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関連映像 |
敗戦後の諸相・仙台 |
アルコール添加で三倍増醸 |
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<米不足で、酒造高も減>
・ 県酒造組合仙台支部では、1945年度(S20年度)5696石(1石=180リットル)、21年度4438石、22年度2585石
・ 政府、清酒をアルコール添加で増量する“三倍増醸”を認めたが、それでも酒造高は終戦前(S19年度)の半分以下で、時たまあった配給は1合か2合だった
<横行する密造酒>
・ 市内に流れた濁り酒は、市内小田原周辺や塩原の第三国人地域や、仙北地方の農村からが多かった
・ 仙台駅前のヤミ市で取引された、別名”白馬(ドブロク)”は、1升に米1升のバーター制、屋台の“仙台カストリ”(しょうちゅう)は1杯60円で、飛ぶように売れた
<連日報道されたメチル禍>
・ 薬店やヤミ商人から買ったメチルアルコールを飲んで、悶死や失明 / アルコールはかつての軍需物資がはっきりした表示がないままヤミに流れたもの
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P72~73
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敗戦後の諸相・仙台 |
食糧危機で転入抑制 |
1946年(S21)3月~11月 |
<仙台への転入者急増>
・ 市の人口、1946年(S21)4月末で25万3655人に対し、5月中の転入者が5699人/疎開先からの復帰のほか、東京・横浜など食糧事情の極度に悪い大都市からの“再疎開”も多かった
<都会地転入抑制緊急措置令を適用>
* 1946年(S21)3月~、東北地方ではただ1か所、仙台市内への転入抑制措置開始/復員・引揚者や復興工事労務者など特別な場合を除いて転入不可 / 9月末の解除予定が、食糧事情、住宅事情から11月末まで延期
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P69~70
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敗戦後の諸相・仙台 |
住宅難 |
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・ 仙台は、空襲で1万1000余戸が焼失し、相次ぐ復員、外地からの引き揚げ、転入増加で、家無き市民は約2万人超あり、来る冬をいかに過ごすかが切実な問題
・ 緊急措置令(昭和21年8月1日)で、「余裕住宅」の開放呼びかけるも、(知人・親戚を優先させたいのは人情で)9月半ばまでに斡旋できたのはわわずか10世帯のみ
・ 町にはトタン小屋が並び、穴居生活や橋下生活を余儀なくされる市民もいた
・ 住宅難につけいって途方もない家賃もはびこる
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P74~75
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(1)仙台駅周辺 |
1945年(S20)~ |
<バラック建ての仙台駅周辺>
・ 終戦直後いちはやくヤミ市が出現、物流はもっぱらこの“まちの卸屋”で行われ、「東北の上海」などといわれた
* 1945年(S20)9月、露店にヤミ市が並ぶ(「仙台あのころこのころ八十八年」P250)
* 1945年(S20)11月23日、仙台駅らX橋(エックスバシ)間にかけ、闇市開かる(「仙台年表」P215)
* 「1946年(S21)、路上に戸板だけの大道商人が仙台駅前を中心に集まり始めたのはこのころで、ヤミ市を形成していった。
焼け跡によしず張りの青空市場で、サラリーマンの給料が200円もなかった時、しるこ一杯10円、ふかし芋3個1円、軍用靴下20円、ワイシャツ80円など、公定価格の数十倍に達し、そして日々値段は上昇し、ここだけに望みの品物があった。」(「番丁詳伝」P158)
・ 名掛丁には、通称“浅草楽天地”と呼ばれたバラックのマーケット街が出現、軍物資、ヤミたばこ、覚醒剤などが密売され、夜の女や不良の温床でもあった(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
・ 「仙台でのやみ市は、仙台駅前地区、東一番丁地区に10カ所あまりの青空市場ができたが、そば、ウドン、パン、いもなどの食べ物を中心に、食料品、衣料品、雑貨など統制物資までをも加えて法外な値をつけていた。市(いち)とまではならないが、東一番丁の空き地、大道に露天商が並び、戦後しばらく定職をもたないものはヤミ商人になったとまでいわれるようになる。(中略) 昭和21年5月の一斉取締りで仙台北警察署は東一番丁、仙台駅前、大学病院前の3か所から45名を検挙」(番丁詳伝」P159)
・ 仙台駅前(西側)のヤミ市(「戦災復興余話」P45~49より)
青葉通りなどの新設道路予定地や不在者宅地内にできたヤミ市で、ビッグ・スリーは、駅前マーケット(東五番丁/昭和24.10.10~31に市が代執行し80戸を強制撤去)、新興マーケット(仙台駅前/昭和25.3に14戸撤去)、国際マーケット(裏五番丁/昭和25.7に、28戸強制撤去) / 国際マーケット(203坪)の所有者は野路清蔵市会議員
【参照】 ヤミ市など不法建築物の強制撤去は、
項目「戦災復興事業」の小項目「不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺」、小項目「不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町」に詳述
<青空市場>
・ ヤミ市には、クツみがき、輪タク、街の女がたむろし、スイトン、しるこ、カストリ焼酎などは引っ張りダコ、なんとか飢えをしのごうという人たちで食べ物屋は大繁盛した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196/「戦災復興余話」P45~49/「わが心の仙台駅前史」P38/「仙台あのころこのころ八十八年」P250(年表)/「仙台年表」P215/「番丁詳伝」P158~159
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P772に、「町を行くやみ屋の列」(S25年3月、仙台駅前付近)
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敗戦後の諸相・仙台 |
町の流通機構ヤミ市(2)東一番丁界隈 |
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<東一番丁へ移される>
・ 1945年(S20)12月、仙台駅前「闇市場」、東一番丁に移転(「重訂 宮城県郷土史年表」P311) / これらヤミ市、青空市場は進駐軍の指示で東一番丁に移転、やがてバラック建ての「東一マーケット」、「中央マーケット」ができ、空襲被災者・引き揚げ者が住みついた(「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75)
【参照】 項目「東一マーケットと中央マーケット」
・「仙台空襲、そして終戦宣言、戦災地にヤミ市といわれる大道の店が戸板一枚を並べたものから急造の小屋掛けまである。統制品の衣料、雑貨、酒、缶詰類など白昼堂々と売買される異常ともいえる風景が出現した。
東一番丁では藤崎以南の大通りがそうであった。空腹をかかえた市民はただあてもなくむらがり集まった。集まるというよりどこからともなく湧いてくるという人混みである。
一膳麦飯、海藻でつくられたそば、山芋やトウモロコシ粉でつくられたすいとん、大豆味のするぜんざいのほかに探せば銀シャリ、真っ白なうどん、生そば、砂糖まで手に入れることができた。
人気を集めたのは餅菓子、まんじゅう、飴菓子など甘味菓子で戦争以来久しく口に出来なかったのに金さえ出せば何でも買うことが出来た。カボチャにズルチンを添加した饅頭、芋でつくった飴菓子、馬鈴薯でつくった団子など菓子というには縁遠いものが多かったが十分に満足させるものであった。
こういったヤミ市に本ものの砂糖、そして小麦粉、小豆、その他の原料を使った本格的な菓子が戦禍を受けない郡部の本職の菓子屋によってつくられ出始めるのは20年の秋末からで、相当儲けた業者があったといわれる。
三越裏通りのマーケットで菓子の原材料、薬品、など食産業のあらゆる物資を東京から仕入れて売り出し大成功をおさめ今日の隆盛の基いをつくったのはサトー商会であり、菓子類から大をなしたのが駅前のマルカン商店であった。」(「番丁詳伝」P102)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P75/「番丁詳伝」P102
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敗戦後の諸相・仙台 |
歓楽街復活 |
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・ ヤミ市には戦災者、引揚者が、それぞれ根城をつくり、その日暮らしの設計をたてていたが、禁制のヤミ物資を扱うブローカーたちと進駐軍兵士のために、仙台駅前、苦竹、東一番丁付近などに、まず真っ先に歓楽街が復活した
・ 東八番丁、宮町の遊郭や売春宿も1945年(S20)9月には早くも営業を開始、東一番丁の焼けビルにはアメリカ風のキャバレーが出現して市民の目を奪った
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P196
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敗戦後の諸相・仙台 |
