項目 |
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年 |
内容 |
出典/参考資料 |
関連映像 |
戦後開拓 |
東北開拓事務所 |
1946年(S21) |
* 1946年(S21)6月、東北開拓事務所を仙台に設置(東北6県管轄)、国営の開墾、干拓などの工事、国営工事適地の調査等
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「重訂 宮城県郷土史年表」P512
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戦後教育・仙台 |
国民学校から小学校へ |
1947年(S22) |
<空襲で焼失 国民学校・中等学校>
* 1945年(S20)7月10日、仙台空襲で、市中心部の国民学校5校(全焼4校、半焼1校)、旧制中等学校(全焼13校) / 2学期から、近くの学校校舎の一部などを借用し、二部授業
(→ 具体例は、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318)
<国民学校から小学校へ>
* 1947年(S22)4月、新制小学校発足(市立26校、官立1校)
<戦後、校舎火災頻発>
* 1946年(S21)~1949年(S24)、南材木町国民学校、榴岡国民学校、片平丁小、高砂小、八軒中
<空襲被災、戦後焼失学校の校舎再建> ( )内は再建年月
・ 木町通小(S22.6)、西多賀小(S22.8)、榴岡小(S22.11 騎兵隊跡改装)、東二番丁小(S23.3)、立町小(S24.4)、片平丁小(S24.5)、南材木町小(S25)
<人口急増対応>
* 1948年(S23)~1968年(S43)、人口急増に対応し、市立16小学校新設、生出村編入で2校増加
* ベビーブーム対応で、8校新設
・ S29年度から小学校児童激増、S34年度にピーク
・ S28年度~S33年度に、東長町、小松島、若林、国見、宮城野、荒巻、鹿野、台原の各小学校新設
* 人口のドーナツ化、周辺部急増で、6校新設
・ S40年度~43年度に、四郎丸、新田、旭丘、遠見塚、中山、八本松の各小学校新設
<PTA>
* 1947年(S22)11月11日、仙台市小中学校父兄教師会(PTA)連合会創立
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「仙台市史10 年表」P315、P317/「重訂 宮城県郷土史年表」P522/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P318~321、324~326
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「新・目で見る仙台の歴史」P181(S23年、仙台市立第二中学校で青空卒業式)/「市民の戦後史(仙台市)」P184(ドーナツ化現象で郊外小学校すし詰め教室)
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戦後教育・仙台 |
新制中学校発足 |
1947年(S22) |
<新制中学校>
* 1947年(S22)3月31日、仙台市立中学校19校、市立高等学校6校設置(「仙台市史10 年表」P315)
* 1947年(S22)4月1日、仙台市で29校の新制中学校開校
(「仙台市史年表」P115) / <編者注> 29は、市立18、官立1、私立10の合計
<市立中学校の校舎建築>(仙台市史 続編第1巻)
・ 市立新制中学校は18校
・ 五橋など旧高等小学校4校はそのまま中学校に移行したが、14校は校舎がなく学区内の小学校に併置、授業は小学校教室を借りての二部授業だった
・ S27年までに18校校舎が新築され二部授業は解消したが、引き続き生徒増加に追われながら新増築が進められた
・ S28~S39年度、屋内体育館建設
・ 各中学校校舎等建築状況→「仙台市史 続編第2巻」P328~330
<戦後ベビーブームで、生徒激増>
・ S35年度から激増し、S37年度にピーク
・ S27年度~37年にマンモス校解消のため、中学校3校新設(西多賀、郡山、台原)
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「仙台市史10 年表」P315/「仙台市史年表」P115/「重訂 宮城県郷土史年表」P517/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P95~96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P327~330
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戦後教育・仙台 |
新制高校発足 |
1948年(S23) |
* 1948年(S23)4月1日、新制高等学校が発足
仙台では、旧制中等学校をそのままの形で、新制高校に移行したものが多く、開設当時は、市立5校(うち定時制2校)、県立8校(うち定時制1校)、国立1校、私立12校が新制高校として発足した(一覧は、「仙台市史 続編第2巻」P333)
* 1949年(S24)4月1日、宮城県内の高等学校で学区制実施
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「仙台市史 年表」P115、P116/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P96/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P331~333
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戦後教育・仙台 |
教育委員会 |
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* 1947年(S22)3月31日、教育基本法、公布・施行
* 1947年(S22)3月31日、学校教育法、公布、翌4月1日から施行
* 1948年(S23)6月19日、国会が、「教育勅語等排除に関する決議」および「教育勅語等の失効確認に関する決議」
<教育委員会 公選制→任命制>
* 1948年(S23)7月15日、教育委員会法、公布・施行(公選制)
* 1948年(S23)11月、宮城県教育委員会発足
* 1950年(S25)11月1日、仙台市議会が仙台市教育委員会設置決議
* 1950年(S25)11月10日、仙台市教育委員選挙、立候補者10名、当選4名(このほかに市議会選出の1名)
* 1950年(S25)12月1日、第1回教育委員会
* 1956年(S31)6月30日、地方教育行政の組織及び運営に関する法律制定、教育委員公選制から任命制へ(首長が議会の同意を得て任命)
* 1956年(S31)10月10日、市長が仙台市教育委員5名を任命
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P340~346
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「目で見る仙台の歴史」P182(仙台市教育委員会庁舎)
