項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
制定 |
1975年(S50) |
* 1975年(S50)12月24日、仙台市が制定
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「仙台市史 年表」P130
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仙台市紋章 |
制定 |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)9月5日、制定
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「仙台市史10 年表」P281
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四大節 |
制定 |
1927年(S2) |
* 1927年(S2)に制定された四つの祭日(昭和戦前期)
・ 四方拝(1月1日)・紀元節(2月11日)・天長節(昭和時代は4月29日)・明治節(11月3日)の総称
・ 戦前は、児童生徒は学校に登校し式が行われた
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大辞林 など
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環境基本条例 |
制定 |
1996年(H8) |
* 1996年(H8)3月、仙台市環境基本条例、制定
杜の都・仙台の良好な環境を保全・創造し、次の世代に引き継いでゆくための基本となる考え方、市・市民・事業者の役割と責務、それぞれの取り組みの基本的な事項を定めるための条例 / 条例に基づき、仙台市における環境の保全と創造に関わる政策・施策の基本的な方向を、環境基本計画「杜の都環境プラン」で定めています
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仙台市HP「仙台市環境基本条例」
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杜の都の環境をつくる条例 |
制定 |
1973年(S48) |
* 1973年(S48)3月27日、仙台市で制定
* 1975年(S50)6月5日、条例に基づき、保存緑地28か所指定
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「仙台市史 年表」P128/「続・ 宮城県郷土史年表」P42
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杜の都の風土を育む景観条例 |
制定 |
1995年(H7) |
* 1995年(H7)、「杜の都の風土を育む景観条例」制定
・ 景観計画区域内における建築物等の行為の制限
・ 景観地区に指定された区域内において、建築物を新築する場合には、認定申請が必要
定禅寺通景観地区(平成23年12月16日決定)
宮城野通景観地区(平成23年12月16日決定)
青葉通景観地区(平成27年12月1日決定)
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仙台市HP「杜の都の風土を育む景観条例」
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住宅団地 |
利府ニュータウン(仮称) |
1987年(S62) |
* 1987年(S62)5月23日、利府町に利府ニュータウン(仮称)起工式
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「続・ 宮城県郷土史年表」P224
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仙台偕行社 |
初代建物竣工 |
1886年(M19) |
仙台偕行社(かいこうしゃ)は、陸軍将校の倶楽部で、戦前は天皇行幸の際は宿舎にもなった / 場所は、桜ケ岡公園(西公園)に隣接、現在(1996年)の仙台市図書館のあたり
* 1886年(M19)8月3日、仙台偕行社竣工(洋風建築)
* 1925年(T14)10月18日、陸軍大演習の間、大本営が仙台偕行社におかれた(「重訂 宮城県郷土史年表」P399)
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「明治の洋風建築~宮城県~」P39/「仙台市史7(警察)」の仙台部隊年表P691/「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P399
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「明治19年落成の偕行社」は、98-060、「新・目で見る仙台の歴史」P134、「市民の戦後史(仙台市)」P22/門柱の形が異なるのは、98-061、99-095
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禁煙 |
列車内 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)2月20日、東北線郡山行普通列車で禁煙実施
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「続・ 宮城県郷土史年表」P173
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日乃出映画劇場 |
出火 |
1956年(S31) |
* 1956年(S31)2月5日、日乃出劇場出火 / 午後8時45分頃、ボイラー室付近から出火、北西11mの強風(瞬間最大19m)、出動消防車14台 / 火元の日乃出劇場(地下劇場、ニュース劇場、棟続きの日乃出中華など)891平方mを全焼 / 隣接の仙台ホテル、東宝劇場などの一部も焼いて、午後10時すぎ鎮火 / 火の粉は遠く連坊小路、薬師堂まで飛び、延焼が心配された
