仙台よみとき用語年表
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空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(5) 空襲犠牲者 
1945年(S20)  <県内の空襲犠牲者> 
 仙台空襲以外に、計209人が空襲の犠牲になった / 空襲を受けたのは、(旧市町村名で)気仙沼、女川、石巻、矢本、小牛田、古川、三本木、松島、塩釜、多賀城、仙台、岩沼、亘理など / このうち、気仙沼では11人死亡、漁船79隻が被害

<筆者石澤友隆氏の体験>
 戦時中は気仙沼に住む / 国民学校で授業中に空襲警報発令がないのに艦載機1機が突然飛来、先生の「伏せろ」の大声で、目と耳を手で押さえて机への下にもぐりこんだ / 一日に何回も襲来するので、恐ろしくて家にはいられず近くの杉林で杉の木を柱に掘っ立て小屋をつくり蚊帳を吊って入り、夜は空襲がないので家に戻り、朝、おにぎりを持って杉林へ戻る生活が敗戦まで続いた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P236   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(4) 松島海軍航空隊への攻撃 / 軍の工場への攻撃 
1945年(S20)8月9日~10日  <松島海軍航空隊への攻撃>
 8月9日、10日、米英軍のロケット弾攻撃 / 第1波は、9日朝5時半すぎに16機飛来し500ポンド爆弾を投下、砲台や駐機中の航空機を攻撃 / 第2波14機、第3波12機、第4波14機と第10波まで続く / 被害は、サイパン島を空襲する「烈作戦」のため準備していた陸上爆撃機「銀河」、一式陸上攻撃機など20機以上が炎上、一式5機が大破、滑走路、格納庫、兵舎の施設も大きな被害をうけ、16人が戦死 / 多くの負傷者は基地内だけでは手当できず石巻などの病院に運ばれた

<軍の工場への攻撃>
・ 陸軍造兵廠(仙台)たびたび攻撃うけ、 8月9日の攻撃では3人死亡、9人負傷
・ 海軍工廠(多賀城)もたびたび攻撃うける
 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P235~236   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(3) 小牛田、亘理 / 女川湾の海戦 
1945年(S20)8月9日~10日  <鉄道への攻撃 小牛田、亘理>
 8月9日、東北線小牛田駅に停車中の列車が襲われ、機関士と乗客1人が死亡 / 亘理の空襲(8月10日朝、グラマン2機が常磐線の線路に急降下して機銃掃射で6人死亡、8人負傷、空襲警報で急停車した列車から降りて土手のくぼ地に隠れた乗客が犠牲) (「戦争のころ 仙台、宮城」P232)

<女川湾の海戦> 
 海軍防備隊(横浜港から函館、室蘭むけの船団を三陸沖で護衛、および遭難船救助を担当)が拠点にした女川港に入港中の、標的艦「大浜」、海防艦「天草」など20数隻が攻撃を受ける
・ 8月9日、第1波は朝5時半、空母「ペニントン」の艦上爆撃機と艦載機4機が攻撃、霧に邪魔されたが、中型商船2隻が沈没 / 第2波は、58機が、日本軍の駆逐艦、護衛艦に投弾し沈める / 第3波は29機がドックに停泊中の小型艦船を攻撃するなど、午後5時の第8波まで続く / 攻撃には英国艦隊も参加し、英軍の記録では、駆逐艦3隻、哨戒艇1隻撃沈 /    
・ 8月10日、攻撃は10日も続き、湾内の艦艇のほとんどと、関連ある軍の施設も破壊された / 米軍の被害は、撃墜3機(日本側は、「大浜」「天草」の高角砲、陸上からの高角砲部隊などが対空砲火で応戦) / 「天浜」は、グラマン機の爆撃と掃射で転覆沈没、乗組員が船を出て防空壕に退避途中で機銃掃射を受け30人位が倒れる / 「天草」は艦の周辺に爆弾20個くらい投下され、間もなく艦首を先に数分で沈没 / 2日間で158人が戦死
・ 昭和41年、海軍防備隊通信科の神田義男兵曹長夫妻が湾を望む崎山公園に私財を投じて慰霊碑を建設、毎年慰霊祭が営まれている / 近くには英軍機に乗って戦死したカナダ人のグレー大尉慰霊碑もある / 神田さん夫妻は東日本大震災で亡くなった

<女川の町内も被害>
・ 海戦のとばっちりを受けて、国鉄女川駅倉庫、造船所のほか、民家70戸焼失、犠牲者24人 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232、P234~235   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(2) 陸海軍基地、鉄道、船舶を攻撃 
1945年(S20)7月14日  ・ 7/14は、県内の18か所で空襲

<陸海軍基地への攻撃> 
 7/14、矢本の海軍松島基地に20機来襲、爆弾やロケット弾を撃ち込み2機が破損 / 玉浦の陸軍基地(現・仙台空港)も攻撃を受けるが、戦闘機や爆撃機はすでに疎開しており、飛行場付属施設が焼失 / 霞目の仙台飛行場にも来襲 / 航空基地と軍需工場への空襲は、その後も継続

<鉄道への攻撃>
 7/14朝5時半、国鉄仙石線高砂駅で停車中の電車に5機のグラマンが機銃掃射し、死亡6人、負傷9人 / この日は東北線岩切駅舎も攻撃され、近くで農作業中の2人が機銃掃射で死亡
 
<船舶への攻撃>
 7/14、本吉郡十三浜村沖の海上で船舶2隻が米英軍機の攻撃で6人が死亡、9人負傷 / 名取郡沖の海上では漁船乗組員2人死亡、8人負傷 / 桃生郡追波川河口で運送船が被弾し、2人死亡、3人負傷 / 唐桑で漁船2隻沈没 / 志津川では湾内の船舶3隻が被害 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P232~234   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以降の空襲
(1) 艦載機などから爆弾投下、機銃掃射 
1945年(S20)7月14日~8月10日  <仙台空襲後の空襲(宮城県内)>
・ B29による仙台空襲(昭和20年7月10日 焼夷弾攻撃)の後は、敗戦の8月15日までの間に、県内は艦載機や艦上爆撃機による空襲を受けた
・ グラマンなどの戦闘機とカーチス降下爆撃機、遠く硫黄島からノースアメリカンP51戦闘機も飛来、圧倒的に多かったのはずんぐりむっくり型のグラマンで、このほか英空母から戦闘爆撃機コルセアも参戦した

