項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
高等学校(新制) |
仙台市立仙台高等学校 |
1948年(S23) |
<前史>
* 1940年(S15)4月10日、市立仙台中学校開校(定員750名、荒町の斎藤記念館と荒町小学校を仮校舎に)
* 1941年(S16)6月、仲ノ町に本校舎落成し移転
* 1945年(S20)7月、仙台空襲で校舎全焼し、片平丁国民学校に一時間借り後、7月末に荒町、南材木町両国民学校、斎藤記念館に間借りし二部授業
* 1948年(S23)2月、北八番丁に新校舎落成
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)4月、学制改革で仙台高等学校となる
* 1965年(S40)9月、国見台に第二運動場完成
* 1974年(S49)、男子校から男女共学になる(「仙台市史 特別編4 市民生活」P274)
* 1975年(S50)4月、国見東山に新校舎落成し、移転開校式
* 2009年(H21)4月1日、仙台市立仙台高等学校に改称
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P485~489、P503/「仙台市立仙台高等学校」HP/「仙台市史 特別編4 市民生活」P274
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「目で見る仙台の歴史」P165に中ノ丁の「市立仙台中学校」
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仙台市の消防 |
仙台市消防本部 |
1947年(S22)以降 |
<自治体消防>
* 1947年(S22)4月、消防団令公布 / 消防団長は市長が任命し、消防の運営は消防委員会があたる
* 1948年(S23)3月、消防組織法公布
* 1948年(S23)11月1日、自治体消防本部発足 / 従来の常備消防は消防本部のもとに統合、仙台市北・南消防署に改編設置 / 同年12月、常備消防部員を全員、消防吏員として採用 / 北と南の消防署、5分遣所、消防車11台
* 1951年(S26)、北消防署庁舎(鉄筋コンクリート2階建て)を北一番丁の元特別調達庁跡に新築し、消防本部と北消防署が移転
* 1951年(S26)以降、毎年、防火用水を建設、S31年までに計31か所新設
* 1952年(S27)、南消防署の望楼を鉄塔に改築
* 1957年(S32)7月1日、東消防署開庁、ブロック2階建て望楼付き
* 1959年(S34)2月、3段式16mハシゴ車1台を北署に配置
* 1959年(S34)3月、泡消火剤など装備の科学消防車1台を南署に配置
* 1959年(S34)5月、仙台市消防音楽隊(隊員30人)発足
* 1960年(S35)、片平丁出張所を再建(戦災で焼失廃止されていた)
* 1961年(S36)4月1日、仙台市消防局に、初の救急車、救急隊(3人)配置
* 1963年(S38)、南消防署を新弓の町に改築
* 1965年(S40)12月17日、南消防署に化学消防車配置
* 1966年(S41)8月、東北初の特別消防隊(消防レインジャー部隊)編成し、訓練開始
* 1966年(S41)12月1日、北消防署に、32メートル高層梯子車を配備
* 1968年(S43)3月、排煙車配備
* 1969年(S44)5月1日、望楼勤務を廃止(ビル増設とスモッグのため市街の展望不能となる)
* 1975年(S50)11月20日、仙台初の20m級スノーケル車を南消防署連防出張所に配置
* 1983年(S58)8月25日、東消防署は、苦竹3丁目の新庁舎に移転
* 1989年(H1)月日、仙台市泉消防署に36mはしご車配備
* 1996年(H8)4月、仙台市消防局、県内ではじめて女性消防士採用
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P813~818、P831~831、P845/「重訂 宮城県郷土史年表」P600、P622、P627、P628、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P165、P258/「仙台市史 特別編4 市民生活」P367
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20-04/「目で見る仙台の歴史」P182/「市民の戦後史(仙台市)」P68/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P816に、消防本部・北消防署庁舎/同P846の写真210(排煙車)/「市民の戦後史(仙台市)」P104(16mハシゴ車)/同P130(救急車)/同P180(出初式一斉放水、レインジャー部隊訓練)/同P210(排煙車)
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年中行事(まつり) |
仙台市民まつり |
1975年(S50)~ |
* 1975年(S50)11月1日~3日、第1回開催
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P46
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「新・目で見る仙台の歴史」P207
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仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業 |
仙台市民の消費生活を守る条例 |
1975年(S50) |
→ 項目「仙台市民の消費生活を守る条例」参照
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発電事業 |
仙台市営電気事業(大正期の電灯増加) |
大正年間 |
出典:雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
https://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2011/pdf/bk2011no09_10.pdf#search=%27%E4%BB%99%E5%8F%B0%E5%B8%82+%E7%99%BA%E9%9B%BB%E4%BA%8B%E6%A5%AD+%E5%A4%A7%E6%AD%A3%E5%85%83%E5%B9%B4%27
<仙台市営電気事業の電灯需要数>
・1911年(M44)7月、 5960灯
・1915年(T4)、 7万4310灯
・1919年(T8)、 9万3729灯
・1920年(T9)、 10万9390灯
供給区域は、この間に、仙台市(当時)から周辺町村や仙南地域まで及んでいる
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「東北学院大学経済学論集第177号」P172、雲然祥子論文「大正期仙台市の電気料金値上げ問題」
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発電事業 |
仙台市営電気事業 |
1911年(M44)~1942年(S17) |
* 1910年(M43)年9月、仙台市が仙台電力株式会社と宮城紡績電灯株式会社に設備買収交渉
<仙台市営電気事業>
* 1911年(M44)6月 仙台市が仙台電力と契約し、同年7月1日電気事業を開始
* 1912年(T1)、仙台市が宮城紡績電灯も買収、大倉(現在の大倉発電所とは異なる)・大堀・碁石川・三居沢の水力発電所を所有
「土樋火力発電所」(仙台市営)
* 1926年(T15)6月、土樋火力発電所トンネル工事による水量減少で、七郷・高砂・原町3村の600余名に影響し騒動(「番丁詳伝」P122)
* 1926年(T15)12月24日、土樋火力発電所が竣工(出力、2000kW)
* 土樋火力発電所の設備は1941年(S16)に北支那開発関係機関へと徴用され、廃止
<仙台市営電気事業>
* 1941年(S16)公布の配電統制令に基づき、市が新たに設立される東北配電株式会社の設立に参加
* 1942年(S17)3月31日、仙台市電気事業、配電統制令に基づき東北配電KKに移行
* 1942年(S17)4月、市営電車部門を除く電気事業設備を出資して市の電気事業は終焉を迎える
<東北配電株式会社>
* 1942年(S17)4月1日、事業開始
* 1942年(S17)6月30日、宮城県電気部解散式
