橋、熊本に設置、歩兵科以外の下士官養成は従来どおり各部隊で行われた

* 1927年(S2)7月1日、仙台陸軍教導学校(陸軍下士官の教育機関)を、川内の元歩兵第29連隊兵舎におく
* 1938年(S13)8月13日、教導学校内に仙台予備士官学校を併設、開校式(S14年3月に盛岡近郊へ移転、1943年8月2日に廃止)
* 1943年(S18)8月2日、仙台陸軍教導学校が廃止され、施設はそのまま仙台陸軍予備士官学校が設置され、終戦まで続いた 
「重訂 宮城県郷土史年表」P207/Wikipedia「陸軍教導学校」、「仙台予備士官学校」   
郵便局 仙台郵便局  1872年(M5)  * 1872年(M5)7月、仙台郵便取扱所を国分町に設置(「仙台市史 年表」P80)
* 1875年(M8)1月、仙台郵便局と改称し、南町に移転
* さらにその後大町に移り、1882年(M15)に再び南町に移転(以上、「重訂 宮城県郷土史年表」P240)

* 1890年(M23)、仙台郵便電信局として南町に新築移転
* 1899年(M32)以降は、仙台郵便局として、郵便・電信・電話・貯蓄・保険、および三県の管理を担当
* 1919年(T8)3月2日の南町大火で焼失 
* 1919年(T8)5月12日、仙台郵便局、東一番丁に移転(「仙台市史10 年表」P252、「仙台市史 年表」P98)
* 1920年(T9)8月6日、仙台郵便局、再び南町に再建移転(「仙台市史 年表」P99)(建物は三角屋根が3つになった)

<戦災焼失>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で郵便局、北隣の仙台電話局ともに焼失 / 郵便課は市内霊屋下の仙台逓信講習所に移転、電信課は東北学院専門部礼拝堂地下に移転し、業務続行(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580)

<戦後>(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582)
* 1946年(S21)2月9日、郵便局から電信課が分離し、仙台電信局に昇格
* 1946年(S21)12月20日、郵便局は南町に庁舎(木造2階建)再建し移転
* 1949年(S24)6月、逓信省が郵政省と電気通信省に分離 / 仙台逓信局は、仙台郵政局と東北電気通信局に分かれる
* 1955年(S30)11月、仙台郵便局木造庁舎を建て替え、南町通りに新庁舎落成(地上4階地下1階)
* 1957年(S32)11月、仙台郵政局、新庁舎に移転(南町通5番地/鉄筋コンクリート地上6階地下1階) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P240/「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真キャプション/「仙台市史 年表」P80、P98、P99/「仙台市史10 年表」P252、P311/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P580~582  「絵葉書で綴る大正・昭和初期の仙台」P66の写真/再建移転後は、53-95/「目で見る仙台の歴史」P177に、南町通りの仙台郵便局/同P193に、南町通りの仙台郵政局 
宮城県図書館(戦前) 宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失  1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20)  <宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称 
<勾当台へ移転> 
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)  99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」 
第二師団(出兵記録)(1) 出兵記録(仙台鎮台時代)  明治年間(1)  <西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689) 
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)

<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)

 ~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
 
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300   
挹翠館(ゆうすいかん)  建設~焼失  1886年(M19)~1945年(S20)  桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された

* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる

* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた

* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失 
「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83   98-05898-059/「目で見る仙台の歴史」P117 
第二高等学校(旧制) 第二高等中学校/第二高等学校(片平丁校舎時代)  1887年(M20)/1894年(M27)  <前身の第二高等中学校>
* 1886年(M19)公布の中学校令により、仙台市に第二高等中学校設  / 翌年9月、本科、予科、医科の3科で開校、同市東二番丁、荒町、片平丁へと移転した(「宮城県百科事典」P637)
* 1887年(M20)4月1日、第二高等中学校を19年4月発布の中学校令により仙台に創設す(7月仮事務所を宮城県尋常中学校に設け、8月荒町小学校内に移る(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1887年(M20)4月18日、文部省、第二高等中学校を仙台に設置 / 同年8月19日、第二高等中学校に医学部設置(「仙台市史 年表」P86)

