仙台よみとき用語年表
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戦没者慰霊 仙台市内(一部、県内を含む)  昭和戦後期  <仙台市の戦没者遺骨伝達式>
*1949年(S24)、第288回戦没者遺骨伝達式 / 翌年になっても遺骨伝達式は終わっていない(「仙台市史 特別編4 市民生活」P316)

<戦後>
* 1952年(S27)8月20日、宮城県五万柱の戦没者の追悼式(仙台市公会堂)
* 1965年(S40)7月10日、戦災(仙台空襲)20周年追悼式
* 1972年(S47)2月6日、ガダルカナル島に鎮魂のレリーフ建立
* 1972年(S47)6月15日、小松島の常盤台霊園でガダルカナル島戦没者霊魂碑序幕
* 1975年(S50)5月25日、旧陸軍歩兵第4連隊第6中隊の戦没者慰霊塔を、気仙沼市の観音寺に建立
* 1975年(S50)9月14日、仙台市常盤台霊園で、旧歩兵104連隊戦没者慰霊塔を除幕
* 1981年(S56)10月25日、ガダルカナル島平和公園に潮音像建立
* 1982年(S57)7月、加藤正治(角田市小坂)が、戦没者供養の地蔵尊を市道沿いに建立
* 1982年(S57)8月20日、小松利邦(気仙沼市太田1丁目)は戦友慰霊像完成
* 1983年(S58)6月18日、昭和17年に大河原町から出征した加藤源三郎の遺品・日章旗戻る
* 1983年(S58)8月26日、仙台市保春院住職が、ガダルカナル島に鎮魂碑建立、慰霊祭
* 1987年(S62)9月9日、常盤台霊苑に、ガダルカナル・ビルマの戦死者足跡記念碑除幕
* 1988年(S63)8月7日、仙台市岡田の照徳寺に戦没者慰霊塔建立
 (以上、昭和末年まで) 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P316/「重訂 宮城県郷土史年表」P557、P620/「続・ 宮城県郷土史年表」P6、P11、P41、P44、P135、P149、P163、P165、P229、P250   
戦時衣料 国民服 制定  1940年(S15)  * 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1940年(S15)11月2日、「国民服令」(勅令)公布 
・ 戦時下の衣装簡素化のため制定された
・ 男性用で、軍服をモデルにしたカーキ色(国防色)の服(5つボタン)
・ 「甲号」は、襟が立折襟式開襟で詰襟と開襟の両方で着られる/「乙号」は、襟が立折襟
・ 一着で仕事着、日常服、礼服を兼用できた(儀礼章をつければ礼服にも使用できた) 
仙台市史 特別編4 市民生活」P314/毎日新聞社「昭和史事典」P132/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27  60-40/乙号は、24-01/「仙台市史 特別編4 市民生活」P50(国民服、カラー) 
戦時衣料 国民帽 制定  1940年(S15)  * 1940年(S15)11月2日、「国民服令」公布
・「烏帽子型」と「戦闘帽型」(陸軍略帽型)の2種あった 
毎日新聞社「昭和史事典」P132   
戦時衣料 モンペ、防空頭巾、戦闘帽、ゲートル、髪型  1934年(S9)~1942年(S17)  * 1934年(S9)6月21日、陸軍省が、陸軍軍服の色を「国防色」と命名し、被服統一運動を開始(菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15 / 「日録20世紀 1934年」P16)
* 1938年(S13)1月、全国の女学校で生徒の断髪を禁止(菅家年表)
* 1938年(S13)、女子のモンペ姿が多くなる(菅家年表)
* 1938年(S13)、成年男子に国民服(国防色)が奨励され、流行(仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1938年(S13)7月15日、以後、男子は丸坊主、女子はパーマネントはできず(菅家年表)
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを禁止(菅家年表)
* 1939年(S14)6月16日、国民精神総動員委員会で生活改善刷新案決定(学生の長髪禁止、パーマネント禁止)(菅家年表)
* 1939年(S14)、この年、男はすべて国民服、カーキ色、5つボタンとなる(菅家年表)
* 1940年(S15)12月、この頃、時局の一反映として女学校生徒のモンペ姿が登校にみられ人の注目をひく(「重訂 宮城県郷土史年表」P479)
* 「昭和15年12月、女学校生徒のモンペ姿が通学にみられる」(「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表)
* 1940年(S15)9月6日、大日本理容連盟、標準髪型以外は受付を断ることにした(「菅家年表」P24)
* 1940年(S15)11月27日、中等学校以上の制服を統一、昭和16年4月から国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)
* 1941年(S16)、この年、防空ずきん、もんぺ、ゲートルなどの非常時服装が目立つ(「菅家年表」P27)
* 1941年(S16)、女性のモンペ姿が急増(「仙台市史 特別編4 市民生活」P314)
* 1942年(S17)2月19日、婦人国民服(標準服)決定、6種(「菅家年表」P28)

 
「仙台あのころこのころ八十八年」掲載年表/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P15、P20~28、P31/「重訂 宮城県郷土史年表」P479/仙台市史 特別編4の「市民生活」P27に「戦時中の衣服」につき記述あり/「仙台市史 特別編4 市民生活」P314  「仙台市史 特別編4 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち/同P54(S18年、モンペ姿で電報配達奉仕に出発する女学生)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー) 
戦時衣料 戦時衣生活簡素化実施要項   1943年(S18)   * 1943年(S18)6月4日、戦時衣生活簡素化実施要項を閣議決定

<男性>は、新規仕立ては「国民服乙号」またはそれに準ずるものに限定(茶褐色以外も可)/ 背広、ダブルの外套、合着の新規仕立ては禁止
<女性>は、婦人標準服の普及が図られた

・ 和服は、<男性>は筒袖、<女性>は元禄袖で、長袖は禁止

<戦後の変化>
* 1947年(S22)、この年、モンペ姿が減り、スカートが増加(「菅家年表」P41) 
国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P41  「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(婦人標準服カラー) 
戦時衣料 中等学校以上の制服  1935年(S10)~1944年(S19)  * 1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた(「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506)⇒ この項、S10年が正しいのか要検証

* 1941年(S16)4月、中等学校以上の制服を統一、国防色の制服に戦闘帽となる(「菅家年表」P25)