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P141/「東北大学鉄道研究会公式ブログ」/「仙台市史 年表」P103/「仙台市史10 年表」P304
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08-10-03(右端の煙突が土樋火力発電所)
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火葬場 |
仙台市営火葬場 |
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* 1885年(M18)、市制施行前の仙台区が、北山の公営火葬場設置、間もなく民営移管
* 1924年(T13)、市直営で、新坂通りに設置
* 戦後の燃料不足(石炭、薪)で、月20トンの配給はしばしば欠配 / 手持ち石炭が2~3日分という状況が続く / 新寺小路の私営火葬場では燃料持参でないと火葬を受け付けない事態
* 1947年(S22)2月、電気炉5基設置
* 1962年(S37)7月、重油兼石炭炉3基、重油バーナー4基新設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P741~743
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P742と、「目で見る仙台の歴史」P182に、新坂通の市営火葬場の写真
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バス |
仙台市営バス |
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→ 項目「仙台市営バス」参照
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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体育館 |
仙台市勤労者体育館 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)8月22日、卸町東に開館
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「仙台市史 年表」P132/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園閉園 |
1945年(S20) |
・ 猛獣の処分(S19年3月)で空き家になった建物には、市議会の建議通りブタ15頭が飼われ、花壇や通路では野菜を栽培、動物舎付近はカボチャ畑になった。閉園までは猛獣ぬきで営業(「戦争のころ 仙台、宮城」P143)
* 1945年(S20)4月1日、休園(そのまま再開せず)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「仙台市史10 年表」P309/「仙台市史 年表」P113/「重訂 宮城県郷土史年表」P504/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P143
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園猛獣射殺 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)3月25日、太平洋戦争末期の仙台市動物園で、猛獣12頭(熊4頭、シロクマ・ヒグマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ各1頭)が「空襲の際に危険」と射殺された(仙台市交通局五十年史)/ ただし仙台市史ではシロクマ・ライオン各2頭、ヒョウ・トラ・ヒグマ・クマ各1頭の合計8頭 / 自然休園となる / 5月19日、銃殺動物慰霊塔建設
* 1944年(S19)5月19日、空襲にそなえ処分された動物たちの慰霊祭(「戦争のころ 仙台、宮城」P140)
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「仙台はじめて物語」P104~105/「仙台市史10 年表」P307~308/仙台市史 年表」P113/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「市史せんだい Vol2」P15/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P140
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仙台市の動物園(戦前) |
仙台市動物園 開園 |
1936年(S11) |
* 1933年(S8)、失業対策事業で、広瀬川沿いの評定河原が埋め立てられ、北半分は東北帝国大学のグラウンドとなり、南隅は動物園用地となった
* 1936年(S11)4月1日、仙台市動物園が評定河原埋立地に開園(当時、東京以北で唯一の動物園で、昭和12年12月までの入場者は31万人)
・ 入園料(昭和11年) 大人15銭、軍人10銭、小人5銭(昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64)
・ 坪数8150坪、収容動物150種500点、初代園長漆沢忠雄(「重訂 宮城県郷土史年表」)
・ 象・虎・ヒョウ・白熊など35種100頭を、閉園した東京浅草の花屋敷動物園から譲り受け、それに加えて200余頭を購入した(「仙台はじめて物語」)
・ 3月29日に収容動物到着、4月1日開園、165種471点(仙台市史10 年表)
・ 入場者、昭和11年(4月~12月)に31万人
・ 入場者 昭和12年17万人、13年20万人、14年26万人と戦乱(日中戦争)が拡大しても、観客は減るどころか年々増えていった(「戦争のころ 仙台、宮城」P40)
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「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 年表」P108/「仙台はじめて物語」P104~105 /「仙台市史10 年表」P288/「重訂 宮城県郷土史年表」P451/「仙台あのころこのころ八十八年」P247/「市史せんだい Vol2」P15/昭和11年刊「仙台の産業と観光」P64/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P40
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53-119/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204(仙台市動物園開園記念観覧券と市電乗車券)
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東北大学 |
仙台市内4キャンパス |
2020年現在 |
<以下は、「東北大学」HP(2020年)より転記>
東北大学には、仙台市内に4つのキャンパスがあります。
<片平キャンパス>
仙台市中心部に位置する片平キャンパスは、1907(明治40)年に東北帝国大学が創設された本学発祥の地で、金属材料研究所、電気通信研究所など世界的な研究成果を挙げている研究所や大学本部などが設置されています。
<川内キャンパス>
川内キャンパスは旧青葉城内に位置しており、本学の附属図書館本館が設置されているのをはじめ、近隣には宮城県美術館・仙台市博物館・仙台国際センター等が点在する、仙台随一の文教地という環境にあります。全学の1・2年生は、主に川内北キャンパスにおいて全学教育科目等の講義を受講し、文系4学部の主に3・4年生及び大学院生が、川内南キャンパスで学び研究をしています。
<青葉山キャンパス>
青葉山は仙台市の中心部から西に数キロの距離に位置しながら、豊かな自然が現存する希少な場所です。青葉山キャンパスには、理学部、薬学部、工学部等があり、この3学部は主に3・4年生と大学院生が勉学に研究に日夜研鑽を重ねています。<編者注>農学部は、青葉山キャンパス、川渡地区キャンパス(大崎市鳴子温泉字蓬田)、女川地区キャンパス(女川町)
<星陵キャンパス>
星陵キャンパスは、大学病院をはじめ、医学部、歯学部、加齢医学研究所等が設置され、地域医療の中核的拠点となっています。ここでは、医学部・歯学部の主に2~6年生と大学院生が勉学・研究に励んでいます。南に15分ほど歩くと、県庁・市役所及び東北一の繁華街である一番町があります。