<片平丁校舎へ>
* 1889年(M22)8月、片平丁に新校舎本館落成し、本部・医学部ともに東二番丁尋常中学校跡より移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1889年(M22)8月3日、片平丁に第二高等中学校校舎が完成(「仙台市史」P87) / 本館はゴシック風木造2階建、黒褐色のペンキ塗りで北欧風 / 1891年(M24)、盛大な開校式(「明治の洋風建築-宮城県-」P62) 

<第二高等学校 片平丁校舎時代>
* 1894年(M27)9月、第二高等学校と改称(「宮城県百科事典」P637)  
* 1994年(M27)6月25日、高等学校令を公布し「第二高等学校」と改称、さらに医学部と大学予科とを置く(「「重訂 宮城県郷土史年表」P298) / 開校記念日10月26日(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)
* 1994年(M27)9月11日、「第二高等学校」と改称(「仙台市史 年表」P89)
第二高等学校開校当時の組織(「重訂 宮城県郷土史年表」P276)は、医学部(4年・定員200人)、本部(定員460人)、本科(2年・尋常中学校卒業程度)、予科(3年・尋常中学校第二学年修了程度) / 第1回の入学試験受験者73名、入学許可者7名
* 1901年(M34)4月1日、第二高等学校医学部が仙台医学専門学校として独立(「仙台市史 年表」P91)
* 1910年(M43)、片平丁に書庫が完成(「仙台市史 年表」P95) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P276、P284、P298/「宮城県百科事典」P637「第二高等学校」/「明治の洋風建築-宮城県-」P62「第二高等学校」/「仙台市史 年表」P86、P87、P89、P91、P95  99-058 / 「新・目でみる仙台の歴史」P141の写真(第二高等中学校の開校式)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P253(M24年5月の第二高等中学校校舎完成記念開校式の図)/「いつか見た街・人・暮らし」P18(学生服学帽の二高生が写る、大正13年)/「目で見る仙台の歴史」P128(仙台医学専門学校校門と校舎)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P363(M44年ころ、仙台医学専門学校授業風景、女性看護婦も)/同P395(M44年ころ、仙台医学専門学校=旧宮城病院バックに学生たち) 
博覧会・フェア 紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会  1940年(S15)  * 1940年(S15)4月20日~5月30日、仙台商工会議所、紀元二千六百年奉祝興亜時局博覧会を開催(桜ケ岡公園、37万人入場)  「重訂 宮城県郷土史年表」P298/「仙台放送局のあゆみ」P15   
金属回収 伊達安芸銅像  1944年(S19)  * 1944年(S19)5月27日、松島瑞巌寺境内の伊達安芸の銅像、金属回収に応召出陣となり「壮行式」  「重訂 宮城県郷土史年表」P308   
明治生命館 竣工~解体  1920年(T9)~1977年(S52)  大町通り(旧・大町五丁目)にあった明治生命館(明治生命仙台支店)は、鉄筋コンクリート地上3階・地下1階、ロマネスク様式、赤レンガの壁にみかげ石が張られていた

* 1898年(M31)8月28日、明治生命仙台支店を(旧)大町5丁目に開設

* 1919年(T7)、明治生命館(ロマネスク様式)着工(2年3か月間工事) / 設計は曽根達蔵、中条精一郎
* 1920年(T9)7月旧、竣工
* 戦後、進駐軍に接収された
* 1947年(S22)11月1日、明治生命宮城支部と改称
* 1953年(S28)4月1日、仙台外務部と改組
* 1977年(S52)6月、明治生命館(ロマネスク様式)解体
  (5年後のS57年9月、跡地に「藤崎リビング館」がオープン) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P313/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P131/「藤崎 170年のあゆみ]P95/「番丁詳伝」P215  16-4422-2843-25/「目で見る仙台の歴史」P151 
藩祖政宗公の記念祭 仙台開府三百年記念祭  1899年(M32)  * 1899年(M32)5月23~24日、本丸跡と追廻において挙行 / 追廻広場や国分町には山鉾が飾られて壮観を極めた  「重訂 宮城県郷土史年表」P315/「目で見る仙台の歴史」P132  「目で見る仙台の歴史」P132に「奠城三百年祭」(屏風絵?) 
仙台ホテル 立て替え(ホテル2代目)  1905年(M38) 
* 1905年(M38)、 4階建ての擬洋風建築に建て替え / 
出羽三山・本道寺(神仏分離により口之宮湯殿山神社。山形県西川町)の仁王像一対を1875年(M8)から所有していた弥勒院(山形県河北町)から買い取り、ホテルの1階玄関に安置(Wikipedia「仙台ホテル」)

