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出典/参考資料 |
関連映像 |
学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(1) 生徒の動員先、作業内容を指定 |
1944年(S19)8月~1945年(S20)4月 |
* 1944年(S19)8月、政府は国家総動員法に基づく「学徒勤労令」発令 / (旧制)中学校、高等女学校以上の学徒を、S19年秋~20年1月にかけ、指定された場所へ動員(軍需工場、食糧増産のための開墾、農作業、飛行場造成、家屋疎開作業など)
・ 全国で310万余、全学徒の約7割が対象(軍需生産200万人、食糧増産100万人、防空防衛14万人、重要研究2000人)
「防空防衛」は、空襲の際に都心部で消防車が入れる道路や鉄道を守る広場確保のため一般家屋を急いで解体する作業で、仙台市では第1次として仙台駅周辺など1065戸が対象
「重要研究」は、大学研究室で軍事研究に携わる学生で、「徴兵猶予」撤廃で軍隊に入った学生も大学に呼び戻された
* 1944年(S19)7月(注:文部省HPでは、S19年11月)夜間学校や弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
* 1945年(S20)4月、国民学校(当時の小学校)を除き1年間学業停止、1年を通じての「通年動員」に変更
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P171~172
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(2) 生徒動員数 |
1945年(S20)4月現在 |
<「宮城県知事事務引継書」(昭和20年6月 丸山鶴吉知事→生悦住(いけずみ)求馬(もとめ)知事)より>
・ 「宮城県としては学徒動員本部を設置し、専任視学員を置いて事業所の受け入れ態勢、作業状況、厚生施設、給与、保健の改善に努めている」
・ 動員数(昭和20年4月、宮城県) 農業・商業を含め男子中学校1万1616人、女子中学校1万953人
・ 動員先 多くは陸軍造兵廠(仙台市苦竹)、海軍工廠(多賀城)、海軍火薬廠(船岡)だが、民間工場へも動員
<動員先の例>
・ 仙台中学 5年生(仙台の陸軍造兵廠)、4年生(川崎市の東芝 →のちに、仙台の東北特殊鋼)、3年生(作並製炭所)、2年生(仙台近郊農家の手伝い)
<参考文献>
・ 『戦時下女学校の学徒勤労動員』(宮城学院発行) 宮城県内の39旧制高等女学校卒業生の271人に聞き取り(2000年 大平聡教授と学生たち調べ)
・ 『旧制男子中学校の勤労動員実態調査』(2001年 宮城学院大学院生鈴木洋子)
・ 『海鳴りの響きは遠く』(草思社) 宮城県第一高等女学校生徒の軍需工場動員記録
・ 『太平洋戦争に生きた少女たち』(高津計以編 私家版) 尚絅高等女学校卒業生による記録と追想
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P173
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(3) 軍の3工場に動員された学校リストと作業内容 / 海軍工廠で大爆発 |
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<学徒動員先>
・ 陸軍造兵廠(仙台市原町苦竹)
仙台市内の中学校、高等女学校、旧制二高、東北学院高等商学部など14校 / 宮城県内各地の中学校、女学校からも動員 / 機関砲の薬きょう箱詰め、旋盤などに従事 / 女性や少年に禁止されていた深夜作業が1943年(S18)年から復活し、甲班、乙班に分かれ1週間ずつ昼夜交代で働く
・ 海軍工廠(多賀城)
仙台市内の仙台育英、東北学院、常盤木、尚絅のほか、佐沼中、塩釜、若柳、登米、石巻高女など県内各地の生徒が勤務 / 南地区の機銃部、北地区の火工部に分かれ、ゼロ戦の機関砲弾、爆弾、焼夷弾などを製造
・ 海軍工廠(多賀城)装填工場で大爆発(S18年11月23日午後1時すぎ)37人死亡、当時は極秘事項で報道されず
・ 海軍火薬廠(船岡)
旧制二高、東北薬学校、白石中、白石高女、柴田農林、大河原高女、岩沼高女、鹿又高女、角田中、角田高女、佐沼高女、岩手県黒沢尻高女、大船渡専修学校の13校 / 円筒形30キロ爆弾の信管製作 綿火薬製造など / 全身黄燐まみれ、硫酸、有毒ガスなどで健康被害(実例体験談あり)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P174~175
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学徒勤労動員 |
「戦争のころ 仙台、宮城」より
(4) 首都圏の軍需工場へも動員 / 卒業後も動員 |
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<首都圏の軍需工場へ学徒勤労動員>
・ 「昭和19年以降、仙台市内の生徒のうち神奈川、茨城両県に限っても、川崎、横浜、横須賀、湘南、日立などの工場に、男子638人、女子946人の計1584人が動員された」(宮城県教育委員会発行『宮城県教育百年史』)
・ 首都圏に動員された県内の高等女学校は、宮城県第一、宮城県第二、宮城県第三、宮城、尚絅、吉田、朴沢、角田、石巻、石巻実業、白石の11校945人(宮城学院女子大学大平聡教授調べ)、これに旧制の中学校、高等学校生が加わる
・ 首都圏に動員された仙台市内の学校は、仙台一中、仙台二中、仙台中、仙台育英中、栴檀中、県工業学校、仙台工業学校、仙台商業学校、旧制第二高等学校、仙台工業専門学校、県女専、東北学院専門部、東北帝国大学(『仙台市史』)
・ 動員中の死亡例
日立製作所(茨城県)で、県工業学校生徒5人が米艦からの艦砲射撃で
・ 横須賀海軍工廠へ動員された宮城県第一高等女学校(4年生100名)は、逗子の寮から通い、高角砲の砲弾の弾頭部に火薬を入れたり、航空特攻兵器「桜花(おうか)」の部品づくりに従事
・ 尚絅高等女学校(4年生)約200人は、農家や国民学校に泊まり込んで神奈川県(その前は東京鎌田)の東京計器で飛行機の部品づくり
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P176~177
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学徒出陣 |
徴集猶予停止 |
1943年(S18)10月 |
* 1943年(S18)10月、在学徴集延期臨時特例公布(学生・生徒の徴兵猶予停止)
「学徒出陣は、深刻な指揮官になる将校の不足を補うためといわれる。定員14万2000に対して現役将校は3万4000にすぎず、残りは予備役将校で補っていた。中でも尉官(大尉、中尉、少尉)クラスは、戦闘で陣頭指揮をとるので戦死や負傷しやすい。政府は、高等教育を受け中学時代から軍事教練が義務づけられている学生を補充にあてようと考えた。
陸軍は昭和18年12月1日まで、海軍は12月9~10日に軍隊に出頭せねばならず、10月15日から11月5日の間に徴兵検査を受ける必要があった。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P124~125)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P124~125
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学徒出陣 |
東北帝大の壮行大会 |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)9月23日、東北帝大出陣学徒の卒業式(片平キャンパスの講堂で、法学204人、経済学37人、文学30人、計271人が繰上げ卒業)
* 1943年(S18)10月8日、東北帝国大学学徒出陣壮行会
壮行会は、全学部2000余人の学生を前に、出陣学徒代表が「大命は下った。日ごろ練磨した体育、知育を役立てる時がきた。日本に生まれ育った我らのみに与えられた感激である」と答辞。 (「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)10月8日、NHK仙台中央放送局が、「東北帝国大学徒出陣壮行大会」を放送
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史10 年表」P306/「仙台年表」P212/「宮城県百科事典」P1114(年表)/「重訂 宮城県郷土史年表」P498/「仙台あのころこのころ八十八年」P249/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P18
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98-090
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学徒出陣 |
壮行式など |
1943年(S18) |
* 1943年(S18)11月18日学徒出陣の壮行式が宮城野原練兵場で行われる(東北帝大、旧制二高、弘前高校など)
* 1943年(S18)11月18日~19日、仙台平野を舞台に、文部主主催の出陣学徒壮行野外演習、東北、北海道、新潟県からも参加し本番並みの激しい演習を展開、岡部長景文相も姿を見せた。(「戦争のころ 仙台、宮城」P126)