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「東北大学」HP(2020年)>ホーム>大学概要>キャンパス
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進駐軍(米軍) |
仙台市内街路名称 |
昭和20年代 |
進駐後、市内いたるところに英語標識ができるが、通り名称もアメリカ風にかえられた英語街路表示が作られた
・ 西公園から南町通りにかけて → メープル街
・ 光前寺通りから仙台駅前にかけて → インディァナポリス街
・ 南町通りから国分町にかけて → エルバリ街
・ 大町通りは、ヒッコリー街(クルミ)
・ 定禅寺通は、フィア街(モミ)
・ 南町通りは、メープル街(カエデ)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P328/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P244
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被占領時代の仙台市街地図(米軍用) は、98-148
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高等学校(新制) |
仙台市内の高校一覧 |
1969年(S44)現在 |
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531に、以下の各高校について、概要、沿革などを紹介(昭和45年時点)
<仙台市立>
仙台商業高校(P482~485)、仙台高校(P485~489)、仙台工業高校(P489~492)、仙台第二工業高校(P492~494)、仙台女子商業高校(P494~497)、仙台女子高校(P497~500)、仙台図南高校(P500~501)
・ 「仙台市立7高校の系譜図」→「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P502~503
<宮城県立>
宮城県仙台第一高校(P504~505)、宮城県仙台第二高校(P506~507)、宮城県仙台第三高校(P507~508)、宮城県農業高校(P508~509)、宮城県工業高校(P509~510)、宮城県第二工業高校(P510~511)、県立盲学校(P517~518)、県立聾学校(P518)、宮城県第一女子高校(P518~520)、宮城県第二女子高校(P520~521)、宮城県第三女子高校(P522~523)
<私立>
東北工業大学電子工業高校(P511)、東北学院高校(P512~513)、東北高校(P513~514)、仙台育英学園高校(P514~515)、栴檀学園高校(P516)、宮城学院高校(P523~524)、仙台白百合学園高校(P524~525)、常盤木学園高校(P525~526)、尚絅女学院高校(P526~527)、三島学園女子高校(P527~528)、聖和学園吉田高校(P528~529)、朴沢女子高校(P529~530)、聖ウルスラ学院高校(P530~531)、聖ドミニコ学院高校(P531)
<国立>
仙台電波高校(P516~517)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482~531
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NHK全国唱歌ラジオコンクールで連続優勝 |
仙台市内の学校が優勝 |
1949年(S24)~1952年(S27)/1954年(S29)~1956年(S31)/1959年(S34) |
* 1949年(S24)、「全国児童唱歌コンクール」に中学校を加え、「第16回唱歌ラジオコンクール」に改称
<仙台の学校が連続入賞>
* 1947年(S22)、連坊小路小2位
* 1948年(S23)、南材木町小2位
* 1949年(S24)、南材木町小優勝、五橋中優勝
* 1950年(S25)、連坊小路小優勝
* 1951年(S26)、南材木町小優勝
* 1952年(S27)、連坊小路小優勝
* 1953年(S28)、南材木町小2位
* 1954年(S29)11月7日、南材木町小3位、五橋中優勝
* 1955年(S30)11月6日、南材木町小優勝、五橋中連続優勝
* 1956年(S31)11月4日、立町小2位、五橋中3年連続優勝
* 1957年(S32)、立町小2位、南材木町小優良校
* 1958年(S33)、南材木町小3位
* 1959年(S34)、立町小優勝
* 1960年(S35)、南材木町小3位
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P256、P363/「重訂 宮城県郷土史年表」P575、P580、P583
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「目で見る仙台の歴史」P187に「4度全国優勝した五橋中学校コーラス」と「戦前戦後通じて8回全国優勝した南材木町小学校コーラス」/「市民の戦後史(仙台市)」P42(S24年優勝の南材木町小学校と五橋中学校ステージ)/「新・目で見る仙台の歴史」P180(S30年、1位となった南材木町小学校のステージ)
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1973年(S48)~1975年(S50) |
仙台ホテルは、項目「仙台ホテル」参照
* 1960年(S35)8月、グランドホテル仙台が、同年竣工の東北電力ビルの7~9階にオープン
* 1973年(S48)8月4日、ニューシティーホテルがオープン(国分町2丁目)
* 1973年(S48)10月1日、東京第一ホテル仙台、完成
* 1973年(S48)12月7日、ホテルオーツカがオープン(鉄砲町)
* 1973年(S48)12月10日、ホテル江陽結婚会館オープン
* 1973年(S48)12月19日、仙台チサンホテルがオープン(仙台駅前)
* 1974年(S49)2月20日、ビジネスホテルのニューホッタがオープン
* 1974年(S49)9月20日、仙台ワシントンホテルがオープン(青葉通り)
* 1975年(S50)3月16日、仙台プラザ・ホテル、オープン(本町2丁目)
* 1975年(S50)4月20日、ホテルリッチ、オープン(国分町2丁目
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45/「続・ 宮城県郷土史年表」P22、P23、P25、P27、P32、P38、P39、
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P45(グランドホテル仙台)
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ホテル |
仙台市内でオープン |
1976年(S51)~1989年(H1) |
1976年(S51)~1972年(S52)は、特に記事無し
* 1978年(S53)2月1日、ホテル・オペラ、オープン
* 1978年(S53)7月1日、ホテル国分町ビル、オープン
* 1978年(S53)10月28日、ホテル西公園、オープン
* 1979年(S54)5月31日、仙台パシフィックホテル完成
* 1980年(S55)10月23日、東急ホテル完成(一番町3丁目)
* 1981年(S56)8月1日、三井アーバンホテル、オープン(本町2丁目)
* 1982年(S57)4月10日、仙台第2ワシントンホテル、オープン
* 1985年(S60)3月8日、ホテルユニバース仙台店、オープン(一番町)
* 1986年(S61)7月1日、仙台ニューパシフィックホテル開業(中央1丁目)
* 1986年(S61)8月1日、ホテル・アルティア開業(中央2丁目)
* 1986年(S61)10月6日、仙台ターミナルホテル起工式(S63年7月、オープン)
* 1987年(S62)4月21日、ホテルウインブルドン、オープン(仙台市岡田)
* 1988年(S63)7月11日、仙台駅西口に仙台ターミナルホテル開業(20階建、地下2階 高さ86m)、1990年(H2)7月1日にホテルメトロポリタン仙台に改称
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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「続・ 宮城県郷土史年表」P77、P83、P87、P96、P118、P189、P207、P212、P222/「わが心の仙台駅前史」掲載年表
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P122(H2、カラー)
