項目 |
小項目 |
年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
宮城県立青年の家 |
完成 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)3月1日、泉ヶ岳に完成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P647
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宮城県社会福祉事業会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月27日、落成式(外記丁北一番丁角)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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宮城県県民の森 |
開園 |
1969年(S44) |
* 1969年(S44)10月、開園 / 仙台市と泉町(当時)、利府町にまたがる
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「仙台市史 年表」P126
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宮城県町村会館 |
落成 |
1953年(S28) |
* 1953年(S28)10月26日、落成式(県庁構内外記丁側)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P569
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宮城県理科教育センター |
設置 |
1965年(S40) |
* 1965年(S40)8月10日、宮城県教育委員会が、向山に設置
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「仙台市史 年表」P124
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
概説 |
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<場所> 勾当台通に面し図書館の北隣
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)で、商品陳列所と工業試験場の位置が分かる
<名称変遷>
1901年(M34)、宮城県物産陳列場 →1921年(T10)、宮城県商品陳列所 →1935年(S10)、宮城県商工奨励館
<建物>
1901年(M34)建設 →1923年(T12)か1924年(T13)に改築
<工業試験場>
1924年(T13)か1925年(T14)に宮城県工業試験場を併設
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98-055(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
以下(1)(2)(3)の出典一覧 |
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出典一覧
イ 「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」(国立国会図書館蔵)
ロ 「重訂 宮城県郷土史年表」P323
ハ 七十七銀行「七十七年史」の年表
ニ 「古写真に見る仙台の建築」のP42の写真キャプション
ホ 「仙台市史 年表」
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(1)宮城県物産陳列場 |
1901年(M34)~1921(T10) |
<開設年>
* 1901年(M34)11月7日、宮城県物産陳列場が開場
・ イ →「物産陳列場は、M34年11月7日開場式、陸軍東北大演習御統監のため明治天皇来仙にあわせた」
・ ロ →「宮城県物産陳列場はM34年建設」
・ ハ →「M34年11月7日設置」
・ ホP91 →「M34年11月7日、宮城県物産陳列場、県庁南隣に新築開場」
<参考>
「近代日本〈陳列所〉研究」
(三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)(国立国会図書館蔵)には、
・ M25年~31年3月に芭蕉の辻商館3階におかれた「物産陳列場」
・ 勾当台の「物産陳列場」「商品陳列所」につき記述
(原典は仙台市史)
・ 各写真と「商品陳列所の平面図」あり
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」/ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P323 /ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)/ホ「仙台市史 年表」P91/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版 2015.2)
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改築前の「物産陳列場」は、99-090/ 「東宮行啓記念宮城県写真帖」1908年にもある
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(2)宮城県商品陳列所 |
1921年(T10)~1935年(S10) |
<名称の変更年>
* 1921年(T10)11月11日、宮城県物産陳列場を宮城県商品陳列所に改称
(編者注: 以下のハの改称年は間違い)
・イ →「物産陳列場をT10年11月に商品陳列所と改称、発明部と図案部を設置」
・ロ → 「T10年11月に宮城県商品陳列所と改称」
・ハ → 「T14年11月に商品陳列所に改称」
・ホP100 → 「T10年11月11日、宮城県物産陳列場、宮城県商品陳列所に改称」
<建物の改築年><工業試験場併設年>
* 1923年(T12)か1924年(T13)、商品陳列所の建物を改築
* 1924年(T13)か1925年(T14)、宮城県工業試験場を併設
・イ → 「建物はT11年改築開始し、構内に「県工業試験場」併設しT13年落成」
・ニ → 「T12年建築、宮城県物産陳列所、木造2階建」
(編者注:商品陳列所の間違いと思われる)
・ホP103 → 「T14年8月8日、宮城県商品陳列所に設置された宮城県工業試験場の落成披露式」
<位置図>
「写真98-055」(県庁構内と付近の建物配置図 昭和6年)
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イ、「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」
ロ、「重訂 宮城県郷土史年表」P382
ハ、七十七銀行「七十七年史」の年表(渋沢社史データベースで確認可)
ニ、「古写真に見る仙台の建築」のP42
ホ、「仙台市史 年表」P100、P103
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・「目で見る仙台の歴史」P139に、「県内初の自動車の背景に物産陳列所(明治末期)」
・改築後の建物は、
(1) 写真22-36
(2)「宮城県の百年」P36に、「宮城県図書館」と「改築後の物産陳列場」の写真
(3)「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42
(4)「宮城県商品陳列所年報 昭和3年度」
(5)「市民の戦後史(仙台市)」P20
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宮城県物産陳列場/商品陳列所 /商工奨励館 |
(3)宮城県商工奨励館 |
1935年(S10)~1941年(S16) |
<名称変更年>
* 1935年(S10)2月8日、宮城県商品陳列所を宮城県商工奨励館と改称(出典:「宮城県商工奨励館年報 昭和10年度」)