赤線地帯(特殊飲食街)・青線地帯 |
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【「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392】
* 1946年(S21)1月、GHQ指令により「公娼制度」廃止
・ 廃止以前から、酌婦・カフェー女給などが私娼として、飲食店、料理屋、飲食店などで売春を行っていた
・ 仙台市では、細横丁や東八番丁に私娼街ができた
<赤線地帯>
・ 警察は、「社会上やむを得ない悪としてこの種の行為について、特殊飲食店などを指定して警察の特別の取締りにつかせ、かつ特殊飲食店などは風致上支障のない地域に限定して集団的に認めるよう措置すること」(「宮城県警察史」第二巻)と、例外的に特殊飲食店での売春を認めた / いわゆる「赤線地帯」 / 特殊飲食店街は、仙台市の東八番丁や元寺小路にあった / 表面上はあくまで特殊飲食店の女給として正業についていた / 建前上は、あくまで本人の意思に基づき、客との交渉の結果自分で契約した金額であり、4割~6割を自分の収入とし残金を主人に渡した / 特殊飲食店でそれぞれ一室をもらい、寝具を貸与される以外は衣装ほかは自弁で、建前上は自らの意思によって売春を営むという形態に切り替えられた
<青線地帯>
・ 終戦直後の米軍の進駐とともに、内務省指示により、米兵を対象とした「特殊慰安施設(RAA)」が、国分町・芭蕉の辻界隈のビルの中に作られたが、その後閉鎖され、街頭に立ち米兵を相手とするようになった / 仙台駅近くのX橋周辺、榴ヶ岡などに集まる傾向があり、俗称「青線地帯」とよばれた
* 1956年(S31)4月1日、売春防止法施行 / 赤線、青線の灯は消えた
【「番丁詳伝」P159より】
・ 戦前の公娼はGHQ指令でその制度はなくなったが、内務省は通達で特殊飲食店を認め、娼婦の自由意志での営業を許可した
・ 警察は特殊飲食街のある地域を地図上に赤線で囲ったところから赤線と呼ばれる
・ 仙台には、東八番丁、元寺小路の特飲街があった
・ その後、昭和33年4月売春禁止法の実施により赤線の灯は消える
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P391~392/「番丁詳伝」P159
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敗戦後の諸相・仙台 |
日陰の花/売春防止 |
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・ 戦後“パンパン”と呼ばれた女たちは、仙台駅前、X橋周辺、小田原、原町などに多かった / 大部分は18~20歳、中には30~35歳くらいの婦人も / 大部分は性病におかされていた
・ 片平丁にあった“夜の女”の診療所には常時30人前後の患者を収容 / 患者脱走を防ぐため、私服を取り上げ、前と背中にVDと大きなマークの入った旧軍衣類を着せた
* 1958年(S33)3月25日、売春防止法施行(同年4月1日)に先立ち、市内で最後まで残っていた東八番丁の特飲街が一斉廃業
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P286
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敗戦後の諸相・仙台 |
「新円」騒動 |
1946年(S21) |
<金融緊急措置令 旧円の預貯金封鎖と新円への切り替え>
・ 戦後の極度なインフレ高進を抑制するため通貨流通量の収縮をはかるのが目的
・ 昭和21年2月中旬には、旧円で618億円あった日銀発行残高が、新円で152億円に激減(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 1946年(S21)2月17日、預金してある金はこの日限りで封鎖、流通している10円以上の紙幣は3月6日までで廃止し、7日以降は、新発行の札(新円)しか使えない(「仙台市史 続編第1巻」P76)
* 2月25日以降、新円と旧円の交換開始、3月3日以降は旧円の流通を禁止(「仙台市史 続編第2巻」P728)
* 封鎖預金からの現金払い戻しは、月に世帯主300円、家族は1人につき100円、給料も現金は500円まで、それ以上は封鎖預金にされる / 預金のない人は月最大500円の給料のみの生活
* タンス預金は紙くず同然になるので、旧円最後の日の金融機関は預け入れる人で大混雑、商店街は使えなくなる心理から、品物、食べ物が飛ぶように売れ、映画館も満員だったと当時の新聞は伝える
* 封鎖預金は、第一封鎖と第二封鎖に分離され、第二封鎖部分は凍結・棚上げされることになった(中略)そうした強硬策でもインフレの収束に至らず、9月に生産の上昇も伸び悩みとなり、インフレはますます高進(「仙台市史 続編第2巻」P729)
* インフレの抑制にある程度成果はあったものの、抑えきることはできなかった。そのため市民が戦前に持っていた現金資産は、日本国債等債券同様にほぼ無価値になった(Wikipedia「新円切替」2019年2月版)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P76/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P728~729/Wikipedia「新円切替」2019年2月版
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「新・目で見る仙台の歴史」P173(新円切替で新円と交換)
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敗戦後の諸相・仙台 |
天井知らずの物価/死の抗議 |
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・ 公定価額では何一つ買えず、すべてにヤミ物価、500円ベースの給料では困窮の極
・ 生活苦にあえぐ引揚者が、鉄道自殺で死の抗議(満州から引揚げた36歳、5人家族の公務員が「給与ではとても食っていけない」と遺書)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P77
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪者 |
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* 1948年(S23)6月、上野を追われた浮浪者は仙台方面に落ち延びて各地を荒らす
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P42
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敗戦後の諸相・仙台 |
浮浪児/戦災孤児/ホームレス |
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【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757】より
・ 仙台駅周辺や地下道を根城にして、通行人に金銭やタバコをねだる
・ 人数は40~50人、取締りがあると5、6人に減る / 東京ノガミ(上野)で浮浪児狩りがあると100人、200人に増えることもあった
・ 警察調べ(S23年6月17日午前2時) 計104人、このうち16歳未満が49人、40歳以上も11人 / 各年齢層とも女性が2割だった
・ このほかに、かつぎ屋やいなか回り(集団こじき)で出先に泊まる者が100人以上
・ 夜12時すぎの最終列車のあと、駅の待合室は浮浪児などのねぐらになり、持ち物は茶碗2個とモクヤ(拾ったたばこ)を入れた風呂敷のみだった
・ 香具師、博徒、ヤミ屋の手先に使われ小遣銭を稼ぎ、ゆすり、万引き、スリ、野荒しなどの犯罪を犯し、施設に収容されても、毛布などを失敬して脱走するものが多かった
【「戦争のころ 仙台、宮城」P249】より
・ 仙台駅や駅に近いX橋(エックス橋)脇の東北線名掛丁地下道には戦災で家を失った大人や子供たちがたむろし、通行人に金銭やタバコをねだっていた
・ <仙台市内のホームレス>(昭和23年6月、仙台北警察署調べ)104人で、18歳未満が半数を占め、このうち2割は女性 / ほかにもかつぎ屋や田舎を集団を回るこじきなどが100人以上いた
・ <戦災孤児>(厚生省調べ) 空襲で両親を失ったり、満州から帰還する途中で両親が死亡したりした戦災孤児が、全国で12万2300人、宮城県は1559人
・ 宮城県内では、戦災孤児が231人(仙台空襲で両親死亡や宮城県に学童疎開中に東京大空襲で肉親を失った子など)、引揚げ孤児232人(満州などから引揚途中で両親が死亡)、一般孤児(この意味は不明)1074人、捨てられた孤児22人
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P478~479、P757/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P249
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P748と「新・目で見る仙台の歴史」P170に、「たむろする浮浪児たち」の写真
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敗戦後の諸相・仙台 |
小中学生にも流行る「符丁」 |