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
明治・大正期 |
*** 各種年表・資料から転記したが、明治・大正・昭和期とも、これ以外にも慰霊祭などは多数あると思われる ***
<西南戦争>
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される
<日清戦争>
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる
* 1902年(M35)11月22日、仙台城本丸跡に「昭忠碑」建立
<日露戦争>
* 1906年(M39)4月1日、(日露戦争)第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる
・ 日露戦争では、第二師団の将兵2740人が戦没(「戦争のころ 仙台、宮城」P70)
<大正時代>
第二師団は、大正時代に、「第一次世界大戦で、中国・青島出兵」や「シベリア出兵」をしているが、年表など各種資料に見当たらないだけで、慰霊祭などはあった筈
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「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史10 年表」P210、P230/「仙台市史 年表」P82、P83、P89、P92、P93/「重訂 宮城県郷土史年表」P305、P335/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70
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「いつか見た街・人・暮らし」P9(招魂祭・歩兵第4連隊の参拝、大正13年4月30日)/同P24(招魂祭連合学生運動会、追廻練兵場、大正14年)/同P43の写真150(招魂祭・大町2丁目、戦前期)/第二師団招魂祭の錦絵(「目で見る仙台の歴史」P113)
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和期(20年まで) |
* 1931年(S6)10月11日、満州事変最初の戦闘で戦死した第二師団兵士32人のうち20人の遺骨が、仙台駅に到着。(十五年戦争初の戦死者は第二師団の兵士だった) 仙台駅頭には陸軍大臣代理、湯沢三千男知事ら300人が出迎え、沿道には市民約5万人が戦友の胸に抱かれて原隊に変える英霊を見送りました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、川内の追廻練兵場で、県、第二師団など主催の合同慰霊祭が行われました。(満州事変では)戦死者が合計300人、このほか負傷700人、凍傷800人を出しました。宮城県では遺骨が到着するたびに慰霊祭が7回にわたり行われました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)10月12日、榴岡の歩兵第4連隊の営門を出た霊柩車(弾薬車であったという)と遺族の胸に抱かれた遺骨の行列は、葬送行進曲の吹奏に送られて市内を行進した。軍部のほか青年団や小中学校生徒なども加わり、沿道に人垣をつくり、会場には列車や市電・バスで詰めかけた約5万人が参列した。合同慰霊祭は以降7回に及んだ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P309)
* 1931年(S6)10月12日、第二師団第4連隊の満州事変戦没者合同慰霊祭が追廻練兵場で行われる(「「仙台市史年表」P106、「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)12月18日、第二師団、昭忠会主催、戦没者慰霊祭(「仙台市史10年表」P277)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送(12月18日か?)
<日中戦争 昭和12年7月勃発>
* 1937年(S12)12月、日中戦争、故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(仙台市公会堂)
*「(開戦から2年足らずの)1939年(S14)4月現在で、宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵は3131人と「知事引継書」にあります。遺骨が仙台駅に到着するたびに駅前広場では、県、仙台市、軍主催の奉迎式が行われ、その後、西公園内の仙台市公会堂で通夜、翌日、合同慰霊祭が開始されました。昭和14年3月時点で県主催の合同慰霊祭は22回に上り、遺骨がふるさとに帰ると、今度は市町村主催の葬儀が行われました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
* 1940年(S15)11月17日、日中戦争北中支各地に於て陣没せる管内出身将兵の慰霊祭を東二番丁小学校に於て行う / 引き続き、追廻練兵場の昭忠塔前で、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を行う
* 「宮城県知事事務引継書(昭和17年)によると、日中戦争勃発後は毎月1回、県、仙台市、第二師団の共催で慰霊祭(前夜に通夜法要)を行い、県では知事代理が弔問、葬祭料として将校30円、下士官以下20円を贈ること、その後の市町村葬には知事代理が出席することを決めています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
<太平洋戦争>
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル戦、戦没者慰霊祭(追廻練兵場)→ 写真16-57、16-59に説明文あり
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P26/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P309、P361/「仙台市史10 年表」P277、P306、P308/「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P460、P479/「仙台放送局60年のあゆみ」P5/「私にとっての戦争」末尾年表P183/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34、P79
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ガダルカナル戦、戦没者遺骨奉迎式は、16-57、16-67、16-66
/同遺骨原隊へは、16-58
/同慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62
/同感謝献金呼びかけは、16-68
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和戦後期 |
<仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)
<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
(以上、昭和末年まで)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250
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幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
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明治42年の「仙台市統計一班」
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交通監視用テレビ |
仙台市内 |
1971年(S46) |
* 1971年(S46)12月25日、原町坂下交差点に設置
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「続・ 宮城県郷土史年表」P5
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (2)日中戦争期 |
1337年(S12)~1939年(S14)3月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入