* 1943年(S18)6月4日閣議決定「戦時衣生活簡素化実施要項」で、新規仕立ては、
<男子学生生徒>は、「国民服乙号」、外套は「国民服用外套」に限定
<女子学生生徒> 装飾部分の除去に考慮し、専門学校以上は、「婦人標準服」

* 1944年(S19)2月8日、女学生の戦時型制服決定、下衣(ズボン式)の膝、足首を皮紐で締める(菅家年表P32)

 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506/国立国会図書館リサーチ・ナビで「戦時衣生活簡素化実施要綱」/「仙台市公報 第198号 昭和18年7月1日」/菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P25、P32   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1936年(S11)  ・ 1936年(S11)、東日本洋服組合、ステープル・ファイバー(スフ)の利用を決議(オーストラリアとの間に通商制限問題が起こり、ラシャの原料でもある羊毛の輸入が制限されたため、その代用として)
・ 1936年(S11)?、国会で黒無地の背広を着るよう申し合わせ 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P50   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1937年(S12)  ・ 1937年(S12)、陸軍被服協会、反毛報国運動展開(毛織物廃品物の再生利用)
・ S12年、綿織物にスフ混用規制公布 / 軍需・輸出品以外は、3割以上のスフ混入義務づけ 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P50   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1938年(S13)  ・ 1938年(S13)3月1日、県糸配給統制規則公布 / 切符制の始まり
・ 1938年(S13)6月29日、線製品の製造販売を制限 / 主婦が綿製品の買いだめしたため、商工省が一人1品を厳命
・ S13年11月、国民精神総動員中央連盟は、カーキ色のチョッキ、ネクタイなしの国民服の着用を提唱 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P50   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1939年(S14)  ・ 1939年(S14)3月、織物用原紙として紙糸の利用はじまる
・ 1939年(S14)4月24日、国産羊毛の購買禁止 / 洋服はすべてスフ時代に
・ 1939年(S14)8月、商工省による染色価格の統制により、男子用服地はカーキ色を主とした濃紺あるいは黒の3種に、女子用服地は柄物減少し10種類以内に
・ 1939年(S14)11月、国民服制定権限が陸軍被服廠に移り即時実行された 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P50   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1940年(S15)  ・ 1940年(S15)1月、女学生服の日本化運動(腕と脚を隠す)
・ 1940年(S15)3月、紙糸を使った洋服登場
・ 1940年(S15)7月7日、七・七禁令(奢侈品等製造販売禁止規則) / 洋服の最高価格制限など
・ 1940年(S15)9月13日、中学校の制服、男子は国防色、女子は紺色
・ 1940年(S15)11月2日、国民服令が勅令で定められる / 型は4種 / 上着1号(甲号)は三揃背広を軍服化、2号は1号に準じた型、3号は一般背広の裁断によるもの、4号(乙号)はステンカラー5つボタンの軍服調のもので運動・作業用 / 上着も中衣も軍服に日本調をとりいれ動きやすい形にした 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P50~51  国民服は、60-40、乙号は、24-01、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図55) 
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1941年(S16)  ・ 1941年(S16)4月、中等学校新入生の制服改訂、制服新調の際は
   男子は、国民服と戦闘帽
   女子は、セーラー服を廃止し、白い覆いをつけたヘチマ型のカラー、ベルト付のジャケットとスカート
・ 1941年(S16)5月、国民学校児童に抽選で学童服や靴下を配給       
「仙台市史 特別編4 市民生活」P51   
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1942年(S17)  ・ 1942年(S17)2月1日、衣料切符制度実施
  (1月中は、全衣料品の移動禁止し、在庫品調査)
   年間に、市では1人100点、郡部は80点
・ 宮城県、繊維製品の取引団体を指定
   三越、藤崎や繊維製品関係小売商業組合などの諸組合    
   指定取引団体のみが、県に新しく設立された繊維製品 
   統制会社から、配給を受けて消費者の手に渡す
・ 1942年(S17)2月、厚生省、婦人の標準服(和・洋)を指定
       甲型、乙型、活動着も甲型と乙型 
       他に下着と付属品
・ 1942年(S17)2月4日、文部省、青年学校生徒の制服制帽を、前年制定した中学校の制服と同型とした
・ 1942年(S17)年、外出時のゲートル使用が強制され、
ゲートル姿や白はちまき姿が街にあふれるようになった 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P51~52  婦人標準服は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P51(図56) 
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  1943年(S18)  ・ 1943年(S18)2月1日、新衣料切符(全衣料の点数を25%引上げ)
・ 1943年(S18)2月、商工省、決戦下衣料生活最低標準案
・ 1943年(S18)5月30日、大政翼賛会が、衣生活の刷新、新調の見合せ、更生利用運動を全国展開 / 短袂の実行、国民服着用、モンペ着用、衣類融通交換奨励
・ 1943年(S18)6月3日、政府、衣料簡素化実施要綱、閣議決定
・ 1943年(S18)8月10日、商工省、長袖、長帯の生産を禁止
・ 1943年(S18)8月31日、大日本婦人会、9月以降の毎月8日を「短袖、モンペの日」と決め、「決戦です。すぐ長袖を切りましょう」が合言葉
・ 1943年(S18)12月5日、東北帝国大学、学生に新調の服を禁止 / やむを得ない場合は、男子は国民服乙型、女子は婦人標準服を調整と決定 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P52~53  衣料切符は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P52/衣料点数早見表(S18年改正時)は、「仙台市史 特別編4 市民生活」P53 
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」などより  1944年(S19)~1945年(S20)敗戦まで  ・ 1944年(S19)1月、宮城県第一高等女学校、モンペ、ズボン姿を制服に(仙台のモンペ時代に先べん)
・ 1944年(S19)2月6日、政府、女学生の戦時標準服を制定 / 上下衣に分かれ、裾と膝を皮紐で締める / 上衣は婦人標準服乙型、下衣はモンペ
・ 1944年(S19)4月、農林省、野生の苧麻(チョマ)、桑皮、竹の幹などで衣料品70万着製造
・ 1944年(S19)4月19日、宮城県経済部、繊維資源供出として、桑皮、生苧、麻、竹皮、藺草(イグサ)、ひま、柳枝、蒔枝、葛、かわむぐら、蒲類の大増産運動を広げると発表 / 農業会、翼賛壮年団、中等学校、国民学校、青少年団、大日本婦人会を総動員して
・ 1944年(S19)5月21日、仙台市街地で、警官や警防団員が通行人の服装チェックし、注意する(河北新報記事)
・ 1944年(S19)、衣料切符支給さらに減る / 市街地では、30歳以上は年40点、30歳未満は年50点と、従来の約半分に
・ 1944年(S19)、足袋と靴下の配給は、一人1足、男性用パンツは13人に1人しか行き渡らず
・ 1945年(S20)、衣料切符、新発行停止 
「仙台市史 特別編4市民生活」P53~54/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P123  モンペ姿は、16-7241-0276-1016-10など(写真データベースで、キーワード“モンペ”で検索) / 「仙台市史 特別編5 市民生活」P30(モンペ姿の女性たち)  
戦時衣料 「仙台市史特別編4 市民生活」より  戦後 1946年(S21)~1950年(S25)  ・ 戦後、繊維製品も進駐軍の統治下におかれたいたが、1946年(S21)9月、GHQが復旧を認める
・ 1945年(S20)、繊維製品1人あたり消費量は、1930年(S5)~1934年(S9)の12.6%