・イ →「昭和10年2月8日、宮城県商工奨励館と改称」
・その他の資料から
1) 宮城県商品陳列所があった位置に、昭和11年地図では「商工奨励館」がある
2)仙台市大観(東北産業協会 昭和10年4月印刷、5月発行)P5の市内官公衛一覧には「宮城県商品陳列所」
3)「仙台の産業と観光」(仙台市役所、昭和11年刊)P87の官公署其他の表に、宮城県商工奨励館(勾当台通)があり、商品陳列所がない
* 1941年(S16)2月、商工奨励館、物産陳列を廃止(「仙台市史10 年表」P300)
* 1944年(S19)12月10日、旧商工奨励館と日本発送電東北支店などが全焼(「仙台市史10 年表」P308)
<建物は>
・ 宮城県商品陳列所の建物を引継ぐ
「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)(国会図書館蔵)の記述「宮城県産業奨励館は県産品、発明品、参考品を多数陳列し、毎年観覧者12~13万人、東京、大阪に販売斡旋所を設置」 (編者注:商工奨励館の間違いと思われる)
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イ、「宮城県商工奨励館年報昭和10年度」(国会図書館蔵)/「躍進宮城第3輯(昭和12年、産業時報社)」(国会図書館蔵)/昭和11年の「仙台市地図」/「仙台市大観」P5/「仙台の産業と観光」P87/「仙台市史10 年表」P300、P308
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宮城県物産陳列場(芭蕉の辻) |
開設~廃止 |
1892年(M25)~1898年(M31) |
* 1892年(M25)11月27日、芭蕉の辻勧工場(芭蕉の辻商館)内に開設
(芭蕉の辻商館は、1891年(M24)9月19日開館~1900年(M33)4月10日焼失)
・1901年(M34)に勾当台通に開場した「宮城県物産陳列場」とは別
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「仙台市史 年表」P88/「近代日本〈陳列所〉研究」 (三宅拓也 著 思文閣出版, 2015.2)(国立国会図書館蔵)
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宮城県沖地震 |
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1978年(S53) |
* 1978年(S53)6月12日、宮城県沖地震 / 震源は仙台市の東方沖約100キロ、マグニチュード7.4、最大震度は仙台市などで5 / 特に仙台市内の被害が大きかった / 死者、仙台で13人 / (仙台市防災会議7月27日まとめ)住家全壊7000、半壊3400世帯
* 1978年(S53)7月13日、仙台市内のガス、31日ぶりに復旧完了(13万6128戸)
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「仙台市史 年表」P131/岩波ブックレット「年表 昭和史」P59/「続・ 宮城県郷土史年表」P82、P83
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「新・目で見る仙台の歴史」P189(1階が潰れたビル、倒壊したブロック塀、押しつぶされた乗用車、散乱した商品)
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宮城県民会館 |
開館 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月27日、定禅寺通櫓丁に落成開館(1700人収容) / 地下1階、地上6階、大ホール(固定席2000)、中ホール(270席)、集会室、会議室、娯楽室など
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P206の写真59/「市民の戦後史(仙台市)」P159
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宮城県武道館 |
設置 |
1981年(S56) |
* 1981年(S56)4月25日、宮城県武道館落成(宮城県第二総合運動場とともに根岸の宮城県農業学校跡地に設置)
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「仙台市史 年表」P132/「続・ 宮城県郷土史年表」P127
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宮城県旗の図案 |
選定 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、県旗図案を全国的に公募、みやぎの「み」を図案化した作品が当選
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626~627
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宮城県弘報誌「みやぎ」 |
第1号 |
1966年(S41) |
* 1966年(S41)7月15日、宮城県弘報機関誌「みやぎ」1号発行(月刊)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P626
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宮城県庁舎 |
養賢堂を使用 |
1871年(M4) |
養賢堂は、北一番丁・勾当台通りの一角にあった仙台藩の学問所
* 1871年(M4)7月14日、廃藩置県、仙台藩が廃止され、仙台県となる
* 1871年(M4)11月4日、仙台県庁を、養賢堂講堂に設置
* 1872年(M5)年1月8日、仙台県を宮城県と改称により、宮城県庁舎となる
* 1915年(T4)の県庁新庁舎建設以降も(県庁の一部として)使われた
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「宮城県の百年」(宮城県企画部編集)P5/「仙台市史 年表」P79/「重訂 宮城県郷土史年表」P237、P239
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98-053/「新・目で見る仙台の歴史」P121(高橋由一画)
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宮城県庁舎 |
大正の庁舎落成 |
1915年(T4) |
* 1915年(T4)9月、木造2階建の庁舎落成(県会議事堂跡)
(1931年(S6)の新庁舎完成まで使用されたあと、塩釜町役場に移築された)
* 1915年(T4)、県会議事堂を取り壊して、木造2階建ての県庁舎を新築(「新・目で見る仙台の歴史」P153)
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「新・目で見る仙台の歴史」P153/「宮城県の百年」P36、P37
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99-007、98-054/「新・目で見る仙台の歴史」P153
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宮城県庁舎 |
昭和の庁舎竣工(赤レンガ庁舎) |
1931年(S6) |
・ 「県庁舎・市庁舎の改築と東北産業博覧会開催は、第一次大戦後の恐慌の後遺症と関東大震災による慢性的不況のなかで、景気浮揚策の一環であった(「番丁詳伝」P123)
* 1929年(S4)6月27日、工事着手
* 1931年(S6)9月30日、県庁舎議事堂竣工
(鉄筋コンクリート造、一部鉄骨、地上4階地下1階)
* 1952年(S27)9月30日、東庁舎竣工(鉄筋コンクリート3階建、建坪684.0坪、延坪2432.63坪)
* 1952年(S27)12月10日、東庁舎落成式
* 1953年(S28)9月15日、宮城県印刷所を県庁構内北一番丁側に新設落成(鉄筋コンクリート2階建)
* 1986年(S61)~1987年(S62)、取り壊し