* 1943年(S18)12月8日、仙台市内学徒総進軍大会(学徒出陣)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P126/「仙台市史 年表」P112/逸見英夫氏談/「仙台市史10 年表」P307/「私にとっての戦争」(朝日新聞仙台支局)P185(年表)
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学制改革(戦後) |
学校教育法 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、学校教育法を公布、翌4月1日から施行
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P26
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学制改革(戦後) |
新制小学校/新制中学校 |
1947年(S22) |
* 1947年(S22)4月1日、六・三制の学校制度開始 / 義務教育期間は小学校・中学校の9年間に
・ 国民学校を小学校と改称
・ 仙台市で29の新制中学校開校(市立18校、官立1、私立10)
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「仙台市史 年表」P114~115/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95
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「目で見る仙台の歴史」P181に、五ツ橋中学校、第二中学校、東華中学校、片平丁小学校、木町通小学校
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学制改革(戦後) |
新制高校 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
・ 仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足
・ 仙台市内の新制高校一覧(昭和23年)→ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P275に、県立8校(男子5校、女子3校)、市立5校(男子4校、女子1校)、私立12校(男子5校、女子7校)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P333/「仙台市史 特別編4 市民生活」P275
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学制改革(戦後) |
新制大学 |
1949年(S24) |
<新制大学>
1947年(S22)制定の学校教育法に拠り、高等教育を行う教育機関
・ これ以前の帝国大学令や大学令等による大学は旧制大学と呼ばれるようになる
・ 戦前の旧制大学、旧制高等学校、師範学校、高等師範学校、大学予科および旧制専門学校を、4年制の新制大学として再編
・ 新制国立大学は、1949年(S24)施行の国立学校設置法に基づいて設置
<宮城県内>
* 1949年(S24)、新たに設置開設された新制大学(私立)
・4月1日開設、東北学院大学、東北薬科大学
・10月27日開設、宮城学院女子大学
* 昭和20年代の短期大学開設
・1950年(S25)に、東北学院、尚絅、宮城の私立3校
・1951年(S26)に、三島、聖和の私立2校
・1952年(S27)に、宮城県農業短期大学
* 1949年(S24)5月31日、国立学校設置法に基づく東北大学設置(第二高等学校・仙台工業専門学校・宮城師範学校・宮城青年師範学校・宮城県女子専門学校が東北大学に統合される)(旧制東北帝国大学は、すでに昭和22年10月1日に東北大学に改称していた)
* それ以降に県内で開設された、新制大学、短期大学は → 項目「大学・短大」参照
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「仙台市史 年表」P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96
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学制改革(戦前) |
尋常、高等を分離 |
1916年(T5)4月1日 |
* 1916年(T5)4月1日、仙台市、小学校組織を改正して尋常科と高等科を分離し、尋常小学校11校、高等小学校2校の編成とする
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「仙台市史 年表」P97
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学制改革(戦前) |
国民学校 |
1941年(S16)4月~1947年(S22)3月 |
1) 1941年(S16)4月1日、国民学校令施行、小学校を国民学校と改称(義務教育8年間に)
・ 初等科6年、高等科2年
・ ほかに特修科 (1年) をおくこともできた
2) 1944年(S19)2月16日、国民学校令等戦時特例公布
(就学義務を満12歳までに引き下げるなど)
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1)「重訂 宮城県郷土史年表」P482
2) 岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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子ども会など(子供の団体) |
戦前期 |
大正~昭和初期 |
☆ 大正末期から戦後にかけての子供対象の組織(団体)について、「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~447「子供の組織」に記載あり
・ 1914年(T3)8月、片平丁尋常小学校が夏期林間教養所を向山に開設
・ 1921年(T10)、「おてんとさん社」、仙台で結成(大正7年児童雑誌「赤い鳥」発行で起こった児童芸術運動に共鳴)
・ 1923年(T12)~1931年(S6)、仙台児童倶楽部(県の図書館内)結成(毎月、童謡・童話会・子供むけ音楽会・自由画展覧会など開催)
・ 1923年(T12)前後に結成されたのは、北星少年少女会、空堀丁のヤマバトの家、新寺小路東秀院内に宮城野コドモ会、荒町に皎林寺コドモ会、東二番丁に仙教婦人会少年部、南町のたんぽぽコドモ会、川内山屋敷の山屋敷童謡童話会、鈎取尋常小学校分教場の会
・ 1923年(T12)8月3日~10日、東一番丁教会が桂島で桂島海浜学校開催 / 1940年(S15)まで継続して開催
・ 1924年(T13)4月、「七ツの子供社」(影絵・童謡劇・童話劇などで組織) / 1927年(S2)8月上旬に伊勢堂山で夏期林間学校に58名児童参加、10年間続くが、日中戦争で中止
・ 1926年(T15)4月3日、コドモ花祭り(出演団体は、北稜日曜童園、皎林寺日曜教林、仙台仏教日曜会、東本願寺日曜学校、仏教婦人会少女部、龍宝寺コドモ会、宮城野コドモ会、西本願寺日曜学校など)
<ボーイスカウト>
・ 1922年(T11)、少年赤十字団、発足
・ 1924年(T13)、少年赤十字団宮城県支部ができ、最初に榴岡小学校が加盟
・ 1924年(T13)、宮城少年団結成され、仙台ではYMCA少年団、仙台少年団、仙台中央少年団が加盟 / これらの団体を中心に少年団宮城連盟結成(1941年に戦時体制強化のため、大日本青少年団に統合され、解散)
<昭和初期>
・ 1928年(S3)、NHK仙台放送局、ラジオ放送開始 / 「子供の時間」が組まれ、各種の児童文化団体が成立 / 上杉山通の児童中心にNHK子供会、仙台児童学芸協会(児童劇・童話会劇など子供の劇場グループ)
・ 1928年(S3)、舞踏研究会「お人形社」(5・6歳以上の子ども対象)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P442~444
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子ども会など(子供の団体) |
日中戦争・太平洋戦争期 |
1937年(S12)~1945年(S20) |
☆ 戦争拡大に伴い、子供会の目的が変化し、戦時色が前面に
* 1937年(S12)ころから、子供会が戦傷者慰問
* 1941年(S16)、既存少年団は、戦時体制強化のため1941年(S16)に大日本青少年団に統合され解散
・ 1943年(S17)、図書館童話会のプログラム / 朗読「錦のみはた」、童謡「潜水艦」、童話「地底戦車兵の冒険」など
・ 開催された会のタイトル:「建国こども祭」「愛国童話大会」「興亜童話大会」「戦捷祝賀童話大会」「出征家族児童慰安会」「大東亜戦争記念童話大会」など
・ 東六番丁国民学校少年団(児童を軍隊組織と同様のものに編成)
本団(団長・副団長は、校長・教頭、役員は教職員が分担)
団員(三年生以上の全児童 / 二年生以下を準団員)
学年ごとに三年隊、四年隊・・・と呼び、
学年を男女各一中隊、学級を一小隊に編成
一・二年生を準団員とし、幼年隊と呼ぶ
分団を町内会単位におき、分団内に40人位で班、
10人以内を標準に組に分け、
いずれも各学年にわたり異なった学年の児童で組織
分団に分団長、班に班長、組に組長を置く