・ 1946年(S21)3月、衣料切符制度廃止し、4月から割当購入制度
・ 1947年(S22)4月1日、国内向け繊維に一応の見通しが得られ、衣料点数切符制度を復活 / 一人1年12点(背広1着が70点)
・ 1929年(S24)6月、衣料切符1人30点に(10点は純綿生地、20点は人絹スフ)、絹製品は自由販売に
・ 1930年(S25)1月、繊維製品の価格統制撤廃(衣料事情が急速に好転)
・ 1930年(S25)9月、衣料切符制廃止
 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P54~55   
戦時衣料 衣料品購入価格高騰  1937年(S12)~1945年(S20)  <公定価格>
・ 1937年(S12)→1945年(S20)7月に、2倍近くに
<ヤミ価格>
・ 晒(さらし)木綿は、S18年12月に公定価格の6倍、S20年7月には更に8.5倍に(衣料切符を持っていても品不足で買えず、ヤミ市場では高値で購入困難) 
「仙台市史 特別編5 市民生活」P54   
戦時中の疎開者受入れ 仙台市/宮城県  1945年(S20)  <京浜地区等から仙台市へ>
* 1945年(S20)3月~9月、受け入れた人員疎開は、935世帯、2791人
* 1945年(S20)3月~10月、受け入れた他都市からの戦災者は、3968所帯、8848人

<宮城県への疎開者>
「宮城県知事引継書(昭和20年6月10日)」によれば、宮城県へは首都圏などから空襲を避けて、あるいは空襲の被災者が、7万7490人疎開(東京からの学童集団疎開1万3669人、付き添いの教員1802人を含む、それ以外に縁故疎開者4万人、空襲で家を焼かれた人が2万人) / 大崎事務所管内が最多で1万241人(多くの集団疎開児童を鳴子温泉に収容)、仙台市は5856人、石巻市は2815人、塩釜市733人 / 東京都から、縁故のない妊婦28人と乳幼児68人の集団疎開受入れ要請あり古川健民修練所に入れる準備中 / 伊豆大島の住民全員引揚げのため、宮城県には1000人受け入れ要請あり、未耕作農地がある6村で準備中(ただし、住民輸送船の都合がつかず実現しなかった) (「戦争のころ 仙台、宮城」P200~201)
 
「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)」P41/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P200~201   
戦時中の物資統制、使用規制 概説    ・ 経済統制の結果、食糧・衣料などは統制会社ができて割当制となった。宮城水産株式会社も魚市場を東七番丁に移して魚類配給の元締めをした。衣料も統制会社ができた。
・ 終戦間近には青物も不充分で、市民は野に野草を摘み、南瓜や甘藷のつるまで配給された。買出しに田舎へ出ても物と交換でなければ手に入らなかった。

・ この現象は終戦後も続いた。物資不足のため配給で足りぬ人々は農山漁村へ買出しに出かけた。郊外から物資を買い集めてきてさばく人々もあらわれた。また、衣料・食糧の配給が統制され米穀通帳・衣料切符が使用された。

☆ 太平洋戦争前後の「食糧配給統制の経過、食糧難、体位の低下、栄養失調の実態」については、【「仙台市史 特別編4 市民生活」P404~407「栄養失調と体位の低下」】に記述あり 
「目で見る仙台の歴史」P170  「目で見る仙台の歴史」P170(「家庭用食糧通帳」と「衣料切符」)/同169(買出し列車に必死に乗り込む)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P52(S9年、衣料切符、カラー)/同P53(S18年改正衣料点数早見表、カラー)/同P407(仙台市内学童の体位低下の変化グラフ) 
戦時中の物資統制、使用規制 (1)  1937年(S12)~1938年(S13)  ☆ 戦時中の主食配給量の変遷は → 項目「主食配給量」参照