* 1986年(S61)8月9日、本庁舎改築に伴いお別れ参観デー
* 1986年(S61)8月11日、赤レンガ庁舎お別れ式、花時計も撤去
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「番丁詳伝」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P558、P561、P567/「古写真に見る仙台の建築(東北大学建築学報第34号)」P42/「続・ 宮城県郷土史年表」P209/
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99-008、99-009、18-05、53-16、22-37/「目で見る仙台の歴史」P162/東庁舎は、53-111
/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54~55(S37)/同P115(S61、さようなら県庁舎看板と正面玄関)
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宮城県庁舎 |
3代目庁舎(18階建) |
1989年(H1) |
* 1986年(S61)7月、着工
* 1989年(H1)5月、18階建の新庁舎竣工(正式名は宮城県行政庁舎)
* 1989年(H1)6月3日、庁舎開庁式
* 1989年(H1)6月26日、新庁舎で業務開始
* 1989年(H1)7月10日、県庁と各地方事務所に「みやぎ目安箱」設置
* 1989年(H1)9月19日、県庁で、第1回県民ロビーコンサート開催
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Wikipedia「宮城県庁舎」/「続・ 宮城県郷土史年表」P260、P261、P262
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宮城県図書館(戦後) |
戦後再建 |
1949年(S24) |
<宮城県図書館 再建>
* 1949年(S24)11月3日、空襲で焼失した宮城県図書館(大正元年建築)の後継として再建された「宮城県図書館」落成式(木造2階建て、宮城県庁の西隣、旧養賢堂跡)(「仙台市史 年表」P116)
<上記と名称、時期など一致しないが、「宮城県中央図書館」とした記述もあり>
* 1948年(S23)5月1日、「宮城県中央図書館」に、フィルム・ライブラリーを併置(「重訂 宮城県郷土史年表」P526)
* 1949年(S24)2月5日、「宮城県図書館」開館/旧伊達氏所蔵の文書・書籍(いわゆる「伊達文庫」)を収める(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261)
* 1949年(S24)2月10日、「宮城県中央図書館」復興し閲覧を開始(「仙台市史10 年表」P320、「重訂 宮城県郷土史年表」P533)
* 1949年(S24)10月、宮城県中央図書館を旧養賢堂講堂跡に復興新築、12月下旬に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P537)
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「仙台市史 年表」P116/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年版)
「宮城県中央図書館」と表記は、「重訂 宮城県郷土史年表」P526、P533、P537/「仙台市史10 年表」P320/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P261
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07-01-01、22-37、53-16/「目で見る仙台の歴史」P194/「市民の戦後史(仙台市)」P41/「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(図13)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P54(S37、左端の2階建て、カラー)
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宮城県図書館(戦後) |
榴ヶ岡へ移転/泉区へ移転 |
1968年(S43)/1998年(H10) |
<榴ヶ岡へ>
* 1968年(S43)1月17日(18日?)、榴ケ岡に新築移転し開館
<泉区柴山へ>
* 1998年(H10)3月21日、泉区芝山に新築移転し、開館
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「重訂 宮城県郷土史年表」P637/「市民の戦後史(仙台市)」P208
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「市民の戦後史(仙台市)」P208(榴ヶ岡の宮城県図書館外観、閲覧室)
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宮城県図書館(戦前) |
宮城書籍館/宮城県立図書館/勾当台へ/宮城県図書館(戦前)/空襲焼失 |
1881年(M14)/1907年(M40)/1912年(T1)/1919年(T8)/1945年(S20) |
<宮城書籍館/宮城県立図書館>
* 1881年(M14)7月25日、「宮城書籍館(しょじゃくかん)」が県立宮城師範学校図書庫に開館
* 1892年(M25)12月、宮城書籍館を師範学校の旧校舎に修繕を加えて移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P293)
* 1907年(M40)4月1日、「宮城書籍館」が、「宮城県立図書館」と改称
<勾当台へ移転>
* 1912年(T1)11月、「宮城県立図書館」が斎藤善右衛門の寄付により勾当台(現在の勾当台公園の南西角)に建てられ、県立宮城師範学校内から移転
<宮城県図書館>
* 1919年(T8)11月、「宮城県立図書館」を「宮城県図書館」に改称
* 1937年(S12)11月3日、図書館前に二宮尊徳像(除幕式)
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P262、P293/「仙台市史 年表」P84、P94、P96/「宮城県の百年」P37/仙台市史10 年表」P291/Wikipedia「宮城県図書館」(2018年現在)
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99-091と「仙台市史 特別編4 市民生活」P139は宮城県立図書館/22-36は宮城県図書館/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城県図書館」
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宮城県会議事堂(明治時代) |
完成 |
1882年(M15) |
* 1879年(M12)、宮城県会始まる(宮城師範学校を使用)
* 1882年(M15)3月22日、勾当台通表小路に完成/市役所の向いにあった
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「新・目で見る仙台の歴史」P123/「仙台市史 年表」P84
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「目で見る仙台の歴史」(S34年刊)P116(議事堂外観)/「新・目で見る仙台の歴史」P123/「いつか見た街・人・暮らし」P20(宮城県会、議事堂議場、大正13年)
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宮城県スポーツセンター |
開館 |
1964年(S39) |
* 1964年(S39)8月18日、仙台市川内(青葉山公園内)に建設落成し開館(1万人収容、東北一の規模) / こけら落としは、世界一の女子バレーボールチーム日紡貝塚とヤシカの模範試合、東京オリンピック体操選手一行の演技