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「市民の戦後史」P53/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P822~823/「仙台の歴史(80周年)/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P623の写真199(強風化に炎上する日乃出劇場)/「市民の戦後史(仙台市)」P96(炎上する劇場)
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第二師団(出兵記録)(4) |
出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む) |
昭和戦前期(1) |
<満州駐箚、満州事変>
* 1931年(S6)3月18日、満州守備へ出発開始(在仙台の歩兵第4連隊など各部隊の他、会津若松の歩兵第29連隊、新潟県高田の歩兵第30連隊、新発田の歩兵第16連隊など第二師団管下の部隊) / 第二師団の渡満で、仙台不景気に(「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)9月からの満州事変では、満州各地を転戦、占領 / 日本側の最初の戦死者は、歩兵第4連隊の兵士29名(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308)
* 1931年(S6)10月、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で第二師団など主催の慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送
* 1933年(S8)1月7~9日と13日、満州から仙台に凱旋(→詳細は、写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) / 1月7日、NHK仙台放送局が歓迎式を仙台駅前からラジオ中継放送
<軍事演習>
* 1932年(S7)9月18日、満州事変勃発一周年記念、第二師団留守部隊、学生の大演習
* 1933年(S8)3月10日、第二師団が国分町中心に大規模な模擬市街戦実施
* 1934年(S9)3月10日、陸軍記念日により、模擬弾・タンク・照空灯を市民に公開
* 1935年(S10)9月13日、騎兵第二連隊200騎、蔵王山突破す(遠刈田→上山を3日間で)
*****************
* 1933年(S8)8月14日、東久邇宮稔彦王殿下、第二師団長として着任(S9年8月1日、第四師団長に転任)
<2・26事件警備>
* 1936年(S11)2月26日、歩兵第4連隊、2・26事件警備で上京(6月6日帰還)(重訂 宮城県郷土史年表」P451)
「歩兵第4連隊混成大隊208人、118日間にわたって決起将校らが収容されている代々木の陸軍刑務所の警備にあたる(「戦争のころ 仙台、宮城」P39)
* 1936年(S11)6月6日、2・26事件戒厳令下、歩兵第4連隊帰還(「仙台市史 10 年表」P288)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P308~311、P361/「宮城県史 7」P685の『仙台部隊関連年表』/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P434、P436、P441、P447、P451/「仙台市史 年表」P105/「仙台放送局60年のあゆみ」P5、P7/「仙台市史10 年表」P279、P280、P281、P282、P288/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P183/「仙台年表」P202、P204/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P39
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第二師団(出兵記録)(5) |
出兵記録(凱旋・慰霊・演習などを含む) |
昭和戦前期(2) |
<満州駐箚>
* 1937年(S12)4月、満州守備(駐箚)のため出発
* 「1937年(S12)4月9日から10日間、多数の第二師団「渡満」兵の行進が市街を通り抜けていく。銃後の市民の間には、社寺のお守りを真綿でくるんで弾除けにするお守り袋や雑貨を詰め込んだ慰問袋を、郷土の在満兵士たちに贈る運動が盛んになっていた。7月7日の日中戦開始まで間もない頃である」(「仙台市史 特別編4 市民生活」P311)
<日中戦争>
* 1937年(S12)7月の日中戦争開始後は、駐箚中の満州から第二師団の一部(歩兵第4連隊第1大隊=大泉部隊)を北京へ急派 / 1938年(S13)には、その他の第二師団も満州から中国戦線へ
* 1937年(S12)9月、日中戦争勃発により急きょ、第二師団留守部隊を根幹とする十三師団(歩兵104連隊)が仙台で編制され、中国戦線へ ( →項目「第十三師団」参照 )
* 1937年(S12)12月、歩兵第4連隊第1大隊の故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(市公会堂)
<仙台へ帰還>
* 1940年(S15)8月1日、第二師団を仙台師団と改称(「仙台城」P234)
* 1940年(S15)10月、内地帰還
* 1940年(S15)11月、仙台師団は任務を終えて帰国(昭和17年宮城県知事事務引継書)
* 1940年(S15)10月21日、仙台師団において紀元2600年奉祝観兵式(宮城野原練兵場)
* 1940年(S15)11月17日、日華事変(=日中戦争)以来の管内出身将兵の慰霊祭(東二番丁小学校で)、引き続き、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭(追廻練兵場の昭忠塔前で)