<1937年(S12)7月7日、日中戦争開戦>

* 1937年(S12)12月27日、商工省、綿製品にスフ等混入(30%)規則を公布
* 1938年(S13)3月1日、綿糸配給統制規則を公布施行
* 1938年(S13)5月1日、東京の自動車のガソリンは切符制となる
* 1938年(S13)5月9日、商工省に臨時物資調整局設置(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)5月20日、綿糸販売価格取り締まり規則公布
* 1938年(S13)7月1日、靴を除いた革製品の製造を禁止
* 1938年(S13)7月14日、たばこの銀紙を廃止しパラフィン紙で代用とする
* 1938年(S13)7月、東京の青バスで木炭車に改造開始
* 1938年(S13)7月15日、バリカン以外の鉄器の製造を禁止
* 1938年(S13)8月4日、乗用車の新規製造を禁止
* 1938年(S13)8月、入れ歯に陶材を使用
* 1938年(S13)9月1日、商工省、新聞用紙の使用制限開始、12%削減
* 1938年(S13)9月19日、石油配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1938年(S13)10月1日、商店法を改正、夜10時以降の商品販売を禁止(料飲店を除く)
* 1938年(S13)、陶製なべ、竹製スプーン、鮭皮ハンドバッグなど代用品が登場
* 1938年(S13)、スフの衣料が多くなり、純綿が姿を消しはじめる
* 1938年(S13)、ゴム配給統制規則で、「コンドーム」が軍需品に 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P18、P20、P21/岩波ブックレット「年表 昭和史」P15   
戦時中の物資統制、使用規制 (2)  1939年(S14)  * 1939年(S14)3月5日、ゴム配給制限でテニスボールがなく、庭球を中止
* 1939年(S14)3月30日、中央物価委員会で、公定価格を決定(砂糖、清酒、ビール、木炭、絹製品など)
* 1939年(S14)4月12日、米穀配給統制法公布
* 1939年(S14)6月、中学生の金ボタンを廃止、陶製のボタンとなる(菅家年表)
* 1939年(S14)7月26日、米国、日米通商航海条約廃棄を通告(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)8月9日、新規の自家用車は不許可となる
* 1939年(S14)10月1日、石油、配給制となる
* 1939年(S14)10月18日、9.18ストップ令公布(価格等統制令、地代家賃統制令、賃金臨時措置令 / 物価・賃金などを9月18日現在を上限とする)(岩波「年表 昭和史」)
* 1939年(S14)11月、30坪以上の木造住宅の新築を不許可
* 1939年(S14)11月6日、米穀配給統制応急措置令公布、農林省でコメの強制買上を実施
* 1939年(S14)12月1日、米穀搗精制限令(白米禁止令、七分づき以上を禁止)
* 1939年(S14)12月20日、木炭配給統制規則を公布
* 1939年(S14)、この年、ヤミ取引と売買が激増
* 1939年(S14)、この年、木炭バスが走り出す、急速に一般化
* 1939年(S14)、この年、門松も廃止
* 1939年(S14)、9.18ストップ令以降、ヤミ取引横行(岩波「年表 昭和史」) 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P22、P23/岩波ブックレット「年表 昭和史」P16

仙台の木炭供給事情や統制は、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P22に記述あり 
 
戦時中の物資統制、使用規制 (3)  1940年(S15)  * 1940年(S15)2月10日、マッチ製造配給令施行(6月1日から東京市で切符制)
* 1940年(S15)2月13日、米穀配給統制規則を公布、施行
* 1940年(S15)3月28日、アルミ貨の10銭、登場
* 1940年(S15)4月8日、石炭配給統制法公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)4月24日、米、みそ、醤油、塩、マッチ、砂糖、木炭など10品目を配給、切符制採用
* 1940年(S15)5月3日、東京で外米6割混入を配給開始
* 1940年(S15)6月1日、東京市など六大都市で、砂糖(1人1か月、0.6斤=360g)、マッチ(人数制)、米、みそ、塩、木炭など10品目が切符制になる / 11月1日、全国で実施
* 1940年(S15)7月6日、絹織物、指輪、ネクタイなどの製造禁止(奢侈品等製造販売制限規則公布) / 一般には施行日をとって七・七禁令(しちしちきんれい)とも呼ばれた
* 1940年(S15)7月8日、マル公など価格表示義務の明確化始まる(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)7月10日、青果物配給統制規則を公布施行
* 1940年(S15)7月20日、菓子類に公定価格制
* 1940年(S15)8月1日、東京府、食堂・料理屋などでの米食使用禁止・販売時間制限等を実施(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)8月8日、小麦粉配給統制規則公布、うどん、そばが統制となる
* 1940年(S15)10月4日、砂糖、マッチ配給統制規則公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月24日、米穀管理規則公布(町村別割当供給制の実施)(岩波「年表 昭和史」)
* 1940年(S15)10月25日、鶏卵配給規則を公布
* 1940年(S15)11月5日、大豆、大豆油等配給統制規則施行
* 1940年(S15)、この年、酒、ビールの製造を制限 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P24、P25/岩波ブックレット「年表 昭和史」P17

仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり 
「仙台市史 特別編4 市民生活」P94(S20年、北材木町配給所でのコメの配給)/同P95(砂糖配給のお知らせ)/「仙台市史 特別編4 市民生活」P438(S15年、戦時中に配給演習を行う仙台味噌醤油小売商業組合) 
戦時中の物資統制、使用規制 (4)  1941年(S16)  * 1941年(S16)1月25日、物品販売業はすべて午後9時閉店
* 1941年(S16)3月、花見の昼酒だけは特に許可される
* 1941年(S16)3月3日、国家総動員法改訂公布(政府権限の大幅な拡張)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、米穀配給通帳制、外食券制を6大都市で実施(1日、2合3勺)(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)4月1日、鮮魚介配給統制規則、実施
* 1941年(S16)4月18日、東京で「肉なし日」を設定、毎月2、8、18、8の4日は食肉業者休業、飲食業者は、8、28日を休業とする
* 1941年(S16)5月1日、幼児、妊婦にパンの配給制実施
* 1941年(S16)5月、東京で巻煙草制限令で「お一人様一個限り」と一斉に実施
* 1941年(S16)5月、東京で、米、マッチ、砂糖切符の幽霊人口、早くも40万を超える
* 1941年(S16)6月13日、山形鉄瓶、製造中止命令
* 1941年(S16)8月1日、アメリカが対日石油輸出全面禁止
* 1941年(S16)8月12日、米価二重価格制を実施、生産者奨励金交付決定
* 1941年(S16)9月1日、東京で、砂糖、マッチ、小麦粉、食用油の配給切符制実施
* 1941年(S16)10月1日、乗用自動車のガソリン使用を全面禁止
* 1941年(S16)10月1日、新聞の朝刊4ページ、夕刊2ページに減紙

<1941年(S16)12月8日、太平洋戦争開戦>
* 1941年(S16)12月16日、物資統制令公布(岩波「年表 昭和史」)
* 1941年(S16)12月16日、商工省、電球は切れ玉と引き替え販売を通達
* 1941年(S16)12月27日、農業生産統制令公布
* 1941年(S16)、この年、八百屋、魚屋の店頭で行列が続く 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P26、P27/岩波ブックレット「年表 昭和史」P18   
戦時中の物資統制、使用規制 (5)  1942年(S17)  * 1942年(S17)1月1日、塩、通帳配給制(1人1か月200g)
* 1942年(S17)1月1日、ガス使用量割当制実施
* 1942年(S17)2月1日、みそ・醤油の切符配給制、衣料点数切符制実施
* 1942年(S17)5月、酒、切符制実施(Wikipedia「配給 (物資)」)
* 1942年(S17)9月8日、警視庁では、届出があれば雀を捕ってもよい(焼き鳥用)
* 1942年(S17)11月14日、乗車日指定券を持たぬ者の、週末祭日の旅行を禁止(買出し防止)
* 1942年(S17)11月15日、大政翼賛会、各新聞社で募集した国民決意の標語、当選作、「欲しがりません勝つまでは」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P28、P29/岩波ブックレット「年表 昭和史」P19