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444~445
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445(昭和16年 少国民新聞付録「こども隣組双六」)
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子ども会など(子供の団体) |
昭和戦後期 |
1945年(S20)~1980年(S55) |
<敗戦後、教育の転換>
・ アメリカ教育使節団の指導で学校教育が一変 / 教師中心の指導方法から児童生徒中心の指導方法へ / 自分の選択した学習の目標で、真実に興味と関心を満足させる自主的な学習を育てる / 自由な雰囲気の中で、自分の能力を発揮できる個性的な教育 / 自己の中に眠っている可能性を引き出すための教育
・ 高学年児童は、1949年(S24)頃から、クラブ的な組織に自由に参加(読書・音楽・文芸・手芸・珠算・書道・絵画など)
・ グループ学習の採用
* 1946年(S21)4月、仙台児童倶楽部復活(第1回童話・童謡会) / 1949年(S24)頃まで盛ん(S24は毎月開催)
* 1947年(S22)、ボーイスカウト復活
* 1948年(S23)、青少年赤十字団、かなりの学校が参加
* 1949年(S24)、ガールスカウト、塩釜で県内初の結成
* 1950年(S25)1月、仙台児童劇団結成(毎日曜に稽古 / 毎月2・3回、NHKや東北放送のラジオ放送に出演(事実上NHKの嘱託団体でNHK出演では「仙台放送子ども会」 / 公演15回を最後に休団)
* 1954年(S29)ころ、仙台ユネスコ学校開始 / 小学生対象で、美術・社会・理科・科学工作の4クラブに分け学習 / 毎週土曜の3~4時に創作、実物教育、個性尊重を目的に教育
* 1955年(S30)、各地域に子供会(地域全児童対象に班編成で活動)
* 1964年(S39)、スポーツ少年団県本部、発足
* 1965年(S40)、日本海洋少年団県連盟、結成
* 1973年(S48)、「宮城県青年の船」始まる
* 1980年(S55)、「宮城県少年の船」始まる(宮城県青年の船乗船経験者の友の会の主催事業で、県内小学生高学年が対象)
・ このほかに、緑の少年団や郵便友の会など
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P445~447
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P447(ボーイスカウト連盟宮城第39団発団式 / 昭和51年、緑の少年団大会)
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婦人標準服 |
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⇒ 項目「戦時衣料」参照
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婦人参政権獲得運動 |
全国 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦選獲得運動>
* 1921年(T10)1月、新婦人協会(市川房枝・奥むめお・平塚らいてう達)、355人の署名を集めて婦人参政権の要求を、貴族院・衆議院に提出
* 1923年(T12)2月、婦人参政権同盟結成
* 1924年(T13)12月13日、婦人参政権獲得期成同盟会、発足 / 1925年(T14)4月、婦選獲得同盟と改称
* 1929年(S4)12月、長野県で、婦人参政権の県会決議が実現
<敗戦後の再起>
* 1945年(S20)8月25日、戦後対策婦人委員会結成(市川房枝・山村民子ら30余名の女性) / 9月24日、政府・両院に対し、女性参政権実現、公民権・政党参加権の獲得、行政機関への登用を要求
* 1945年(S20)10月10日、幣原内閣が臨時閣議で婦人参政権付与の方針決定 / 10月13日、国民に発表
* 1945年(S20)10月11日、GHQ、日本民主化のための五大改革の冒頭に「参政権の付与による女性の解放」を掲げる
* 1945年(S20)12月17日、婦人参政権の付与を盛り込んだ衆議院議員選挙法改正案が成立、ただちに公布
* 1945年(S20)12月28日、衆議院解散
* 1946年(S21)4月10日、総選挙(全国で39名の女性代議士誕生 / 東北では、山形・秋田・岩手で1名、福島で2名当選)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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婦人参政権獲得運動 |
宮城県 |
1921年(T10)~1945年(S20) |
<婦人参政権の芽生え>
* 1880年(M13)、名取郡長町村村会規則(村会議員選挙で、20歳以上の男女に等しく選挙権、ただし被選挙権は女性には認めていない) / 全国的に珍しい
* 1883年(M16)、成田うめ(清元師匠)が仙台自由党結成
<婦選獲得運動>
* 1930年(S5)6月10日、黎明婦人会が仙台婦選講演会(仙台市公会堂、講師:市川房枝) / 学生・未成年含めて300人の女性が参集
* 1931年(S6)、黎明婦人会による婦選獲得同盟演説会(講師:日本産児調節婦人同盟理事長の石本(加藤)静枝) / 毎年開催された婦選大会も戦時体制の強化の中で1937年(S12)1月の第7回で幕を閉じる
<戦後>
* 1945年(S20)10月15日、「河北新報」が「婦人参政権を語る」と題して、県内4人の女性たちの抱負を掲載
* 1945年(S0)11月29日~46年2月6日、「河北新報」が「婦人参政権講座」65回開設(講師:東北帝国大学教授陣15人)
<婦人文化クラブの啓発活動>
* 1946(S21)3月14日、河北新報社主催「婦人参政権座談会」(GHQ民間情報教育局企画部婦人課長のイセル・ウィードを囲み、仙台市中心に国民学校訓導、看護婦、事務員、主婦、農村女性など女性30人) / 参加女性たちが「婦人文化クラブ」結成し、総選挙に向け女性たち自身による啓発活動
* 1946(S21)3月30日、発会式(荒町国民学校講堂)では、各政党の立会演説会や模擬投票
* 1946(S21)4月7日、河北新報社従業員組合婦人部と共催で、市川房枝を招いて懇談会開催(会場:宮城女学校) / 労働組合、民主団体の婦人部、主婦など約60人参加
<戦後初の総選挙>
・ 「仙台市史 特別編4 市民生活」P507に、当日の様子記述あり ・ 投票率(宮城県): 男性78.6%、女性62.3%
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504~507
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P504(長町村村会規則)/同P507(昭和21年、戦後初の総選挙投票を伝える「河北新報」)
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婦人の社会活動(戦後・仙台) |
仙台の婦人団体 |
1945(S20)~1994年(H6) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439「仙台市婦人のあゆみ」>
・ 昭和20年~43年頃までの運動と団体の動向を記述
・ 市内の婦人団名(昭和40年)~市教委把握数は45団体
・ 活動内容が記述された団体は、日本キリスト教婦人矯風会仙台支部、日本婦人有権者同盟仙台支部、仙台市主婦連合会、仙台婦人懇談会、宮城婦人問題連絡会、仙台市婦人会議、地域婦人会、みやぎ草の実、高砂むつみ会、葉月会、PTA、社会学級、仙台市母子福祉連合会、仙台市農業協同組合婦人部、労働組合婦人部、婦人公務員、仙台教職員組合婦人部 / そのほかに、民間婦人の職場、パートタイマー、公職進出についても触れている
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459>にも、婦人会をはじめ、戦後の女性たちの社会活動組織について記述あり(昭和63年位まで)
* 日本基督教婦人矯風会仙台支部、戦後すぐ活動再開(街娼撲滅運動、平和運動)
* 1946年(S21)、稲村キクエの呼びかけで新日本婦人同盟仙台支部、結成(1950年に、日本婦人有権者同盟仙台支部と改称)
* 1947年(S22)ころ、国鉄労働組合婦人部、日本教職員組合婦人部、農業協同組合婦人部など、活動開始
* 1947年(S22)、仙台市主婦連合会発足(各種団体や労働組合の女性たち、地域の主婦も多数結集)
* 1949年(S24)2月、仙台婦人懇談会結成
* 1959年(S34)、宮城県婦人問題連絡会結成
* 1966年(S41)、仙台市婦人会議発足(55グループが参加)
・ 1960年代以降、婦人防火クラブ誕生(S37、萩の台婦人防火クラブ/S38、高砂戌区婦人消火隊など) / 1978年(S53)の宮城県沖地震後には町内会単位で結成が進む
・ 1975年(S50)、国際婦人年を契機に、仙台では、新たに女性問題・社会問題の学習グループ、消費者グループ、育児および育児ボランティアグループ、高齢者介護など福祉のボランティアサークルなど発足
・ 1987年(S62)3月、エルパーク仙台(仙台婦人文化センター)オープン / 記念して「女たちのメッセージ」開催(参加団体:当初は29 → 1994年(H6)には40団体以上)