・ 7月は14日、15日、17日の3回、8月は9日、10日の2回
・ 空母から飛び立った小型機の空襲は、夜間は来ないが、朝早くから日没までの日中だった

・ 空爆対象は、軍事施設に限らず、鉄道、港湾、発電所、工場、船舶に爆弾投下、超低空飛行で人などに機銃掃射
・ 日本軍機は本土決戦を控えてむやみに出動しないよう命じられていた

・ 宮城県の三陸沖には、沖縄戦が終わってから急いで移動してきた米国のエセックスなど空母3,軽空母2,戦艦など22隻、それと英国の空母フォーミダブルなど、計29隻の大艦隊が展開していた 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P231   
空襲(宮城県内) 仙台空襲以前の空襲  1945年(S20)5月29日~7月9日  <仙台空襲以前にも、米軍による攻撃>
・ 宮城県には、B29、B24が単独、あるいは2~4機が9回飛来
・ 5~6月には、5/29、6/10、6/29、6/30
・ 6月10日は、B24(2機)が硫黄島から飛来、鮎川港停泊中の捕鯨船4隻を攻撃、乗員7人負傷
・ 6月30日未明、B29(4機)のうち1機が、村田町早稲原地区に港湾封鎖のため付設する機雷1個を落下傘で落とし、大きな穴をあける
・ 仙台には、7月3、5、6、7、9日と連続来襲 / 7月3日白昼にはB29(1機)が仙台市三神峯の仙台陸軍幼年学校付近と八木山に爆弾14発を投下、幼年学校と民家の窓ガラスが割れたが死傷者なし 
「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P206~207   
空襲(宮城県内) 仙台空襲  1945年(S20)7月10日未明   → 項目「仙台空襲」を見よ     
仙台空港 仙台空港時代  1964年(S39)以降 
* 1964年(S39)3月17日、矢ノ目飛行場、第二種空港指定を受け、「仙台空港」と改称(「仙台市史 年表」P123)

* 1966年(S41)2月2日、拡張工事問題(滑走路2000mへ)で地元民と了解がつき、工事開始
* 1967年(S42)5月15日、空港内に日本航空乗員基礎訓練所を開設
* 1971年(S46)8月2日、2000m滑走路の一部使用開始
* 1971年(S46)9月28日、仙台空港ターミナルビル完成
* 1972年(S47)1月18日、2000m滑走路完成
* 1972年(S47)2月14日、ジェット機が就航(3月1日、定期就航)
* 1976年(S51)7月1日、全日空、仙台~大阪間の直行便、開設
* 1977年(S52)4月25日、東亜国内航空、仙台~名古屋間、就航
* 1977年(S52)7月1日、東亜国内航空、仙台~函館間、定期便開設
* 1978年(S53)3月1日、仙台~福岡間、空路開設
* 1978年(S53)6月1日、仙台~名古屋間航路の一番機到着
* 1978年(S53)6月6日、仙台空港初の国際線チャーター便、仙台~ソウル間で運航開始
* 1982年(S57)3月、新管制塔完成
* 1984年(S59)5月1日、東亜国内航空が、仙台~函館~札幌線再開記念行事
* 1988年(S63)6月、仙台空港に自動改札機導入
* 1988年(S63)11月1日、仙台空港拡張工事着工
* 1992年(H4)年末、2500m滑走路に(「仙台クロニクル」P121)
* 1997年(H9)、仙台空港ターミナルビル全面オープン
* 1998年(H10)、3000m滑走路供用開始
 
「仙台市史 年表」P123、P128、P131/「重訂 宮城県郷土史年表」P624、P632/「続・ 宮城県郷土史年表」P1、P2、P6、P7、P57、P66、P70、P78、P82、P144、P176、P248、P253/仙台市HP「仙台市のあゆみ」/「仙台クロニクル」P121  「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P121(H8、国際線ターミナル、カラー) 
年中行事(まつり) 仙台祭  1887年(M20)~  * 1887年(M20)10月、招魂祭に合わせて桜岡大神宮祭礼や青葉神社祭礼などの仙台祭がおこなわれる。 この年以降、招魂祭と仙台祭は合同開催となる
* 1899年(M32)、仙台まつりの山鉾は路上の電線その他の関係によりこの年限り廃止となる(「重訂 宮城県郷土史年表」P315) 
「仙台市史 年表」P86/「重訂 宮城県郷土史年表」P315   
医療機関 仙台社会保険病院  1952年(S27)  結核対策として全国社会保険連合会が設置
* 1952年(S27)8月、堤町に開院(結核病床129)
* 1955年(S30)過ぎると、患者急速に減少
* 1960年(S35)、一般病床も併置 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P398/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P733   
廃藩置県(仙台県誕生) 仙台県誕生/宮城県と改称  1971年(M4)/1972年(M5)  <版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)

・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)

<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362   
大学・短大 仙台白百合短期大学  1966年(S41)~2002年(H14)  <前史>
* 1892年(M25)、仙台にシャルトル聖パウロ修道女会の修道院設立
* 1893年(M26)、私立仙台女学校が設立
* 1948年(S23)月日、校名が仙台白百合学園と改められ、幼、小、中、高までを備えた教育機関となる

<仙台白百合短期大学>
* 1966年(S41)4月1日、開校(家政科)
* 1966年(S41)4月18日、泉町に開校
* 1987年(S62)、英語科を増設
* 2002年(H14)、短大を大学に統合
 ( → 以下、小項目「仙台白百合女子大学」参照) 
「仙台白百合女子大学」HP/「仙台市史 年表」P117/「重訂 宮城県郷土史年表」P560/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P565  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P546/「市民の戦後史(仙台市)」P179 
高等学校(新制) 仙台白百合学園高等学校  1948年(S23)  <前史>
* 1893年(M26)4月、元寺小路に「私立仙台女学校」が、修道院長スール・イザークを中心に開校
* 1907年(M40)3月9日、「私立仙台高等女学校」と改称
* 1919年(T8)、「仙台高等女学校」と改称
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で校舎(花京院通)全焼
* 1947年(S22)まで、東六番丁国民学校、ウルスラ修道院(木ノ下)を借用し授業継続