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・ パチンコはピストル、ダチコは友達、ヤジコはオヤジ(父親)、オシンはゼニ(銭)、ハイモナイは1銭もない(「仙台市史 続編第1巻」P80にこのほかの主な30例が載る)
・ 香具師仲間の符丁が、終戦後にヤミ屋、露天商などを通じて普及、夜の女、チンピラの日常語となっていたが、これが学校の生徒にも影響
・ 符丁は、日常生活に関する言葉全体にわたっていた
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P79~80
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敗戦後の諸相・仙台 |
伝染病4倍増/空から撒かれたDDT |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲で壊れたままの給水栓>
・ 全給水栓の44%が破壊されたまま
・ S19年比でS20~21年は、ゴミ焼却場(3か所)の扱い数は6割前後、市立消毒所への依頼数は半減
<伝染病4倍増>
・ S19年442件、S20年1260件、S21年1836件
・ S21の内訳(赤痢739件、以下発疹チフス、ジフテリア、腸チフス、パラチフスの順、天然痘も50件) / 死者は赤痢102人(死亡率14.4%)
<米軍が空からDDT撒布>
* 1946年(S21)7月~8月、軍用機で全市にはじめて撒布、蚊、ハエ、シラミなど害虫駆除にかなりの効果があったとい
う
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P81
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「新・目で見る仙台の歴史」P171(浮浪者へのDDT撒布)
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敗戦後の諸相・仙台 |
石炭飢饉で火葬場にも赤信号/銭湯は客急増 |
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<戦後も燃料飢饉>
・ 長町の鉄道操車場付近で、機関車が焚いた石炭の燃え残りを拾う主婦や子供の姿が多くなる
・ 戦災家屋の焼け残りの木材、墓場の塔婆、うっかりすると板塀まで消えて無くなっていた
・ 1946年(S21)12月、冬暖房用の亜炭、輸送力不足で、市は国鉄や各事業所のトラックを借り、足りぬ場合は進駐軍の救援も頼んで輸送した
<火葬場にも赤信号>
・ 仙台の火葬場は北山の市営と新寺小路の会社経営の2か所で、冬は死亡者が日に20人も珍しくない / 石炭配給の中止状態が続き、新寺小路の火葬場では、燃料持参しないと焼いてもらえない事態も発生
<銭湯は客急増>
・ 市の公益浴場、戦前は大赤字経営だったが、S20年は12万人、S21年は16万人が利用
・ 利用料金はS20年は10銭、S21年は一気に35銭に
・ 湯銭にもヤミ値(一般の浴場)あらわれ、S21年当時、正午~2時が1円、2~3時が50銭、3時の営業開始時間からマル公の20銭
・終戦当時は銭湯はたいてい電熱で沸かしたので、停電日は休業、電灯の暗い夜の間は“板の間かせぎ”の絶好の場で、身ぐるみ持ち去られることが多かった
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P82
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敗戦後の諸相・仙台 |
隠匿物資の摘発 |
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<隠匿物資> 終戦のどさくさに紛れて、旧軍隊や軍需工場、官庁などでひそかに確保していた物資、それらを無償に近い安値でかき集め倉庫などに保管し、小出しでヤミで売るさばいていた物資を、公正な配給ルートに乗せるべきと摘発
(1) 市会戦後対策委員会が「隠匿摘発監視隊」を編成、各公会や警察とも連絡、場合によっては進駐軍の手を借りて摘発 / 1946年(S21)1月21日、CIC(米第9軍指令部特務機関)が、仙台鉄道局東七番丁材料品倉庫に隠してあった大量の米や酒、大量の貴金属を押収
(2) 1946年(S21)2月、日本共産党宮城地方委員会が、東北戦災者更生団、仙台民主主義連盟と共同で、隠匿物資摘発隊を組織、20数人で南材木町の某倉庫から、警察官立ち合いで、もめん、缶詰など多量の物資を摘発 / 警察は、「不正に隠匿されると思われるものはない」、摘発が住居侵入罪、脅迫罪を構成しかねない点を警告
(3) 1946年(S21)2月、宮城地方生活擁護同盟結成準備会が摘発した物資は、米1723俵(仙台市民2日分の配給量に相当)、小麦770俵、あずき、メリケン粉、ウーメン、乾パン、その他各種の食糧、衣料、燃料などおびただしい量にのぼった
(4) 仙台地方検察局が、日通仙台支店長町営業所の12の倉庫から、水銀など時価1億円相当の隠匿退蔵物資を摘発
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P83~84
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敗戦後の諸相・仙台 |
治安悪化、犯罪多発 |
昭和20年代 |
終戦後の混乱期、食糧難や貧困の時代、治安悪化し各種犯罪が多発、刑務所が収容定員超過 / 成人の犯罪が昭和24年を峠に減少傾向、一方青少年犯罪が逆に増え、しかも強盗、暴行、放火など凶悪犯が増加
・ 具体的事例は、→ 「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P745からの第十一章第一節「警察と公安」参照
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」第十一章第一節「警察と公安」
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敗戦後の諸相・仙台 |
主要事件 |
昭和20・30年代 |
仙台地方裁判所・仙台高等裁判所関連では、平事件(S24)、松川事件(S24)、東北大学イールズ事件(S25)、浜旋風事件(S26、魚のヤミ取引事件400件を一挙に処分)、朝鮮人部落集団暴行事件(S27)、小繋事件(高裁S28)、穴ぼこ事件(地裁S35、高裁S37、原付自転車で酒気を帯び市道走行中、道路の穴ぼこで転倒、死亡)、仙台高裁ピケ事件(S35)、智行ちゃん誘拐事件(S40)、労働争議にかかわるものでは、瀬峰事件(S30)、新松島駅事件(S31)、仙台駅事件(S33)、仙台南郵便局事件(S33)、長町駅事件(S33)、全国税事件(S34)、小牛田駅事件(S36)など
* 1961年(S36)8月8日、松川事件差戻し裁判、仙台高裁で全員無罪判決(「仙台市史 続編第2巻」P291)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P811~813/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P291
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「市民の戦後史(仙台市)」P111(松川事件無地判決で裁判所前の支援者たち)
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政宗卿騎馬像 |
建立 |
1935年(S10) |
「藩祖政宗公三百年祭」(S10年、没後300年)に先立ち、宮城県青年団員たちが資金を集め青葉山の天守台に建立した (完成した像は東京から仙台までトラクターで運搬)
* 1935年(S10)5月14日、青年団員たちがトラクターに乗せた騎馬像とともに仙台市内を行進し、青葉山天守台まで運んだ
* 同年5月23日、除幕式(三百年祭の行事としてに盛大に行われた) (「仙台城)」P234)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史 年表」P108/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
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青年団による騎馬像運搬は、44-77、44-78、44-79、44-80、44-81、44-95、44-82、44-83 / 像は99-116、53-87、「目で見る仙台の歴史」P159
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政宗卿騎馬像 |
戦時供出 |
1944年(S19) |
* 1944年(S19)1月22日、政宗卿騎馬像、戦時中の金属回収で供出(出陣式挙行)
* 1944年(S19)1月22日、政宗銅像、戦時金属回収のため供出、藩祖出陣と称し壮行式行わる(「仙台城P234)
「重訂 宮城県郷土史年表」P499~500に、「昭和19年1月22日、青葉城址に建立せられし藩祖政宗公の馬上姿の銅像も金属回収に応召することとなり、22日の青年団令旨奉戴記念日を卜し、仙台市及護国神社共同主催のもとに県下青少年団代表参集して盛大なる銅像出陣式を挙行す。この折詩人土井晩翠銅像出陣の詩あり」
<戦後に発見>
* 1946年(S21)9月9日、仙台郷土研究会員石川謙吾、塩釜市金属集積所より政宗銅像上半身を自費にて払い下げ、青葉神社に奉納す(「仙台城」P235)
戦後、1946年(S21)10月8日、郷土史家石川謙吾が塩釜の東北ドック敷地内の集積所で、騎馬像の上半身だけが捨てられていたのを偶然の機会に発見、一部を改修し青葉神社に奉納
* 1961年(S36)、仙台博物館が建設されるとともに博物館に移され、政宗公像の頭部のみが敷地内に展示されている