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「仙台市史 年表」P123/「重訂 宮城県郷土史年表」P615/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P205
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「市民の戦後史(仙台市)」P159(建物と落成記念式典アーチ)
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宮城教育大学 |
開校 |
1965年(S40)~ |
東北大学教育学部教員養成課程を分離し、国立の宮城教育大学を設立
* 1965年(S40)4月1日、国立宮城教育大学開校(東北大学富沢分校が仮校舎)、4月30日、東北大学川内記念講堂で入学式 / 小学校教員、中学校教員、盲学校教員各養成課程、および附属理科教育研究施設生物部門を設置
~ 以下、大学および大学院の各専攻科、各教員養成課程、付属研究センター、研究機構等の設置、名称変更、廃止などは、「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」参照~
* 1966年(S41)10月8日、宮城教育大学、青葉山裏久保田山に建設することが決定
* 1967年(S42)4月、 北七番丁の東北大学教育学部附属小学校、附属中学校及び附属幼稚園を、宮城教育大学に移管 / 同年6月、附属養護学校(小学部及び中学部)設置
* 1968年(S43)4月1日、仮校舎(太白区富沢字金山)から、荒巻字青葉久保田山に新築移転
* 1968年(S43)10月18日、全校舎等竣工落成
* 1969年(S44)、附属養護学校高等部増設
* 1971年(S46)、附属養護学校(仙台市青葉区上杉六丁目)を青葉区荒巻字青葉在地に移転
* 1988年(S63)、大学院教育学研究科(修士課程)設置 / 4月21日、大学院、初の入学式
* 1991年(H3)、情報処理センター設置
* 2000年(H12)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース設置
* 2004年(H16)、国立大学法人法により国立大学法人宮城教育大学発足
* 2005年(H17)、附属学校部設置
* 2007年(H19)、附属養護学校を附属特別支援学校に名称変更
* 2008年(H20)、大学院教育学研究科専門職学位課程高度教職実践専攻(教職大学院)設置
* 2010年(H22)、大学院教育学研究科(修士課程)夜間主コース廃止
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「国立大学法人宮城教育大学」HPの「沿革欄」/「仙台市史 年表」P124、P125/「重訂 宮城県郷土史年表」P628、P631、P639、P643/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P338~339、P535~536
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P535/「新・目で見る仙台の歴史」P142
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宮城控訴院(赤タイル庁舎) |
落成/解体 |
1924年(T13)/1975年(S50) |
控訴院は、大審院の下級、地方裁判所の上級におかれた裁判所
・ 1886年(M19)から1947年(S22)までの名称
・ 戦後の高等裁判所に相当する
* 1879年(M12)、宮城上等裁判所(宮城控訴院の前身)の庁舎(ルネッサンス式、漆喰塗)が片平丁に完成 / 宮城控訴院は、発足時(M19年)にその庁舎を引き継ぐ
<赤タイル張り庁舎落成>
* 1924年(T13)11月16日、宮城控訴院新館落成式、場所は仙台市片平(建物は、秋保石積赤タイル張り洋館3階建て)
* 1924年(T13)11月16日、仙台市片平に新館が完成し落成式 / 建物は、秋保石積赤タイル張り洋館 →「写真13-01」
<同庁舎、解体>
* 1975年(S50)9月5日、庁舎(大正13年建築の赤タイル張り洋館)解体開始(「続・宮城県郷土史年表」P44)
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「仙台地方検察庁HP」(2015.7)の歴史年表を基本に以下の年表で補足/「宮城県百科事典」P1002/「重訂 宮城県郷土史年表」P391、P394/「仙台市史10 年表」P316/「続・ 宮城県郷土史年表」P44、P74/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P807
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「秋保石積赤タイル張り洋館」(T13年建設)は、13-01、13-02,、13-03/「新・目で見る仙台の歴史」P122(宮城上等裁判所)/「目で見る仙台の歴史」P150に、「宮城控訴院」(赤色タイル張り洋館)
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宮城学院 |
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1886年(M19)~ |
* 1886年(M19)9月18日、押川方義とアメリカ改革派教会のエリザベス・R・プールボーら、宮城女学校を東二番丁に開校
<年表詳細は、以下の小項目を参照>
・ 大項目「高等学校(新制)」の以下の小項目
「宮城学院高等学校(前史)」「宮城学院高等学校(戦後)」
・ 大項目「大学・短大」の以下の小項目
「宮城学院女子大学・短期大学(前史)」「宮城学院女子大学」「宮城学院女子短期大学」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P126(宮城女学校校舎)/「いつか見た街・人・暮らし」P12(T13.5.23、宮城女学校運動会)
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宮城婦人会 |
発会 |
1899年(M32) |
* 1899年(M32)2月12日、宮城婦人会、日本赤十字社宮城支部で発会式
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「仙台市史 年表」P90
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宮城交通 |
発足 |
1970年(S45) |
<前史>
* 1962年(S37)4月17日、塩釜交通・古川交通・仙台鉄道各社が合併し、宮城バス株式会社を設立(「仙台市史 年表」P122、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P603)
* 1964年(S39)4月14日、仙北鉄道株式会社、宮城バス株式会社と合併(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603に詳細記述あり)
* 1968年(S43)3月24日、仙北鉄道登米線を廃止(50年の歴史に終止符)
* 1970年(S45)5月28日、宮城バス・宮城中央バス・仙南交通の私鉄3社、株主総会で合併を決定(「重訂 宮城県郷土史年表」P661)
<発足以降>
* 1970年(S45)10月、仙南交通・宮城バス・宮城中央交通が合併した宮城交通株式会社、営業運転開始(「仙台市史 年表」P127)
* 1979年(S54)1月20日、デマンド・バス運行
* 1983年(S58)6月16日、北仙台~青根温泉など長距離運行廃止
* 1984年(S59)1月15日、市営バスと宮城交通バスの共通乗車券発売開始
* 1985年(S60)10月16日、築館~仙台間に高速特急バス運行
* 1986年(S61)12月27日、東北運輸局が、仙台市交通局(市営バス)と宮城交通バスの、泉市加茂・泉パークタウン・名取市閖上へ共同乗り入れを発表