<学制改革で高校に>
* 1948年(S23)、「仙台白百合学園」と改称(新制高等学校へ移行切替)、新制中学校を併置、校章も梅の花から百合の花へ変更
* 1949年(S24)までに校舎復興
* 1955年(S30)、幼稚園開設
* 1957年(S32)、中央校舎(鉄筋3階建)完成
* 1961年(S36)、小学校併設開校
* 1962年(S37)、南校舎落成 / 隣接の県有地(旧一高女跡)購入し校地拡張
* 1966年(S41)、短期大学開校
* 1998年(H10)、創立の地、青葉区本町から、泉区紫山に移転 
「仙台市史 年表」P88、P94/「仙台白百合学園」HP/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P524~525/「仙台白百合学園中学校・高等学校」HP  44-49(S22)、16-56(S23) 
大学・短大 仙台白百合女子大学  1996年(H8)~  * 1996年(H8)、「仙台白百合女子大学」創立(人間学部に人間発達学科と人間生活学科)
* 2002年(H14)、短大を大学に統合 / 大学の人間学部が、人間発達学科、総合福祉学科、健康栄養学科、国際教養学科の4学科体制となる
* 2013年(H25)、学科再編し、人間発達学科、心理福祉学科、健康栄養学科、グローバル・スタディーズ学科の4科に 
「仙台白百合女子大学」HP   
魯迅 仙台留学  1904年(M37)~1906年(M39)  * 1904年(M37)9月上旬、魯迅が仙台医学専門学校留学のため来仙(1年半学ぶ) / 解剖学の藤野厳九郎は、親切に魯迅(周樹人 チョウシュウレン)のノートを添削し、別離に当たっては写真に「惜別」と裏書きして渡した

* 1906年(M39)春、離仙 
「仙台市史 年表」P93/「新・目で見る仙台の歴史」P151  「新・目で見る仙台の歴史」P151(魯迅/藤野先生写真の裏書き「惜別」、ノート) 
ガス 仙台瓦斯開業  1910年(M43)  * 1910年(M43)11月3日、仙台瓦斯株式会社開業
 
「仙台市史 年表」P95/「仙台市史 特別編4 市民生活」P350  「目で見る仙台の歴史」P144に「仙台瓦斯会社」(東七番丁)と「ガス発生炉」 
光ヶ丘天使園 仙台版「少年の町」建設  1948年(S23)  * 1947年(S22)5月、エドワード・フラナガン神父来仙
* 1948年(S23)3月、光ヶ丘天使園(仙台市東郊)起工式 / 前年のフラナガン神父来仙を契機とした仙台版「少年の町」 / その後、ラサールホームと改称
* 1948年(S23)12月26日、第1期工事完成
* 1950年(S25)5月、フラナガン神父来仙(宮城県盲学校で祈念植樹、キリスト教育児院、仙台天使園、聖母園、収容学園を視察) 
「市民の戦後史(仙台市)」P34/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P259  S22年のフラナガン神父来仙は、「目で見る仙台の歴史」P185(盲学校を訪問したフラナガン神父)、「新・目で見る仙台の歴史」P174、「市民の戦後史(仙台市)」P34/光ヶ丘のラサールホームは、「目で見る仙台の歴史」P194 
東北電力 仙台火力発電所/新仙台火力発電所  1960年(S35)/1971年(S46)  * 1957年(S32)6月29日、七ヶ浜町で起工式
* 1959年(S34)7月2日、1号機に火入れ/11月に完成
* 1960年(S35)2月20日、運転開始(17万5000KW)
* 1960年(S35)12月1日、2号機完工式
* 1962年(S37)6月、3号機完成(1・2・3号機で計52.5万KW)

* 1969年(S44)7月、新仙台火力発電所1号機、工事着手
* 1971年(S46)8月20日、新仙台火力発電所1号機、営業運転 
「重訂 宮城県郷土史年表」P585、P593、P594、P595、P598、P605、P651/「続・ 宮城県郷土史年表」P1  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P599の写真137(仙台火力発電所)/「市民の戦後史(仙台市)」P146(S37年6月、仙台火力発電所(1・2・3号機)外観) 
新産業都市 仙台湾地区を指定  1964年(S39)  <全国総合開発計画>
* 1962年(S37)制定、新産業都市と大規模地方開発都市が車の両輪

<新産業都市>
* 1963年(S38)7月12日、仙台湾地区を新産業都市指定に内定
* 1964年(S39)3月3日、仙台湾地区(仙台湾臨海部)、全国15地区とともに新産業都市建設区域に指定(昭和50年目標に計画推進)

「仙台市史 続編第1巻」P369~370に計画概要、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775に、建設基本方針(昭和39年3月3日)、建設基本計画(S39年12月25日)につき記述あり

<大規模地方開発都市>
全国総合開発計画の具体的手法としての新産業都市指定と同時期に、経済企画庁により仙台市は「大規模地方開発都市」に指定された(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P776)

<新全国総合開発計画>
* 1969年(S44)5月、閣議決定
   ************************************

<仙台新港>
* 1969年(S44)11月13日、仙台新港定礎式
* 1971年(S46)7月17日、新仙台港、開港式

・ 1973年(S48)の「石油ショック」は高度経済成長路線の転換を迫り、戦後初めてのマイナス成長 / 仙台市の第二次産業の成長と停滞は、そのまま日本経済の歩みを反映し、仙台湾工業地帯への企業進出が鈍り、仙台港も工業港より商業港への色合いを強めていく(「仙台市史 特別編4 市民生活」P370) 
「重訂 宮城県郷土史年表」P609、P612、P654、P678/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P369~370/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P768~775、P776、P790/「仙台市史 特別編4 市民生活」P370  「市民の戦後史(仙台市)」P156(新産業都市仙台地区の建設計画模型、仙台新港予定地の長浜海岸一帯空撮) 
フェリー 仙台港発  1973年(S48)  * 1973年(S48)4月2日、太平洋沿海フェリー、苫小牧港・仙台港・名古屋港間で運航開始
* 1973年(S48)12月16日、新東日本フェリー、苫小牧港・仙台港間の運航開始
* 1977年(S52)4月、仙台港フェリー専用岸壁供用開始 
「仙台市史 年表」P128、P129/「続・ 宮城県郷土史年表」P25、P67    
気象台 仙台測候所/仙台地方気象台/仙台管区気象台  1937年(S12)/1939年(S14)/1945年(S20)  * 1937年(S12)10月28日、中央気象台仙台測候所を仙台に開設
* 1939年(S14)11月1日、仙台測候所、仙台地方気象台と改称
* 1945年(S20)8月1日、仙台管区気象台に昇格
* 1946年(S21)6月10日、仙台地方気象台仙台航空気象観測所を仙台測候所仙台航空気象観測と改名
* 1981年(S56)9月4日、五輪1丁目に仙台合同庁舎落成、仙台管区気象台も入る
 