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「仙台市史10 年表」P307/「重訂 宮城県郷土史年表」P499、500/「仙台市史 年表」P113/「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P234
戦後発見は、「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史続編第2巻経済文化編」 末尾付表(年表)P823/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P184
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政宗卿騎馬像 |
戦後の復元 |
1964年(S39) |
* 1953年(S38)5月31日、仙台市観光協会が、政宗公騎馬像の復元を決める
* 1964年(S39)10月9日、復元騎馬像除幕式
・ 仙台観光協会が1700万円をもって政宗公の旧銅像を鋳型(元の原型)により再鋳造し、旧位置(青葉城本丸)に再建して除幕式を挙行
・ 市役所内に再建委員会が設けられ、島野市長が委員長となって広く募金 / 原型は、製作者小室翠雲の郷里柴田町船岡に保存されていた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P608、P616/「仙台市史 年表」P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185の写真51と、「市民の戦後史(仙台市)」P158に「復元なった騎馬像」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P85(S39)
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政宗卿平服像 |
建立 |
1953年(S28) |
* 1952年(S27)、小野田セメントから寄贈の申し出(柳原義達制作)
* 1953年(S28)10月9日、白色コンクリート造伊達政宗立像、小野田セメント会社より仙台市に寄贈、本丸に除幕式を行う。作者柳原義達、像高4.5m(「仙台城」P235)
* 1953年(S28)10月9日、仙台市青年会が、青葉城跡に伊達政宗卿の像(白色セメント製、平服姿)を旧騎馬像台座の上に再建し、翌日に除幕式
(作者は柳原義達、高さ4m65cm、平服のため「平和像」とも呼ばれる)
* 1964年(S39)8月、政宗コンクリート像、本丸跡より岩出山城跡に移さる(「仙台城」P237)
* 1964年(S39)9月8日、平服像が岩出山町城址へ移転
同年10月に政宗卿騎馬像(銅像)が天守台に再建されることになり、平服像は岩出山城址(宮城県岩出山町、2019年現在大崎市)へ移された / 岩出山城は、仙台城築城まで12年間伊達政宗の居城だった
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235、P237/「重訂 宮城県郷土史年表」P568、P615/「仙台市史 年表」P118、P123/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P185
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99-118/「目で見る仙台の歴史」P190
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政党県支部など(戦後) |
日本社会党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月2日、日本社会党宮城県連合会結成大会開催
* 1950年(S25)2月4日、社会党宮城県連分裂
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507、P540/「仙台市史10 年表」P310、P323
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政党県支部など(戦後) |
進歩党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月20日、進歩党宮城県支部を結成
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「重訂 宮城県郷土史年表」P507/「仙台市史10 年表」P310
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政党県支部など(戦後) |
日本共産党 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)12月25日、日本共産党宮城県支部演説会開催
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「仙台市史10 年表」P311
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政令指定都市 |
仙台市 |
1989年(H1)4月1日 |
仙台市が、全国11番目の政令指定都市となる / 区制施行(青葉区、宮城野区、若林区、太白区、泉区)
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「仙台市史 年表」P135
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支倉常長(記念碑/銅像) |
建立 |
1960年(S35)/1972年(S47) |
* 1960年(S35)5月、支倉常長記念碑、仙台城址三の丸に、仙台ライオンズクラブが建立(「重訂 宮城県郷土史年表」P596)
* 1972年(S47)11月13日、支倉常長銅像、青葉山で除幕式
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P596/「続・ 宮城県郷土史年表」P15
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「市民の戦後史(仙台市)」P151(S38年6月にイタリアから贈られた支倉常長肖像)
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挹翠館(ゆうすいかん) |
建設~焼失 |
1886年(M19)~1945年(S20) |
桜ケ岡公園(西公園)にあった木造の割烹(和洋料理店)だったが、M42年に仙台市が買収し、戦前は仙台市公会堂として使用された
* 1886年(M19)1月24日 建設(木造2階建て、寄棟造瓦葺、真壁漆喰塗)
* 1887年(M20)、桜ケ岡公園内に開業 / 木造2階建ての和洋料理店(「仙台市史 特別編4 市民生活」P83)
* 1909年(M42)5月18日、市が買収し、仙台市公会堂となる
* 1916年(T5)に、隣接して洋館の公会堂新館が竣工したあと、挹翠館は公会堂本館とよばれた
* 1945年(S20)7月10日、公会堂本館(挹翠館)、洋風新館とも、仙台空襲で焼失
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「重訂 宮城県郷土史年表」P273/「仙台市史 年表」P85、P94/「古写真に見る仙台の建築」P43/「仙台市史 特別編4 市民生活」P83
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98-058、98-059/「目で見る仙台の歴史」P117
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戦災記録 |
市民の手でつくる戦災の記録」の会 |
1972年(S47)/1973年(S48)/1995年(H7) |
* 1972年(S47)7月7日、仙台市に「市民の手でつくる戦災の記録」の会発足
* 1973年(S48)8月15日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「空襲」出版
* 1995年(H7)10月16日、仙台「市民の手でつくる戦災の記録」の会が「仙台はフェニックス―戦中戦後の証言と聞書集」出版
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「続・ 宮城県郷土史年表」P11
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戦災者・引揚者用住宅 |
住宅営団応急簡易住宅(追廻住宅) |
1946年(S21) |
追廻練兵場跡に、応急木造住宅620戸を建設
* 1945年(S20)10月、追廻に住宅営団の戦災者住宅着工、翌21年4月に621戸成る(「仙台城」P235)
* 1946年(S21)3月、住宅営団が戦災者・引揚者用の木造応急住宅620戸を建設(河北新報1996.11.21)
* 1945年(S20)11月~翌年3月、進駐軍の接収を免れた大日本帝国陸軍第2師団用地の1つである追廻練兵場跡地において、住宅営団が賃貸用の応急簡易住宅を約620戸建設(Wikipedia「川内追廻」)
・仙台市では戦後、追廻の陸軍練兵場跡に2年間で簡易住宅1876戸を建築して被災者や海外からの引揚者に提供(「戦争のころ 仙台、宮城」P227)
* 1946年(S21)11月11日、仙台市の戦災復興計画において、「追廻住宅」を含む当地(約22.5ha)が「仙台総合運動場」として都市計画決定(戦災復興院告示 第244号)