* 1988年(S63)4月12日、4年ぶりに終日バス運行
<運賃>
* 1975年(S50)12月13日、最低料金50円に改訂
* 1977年(S52)10月11日、仙台市営バス・宮城交通は、値上げ(均一区間、70円から80円へ)
* 1977年(S52)12月1日、値上げ(塩釜~利府が220円)
<ストライキ>
* 1979年(S54)12月20日、48時間スト
* 1984年(S59)4月13日、宮城交通労組が24時間スト
* 1984年(S59)4月17日、スト
<仙台関連の交通史略年表(明治10年~平成4年)> →「仙台市史 特別編4 市民生活」P205に、乗合馬車・宮城木道社・舟運・バス・バス専用レーン・鉄道・市電・新幹線・地下鉄・空港・トラックターミナル・バイパス道路・自動車道の年表
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「仙台市史 年表」P122、P127/「重訂 宮城県郷土史年表」P638、P661、P666/「続・ 宮城県郷土史年表」P48、P73、P74、P92、P105、P163、P172、P175、P195、P215、P243/宮城バスについては、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P602~603/「仙台市史 特別編4 市民生活」P204、P205
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宮城の塔(沖縄) |
落成式 |
1968年(S43) |
<「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP(2020年10月現在)」より抜粋>
《合祀戦没者》 今次大戦において海外で戦没した宮城県出身の勇士45,500余柱の霊をこの塔にお祀りしたものであります。なお、沖縄方面で戦没した宮城県出身者は582名であります。
《塔の由来》 碑文の建立に当たっては、戦没者の故郷宮城県阿武隅川のほとりから 石を選び、「宮城之塔」と名付けて石へ刻み、戦没者の追悼の誠を捧げるに、世界の恒久平和を祈念したものである。
《塔の位置》 東経127度北緯25度沖縄本島最南端糸満市摩文仁の丘、太平洋に面し、塔の向きは南南東に向いている。
* 1967年(S42)9月11日、沖縄に「宮城の塔」建設決定
* 1968年(S43)2月20日、「宮城の塔」完成し、現地で落成式
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「公益財団法人沖縄県平和祈念財団」HP/「重訂 宮城県郷土史年表」P634、P638
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「市民の戦後史(仙台市)」P210
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実業補習学校 |
仙台補習学校 |
1915年(T4) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451>
1893年(M26)から、小学校のみの義務教育を終えるが、あるいはしばしばそれも家庭の事情によって満足に履修できず、社会に出ることが多かった青年たちに、国家の富国強兵の方針に応じて職業教育や一般補習教育を施す必要が唱えられ、実業補習学校の制度が実現した。農村ではかなりの普及をみたが、仙台補習学校が発足するのは遅れて1915年(T4)のことである。
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P450~451
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定禅寺通り |
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戦後、戦災復興事業で勾当台公園角~西公園通り間が幅46mに拡幅され、中央分離帯(12m幅)には、欅を2列に植え、その間に遊歩道をもうけた街路公園として整備された。青葉通りとならび杜の都仙台を代表する街路となった
* 1957年(S32)から、西公園までの480mに計158本の欅を植樹
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「仙台市史 続編1」P462
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定禅寺通り |
戦後の拡幅工事完了 |
1967年(S42) |
* 1894年(M27)7月15日、仙台市会、市内の新道の名称を決議(定禅寺通、新常盤丁、桜小路など)
* 1954年(S29)4月、定禅寺通り、広瀬通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
* 1967年(S42)1月25日、定禅寺通り・広瀬通りとも全線開通
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「仙台市史 年表」P88/「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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定禅寺通り |
ケヤキ植樹 |
1958年(S33) |
<グリーンベルトの樹種決定まで>(「戦争のころ 仙台、宮城」P254~255)
・ 両側歩道にはケヤキを植樹したが、中央分離帯(幅12mのグリーンベルト)の樹種は、高橋陣也市助役と鈴木光三公園課長の意見が相違
・ 助役は、サルスベリかモミジを指示、課長は「大きい街路樹によって勾当台公園と西公園を結ぶ緑のトンネル」にしたい
・ 岡崎市長時代には結論が出ず、次の島野市長時代にケヤキと決まった
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1958年(S33)に初当選した島野市長の「西公園と勾当台公園を結ぶ大樹林帯にしよう」という意向で、定禅寺通りにケヤキ植樹
* 1958年(S33)、ケヤキ植樹を開始(中央分離帯に76本、歩道を含めて計157本)
* 1958年(S33)末までに植え終わる
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P254~255/「仙台市史 年表」P120/「戦災復興余話」P87
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22-06/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P14(S29~33年頃)/「目で見る仙台の歴史」P188(中央分離帯に植木植樹したばかりの頃)
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定禅寺通り |
彫刻のあるまちづくり |
1979年(S54)~ |
<「仙台市彫刻のあるまちづくり」事業で、中央分離帯(定禅寺通緑地)に彫刻配置>
* 1979年(S54)10月3日、イタリアのエミリオ・グレコ作、踊り子像「夏の想い出」除幕(第1期作品のひとつ)
* 1982年(S57)9月22日、イタリア彫刻家ブェナンツォ・クロツェッティー作「水浴の女」、除幕
* 1986年(S61)10月17日、マンズー作、彫刻「オデュッセウス」除幕
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「続・ 宮城県郷土史年表」P102、P151、P224
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安保反対闘争(1970年) |
70年安保闘争・仙台の動き |
1970年(S45) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対運動」より転記>
* 1970年(S45)6月23日、安保破棄県民集会(仙台市錦町公園)、社会・共産両党、労働組合、学生など125団体1万1000人参加 / 安保破棄を目指す宮城県学生総決起集会(東北大学構内)には在仙台各大学の学生3000人が集会・デモ行進後、県民集会に合流 / 6・23仙台学労総決起集会(全共闘系、仙台ベ平、反戦青年委員会など2800人)