<太平洋戦争> 第二師団=勇兵団
* 1941年(S16)12月の太平洋戦争突入
* 1942年(S17)1月、日本を出発、インドネシアのジャワ島(17年2月上陸) /「戦争のころ 仙台、宮城」P68では、3月1日上陸「2月になってから海軍艦艇の護衛のもとフランス領カムラン湾(現ベトナム)へ進出、60隻の大輸送船団は巡洋艦、駆逐艦32隻に守られ目的地に向かいます。途中で2回にわたって敵艦隊と遭遇、これを撃退する間退避行動をとったので上陸は3月1日に延期されました。3月1日ジャワ島上陸、わずか12日間で8万2000人のオランダ、英国軍を降伏させ占領。現地では日本軍はオランダからの解放者と受け取られ、日本軍への協力がありました。」
・ その後はニューブリテン島、ソロモン諸島のガダルカナル島(17年10月~)、フィリピン諸島、マレー、ビルマ(インパール作戦)などを転戦、終戦時は南部仏印(一部はビルマ)
・ ガダルカナル戦では、歩兵第4連隊第2、第3大隊が「青葉支隊」として投入される(「仙台市史 続編第1巻」P37) / ガダリカナル戦で第二師団の死者・戦病死者は7671人(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1944年(S19)3月、ビルマ進攻、インパール作戦(北部ビルマから2000m級のアラカン山脈を越え、インドのインパールへの進攻作戦)に、第二師団も投入されるが、5月、雨季を迎えたフーコン峡谷の沼や密林の中で、食糧や弾薬不足、疫病に苦しみ次第に後退。 / インパール作戦での第二師団の戦死、戦病死者は、1万2748人(師団兵力の3分の2を失う)(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)1月、仏印に転戦を命じられる。同師団の歩兵第16連隊、野砲、工兵、衛生兵で編成された青葉兵団と歩兵第4連隊はビルマに残り戦闘継続(「戦争のころ 仙台、宮城」P136)
* 1945年(S20)8月敗戦時には、南部仏印(ベトナム)、一部はビルマ(現・ミャンマー)のタンザビアに駐屯(「戦争のころ 仙台、宮城」P238)
***************************************
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル島戦没兵の慰霊祭(追廻練兵場)
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P311、P314/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P2、P8、P37、P64/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「重訂 宮城県郷土史年表」P460、P476~477、P479/「仙台市史10 年表」P306、P308/「仙台市史年表」P104/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局編)末尾年表P185/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P67~68、P136、238
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第二師団(出兵記録)(2) |
出兵記録(凱旋・慰霊などを含む) |
明治年間(2) |
<日清戦争>
* 1894年(M27)10月29日~11月3日、第二師団が遼東半島・山東半島への出征のため、長町軍用駅から出発(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる(「市史年表」P89)
* 1896年(M29)5月22日、宮城県凱旋部隊歓迎会(挹翠館)
(「仙台市史10年表」P210)
<日露戦争>
* 1904年(M37)2月17日、第二師団、長町駅から出兵を始める(「市史年表」P92)
* 1905年(M38)12月24日、第二師団師団司令部凱旋、日露戦役凱旋式を挙行(「仙台年表」P180 =出典:第二師団司令部「仙台城沿革」S12年刊)
* 1906年(M39)4月1日、第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる(「市史年表」P93)
<韓国駐箚>
* 1910年(M43)4月、第二師団、韓国守備に派遣される(市史年表P95)
* 1910年(M43)4月8日、師団司令部は韓国駐箚のため仙台を発つ(Wikipedia「第二師団」)
* 1912年(M45)4月24日、師団司令部が朝鮮より仙台に帰着(Wikipedia「第二師団」)
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「仙台市史10 年表」P210/「仙台市史 年表」P89、P92、P93、P95/「仙台年表」P180/Wikipedia「第二師団」/「宮城県の百年」P99
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「新・目で見る仙台の歴史」P136(日清戦争で長町臨時停車場からの出発風景/「出征」する軍馬)/「目で見る仙台の歴史」P131(日清戦争で「長町から乗車出征する第二師団」「凱旋門」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P302~303(長町停車場で日清戦争出征将兵見送り、絵図「同戦争からの帰還を迎える市民たち」)/同P306(日露戦争凱旋門と帰還兵士を迎える市民たち)/「新・目で見る仙台の歴史」P136(「日露戦争将兵の帰還」/「正装の日赤従軍看護婦たち」)/同P137(「仙台の日露戦争凱旋門」/「軍事郵便」)「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵の図103(M37年頃、日清戦争出征関連か?)