「仙台年表」P208/「重訂 宮城県郷土史年表」P505/「仙台市史10 年表」P309/「続・ 宮城県郷土史年表」P133  「目で見る仙台の歴史」P193(榴岡の仙台管区気象台) 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台消防組  1881年(M14)  * 1881年(M14)12月、仙台区の「町火消組」が「消防組」と改称
* 1894年(M27)5月22日、「仙台消防組」設置(宮城県消防規則に基づき) 
「仙台市史 年表」P84、P88  「仙台市史 特別編4 市民生活」P524(S9年、七郷消防組が貞山堀で行った放水実験) 
郵便局 仙台東郵便局  1966年(S41)  * 1966年(S41)8月8日、開設  「重訂 宮城県郷土史年表」P627   
自動車専用道 仙台東部道路  1994年(H6)/2012年(H24) 
* 1994年(H6)3月30日、仙台東部道路の仙台空港IC~仙台東IC間開通
* 1995年(H7)7月27日、岩沼IC~仙台空港IC間開通
* 2001年(H13)8月1日、亘理IC~岩沼IC間、仙台東IC~仙台港北IC間開通(これで、全線開通) / 4車線区間の制限速度を80km/hから100km/hに引き上げ
* 2005年(H17)10月1日、日本道路公団の分割民営化により東日本高速道路株式会社に承継
* 2011年(H23)3月11日、東日本大震災により全線通行止(地震・津波により甚大な損傷を受ける) / 同年3月30日、東日本大震災による通行止は全て解除
* 2012年(H24)12月1日、仙台港IC供用開始(これで、仙台港IC~亘理IC間24.8kmは全線開通) / 仙台港IC以北は、三陸自動車道 
Wikipedia「仙台東部道路」(2020年7月)   
警察署 仙台東警察署  1956年(S31)~  * 1956年(S31)9月1日、発足(原町苦竹/宮城野区南目館21)  「仙台市史 年表」P119/「重訂 宮城県郷土史年表」P582/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P798に、「仙台東警察署庁舎」 
映画館(戦後) 仙台東映  1956年(S31)  <Wikipedia「仙台東映」沿革 および「仙台映画大全集」P458より>
* 1948年(S23)7月3日、東一番町29(現在の広瀬通り一番町南東角)に開業した「公共会館」(文化教室、実演劇場)が前身で、主に演劇を上演していた
* わずか半年後の1949年(S24)1月29日に「国際劇場」と改称し東映封切館となる
* その後、1954年(S29)2月3日に「仙台新東宝映画劇場」となり、新東宝の封切館として再出発するも、ビル建て替えのため閉館
(「番丁詳伝」P218では、S29年仙台新東映映画劇場として衣替えし、さらに31年秋にビルを建て直し、地下を東映パラス、1階を東映劇場とし表通りには東映シューズ、コセキ、洋服はコンノが出店)
* 1956年(S31)9月、東映の直営館として再建され、「仙台東映」(邦画系)「仙台東映パラス」(洋画系)となった
* 1994年(H6)6月11日、現在地に飲食店などの商業施設を含んだビル「仙台東映プラザ」がオープン。同ビルの6階に「仙台東映」「仙台メルローズ」が入り、新たなスタート
* 2001年(H13)以降、市内に開業したシネマコンプレックスの影響で次第に業績が低下
* 2005年(H17)4月15日、閉館し、「公共会館」時代から数えて57年の歴史に幕を下ろした。跡地は料亭「寧々家」、居酒屋「いろはにほへと」となった 
「仙台映画大全集」P458/Wikipedia「仙台東映」〈2020年7月13日版)/「番丁詳伝」P218  201-45201-43 /「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33年、空撮)、P50(S34年) 
映画館(戦前・戦後) 仙台東宝劇場  1922年(T11)~   → 項目「仙台東宝劇場」参照     
市場 仙台東一公設市場(東一マーケット)    * 1946年(S21)?、「仙台東一公設市場」(東一マーケット)は、戦後、東一番丁通り北部の三越のやや南で、道の東側に面してあった
* 1956年(S31)、鉄筋2階建に改築され、その後も「東一市場」の名で存続

<火災>
* 1951年(S26)2月5日、東一番丁火事(午後1:40頃)により、東一マーケットに延焼 / 17戸全焼 
<火災>
「市民の戦後史」P50/「仙台年表」P221/「重訂 宮城県郷土史年表」P547/「仙台市史10 年表」P325/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P818 
16-3816-39 
丸光 仙台最大の売り場面積に  1965年(S40)  * 1965年(S40)、藤崎や三越仙台店を上回る仙台最大の売場面積となる
* 1972年(S47)11月2日、新装オープン
 
Wikipedia「丸光」 / あれから50年「戦争と丸光」(今泉清)/「続・ 宮城県郷土史年表」P14   
東北学院(教会) 仙台日本基督教会  1901年(M34)~  南町通り(東二番丁通り北西角)にあり、赤レンガの「東北学院神学部校舎」に隣接していた
 
* 1881年(M14)5月、「仙台教会」、プロテスタント日本基督公会の押川方義らが国分町に設立
* 1901年(M34)、仙台教会が「仙台日本基督教会」献堂式挙行
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失 
「東北学院創立七十周年写真誌」末尾年表P66  43-30/「目で見る仙台の歴史」P138に、日本基督教会堂」 
民間放送(仙台) 仙台放送(テレビ)  1962年(S37)  * 1962年(S37)10月1日、 仙台放送株式会社が、宮城県内の2番目の民放テレビ局として、仙台市茂ヶ崎の大年寺山麓に開局、テレビ放送開始 / コールサイン「JOOX-DV」、略称はOX  「仙台市史 年表」P122/「重訂 宮城県郷土史年表」P606  「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P295の写真97)「市民の戦後史(仙台市)」P144(テレビ送信鉄塔、開局記念市長対談) 
大日本国防婦人会 仙台支部結成  1937年(S12)  <銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)

* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109  「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち) 
国民金融公庫 仙台支所  1951年(S26)  * 1951年(S26)6月1日、仙台市に開設  「重訂 宮城県郷土史年表」P550   
日本銀行 仙台支店(芭蕉の辻)開設  1941年(S16)  「芭蕉の辻」北東角の洋風建築は、
 (1)1903年(M36)~1929年(S4)7月18日、七十七銀行本店 
 (2)1929年(S4)~、精養軒仙台支店
 (3)1941年(S16)10月10日~、日本銀行仙台支店が使用

* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
* 戦後、1946年(S21)11月、日銀仙台支店営業所が同位置に再建 
「仙台市史 年表」P111、P114/「仙台市史10 年表」P302  戦前は、16-01/戦災焼失は、35-1353-74/戦後は、20-03(S26年、部分)/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P748(戦後改築後) 
特別調達庁 仙台支局設立  1947年(S22)  <国立公文書館アジア歴史資料館「アジ歴グロッサリー」より> 特別調達庁は、1947年(S22)年9月、法律第78号「特別調達庁法」により公法人として設置。業務内容は、連合軍関係の設営工事の契約・連合軍需要品の調達・連合軍の需要する労務その他の役務調達・連合軍関係の設営に伴う設計調査の受託など。連合国軍の占領政策の縮小に伴い再編され、1952年(S27)に調達庁と改称、1958年(S33)には防衛庁の外局となり、1962年(S37)に防衛庁建設本部と合わせて防衛施設庁となった。

* 1947年(S22)12月10日(または、翌年1月)、特別調達庁仙台支局設立
* 1948年(S23)1月、特別調達庁仙台支局業務開始(県庁内に事務所)
* 1949年(S24)6月1日、仙台特別調達局と改称
* 1950年(S25)1月14日、仙台特別調達局全焼
* 1952年(S27)4月1日、仙台特別調達局、仙台調達局と改称(駐留軍施設及び区域提供、その損害補償の業務を開始) 
「仙台市史10 年表」P317、P319、P321、P322、P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P524、P540、P555   
発電事業 仙台愛宕下水力発電所  1921年(T10)~1929年(S4)頃  * 仙台市内の電気会社が1920年(T9)に建設し、翌年に開業
* 1929年(S4)頃には操業を停止、約10年間の短い歴史で幕を閉じた

「大橋の下流に築いた堰から取水した広瀬川の水を、約2キロメートルの導水トンネルを通して愛宕山の麓へ導き、そこに設けた反動水車で発電し、当時の名取郡六郷村(のち、昭和16年に仙台市に合併)へ電気を通して電灯などに運用されていたということです」 
仙台市役所関連の「広瀬川ホームページ」よりhttp://www.hirosegawa-net.com/   
博覧会・フェア 仙台復興祭グランドフェア  1949年(S24)   → 項目「仙台復興祭グランドフェア」参照     
幼稚園 仙台幼稚園(私立)  1905年(M38)  * 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
 
「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」  23-01 
多門師団凱旋 仙台帰還(凱旋)  1933年(S8)1月  陸軍第二師団(多門二郎師団長)は、満州駐箚中に起きた満州事変(S6年9月~)で満州各地を次々に占領 当時の市民は、その「武勲」に熱狂した
・ 第二師団の戦死者は約300人、凍傷・負傷者約1500人(「新・目で見る仙台の歴史」P160) 

* 1933年(S8)年1月7日~9日と13日、市民あげて歓迎する中、第二師団が仙台に凱旋した
 ・ 凱旋歓迎に動員された児童生徒は「凱旋凱旋ああわが勇士」(多門師団凱旋の歌)と歌った
 ・仙台駅前から南町通りを経由して、川内の第二師団まで凱旋行進(師団長ら師団司令部は8日「凱旋」)
 ・南町通りは、1月7日市会の決議により、この日から師団長の名にちなんで「多門通り」と改称された  → 項目「多門通り」参照
 ・1月8日、戦勝祝賀花電車(市電)
 ・2月19日、宮城県愛国連盟・仙台市教育会主催、対国際連盟大講演会・県民大会開催
 ・2月24日、国際連盟、リットン報告を採択
 ・3月27日、日本、国際連盟を脱退 
 ・4月9日~5月28日、第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会(西公園)→<参照>項目「第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会」
* 1934年(S9)12月、仙台市昭忠記念堂除幕式(青葉山公園)
 昭忠記念堂は、満州事変で「武勲」をたてた多門二郎師団長指揮下の第二師団を記念し、本丸跡上り口に建造(近くには多門師団長の胸像もあったが太平洋戦争中の金属供出により台座だけが残されていた)→ 仙台城石垣修復事業にともない平成16年に撤去

<参考> 写真データベースの関連資料G-25-02「多門師団凱旋」(凱旋日程など詳述) 
「仙台市史10 年表」P280) /「重訂 宮城県郷土史年表」P434/「仙台年表」P204/「新・目で見る仙台の歴史」P160  65-0265-0465-0198-08198-08298-08365-0365-0565-0665-07 /「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128/「目で見る仙台の歴史」P168/「新・目で見る仙台の歴史」P160/「仙台市史 特別編4 市民生活」P310 
戦時中の疎開者受入れ 仙台市/宮城県  1945年(S20)  <京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人