・ 「女たちのメッセージ'94」の参加団体名一覧表 / 福祉・ボランティア活動、育児支援活動、学習活動など41団体(「仙台市史 特別編4 市民生活」P459)
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P406~439/「仙台市史 特別編4 市民生活」P457~459
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「市民の戦後史(仙台市)」P186と、「仙台市史 特別編4 市民生活」P458に、「S41年10月、仙台市婦人会議結成大会」
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姉妹都市(宮城県) |
国際姉妹都市 |
1986年(S61)~ |
* 1986年(S61)7月14日、県議会は、中国吉林省と姉妹都市縁組決議
* 1987年(S62)6月1日、県と吉林省、友好省県調印式
このほか、平成年間には以下の2州県と提携
* 1997年(H9)9月10日、アメリカ・デラウェア州
* 2001年(H13)10月8日、イタリアのローマ県
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「続・ 宮城県郷土史年表」P208、P225/宮城県HP「県内自治体の姉妹・友好都市提携状況」
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姉妹都市(仙台市) |
国際姉妹・友好都市 |
1957年(S32)~ |
* 1957年(S32)3月9日、アメリカ・カリフォルニア州リバーサイド市と姉妹都市提携
* 1967年(S42)9月6日、フランスのレンヌ市と姉妹都市提携
* 1967年(S42)12月7日、リバーサイド市から寄贈された「友好の鐘」の除幕式
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P221~230に、リバーサイド市、レンヌ市との提携経過説明あり
* 1973年(S48)4月6日、ソ連(現・ベラルーシ)ミンスク市と姉妹都市提携(S47年9月6日調印)
* 1973年(S48)10月23日、メキシコのアカプルコと国際姉妹都市提携
* 1980年(S55)10月27日、仙台市と長春市(中国)が国際都市提携
平成年間には、以下の4市と提携
* 1997年(H9)8月29日、アメリカのダラス市
* 2002年(H14)4月20日、韓国の光州広域市
* 2005年(H17)11月3日、フィンランドのオウル市
* 2006年(H18)1月20日、台湾の台南市
<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国際姉妹・友好/協定締結都市」に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P221~230/「重訂 宮城県郷土史年表」P584、P634、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P13、P18、P23/仙台市HP
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「市民の戦後史(仙台市)」P106(リバーサイド市)/同P200(S42年12月、リバサイド市の友好の鐘除幕式)/「新・目で見る仙台の歴史」P202~203(国際姉妹都市の都市風景(リバサイド、アカプルコ、長春、レンヌ、ミンスク)/「市民の戦後史(仙台市)」P216(レンヌ市と協定書を両市長が署名、レンヌ市の街角)
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姉妹都市(仙台市) |
国内姉妹都市 |
1967年(S42)~ |
<音楽姉妹都市>
* 1967年(S42)1月18日、仙台市(土井晩翠生地)が、大分県竹田市(滝廉太郎生地)と音楽姉妹都市に(「荒城の月」の縁) / S42年11月18日には、中山晋平生地の長野県中野市も加わり、三姉妹都市の縁を結ぶ
<観光姉妹都市>
* 1970年(S45)4月15日、徳島市と、七夕・阿波踊りという全国に誇る代表的な祭りをもつ縁で、観光姉妹都市に
<歴史姉妹都市>
* 1975年(S50)11月3日、宇和島市と歴史姉妹都市締結
* 1981年(S56)5月8日、北海道白老町と歴史姉妹都市調印
<参考> 詳細(各都市との提携動機など)は、仙台市ホームページの「仙台市の国内姉妹都市」に記述あり
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P230/仙台市HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P630、P636/「続・ 宮城県郷土史年表」P47、P128
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女子挺身隊 |
結成 |
1944年(S19) |
・ 翌春卒業予定の高等女学校生徒を「女子挺身隊」として学校の下で組織するよう指示があり、県内の多くの女学校で挺身隊が組織され、仙台市原町苦竹の陸軍造兵廠などに動員(「戦争のころ 仙台、宮城」P177)
* 1944年(S19)
3月、仙台市内の女学校で女子挺身隊の結成が相次ぐ
3月10日、県下女子挺身隊、各工場に配置
3月12日、県下女子中等学校挺身隊壮行式(宮城県第一高女で)
8月23日、女子挺身勤労令公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
11月2日、宮城県女子学徒勤労義勇隊壮行式(宮城県第一高女で)
11月10日、厚生省、女子徴用実施、女子挺身隊の期間1年延長通牒
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P177/仙台市史 年表」P113/「仙台年表」P213/「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P500/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P316(婦人も軍需工場で弾丸検査)
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女子挺身勤労令 |
施行 |
1944年(S19) |
働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた
<「日録20世紀 1943年」P42「女子挺身隊」>
「14歳以上25歳以下の未婚・無職・不在学の女子を勤労動員するため、居住地ごとにまとめた組織 9/21、女子勤労動員の強化と男子職場への代替を打ち出し、女子勤労挺身隊の結成を進めた 当初は自主的組織とされたが、1944年8月女子挺身勤労令が公布され、若い女性は根こそぎ動員された」
* 1944年(S19)年8月23日、女子挺身勤労令(12歳以上40歳未満の未婚女子が対象)を公布、即日施行された
* この日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行 →詳細は、項目「学徒勤労動員」
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「仙台市史 年表」P113
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奉安殿 |
撤去指示 |
1946年(S21) |
【「日本大百科全書(ニッポニカ)」の用語解説】
学校に下賜された「御真影(ごしんえい)」や教育勅語など勅語類を安置する建物。天皇・皇后の写真である「御真影」と勅語の諸学校への下賜は1890年(明治23)に始まるが、その下賜数がしだいに増加するとともにその管理規定も厳重となり、管理の不行き届きは学校長などの重大な責任問題とされるに至った。「御真影」などは当初校舎内の奉安所に安置されていたが、学校の火事に際して「御真影」を守って焼死する校長などが相次ぐなかで、校舎から離れた地点に堅固な奉安殿を建設し、「御真影」などを安置することが大正期から始まった。奉安殿の建設は1935年(昭和10)以降全国的に実施され、「御真影」はますます神格視された。敗戦後、「御真影」は焼却され奉安殿は取り壊された。
**************************************
* 1946年(S21)7月4日、奉安殿の撤去を指示(教育民生部長通牒)
* 1946年(S21)10月8日、文部省、教育勅語の奉読を廃止(菅家年表)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P37
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54-01、73-04
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奈良原式鳳号 |
仙台で飛行を披露 |
1913年(T2) |
* 1913年(T2)11月15~16日、「大正2年、宮城野原に於いて飛行機(奈良原式)はじめて滑走しわずかに地上を離れたる程度なりき これを見物する為、数萬の群衆宮城野原に殺到す」
/「仙台市史 年表」P96には「大正2年9月22日、宮城野原練兵場で飛行大会開催」とあるが、日付が異なるので別の大会か?