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第二師団(出兵記録)(1) |
出兵記録(仙台鎮台時代) |
明治年間(1) |
<西南戦争>
* 1877年(M10)3月20日、仙台鎮台歩兵第4連隊第1大隊の2個中隊が西南戦争へ出征(「仙台部隊関連年表」P689)
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。(「仙台市史 年表」P82)
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される(「仙台市史 年表」P82~83)
<朝鮮の甲申事件に際し、韓国駐箚公使館護衛>
* 1884年(M17)10月、韓国駐箚公使館護衛として歩兵第4連隊第1中隊を京城(ソウル)に派遣(「重訂 宮城県郷土史年表」P270)
* 1884年(M17)10月、仙台鎮台の第4連隊の1個中隊が朝鮮半島情勢の緊張にともなって漢城(現・ソウル)に派遣される(「仙台市史 年表」P85)
~ 以下は、「仙台部隊関連年表」P691より~
* 1884年(M17)10月10日、韓国駐箚公使館護衛のため、歩兵第4連隊第1中隊、仙台出発
* 1884年(M17)12月4日、京城の日本公使館、焼かれる
* 1884年(M17)12月4日~6日、第1中隊が戦闘
* 1885年(M18)7月4日、第1中隊、仙台に帰営
<第二師団発足>
* 1888年(M21)5月12日、仙台鎮台を廃し、師団編制に改組、第二師団となる(「仙台部隊関連年表」P691)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P270/「仙台部隊関連年表」(宮城県史・兵事の末尾P689、P691)/「仙台市史 年表」P82~83、P85/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300
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第二師団(出兵記録)(3) |
出兵記録 |
大正年間 |
<第一次世界大戦>
* 1914年(T3)9月、4個中隊が、中国方面の守備に派遣される
* 1917年(T6)9月、1個中隊、山東半島青島の守備を命じられる
<シベリア出兵>
* 1918年(T7)8月2日、第二師団山砲兵第一連隊および輜重兵第二大隊がシベリアに派遣される
* 1921年(T10)6月、歩兵第3旅団が前年のニコラエフスク(尼港)事件を受けてサハリンと沿海州の守備に派遣される
* 1922年(T11)6月、歩兵第25旅団、歩兵第3旅団と交代するためサハリンと沿海州に派遣される
<米騒動に出動>
* 1918年(T7)、仙台の米騒動には、6000~7000人の群衆が参加したとみられ、15日には米穀商や資産家が襲われた。16日にも発生、第二師団の軍隊も出動、実力で鎮圧にあたった(「新・目で見る仙台の歴史」P148) / 仙台の米騒動では、歩兵第4連隊やこの当時には仙台にいた歩兵第29連隊の1000名を超す兵が鎮圧のため出動、要所要所で銃剣をもって市民の通行を監視し、まるで戒厳令が布かれたような物々しさであった(「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497)
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「仙台市史 年表」P97、P98、P100、P101/「仙台市史 特別編4 市民生活」P308、P497/「新・目で見る仙台の歴史」P148
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「いつか見た街・人・暮らし」P8(満州守備派遣兵帰る、仙台駅前、大正13年)/同P21(初観兵式、大正13年1月8日、宮城野原練兵場)
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冷害・凶作 |
冷害年の稲作減収率(宮城県内) |
明治~1944年(S19) |
北海道・東北の明治~昭和19年の主な冷害年の「宮城県の米減収率」
(「図説:東北の稲作と冷害」の棒グラフより読み取り)
M35年(50%位)、M38(80%余)、T2年(50%余)、
S6年(10%以下)、S9年(15%位)、S10(20%弱)、S16年(40%弱)
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東北農業研究センター水稲冷害研究チーム「図説:東北の稲作と冷害」www.regai.affrc.go.jp/zusetu/reigai/l より要約
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ロータリー・クラブ |
再発足 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月18日、仙台ロータリー・クラブ再発足
* 1951年(S26)9月、青葉通りの仙台駅前の分離帯に、ロータリークラブから、栃の木、柳が寄付される(「戦災復興余話」P53)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/「戦災復興余話」P53
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震災遺構 |
公開 |
2017年(H29) |
* 2017年(H29)、東日本大震災の震災遺構として、仙台市立荒浜小学校公開
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仙台市HP「仙台市のあゆみ」
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電話 |
公衆電話 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)10月19日、丸光デパートにカード専用公衆電話設置(東北初)
* 1986年(S61)4月30日、マイクとスピーカーつき新型公衆電話を仙台市一番町買物公園に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P182、P204
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公害防止条例 |
公布 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)11月25日、仙台市が公布
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「仙台市史 年表」P127