<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201   
青少年団 仙台市青少年団結成  1941年(S16)  * 1941年(S16)3月10日、仙台市青年団・仙台女子青年団・仙台愛国少年会・少年団宮城地方同盟が統合し「仙台市青少年団」結成
   仙台市青年団結成は、1916年(T5)7月16日
   仙台女子青年団結成は、1932年(S7)1月
   仙台連合女子青年団結成は、1933年(S8)5月6日
   仙台愛国少年会連盟結成は、1932年(S7)11月10日
* 1945年(S20)6月30日、仙台市青少年団解散 
「仙台市史 年表」P97、P106、P107、P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P505   
戦災復興(応急対策) 仙台市電  1945年(S20)  * 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315   
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台市防護団  1936年(S11)  * 1933年(S8)9月15日、仙台で「防空救護団」発団式
* 1936年(S11)2月、民間の組織として「仙台防護団」(団長は市長)を結成、本部を市役所内に置き小学校学区ごとに分団を設ける(市内の在郷軍人、青年団、青年訓練所生、町会員、医師会員、婦人団体その他で構成、平時は防護の準備と訓練、非常時には市の防護、特に防空思想の普及と訓練に力を入れた(「仙台市史 続編第1巻」P38)
* 1936年(S11)4月29日、「仙台市防護団」結成(17分団成立)
* 1937年(S12)、仙台市防護団、防護団の下に5~20戸をまとめた「家庭防火群」をおく

* 1943年(S18)1月19日、「仙台市役所特別防護団」設置 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P38/「仙台年表」P204/「仙台市史 年表」P108/「仙台市史 特別編4 市民生活」P321/「仙台市史10 年表」P305   
兵事義会/銃後奉公会 仙台市銃後奉公会  1939年(S14)4月~  * 1939年(S14)、銃後奉公会と改称され全市民参加の恒常組織となる
* 1939年(S14)4月1日、仙台市兵事義会を「仙台市銃後奉公会」と改称
・ 仙台市銃後奉公会(旧・仙台市兵事義会)が、戦没者遺家族顕彰の門標『殉国勇士之家』を贈り、各遺族家庭に表示させ、その名誉を顕彰 
「仙台市史10 年表」P295/「仙台市史 特別編4 市民生活」P312、P315/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P12の写真(『殉国勇士之家』の門標) 
消防組/防護団/警防団/消防団 仙台市警防団  1939年(S14)  * 1939年(S14)、「警防団令」発令(勅令)、防護団と消防団を統合 / 警防団は、家庭防火群を引き継ぐ「隣組」の防空訓練を監視、督励する役割を担う / 隣組や家庭は、桶やバケツ、貯水槽などを備え、火叩きや水ひしゃく、ムシロや砂などの消火道具を用意しておく義務があった / 家庭にいる女性が防空頭巾や地下足袋などに身をかためて隣組ごとにまとまって動員され、水の入ったバケツを整列して手渡しでリレーし、火にかける、といった防空訓練が警防団の指導下に行われた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321)

・ 『仙台市公報』162号によると、焼夷弾は5kgないし10kg級としているが、実際の仙台空襲はその10倍の50kgないし100kg級の焼夷弾によって行われた。その投下数も隣組で一発位としているが、実際には焼失戸数以上の焼夷弾がふりそそいだ。
・ 爆撃機も大都市で昼間なら20~30機、夜間なら10数機ぐらいが限度とみていた。従って焼夷弾が落ちたら、ブリキ缶や金だらい、バケツなどを叩いて大声で組内に知らせ、水をかけ、砂や土、ねれ筵をかぶせて消火し、飛び散った火は火叩きで叩き消す、といった規模ののんびりした消火訓練が企てられていた。火災になると水道ホースが加わる程度である。
・ 実際に市民の前に展開した空襲は、まったく異なる炎熱地獄であった。(「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322)

* 1939年(S14)4月28日、「仙台市警防団」 ( 4月に県下一斉に組織)/ 同年1月20日(3月?)に解散した消防組(警察署長の指揮下)と防護団の組織と役割を引継ぐ / 警防団は、地方長官の監督のもとに警察署長の指揮を受ける仕組みで、カーキ色の制服に黒の戦闘帽、ゲートル姿
・ 仙台市警防団は全市で3411、警防団長は市長、国民学校の学区ごとに分団があり、役員は在郷軍人、青年団員、医師、薬剤師会会員、婦人団体など。 戦局が厳しくなると防空演習は防空訓練と名称を変え、訓練は毎月3回、警防団単位で防火、消防、救護に重点を置いて実施された。主婦がモンペ姿、防空頭巾をかぶって標的に向けてバケツの水を勢いよくかけました。警報の伝達、灯火管制、家庭応急などの作業もあった。各家庭では防火水槽、砂、バケツ、むしろ、ホース、火たたきなど消火道具の用意を義務づけられた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P152)

* 1944年(S19)4月1日仙台警防団を解団し、「仙台北警防団」および「仙台南警防団」を新設
 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P321~322/「仙台市史 年表」P110、P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P468、P501/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P39/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P152  隣組の防空演習は、76-1016-1016-11 
バス 仙台市街自動車    → 項目「仙台市街自動車」参照     
医療機関 仙台市立病院  1930年(S5)  * 1930年(S5)2月1日、開院、外来診療開始
    (東二番丁の旧裁判所庁舎を改造)

 → これ以降は、項目「仙台市立病院」へ 
   
医療機関 仙台市立榴岡病院  1922年(T11)  伝染病隔離専門病院
* 1922年(T11)5月1日、「仙台市伝染病院」が「仙台市立榴岡病院」と改称して常設病院となる(木造平屋建て)

* 戦後、赤痢大流行 / 患者・保菌者が、S21~S22に県内約3000人、仙台市1000人 / S25~S27に連続して爆発的に発生し畳敷きの部屋まで病室に転用

* 1952年(S27)12月~1955年(S30)5月、3期に分け増改築 / 木造平屋6棟に代わって完成
* 1957年(S32)1月、増築完成(病床、計106床に)
・ 1960年(S35)の赤痢患者・保菌者の収容数は696人(前年度の倍)/ 以後、患者ふたたび多く発生(原因は抗生物質耐性菌の出現、学校・職場を中心の大量集団発生)
* 1980年(S55)、榴岡病院廃止
 
「仙台市史 年表」P101/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P717~721/「仙台市史 特別編4 市民生活」P395  「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P718に、改築後の写真/「目で見る仙台の歴史」P182(S30年改築の病院)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P396 
高等学校(新制) 仙台市立女子高等学校/仙台図南萩陵高等学校/仙台大志高等学校  1948年(S23)/1983年(S58)/2009年(H21)  <前史>
* 1936年(S11)6月、「仙台夜間女学校」、北五番丁に創立
* 1939年(S14)4月、「仙台市立昭和女学校」
* 1943年(S18)4月、「仙台市立昭和高等女学校」
* 1944年(S19)4月、「仙台女子商業学校」と合併し、「第二部」となる