・このほか、大学のストや討論集会も盛ん
・6月23日、安保条約は自動延長となる
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P541
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・仙台の動き |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P540「安保反対闘争」より転記>
* 1959年(S34)3月、安保改定阻止国民会議結成
* 1959年(S34)4月、第1次全国統一行動 / 翌年10月まで23回にわたる統一行動
宮城県、仙台市での日米安全保障条約改定反対闘争
・ 宮城県安保廃棄、改定阻止県民会議結成
* 1959年(S34)11月27日の第8次全国統一行動では、宮城県庁前広場大集会とデモ行進
* 1960年(S35)4月23日、東北大学川内と東分校両自治会が、安保問題討論集会(800人規模)、400人の学生が仙台市内で反対署名運動
* 1960年(S35)5月16日、仙台で、衆議院安保問題特別委員会の公聴会 / 県庁前で安保阻止県民会議(労組員、学生ら4000人集会)、安保条約批准反対の請願署名
* 1960年(S35)5月19日、20日未明、衆議院で強行採決
・ 翌20日から強い反対運動展開、宮城県民会議では、国会解散と岸内閣打倒を重点に、総決起大会(6000人)とデモ行進 / 各労働組合が職場集会、東北大学生総決起集会(1500人)とジグザクデモ
* 1960年(S35)6月4日、第17次統一行動 / 「安保条約阻止、岸内閣打倒、国会即時解散県民会議」総決起集会(政党・労組・仙台商工業者連合会・婦人団体・文化団体など1万5000人参加)/仙台市役所前で、安保婦人抗議集会(安保反対婦人協議会)/東北大学では、学生デモと有志教官団(250名)デモが大学本部から県庁前広場まで行進
* 1960年(S35)6月11日、第18次統一行動では、地区ごとの労組や婦人団体による抗議集会後に、県庁前広場に89団体、6500人
* 1960年(S35)6月17日、樺美智子さん県民追悼集会と追悼行進 / 6月18日、「安保批准阻止、岸内閣打倒、国会解散要求県民集会」、東北大学教養部ではストが続き、片平丁本部の学生も授業放棄して集会とデモ、一部学生が自民党県連事務所前に座り込み / 宮城学院女子大・短大有志が県民集会に参加
* 1960年(S35)6月19日、国会で自然承認され、23日に批准書交換 / 7月15日、岸内閣退陣
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P540~541
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P537(S35年、60年安保闘争で広瀬通りをゆくデモ隊、宮城県庁前での統一スト)/同541(安保反対を訴えるマッチラベル)
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安保反対闘争(1960年) |
60年安保闘争・学生たちの抗議 |
1960年(S35) |
<「仙台市史 特別編4 市民生活」の「学生運動と仙台」P536より転記>
「1960年(S35)の日米安全保障条約改定反対闘争(安保闘争)では、学生が労働者や市民と広く合流して運動を盛り上げた。特に自民党による国会での強行採決に対する抗議行動には、立場の違いを超えて多くの学生が参加した。仙台では、学生ともに東北大学の教官が抗議デモに参加したことでも注目された。6月15日の国会周辺デモ隊と警官隊との衝突で女子学生樺美智子さんが死亡した事件への抗議デモでは、青葉通りに3000名の学生が集まった。」
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P536
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宅地造成ブーム |
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1960年(S35)頃~ |
「昭和35年頃から始まった(仙台の)宅地造成ブームは、この頃(昭和40年代)頂点に達し、仙台市北部や南西部一帯の一帯の丘陵地帯は、緑をはぎ取られ、瞬く間に住宅地に化けていった。これは、仙台の膨張を如実に示すものだが、一方、無計画な宅地造成や粗悪な住宅地、杜の都の破壊、上下水道の問題など大きな都市問題となりつつあり、発展期にある仙台にとって、「住」の解決が最大の課題となっている。」(昭和44年発行の「市民の戦後史(仙台市)」P190)
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「市民の戦後史(仙台市)」P190
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「市民の戦後史(仙台市)」P190~191(八木山地区、旭ヶ丘地区、南光台地区、北部丘陵地帯に広がる住宅団地群、危険な石垣、がけの上の家)
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学童疎開 |
県内割り当て |
1944年(S19) |
* 1943年(S18)12月10日、文部省、学童の縁故疎開促進を発表
* 1944年(S19)6月30日、学童疎開促進要綱、閣議決定(国民学校初等科児童の集団疎開) 7月下旬~9月上旬で全国46万人が集団疎開
******************************
<「仙台市史 続編第1巻」P41、P53>
* 1944年(S19)7月、東京の学童1万5000人の集団疎開、宮城県に割当(遠刈田、鳴子などの温泉や松島の旅館などに収容)(P41) / 同書P53では、東京から宮城県内への学童集団疎開数は1万1500人
<「重訂 宮城県郷土史年表」P502>
* 1944年(S19)8月10日、東京方面からの疎開児童1万1115人が宮城県に割りてられる
<「ものがたり東北本線史」P531~532>
宮城県内へは、東京都浅草区、小石川区、杉並区の児童が、秋保、白石、小原、鎌先、鳴子、川渡、松島、古川などへ疎開
<「目で見る仙台の歴史」P169>
* 1944年(S19)8月11日~17日、第1陣(浅草、小石川の学童)、付き添い含め1万1800余名、県内各温泉や松島へ
* 1944年(S19)8月下旬中心に、第2陣(杉並区の学童)
<「戦争のころ 仙台、宮城」P144~150>
* 1944年(S19)夏~秋にかけ、東京都(小石川区と浅草区)の26の国民学校生(3~6年生)が学校ぐるみで1万7535人、教職員1196人、計1万8731人が宮城県内に学童集団疎開(東京都編「資料・東京都の学童疎開」))
・ 宮城県の資料では、1万5471人
・ 疎開先は、県内30市町村、戦争が終わるまでほぼ1年間、温泉地や観光旅館、寺院、民家などで過ごす
・ 1994年(S19)8月4日~9月24日、臨時列車で13時間かけて到着
・ 第1次分 小石川区学童6700人が鳴子温泉と松島町、浅草区学童6700人は遠刈田、川渡、小原,鎌先、作並の各温泉と松島町
・ 1994年(S19)暮れまでには、杉並区の学童(11国民学校)が高舘村、松山、若柳、吉岡、角田、涌谷、金成、築館、登米、米谷、佐沼の各町へ、浅草区の学童(3国民学校)が秋保温泉へ、東京第一師範付属が中新田町へ疎開
・ 翌年3月、6年生が卒業して帰京すると、4月から新3年生が到着
・ 疎開先での生活の記述あり(日課、食糧事情、親の面会、寂しさからの脱走、地元の受け入れ、帰郷した6年生が空襲で犠牲など)
*********************************
* 1945年(S20)9月26日、疎開児童の復帰を指令、学徒隊を解体