* 1905年(M38)、「明治20年頃、仙台駅前に進出せる大泉旅館は、この年、三階建て旅館に設備を拡大し、仙台ホテルと改称す」(「重訂 宮城県郷土史年表」P334)
<編者注> 大泉支店の仙台ホテル改称はホテル1代目建物ができた明治29年で、38年ではない/ 38年は、ホテル2代目建物(3階建一部2階建て擬洋風建築)に建て替えた年/ 看板「仙台ホテル」の他に、壁面に「大泉館」表示もある 
「重訂 宮城県郷土史年表」P334/Wikipedia「仙台ホテル」  44-0598-063/「目で見る仙台の歴史」P124と「新・目で見る仙台の歴史」P130に『明治38年建築の仙台ホテル』 
仙台高等工業学校 開校  1907年(M40)~1951年(S26)  官立の仙台高等工業学校は、(旧制)中学校卒業者が入学した3年制の専門学校
・「SKK」は校名の略称(仙台、高等、工業の頭文字を並べた)
・「SSKと萩の葉」を組み合わせ校章とした

* 1906年(M39)3月29日、文部省直轄学校一つとして設置
* 1907年(M40)4月20日、仙台高等工業学校開校(敷地,校舎は、南六軒丁の宮城県立仙台第一中学校を充当) / 名古屋、熊本につぎ3番目 / 土木、機械、電気の3工学科と採鉱冶金学科
* 1912年(M45)3月29日~1921年(T10)3月31日の間、東北帝国大学に包摂され、東北帝国大学工学専門部と改称
* 1921年(T10)4月、再び仙台高等工業学校として独立、再発足
* 1939年(S14)3月29日、工業化学科を新設(定員35名)
* 1944年(S19)4月、仙台工業専門学校に改称
* 1948年(S23)6月25日、同盟休校(教育防衛闘争)
* 1949年(S24)、東北大学に包摂された(工学部に合併され、東北大学仙台工業専門学校と改称)
* 1951年(S26)3月:東北大学仙台工業専門学校、廃止。

「写真53-120」の校舎は、1908年(M41)竣工~1926年(T15)6月全焼
「写真18-03」の校舎は、東北大学発足後は、第二教養部校舎となり、その後は、東北大学通信研究所が使用した 
「重訂 宮城県郷土史年表」P335、P337、P467/「宮城県百科事典」P579『仙台工業専門学校』 /「明治の洋風建築-宮城県-」 P69とP78『仙台高等工業学校』 /「仙台市史 年表」P94、P100、P113/「仙台市史10 年表」P318/Wikipedia「仙台高等工業学校」(2020年3月)  53-12018-03/「新・目で見る仙台の歴史」P141/「新・目で見る仙台の歴史」P141(校門と校舎)/「市民の戦後史(仙台市)」P39(仙台工業専門学校) 
松永正敏中将     第5代第二師団長
* 任期は1906年(M39)7月6日~1912年(M45)2月18日
* 1912年(M45)1月16日、死去
 第二師団が朝鮮派遣(駐剳)中に京城(現・ソウル)で死去
* 1912年(M45)、葬儀(仙台・追廻練兵場で) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P351  99-077/ 葬儀は、99-011-299-103 
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン 開店~閉店  1912年(M45)~1933年(S8) 
・ 東一番丁通の立町通角と大町通角の間、道の西側に面していた(戦後の靴店「アピアまんぞくや」の辺り)
・ 1階がツルヤ洋菓子店、2階がカフェ・クレーンで西洋料理や喫茶(仙台最初の洋風喫茶店)、夜はイルミネーションが点灯
・ 洋館造り、設計は東北帝国大学の文部技官中島仙太郎

* 1912年(M45)7月27日、開店(大正に改元の3日前)
大町5丁目の写真機販売業・桜井常吉が東一番丁通りに進出、電飾の輝く洋館2階でカフェ・クレーンを開業(1階のツルヤ洋菓子店は義弟の中林源助にまかせる) 