* 1337年(S12)7月17日、仙台では、市内の各種団体、在郷軍人会、農家組合、銀行などの代表者、市会議員、商工会議所議員が集会し、第二師団留守司令官、県や市の吏員が臨席して、戦時体制に備える「銃後」の物資動員懇談会を開催
* 1337年(S12)9月、仙台市兵事義会が国の軍事扶助法を補助するという趣旨で、3万8000円の募金計画 / 愛国婦人会・国防婦人会・女子青年団員らが街頭募金、新聞社の飛行機が5万枚のビラを撒き、小学児童も4万枚のビラを配布、交通整理員がメガホンで宣伝しながら自動車5台で3万枚のビラを配布、さらに各区長の指揮のもと、役員が各戸をまわって募金 / 9月1日からの「銃後週間」中に、すでに5万円に達しようとする勢いであった
・ このころから、兵事義会の活動は経済的援助に集中
* 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315
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兵事義会/銃後奉公会 |
仙台市兵事義会 (1)明治期 |
1894年(M27)~1901年(M34)/1904年(M37)~1908年(M41) |
軍隊に志願する青年の育成勧誘、兵役に就く者およびその家庭への援助・救援活動、出征兵士の歓送迎、祝賀行事、戦病死・負傷者に対する弔慰行事などを行う民間の組織体で、軍の意向に応じて、行政機関と地域の有力者を中心に結成された
<仙台市兵事義会、日清戦争契機に結成>
* 1894年(M27)7月29日、仙台市兵事義会結成(7月25日日清戦争勃発、8月1日に正式宣戦布告)
・ 日清戦争開始を契機に、市内有力者や勝間田稔県知事の要望により結成 / 会長は遠藤庸治仙台市長、市役所が事務所 / 里美良顕、伊沢平蔵、岩崎総十郎、藤崎三郎助、早川智寛らの幹事と若干名の常議員によって運営
・ 経費は義援金で、地区の有力者を勧誘委員に任命 / 地方税中の戸数割負担が中等以上の8869戸に勧誘状を送り、金の出納は七十七銀行と仙台銀行に委託 / 6121名から1万1497円42銭7厘と、刀剣1060振が寄付された
・ 事業は、軍隊の歓送迎や便宜の供与、従軍者および戦病死者家族の保護援助、軍功をあげた者の顕彰など
・ 市が募集した従軍人夫156人へ衣料類の支給、市出身の将校・兵士に対する餞別、歓送迎行事への動員と祝賀会費用、傷病兵慰問、戦病死者の合同慰霊祭や弔慰金
・ 仙台市から招集された従軍兵士247名のうち、兵事義会の保護援助を必要とした家庭が約100戸(支出6621円)、援助不要家庭104戸、他は病気などにより入営未定の者
* 1901年(M34)1月、仙台市兵事義会解散
<仙台市兵事義会、日露戦争戦争を前に再興>
* 1904年(M37)1月12日、仙台市兵事義会、日露戦争を前に第二師団司令部の要望で拡大再興(2月10日から日露戦争)
・ 寄付金、団体・個人8511名から3万864円31銭7厘
・ 仙台市出身兵1508名出征 / 戦病死は134名(将校52名、下士官・兵卒82名)
・ 保護援助を必要とした下士官・兵卒の留守家庭は347戸 / 救援は米の贈与が中心 / 生活困難な従軍兵士家庭の婦女子は、兵事義会が開設した付属工場などで、陸軍使用の軍服などの縫製作業、マッチ製造、封筒製造に従事(工賃は僅か)
* 1908年(M41)、仙台市兵事義会、活動休止
* 兵事義会がまた活発な動きを始めるのは昭和の戦争期
<大沢村の兵事組合>
* 1889年(M22)、結成(第二師団発足の翌年) / (仙台市は任意加入だが)大沢村は全戸強制加入で、経費の半分は村税中の等級別個別割り、半分は戸数均等割りで徴収
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P301~302に、大沢村と秋保村の詳細記述あり>
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「仙台市史 年表」P89、P91、P92/「仙台市史 特別編4 市民生活」P300~303
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P302(長町停車場で日清戦争出征見送り)、P303(日清戦争第二師団帰還出迎え)、P306(日露戦争から帰還する兵士を迎える市民たち)
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公民館 |
仙台市公民館/仙台市中央公民館/市内各地区の公民館 |
1946年(S21)~ |
<仙台市公民館 → 仙台市中央公民館>
* 1946年(S21)10月1日、民主団体を主体に仙台市の助力により「仙台公民館」を設置(大町頭の仙台医師会館内に)/11月12日開館(「仙台市史10 年表」P314では、名称が「仙台市公民館」)
* 1950年(S25)11月、仙台公民館を発展解消して「市立仙台公民館」を常盤丁1番地に設置(仙台市公会堂に併設、12月17日開館式)(仙台市公会堂に併設)
* 1973年(S48)3月、「仙台市公民館」を、「仙台市中央公民館」と改称
* 1983年(S58)4月10日、仙台駅東口に完成したパルシティー仙台内に移転開館
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仙台市内各地区の公民館
・ 市民の教養講座や、趣味の活動、文化事業、スポーツ・レクリエーション活動の主たる担い手
<新築移転した学校の旧校舎と体育館を使用し開設>
* 1967年(S42)、長町公民館
* 1968年(S43)、高砂公民館
* 1969年(S44)、中田公民館
・ 地域住民による公民館運営管理協力委員会設置され、住民意向を反映、警備や清掃を業務委託
<その後の公民館の開設年>
* 1972年(S47)、八乙女公民館
* 1976年(S51)、熊ヶ根に宮城西公民館
* 1977年(S52)、馬場公民館
* 1978年(S53)、将監公民館
* 1979年(S54)、湯元公民館、南光台公民館
* 1982年(S57)、岩切公民館
* 1983年(S58)、七郷公民館、加茂公民館
* 1986年(S61)、柏木公民館
* 1988年(S63)、一番町公民館
<仙台市に合併前の各市町村の公民館>
* 1949年(S24)9月以降、県内各市町村に「市町村立公民館」を設置
* 1949年(S24)、生出村に公民館設置(1956年より仙台市公民館生出分館に)
* 1951年(S26)4月、秋保町に公民館(16分館)
* 1955年(S30)2月、宮城町に公民館設置(25分館)
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「仙台市史 年表」P128、P133/「重訂 宮城県郷土史年表」P513~514、P537、P545/「仙台市史10 年表」P314/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P453~455/「仙台市史 特別編4 市民生活」P285~286
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パルシティーは、「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P117(S62、カラー、ブルーの網かかったビルの左隣)
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体育館 |
仙台市体育館 |
1984年(S59) |
* 1984年(S59)9月1日、富沢に開設
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「仙台市史 年表」P133/「続・ 宮城県郷土史年表」P181/「仙台市史 特別編4 市民生活」P286
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「新・目で見る仙台の歴史」P194(外観と内部、カラー)
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スポーツ大会(戦後復興期) |
仙台市体育まつり |
1946年(S21)~1964年(S39) |
* 1946年(S21)から毎年秋に、小・中・高校、青年団など対象の大運動会 / その後、各競技別の市民大会となり、 1965年(S40)以降は市民総合体育大会へと発展
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P479