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戦後教育・仙台 |
道徳の時間/特殊教育/視聴覚教育 |
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<道徳の時間>
* 1958年(S33)月日、学校教育法一部改訂、小中学校に「道徳の時間」特設
<特殊教育>
* 1955年(S30)~1956年(S31)、七郷地区小・中学校に精薄学級開設
・ 仙台市の特殊学級設置経過一覧表(S30~S44)、精神薄弱、肢体不自由、言語障害、病弱、難聴の5種
→ 「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P350
<視聴覚教育>
・ 戦後まもなく、アメリカ文化センターの所有のUSIS映画の活用、16ミリ映写機の全学校配布
* 1959年(S34)、仙台市小学校フィルム・ライブラリー設置
・ 学級にテレビ導入し、NHK学校放送番組を活用
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P348~350、361~362
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「市民の戦後史(仙台市)」P88(七郷小学校の特殊学級)
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戦後教育・仙台 |
学校給食 |
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<昭和戦前期>
* 1932年(S7)、経済不況と社会事情による欠食児童対策として開始
* 1940年(S15)、栄養不良児、身体虚弱児対象とした味噌汁給食実施
* 1944年(S19)、全児童対象に雑炊給食開始するも、戦争により中止
<戦後・小学校>
* 1946年(S21)、米軍の放出物資により缶詰給食で再開
* 1951年(S26)2月、全小学校で完全給食体制
* 1954年(S29)、学校給食法
* 1956年(S31)、文部大臣表彰制度実施 / 仙台の7校が文部大臣賞
* 1958年(S33)から、完全給食実施校に栄養士必置制
* 1967年(S42)5月、初の学校給食高砂センター完成(1万5000食、小学校3校・中学校13校に配送)
<夜間定時制高校>
* 1961年(S36)9月、ミルク給食開始
* 1962年(S37)7月、全額設置者負担で夜間給食開始 / S44年5月に図南高校にも実施され、定時制3校で完全給食実施
<中学校>
* 1963年(S38)9月、依託混合乳によるミルク給食開始
* 1967年(S42)5月、学校給食高砂センター完成により、中学校22校中13校が一挙完全給食に移行
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P458~461/「市民の戦後史(仙台市)」P196
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P106(S19年、戦時中の東二番丁国民学校の学校給食/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P459の写真133(小学校の給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P147(S38年9月、中学校給食風景)/「市民の戦後史(仙台市)」P196(学校給食高砂センター(調理場、配送トラック群)/「新・目で見る仙台の歴史」P194、P195(学校給食高砂センター、外観、調理場、カラー)
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戦後復員/引揚げ |
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* 1945年(S20)12月7日、東北復員監督部、仙台に設置
* 1946年(S21)6月9日、海外引揚者更生連盟結成大会
* 1946年(S21)10月27日、満州移住した仙台村209名、仙台駅に帰着
* 1946年(S21)12月15日、東部復員連絡所仙台支部設立
* 1947年(S22)2月20日、宮城県引揚者生活権確立大会
* 1947年(S22)4月12日、樺太引揚者第1陣60名、仙台駅着
* 1953年(S28)3月28日深更、中国からの引揚第1陣仙台到着
* 1956年(S31)7月、第13次中国帰国船(興安丸)
* 1956年(S31)7月、ハルビン地区関係死亡者名簿、東北地方だけで7405人の氏名が新聞一面を埋める
* 1956年(S31)12月末、最後のソ連引揚1025人、舞鶴に到着
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「仙台市史10 年表」P310、P313、P315、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P511、P516、P552/「仙台年表」P208/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P273、P282
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「新・目で見る仙台の歴史」P170(樺太から引揚第1陣)/同P171と「市民の戦後史(仙台市)」P44(シベリアからの復員軍人仙台駅着)/「市民の戦後史(仙台市)」P26~27(県議会議事堂で引揚促進大会、仙台駅に設けられた引揚者相談所看板、引揚者に茶のもてなし、樺太引揚者)
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1945年(S20)~1949年(S24) |
戦時中(S12~20年)の物資・価格統制については
→ 項目「戦時中の物資統制、使用規制」参照
* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1946年(S21)3月3日、物価統制令公布(価格等統制令は廃止、いわゆる「3・3物価体系」)(「岩波年表」P25)
* 1946年(S21)7月23日、衣料切符の発行を停止、以後は割当配給となる(「菅家年表」P36)
* 1947年(S22)3月5日、内相、警察取締りによる主食供出を訓示(いわゆる強権供出)(「岩波年表」P26)
* 1947年(S22)10月1日、衣料切符制を継続(S24年4月まで続く)(「菅家年表」P41)
* 1947年(S22)10月27日、果物など132品目の公定価格を廃止(菅家年表」P41)
* 1949年(S24)4月1日、野菜の価格統制、配給統制を撤廃、競り売りを再開
* 1949年(S24)5月1日、料理飲食店を再開
* 1949年(S24)5月6日、酒が自由販売となる
* 1949年(S24)6月1日、ビアホールも再開
* 1949年(S24)9月10日、米の配給所が「米屋」に復活
* 1949年(S24)9月14日、東京鉄道局管内では、急行、準急の乗車券が全部自由販売となる
* 1949年(S24)10月、絹布の統制撤廃(自由販売)