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岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20、P21/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41、P53/「ものがたり東北本線史」P531~532/「重訂 宮城県郷土史年表」P502、P506/「NHK仙台放送局60年のあゆみ」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P144~150
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「目で見る仙台の歴史」P169に「学童疎開列車内風景」
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学童疎開 |
仙台の学童 |
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・ 仙台市の学校は、強制疎開の指定地ではなかったが、縁故疎開は着々と進められていた。
・ 宮城師範付属国民学校では、疎開できる縁故のない3年生以上の学童60余人を、仙台空襲のあとに加美郡宮崎村に疎開させた。借用予定だった宮崎国民学校が陸軍予備士官学校生徒に占領されたので、やむなく村内の洞雲寺と長泉院や付近の農家に収容した。
<「戦争のころ 仙台、宮城」P150)>
宮城県でただ1校、仙台空襲(S20年7月10日)の18日後に集団疎開
* 1945年(S20)7月28日、宮城師範男子部付属国民学校129人が、仙台軽便鉄道仙台駅から乗車、宮崎村(東町洞雲寺、柳町長泉寺と近所の農家)に疎開
・ 129人は、全校生の25%で、親が転勤族などで地元に縁故がない児童
・ 学校では、地元の婦人12人に炊事作業を頼み、寺にはトイレが増設された。風呂はそういうわけにはいかず、多くの子は近くを流れる田川に毎日のように泳ぎに行きました。
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P317/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P150
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学校教練 |
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⇒ 項目「軍事教練」参照
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学徒勤労動員 |
時代背景 |
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1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科以外の学校は授業停止となる
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(1)~動員日数の拡大~ |
1938年(S13)6月~1941年(S16)12月 |
* 1937年(S12)7月7日、盧溝橋事件を発端に、日中全面戦争に突入し、青年男子が大量出征
<中等学校生以上、夏休みなどに、3~5日間勤労動員>
* 1938年(S13)6月、文部省「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
・夏季休暇の始期終期その他適当な時期に、中等学校低学年は3日、その他は5日を標準に、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡単な作業を行う
<授業時間を割いて動員>
* 1939年(S14)3月、文部省指示「中等学校以上に対し、集団勤労作業の漸次恒久化」
・学校の休業時だけでなく随時行い正課に準じて扱う。主として、木炭増産,飼料資源の開発、食糧増産など
<年に30日以内、勤労動員>
* 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」
・年に30日以内は授業を廃し作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認める。
<学校報国隊結成>
* 1941年(S16)8月、文部省の指示で、全国の諸学校で「学校報国隊」が結成された
<大学・高等専門学校生、修業年限半年短縮>
* 1941年(S16)10月、大学・高等専門学校生の在学または修業年数が6か月短縮(軍要員と軍需生産要員の充足のため)
* 1941年(S16)12月8日、太平洋戦争へ突入
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(2)~さらに拡大し通年動員へ~ |
1943年(S18)10月/1944年(S19)4月 |
* 1943年(S18)6月、「学徒戦時動員体制確立要綱」(閣議決定)
・学校報国隊の戦技訓練・特技訓練・防空訓練の徹底、女子は戦時救護の訓練実施
<勤労動員は1年の3分の1へ>
* 1943年(S18)10月、「教育に関する戦時非常措置方策」により、学校修業年限の抑制、学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等を決定 / 勤労動員を在学期間中1年につき、概ね3分の1相当期間実施
* 1944年(S19)1月、「緊急学徒勤労動員方策要綱」決定
・動員期間は1年につき概ね4か月を標準とし、『継続して』行う」
<学徒の通年動員>
* 1944年(S19)2月25日、「決戦非常措置要綱」を閣議決定
・中等学校程度以上の学徒は、「今後1年、常時勤労その他非常勤務に必要に応じて動員」を決定
* 1944年(S19)3月、「決戦非常措置要綱に基づく学徒動員実施要項」を閣議決定
・1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導、教職員による勤務管理
* 1944年(S19)3月末、文部省、詳細な学校別動員基準を決定し指令 / 全国の学徒は、4月半ばごろから続々と軍需工場へ動員された
* 1944年(S19)5月、文部省が指示「勤務時間中に、軍事教育、教授訓育等のため、1週6時間を原則とする時間を設ける」
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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学徒勤労動員 |
文科省HPより(3)~動員範囲を低年齢へ拡大/卒業後も動員/授業停止し全面動員~ |
1944年(S19)7月/1945年(S20)3月 |
<国民学校高等科、中等学校低学年も動員>
* 1944年(S19)7月、文部省「学徒勤労の徹底強化に関する件」通牒
・ 「1)1週6時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合、中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校3年生の男子のみならず女子にも課する 5)出動後2か月たたない学徒にも深夜業を課する」などを指令
* 1944年(S19)8月、「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」が同日公布され、学徒動員の法令上の措置が決定
* 1944年(S19)11月、夜間学校の学徒や、弱体のため動員から除外されていた学徒の動員を指令
<卒業後も動員継続>
* 1944年(S19)12月、中等学校卒業者の勤労動員継続措置決定
・ 翌年3月卒業後も引き続き学徒勤労を継続させるため、中等学校に付設過程を設け、進学させる
<授業停止>
* 1945年(S20)3月、「決戦教育措置要綱」閣議決定
・ 「国民学校初等科を除き、学校における授業は昭和20年4月1日より、昭和21年1月31日まで原則として停止」
☆ 学徒動員による死亡者は、1万966人、傷病者は9789人
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文部科学省HP > 白書・統計・出版物 > 白書 > 学制百年史 > 三 戦時教育体制の進行の「学徒動員」をベースに記述した
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(鍋蓋代用品をつくる児童たち、昭和20年)