<学制改革で定時制高校に>
* 1948年(S23)4月、仙台女子商業学校から独立し、「仙台市立女子高等学校」と改称(女子単独の定時制高校)
・ 昭和30年代前は「制服のない学校」「試験のない学校」「罰則のない学校」が特徴

<統合>
* 1983年(S58)3月1日 仙台図南高等学校と仙台市立女子高等学校を統合し、仙台図南萩陵高等学校創立、共学の定時制高校として開校 / 図南萩陵の校名は旧校名である「図南」、市立女子高の校章に使われてシンボルであった「萩」と、学校があることを表す「陵」を合わせて「図南萩陵」と命名

* 2006年(H18)4月1日、高校商業科の生徒募集が停止される。(2009年閉講)
* 2009年(H21)4月1日 仙台市立仙台大志高等学校創立(定時制高校) / それまでの仙台図南萩陵高等学校は仙台市立仙台図南萩陵高等学校に校名が変更され、生徒募集が停止される 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P497~500、P502   
仙台市の動物園(戦後) 仙台市立八木山動物公園  1965年(S40)~  * 1965年(S40)10月15日、開園(14ha) / 90種、350頭 / 五大大陸ごとに放し飼い 

・ 仙台の味噌醤油製造業「紅久」経営者八木家が、昭和初期に仙台市に寄贈した土地に開園 / 閉園する仙台市立三居沢子ども動物園の動物も八木山へ移された

* 1967年(S42)8月7日、音楽姉妹都市の大分県竹田市からイノシシ3頭を贈られる
* 1970年(S45)7月31日、動物園付近に、八木山開発者八木久兵衛(五代)の胸像建立
* 1971年(S46)1月18日、類人猿舎で火事、猿類18匹焼死
* 1987年(S62)6月29日、中国長春市から、レッサーパンダ到着(1988年(S63)8月6日、レッサーパンダの赤ちゃん誕生)
* 1988年(S63)3月30日、カナダからアメリカビーバー受納式 
「仙台市史 年表」P124/「仙台老舗百店史P194~195「紅久」/「重訂 宮城県郷土史年表」P622、P634、P663、P667/「続・ 宮城県郷土史年表」P225、P242/「市民の戦後史(仙台市)」P172/「番丁詳伝」P34~35  「市民の戦後史(仙台市)」P172~173(正面から見た全景、象トシ子さん引越し)/「新・目で見る仙台の歴史」P192(カラー) 