* 1949年(S24)11月、アドバルーン広告が解禁
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P35、P36、P41、P43/岩波ブックレット「年表 昭和史」P25、P26/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P55(S24年、衣料配給に集まる市民)/「市民の戦後史(仙台市)」P36(衣料切符)
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1950年(S25)~1951年(S26) |
* 1950年(S25)3月17日、魚の統制撤廃きまる
* 1950年(S25)3月26日、政府供出後の麦自由販売を決定
* 1950年(S25)5月1日、米以外の主食のパンなど自由販売となる
* 1950年(S25)6月5日、味噌・醤油自由販売(「重訂 宮城県郷土史年表」P543では、7月5日から)
* 1950年(S25)9月20日、衣料切符廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P544、「仙台市史10年表」P324)
* 1950年(S25)、人絹とスフ、綿布の統制解除、自由販売に(「仙台市史 続編第2巻」P705)
* 1950年(S25)、この年、コンドームを配給統制品から解除(「菅家年表」P44)
* 1951年(S26)3月1日、雑穀の統制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)4月17日、衣料切符配給制を廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)6月、ガソリンの統制廃止(「菅家年表」P45)
* 1951年(S26)、この年、民営の米屋が復活してくる(「菅家年表」P45)
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P44、P45/「仙台市史10 年表」P323、P324/「重訂 宮城県郷土史年表」P543、P544/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P705
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戦後の物資・価格統制撤廃 |
戦後 |
1952年(S27)~1981年(S56) |
* 1952年(S27)4月1日、家庭用砂糖の統制撤廃
* 1952年(S27)5月8日、麦統制撤廃(6月1日、麦の自由販売実施)
* 1952年(S27)6月4日、国産金ペン万年筆の製造許可(「菅家年表」P46)
* 1953年(S28)10月14日、上野駅着各列車の主食一斉取締り、担ぎ屋260人、米250俵を押収(「菅家年表」P47)
* 1960年(S35)1月、米の値段が公定価格を下回り、米の配給辞退(「菅家年表」P54)
* 1960年(S35)10月、酒類の公定価格を廃止、自由販売制(「菅家年表」P54)
* 1964年(S39)6月1日、ビール酒類、25年ぶりに自由価格に(「重訂 宮城県郷土史年表」P614)
* 1966年(S41)、この年、外米の自由販売が始まる(「菅家年表」P60)
* 1969年(S44)4月1日、自主流通米出回る
* 1969年(S44)5月16日、閣議、自主流通米制度を決定
* 1972年(S47)4月1日、米を物価統制令の適用から除外
* 1981年(S56)6月11日、米穀通帳制度を廃止
~ 以上、1989年(H1)まで ~
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P46、P47、P54、P60、P63、P75/「仙台市史10 年表」P328/「重訂 宮城県郷土史年表」P555、P556、P614/「続・ 宮城県郷土史年表」P8/岩波ブックレット「年表 昭和史」P49
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戦勝祝賀行事 |
南京陥落 |
1937年(S12)12月 |
南京陥落(日中戦争)では、昭和12年12月14日の夜に東京や大阪などで祝戦捷提灯行列が行われている
<仙台でも祝賀行事が行われた>
* 1937年(S12)12月13日、南京を完全に占領し、この日皇軍南京に入城す(「重訂 宮城県郷土史年表」P460)
* 1937年(S12)12月14日、県市主催、南京陥落記念式挙行(「仙台市史10 年表」P291)
* 1937年(S12)12月14日、南京陥落の祝勝行事が行われる(「市史年表」P109)
* 南京陥落の際は、市を挙げて2万人の提灯行列が行われた(「近代みやぎの歩み」「仙台市史 続編第1巻」)
* 1937年(S12)12月13日(14日の間違いか?)、NHK仙台中央放送局、南京陥落祝賀提灯行列の模様を針金磁気録音機で録音し、ニュースで放送
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「重訂 宮城県郷土史年表」P460/[仙台市史10 年表]P291(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「近代みやぎの歩み」(佐々久・著 1979年)P97/「仙台放送局60年のあゆみ」P11/「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P8
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戦勝祝賀行事 |
徐州陥落 |
1938年(S13)5月20日 |
* 1938年(S13)5月19日、徐州を完全攻略す(「重訂 宮城県郷土史年表」P463)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落祝捷提灯行列挙行(「仙台市史10 年表」P293)
* 1938年(S13)5月20日、徐州陥落の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
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重訂 宮城県郷土史年表」P463/「仙台市史10 年表」P293(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109
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戦勝祝賀行事 |
漢口陥落 |
1938年(S13)10月 |
* 1938年(S13)10月27日、武漢三鎮を完全に占領す(「重訂 宮城県郷土史年表」P464)
* 1938年(S13)10月27日、漢口陥落祝捷行列挙行(「仙台市史10 年表」P294)
* 1938年(S13)10月28日、漢口陥落(日中戦争)の祝勝行事が行われる(「仙台市史 年表」P109)
* (仙台控訴院坂本徴章判事夫人たねさんの日記)「昭和13年10月28日、金曜日 観光陥落につき市内は慶祝気分溢れ大変なにぎわいなり。閲兵式分裂式など壮観なりし模様。主人は午後3時より祝賀式に参列、夜、市役所前で提灯行列を見る。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P32)