仙台市の、鮮魚、青果物、肉の統制については、「仙台市史 続編第1巻(行政建設編)P21~22に記述あり 
 
戦時中の物資統制、使用規制 (6)  1943年(S18)  * 1943年(S18)1月27日、家庭用電力の節電を強化
* 1943年(S18)2月3日、節電のため月に2回、映画館を休館日に
* 1943年(S18)4月16日、緊急物価対策要綱決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)5月1日、薪が配給制となる
* 1943年(S18)5月18日、浴用石鹸を洗濯石鹸と同成分にする
* 1943年(S18)6月1日、告別式用のローソクは切符制で配給
* 1943年(S18)8月、警視庁では、医師のニセ診断書での特配受給者一掃を図る
* 1943年(S18)、この年、衣生活の簡素化、長袖やダブルの洋服も禁止
* 1943年(S18)、この年、物不足とヤミ値で物価上昇
* 1943年(S18)、この年の流行語「買い出し」   
* 1943年(S18)、この年、都会近県での買出しの一斉取締り強化(岩波「年表 昭和史」)
* 1943年(S18)、この年、「決戦料理」の名で野草の食用奨励(岩波「年表 昭和史」)

<昭和18年現在の配給制は24品目>
米、みそ醤油、砂糖、塩、菓子、食パン、小麦粉、鶏卵、食肉、食用油、ミルク、乾めん、白玉粉、きな粉、木炭、衣料品、縫い針、布団綿、ガーゼ、脱脂綿・衛生綿、軍手・地下たび、釘、セメント、灯油、石けん、このほかに味の素、ちり紙もメーカーが配給制をとっていた。
<昭和19年に追加された配給制は13品目>
鮮魚類、豆腐・油揚げ、青果物、焼酎・ビール、牛乳、蚊帳、洋傘、薪、代用燃料、畳ござ、ろうそく、障子紙、和傘類
・清酒は毎回割当量を決め、ひとり1カ月2升以内、昭和19年になると2合になった。たばこひとり1日6本(昭和20年7月から3本)、石けんひとり1カ月入浴用45グラム、洗濯用60グラム、隣組を通じて購入券配布
<特別配給>
冠婚葬祭や出征、妊産婦、病気、災害、乳幼児には特別配給があって、病人、妊婦には鶏卵月20個と牛乳、出征者には清酒2升、冠婚葬祭には砂糖、みそ醤油、酒、塩が配給される。
戦局が厳しくなる昭和19年3月からは冠婚葬祭、病人用砂糖の特配が停止。(「戦争のころ 仙台、宮城」P87~88)
 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P30、P31/岩波ブックレット「年表 昭和史」P20/「戦争のころ 仙台、宮城」(石澤友隆著)P87~88   
戦時中の物資統制、使用規制 (7)  1944年(S19)  * 1944年(S19)1月24日、関東地方でのスイカ、メロン、まくわうりなどの作付けを2月上旬から禁止
* 1944年(S19)2月、東京に雑炊食堂出現、1人1杯20銭、外食券不要 / 4月には335軒
* 1944年(S19)3月6日、全国の夕刊を廃止
* 1944年(S19)4月28日、閣議、米穀増産及び供出奨励に関する特別措置を決定(供出報奨制)(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)5月5日、東京に国民酒場を開設、1人1合
* 1944年(S19)6月17日、米穀管理要綱を決定(岩波「年表 昭和史」)
* 1944年(S19)6月21日、新刊雑誌を買うときは古雑誌と交換のこと
* 1944年(S19)7月、包装紙不足で、タバコはバラ売りとなる
* 1944年(S19)8月1日、砂糖の家庭用配給停止
* 1944年(S19)9月10日、ガソリン不足のため東京都内の糞尿を電車で輸送 / 西武鉄道、武蔵野鉄道で1953年(S28)3月31日まで続く
* 1944年(S19)10月23日、松根油緊急増産対策を決定。ガソリン不足のため
* 1944年(S19)11月1日、タバコは隣組配給となる。男1日6本
* 1944年(S19)11月1日、新聞の朝刊2ページとなる
* 1944年(S19)12月20日、畜犬献納運動はじまる。狂犬病予防と皮革増産
* 1944年(S19)、この年、物不足ますます深刻となる
* 1944年(S19)、この年、食糧欠乏で、のら犬野生化(岩波「年表 昭和史」) 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P32、P33/岩波ブックレット「年表 昭和史」P21  /「仙台市史 特別編4 市民生活」P100(S19年、長町国民学校校庭でサツマイモやジャガイモを作る児童たち) 
戦時中の物資統制、使用規制 (8)  1945年(S20)  * 1945年(S20)6月25日、東京神田で水田が作られた
* 1945年(S20)7月17日、旅行者用外食券が交付されることになる

<仙台> (「仙台市史 特別編4 市民生活」P99)
* 1945年(S20)8月、仙台でも外食券制度施行され、旅行用16軒、三食用20軒を外食券食堂に指定
・ 外食券制度は、米の配給通帳制と同時に発足したが、新聞などの記事による限り、一般の人に良く利用されるようになったのは、敗戦が近くなり食糧難が深刻になったころからのようである

<敗戦 8月15日>

* 1945年(S20)10月25日、警視庁、待合、バーなどの営業を許可
* 1945年(S20)11月17日、生鮮食料品の配給、価格撤廃が決まる
* 1945年(S20)秋、鉄かぶとを鍋に再生
* 1945年(S20)秋、タバコ巻機が大流行

<戦後の統制撤廃> 
  → 項目「戦後の物資・価格統制撤廃」参照 
菅家文英「生活の変わりようをみる昭和の年表」P34、P35/「仙台市史 特別編4 市民生活」P99   
戦時中の勤労動員/就労規制(7) 国民勤労動員令  1945年(S20)  * 1945年(S20)3月6日公布、3月10日施行