* 1946年(S21)12月23日、住宅営団が閉鎖機関に指定せられ、同時に解散(以降は清算法人) / これにより住宅営団の賃貸住宅だった「追廻住宅」では、建物は入居者に払下げられ、国有地である土地は東北財務局が管理して入居者と賃貸契約を結んだ(Wikipedia「川内追廻」)
* 1951年(S26)10月、住宅営団が4月に解散、建物を入居者に売却し、(土地は東北財務局が)時価貸付契約締結、契約期間は3年間(河北新報1996.11.21)
* 1954年(S29)10月、追廻地区住民が、同地区の公園化に反対して総決起大会
* 1960年(S35)3月13日、追廻住宅で火災49戸焼失
仙台市の戦後の応急住宅対策は、「仙台市史特別編4 市民生活」P160~161に記述あり
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「仙台城(仙台市教育委員会 昭和42年刊)」P235/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P109/「市民の戦後史(仙台市)」P111/「重訂 宮城県郷土史年表」P595/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P227
/Wikipedia「川内追廻」(出典: 旧軍用地に係る土地政策と転用実態 ―終戦直後から戦災復興期の都市部における旧軍用地転用― (PDF) (土地総合研究 2015年夏号)P152-153)/「河北新報」(1996.11.21)」
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「目で見る仙台の歴史」P174に「追廻住宅」/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P110(S54、画面下部、カラー)
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戦災者・引揚者用住宅 |
市営住宅・県営住宅 |
1945年度(S20)など |
・ 西公園の一角に、戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、公園整備のため、他へ移転した
・ 上杉山通りの仙台商業学校の空襲跡地に戦後、戦災応急住宅として建設した市営住宅があったが、のちに他へ移転した(以上、「仙台市史 続編第1巻」P350)
* 市営住宅建設戸数
(「仙台市史第2巻本編1」P601~602の102表より)
・1945年度(S20)、元柳町(西公園)104戸、上杉山通(仙台商業跡地)53戸、仲ノ町18戸、良覚院丁49戸、花壇49戸、北一番丁6戸、計250戸
・1946年度(S21)、北六番丁40戸、花壇60戸、計100戸
・1947年度(S22)、長者町100戸
・1948年度(S23)、荒巻、長者町、南小泉、新寺小路に計110戸
・1949年度(S24)~1951年度(S26)に、計529戸]
(以下は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P424~426より)
・空襲焼け残りの鉄筋コンクリート建築物を地方長官の権限で開放
・一般遊休住宅の開放
・仙台市 引揚者住宅 448戸(うち新設288,改造転用160)
・住宅営団 600戸(追廻住宅)
・1953年(S28)、市営の鉄筋コンクリートのアパート
・1955年(S30)~、簡易耐火構造
<「仙台市史 特別編4 市民生活」P185より>
* 1950年(S25)ころより、戦災者、引揚者、戦災復興土地区画整理による立退き者などを対象に、市営・県営の住宅建設
・市営庶民住宅(西の平に約200戸)
・県営庶民住宅(荒巻・西多賀など)
・1949年(S24)、市内同心町に中層県営アパート建設 / 引き続き、小田原団地・新坂通団地・支倉通団地にも中層アパート建設
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P350、P424~426/「仙台市史第2巻本編2」P601~602
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P185(同心町の県営アパート)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P427(S25年ころ、長者町につくられた市営住宅)
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戦災復興都市計画事業 |
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計画策定 |
<仙台空襲で壊滅的被害>
* 1945年(S20)7月10日、米軍機による仙台空襲で、仙台市中心市街地の500ヘクタール(市街地の約17%)を焼失 / 被災人口 57,321人、被災家屋 11,933戸(当時の全市戸数の約23%)」(仙台市開発局『仙台市戦災復興誌』 1981年)
・ 焼失1万1900戸(全戸数の4割)、5万7000人が家を失う(「戦争のころ 仙台、宮城」P220)
→ 当サイトの項目「仙台空襲」参照
<県による復興計画>
* 1945年(S20)12月、宮城県復興建築課を新設、復興計画始動
・対象地域
① 戦災に遭った仙台市中心部 ②川内の旧陸軍用地 ③一部が戦災に遭った米ケ袋
川内は、米軍の要求で中止、米軍に接収され、「キャンプ・センダイ」用地となる
米ケ袋も見送られて、事業が行なわれたのは市中心部だけ
・事業総面積 290ha(皇居の2.5倍)
・区画整理方式のため、仙台の減歩率25%(自分の土地の4分の1を事業のため提供)
<仙台市が県の計画を引き継ぐ>
* 1946年(S21)4月、仙台市復興委員会発足(市議24人全員、学識経験者20人)設置
・23人の常任委員会で週1回のペースで街路、公園の予定地を訪れ検討し決定(例:東一番丁通りは8mを15mに拡張)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P220、P250~251
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戦災復興都市計画事業 |
制度、計画など |
1946年(S21)~1961年(S36) |
* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興都市計画基本方針決定
* 1946年(S21)4月15日、仙台市復興委員会開催(学識経験者と市会議員から委員64人)
* 1946年(S21)4月20日、戦災復興院特別建設出張所設置
* 1946年(S21)5月、仙台市は「戦災区域」の指定をうける
* 1946年(S21)5月5日、仙台市役所復興局(2部7課)設置
* 1946年(S21)5月9日、仙台都市復興都市計画土地区画決定
・424haの土地区画整理、23路線(2万4000m)の都市計画道路、13か所(51.7ha)の公園緑地、墓地計画、学校移転、無電柱街路計画など
・S26年とS29年に事業区域が縮小されて、最終的な施工地区は市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)に変更された
* 1946年(S21)8月15日、戦災都市における建築物の制限に関する勅令を仙台市に適用
* 1946年(S21)10月9日、特別都市計画法、仙台市に適用
* 1946年(S21)10月10日、仙台市役所に仙台復興局を置き復興計画方針決定(五か年計画の樹立)
* 1946年(S21)10月、戦災跡地ガス供給管被害箇所復旧
* 1947年(S22)2月17日、仙台特別都市計画事業復興土地区画整理及び執行年度割決定
* 1947年(S22)6月4日、戦災復興院宮城建築出張所設置
* 1947年(S22)6月11日、仙台都市計画公園変更決定
* 1947年(S22)12月12日、仙台復興都市計画土地区画整理委員選挙
* 1947年(S22)12月31日、仙台市に適用の都会地転入抑制緊急措置令解除
* 1961年(S36)3月27日、仙台市戦災復興都市計画事業完了、完工式(総額11億5千万円)、3月27日に完了記念の「こけし塔」を西公園に建設除幕式
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P90、P315~316/「仙台市史10 年表」P312~314、P316~P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P513、P519、P600/「仙台市史 年表」P121
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戦災復興事業 |
都市計画道路 |
1946年(S21)~ |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P251~252】
* 1946年(S21)11月、中心部の19本の都市計画道路、国の復興院が承認
・ 当初計画は、青葉通り、広瀬通りともに幅員50m → 予算の関係で、50m幅は青葉通りの仙台駅前から東二番丁まで、それ以西の青葉通りと広瀬通りは幅36mに変更(これまでの最大幅員は南町通りの23mだった)
・ 都市計画道路での正式名称は、青葉通りは「仙台駅-川内二の丸隅櫓線」、広瀬通りは「元寺小路-立町・川内線」
* 1947年1月、河北新報社が愛称を募集し、応募6000通以上から、「青葉通」「広瀬通」「西公園」「中央公園」と決定 / 中央公園は定着せず、「勾当台公園」が定着
* 1950年(S25)、青葉通り、広瀬通り完成したが、まだ未舗装で、強風に砂塵舞い上がり、雨降れば泥んこ道となるので「青葉砂漠」「広瀬たんぼ」と悪口を言われた