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「重訂 宮城県郷土史年表」P464/「仙台市史10 年表」P294(出典:仙台市公報)/「仙台市史 年表」P109/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P32
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「思い出のアルバム仙台」(カルダイ社 1980年刊)P128
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戦勝祝賀行事 |
大平洋戦争中 |
1942年(S17) |
<シンガポール陥落>
* 1942年(S17)2月15日、日本軍がシンガポール占領
* 1942年(S17)2月15日、シンガポール島要塞の敵軍、皇軍に無条件降伏す、17日に昭南島と改称(「重訂 宮城県郷土史年表」P487)
* 1942年(S17)2月18日、シンガポール陥落戦捷第一次祝賀会開催(「仙台市史10、年表」P303)
/ 仙台でも祝賀行事が行われた / 河北新報記事「歓喜と日章旗のうずまき、感激を軍歌に乗せて、軍都仙台に音楽大行進がくりひろげられた」(「仙台市史 続編第1巻」P36)
・「シンガポール陥落を祝って仙台では提灯行列が行われました。お父さんたちには清酒2合、家庭には砂糖、小豆が特配されました。5月になると児童たちに、そのころ貴重品になっていたゴムまりが配られました。占領地のマレー半島はゴムの産地です。武器弾薬を届けた輸送船が帰りにゴムの材料を積んで帰ってきたのです。」(「戦争のころ 仙台、宮城」P66~67)
* 1942年(S17)3月12日、戦捷第二次祝賀記念式典(「仙台市史10年表」P304)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争一周年記念県民大会(「仙台市史10 年表」P305)
* 1942年(S17)12月8日、大東亜戦争第一周年記念県民大会を開催、この日、武道大会を挙行(「重訂 宮城県郷土史年表」P493)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P36/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19/「重訂 宮城県郷土史年表」P487、P493/「仙台市史10 年表」P303~304(出典:河北新報)、同P305/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P66~67)
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シンガポール陥落祝捷行列(仙台)は、16-05
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愛宕橋(広瀬川) |
吊り橋開通 |
1901年(M34) |
* 古くは誓願寺渡し
* 1901年(M34)に吊り橋(仙台初)
* 1903年(M36)2月11日、架設
* 1912年(M45)に大水害で流失、 その後は、幅1間の板渡し
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台あのころこのころ八十八年」P240/「仙台市史 年表」P92
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「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図100(つり橋)
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愛宕橋(広瀬川) |
木造橋 |
1916年(T5) |
* 1916年(T5)8月、レンガのピアノ木造橋となる
(「重訂 宮城県郷土史年表」P362では、愛宕橋、霊屋橋の竣工は、T4と記載)
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述/「仙台年表」P190/「重訂 宮城県郷土史年表」P362
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99-110
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愛宕橋(広瀬川) |
コンクリート橋 |
1935年(S10) |
* 1935年(S10)5月20日、上部を失対事業でコンクリート橋に架け替え / 橋長93.42m、橋幅8.9m、歩車道の区別あり / 「仙台市史10 年表」P285では、S10年5月20日架換工事竣工、式典挙行(出典:仙台市報)と記載
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「仙台市史 続編1 行政建設編」P409~410に愛宕橋の記述 /「重訂 宮城県郷土史年表」P445/「仙台市史10 年表」P285
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06-05/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図101~102(S40年、H8年カラー)
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愛宕大橋(広瀬川) |
開通 |
1975年(S50) |
愛宕上杉通り(国道286号)の広瀬川にかかる橋 / 青葉区土樋(つちとい)と太白区越路(こえじ)とを結ぶ / 橋の南詰が愛宕上杉通りと広瀬河畔通りとの境目
* 1975年(S50)10月1日、開通(交通渋滞緩和のため、愛宕橋のやや上流に建設、長さ228m、幅26m)
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「仙台市史 年表」P130/「続・ 宮城県郷土史年表」P45/Wikipedia「愛宕大橋」
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愛宕堰 |
完成 |
1954年(S29) |
広瀬川の河川改修にともない完成 / 愛宕堰は広瀬川から、七郷堀(農業用などの幹線水路)への取水口
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「仙台市史 年表」P119
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愛国婦人会 |
宮城支部創設 |
1901年(M34) |
愛国婦人会は、1901年(M34)に軍事援護と社会奉仕、報国運動を目的に、内務省・陸軍省の後援を得て結成された半官制の全国組織(「仙台市史 特別編4 市民生活」P454)