老若男女の区別なく、決戦時の要員確保のために根こそぎ動員をめざす
  → 詳細は、項目「国民勤労動員令」参照 
「日録20世紀 1945年」P13、P35、P42/「重訂 宮城県郷土史年表」P504   
戦時中の勤労動員/就労規制(6) 女子挺身勤労令  1944年(S19)  働き盛りの男性が軍隊に召集や徴用され、人手不足から学生生徒や女子を勤労動員で働かせた

<女子の勤労義務化>
* 1944年(S19)8月23日、女子挺身勤労令、公布施行(12~40歳未婚女子の勤労義務化)
* 1944年(S19)11月10日、厚生省、女子挺身隊の期間1年延長を通牒/女子徴用実施
<編者注>「女子徴用は検討されたが施行されなかった」(「週刊20世紀1939年」P9)という解説もある

  → 項目「女子挺身勤労令」参照
    項目「女子挺身隊」参照 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P21

 
 
戦時中の勤労動員/就労規制(5) 男子就業制限  1943年(S18)  <戦時中の男子就業制限>
* 1943年(S18)9月23日、閣議、国内必勝勤労対策決定 / 販売店員・出改札係・車掌など17職種の男子就業禁止、25歳未満の女子を勤労挺身隊として動員 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P20   
戦時中の勤労動員/就労規制(4) 国民勤労報国協力令  1941年(S16)  * 1941年(S16)11月22日公布、同年12月1日施行

男子14~40歳、独身女子14~25歳に勤労奉仕義務 / 学校・職場ごとに勤労報国隊が編成され、軍需工場、鉱山、農家などにおける無償労働に動員された 
岩波ブックレット「年表 昭和史年表」P18   
戦時中の勤労動員/就労規制(3) 学徒勤労動員/学徒勤労動員令  1938年(S13)開始/1944年(S19)強化  1937年(S12)7月の日中全面戦争開始以降、全国から青年男子が次々と戦地に出征、一方で軍需産業の拡大に伴い大量の労働力需要が生じた / 太平洋戦争末期には、老人と子ども以外の男子は徴兵や徴用で根こそぎ動員された / その労働力不足を補うため、1938年(S13)から始まった児童生徒学生たちの勤労動員が徐々に拡大、S19年以降は工場などへ通年動員化し、S20年3月に国民学校初等科(現在の小学校)以外の学校は授業停止となる

* 1938年(S13)6月9日、文部省が「集団的勤労作業運動実施に関する件」を通牒 / この年から各学校で夏休みの勤労奉仕が義務付け
* 1944年(S19)8月23日、学徒勤労令(国民学校高等科以上の生徒・学生が対象)も公布、即日施行

   → 詳細は、項目「学徒勤労動員」へ 
「日本近現代史辞典」(東洋経済新報社)/「仙台市史特別編4 市民生活」P266~269『学都の戦時体制』 など   
戦時中の勤労動員/就労規制(2) 国民徴用令  1939年(S14)~1945年(S20)  * 1939年(S14)7月8日、国民徴用令公布

戦時下の重要産業の労働力を確保するために、厚生大臣に対して強制的に人員を徴用できる権限を与えた / S16年以降は拡大、S18年からは、会社ぐるみ徴用も始まる

  → 詳細は、項目「国民徴用令(1)」参照 
「週刊20世紀 1939年」P8~9、P25 など   
戦時中の勤労動員/就労規制(1) 国民職業能力申告令  1939年(S14)  * 1939年(S14)年1月7日、公布 / 当初は、申告を義務づけられた特定の職種の技術者などが対象 
* 1941年(S16)12月、改正(男子16~40歳未満 女子未婚者16~25歳未満が登録対象に) 
「週刊20世紀 1339年」P8~P9   
戦時下の学園 仙台商業学校(市立)    ★「仙台商業学校」は、昭和23年以降の「仙台商業高等学校」

・「戦時中生徒は食料増産はおろか兵器増産のため勤労動員され、教師と生徒は、隊を組んで川崎の工場まで出勤する一方、少年航空兵として多くの生徒が志願していった。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で、上杉の校舎は一夜にして灰と化した。隣接の上杉山国民学校の一部を借り、小学生の机を使って二部授業を行ったが、ガラス窓が破損しても補充がつかず、紙や板をはってしのいだ。そのうちに戦場にあった教師たちが復員し、また若い教師も着任して、校内も次第に活気を取り戻していった」

▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台商業高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P482   
戦時下の学園 仙台中学校(市立)    ★「市立仙台中学校」は、昭和23年以降の「市立仙台高等学校」

・「太平洋戦争勃発後も施設、設備の拡充は勧められていたが、国家総動員体制の下、生徒は勤労動員され、勉学に時間は極度に制約されていた。敵性語である英語の廃止論も盛んであったが、校長の信念でこのような意見に耳をかさなかったという。」
・「第1回(昭和15年)入学生は苦竹造兵廠に、第2回入学生は川崎市の軍需工場に動員され、それぞれ動員先で卒業式を行うという変則的なことも行われた。」
・「戦局が不利となるにつれ本土空襲は頻繁となり、ついに昭和20年7月10日未明、仙台市も空襲を受け、第一波爆撃による数発の直撃弾で校舎、校具のいっさいを焼失した。」
・「戦災後さしあたり片平丁国民学校に一時、間借りした。その後20年7月末にも、荒町、南材木町国民学校および斎藤記念館に再び借家ずまいすることとなったが、生徒数が多いため二部授業を行わざるを得なかった。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台高等学校”で、検索
 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P486~487   
戦時下の学園 仙台工業学校(市立)    ★「仙台工業学校」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校」