* 1933年(S8)3月19日、近くの映画館「仙集館」近くから出火した火事で類焼し、閉店 
「重訂 宮城県郷土史年表」P352/「仙台はじめて物語」P74~75
/「東一番丁物語」(柴田量平著)P126~129/「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P135/「仙台市史 年表」P96 
20-1920-4122-5645-0245-0399-017 
逓信関連 仙台逓信講習所  1919年(T8)  * 1919年(T8)5月、仙台逓信講習所を霊屋下(おたまやした)に開設  「重訂 宮城県郷土史年表」P373  43-06(校舎)、53-93(寄宿舎) 
仙台市街自動車 設立~市が買収  1919年(T8)~1942年(S17)  伊勢久治郎が設立、市民に「銀バス」の愛称で親しまれた

* 1919年(T8)7月16日、仙台市街自動車、創設(社長 伊勢久治郎、資本金20万円)
* 1919年(T8)11月10日、乗合自動車の営業開始、仙台停車場を起点に市内の南北、および市外は増田、閖上、深沼などまで走った
* 1930年(S5)7月、市内遊覧バスの運行を開始
* 1942年(S17)7月1日、33万円で仙台市に買収され、8月21日から「仙台市営バス」として営業開始

<参照>[写真98-149]は、昭和11年当時の「仙台市交通網図」で、当時のバス路線網も記載 
「重訂 宮城県郷土史年表」P373/「仙台あのころこのころ八十八年」P243/「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P86、P187(市電年表)/逸見英夫著「仙台はじめて物語」P197/「仙台市史 年表」P99、P105/「あきんどの町~おおまちに至るまでの四百年」P95   53-4622-1053-1598-10453-121/仙台市交通網図は、98-149/「仙台市史 特別編4 市民生活」P203(パンフレット「仙台遊覧自動車案内」) 
養賢堂 国史跡指定  1922年(T11)~1951年(S26)  * 1922年(T11)3月8日、国の史跡に指定
* 1951年(S26)12月26日、史蹟指定を解除(戦災で焼失) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P384、P553   
野球場 澱橋野球場  1930年(S5)  * 1930年(S5)10月、澱橋野球場開設(角五郎町、澱橋わき)
* 1940年(S15)5月5日、澱橋総合運動場竣工、落成式
* 澱運動場は、戦後一時、米軍(進駐軍)が接収 
「重訂 宮城県郷土史年表」P422/「仙台市史10 年表」P298/「仙台年表」P210/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328/「仙台あのころこのころ八十八年」P246、P248   
「仙台郷土研究」 創刊  1931年(S6)  * 1931年(S6)1月10日、「仙台郷土研究」創刊(月刊)/末永勇四郎編、無一文館書店発行 / 小倉博(斎藤報恩会館)、阿刀田令造(旧制二高)らが中心  「重訂 宮城県郷土史年表」P424/「目で見る仙台の歴史」P159  「目で見る仙台の歴史」P159に、創刊号、小倉博氏と阿刀田令造氏肖像 
軍用機献納     「愛国号」は陸軍へ、「報国号」は海軍への献納機 / 昭和7年の「愛国機」1号、2号にはじまり、太平洋戦争中まで、全国の市民、企業、団体などから献納が相次いだ。

* 1932年(S7)4月24日、宮城県民の寄付による軍用機「愛国機2号」の命名式(宮城野原練兵場)
* 1939年(S14)8月20日、海軍への献納機、宮城水産号、命名式(仙台飛行場)
* 1941年(S16)10月5日、愛婦献納機、命名式
* 1944年(S19)2月11日、愛国機仙台市民号、献納 
「重訂 宮城県郷土史年表」P431/「仙台市史10 年表」P278、P296、P302、P307/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310

参考:陸軍愛国号献納機調査  http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Aikokuki_Top.html

その1「愛国1号、2号」http://coah.pro.tok2.com/AvnHistory/article/KF_2011-10.pdf /

海軍報国号献納機調査http://www.ne.jp/asahi/aikokuki/aikokuki-top/Houkokugou_List1.html 
民間から献納された海軍機「とうふ号」 80-01 
木材応召 県庁構内の大欅  1943年(S18)  * 1943年(S18)2月頃、宮城県庁構内の大欅(樹齢約300年)、木材応召により伐採(斧入式挙行)  「重訂 宮城県郷土史年表」P459   
戦勝祝賀行事 南京陥落  1937年(S12)12月  南京陥落(日中戦争)では、昭和12年12月14日の夜に東京や大阪などで祝戦捷提灯行列が行われている 