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学徒勤労動員 |
アウトラインと宮城県内の状況 |
1938年(S13)~1940年(S20) |
<「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314>
・ 労働力不足に対応するための中等学校生徒以上に対する集団勤労は昭和13年、文部省の「集団勤労作業に関する訓令」に始まるがこれが激しくなったのは昭和16年秋ごろから
・ 1941年(S16)2月、「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」により、「1年を通じて30日以内、授業を廃して増産運動に協力すること」を命じられる
・ 1943年(S18)10月、閣議決定「教育に関する戦時非常措置」により、「在学期間中1年につき3分の1に相当する部分が学徒動員にあてられる」 / この傾向はさらに強化されて、「工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」(昭和19年?)、「学徒勤労の徹底強化に関する件」(昭和19年7月)などにより、「国民学校高等科生徒の動員や、中等学校3年生以上の深夜労働が認められる」ようになる
・ 仙台市においても、昭和16~17年は主として近郊農家の田畑の除草、収穫の手伝いなどだったが、18年になると男子は開墾、湿田の暗渠排水、製炭作業のほかに、原町の陸軍造兵廠、玉浦飛行場(仙台空港の前身)などの整地作業が加えられ、女子は被服廠の縫製作業に動員され、農家の手伝いには低学年を動員
・ 昭和19年にはいると、上級学年は主として日立、川崎、逗子など県外の軍需工場に動員され、低学年生徒は市内の軍需品関連工場に動員されるという状態で、仙台貯金局に動員された仙台女子商業や宮城県第一高等女学校生徒はむしろ恵まれたものとして、うらやまれた。
<編者注>
(1) 上記「閣議決定」「要綱」などの年月は、編者が補足、ただし、工場事業場等への中等学校低学年生徒及び国民学校高等科児童の勤労動員に関する件」は年月不詳
(2) 仙台の中等学校等の勤労動員の具体例 → 当データベース<仙台よみとき用語年表>の項目「戦時下の学園」参照
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313~314
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P49~50に、昭和18年春と夏の農繁期に農作業支援で動員された学徒や職域の団体(報国隊)別の動員人数、学徒が動員された軍需工場名など記述あり
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(1) ~勤労奉仕を義務付け~ |
1938年(S13)開始~1943年(S18) |
<その他の文献、年表より>
* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒
→ この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付けられる
* 1939年(S14)12月、青年団、中学生の「炭焼勤労奉仕」を準正課へ(菅家年表)
* 1940年(S15)10月20日、東北帝大生、八木山で第一回炭焼勤労奉仕(「重訂 宮城県郷土史年表」P477)
* 1941年(S16)1月14日、農繁期の学徒動員が始まる(菅家年表)
* 1941年(S16)12月1日、国民勤労報国協力令施行
* 1942年(S17)1月9日、国民勤労報国施行規則による学徒出動命令
* 1943年(S18)6月25日、学徒戦時動員体制確立要綱決定
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「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P109/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台年表」P212/「仙台市史10 年表」P302、P303、P306、/「重訂 宮城県郷土史年表」P477、P486/「仙台年表」P10/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P15/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P23、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P313
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98-089
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学徒勤労動員 |
その他の文献、年表より(2) ~通年動員/授業停止~ |
1944年(S19)~1945年(S20) |
* 1944年(S19)1月、閣議決定「緊急学徒勤労要綱」で、勤労工場を特定し、循環的に動員して1年のうち3分の1の4か月を働かせる
* 1944年(S19)2月、「決戦非常措置要綱」
・ 中等学校以上の学徒はすべて1年間常時、勤労その他の非常任務に出動できる組織的体制に置き、理科系のものは専門に応じて軍需工場や病院などに動員
・ 学校校舎は必要に応じて軍事工場、軍用非常倉庫、非常病院、避難用住宅などに転用(旧制二高校舎正面2階が師団司令部に徴用、東北学院校舎の一部(高等部)が被服廠や海軍人事部に、東北学院中学部は出征部隊編成所のちには鉄道輸送部隊に接収、東北学院礼拝堂地下室(六軒丁)は特設非常電話局に(仙台空襲で仙台電話局焼失後)、尚絅女学校の地階と2階が陸軍糧秣廠に、宮城学院は日本電気の「学校工場」に転用された) (以上、「仙台市史 続編第1巻」P46)
* 1944年(S19)2月25日、文部省、食糧増産に学徒500万人動員を決定
* 1944年(S19)3月7日、閣議決定「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」で、学徒勤労動員通年実施、対象を国民学校高等科生、中等学校1~2年まで拡大
* 1944年(S19)4月17日、文部省に学徒動員本部設置
→ 4月から、中等学校以上の男女生徒を軍需工場、鉱山、農村などへ通年で強制動員開始
* 1944年(S19)5月16日、文部省、学校工場化実施要綱発表
* 1944年(S19)8月23日「学徒勤労令」「女子挺身隊勤労令」公布施行、これにより「学徒動員実施要綱」を法的追認
* 1944年(S19)11月16日、中学1、2年生と国民学校高等科1、2年生に勤労動員を発動(菅家年表)
* 1945年(S20)3月18日、「決戦教育措置要綱」により、学徒勤労総動員体制 → 国民学校初等科以外の生徒・学生の授業を停止
<戦後>
* 1945年(S20)8月16日、学徒動員解除
* 1945年(S20)10月11日、学徒勤労動員令廃止
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P46/「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269「学都の戦時体制」/「仙台市史 年表」P113/「Wikipedia「学徒勤労動員」などを参考にした/
「仙台市史10 年表」P308、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P486、P505/岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32
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16-72、16-73、16-74、41-03、41-02/「仙台市史 特別編4 市民生活」P444(S20年、鍋蓋代替品をつくる児童たち)
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