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「重訂 宮城県郷土史年表」P356
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99-160、99-161、99-162
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天神社 |
移設 |
1667年(寛文7年) |
・ 市内榴岡にある。東照宮造営の際、その地にあった天神社を寛文7年、榴ヶ岡に移す。1795年(寛政7年)に丹塗の向唐門を残して焼失。 その後に社殿再建 / 筆塚、句碑が並ぶ
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「目で見る仙台の歴史」P59
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「目で見る仙台の歴史」P59
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天皇、仙台行幸 |
明治天皇 |
1876年(M9)~ |
<明治9年>
* 1876年(M9)6月24日仙台御着の際は、榴ヶ岡梅林亭を行在所にあて、29日まで各所御巡覧、26日には西公園下の博覧会御覧の後、公園で小栗大三郎以下十二名の古式による騎射供覧(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1876年(M9)6月24日、東北巡幸中に来仙 / 翌25日に官立宮城師範学校、官立宮城英学校、宮城県博覧会などを巡覧し、26日には仙台鎮台で閲兵(「仙台市史 年表」P81)
* 1876年(M9)6月24日、東北御旅行の明治天皇、乗馬にて旧本丸跡に登臨す」(「仙台城」P232) / 24~30日、仙台滞在(「新・目で見る仙台の歴史」P122)
<明治14年>
* 1881年(M14)の第二次御巡幸の際は、7月12日御着、国分町金須松三郎別宅を行在所にあてた(「目で見る仙台の歴史」P111)
* 1881年(M14)8月12日、北海道・東北巡幸中に来仙(「仙台市史 年表」P84)(注:日付が両資料で1か月の差あり)
<明治34年>
* 1901年(M34)11月7日、陸軍特別大演習統監のため来仙 / 同日に宮城県物産陳列場が県庁南隣に新築開場(「仙台市史 年表」P91)
* 1901年(M34)11月10日、陸軍特別大演習統監の明治天皇、旧二の丸前庭に於て群臣に宴を賜う。これに先立ち8日、政宗に正三位の追贈あり(「仙台城」P233)
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「目で見る仙台の歴史」P111/「仙台市史 年表」P81、P84、P91/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P232、P233
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「目で見る仙台の歴史」P111(明治9年、榴ヶ岡梅林亭、西公園騎射展覧図 ほか)/「新・目で見る仙台の歴史」P122(明治9年御巡幸御行列之図式)
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天皇、仙台行幸 |
大正天皇 |
1908年(M41)~ |
<皇太子時代の行啓>
* 1908年(M41)10月3日、奥羽史蹟調査のため来仙(「仙台市史 年表」P94)
(以下4項目は、「重訂 宮城県郷土史年表」P341より)
* 1908年(M41)10月2日、東宮殿下(のちの大正天皇)本県に行啓(上旬) / 同日、行啓に際し、本県より良馬玉の井号を献上 / 同年10月4日、行啓記念宮城県写真帳を刊行(宮城県編) / 同年10月27日、仙台市は東宮殿下の御下賜金を記念とし公会堂建設を議決す(御下賜金5百円、市費22万円)
* 1911年(M44)4月18日、参謀演習視察のため来仙(宮城県に行啓、27日還啓)(「仙台市史 年表」P95、「重訂 宮城県郷土史年表」P348)
* 1911年(M44)8月18日、東宮殿下、北海道行啓の途次、仙台偕行社に御一泊(「重訂 宮城県郷土史年表」P350)
<大正天皇、行幸>
* 1915年(T4)10月18日、陸軍特別大演習統監のため青森県へ赴く途中に仙台偕行社に御駐輦(宿泊)(「仙台市史 年表」P97、「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
<即位大礼>
* 1915年(T4)11月10日、御即位市民奉賛会を桜が丘公園に於て挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P362)
* 1915年(T4)11月10日、即位大礼、祝賀のため仙台の三業(料理屋・待合・芸者屋)組合の面々、仙台駅前に勢揃い(「新・目で見る仙台の歴史」P144に写真)
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「仙台市史 年表」P94、P95、P97/「重訂 宮城県郷土史年表」P341、P348、P350、P362/「新・目で見る仙台の歴史」P144
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99-094、99-075
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(1) |
1918年(T7)~昭和戦前期 |
<皇太子時代の行啓>
* 1918年(T7)7月7日、来仙
* 1925年(T14)10月18日~25日、摂政皇太子(のちの昭和天皇)、宮城県での陸軍特別大演習統監のため宮城県に行啓 / 大演習の間、大本営を仙台偕行社に置く
<御大典>
* 1928年(S3)11月10日に、京都御所で即位礼
* 御大典、仙台の奉祝行事(「番丁詳伝」P126)
・ 大典奉祝祭(仙台市公会堂)
・ 中心繫華街の装飾と仮装行列、東一番丁は全町軒並みに紅白幕をめぐらし、電飾もあった
・ 奉祝大売り出し実施
・ 仮装行列(10日)は午後1時から3時間半で、行列は長さ3丁に及び、コースは公会堂(西公園)~大町一丁目~芭蕉の辻~国分町~表小路~県庁前~勾当台通~定禅寺通~東一番丁~大町五丁目~新伝馬町~名掛丁~仙台駅前~南町通~東二番丁~商工会議所で、各町内仮装出し物の記述あり
・ 奉祝菊の花展覧会(会場は、南町の鈴喜陶器店の中庭)
<昭和の行幸>
* 1928年(S3)10月、仙台偕行社に御駐泊(4日と10日)、(岩手県内における陸軍特別大演習御統監のため)(この演習に第二師団も参加)
**********************************
<皇太子(のちの平成天皇)生誕祝賀>
* 1933年(S8)12月29日、皇太子誕生仙台市民奉祝大会
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「仙台市史10 年表」P282/「仙台市史 年表」P98、P103/「重訂 宮城県郷土史年表」P399、P413、P414/「番丁詳伝」P126、P127
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98-061 (大正14年、摂政宮殿下、偕行社で市民の歓迎をうける)
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天皇、仙台行幸 |
昭和天皇(2) |
戦後 |
<東北巡行、仙台市民は七夕飾りで歓迎>
* 1947年(S22)夏、昭和天皇が東北6県巡行(戦災復興状況、社会事業状況視察 / 8月5日~7日は宮城県内(仙台、塩釜、松島、石巻、女川、古川、荒雄、築館、若柳)
・ 「8月5日午後5時10分、仙台駅到着(駅前を埋めた市民が「君が代」の大合唱)、県庁バルコニーから2万の市民に挨拶、一本杉の伊達邸泊 / 仙台ではその日程にあわせ、この年の七夕を1日繰り上げて8月5日からとした / 翌6日は東北大学、国立病院、小学校、市施設など視察 / 東北大金研から国立病院(宮城野)までのルート(東一番丁、大町五丁目、新伝馬町、名掛丁、二十人町など)では、金銀の短冊、くす玉、吹き流しなど伝統の仙台七夕を飾りを掲げて歓迎した。」(「仙台市史 続編第1巻」P92~93)