* 1901年(M34)12月12日、宮城支部創設、事務所を日本赤十字社宮城支部内に併置 / 初代支部長は、県知事夫人の小野田安子 / 1904年(M37)の日露戦争勃発で、第二師団所在地として軍事援助事業に動員され、これを通して愛国婦人会の組織が大きく拡充(会員数:創立当初は全県下で100余名→1905年に1万4000余名)
* 1904年(M37)1月6日、愛国婦人会宮城支部は、日本赤十字社篤志看護婦人会など5つの民間団体と合同で、宮城県連合婦人会を結成 / 第二師団への衣類寄贈や出征軍人家族、戦病死者の慰問、寄付金募集などを開始
* 1931年(S6)12月14日、宮城支部主催「満蒙婦人公演会」開催
* 1937年(S12)の市内会員数、1万4882人
* 1938年(S13)、小学校通学区域ごとに支部の分会 / 1939年(S14)に各分会の連絡統制のために仙台市連合分会を組織
* 1939年(S14)3月6日、愛国婦人会宮城支部に於て、婦人報国の赤誠を宣揚す
* 1941年(S16)4月1日、愛国婦人会仙台市連合会、市役所内に事務所を設ける
<大日本婦人会に統合>
* 1942年(S17)2月2日、大日本婦人会結成(政府の婦人団体一体化政策により大日本国防婦人会、愛国婦人会、大日本連合婦人会が統合された) →項目「大日本婦人会」参照
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P454、P456/「重訂 宮城県郷土史年表」P323、P467/「仙台市史 年表」P91、P92/「市史10年表」P277、P301
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P455(愛国婦人会秋保村分会の旗、カラー)
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愛の聖母院 |
設立 |
1950年(S25) |
* 1950年(S25)2月27日、愛の聖母園(少女の町)を、カナダ在住カトリック教徒の浄財により、小田原柳沢に創立
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「重訂 宮城県郷土史年表」P540
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(1) |
1925年(T14)~1929年(S4) |
* 1925年(T14)4月22日、治安維持法制定
* 1927年(S2)5月30日、京都地裁、京都学連事件に有罪判決、(治安維持法初の適用)
* 1928年(S3)2月1日、「赤旗」創刊
* 1928年(S3)2月20日、初の普通選挙
* 1928年(S3)3月15日、全国で、共産党員一斉検挙、検挙者1568人、起訴488人に及ぶ(3・15事件)
* 1928年(S3)6月29日、改正治安維持法、緊急勅令で公布(死刑、無期刑を追加)
* 1928年(S3)7月3日、全国の警察部に「特別高等課」設置
* 1928年(S3)7月22日、無産大衆党結成
* 1928年(S3)7月24日、司法省、思想係検事を設置
* 1928年(S3)10月30日、文部省、思想問題のための「学生課」設置、各大学に学生主事をおく
* 1928年(S3)12月20日、日本大衆党結成
* 1928年(S3)12月22日、新労働農民党結成(12月24日、解散命令)
* 1928年(S3)12月28日、政治的自由獲得労農同盟準備会創立宣言
* 1929年(S4)3月5日、山本宣治(旧労農党代議士)刺殺
* 1929年(S4)4月16日、4・16事件(共産党員大検挙)
~1930年(S5)~1931年(S6)の間は、年表に記載なし~
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P4、P5、P6/
宮城県関連は、「重訂 宮城県郷土史年表」P397、P506
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(2) |
1932年(S7) |
* 1932年(S7)2月10日、赤化運動によって東北帝大生4人検束
* 1932年(S7)3月1日、日本プロレタリア劇場同盟本部員江津誠等、仙台署に検束
* 1932年(S7)11月10日、県下共産党員の一斉検挙(仙台年表P203)
* 1932年(S7)11月14日、共産党員および青年同盟関係者一斉検挙、宮城県124名、東北帝大理学部助教授服部鼎、東北中学教員鈴木博等逮捕さる(「仙台市史10 年表」P279)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P278、P279/「仙台年表」P203
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(3) |
1933年(S8) |
* 1933年(S8)1月13日、仙台飛行場工事労働者約600名、工事請負人田村組に対し7か条の待遇改善を要求、中野清一逮捕される
* 1933年(S8)1月18日、(旧制)第二高校生12名検挙(青共同盟建設実行運動に関し)
* 1933年(S8)2月28日、特高警察、宮城県消費組合仙台支部を急襲、5名逮捕
* 1933年(S8)3月23日、社会大衆党仙台支部結成(宮城県全農大衆党と社民党が合同)
* 1933年(S8)5月27日、京都帝大瀧川事件に東北帝大生起ち、法文学部有志大会を開く / 6月16日、東北帝大有志が学生大会で決議(瀧川教授休職取消、京大法文学部閉鎖反対など)/東北帝大法文学部同盟休校
* 1933年(S8)10月6日、消費組合設立運動者東北帝大法文学部学生3名検挙
* 1933年(S8)10月7日、仙台署特高警察、共産青年同盟再建運動を探索、市内数カ所急襲
* 1933年(S8)10月17日、広瀬川改修工事労働者300余名、デモを企つ、25日に首謀者2名解雇
* 1933年(S8)10月25日、共青事件街頭レポ東北帝大生門平謙三検挙、(共青関係者検挙終わる)
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宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P280、P281、P282/「宮城百年」(毎日新聞社)年表
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(4) |
1934年(S9) |
* 1934年(S9)5月1日、メーデー共同闘争協議会、約20名各組合代表仙台市役所にデモ、夜、東一館で演説会開催、佐々木更三逮捕される
* 1934年(S9)6月1日、文部省、学生部を拡充,思想局設置
* 1934年(S9)6月27日、宮城県特高課、共産青年同盟関係者東北帝大生ら6名検挙
* 1934年(S9)7月11日、仙台合同運送、荷馬車挽子約80名スト(待遇改善、賃金値上げ要求)
* 1934年(S9)7月17日、非合法右翼団体振頭塾急襲、大久保政夫ほか3名逮捕
* 1934年(S9)9月3日、三馬ゴム工業職工262名、賃上げ要求(翌日スト)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P11/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P283、P284
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思想弾圧/共産党員検挙 |