<仙台でも祝賀行事が行われた>
* 1937年(S12)12月13日、南京を完全に占領し、この日皇軍南京に入城す(「重訂 宮城県郷土史年表」P460)
* 1937年(S12)12月14日、県市主催、南京陥落記念式挙行(「仙台市史10 年表」P291)
* 1937年(S12)12月14日、南京陥落の祝勝行事が行われる(「市史年表」P109)
* 南京陥落の際は、市を挙げて2万人の提灯行列が行われた(「近代みやぎの歩み」「仙台市史 続編第1巻」)
* 1937年(S12)12月13日(14日の間違いか?)、NHK仙台中央放送局、南京陥落祝賀提灯行列の模様を針金磁気録音機で録音し、ニュースで放送 
「重訂 宮城県郷土史年表」P460/[仙台市史10 年表]P291(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P97/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P8   
ガソリン切符制 実施  1938年(S13)  * 「1938年、物資動員計画による消費規制も強化され『揮発油及重油販売取締規則』に基づき、切符制による配給が実施された(第二次消費規制)。この一環として、自動車用等のガソリンへのアルコール混入が実施された」(ENEOS石油便覧「戦時体制下の石油政策」より)
* 1938年(S13)3月(5月?)、商工省令「揮発油及び重油販売取締規則」(のちに「石油販売取締規則」に改定)が公布され、切符制による販売制度採用
* 1938年(S13)5月1日、ガソリン切符制を実施(「重訂 宮城県郷土史年表」P462、「菅家年表」P20))

<影響>
* 1938年(S13)5月1日、「東京では、バス会社が一斉減車、タクシーは3分の1が減少」(「日録20世紀 1938」P15)
* 仙台でも1939年(S14)年以後は木炭バスが走り、戦後もしばらく続いた  → 項目「木炭バス」参照
* 1941年(S16)9月11日、警視庁、東京府下のハイヤー、タクシー各社のガソリン使用を全面的に中止と通告(「日録20世紀 1941」P32)
* 1941年(S16)10月1日から乗用車のガソリン使用を全面禁止(「週刊20世紀 1941」P27)
* 自動車も代用品の木炭で(宮城県内3000台)(佐々久「近代みやぎの歩み」P121)

<戦後>
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、木炭タクシーが無くなる 
「重訂 宮城県郷土史年表」P462/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P20、P45/「日録20世紀 1938」P15/「週刊20世紀 1938」P4、P23/「週刊20世紀 1941」P27、P32/佐々久「近代みやぎの歩み」P121   
戦勝祝賀行事 漢口陥落  1938年(S13)10月  * 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109) 
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32  「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128 