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市場 |
仙台市中央卸売市場 |
1960年(S35)/1973年(S48) |
* 1955年(S30)7月、市場内の製氷工場操業開始
* 1957年(S32)4月26日、起工式(宮城野原旧練兵場跡)
* 1960年(S35)12月4日、宮城野原に開設、「水産物部」の業務開始
* 1961年(S36)12月11日、「青果物部」の業務開始(これまであった長町市場を暫定的に1年間、分場として残す)
<新・仙台市中央卸売市場>
* 1973年(S48)11月1日、原町南目(卸町4丁目)に、新たな「仙台市中央卸売市場」開場(青果、水産、花き部門を併設)
* 1975年(S50)7月、仙台市田子(扇町6丁目)に、中央卸売市場(食肉市場)開業
* 1988年(S63)1月、花き部門を分離、花き市場が苦竹4丁目に完成した新施設で営業開始
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「市民の戦後史(仙台市)」P90/仙台市HPのうち、仙台市中央卸売市場(市場の歴史)および仙台市中央卸売市場(食肉市場の歴史)
/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P465~467/「仙台市史 年表」P121、P122、P129、P135/「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P602/「続・ 宮城県郷土史年表」P24、P43、P238/
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「目で見る仙台の歴史」P183(宮城野原の中央卸売市場)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P89(S30年代、中央卸売市場セリ風景)/「新・目で見る仙台の歴史」P182(宮城野原の中央卸売市場俯瞰全景、セリ風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P90(製氷工場)/同118~119(市場全景、青果物市場、水産市場、せち)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(魚市場セリ、カラー)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P75(S50年頃、食肉市場)
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ガス |
仙台市ガス局 |
1961年(S36) |
* 1941年(S16)4月1日、市営ガス事業開始(仙台瓦斯を買収) / 需要戸数は、1942年(S17)に3389戸
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で大打撃受けるが、10月10日から供給再開 / 需要戸数は戦災後は1500戸、1952年(S27)に4134戸
* 1957年(S32)9月、ガス局原町工場完成
* 1961年(S36)、仙台市ガス局でプロパンガス取扱開設
* 1973年(S48)、港工場竣工
* 1978年(S53)、宮城県沖地震、原町工場廃止
* 1997年(H9)、LNG船第一船入港、新港工場竣工
* 2005年(H17)、新港工場を港工場に名称変更
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災発生、港工場に甚大な被害 / 災害復旧に1ヵ月余を要す
* 2012年(H24)3月、港工場、震災による被害から復旧
<仙台市ガス事業実績グラフ(S16~42年)> →「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P539の図30 (導管延長、需要家戸数、販売量の推移)
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「仙台市史本編2」P760、P764、P769/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315、P539/「重訂 宮城県郷土史年表」P601
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「目で見る仙台の歴史」P183(小田原念仏壇の仙台市ガス局工場)/「市民の戦後史(仙台市)」P101(ガス局原町工場)
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自衛隊 |
仙台市への協力工事、災害派遣 |
1958年(S33)~ |
<協力工事、災害派遣>
・ 1960年代、火災や断水時の出動が多かった
・ 仙台第三高等学校や葛巻墓園の造成・整備を受託
・ 仙台七夕への支援
・ 苦竹駐屯地東側広場を東北博覧会(S42年)の会場に提供
**********************************
・ 自衛隊の仙台市に対する協力工事一覧表(S33~42年度)→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854の表208(学校敷地造成、葛岡墓園造成、公園敷地整備など8件)
・ 自衛隊の仙台市に対する災害派遣一覧表(S33~41年)→「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P855(火災、チリ地震津波、人命救助、給水など9件)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P332~333/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P854、P855
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P333の図332(県立盲学校に植物円園造成で自衛隊員が作業奉仕)
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食糧メーデー |
仙台市で開催 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)5月31日、仙台市で食糧メーデー開催
(東京の「食糧メーデー」(飯米獲得人民大会)は、5月19日)
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「仙台市史 年表」P114
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翼賛壮年団 |
仙台市で結成 |
1942年(S17) |
* 1942年(S17)1月16日、大日本翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)2月16日(3月16日?)、宮城県翼賛壮年団結成、
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「仙台市史 年表」P111/「仙台市史10 年表」P304/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P488
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国民精神総動員運動 |
仙台市では |
1937年(S12)~ |
* 1937年(S12)7月7日、日中戦争開始
* 1937年(S12)9月、近衛文麿内閣、「国民精神総動員運動」開始により、市町村ごとに実行委員会結成
<仙台市>
* 1937年(S12)9月13日~19日、仙台市では一日ごとに目標を定め、全市民参加の国民精神総動員運動
・第1日:時局の日(明治天皇の「戊申詔書奉読」などの行事
・第2日:出征将兵への感謝の日
・第3日:非常時経済の日(職場・学校へは日の丸弁当持参奨励)
・第4日:銃後の護りの日(遺族の訪問など)
・第5日:神社参拝・殉国勇士を讃える日
・第6日:勤労奉国の日(早朝出勤・勤務時間延長)
・第7日:非常時心身鍛錬の日
・週間中、「国民朝礼ノ時間」設け、市職員は率先して市庁舎前で君が代を歌い、皇居遙拝、ラジオ体操をし、他団体に模範を示す
* 1937年(S12)11月14日、国民精神大講演会