・ 東二番丁通りも幅員50m(江戸時代以来幅員は8mだった) 6倍以上に拡張したのは防火帯とするため(江戸時代から昭和30年代まで市中心部で、蔵王おろしの西北風邪が吹く12月~3月の間にたびたび大火があった)
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324】
<幹線街路計画>
* 1946年(S21)11月決定、25路線、幅員(50~15m)、延長5万894m(うち、復興事業関係は23線)
* 1954年(S29)、16路線(1万9103m)に計画変更
→写真データベースの98-026に「一覧表と一覧地図」(路線名、起点、終点、幅員など記載)
* 16路線中、清水小路光禅寺線以外は、S35年度までに完了
・ その後、清水小路光禅寺線は起点部分221mを除外
<グリーンベルト設置>
・ 幅員27m以上の街路に植樹帯造成
・ 7路線(青葉通、東二番丁線、細横丁線、長町堤町線、定禅寺錦町線、狐小路連坊小路線)は車道の両側または中央にグリーンベルト(木と芝生)
・ 11路線の一部歩道に街路樹植栽(上記7路線+多門通常盤丁線、北目町通線、北二番丁線、勾当台通)
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P251~252/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P317~324
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・S29年に決定した「戦災復興事業の都市計画街路一覧表と一覧図」 →写真98-026
/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅された細横丁(晩翠通り)
/「市民の戦後史(仙台市)」P60(拡幅工事中の細横丁)
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戦災復興事業 |
公園緑地造成 |
~1961年(S36) |
【「戦争のころ 仙台、宮城」P252~253】
・ 当初計画は、11万坪(市中心部の1割)
・ 予算の関係で、14か所から9か所(計8万5000坪)に変更
・ 実現しなかったのは、県庁周辺の大公園化(勾当台通り-錦町-外記丁-北一番丁)と勾当台公園と西公園を結ぶ60m幅の緑地帯構想
・ 定禅寺通は幅員46mとし、中央に12m幅の緑地帯が設置された
【「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330】
・ 戦災復興区画整理事業により13の公園・緑地が造成された / 勾当台公園(2.4ha)、西公園(11.4ha)、青葉山公園(50.3ha)、錦町公園(1.7ha/旧育英中学や大聖寺などの寺院跡地)、定禅寺通緑地(0.8ha)など(一覧は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P329)
・ 1961年(S36)3月の戦災復興事業完了までに、復興区域内では、西公園の拡張整備のほか11の公園・緑地(20.6ha)が造成され、戦前からあった公園を合わせ約30haとなり、面積、数とも大幅に拡大した
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P252~253/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P328~330
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戦災復興事業 |
土地区画整理 |
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・ 土地区画整理施工地区は仙台市の中心部290ha(東西1.5キロ、南北2.7キロ)
/ 当初計画(1946年(S21)5月の仙台都市復興都市計画土地区画決定)では土地区画整理面積424haだったが、その後、3回の縮小変更を経て、最終的には293haとなった
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P339の区画整理地図で、計画区域の縮小経過が確認できる
・「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P341~342に、区画整理前後の街路地図あり、街路の変化を対比できる
・ 区画整理前後の地積(道路・公園・宅地など)の変化は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P343の表79
/ 道路面積が11.5%→29.5%、公園1.1.%→6.8%、宅地84.8%→63%へ
<川内地区>
・ 当初計画区域とされた川内地区は、米軍接収(S20年9月~32年11月)されているため、区画整理区域からは除外、日本側に返還後は、国から東北大学、宮城県、仙台市が土地の使用配分を受ける
・ 返還後、東北大学川内キャンパス、市立商業高校、県営スポーツセンター、市立博物館などが建設された
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P338~343
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戦災復興事業 |
戦災墓地を北山霊園へ |
1951年(S26)~1952年(S27) |
* 1951年(S26)10日、復興区画整理区域内の11寺院のうち、区域内に墓地をもつ社寺(満願寺、光円寺、大聖寺、宮城県神職会)に対して、新造成した北山霊園の一部に、墓地用地を配分
* 1952年(S27)までに、4社寺の有縁墓碑1648基移転修了、無縁墓碑600基は各墓地内に万霊塔を建て納骨
* 1956年(S31)6月、残りの用地は市営墓地とし、市民に開放
・霊園東の入り口に戦災死亡者の記念碑がある
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P331~333
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「市民の戦後史(仙台市)」P77(S28、北山霊園へ墓地移転供養)/同P96(墓参する家族)
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戦災復興事業 |
難航した堅牢建物移転 |
1948年(S23)~1958年(S33) |
<建物移転>
・ 1948年(S23)8月、開始
・ 対象は、区画整理施行区域内の幹線街路、区画街路、公園など予定地に建つ建築物
・ 方法は、曳き方、移築、除去の3種
・ 移転補償は移転料、移転完了までの家賃補償、工作物補償、営業補償、移転雑費など
<手を焼いた堅牢建物の移転>
* 1950年(S25)開始~1958年(S33)7月完了、新設または拡幅予定の幹線道路の用地にあった堅牢建築物11軒を移転
・ 長町堤町線の日乃出映画劇場
・ 東一番丁線の明治製菓支店、キリンビール支店
・ 東二番丁線の市立病院表玄関、仙台商工会議所、三井生命支店、協和銀行支店、逓信病院、東北学院赤レンガ校舎の一部、宮城学院校舎の一部
・ 多門通常盤丁線の小林家住宅
・ 最後まで残っていた、東二番丁線沿いの逓信病院、東北学院、宮城学院は、S33年3月~7月末に撤去完了
<参考>三井生命仙台支店は、1938年(S13)8月12日、新装された(「仙台市史10 年表」P294)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P334~345、P349
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撤去対象の東二番丁の堅牢建物の位置図は、写真98-109/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P349の写真61(東二番丁通り拡幅部分にはみ出した宮城学院)
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(1)駅前周辺 |
1949年(S24)~1952年(S27) |
<不法建築物の強制撤去>
・ 「(敗戦後の仙台では)仙台駅前周辺や東一番丁、南町通りには不法建築のバラックが約1000軒、中でも仙台駅周辺では密集してヤミ商売が横行、「東北の上海」と呼ばれていた / 市は、立ち退き勧告に従わない露店を強制撤去
* 昭和24年4月、全国ではじめての代執行が行われた / 当日は約100人の作業員がトラック十数台を用意して待機し、不法占拠者が家財道具を運び出すのを待ってから建物を強制撤去 / 泣き叫ぶ女性、怒号が乱れ飛んだが、200人の警察官が動員されたほか、米軍MP(憲兵)も出て監視したのでそれ以上の抵抗はありませんでした / 以後数回、建築物の強制撤去が実施された。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P255~256)
・ 1949年(S24)3月~1952年(S27)12月に実施
・ 街路用地や不在者宅地内に無許可で建てたバラックなど集団的不法建築(仙台駅前の2つのマーケット街など)
・ 立ち退きに応じず、強制執行された一覧表に19件
→「仙台市史 続編第1巻」P346の表80(写真番号98-034)
* 中でも、S24年4月18日、駅前の東五番丁・南町通り交差点東北角(26戸)の強制撤去は、警察官500人出動しものものしい警備の中で、県と市の職員が代執行
* S24年3月、東一番丁・広瀬通交差点付近8戸