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火災(地域)
ガス
霞目飛行場(仙台飛行場)
火葬場
ガソリン切符制
片倉製糸
ガダルカナル戦
学校教練
渇水
勝山公園
河北新報社
河北遊園地
釜房湖(ダム)
紙芝居
亀岡八幡神社
臥竜梅
カルトン食堂
簡易保険保養センター
環境基本条例
がん検診センター
勧工場・商館
幹線道路
紀元2600年
気象台
北山五山
切手代(ハガキ)
木町通小学校
義務教育期間
キリンビアホール
禁煙
銀行(地域の銀行)
銀行(都市銀行)
錦章堂ビル
金属回収
金の星(カフェ)
金富士(料理店)
勤労青少年ホーム
空襲
国見浄水場
軍事教練
軍需工場
軍都・仙台
軍刀(陸軍)
軍馬の銅像
軍服(陸軍)
軍用機献納
蛍光灯
警察
警察署
競馬
敬老乗車証
下水処理
血液センター
県営宮城野原公園総合運動場
県営宮城野球場(宮城球場)
県営宮城野原硬式庭球場
県営宮城野原蹴球場
県営宮城野原陸上競技場
県営宮城自転車競技場
元気フィールド仙台
健康都市宣言
県立学校、名称変更
県令 → 知事
興亜奉公日/大詔奉戴日
公会と隣組
公害・環境問題
公害市民憲章
公害防止条例
光化学スモッグ
公職追放/追放解除
公設浴場
交通監視用テレビ
高等学校(新制)
勾当台公園
工兵第二大隊 /工兵第二連隊
公民館
江陽会館
国際反戦デー
国定公園
国鉄
国道45号線
国道48号線
国民学校
国民義勇隊
国民金融公庫
国民勤労動員令
国民健康保険
国民精神総動員運動
国民登録/勤労報国隊
国民徴用令
国立仙台病院
国民服
国民帽
こけし塔
五色沼
国旗掲揚
子ども会など
午砲
米騒動
在外同胞救出仙台学生同盟
在郷軍人会
在住朝鮮人大会
斎藤報恩会
蔵王エコーライン
桜ケ岡公園(西公園)
桜ケ岡大神宮
サマータイム
産業組合中央会
三居沢交通公園
三陸自動車道
JR東日本
自衛隊
市街化区域
市街地住宅
自警団
時差出勤
思想弾圧/共産党員検挙
四大節
七十七銀行
市町村合併
輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊
実業補習学校
自動車
自動車専用道
シネマスコープ
師範学校
紙幣・硬貨(戦後)
姉妹都市
市民の家
市民のつどい
市民福祉会館
市民土曜音楽会
市民利用施設
社会教育(戦後)
釈迦堂
車両ナンバー
週休二日制
住居番号表示制
住宅団地
柔道・剣道
祝賀行事
主食配給量
殉国勇士の家
障害者福祉
鐘景閣
松根油
定禅寺通り
昭忠碑
商店など
常磐線
消費者団体
消防組/防護団/警防団/消防団
昭和三陸大地震津波
食糧メーデー
女子挺身勤労令
女子挺身隊
シルバー人材センター
新憲法
新国丁
震災遺構
新産業都市
新住居表示制度
親切運動
新仙台港
身体障害者福祉モデル都市
仁丹マーク
進駐軍(米軍)
新寺小路地区都市改造事業(区画整理)
新伝馬町商店街
新常盤町(遊郭)
新聞社
人力車
水害
水道事業
瑞鳳殿
スパイクタイヤ
スポーツ少年団
スポーツセンター
スポーツ大会
隅櫓
青少年団
清掃事業(行政)
清掃工場
政党県支部など(戦後)
青年訓練所
青年学校
青年団
税務署
精養軒
政令指定都市
セコイヤの化石
戦後開拓
戦後教育・仙台
戦後の物資・価格統制撤廃
戦後復員/引揚げ
戦災記録
戦災者・引揚者用住宅
戦災復興
仙山線
戦時衣料
戦時下の学園
戦時中の勤労動員/就労規制
戦時中の疎開者受入れ
戦時中の物資統制、使用規制
仙集館
戦勝祝賀行事
仙石線
仙台朝市
仙台アメリカ文化センター
仙台育児院
仙台駅
仙台オープン病院
仙台卸商センター
仙台偕行社
仙台歌舞伎座
仙台簡易保険局
仙台軌道(仙台鉄道)
仙台郷土研究
仙台空港
仙台空港アクセス鉄道
仙台空襲
仙台空襲後の空襲
仙台高等工業学校
仙台合同庁舎
仙台国際センター
仙台国税局
仙台座
仙台市(名称変遷)
仙台CIE図書館
仙台市営地下鉄
仙台市営バス
仙台市街自動車
仙台市科学館
仙台市公会堂
仙台市公報
仙台市視聴覚教材センター
仙台市市民文化事業団
仙台市制
仙台市戦災復興記念館
仙台市電
仙台市天文台
仙台自動車学校
仙台市農業協同組合
仙台市の工業
仙台市の消防
仙台市の動物園
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業
仙台市の農村・農業
仙台市の花・木・鳥・虫
仙台市博物館
仙台市武道館
仙台市兵事義会
仙台市ボランティアセンター
仙台市ミートプラント
仙台市民会館
仙台市民ギャラリー
仙台市民教養センター
仙台市民図書館
仙台市民の消費生活を守る条例
仙台市民文化センター
仙台市紋章
仙台市役所庁舎
仙台ショーハウス
仙台商業会議所/仙台商工会議所
仙台城二の丸焼失
仙台庶民金庫
仙台市立病院
仙台市歴史民俗資料館
仙台信用金庫
仙台スタジアム
仙台赤十字病院
仙台専売支局
仙台専門店会