・ 「当時市には特別な予算があるわけではなく、それに予算があっても、買うべき紙や竹がなかった時代、すべて製作者が自分で工夫し、やりくりするほかはなかった。8月6日午前10時頃、天気はやや曇り。お召し自動車は一本杉の伊達邸を出て、荒町にさしかかると、一軒のこらずといっていいほど七夕飾りが立ち並び、集団のみごとさは感嘆のことばを禁じえないほどだった。」(「仙台市史 続編第2巻」P180)
* 1952年(S27)10月、国民体育大会(宮城、福島、山形が会場)で各会場を回られる
* 1965年(S30)4月5日、植樹祭で来県(翌日、大衡村で植樹祭)
* 1963年(S38)5月18日、両陛下、青森県下の植樹祭行幸啓の際、仙台市に立ち寄られる
****** 以上、昭和40年まで ******
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「仙台市史10 年表」P316/「仙台市史 年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P520、P559、P577、P608 /「仙台年表」P217、P234/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P92~93/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P180
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<昭和22年行幸>
「目で見る仙台の歴史」P186(S22年、訪問先の光ヶ丘天使園、東北大金属材料研究所での陛下)/S22年七夕飾りの街をゆく陛下の車(27-01、53-08、「市民の戦後史(仙台市)」P35、「新・目で見る仙台の歴史」P174)
<昭和30年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P89(S30年4月、県庁バルコニーから歓迎で集まった人々に手を振る天皇ご夫妻)
<昭和38年行幸>
「市民の戦後史(仙台市)」P149(S38年、青葉城址から復興の仙台をご覧になる昭和天皇ご夫妻)
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大橋(広瀬川) |
洪水で木橋が流失 |
1874年(M7)/1889年(M22) |
* 1874年(M7)7月20日、大雨で広瀬川が氾濫し、大橋が流失
* 1889年(M22)9月11日、暴風雨あり大洪水となり、大橋・澱橋・広瀬橋などが流失
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「仙台市史 年表」P81、P87/「仙台あのころこのころ八十八年」P238/「重訂 宮城県郷土史年表」P284
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大橋(広瀬川) |
鉄橋架橋 |
1892年(M25) |
* 1892年(M25)8月24日、大橋の鉄橋竣工す(「仙台城」P233)
* 1892年(M25)8月、木橋流失後に第二師団の強い要請で鉄橋に架け替え(M23年9月起工、ハウトラス式鉄橋)
「仙台はじめて物語」P289では、鉄材ベルギー製の鉄橋完成、1895年(M28)8月24日と記載
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P233/「重訂 宮城県郷土史年表」P292/「仙台年表」P167/「仙台あのころこのころ八十八年」P239/「宮城県の百年」 P11/「新・目で見る仙台の歴史」P134/「仙台市史 年表」P88
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鉄橋は、99-102、99-103、44-23、99-104、99-105、64-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図56
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大橋(広瀬川) |
コンクリート橋開通 |
1938年(S13) |
* 1938年(S13)9月22日、落成式
鉄橋の腐食がすすみ、コンクリート橋(和風の勾欄・灯籠)に架け替えられた / 橋長113.2m、橋幅10m
・戦後、川内地区に進駐軍の司令部がおかれ、橋と大手門の間に歩哨が立っていて、川内地区に自由に入れない時期があった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234/「仙台年表」P208/「仙台市史10」年表P294/「仙台あのころこのころ八十八年」P248/「仙台大橋の変遷」(山本晃 著)/写真99-106の説明文/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P411
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コンクリート橋は、53-102、53-101、99-106、99-107、06-04、08-03、34-30、53-36、53-37、53-106/「目で見る仙台の歴史」P167/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図57(H8年カラー)
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大日本連合婦人会 |
結成 |
1931年(S6) |
* 1931年(S6)、文部省系の大日本連合婦人会、結成
* 1931年(S6)2月7日、宮城県連合婦人会、結成
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 年表」P105/「仙台年表」P202(出典:毎日新聞)
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大日本婦人会 |
発足 |
1942年(S17)2月2日 |
「愛国婦人会」と「大日本国防婦人会」「大日本連合婦人会」がS17年に全国的に統合されて「大日本婦人会」になった
* 1942年(S17)4月28日、大日本婦人会仙台支部結成(東二番丁国民学校講堂で結成式、仙台連隊区司令官、仙台師団長、仙台地方海軍人事部長などの軍関係者が祝辞、仙台師団兵務部長が銃後を守る「婦道」の精神発揚を講演)
* 1942年(S17)6月14日、大日本婦人会宮城県支部結成
* 1945年(S20)6月13日、大日本婦人会解散、同年3月に創設された国民義勇隊に、同年6月に大政翼賛会、大日本翼賛壮年団、大日本婦人会などが吸収・統合された
Wikipedia「国民義勇隊」(2018年)より
「国民義勇隊は、第二次大戦末期における日本の郷土防衛組織。 本土決戦に備えるもので、消火活動、食糧増産、疎開作業工事、軍需品輸送、陣地構築などの補助的な軍事活動にあたるものとされた」
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P489/「仙台年表」P212/「仙台市史 年表」P112/「日録20世紀 1945年」P16
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16-06/「新・目で見る仙台の歴史」P162(大日本婦人会のタスキ)
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大日本国防婦人会 |
設立 |
1934年(S9)12月 |
* 1934年(S9)12月13日、「大日本国防婦人会」設立
・ 満州事変勃発の翌年1932年(S7)3月18日に陸軍の後援で結成された大阪国防婦人会と、東京国防婦人会を母体として設立 / 満州事変、日中戦争、太平洋戦争期に「銃後」の戦争協力を担う(出征兵士の見送り、出征留守家族の支援、遺骨の出迎え、慰問袋調達と発送、防空演習など)
・ 活動時には、割烹着に(大日本国防婦人会○○分会と書かれた)たすきを掛けた
・ 全国に支部をもち、S16年(1941年)には会員は公称 1000万人に達した
・ 愛国婦人会は、上流の家庭婦人が会員、国防婦人会は庶民の主婦スタイルで地域女性を結集
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456
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大日本国防婦人会 |
仙台支部結成 |
1937年(S12) |
<銃後女性の組織化>
* 1935年(S10)頃から、国防婦人会分会が、多くは在郷軍人会仙台市分会の区域内の女性で組織された