昭和期(5) |
1938年(S13)~1945年(S20) |
~1935年(S10)~1937年(S12)、年表に記載なし~
* 1938年(S13)2月1日、大内兵衛・有沢広巳・脇村義太郎・美濃部亮吉ら労農派検挙(第二次人民戦線事件)(岩波ブックレット「年表 昭和史」P15)
* 1938年(S13)2月1日、宮城県特高課、第二次人民戦線事件で佐々木更三、宇野弘蔵ら14名検挙(「仙台市史10 年表」P292)
* 1938年(S13)2月1日、各公私立大学教授中のグループたる所謂新装共産党に対し三府六県に亘り第二次検挙(35名)を行う(「重訂 宮城県郷土史年表」P462)
~1939年(S14)~1944年(S19)の間、年表に記載なし~
<敗戦後>
* 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所より春日庄次郎ら共産党員を釈放(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
・ 1945年(S20)9月10日、宮城刑務所に収容されていた政治犯、岡邦雄、赤木健介、春日庄次郎らが、前夜来の雨の中を、栄養失調の姿で出所した(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245)
* 1945年(S20)10月4日、GHQ、治安維持法・国防保安法廃止、政治犯即時釈放、特高警察廃止、天皇制批判の自由を指令(「仙台市史10 年表」P310)
* 1945年(S20)10月5日、宮城県高等警察課を廃止(「重訂 宮城県郷土史年表」P506)
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岩波ブックレット「年表 昭和史」P15/「宮城百年」(毎日新聞社)年表P299/宮城県関連は、「仙台市史10 年表」P292、P310/「重訂 宮城県郷土史年表」P462、P506/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P245
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P265(S13年2月2日、宇野弘蔵東北帝大法文学部助教授らの検挙を伝える「河北新報」)
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復興盆踊り |
開催 |
1946年(S21)8月 |
* 1946年(S21)8月、「復興第一年祝賀盆踊り」
・ 敗戦(S20年8月)の翌年、東一番丁では他の町内に先駆けて、復興盆踊りを開催
・ 場所は、東一番丁大通りの一力邸(河北新報社会長)の空襲焼け跡の原っぱ (その後、この場所は「青葉通り」になった)
・ 「森権五郎氏が中心になり戦後初の盆踊り大会が開かれ毎晩数万人が集まる」(「東一番丁創立五十周年」P8より)
・ 薄田清が「伊達で鳴らした仙台さまの心意気だよ地固めも・・・」と復興盆おどりを作詞し、お囃子は柴田量平が受けもった」(「仙台市史 続編第2巻」P197~198)
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「東一番丁創立五十周年」P8/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P197~198
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53-09、53-26
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彫刻のあるまちづくり事業 |
開始 |
1977年(S52)10月 |
* 1977年(S52)10月、仙台市、市制施行八十八周年を記念し開始
<仙台市HP 「彫刻のあるまちづくり」より>
平成13年3月までに、第1期12作品、第2期12作品を設置し、24年間にわたり1年に1作品ずつ設置してきた彫刻のあるまちづくり事業が完了(全作品一覧あり)
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「仙台市史 年表」P131/「続・ 宮城県郷土史年表」P73/仙台市HP「彫刻のあるまちづくり」
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廃藩置県(仙台県誕生) |
仙台県誕生/宮城県と改称 |
1971年(M4)/1972年(M5) |
<版籍奉還>
* 1868年(M1)12月7日、伊達藩主(第13代)慶邦は、慶応4年の戊辰の役、奥羽戦争の罪を問われ、仙台城没収と28万石(宮城・黒川・名取・玉造・志田の5郡)に削封
・ 慶邦の実子亀三郎(3歳)に家名を継がせ、藩内の土地、領民の版籍を奉還
* 1869年(M2)6月、仙台藩「知事」に当主の亀三郎任命される / 仙台城二の丸に「勤政庁」設置(翌3年藩庁と改称)
・ 伊達藩から没収した旧領地に、政府直轄地として「涌谷県」「栗原県」「桃生県」設置し「権知事」を置く
・ その後の名称変更や統合(白石県→「角田県」/ 桃生県→「石巻県」/ 登米・石巻が合して「登米県」など)
<廃藩置県>
* 1971年(M4)7月、廃藩置県、「仙台県」誕生(仙台藩、角田県、登米県を合わせ、玉造郡は一関県(岩手)に分割) / 藩庁は県庁となり、二の丸から養賢堂に移転、二の丸跡には「東北鎮台」(のちの第二師団)設置
* 1872年(M5)1月、「仙台県」が「宮城県」と改称
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P361~362
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広瀬通り |
戦後新設 |
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「広瀬通り」は、戦後の仙台市戦災復興事業で、青葉通りとともに市中心部を東西に貫く幹線道路として、仙台空襲(S20年7月)の焼失地域に新設された
・ 幅員36メートル
・ 旧立町通り、旧玉澤横丁、立町を拡幅、その他は空襲焼け跡に造成した
* 1952年度(S27)、車道の中央部分の舗装開始
* 1953年(S28)、大部分が、日米行政協定による事業として、一気に舗装すすむ
旧・「玉沢横丁」は1907年(M40)に拡幅され、東一番丁の中心的存在に(娯楽街として仙台第一の地位)(昭和41年河北新報記事による)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404
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22-19、22-20、22-21、22-22/「市民の戦後史(仙台市)」P59(S25年の東一番丁角付近、元寺小路付近)
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広瀬通り |
東一番丁付近の拡幅が完成 |
1954年(S29) |
* 1954年(S29)4月、広瀬通り、定禅寺通りとも、東一番丁付近の拡幅が完成