* S24年3月16日、東五番丁・南町通角付近の商店街火災(47戸全半焼)→同年4月18日、道路予定地に残った26戸を県が代執行、住民を臨時仮収容所に収容(市警察の警官250人出動、米軍憲兵が鳳月ビル2階から監視) / 退去した住民の大半は、西公園拡張予定地として空き地だった仲ノ町(のちの市民プール付近)周辺に住みつく→その後にまた代執行(S33年7月~年末)
* S24年4月18日、東五番丁・南町通り東北角26戸
* S24年10月10日~31日、青葉通り予定地の仙台駅前マーケット80戸に対し、市が撤去代執行
* S24年12月3日、青葉通りの不法建築28戸に退去代執行し、青葉通り貫通(東五番丁・名掛丁付近の36戸のうち立退きに応じない28戸に開始しようとしたら、自発的に立ち退く)
* S25年3月、仙台駅前の新興マーケット14戸
* S25年5月22日、仙台駅前青葉通りの露天商立ち退き問題で小競り合い、警官出動し強制撤去
* S25年7月、東五番丁の国際マーケット28戸
* S25年7月27日、青葉通りの違反建築30戸に代執行、警官も出動し緊迫
* S25年11月27日、南町通りの区画整理で27戸を代執行、東二番丁教会を除き貫通
* S25年12月8日、東一番丁拡張工事反対の120戸に立退き命令
* S26年7月4日、元寺小路・日吉町45戸
* S26年9月11日、青葉通・東五番丁角付近以西の69戸、市が代執行
* S27年4月11日、日吉町・名掛丁45戸
<立ち退き者の住宅対策>
・ S24年、花京院通に115㎡の臨時収容所設置、のにち小田原裏山本丁に移転
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P255~256/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P345~348/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P830、P832~835/「戦災復興余話」P46~49/「番丁詳伝」P165
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98-034(不法建築物の強制撤去一覧表)/「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P56(S37、西公園の市民プール)
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戦災復興事業 |
不法建築物の強制撤去(2)仲ノ町 |
1958年(S33) |
<仲ノ町の集団占拠>
・ 西公園の一部として公園緑地帯に指定された仲ノ町地区広瀬川岸の3.5haに、戦災で行き場所を失い追い詰められた生活困窮者や朝鮮人約1000人が無許可でバラックを建て住む
・ 1956年(S31)6月の市調査では、231戸347世帯、999人(うち朝鮮人が93人)居住
・ 通路は迷路状で密造酒、麻薬の巣窟、犯罪者の逃避場ともいわれ、市の調査員に警官同行した場合あり
・ 1958年(S33)7月26日、制服私服警官を配して、13戸を強制撤去、以降2~3戸ずつ順に代執行、自主移転者もいたが、12世帯(40人)は最後まで残った
・ 1960年(S35)、跡地に市民プール(東北電力が建設し市に寄付)着工し、最後まで残った世帯を臨時収容所に収容しS35年末までに完了・解決した
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P347~348/「番丁詳伝」P165
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戦災復興事業 |
市電軌道、電線、水路の移設 |
1947年(S22)~1960年(S35) |
<市電軌道の移設>
循環線の一部を、戦災復興年計画により既設街路の線形の変化、街路拡幅にあわせて軌道も移設(のべ1013m撤去、910m敷設)
* 1947年度(S22)から開始
・ 片平丁の裁判所前、西公園前、仙台駅前付近の3か所で、軌道の屈折緩和のため改良工事
* 1960年(S35)に、清水小路銑鉄局前の屈曲部も改良
<電線移設>
* 1952年(S27)2月、宅地になる旧道路に敷設されていた地下ケーブル線(送電用300m、電話用100m)を新道路地下に移設
<無電柱街路実現>
・ 仙台駅~川内線(仙台駅~南町間)=青葉通944m
・ 元寺小路川内線(元寺小路~国分町間)=広瀬通927m
・ 長町堤町線(南町通~錦町間)=818m
・ 東二番丁線(南町通~定禅寺通間)=892m
・ 東一番丁線(南町通~定禅寺通間)=838m
・ 中央通り繁華街(昭和35年7月ころまでに完成予定)
・ 当初計画された定禅寺通錦町線は、家屋移転が遅れて実現せず
<四ツ谷堰の水路変更>
* 1948年度(S23)~1957年度(S32)、一部水路の付け替え、暗渠化などを5カ所で実施
参考)「仙台市史2」(昭和30年刊)P673~674に、四ツ谷堰の市内三系統の経路が記載されている
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P352~354/中央通りの無電柱化予定は、「重訂 宮城県郷土史年表」P594/「番丁詳伝」P166~167
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戦災復興(応急対策) |
空襲跡の状況 |
1945年(S0) |
「仙台空襲(S20年7月10日)では、市内の中枢部500haが焼き払われ、わずかに土蔵、鉄筋コンクリート建物などが焦土の中に残されただけで、当時の全市民の26%が被災し2590人の死傷者を出すという惨状に市民はただ茫然自失、立ち上がる気力を失った。やがて終戦(8月15日)を迎えて幾月たっても民有地の焼け跡の整理が進まず、瓦や石ころが散乱するにまかせ手の施しようがなかった。
理由の主なものは、復興計画が確定していない、建築の制限、建築資材の入手難、大工不足、焦土の処理難、費用の増嵩などのほか、地主が土地を貸したがらず、電灯の復旧もはかばかしくなかったことなど、当時としてはやむを得ない事情が重なっていた。」
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P311
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戦災復興(応急対策) |
戦災地の跡片づけ |
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* 1945年(S20)12月30日、政府の戦災復興計画基本方針決まる
* 1946年(S21)2月、清掃事業が戦災復興事業として認められ、最も緊急を要する個所から重点的に清掃を開始
・ 焼け跡では、瓦や石の大部分は街路の路盤の上に、あるいは整地工事に使用など付近地で処理
・ 清掃事業は、市役所、県庁周辺から開始、S20~23年度で、市中心部、のべ94万5537㎡に達した
・「地区内の民間宅地、また公共用地にまだ取り残されているがれきは多く、運搬用トラックも不足していたので、荷馬車と人手による整地工事を兼ねた清掃事業が中心市街地で行われたのは21年度のことで、4か年計画の第2期にあたる年である。」(「番丁詳伝」P164)
・ 焼け跡の片づけは学徒の動員などで進められた(「仙台市史 特別編4 市民生活」P323)
<金属類回収>
・ S21年11月~、焼け跡の鉄くず類回収 / 再生可能なものを除き、鉄くず499トン、鉛くず6万5556トンを金属回収統制株式会社に売却
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P312~313/「番丁詳伝」P164/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323
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戦災地の跡片づけする市民たちは、「市民の戦後史(仙台市)」P18、「新・目で見る仙台の歴史」P166/「仙台市史 特別編4 市民生活」P323の「図324」
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戦災復興(応急対策) |
住宅応急対策 |
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・ 戦災者を、焼け残った学校その他の施設に収容(縁故先や他町村へも疎開も多かった)
・ 建築は規模に関係なく知事の許認可を要したが、S21年3月末までで1139戸(平均建坪29坪)、無許可で752戸(同18坪)
・ 県が越冬対策で簡易住宅(6畳、3畳、組み立て式)2000戸計画し実物見本を展示したが、申し込みは約800戸、実際に建ったのはごくわずかだった
・ S21年5月、簡易住宅(賃貸)完成(市営住宅250戸、日本住宅営団750戸
・ S22年5月現在、民間自力建築2073戸、市営住宅350戸、営団住宅1814戸、同胞援護会関係138戸、計4375戸
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P313~314
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戦災復興(応急対策) |
上下水道の応急復旧 |
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<上水道>
・ 上水道の給水管破損がひどく、全給水戸数の44%、1万1642戸が被災、漏水量は配水量の58%、給水人口は14万人から8万人に減少
<下水道>
・ 汚水桝や雨水桝にたまった焼け土が排水管に流れ込み、排水機能が一時半減
・ 復旧作業はS20~23年(上水道応急復旧事業)