・小学校女教員、市街自動車、女給矯風会員など職場ごとの分会もできた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)2月、大日本国防婦人会仙台支部結成、小学校通学区域ごとに分会が設置されている(「仙台市史 特別編4 市民生活」P456) / 青年団や青年訓練所とあわせ、戦勝祈願祭や出征兵士歓送迎などの動員を支える御三家が揃う(「仙台市史 特別編4 市民生活」P310)
* 1937年(S12)3月16日、大日本国防婦人会仙台支部結成(「仙台市史 年表」P109)
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P310、P456/「仙台市史 年表」P109
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P456(大日本国防婦人会の女性たち)
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(1) |
1940年(S15) |
* 1940年(S15)4月20日、紀元2600年奉祝、興亜時局博覧会開催(西公園、41日間、市商工会議所主催)/ 「同博覧会に37万人が入場」(佐々久「近代みやぎの歩み」P107)
* 1940年(S15)9月17日、仙台市会の五会派、新体制に添うため会派解消を申し合わせる
* 1940年(S15)9月18日、宮城県庁総務部に国民精神総動員課新設、11月19日に国民精神総動員課を廃して振興課を新設
* 1940年(S15)10月12日、大政翼賛会発会式、近衛首相臣道実践を力説
* 1940年(S15)10月13日、大政翼賛・三国同盟記念宮城県民大会(追廻練兵場)
* 1940年(S15)11月19日、東北帝大では新体制に即応し報国団結成
* 1940年(S15)11月23日、大日本産業報国会、創立
<産業報国会> 「国家総動員体制-翼賛体制のもとに、国民は居住地域での公会・隣組などに組織されたほか各職域を通じてそれぞれの「報国会」に組み入れられた。中でも従来、各事業場で自主的に組織されていた労働組合は官民一体の「産業報国会」(総裁は厚生大臣)に吸収された(昭和15年11月)」(「仙台市史 続編第1巻」P42)
* 1940年(S15)11月26日、仙台市の公会は18区、341公会成立し、各公会は直ちに隣組を結成す
* 1940年(S15)12月23日、大政翼賛会宮城支部結成式(県会議事堂)
* 1941年(S16)1月、大政翼賛会仙台支部結成(支部長は渋谷徳三郎仙台市長)(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
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佐々久「近代みやぎの歩み」P107/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17/「重訂 宮城県郷土史年表」P474、P477、P479~480/「仙台市史10 年表」P298~300/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(2) |
1941年(S16) |
<商人・自営業者などの転・廃業> 「産業、経済の戦時再編成に伴い、配給以外の品物しか取り扱うことができなくなった商人をはじめ軍需関係以外の自営業者(中小企業)、職人、官公吏、会社員などは余剰労力とみなされ、これを国策産業へ動員するため“職域奉公の臣道を実践する国策戦士”とおだてられて転・廃業をしいられ、やがて軍需工場、あるいは鉱山へ、はては遠く満州へ農業開拓戦士(→ 参考:項目「満蒙開拓」)として送り込まれていった。」(「仙台市史 続編第1巻」P42~43)
* 1941年(S16)1月24日、大政翼賛会仙台市支部結成
* 1941年(S16)4月20日、逓信報国団仙台支部結成
* 1941年(S16)4月22日、大日本産業報国会仙台地方鉱山部会設立
* 1941年(S16)5月11日、仙台鉄道局奉公会結成
* 1941年(S16)5月26日、宮城県産業報国会創立
* 1941年(S16)7月19日、仙台市内単位商業報国会結成、市商業報国連合会(会長は市長)結成
<商業報国会> 「なかでも、戦前は城下町で繁栄した商家の多くの人々は、座して自滅を待つより新体制の公益機関に奉公すべきであると勧められ、従来の商業組合を中心に仙台市内で60余の商業報国会を結成した。市連合会も結成され、新商業道の確立をめざして“商業報国の赤誠”を発揮することを宣言、店員の錬成道場などを開催するかたわら勤労奉仕にも繰り出したが、戦争が激化するにつれ、これら余剰労力はどしどし軍需工場はおろか常磐炭鉱などへツルハシ戦士として送り込まれた」(「仙台市史 続編第1巻」P43)
* 1941年(S16)12月27日、宮城・福島昭徳会、思想国防報国団結成
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「仙台市史10 年表」P301、P303/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P42~43
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大政翼賛会/新体制/公会/報国会 |
宮城県内の動き(3) |
1942年(S17)以降 |
* 1942年(S17)2月8日、仙台市翼賛壮年団結成
* 1942年(S17)3月24日、翼賛政治体制協議会宮城県支部発会式
* 1944年(S19)1月18日、翼賛政治会、国民決戦生活要綱決定
* 1944年(S19)2月25日、東条内閣、決戦非常措置要綱決定(生徒学生1年間勤労動員、校舎軍需工場化、女子勤労動員、疎開促進、高級料飲店等禁止と施設転用、旅行徹底制限、官庁平時事務1年間停止、官庁休日の縮減など15項目)
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「仙台市史 年表」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P488/「仙台市史10 年表」P307/日本近現代史辞典(東洋経済新報社)P177『決戦非常措置要綱』
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大手門 |
国宝指定/焼失 |
1931年(S6)/1945年(S20) |
・ 豊臣秀吉が朝鮮役で肥前名護屋に陣営を築いた時の城門を、政宗が拝領して仙台に移築したものと伝えられる
・ 仙台城(青葉城)の「大手門」で、西公園側から大橋の先に見えたが仙台空襲で脇にあった隅櫓とともに焼失した/(写真に大橋が写れば、S20年7月以前の撮影)
・ 菊花桐葉の金紋は後水尾天皇から賜ったもの(「仙台の産業と観光 1936年刊」P53、P61)
* 1871年(M4)以降、仙台城二の丸跡に東北鎮台(M6年仙台鎮台、M21年に第二師団と改称)がおかれ、大手門は明治期から師団司令部の正門だった
* 1889年(M22)、この頃、師団司令部の経理部が大手門を破壊せんとす / 師団長佐久間左馬太これを却け、大蔵省に修理予算を請求し、金具の鍍金(めっき)復元等により外観を一新す(「重訂 宮城県郷土史年表」P284)
* 1931年(S6)12月14日、「大手門」と脇にある「隅櫓」がともに旧国宝に指定される
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失(「隅櫓」も)
* 1949年(S24)10月13日、国宝指定解除
* 1967年(S42)、隅櫓のみ、民間の寄付により外観が再建された
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「目で見る仙台の歴史」P50/「重訂 宮城県郷土史年表」P284、P428 /「仙台城」(昭和42年 仙台市教育委員会発行)P234~P235/「仙台の産業と観光」P53、P61/「仙台年表」P201/「仙台市史10 年表」P322
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99-080、64-02など「写真データベース」分類D-12-01の写真全部/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P247に大手門正面(東面)詳細、南面/同P248に門扉詳細/「目で見る仙台の歴史」P50~51(大手門の正面と背面)