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P40(S33、広瀬通・東一番丁角、空撮)
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広瀬通り |
全線開通 |
1967年(S42) |
* 1967年(S42)1月25日、広瀬通りが全線開通、同時に定禅寺通りの拡幅も完了(東一番丁付近完成はS29年4月)
・ 植栽は、当初は桜、柳 → その後はイチョウに
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「東一番丁連合会 創立五十周年」記念誌P9
座談会「仙台 戦中戦後を語る」
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「仙台クロニクル」(風の時編集部 2020年刊)P48~49(S34、東二番丁通り角付近、俯瞰)
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広瀬通り |
横断地下道 |
1986年(S61) |
* 1986年(S61)5月16日、広瀬通地下歩道、一部完成
* 1987年(S62)4月13日、横断地下道開通
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「続・ 宮城県郷土史年表」P205、P222
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広瀬橋(広瀬川) |
コンクリート橋/鋼桁橋 |
1909年(M42)/1959年(S34) |
・ 広瀬川に架かり、長町から旧市内へ入る国道の橋
(M42に長町橋を架け替えて「広瀬橋」に名称変更)
<流失相次ぐ>
* 明治年間(長町橋の時代)に、広瀬川の氾濫で以下の年に橋が流失 →1884年(M17)9月15日、1889年(M22)9月11日、1908年(M41)9月30日
<鉄筋コンクリート橋>
* 1909年(M42)11月25日、広瀬橋竣工
・地元では日本の鉄筋コンクリート橋の第1号といわれるが、異説あり / 橋長127m、橋幅10.3m / 両側に当時としては珍しく歩道がつけられていた(写真99-111)
* 1935年(S10)、上流側に市電の専用橋ができた
(長町までの市電が開通し使われたのは翌S11年から)
<戦後、かけ替え>
* 1959年(S34)8月4日、老朽化で架け替え、渡り初め式 / 橋長127m、橋幅22mの鋼桁橋 / 市電専用橋は橋の中央に複線の軌道として入れられた
* 1988年(S63)4月21日、広瀬橋~長町駅前までの「杜のみち歩道」完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P408/「仙台市史 年表」P85、P87、P94、P96/「仙台市史10 年表」P236/「重訂 宮城県郷土史年表」P593/「続・ 宮城県郷土史年表」P244
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99-111/「目で見る仙台の歴史」P143(コンクリト橋)/同P199(広瀬橋の拡張工事)/「新・目で見る仙台の歴史」P131(コンクリート橋)/「市民の戦後史(仙台市)」P100(S32年8月、架け替え工事)/「仙台市史 特別編4 市民生活」口絵図14~18(M42年架橋工事中、S40年、H9年)
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広瀬川の清流を守る条例 |
制定 |
1974年(S49) |
<条例制定以前>
* 1956年(S31)から、アユを放流
* 1968年(S43)6月、カジカ500匹放流
<条例制定>
* 1974年(S49)9月28日、広瀬川の清流を守る条例、仙台市が制定
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「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209/「仙台市史 年表」P129
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P240(S28年ころ、広瀬川で水遊びする子ら)
/「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P209の写真61(カジカの放流)/「市民の戦後史(仙台市)」P212(S43年5月の稚アユ放流、S43年6月のカジカ放流)/「新・目で見る仙台の歴史」P190(カジカ放流)と(釣り人たち)
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幼稚園 |
木町通小附属幼稚園/公立仙台幼稚園/東二番丁小附属幼稚園 |
1879年(M12) |
明治12年開園の仙台最初の幼稚園(名称の変遷)
全国で2番目、公立幼稚園では全国1番目
(1) 1879年(M12)6月7日、仙台区木町通小学校附属幼稚園が、定禅寺通櫓丁に開園(仙台で初)
(2) 1984年(M17)、公立仙台幼稚園(仙台区南光院丁) / 園児は、男子29名、女子22名
(3) 1986年(M19)、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる(場所は東二小敷地内)
(4) 1896年(M29)3月28日、東二番丁尋常小学校付属幼稚園、独立して仙台市立幼稚園に
(5) 1916年(T5)4月1日、仙台市立仙台幼稚園、東二番丁尋常小学校付属幼稚園となる
(6) 1939年(S14)年2月28日、東二番丁小学校付属幼稚園改築工事竣工
(7) 1941年(S16)4月、園名を「仙台市立東二番丁国民学校附属幼稚園」と改称
(8) 1945年(S20)7月、太平洋戦争の空襲激化に伴い休園、7月10日の仙台空襲により園舎全焼、一時片平丁小学校に移り、一部を借り受け授業を行う
(9) 1945年(S20)12月、父母有志による「東二番丁小学校父母教師会立幼稚園」として復興、園舎落成
(10) 1974年(S49)3月、仙台市立東二番丁幼稚園として設立認可
(11) 2010年(H22)4月、民営化し、私立幼稚園に改組(場所は東二番丁小学校内で変わらず)
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(1)「仙台市史 年表」P83、「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P368/(1)(2)「仙台市史 特別編4 市民生活」P442/(4)「仙台市史 年表」P89/(5) 「仙台市史 年表]P97/(6)「仙台市史10 年表」P295/そのほかは、Wikipedia「東二番丁幼稚園」(2016年4月)
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幼稚園 |
仙台幼稚園(私立) |
1905年(M38) |
* 1905年(M38)5月、仙台幼稚園を東三番丁に設立(写真23-01に「宮城婦人会附属」の字あり)(「仙台年表」P180)