仙台七夕
仙台鎮台
仙台鉄道管理局
仙台電報局
仙台東部道路
仙台東宝劇場
仙台トラック輸送センター
仙台南部道路
仙台西道路
仙台の裁判所
仙台バイパス
SENDAI光のページェント
仙台美術館
仙台平
仙台フィルハーモニー管弦楽団
仙台復興祭グランドフェア
仙台物産陳列所
仙台北部道路
仙台ホテル
仙台陸奥館
仙台郵便貯金会館
仙台臨海鉄道
戦没者遺骨調査・収集
戦没者慰霊
創価学会会館
総進軍大会
体育館
体外受精
大学・短大
大学紛争
大政翼賛会/新体制/公会/報国会
第二高等学校(旧制)
第二師団
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会
第十三師団
第三十三師団
第四十二師団
大日本国防婦人会
大日本婦人会
大日本連合婦人会
台原森林公園
台風被害(戦後)
多賀城跡
高橋是清
タクシー
宅地造成ブーム
竹槍訓練
立町小学校
谷風の墓所
多門師団凱旋
多門通り
男女共学
地価狂乱
乳銀杏
ちびっこ広場
駐留軍(米軍)
彫刻のあるまちづくり事業
鳥獣特別保護区
朝鮮館
朝鮮人移入労働者
朝鮮戦争
樗牛瞑想の松
チリ地震津波
榴ケ岡公園
堤人形
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン
デイケアー
貞山運河(貞山堀)
逓信関連
停電
出稼ぎ者相談所
テレトピア構想
テレビアンラジオ
テレフォンカード
電気開始(仙台)
電球
電信開始(仙台)
天神社
伝染病流行
伝統町名保存
天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
土井晩翠
東一マーケットと中央マーケット
洞雲寺
灯火管制
東京オリンピック(昭和)
東照宮(仙台)
東部復興道路
同胞援護会
東邦生命ビル
東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
東北大学病院
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団
東北帝国大学
東北電力
東北本線
東北楽天ゴールデンイーグルス
東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
長町駅
奈良原式鳳号
西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
二十人町
日米野球
ニッカウイスキー工場
日本銀行
日本生命館
日本鉄道
日本農民組合
ネオンサイン
年賀郵便
年中行事(まつり)
乗合馬車
敗戦後の諸相・仙台
廃藩置県(仙台県誕生)
バカンス(流行語)
爆弾三勇士の歌
博覧会・フェア
芭蕉の辻
芭蕉の辻商館
芭蕉の辻の城櫓風建物
芭蕉の辻の洋館
バス
バスプール
バス優先レーン
支倉常長(記念碑/銅像)
発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
藩祖政宗公三百年祭
藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
東一番丁百年祭大仮装行列
東二番丁尋常小学校
東二番丁通り(拡幅)
東日本大震災
光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
松原街道
マナスル登頂成功
丸光
満年齢
満蒙開拓
右側通行
水の森スケート場
三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
緑の団地条例
南町大火
南町通り(多門通り)
三原時計店
宮城学院
宮城教育大学
宮城県沖地震
宮城県会議事堂(明治時代)
宮城県旗の図案
宮城県弘報誌「みやぎ」
宮城県県民の森
宮城県護国神社
宮城県社会福祉事業会館
宮城県スポーツセンター
宮城県青年会館
宮城県青年の船
宮城県第二総合運動場
宮城県庁舎
宮城県町村会館
宮城県図書館
宮城県美術館
宮城県物産陳列場(芭蕉の辻)
宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館
宮城県武道館
宮城県民会館
宮城県理科教育センター
宮城県立青年の家
宮城控訴院(赤タイル庁舎)
宮城交通
宮城集治監
宮城電鉄
宮城野駅/仙台貨物ターミナル駅
宮城の塔(沖縄)
宮城野通り
宮城婦人会
宮沢の一銭橋
宮沢橋(広瀬川)
民生委員/児童委員
民間放送(仙台)
無線中継所
陸奥国分寺跡
陸奥国分尼寺跡
メーデー
メートル法
明治三陸地震津波
明治製菓
明治生命館
明治百年
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瞑想の松
名誉市民
盲人専用信号機
木材応召
木炭バス
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