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大崎八幡宮 |
社殿落成 |
1604年(慶長9) |
<社殿落成年、資料により異なる>
* 伊達政宗が仙台開府の折、岩出山城から現在地に移し、1604年(慶長9)に社殿が落成(「宮城県百科事典」P115)
* 1604年(慶長9)9月、大崎八幡宮の造営に着手(「重訂 宮城県郷土史年表」P75)
* 1607年(慶長12年)8月12日、大崎八幡宮の造営なる(「仙台市史 年表」P25、「重訂 宮城県郷土史年表」P77)
* 1607年(慶長12)、藩祖政宗が創建(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125)
* 1903年(M36)4月15日、社殿が国の特別保護建造物に指定
* 1952年(S27)11月22日、本殿、石の間、拝殿が「文化財保護法」に基づく国宝に指定(文化庁、国指定文化財データベース) / 桃山時代の権現造の典型的な建築、入母屋造柿葺、内外とも漆塗り、胡粉彩色、彫刻、金具
* 1966年(S41)6月11日、長床(ながどこ)が国の重要文化財に指定(国指定文化財データベース)
* 1966年(S41)~1968年(S43)6月、修復工事、創建当時の華麗な姿を再現
* 1970年(S45)10月17日、石造の大鳥居、県の重要文化財に指定(亀岡八幡宮の石造大鳥居と鳥居額とともに)
* 1984年(S59)9月15日、神輿、20年振りに復活
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文化庁、国指定文化財データベース/「宮城県百科事典」P115 /「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P125、P214~215/「重訂 宮城県郷土史年表」P75、P77、P560、P664/「仙台市史 年表」P25、P92、P118/「仙台年表」P225/「続・ 宮城県郷土史年表」P181
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99-128、99-129/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P215の写真62(修復なった大崎八幡神社)/「目で見る仙台の歴史」P40~41(社殿、同千鳥破風鶴の彫刻)/同P190(どんと祭)/「新・目で見る仙台の歴史」P206(どんと祭、カラー)/「市民の戦後史(仙台市)」P217(修復がすんだ社殿)/同P225(1月14日のどんと祭)
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大学紛争 |
仙台(1) |
1968年(S43)~1969年(S44)前半 |
<1968年(S43)>
・ 1月22日、東北学院大学、授業料値上げをめぐり学生の反対運動
・ 2月8日、東北学院大学、新入生の学費値上げをめぐり大学内紛争、12日から期末試験を中止
・ 11月16日、東北大学、大学本部が学生によって封鎖
<1969年(S44)前半>
(1月19日、機動隊、東大安田講堂の封鎖解除、631人逮捕)
・ 5月23日、東北大学、大学立法に反対し、教養部で2週間スト
・ 6月2日、東北大学に学生により構内に引きずり込まれた私服警官を救出するため、機動隊出動して救出
・ 6月5日、東北大学、事務局封鎖解除をめぐり、学生同士が乱闘、二百数十人負傷
・ 6月25日、東北大学、反代々木系学生等、同大学理科実験棟を封鎖
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P49/「重訂 宮城県郷土史年表」P637、P638、P644、P649、P650/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、仙台市の中央通りに座り込む学生たち、大学講義棟封鎖)
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大学紛争 |
仙台(2) |
1969年(S44)後半 |
<1969年(S44)後半>
・ 7月1日、宮城教育大学、反代々木系学生が、同大学人文棟を封鎖
・ 7月7日、東北学院大学に機動隊出動し、封鎖中の押川記念館を解除
・ 9月18日、東北大学、教養部無期限スト、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 9月19日、宮城教育大学、反代々木系学生が講義棟封鎖、大学側は19日より前期試験を無期延期
・ 10月10日、「十月十日統一行動日」、仙台においてはじめてデモ隊が乗用車に放火、路上にバリケードを築き街頭闘争、学生9人逮捕
・ 10月16日、東北大学工学部管理棟、全共闘学生が封鎖
・ 10月19日、仙台市で、反代々木系学生宮城県反戦青年委員会のデモ、94人逮捕
・ 10月21日、国際反戦デー、東北は7万人参加、仙台では反代々木系学生74人逮捕
・ 10月29日、東北大文学部、教育学部を全共闘派封鎖
・ 11月14日、東北大学の臨時評議会において封鎖解除のため機動隊導入を決定
・ 11月22日、本川東北大学長、県警察本部に文書で学内封鎖解除のため機動隊導入を要請
・ 11月23日、宮城県警察機動隊、東北大学構内に出動、封鎖されていた教養部理科実験棟など5つの建物全部の封鎖を解除
・ 11月27日、東北大学、法・経・理の3学部授業再開
・ 12月1日、東北大学教養部ロックアウト解除、文学部・教育学部も授業再開
(12月17日、文部省、大学紛争白書を発表、紛争大学合計124校)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P650、P652、P653、P654、P655
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P539(S44年大学立法反対闘争、学生が大学講義棟を封鎖、
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大学紛争 |
仙台(3) |
1970年(S45)~1976年(S51) |
<1970年(S45)>
・ 3月9日、宮城教育大学、教授会で卒業式中止を決める
・ 3月30日、東北大学、臨時評議員会で、この年の入学式中止決定
・ 6月19日、仙台三高にゲバ装備の高校生十数人乱入、職員室や窓ガラスなどを破壊
<1972年(S47)>
・ 東北大学学費値上げに抗議した全学ストが長時間続き、2年生全体の3分の2にあたる1500名が新旧単位不足で留年
・ 6月12日、学生が東北大学教養部講義棟封鎖
<1976年(S51)>
・ 2月10日、東北大学教養部、紛争のため講義棟破壊
・ 3月25日、東北大学、卒業式で、演壇占拠事件
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「重訂 宮城県郷土史年表」P658/「続・ 宮城県郷土史年表」P11、P50、P52/「仙台市史 特別編4 市民生活」P538
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大学・短大 |
東北大学 |
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→項目「東北帝国大学」、項目「東北大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P532~534
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大学・短大 |
東北学院大学 |
1949年(S24) |
→ 項目「東北学院専門学校/東北学院大学」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537~538
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大学・短大 |
東北学院大学短期大学部 |
1950年(S25)~1960年(S35) |
* 1950年(S25)3月14日、東北学院大学短期大学部、南六軒丁に設置(1960年5月廃止)
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Wikipedia「東北学院大学短期大学部」
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