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「仙台年表」P180(出典:仙台市教育会の「仙台郷土史」、S8刊)/明治42年の「仙台市統計一班」
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23-01
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幼稚園 |
仙台市内 |
明治42年当時 |
明治42年の「仙台市統計一班」(国立国会図書館オンライン 書誌ID 000000454715)によると、明治42年当時の仙台市内の幼稚園は4園
・ 市立仙台市幼稚園(東二番丁、明治12年創立)
・ 私立宮城幼稚園(東二番丁、明治36年創立)
・ 私立仙台幼稚園(元寺小路、明治38年創立)
・ 私立青葉幼稚園(東一番丁、明治42年創立)
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明治42年の「仙台市統計一班」
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幹線道路 |
仙台北環状道路 |
1988年(S63) |
* 1988年(S63)11月16日、仙台北環状線(宮城県道37号、都市計画道路八乙女・折立線)、開通
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「仙台市史 年表」P135
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幹線道路 |
宮城県道22号仙台泉線 |
1985年(S60) |
宮城県道22号仙台泉線(元寺小路~七北田線)は、青葉区本町から、仙台市泉区将監に至る県道(主要地方道)で、青葉区と泉区を結ぶ幹線
* 1953年(S28)、広瀬通り角から北にイチョウ91本植栽(以降、計240本に)
* 1985年(S60)12月25日、拡幅完了し開通(「続・ 宮城県郷土史年表」P198)
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P468?/「続・ 宮城県郷土史年表」P198
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幹線道路 |
東部復興道路 |
2019年(R1) |
* 2019年(R1)11月30日、仙台市の東部復興道路(かさ上げ道路、総延長10.2㎞)が全線開通
「東部復興道路は、仙台市宮城野区蒲生から若林区藤塚までの延長10.2km(県道区間6.8km、市道区間3.4km)からなり、約6mかさ上げし、海岸堤防、海岸防災林との多重防御で津波被害を軽減し、内陸側の既存集落や防災集団移転先の安全確保を図るためのもので、津波に対する多重防御の要となるものです。」(復興庁HPより)
仙台市が東日本大震災で被災した沿岸部に整備 / 約6メートル盛り土をして堤防機能を持たせた / 30日、若林区の震災遺構荒浜小学校で記念式典
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河北新報記事(2019年12月1日)/復興庁HP
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幹線道路 |
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・ 自動車専用道(高速自動車道など)→ 項目「自動車専用道」参照
・ 国道は → 項目「国道45号線」、項目「国道48号線」
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幹線道路 |
定禅寺通り |
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→ 項目「定禅寺通り」参照
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幹線道路 |
青葉通り |
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→ 項目「青葉通り」参照
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幹線道路 |
広瀬通り |
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→ 項目「広瀬通り」参照
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幹線道路 |
南町通り |
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→ 項目「南町通り」参照
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幹線道路 |
東二番丁通り |
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→ 項目「東二番丁通り」参照
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幹線道路 |
東五番丁通り(長町堤町線) |
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* 1949年度(S24)、車道の中央部分の舗装、失業対策事業で開始
* 1952年度(S27)、国庫補助で本格的な中央部分舗装開始
* 1987年(S62)5月27日、東五番丁通(愛宕~上杉線)の中央分離帯に水銀灯設置
* 1987年(S62)7月10日、東五番丁通りにガス灯87基設置される
* 1988年(S63)4月、五番街ガス灯、110基完成
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「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P404/「続・ 宮城県郷土史年表」P224/「仙台市史 年表」P135/「わが心の仙台駅前史」年表
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「仙台市史 特別編4 市民生活」P165(S24年頃、東五番丁での強制代執行)/「目で見る仙台の歴史」P176に拡幅工事前後の東五番丁通リ(堤町線)/「市民の戦後史(仙台市)」P76(S28年、拡幅工事中の東五番丁通り・南町通り交差点
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年賀郵便 |
戦時中に廃止 |
1941年(S16)~1947年(S22) |
* 1940年(S15)11月6日、年賀郵便の取扱いを中止
* 1948年(S23)12月5日、昭和15年に廃止の年賀郵便を復活
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菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P42
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