* 1937年(S12)12月、仙台市国民精神総動員実行委員会結成 / 会長は市長、各種団体の長が委員、「挙国一致」「尽忠報国」の決意を市民に宣言、軍国精神の高揚を促すためのものであるが、消費節約も強く打ち出した(「仙台市史 特別編4 市民生活」P408)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P312~313、P408
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国民健康保険 |
仙台市、80歳以上10割給付 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)4月1日、仙台市国民健康保険は、80歳以上の老人に10割給付実施
* 1966年(S41)10月1日、仙台市国民健康保険、家族給付を7割とする
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「重訂 宮城県郷土史年表」P625、P628
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やりなおし市長選挙 |
仙台市 |
1958年(S33) |
* 1955年(S30)4月30日仙台市長選、岡崎栄松4期目当選に対し、革新系島野武候補側が、市選管に異義申し立て / 市選管は票再点検の結果、却下(この過程で投票総数増加等の疑惑) / 仙台地検捜査開始 / 県選管も投票用紙点検し、選挙無効と裁定 / 岡崎派が行政訴訟
* 1956年(S31)12月25日、仙台高裁、選挙無効判決
* 1957年(S32)12月17日、最高裁が、仙台市長選挙無効の判決
* 1958年(S33)2月2日、やりなおし選挙で、島野武当選
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P116~118/「重訂 宮城県郷土史年表」P586、P587
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「市民の戦後史(仙台市)」P103と、「新・目で見る仙台の歴史」P182に「S33年2月、初当選し登庁する島野武市長」
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健康都市宣言 |
仙台市 |
1962年(S37) |
* 1962年(S37)3月16日、健康都市宣言発表(島野市長2期目)
基本目標は、「人口集中、産業高度化、交通激化などに伴う問題を克服し、市民すべてが健康で文化的な生活を営むことのできる都市づくり」
・ 昭和39年以降、とくに工業化を先兵として拠点的地域開発がすすめられるであろうことを想定して、あらかじめ健康な仙台を保存して、開発と保存のバランスを前もってとることにした (「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P778)
* 1962年(S37)5月、健康都市建設協議会発足
* 1962年(S37)7月25日、市公会堂で第1回健康都市建設市民大会開催(1700人参加) / 以後毎月16日を「健康都市の日」と定め、4月~12月には早朝、市民総出で「町ぐるみ清掃」(町ぐるみで道路、広場、公園などの公共的場所の清掃)を8月16日から実施、第1回は78トンのごみ回収、第2回は倍の138町参加しごみ200トン、回ごとに参加町内は増えるがごみ量は急カーブで減少)
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P245に、3項目の目標、宣言文
* 1963年(S38)9月、第1回健康都市子ども大会(レジャーセンター)2400人参加 / 以後毎年開催
* 1963年(S38)9月8日、仙台市は健康都市の一環として「市民ラジオ体操会」開催
* 1965年(S40)8月8日、第1回「歩け歩け運動」(仙台市が実施)
* 1969年(S45)11月15日、仙台市が「健康都市仙台のあゆみ」刊行
・ 梅田川清掃運動(1964年10月)、広瀬川、六郷堀(1968年3月)、七号堀の清掃運動など各地に河川浄化運動が生まれ、1968年(S43)4月には連合組織として仙台市河川愛護会結成、この間下水道の普及もあって、市内河川の水質は目に見えて良くなり、アユがつれ、フナが泳ぐきれいな川が復活し全国からの見学に訪れるようになった → 項目「梅田川清掃運動」参照
・ 緑と花いっぱい運動へも発展 → 項目「緑と花いっぱい運動」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P115、P245~250/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P777~778/「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P604、P605、P609、P621、P654/「市民の戦後史(仙台市)」P138(町ぐるみ清掃)
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201-01/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P247~249に、「こども大会」、市民による「道路清掃」「六郷堀清掃」の写真あり/「市民の戦後史(仙台市)」P138(第4回健康都市建設市民大会、学童パレード、町ぐるみ清掃、市民ラジオ体操会、歩け歩け運動、花いっぱい運動の花壇)/「新・目で見る仙台の歴史」P190と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P428に「市民が横断幕掲げてパレード」
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政令指定都市 |
仙台市 |
1989年(H1)4月1日 |
仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる / 区制施行(青葉区、宮城野区、若林区、太白区、泉区)
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「仙台市史 年表」P135
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市町村合併歴(仙台) |
仙台市 |
2020年(R2)現在 |
* 1889年(M22)、市制施行、仙台市誕生
* 1928年(S3)4月1日、長町、原町、七郷村の南小泉と蒲町を編入
* 1931年(S6)4月1日、七北田村荒巻,北根を編入
* 1932年(S7)10月1日、西多賀村を編入
* 1941年(S16)9月15日、中田村、六郷村、七郷村、岩切村、高砂村を編入
* 1956年(S31)4月1日、生出村を編入
* 1987年(S62)11月1日、宮城町を編入
* 1988年(S63)3月1日、泉市、秋保町を編入(市人口88万)
* 1989年(H1)4月1日、政令指定都市としてスタート(東北初、全国で11番目)、市制100周年 / 青葉・宮城野・太白・泉・若林の5区に
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仙台市HPの「仙台市のあゆみ」/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P141/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370
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名誉市民 |
仙台市 |
1949年(S24)~ |
* 1949年(S24)5月2日、本多光太郎、志賀潔、土井林吉(晩翠)
* 1956年(S31)7月16日、熊谷岱蔵、槇有恒
* 1959年(S34)6月10日、村上武次郎、阿部次郎、増本量、野副鉄男
* 1961年(S36)6月10日、内ケ崎贇五郎
* 1964年(S39)6月10日、一力次郎、黒川利雄、
* 1969年(S44)6月10日、千嘉代子
以上の諸氏の経歴詳細は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244
* 1977年(S52)6月10日、菊池養之輔、加藤多喜雄
* 1984年(S59)6月10日、西沢潤一
* 1989年(H1)6月10日、石田名香雄
* 1996年(H8)7月1日、杉村惇、加藤陸奥雄
* 2004年(H16)7月5日、小田滋、一力一夫
* 2016年(H28)7月7日、岩崎俊一
~以上、2016年現在~