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紀元2600年
気象台
北山五山
切手代(ハガキ)
木町通小学校
義務教育期間
キリンビアホール
禁煙
銀行(地域の銀行)
銀行(都市銀行)
錦章堂ビル
金属回収
金の星(カフェ)
金富士(料理店)
勤労青少年ホーム
空襲
国見浄水場
軍事教練
軍需工場
軍都・仙台
軍刀(陸軍)
軍馬の銅像
軍服(陸軍)
軍用機献納
蛍光灯
警察
警察署
競馬
敬老乗車証
下水処理
血液センター
県営宮城野原公園総合運動場
県営宮城野球場(宮城球場)
県営宮城野原硬式庭球場
県営宮城野原蹴球場
県営宮城野原陸上競技場
県営宮城自転車競技場
元気フィールド仙台
健康都市宣言
県立学校、名称変更
県令 → 知事
興亜奉公日/大詔奉戴日
公会と隣組
公害・環境問題
公害市民憲章
公害防止条例
光化学スモッグ
公職追放/追放解除
公設浴場
交通監視用テレビ
高等学校(新制)
勾当台公園
工兵第二大隊 /工兵第二連隊
公民館
江陽会館
国際反戦デー
国定公園
国鉄
国道45号線
国道48号線
国民学校
国民義勇隊
国民金融公庫
国民勤労動員令
国民健康保険
国民精神総動員運動
国民登録/勤労報国隊
国民徴用令
国立仙台病院
国民服
国民帽
こけし塔
五色沼
国旗掲揚
子ども会など
午砲
米騒動
在外同胞救出仙台学生同盟
在郷軍人会
在住朝鮮人大会
斎藤報恩会
蔵王エコーライン
桜ケ岡公園(西公園)
桜ケ岡大神宮
サマータイム
産業組合中央会
三居沢交通公園
三陸自動車道
JR東日本
自衛隊
市街化区域
市街地住宅
自警団
時差出勤
思想弾圧/共産党員検挙
四大節
七十七銀行
市町村合併
輜重兵第二大隊 /輜重兵第二連隊
実業補習学校
自動車
自動車専用道
シネマスコープ
師範学校
紙幣・硬貨(戦後)
姉妹都市
市民の家
市民のつどい
市民福祉会館
市民土曜音楽会
市民利用施設
社会教育(戦後)
釈迦堂
車両ナンバー
週休二日制
住居番号表示制
住宅団地
柔道・剣道
祝賀行事
主食配給量
殉国勇士の家
障害者福祉
鐘景閣
松根油
定禅寺通り
昭忠碑
商店など
常磐線
消費者団体
消防組/防護団/警防団/消防団
昭和三陸大地震津波
食糧メーデー
女子挺身勤労令
女子挺身隊
シルバー人材センター
新憲法
新国丁
震災遺構
新産業都市
新住居表示制度
親切運動
新仙台港
身体障害者福祉モデル都市
仁丹マーク
進駐軍(米軍)
新寺小路地区都市改造事業(区画整理)
新伝馬町商店街
新常盤町(遊郭)
新聞社
人力車
水害
水道事業
瑞鳳殿
スパイクタイヤ
スポーツ少年団
スポーツセンター
スポーツ大会
隅櫓
青少年団
清掃事業(行政)
清掃工場
政党県支部など(戦後)
青年訓練所
青年学校
青年団
税務署
精養軒
政令指定都市
セコイヤの化石
戦後開拓
戦後教育・仙台
戦後の物資・価格統制撤廃
戦後復員/引揚げ
戦災記録
戦災者・引揚者用住宅
戦災復興
仙山線
戦時衣料
戦時下の学園
戦時中の勤労動員/就労規制
戦時中の疎開者受入れ
戦時中の物資統制、使用規制
仙集館
戦勝祝賀行事
仙石線
仙台朝市
仙台アメリカ文化センター
仙台育児院
仙台駅
仙台オープン病院
仙台卸商センター
仙台偕行社
仙台歌舞伎座
仙台簡易保険局
仙台軌道(仙台鉄道)
仙台郷土研究
仙台空港
仙台空港アクセス鉄道
仙台空襲
仙台空襲後の空襲
仙台高等工業学校
仙台合同庁舎
仙台国際センター
仙台国税局
仙台座
仙台市(名称変遷)
仙台CIE図書館
仙台市営地下鉄
仙台市営バス
仙台市街自動車
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仙台市視聴覚教材センター
仙台市市民文化事業団
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仙台市電
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仙台市の工業
仙台市の消防
仙台市の動物園
仙台市の特徴ある条例・宣言・憲章・事業
仙台市の農村・農業
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仙台市武道館
仙台市兵事義会
仙台市ボランティアセンター
仙台市ミートプラント
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仙台市民教養センター
仙台市民図書館
仙台市民の消費生活を守る条例
仙台市民文化センター
仙台市紋章
仙台市役所庁舎
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仙台商業会議所/仙台商工会議所
仙台城二の丸焼失
仙台庶民金庫
仙台市立病院
仙台市歴史民俗資料館
仙台信用金庫
仙台スタジアム
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仙台七夕
仙台鎮台
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仙台東部道路
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仙台南部道路
仙台西道路
仙台の裁判所
仙台バイパス
SENDAI光のページェント
仙台美術館
仙台平
仙台フィルハーモニー管弦楽団
仙台復興祭グランドフェア
仙台物産陳列所
仙台北部道路
仙台ホテル
仙台陸奥館
仙台郵便貯金会館
仙台臨海鉄道
戦没者遺骨調査・収集
戦没者慰霊
創価学会会館
総進軍大会
体育館
体外受精
大学・短大
大学紛争
大政翼賛会/新体制/公会/報国会
第二高等学校(旧制)
第二師団
第二師団凱旋記念満蒙軍事博覧会
第十三師団
第三十三師団
第四十二師団
大日本国防婦人会
大日本婦人会
大日本連合婦人会
台原森林公園
台風被害(戦後)
多賀城跡
高橋是清
タクシー
宅地造成ブーム
竹槍訓練
立町小学校
谷風の墓所
多門師団凱旋
多門通り
男女共学
地価狂乱
乳銀杏
ちびっこ広場
駐留軍(米軍)
彫刻のあるまちづくり事業
鳥獣特別保護区
朝鮮館
朝鮮人移入労働者
朝鮮戦争
樗牛瞑想の松
チリ地震津波
榴ケ岡公園
堤人形
ツルヤ洋菓子店とカフェ・クレーン
デイケアー
貞山運河(貞山堀)
逓信関連
停電
出稼ぎ者相談所
テレトピア構想
テレビアンラジオ
テレフォンカード
電気開始(仙台)
電球
電信開始(仙台)
天神社
伝染病流行
伝統町名保存
天皇、仙台行幸
電力ホール
電話
電話開始(仙台)
土井晩翠
東一マーケットと中央マーケット
洞雲寺
灯火管制
東京オリンピック(昭和)
東照宮(仙台)
東部復興道路
同胞援護会
東邦生命ビル
東北学院
東北産業博覧会
東北自動車道
東北新幹線
東北振興/農村更生
東北大学
東北大学病院
東北鎮台 →仙台鎮台 →第二師団
東北帝国大学
東北電力
東北本線
東北楽天ゴールデンイーグルス
東北歴史資料館
東北六魂祭
東北絆まつり
遠見塚古墳
特別調達庁
都市型CATV
特急はつかり
特急ひばり
トラックターミナル
名掛丁商店街
仲の瀬橋(広瀬川)
長町駅
奈良原式鳳号
西内楽器店
西公園(桜ケ岡公園)
西本願寺別院(東一番丁)
二十人町
日米野球
ニッカウイスキー工場
日本銀行
日本生命館
日本鉄道
日本農民組合
ネオンサイン
年賀郵便
年中行事(まつり)
乗合馬車
敗戦後の諸相・仙台
廃藩置県(仙台県誕生)
バカンス(流行語)
爆弾三勇士の歌
博覧会・フェア
芭蕉の辻
芭蕉の辻商館
芭蕉の辻の城櫓風建物
芭蕉の辻の洋館
バス
バスプール
バス優先レーン
支倉常長(記念碑/銅像)
発電事業
パテー館
花火大会
針久旅館支店(仙台駅前)
ハリストス正教会堂
藩祖政宗公三百年祭
藩祖政宗公の記念祭
東一番丁(商店街)
東一番丁大火
東一番丁百年祭大仮装行列
東二番丁尋常小学校
東二番丁通り(拡幅)
東日本大震災
光ヶ丘天使園
飛行船「雄飛号」
飛行大会
ひとにやさしいまちづくり条例
ヒトラーユーゲント一行が来県
日乃出映画劇場
ひらつか(東一番丁)
ビル建設
広瀬川の清流を守る条例
広瀬通り
広瀬橋(広瀬川)
プール
フェリー
俯瞰撮影禁止など
福祉ボランティアのまちづくり事業
富国生命館(国分町)
藤崎
フジビール
婦人参政権獲得運動
婦人の社会活動(戦後・仙台)
婦人標準服
普通選挙要求運動
物価上昇
二日町大火
復興盆踊り
仏舎利塔
ブラザー軒
文化キネマ/文化劇場/仙台松竹映画劇場
文学碑など(仙台)
文化勲章
文化財指定
文化横丁
兵役制度
米軍進駐
兵事義会/銃後奉公会
ベガルタ仙台
ペデストリアンデッキ
ヘレンケラー女史
奉安殿
防空演習
ポケットベル
歩行者天国(東一番丁)
ホテル
歩兵第4連隊
歩兵第104連隊
本土決戦体制
政宗卿騎馬像
政宗卿平服像
松島座/パテー館/仙台日活館/仙台日活劇場
松島パークホテル
松永正敏中将
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マナスル登頂成功
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満蒙開拓
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三越(仙台店)
緑と花いっぱい運動
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南町大火
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宮城教育大学
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