・「昭和18年1月、修業年限が5年から4年に短縮され、英語は1、2学年のみが必修、また生徒教育は配属将校の意思によって決定され「青少年に賜りたる勅語」は絶対的なものとして“奉唱”させられた。」
・「昭和19年木材工芸科は廃止され、戦局の激烈化とともに学校は全く軍隊教育の場と化し、生徒による門衛・ラッパ隊の編成・動員強化・授業停止の道をたどった。」
・「昭和13年6月文部省通達によって、全国的に勤労奉仕作業が実施され、同14年12月機械科5年生は授業を打ち切り「技術者(軍需品製作に関する)使用制限令」によって、割り当てられた就職内定会社に勤務し、個人の希望による就職は制限された。」
・「同16年以降勤労奉仕作業はますます盛んとなり、製炭作業による木材供出、食糧増産、家庭菜園作業などに動員された。また同機械科3年生は少年運転手として市電を運転、そのまじめな作業は市民に深い感銘を与えた。19年、戦争が激烈になるにつれて、建築科、土木科の5年生は、横須賀海軍工廠深沢分工場に、機械化4、5年生は東北金属、その他は萱場製作所、苦竹造兵廠、第二師団経理部等に動員され、機械科3年生は東北金属に動員のまま学校工場で軍需品の製作に当たり、1、2年生は、授業の全く行われない日が続いた。」
・「20年8月の終戦により、我が国は連合軍の占領下におかれ、戦時中4年制に短縮されていた修業年限が21年度から5年制に復帰し、さらに6・3・6制への学制改革が進められていった。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台工業高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P489~490   
戦時下の学園 仙台工業学校専修科(市立)    ★「仙台工業学校専修科」は、昭和23年以降の「仙台工業高等学校第二部」、40年以降は独立して「仙台第二工業高等学校」

・「夜間過程としての本校は、昼働き夜に学業を修めていたので勤労動員はなかったが、(中略)生徒たちは古新聞を利用してフスマを作り(暗幕の代用)灯火管制を強化して空襲警報に備えたり、教室の照明は電球1個(100W)という最悪の状態で頑張り通したのである。」
・「雨天体操場では教員、全生徒が一丸となって、夜遅くまで軍事教練やその学科に打ち込み、非常時体制は教育のすべてをおおいつくした。また工業人の育成は国家の急務だったから、戦争たけなわの昭和19年3月には仙台工業学校第二部と改称し、高小卒・修業年限4年間の夜間甲種工業学校に昇格、そのため生徒の志気(ママ)は盛んとなり、卒業後は大陸に雄飛しようと闘志に燃え、一人の落後者もなかった。」
・「しかし、昭和20年の空襲、そして敗戦による荒廃、疲弊、インフレーション等の混乱が、生徒数の減少に拍車をかけ、その結果各学年が10数人に減り、一時は第二部廃止論まで話題にのぼった。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台第二工業高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P492~493   
戦時下の学園 仙台女子商業学校(市立)    ★「仙台女子商業学校」は、昭和23年度に「仙台商業高等学校女子部」と「仙台市立女子高等学校」に分かれ、前者は昭和32年9月に「仙台女子商業高等学校」となった。

・「当時のすべての学生生徒は勤労動員によって学業に専念することは不可能であった。幸いなことに本校の生徒全員が仙台貯金局に動員され、家庭から通勤することができ、犠牲者を出さなかった。」
・「やがて終戦を迎え、動員は解除されたものの、世情は混乱の極にあり、加えて連合軍の進駐により婦女子は常に危険にさらされたので、やむなく登校を廃して隣組学習に切替え出張授業を実施することになった。このような非常事態は3か月も続き、翌21年新春からやっと平常授業に復した。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“仙台女子商業高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P495   
戦時下の学園 宮城県仙台第一中学校    ★「宮城県仙台第一中学校」は、昭和23年度以降の「宮城県仙台第一高等学校」

・「昭和12年夏、「日華事変(日中戦争)」が始まってから、自由でのびのびとした学窓にも新体制の影響が出始め、太平洋戦争に入って、学徒勤労令、戦時教育令の波がひたひたと打ち寄せた。 生徒は原町の陸軍造兵廠へ、校舎の一部(西校舎)も軍の兵舎に使用されるなど最悪の事態にまでなった。」
・「しかし冬夏を問わず素足で構内をかけ回るなど質実剛健、自主自律の“茶畑精神”につちかわれた生徒を委縮させることなく、昭和15年、17年にも野球部は甲子園大会へ、また剣道、蹴球も全国大会へ出場して、一中健児の意気を発揮した。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第一高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P504~505   
戦時下の学園 宮城県仙台第二中学校(県立)    ★「宮城県仙台第二中学校」は、昭和23年以降の「宮城県仙台第二高等学校」

・「1935年(S10)4月、宮城県下一斉に中学校の男子制服制帽が国防色に規定され、敬礼は軍隊式挙手の礼に改められた。」⇒この項、要検証
・「1943年(S18)からは生徒の電車通学は禁止され、勤労動員が始まり、校舎の一部が軍に使用された。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)では、木造倉庫2棟焼失にとどまり、やがてスポーツの振興とともに対一中野球戦が復活、昭和22年には甲子園全国野球大会出場の覇権を得て準決勝まで進み岐阜商に惜敗したが、荒れ果てた世相にさいなまれていた当時の市民の血をわきたたせた。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県仙台第二高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P506   
戦時下の学園 宮城県第一高等女学校(県立)    ★「宮城県第一高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第一女子高等学校」

・「戦時中は他校同様、軍事教練や勤労奉仕に駆り出されたが、19年11月ついに4年生(一高女は当時は4年制)の半数約100人が、神奈川県逗子市の横須賀海軍工廠造兵部と久木火薬工場へ勤労動員され、20年3月の卒業式も現地で行った。しかし空襲が激しくなってきた同年6月、軍命令を無視して引き揚げてきた。その数日後に久木工場は爆撃されている。」
・「仙台空襲(昭和20年7月10日)で校舎は全焼、この空襲で市内在住の生徒2人が死亡した。とりあえず連坊小路の第二高女と連坊国民学校、県立盲学校(の校舎を借りて)授業を再開したが・・・・(以下略)」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第一女子高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P519   
戦時下の学園 宮城県第三高等女学校(県立)    ★「宮城県第三高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城県第三女子高等学校」

・「太平洋戦争中は多くの集団勤労奉仕にかり出されたが、昭和19年11月には宮城県学徒勤労義勇隊第三高女隊として、4年生約50人が横須賀海軍工廠に動員され、帰るに帰れず卒業式も工廠の寮の食堂で挙行した状態であった。」
・「校舎は戦災にはあわなかったが、仙台空襲で生徒3名が死亡した。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城県第三女子高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P522   
戦時下の学園 東北学院中学校(私立)    ★「東北学院中学校」は、昭和23年以降の「東北学院高等学校」