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仙台市HP(仙台市名誉市民一覧)/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230~244/「仙台年表」P219/「仙台市史10 年表」P321/「重訂 宮城県郷土史年表」P534、P582、P592、P600、P614、P649/「続・ 宮城県郷土史年表」P69、P177
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「目で見る仙台の歴史」P174(昭和24年、第1回推戴の、志賀、土井、本多各氏)/同P187(第2回推戴の熊谷岱蔵博士)/同P197(第3回推戴の村上、増本、野副、阿部各氏)/「市民の戦後史(仙台市)」P135(第4回推挙の内ケ崎贇五郎氏)/同P155(第5回推挙の一力次郎、黒川利雄両氏)
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高等学校(新制) |
仙台工業高等学校/仙台市立仙台工業高等学校 |
1948年(S23)/2009年(H21) |
<前史>
* 1896年(M29)9月、「仙台市徒弟実業学校」、上杉山通尋常小学校内に発足(北一番丁、のちの仙台簡易保険局の場所)
* 1997年(M30)、北一番丁同心町角に新築移転
* 1899年(M32)4月1日、「仙台市職工学校」に改称
* 同年4月24日、「仙台市立工業学校」に改称
* 1901年(M34)4月29日、「市立仙台工業学校」と改称
* 1919年(T8)10月、「仙台工業学校」と改称
* 1932年(S7)、二十人町通(仙台陸軍幼年学校跡地)に移転
* 1944年(S19)3月、「仙台工業学校第一部」(同時に、仙台工業学校専修科が「仙台工業学校第二部」となる)
<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)5月、「仙台工業高等学校一部、第二部」となる
* 1965年(S40)4月、「第一部」が「仙台工業高等学校」、「第二部」が独立して「仙台第二工業高等学校」となる
* 1966年(S41)11月、宮城野(現・宮城野区東宮城野)に新校舎本館完成
* 2001年(H13)3月、新校舎完成
* 2009年(H21)、仙台市立仙台工業高等学校と改称
* 2010年(H22)、仙台第二工業高等学校を統合し、定時制課程を設置 / これにより、1965年以来、全日制課程と定時制課程が同一学校に再度併設されることになった
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「仙台市史 年表」P90、P91/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~492、P503/「仙台市立仙台工業高等学校」HP/「目で見る仙台の歴史」P133
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「目で見る仙台の歴史」P133に、「仙台工業学校(北一番丁)」
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高等学校(新制) |
仙台工業高等学校第二部/仙台第二工業高等学校/仙台工業高等学校定時制課程 |
1948年(S23)/1965年(S40)/2010年(H22) |
<前史>
* 1915年(T4)5月、「市立仙台工業補習学校」
* 1919年(T8)10月、「仙台工業補習学校」
* 1929年(S4)7月、「仙台工業専修学校」
* 1935年(S10)8月、「仙台工業青年学校」
* 1941年(S16)3月、「仙台工業第三本科」
* 1943年(S18)1月、「仙台工業学校専修科」
* 1944年(S19)3月、「仙台工業学校専修科」(夜間過程)を「仙台工業学校第二部」と改称
<学制改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)月、学制改革で「仙台工業高等学校第二部」と改称(修業年限4年の夜間定時制高校)
* 1965年(S40)4月、仙台工業高等学校から独立し、「仙台第二工業高等学校」となる
* 1969年(S44)4月、南の目北宮城野に移転
* 2010年(H22)、「仙台第二工業高等学校」は閉校、「仙台工業高等学校定時制課程」となる / これにより、1965年以来、全日制課程と定時制課程が同一学校に再度併設されることになった
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~494、P503/「仙台市立仙台工業高等学校」HP/仙台市立仙台工業高等学校定時制課程」HP
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戦時下の学園 |
仙台工業学校(市立) |
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★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」
・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490
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戦時下の学園 |
仙台工業学校専修科(市立) |
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★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」
・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493
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ニッカウイスキー工場 |
仙台工場 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)5月10日、仙台工場を宮城町新川地内に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P649
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」
・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527
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戦時下の学園 |
仙台尚絅高等女学校専攻部(私立) |
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★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行
・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543
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仙台の裁判所 |
仙台家庭裁判所 |
1949年(S24) |
* 1949年(S24)1月1日、発足(片平丁大町頭) / 旧少年審判所を併合して少年問題や家庭に関する調停・審判にあたる
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「重訂 宮城県郷土史年表」P532/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P808
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「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P40
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戦時下の学園 |
仙台女子商業学校(市立) |
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★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。
・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495
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