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害防止条例 |
1971年(S46) |
→ 項目「公害防止条例」参照
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
公害市民憲章 |
1970年(S45) |
→ 項目「公害市民憲章」参照
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戦災復興事業 |
公園緑地造成 |
~1961年(S36) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】
・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割)
・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更
・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想
・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】
・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329)
・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330
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映画館(戦後) |
公園劇場 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)1月、鉄砲町5に開設(350席)
* 1975年(S50)3月16日、全焼
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「重訂 宮城県郷土史年表」P516
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野球場 |
八木山球場 |
1929年(S4) |
→ 項目「八木山球場」参照
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仙台市電 |
八幡町線 開通 |
1941年(S16)10日 |
・ 大学病院前~滝前町間、1.6キロ
* 1941年(S16)10月10日、開通
* 1954年(S29)8月1日、八幡町線の複線化工事完成、この日から長町線と八幡町線が直通(それまでは、大学病院前~八幡町折り返し運転)
* 1954年(S29)8月31日、複線開通(1582m)
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表/「仙台市史 年表」P111/「仙台年表」P231~232/「重訂 宮城県郷土史年表」P574/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P513
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「市民の戦後史(仙台市)」P73(単線当時の八幡町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P81と「新・目で見る仙台の歴史」P178(八幡線複線化完成で旗行列)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P102(S51、カラー)
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海岸公園 |
全面復旧オープン |
2018年(H30) |
七北田川~名取川までの貞山運河沿線の自然風致を生かし、既存の松原の保全をはかる
* 2011年(H23)、東日本大震災による津波で甚大な被害
* 2011年(H23)4月~2014年(H26)3月、震災がれきの搬入場となる
* 2014年(H26)4月、海岸公園4地区(岡田、荒浜、井土、藤塚)で復旧工事開始
* 2016年(H28)10月、4地区に避難の丘が完成、一部の施設利用再開(テニスコート、運動広場)の利用再開
* その後2度にわたり順次利用再開
* 2018年(H30)7月8日、全面利用再開
<施設内容>
避難の丘(4か所)、野球場(4面)、ソフトボール場(2面)、テニスコート(10面)、パークゴルフ場、運動広場、冒険広場、遊具広場、デイキャンプ場、馬術場
<仙台市HP「海岸公園整備事業」より>
「海岸公園の再整備は、津波防災機能や、震災の記憶を継承するという新たな役割を持たせながら、自然と人がつながり、新たなにぎわい・交流を創る海岸公園の再生を目指すとともに、地区ごとに公園を訪れた利用者や周辺住民に対して、緊急時の一時避難場所とする「避難の丘」をあわせて整備し、平成30年7月に全面利用再開しました。」
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仙台市HP「海岸公園整備事業」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P385
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広瀬通り |
全線開通 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)1月25日、広瀬通りが全線開通、同時に定禅寺通りの拡幅も完了(東一番丁付近完成はS29年4月)
・ 植栽は、当初は桜、柳 → その後はイチョウに
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
座談会「仙台 戦中戦後を語る」
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P48~49(S34、東二番丁通り角付近、俯瞰)
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日米野球 |
全米オールスターズ対全パシフィック |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月22日、宮城県営野球場で、全米オールスターズ対全パシフィック軍(米3-日0)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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輪タク |
全盛 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)、輪タク全盛時代、全国で1万3000台