・ 下水本管の掃除、S21~23年度で一応終了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P314
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戦災復興(応急対策) |
仙台市電 |
1945年(S20) |
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、片平丁の車庫が焼失、循環線全線と長町線の東五番丁~荒町間(あわせて6.6キロ)が爆撃で破壊されて一時運転不能
・ 車両は八幡町、長町、北仙台の各線に分散疎開し、損傷は軽微、一部は翌日から折り返し運転
* 1945年(S20)8月3日、循環線のうち南町回り線が復旧
* 1945年(S20)8月20日、戦災後の軌道復旧作業完了、全線運行再開
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P87、P315
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戦災復興(応急対策) |
仙台市営ガス |
1945年(S20)~1946年(S21) |
<空襲被害>
・ 空襲で、清水小路事業所構内の建物、機械室、倉庫など8棟が全焼、ガス発生炉3基、ガスタンク3基を除いて他の機械設備51基は焼失または損傷 / 市内のガス需要家の約半分1892戸が焼け、供給管が被害
<応急復旧工事>
* 1945年(S20)10月、一応、ガス供給施設の復旧修了
10月10日から、一般需要家1200戸へ供給再開
* 1946年(S21)3月末までに、事業用建物、機械設備復旧完了
* 1946年(S21)10月、被災した供給管など一応修理完了
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P88、P315
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戦没者遺骨調査・収集 |
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1953年(S28)~ |
* 1953年(S28)2月、南海調査団派遣
* 1953年(S28)7月、アッツ島玉砕地の遺骨収集
* 1955年(S30)、大成丸のガダルカナル遺骨収集
* 1956年(S31)2月、ビルマの遺骨収集
* 1956年(S31)6月、ニューギニア方面の遺骨収集
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P272、P279、P282
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
明治・大正期 |
*** 各種年表・資料から転記したが、明治・大正・昭和期とも、これ以外にも慰霊祭などは多数あると思われる ***
<西南戦争>
* 1878年(M11)4月、西南戦争の政府軍戦死者慰霊祭、仙台鎮台・宮城県庁の共催により榴ケ岡で行われる。
* 1878年(M11)11月、同戦没者慰霊の為、経ケ峯に「西討戦死者之碑」が建立される
<日清戦争>
* 1896年(M29)5月20日~21日、日清戦争戦死者の臨時大招魂祭、榴ケ岡で行われる
* 1902年(M35)11月22日、仙台城本丸跡に「昭忠碑」建立
<日露戦争>
* 1906年(M39)4月1日、(日露戦争)第二師団臨時招魂大祭、宮城野原練兵場で行われる
・ 日露戦争では、第二師団の将兵2740人が戦没(「戦争のころ 仙台、宮城」P70)
<大正時代>
第二師団は、大正時代に、「第一次世界大戦で、中国・青島出兵」や「シベリア出兵」をしているが、年表など各種資料に見当たらないだけで、慰霊祭などはあった筈
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「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史10 年表」P210、P230/「仙台市史 年表」P82、P83、P89、P92、P93/「重訂 宮城県郷土史年表」P305、P335/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P70
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「いつか見た街・人・暮らし」P9(招魂祭・歩兵第4連隊の参拝、大正13年4月30日)/同P24(招魂祭連合学生運動会、追廻練兵場、大正14年)/同P43の写真150(招魂祭・大町2丁目、戦前期)/第二師団招魂祭の錦絵(「目で見る仙台の歴史」P113)
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戦没者慰霊 |
仙台市内(一部、県内を含む) |
昭和期(20年まで) |
* 1931年(S6)10月11日、満州事変最初の戦闘で戦死した第二師団兵士32人のうち20人の遺骨が、仙台駅に到着。(十五年戦争初の戦死者は第二師団の兵士だった) 仙台駅頭には陸軍大臣代理、湯沢三千男知事ら300人が出迎え、沿道には市民約5万人が戦友の胸に抱かれて原隊に変える英霊を見送りました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、川内の追廻練兵場で、県、第二師団など主催の合同慰霊祭が行われました。(満州事変では)戦死者が合計300人、このほか負傷700人、凍傷800人を出しました。宮城県では遺骨が到着するたびに慰霊祭が7回にわたり行われました。(「戦争のころ 仙台、宮城」P26)
* 1931年(S6)10月12日、満州事変戦没将兵の遺骨が仙台に到着、10月12日に追廻練兵場で慰霊祭(昭和7年10月まで慰霊祭が7回)(「重訂 宮城県郷土史年表」P427)
* 1931年(S6)10月12日、榴岡の歩兵第4連隊の営門を出た霊柩車(弾薬車であったという)と遺族の胸に抱かれた遺骨の行列は、葬送行進曲の吹奏に送られて市内を行進した。軍部のほか青年団や小中学校生徒なども加わり、沿道に人垣をつくり、会場には列車や市電・バスで詰めかけた約5万人が参列した。合同慰霊祭は以降7回に及んだ(「仙台市史 特別編4 市民生活」P309)
* 1931年(S6)10月12日、第二師団第4連隊の満州事変戦没者合同慰霊祭が追廻練兵場で行われる(「「仙台市史年表」P106、「仙台市史 特別編4 市民生活」P361)
* 1931年(S6)12月18日、第二師団、昭忠会主催、戦没者慰霊祭(「仙台市史10年表」P277)
* 1931年(S6)12月28日、NHK仙台放送局が「満州事変戦没者慰霊祭」(追廻練兵場)をラジオで中継放送(12月18日か?)
<日中戦争 昭和12年7月勃発>
* 1937年(S12)12月、日中戦争、故大泉中佐以下221柱の合同慰霊祭(仙台市公会堂)
*「(開戦から2年足らずの)1939年(S14)4月現在で、宮城県関係の戦死者は2552人、負傷して内地帰還された兵は3131人と「知事引継書」にあります。遺骨が仙台駅に到着するたびに駅前広場では、県、仙台市、軍主催の奉迎式が行われ、その後、西公園内の仙台市公会堂で通夜、翌日、合同慰霊祭が開始されました。昭和14年3月時点で県主催の合同慰霊祭は22回に上り、遺骨がふるさとに帰ると、今度は市町村主催の葬儀が行われました。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P34)
* 1940年(S15)11月17日、日中戦争北中支各地に於て陣没せる管内出身将兵の慰霊祭を東二番丁小学校に於て行う / 引き続き、追廻練兵場の昭忠塔前で、軍馬・軍犬・軍鳩の慰霊祭を行う
* 「宮城県知事事務引継書(昭和17年)によると、日中戦争勃発後は毎月1回、県、仙台市、第二師団の共催で慰霊祭(前夜に通夜法要)を行い、県では知事代理が弔問、葬祭料として将校30円、下士官以下20円を贈ること、その後の市町村葬には知事代理が出席することを決めています。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P79)
<太平洋戦争>
* 1943年(S18)7月31日、ガダルカナル戦、戦没者慰霊祭(追廻練兵場)→ 写真16-57、16-59に説明文あり
* 1943年(S18)10月2日、忠魂合同慰霊祭(立町小学校で)
* 1944年(S19)8月18日、故陸軍大佐佐久間鶴治ほか合同慰霊祭
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「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P26/「宮城県史 7」P685の「仙台部隊関連年表」/「仙台市史 特別編4 市民生活」P309、P361/「仙台市史10 年表」P277、P306、P308/「仙台市史 年表」P106/「重訂 宮城県郷土史年表」P427、P460、P479/「仙台放送局60年のあゆみ」P5/「私にとっての戦争」末尾年表P183/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P34、P79
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ガダルカナル戦、戦没者遺骨奉迎式は、16-57、16-67、16-66
/同遺骨原隊へは、16-58
/同慰霊祭は、16-59、16-60、16-65、16-64、16-61、16-62
/同感謝献金呼びかけは、16-68
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