・「昭和6年、満州事変が起きてから軍事思想の涵養、精神訓練がやかましくいわれ、昭和8年に柔道場、13年には剣道場が新設された。」
・「18年には中学の2年生以上が勤労奉仕作業に従事、さらに校舎も軍や鉄道局に接収されたため高等部での間借り授業が続いた。校舎正面の学院の標語「LIFE LIGHT LOVE」が削り取られ、礼拝堂ステンドグラスのキリスト昇天図が幕で蔽い隠され、日の丸の国旗がはりつけられた  
・ 1945年(S20)7月10日の仙台空襲では、普通教室、特別教室、柔剣道場など12棟を焼失、からくも焼失をまぬがれた本館、礼拝堂もコンクリートに亀裂を生じた。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“東北学院高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P512~513   
戦時下の学園 東北学院高等学部(私立)    ★「東北学院高等学部」は、前身が「東北学院専門部」、戦後は昭和21年に「東北学院専門学校」、昭和24年に大学にに昇格して「東北学院大学」となった。

・「昭和16年12月の太平洋戦争突入と同時にキリスト主義学校の受けた苦痛の例は、終戦まで枚挙にいとまがなかった。昭和17年に文科は廃止され高等学部は商科一本となり高等商業部と改称、さらに19年には航空専門学校を設置するなど維持経営に苦しみながら敗戦を迎えた。」
・「昭和21年4月、英文科、経済科を含む東北学院専門学校を開設、米国ミッション・ボードとの提携を回復した。」

▲ 同校の沿革は、項目“東北学院大学”に記載 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P537   
戦時下の学園 宮城高等女学校(私立)    ★「宮城高等女学校」は、昭和23年以降の「宮城学院高等学校」

・「日華事変(日中戦争)が始まったころからキリスト教主義教育に圧力が加えられ、教育勅語に立脚した教育を強要され、5年生は宮城外苑整備の勤労奉仕にも動員された。昭和16年12月日米が開戦した翌9日、米人教師全員が辞任、帰国した。かくて宮城学院の経営はアメリカン・ボードの手を離れ一個の私立学校となり、聖書専攻科は廃止、ミッションハウスは“敵産”として接収された。」
・「昭和17年7月24日には「御真影」を奉戴、同日から奉安庫に奉安することになった。そして“敵性語”の英語は随意科とされた。このころから、教職員生徒に対する軍事教練が開始され、勤労動員も激しくなった。」
・「19年には新設の調理実習室を軍の工場に転用、また家政科教室は生徒の作業場に、専攻科校舎は仙台連隊区司令部庁舎に接収された。同年11月、4、5年生は全員横須賀海軍技術廠へ動員、20年3月、ここでささやかな卒業式を行った。
・「同年7月10日の仙台空襲により校舎の大半を焼失。精気にあふれる学園復活運動は21年から始まり、校舎復旧も大いに進行した。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P523~524   
戦時下の学園 宮城高等女学校専攻科(私立)    ★「宮城高等女学校専攻科」は、昭和21年に「宮城学院女子専門学校、昭和24年以降は「宮城学院女子大学」と改称

・「昭和11年に聖書専攻科は廃止(中略)、太平洋戦争末期の19年8月、家政科の教室は専攻科生が勤労する軍需工場の作業場に当てられ、校舎の半分は仙台連隊区司令部に徴用されるなど受難の日が続いた。」
・「やがて20年8月終戦をむかえると、専攻科は翌9月、いち早く授業を再開した。そして同年10月、占領政策に基づき文部省訓令で宗教教育の自由が回復した。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“宮城学院女子大学”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P541~542   
戦時下の学園 仙台尚絅高等女学校(私立)    ★「仙台尚絅高等女学校」は、昭和23年に「尚絅女学院高等学部」、昭和36年からは「尚絅女学院高等学校」、平成20年から男女共学となり「尚絅学院高等学校」

・「昭和12年の日華事変(日中戦争)から苦難が続いた。15年にキリスト教系学校への県の通達で、御真影(ごしんえい)を奉戴すること、聖書を課外に用いることなどが要請された。」
・「このころ(昭和18年ころ?)からモンペ姿の登校も珍しくなく、軍需工場で働くことを求められ、上級生は遠く千葉の海軍航空庁(編者注:航空廠か?)や茅ケ崎の軍需工場へ行ったものもあった。」
・「20年7月の仙台空襲では陸軍糧秣支廠に占有されていた寄宿舎が全焼したほかは被害がなかったが、同窓生3人が被災死している」
・「戦後の昭和20年米軍の仙台進駐のあおりで全校舎が一時的に接収されるというさわぎもあったが、クリスマスまでに半分が解除された。それにしても物資・食糧不足に悩まされながら、授業は女子師範付属国民学校と八幡国民学校の一部を借りて継続することができた。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P526~527   
戦時下の学園 仙台尚絅高等女学校専攻部(私立)    ★「仙台尚絅高等女学校専攻部」は、昭和25年に「短期大学」に移行

・「戦時中は専攻部生徒も勤労奉仕や軍需工場へ動員され、校舎は陸軍の糧秣廠に使用された。」
・「終戦を迎え再び登校できると喜んでいたが、一難去ってまた一難、今度は進駐軍から9月11日突如として72時間以内に校舎を進駐軍に開放せよとの命令が通達された。やむを得ず八幡国民学校と女子師範付属国民学校で授業を続けたが、11月になってやっと返還された。」

▲ 同校の沿革は、キーワード“尚絅女学院短期大学”で、検索
 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P543   
戦時下の学園 吉田高等女学校(私立)    ★「吉田高等女学校」は、昭和23年に「聖和学園吉田高等学校、昭和61年に「聖和学園高等学校」と改称

・「太平洋戦争によって食糧事情が窮迫、これに対処し学園の将来を考慮して名取郡秋保村に農場を借り、戦後も耕作に従事したが、この土地は22年に県に買収されたため、約2年にして経営を放棄した。」

▲ 同校専門部の沿革は、キーワード“聖和学園高等学校”で、検索 
「仙台市史 続編第2巻(経済文化編)」P528~529   

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