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P43
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16-27、53-11、53-81
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本自転車競技選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全日本自転車競技選手権(宮城野原自転車競技場)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本学生ヨット選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)7月、全日本学生ヨット選手権(松島湾)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全日本サッカー選手権 |
1951年(S26) |
* 1951年(S26)5月、第31回全日本サッカー選手権大会(宮城野原サッカー場) / 地元仙台サッカーは4位
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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ネオンサイン(全廃) |
全廃決定 |
1939年(S14) |
* 1937年(S12)8月24日、国民精神総動員実施要綱を決定
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会が生活刷新案を決定 (遊興営業の時間短縮、ネオン全廃、中元歳暮の禁止、学生の長髪やパーマネント禁止、など)
国民精神総動員運動は、1937年(S12)日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、開始された
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岩波ブックレット「年表昭和史」P12、P16
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週休二日制(官庁) |
全国/宮城県内 |
1976年(S51)/1989年(H1) |
<中央>
* 1976年(S51)10月、政府、国家公務員の週休2日制を試行(4週の1土曜休)
* 1981年(S56)3月29日、国家公務員の週休2日制(4週5休)実施
* 1989年(H1)2月、政府機関は、毎月第2、第4土曜を閉庁
<宮城県>
* 1989年(H1)1月1日、県庁でも隔週土曜日閉庁をほぼ実施
* 1990年(H2)1月、仙台市は第2、第4土曜日の休庁実施(同年7月から月2回の土曜日閉庁実施)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P70、P74、P75、P85/「続・ 宮城県郷土史年表」P258、P266
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週休二日制(民間) |
全国(金融機関) |
1983年(S58) |
* 1983年(S58)8月13日、銀行など初めて第二土曜休日制を一斉実施
* 1989年(H1)2月、全金融機関、完全週休二日制実施(毎土曜休)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P77、P84
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スポーツ大会 |
全国高校総合体育大会(第28回) |
1990年(H2) |
* 1990年(H2)7月31日、宮城県で、第28回全国高校総合体育大会開催
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「続・ 宮城県郷土史年表」P267
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スポーツ大会(戦後復興期) |
全国高校レスリング選手権 |
1952年(S27) |
* 1952年(S27)8月、全国高校レスリング選手権(レジャーセンター)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P470
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青葉城恋歌 |
全国的ヒット |
1978年(S53) |
* 1978年(S53)5月、佐藤宗幸の「青葉城恋歌」がレコード化
* 1978年(S53)11月22日、大ヒットし、佐藤宗幸がレコード大賞受賞
作詞:星間船一、編詩・作曲・唄:さとう宗幸 / キング・レコードから、1978年(昭和53)5月5日にさとうのメジャー・デビュー曲としてシングル発売され、同年6月1日にダークダックスもシングル発売した。さとうはこの年の「第20回日本レコード大賞・新人賞」「第7回FNS歌謡祭・最優秀新人賞」にも選ばれ、さらに『第29回NHK紅白歌合戦』にも初出場を果たした。
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P82、P88/Wikipedia「青葉城恋歌」
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公害市民憲章 |
全国初、制定 |
1970年(S45) |
* 1970年(S45)9月22日、仙台市が全国で初めて制定
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「仙台市史 年表」P127
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スポーツ大会成績 |
全国優勝/五輪メダルなど |
1958年(S33)~1968年(S43) |
* 1958年(S33)11月、世界柔道選手権で神永昭夫選手2位
* 1960年(S35)5月1日、宮城県出身の神永昭夫五段、全日本柔道選手権大会で優勝
* 1960年(S35)5月8日、東北大学、全日本レガッタエイトで優勝、オリンピック出場決まる
* 1960年(S35)、ローマ・オリンピックで、レスリング・フライ級松原正之(仙台高-日本大)、重量あげ・バンタム級三宅義信(大河原高-法政大)がともに準優勝
* 1964年(S39)、東京オリンピックで、重量あけ・フェザー級三宅義信が金メダル、柔道無差別級神永昭夫(東北高ー明治大)が銀メダル
* 1965年(S40)国体サッカーで、仙台育英高校が決勝で浦和西高と引分け、両校優勝
* 1968年(S43)、メキシコ・オリンピック重量あげフェザー級で、三宅義信が優勝(二連勝)、弟の三宅義行が銅メダル
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「重訂 宮城県郷土史年表」P596/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P475~477
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「市民の戦後史(仙台市)」P124(S35年5月、柔道の神永5段が全日本で優勝)(東北大レガッタクルー)/「目で見る仙台の歴史」P195(S33年11月の世界柔道選手権2位で表彰される神永昭夫選手)
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婦人参政権獲得運動 |
全国 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦選獲得運動>
* 1921年(T10)1月、新婦人協会(市川房枝・奥むめお・平塚らいてう達)、355人の署名を集めて婦人参政権の要求を、貴族院・衆議院に提出
* 1923年(T12)2月、婦人参政権同盟結成
* 1924年(T13)12月13日、婦人参政権獲得期成同盟会、発足 / 1925年(T14)4月、婦選獲得同盟と改称
* 1929年(S4)12月、長野県で、婦人参政権の県会決議が実現
<敗戦後の再起>
* 1945年(S20)8月25日、戦後対策婦人委員会結成(市川房枝・山村民子ら30余名の女性) / 9月24日、政府・両院に対し、女性参政権実現、公民権・政党参加権の獲得、行政機関への登用を要求
* 1945年(S20)10月10日、幣原内閣が臨時閣議で婦人参政権付与の方針決定 / 10月13日、国民に発表
* 1945年(S20)10月11日、GHQ、日本民主化のための五大改革の冒頭に「参政権の付与による女性の解放」を掲げる
* 1945年(S20)12月17日、婦人参政権の付与を盛り込んだ衆議院議員選挙法改正案が成立、ただちに公布
* 1945年(S20)12月28日、衆議院解散
* 1946年(S21)4月10日、総選挙(全国で39名の女性代議士誕生 / 東北では、山形・秋田・岩手で1名、福島で2名当選)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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仙台市電 |
光禅寺~県庁前 開通 |
1927年(S2)2月 |
・ 0.9キロ / 環状線(循環線)の一部区間
* 1927年(S2)2月25日、開通
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「昭和史とともに 仙台市電 その50年」P187~189/「文集 仙台市電」末尾年表
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医療機関 |
光ヶ丘スペルマン病院 |
1955年(S30) |
* 1955年(S30)9月、開院(カトリック仙台司教直属の病院、財団法人愛世会経営 原町小田原) / 当初は、結核患者中心、その後は一般患者の診療も
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P398
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
健康都市宣言 |
1962年(S37) |
→ 項目「健康都市宣言」参照
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柔道・剣道 |
停止通達/復活 |
1945年(S20)/1951年(S26) |
<戦後>
* 1945年(S20)10月3日、文部省、柔道、剣道、教練の全面停止を通達
* 1951年(S26)1月11日、戦後禁止の学校柔道が中学校以上の随意科目として復活
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P45
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商店など |
信用堂洋服店 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、信用堂洋服店、大町五丁目194で創業
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「あきんどの町-おおまちに至るまでの四〇〇年-」P107
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99-042/ 20-46に看板あり
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伝統町名保存 |
保存運動 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)7月3日、仙台市中央南地区、南鍛冶町・荒町など伝統的町名保存でシンポジウム
* 1988年(S63)7月22日、仙台市が、伝統町名変更を見送ることを表明
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「続・ 宮城県郷土史年表」P248、P249
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満年齢 |
使用開始 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)1月1日、「年齢のとなえ方に関する法律」施行(昭和24年5月24日法律第96号)、それまでの数え年から満年齢に変更するために制定された。(Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」)
* 1950年(S25)1月1日より、年令を満で数えることになる(「重訂 宮城県郷土史年表」P540、「菅家年表」P44)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44/Wikipedia「年齢のとなえ方に関する法律」
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敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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